2018年07月30日

ブルンナー読書会㉓ −この人による以外に救いはない−

7-28-1.jpgこれは7月28日(土)の記録である。
テキストは、エーミル・ブルンナー著、下村喜八訳『フラウミュンスター説教集T』の12回目、説教のタイトルは「この人による以外に救いはない」。
出席者:all member.
開会礼拝:内村鑑三の愛唱歌
讃美歌260番「千歳の岩よ」(知子奏楽)、聖書朗読とお祈り(知子)。

使徒行伝4章8節〜12節:
4:8 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、
4:9 わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、
4:10 あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。
4:11 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

知子の発表:
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下村師のお話しよりノートメモ:
近代国家は政治と宗教を分けるようになり、政治では信仰の自由を認めるようになっている。しかし、憲法改正案には信仰の自由に制限が加えられる条項が記載されているので、これから生きていかねばならない若い人たちは要注意だ。日本の民主主義は自分たちで獲得したものではないから弱いところがある。

▼ 「あらゆる宗教をある意味において真理と認め、したがってラマやクリシュナや釈迦と並んでキリストをも救い主、救済者として崇めることのできるあのインドの精神的態度は」、忍耐とは何の関係もない寛容であり、「寛容とは本来、忍耐を意味し」、「むしろそれは、極端に異なった宗教的ないし救いの教義を同時に容認することを要求」する。

▼ しかしながら、あることが単に部分的にではなく、ある程度までではなく、完全に真である場合には、他のものを真として認めることは不可能です。この場合には、まさにあれかこれかの二者択一しか存在しません。

▼ 釈迦やクリシュナやラマは、人間の罪のために死ぬということはなかった。

仏教の中心的なものは、苦悩からの自由だ。イエス・キリストは罪の贖いのためにいのちを捨てた。

▼ 「われわれ人間は、病気、貧困、無常、争い、憎悪、戦争、死といったさまざまな苦悩を経験」し、これらから解放されたいと全ての人が願っているが、これらは中心的、決定的な苦悩ではない。中心的な苦悩は、あなたが神の前に罪があるということこそ苦悩である。

▼ 人間は可能なありとあらゆるものから解放されることを欲するが、この自己の最も内部に関係すること、すなわち罪からだけは救われようとしない。
ここに人間が人を真に人格として理解していないということが表れている。罪とは、他のあらゆる苦悩とは異なり、人格の苦悩、すなわちわれわれに付随した何物かに属する苦悩ではなくわれわれ自身に関する苦悩である。神との関係が正しくない。

現代人は自分の最も中核的なところが蝕まれている。(キリスト教会においても)贖罪抜きのキリスト教になっている。

ブルンナーの「人格」とはキリスト教の根本を言っている。神の語りかけに対して応える。その時はじめて人格となる。神の似姿に創られた人間を、神に応えうる人間にする。

私たちは自分が最も大事だと価値を置いているものの姿をとると言われている。何を信じ、何を大事だと思っているかでその人物の在り方が決まる。

▼ 聖書は「この不幸は、神があなたの罪を赦、ご自身をあなたと結合されることによってのみ除去されうる」と語ります。神が、罪によって離されているあなたをご自身と結合し、あなたと和らがれるということ、これが真の幸福、真の救いです。

和解者であるイエス・キリストを信じる者は、もはや神から離れてはおらず、神と和解した者であり、われわれの魂の最奥にある不幸は取り除かれました。

われわれは再び神に向かって「愛する父よ」と語りかけることが許されます。そして神はわれわれに対し、「わたしの愛する子、永遠にわたしの心にかなう者よ」と語りかけてくださいます。

このことを外してはならず、信仰とは信頼であり人格である。

私の感想:7-28-3.jpg
私は外的状況、生活状況に悩みこんでしまって、いつしか神にある喜びと感謝も失われつつあり、まさにそのことが「自分らしさがなくなっている」という意味だが、そのことは即ち罪の赦しまで手放してしまっているほど混乱していることに気づくことができてよかったと思う。

一休さんの歌に、「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」というがある。これは、仏教では「仏」と呼び、キリスト教は「イエス・キリスト」と、それぞれ呼ぶ名前が違うだけで、人間が求めている "Something Great" は同じという考え方だが、この宗教多元主義はキリスト教を内部から崩壊する危険なものである。

行く道が違うだけではなく求めているものも違っていれば歩き方も違う。彼らの歩き方は修行や修養であり、そもそも人は悔い改めることによってのみ神と出会うことができるのであり、罪が何であるかわからなければ、悔い改めることはできない。

森有正は、経験で最後に残るのは罪であり、罪の解決をしないでは死ぬことはできないと言っているが、日本人は罪の解決もしないでよく死んでいけるものだと思う。

悔い改めへの道は一つだけで主イエスの道以外に山頂に辿りつくことはできない真理には排他性があるのは当然のことであり、『使徒信条講解説教』の「いかにして聖霊を受けるか」で学んだことをもう一度深く感じることができた。

即ち、「悔い改める人のみが扉を見出して扉を開け、道はそこを通って行き、この一本の道以外に山頂をきわめることはできない」ということ。
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。(ヨハネ14章6節)
夫もまたびっしり2枚に心にとまったブルンナーの言葉を書き写して感想を述べていた。

次回は、8月18日(土)、司会役・発表当番は下村さん。説教箇所は「主はわれらの避け所」。

附記:下村さんをお見送りする時、お誘いをお受けして知子も同乗し、しばらくカフェで知子の思いに耳を傾けてくださり、再び送り届けてくださった。
posted by 優子 at 16:35| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする