2018年06月23日

ブルンナー読書会㉒ −キリスト者の生活−

6-23-2.jpgテキストは、エーミル・ブルンナー著、下村喜八訳『フラウミュンスター説教集T』の11回目、説教のタイトルは「キリスト者の生活」。
出席者:all member.
開会礼拝:讃美歌90番「ここも神のみくになれば」(知子奏楽)、聖書朗読とお祈り(優子)。

コロサイ人への手紙 3章16〜17節:
3:16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。
3:17 そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。

6-23-6.jpgいつものように今月の発表当番(優子)からそれぞれ感想を述べてから、下村師よりテキストに添って学び、改めて感じ考えたことを述べ合い学びを深めた。

下村師のお話のノートメモ:

この説教はキリスト者と普通の人との相違点を出している。「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。」とは、和解と罪の赦しの福音を豊かに宿らせなさいということであり、キリストのことば、福音を薬に譬えれば毎日服用しなさいと述べている。

▼ 医者が1日に3回飲むようにと薬を出してくれたのに、数日に1回しか飲まなかったとしたら、薬が効かなくても不思議に思うにおよびません。この場合、責任は全くあなた自身にあるのです。

イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる薬についても全く同じことが言えます。

われわれの聖書、すなわちわれわれの新約聖書は、生を真に健康で傷なきものであらしめようとすれば、絶えずそこから水を飲まなければならない泉のようなものです。

イエスはある時、ご自分のことを命のパンと呼ばれました。パンは、もしわれわれが食べなければ、繰り返し食べなければ、何の役にもたちません。

聖書を読むことと祈ることに尽きる。
デカルトの「我思う、故に我あり」をもじって、ラインホルト・シュナイダーは「『我祈る、ゆえに我あり』という人だ」と言われた。ズボンの膝が擦り切れるほど祈る人だった。祈らなければ自分の力でやったことにする。祈ることで変えられる。

また、主に向かって心を込めて讃美歌を歌うなど、そういうことによって神との交わりが許され、魂が生き返る。不安や生を不快にする一切のものを絶えず神の前にもっていき、神への信仰によって魂が満たされている時にのみ、心配は消滅する。

原始キリスト教の時代のようにキリスト者の交わりの要素を欠くと、キリスト者の生活は活力を失っていかざるをえない。

▼ 日々のパンを得るためにわれわれキリスト者が行わなければならないことは、もちろん、他のすべての人々が行うことと何ら変わりはありません。
しかし今問題なのは、われわれが何を行うかということだけではなく、どのような気持ちから行うかということなのです。

「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、」(エペソ人への手紙3章17節)

「しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない」。(ローマ人への手紙8章9節)

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。(ガラテヤ人への手紙2章19〜20節)

▼ キリスト者であるわれわれの生活においては、頭(かしら、Haupt:ハウプト)であるキリストが指揮をとられます。キリスト者の生活は感謝のうちにすごす生活です。

▼ 決定的に重要なことは、われわれがキリスト者であることを真剣に受けとめているかどうかということ、感謝のうちに生き感謝の気持ちから行動したり語ったりしているかどうか、あるいは心配のうちに溜息をつきながら一日を始めたり終えたりしているかどうかということ、(略)

一日を感謝をもって始めるか心配をもって始めるか、感謝をもって終えるか溜息をもって終えるか。この点においてもわれわれは新たに開始したいと思います。

すなわち、今後、もはや神に感謝しないでは決して1日を始めず、また1日を終えないということ。その時、苦しいことや辛いことがあってもーそれを免れることは誰もできませんがーそれらはことごとく変質するでしょう。

これは泳ぎの場合と似ています。肺に空気がある間は、われわれは沈みません。それと同様、われわれが心の中に神への感謝をもっている限りは、苦しいこともわれわれを引きずりおろすことはできません

たとえ上下に揺れることはあっても、われわれは浮かびつづけます。それゆえ、魂の中に空気を、感謝を、失わないように留意しようではありませんか。

そして、自分の内に絶えずキリストの言葉を働かせている人間は、どうして感謝を失うことがありえましょうか。

愛する兄弟姉妹、これが、使徒パウロがキリスト者について描いている姿です。パウロがわれわれに命じているすべてのことを真剣に開始すること、それがわれわれへの呼びかけです。今日のうちにそれを開始すれば、後悔する人は1人もいないでしょう。アーメン。

ブルンナーは説教する時、神学を持ち込まないと言っている。そして、「信仰は喜びなんだ」と、何度も喜びと感謝が出る。それもブルンナーの特徴だ。

6-23-3.jpg下村さんは私に、自分の内を見ていると指摘してくださり、内村鑑三は自分の内側ばかりを見ていたが、贖罪信仰を得て、目を上にあげて「臍(へそ)を見ないで天を見る」と言ったことを教えてくださった。
私もアマースト大学総長・シーリーが鑑三に語った「植木鉢の教え」のエピソードをよく知っている。

「内村、君は君の衷(うち)をのみ見るから可(いけ)ない。君は君の外を見なければいけない。何故己に省みる事を止めて十字架の上に君の罪を贖ひ給ひしイエスを仰ぎみないのか。

君の為す所は、小児が植木を鉢に植えて其成長を確定(たしか)めんと欲して毎日其根を抜いて見ると同然である。何故に之を神と日光に委ね奉り、安心して君の成長を待たぬのか。」

そういえば、信仰を授かって数年経った1989年頃に、アンデルセン研究者の横山麗子さんが東京から電話をかけてきてくださった。

「イエスさまを見ないで自分ばかり見ている人のことを『へそみクリスチャン』って言うんですって。お臍ばかり見ている姿と似ているからでしょうね」。

と話されて、私に「自分ばかり見ないでイエスさまを見上げてくださいね」と仰った。

私はこの数か月前からすっかり信仰が萎えてしまい、自分のマイナス面が大きくなって、イエス・キリストに培われていた自分らしさをなくしていた。驚くべきことにそのことを指摘をされて気がついた。

と同時に、ある人々はどうして他者の批判ばかりして自分に目を向けないのだろうと不思議でならないが、このたびは彼らに目を奪われてしまっていた。そのことはもう神さまに丸投げしよう。

とにかく、私は今日のブルンナーの奨めを今日から新たに開始した。すでに私は今、自らをこのオリーブの新芽のように感じられるから不思議だ。イエス・キリストを真に見上げた瞬間、即刻即座にして変えられたのだ。

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そして手に取って見せてくださった、下村さんが毎日読んでおられる内村鑑三の『続一日一生』を、私もさっそくアマゾンに発注した。続編は手に入らず一冊だけ『一日一生』があった。
こんなに人生の大半を過ぎてしまっているが、今からでも幸いな導きに与ろう。サムサムさんも愛読しておられる書を。

天におられる主なる父なる神さまに感謝し、キリスト者のお交わりを感謝します。そして、祈ってくださっている方々に感謝します。

次回は、7月28日(土)、司会役・発表当番は知子。
posted by 優子 at 21:50| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする