
昨夕6時過ぎの二上山・雄岳



(詩篇118篇24節)
今日は、主があなたに用意された喜びの日です。主は、私たちの心を不安や恐れに支配させず、喜びの予感で満たしてくださいます。たとえ何が待ち受けていても、今日の祝福を楽しもうと心に定めておくなら、すべてのことが益となります。予期せぬことにも、新しい恵みが見つかります。そして一日の終わりを感謝で締めくくれます。

「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々」。(詩篇119篇1節)
人は本音で生きなければ疲れます。「古い人」の本音は肉の欲であり、「新しい人」の本音は主の教えです。私たちがまだ「古い人」だった時は、主の教えに従おうとすれば疲れました。しかし、「新しい人」になった今は逆です。主の教えに従うことが喜び、従わなければ心身共に疲れます。そのように変えられたのです。

「私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのとおりに私を生かしてください」。(詩篇119篇25節)
くずおれた心で主の前にひれ伏すことが、希望の始まりです。打ち伏した瞬間から、喜びが芽生えています。主の憐れみが臨み、主の霊が堅く支え始めます。私たちがそのときどう感じようが、それが主の創り出される現実です。私たちのなすべきことは、その現実を信じ、主を喜ぶことです。

ねむの木

(詩篇119篇50節)
悩みや悲しみで心が揺れ動いても、感情に人生の主導権を握らせてはなりません。主の言葉以外に解決を求めてはならず、キリストに立たない人に忠告を求めてもなりません。気晴らしで一時的に心が休まったとしても、解決にはなっていません。結局、真の慰めはキリスト、私たちを生かすのは聖書の教えだけなのです。

「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」。(第一コリント12章26節)
人間は自己完結するものではなく、互いを「助け手」として必要とします。独りで苦しみ、喜ぶのではなく、共に苦しみ、喜ぶのです。孤立を選べば、多くの知恵と機会を失います。人間は本来、信仰共同体の中で年長者から知恵を学び、支えられ、老人を敬い、成長するのです。

愛は神と人をつなぐ「結びの帯」、「すべてを完成させるきずなです」(コロ3:14新共同)。神とつながっていないなら、人生も知識も努力も業績もすべて無価値です。神への愛を動機とする行いのみが、永遠の価値を持ちます。

セイヨウニンジンボク(西洋人参木)
「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない」。(詩篇118篇6・7節)
主は、打ち砕かれた心で主に近づく者の味方です。主が味方なら、誰をも恐れずにすみます。それゆえ、悪意を持つ人に「刃」を向けてはなりません。かえって心に恐れが生じます。大切なのは、自分が主の側に立っているか問うことです。それが悔い改めです。

「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。 これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」。(詩篇118篇22・23節)
キリストは「捨てられた石」です。その石が、神の国の「礎の石」となりました。私たちは世の只中にあって、主を「礎の石」として人生を築いています。世は移ろい、人の心は変わります。しかし、「捨てられた石」は不動です。私たちの心は動揺しても、そこに立ち続けます。
御言葉のメッセージはキリストの栄光教会より。


今年も半年が過ぎようとしている。小学校では、はや1学期の個人懇談会の日程調整の案内が届く季節になった。そして今日、関東甲信地方に本州初の梅雨明けが告げられた。