2018年08月24日

みことばの花束D

8-24-1.jpg「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」。(詩篇126篇5・6節)

私たちは、幸せであろうがなかろうが、いのちの種を蒔き続けます。悲しくても辛くても、種を蒔きます。それを怠っているなら、将来に喜びは期待できません。しかし、蒔けば収穫の喜びが待っています。主は私たちの労苦を虚しく終わらせられません。

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「彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。彼らは私に勝てなかった」。(詩篇129篇2節)

私たちはキリストによって、圧倒的勝利者です。苦難の中で打ちのめされることがあっても、敗北を認める必要はありません。私たちは病や貧困や悪意に苦しめられていても、主に仕えることはできるし、主の栄光を現すこともできます。それゆえ、主を見上げて、「どんな苦しみも、私に勝てない」と宣言するのです。

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「神の恵みによって、私は今の私になりました. そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました」。(第一コリント15章10節)

以前は教会を迫害していたパウロが、神の恵みで福音伝道者に変えられ、「今の私」になりました。恵みを無駄にしなければ、私たちも「今の私になりました」と言える日が来ます。愚痴らず、恵みへの喜びと感謝で働くなら、その日が早まります。

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「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」。(第一コリント15章22節)

アダム以来、人はいのちの源である神から切り離された状態、つまり死の状態で生まれます。それが霊的死です。しかし、キリストを信じた者は神とのつながりを回復します。それが永遠のいのちです。そのつながりを切り離せるものは、何一つありません。それがキリストにある平安です。

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「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい」。(第一コリント15章33・34節)

世と調子を合わせ、信仰を譲歩させてはなりません。ひとたび譲れば、御言葉を学ぶ、祈る、礼拝するという良き習慣が崩れていきます。自分は大丈夫と思う高慢が落とし穴になります。少なくともひとりは聖霊に満たされた人を友にしましょう。聖霊は私たちの心に働いて、悪い習慣を断ち切ります。

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「最後の敵である死も滅ぼされます」。(第一コリント15章26節)

死ねば全て終わりなら、「明日は死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(32)となります。しかし、死が滅ぼされるのなら、主を信じる私たちは永遠に生きます。ならば当然、永遠という視点で物事の価値や意味を判断し、行動するでしょう。刹那的な生き方はしないし、一時的なことに人生を懸けることもしません。この視点で、自分の人生を見直しませんか。

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「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません」。(詩篇131篇1節)

高慢な人は大言壮語したり、無謀なプロジェクトに関わったり、思いつきで事を始めたりします。しかし、謙虚な人は、主の計画かどうか見極め、慎重に参加し、自分の分に応じた活動をします。その結果、主の力によって、自分の能力を越えた働きを成し遂げてしまうのです。

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「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます」。(第一コリント13章8節)

愛に終わりはありません。報いられずとも愛するのが愛です。途中で終わった愛は、最初から愛ではなかったのです。多くの賜物を受けても年とともに衰え、どんなに知識を蓄えても死とともに消えます。ただ、賜物や知識を用いて愛を表すなら、その価値は愛とともに残ります。

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「聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ」。(詩篇134篇2節)

主の御前で自分の理屈を説明するだけでは、祈りも賛美にもなりません。主に向かって両手を上げれば、自ずから賛美が始まります。主をほめたたえることから、主の恵みがあふれ出します。心の濁りが消え、喜びが湧き出します。心の中の繰り言は何も生みだしません。心を一新したいなら、まず主に向かって手を上げましょう。

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「まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた」。(詩篇135篇4節)

私たちも生まれる前からキリストにあって選ばれ、主の宝とされています。ひとたび選ばれれば、永遠に主の宝です。自分は主の宝であると自覚していますか。しているなら、どんなに惨めな体験をしても、けっして自分を石ころのように扱いません。主の宝である身分に踏みとどまり続けます。

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「主は私たちが卑しめられたとき、私たちを御心に留められた。その恵みはとこしえまで」。(詩篇136篇23節)

過去の悲しみや怒りをわざわざ思い出してはなりません。今の苦しみもやがて過ぎ去ります。将来の不安を先取りして、思い煩うのも止めましょう。むしろ主から受けた憐れみを思い出し、今の恵みを数え、将来の祝福を楽しみにしましょう。未来に受ける恵みをこそ先取りして、今を喜び楽しむのです。

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「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」。(第一コリント15章55節)

「最後の敵」(26)である死への勝利宣言です。死そのものが滅んだのです。私たちはもはや死の力に支配されていません。ですから、死んだら終わりであるかのような生き方をしません。たとえどんな死に方をしても、永遠に生きるという約束は変わりません。日々の労苦や忍耐、成功にも失敗にも、永遠の意味を見出します。
(キリストの栄光教会より引用)

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posted by 優子 at 16:36| 随想 | 更新情報をチェックする