2018年09月16日

「何が人を『私』にさせるのか −独立学園から見えてくることー」 安積 力也氏の講演より

IMG_0681.jpg9月9日(日)午後、大田正紀先生が通っておられる教会で開催されたキリスト教文化講演会(第18回)に出席するために、阪急・王子公園駅近くにある日本キリスト改革派・灘教会を夫婦で訪ねた。灘教会を訪ねるのは今回が初めてである。

講師は安積 力也(あづみ りきや)氏。
演題は「何が人を『私』にさせるのか −独立学園から見えてくることー」。

安積氏は現在73歳。基督教独立学園高等学校 前校長で、恵泉女学園中学高等学校 元校長、日本聾話学校 元校長、敬和学園高等学校 元教頭を歴任され、70歳を機に教育現場から引退された。

案内のチラシにはこのような一言が書いてあった。
「待てない」時代になった。「出来るだけ早く、目に見える成果を!」。この巨大なうねりの中で、私たちは、親も教師も官僚も為政者も、「待つ力」を失ってしまった。

今、この国の子ども達が異様なほど「素直」だ。なぜ「異様」か。それは「”私”のない従順さ」だから。”私”になろうともがく若者の自死率は高止まりのままです。

子どもを『信じて待つ』ことによってしか育たない”大切なもの”がある。東北の小さな全寮制高校から見える「人間教育の事実と真実」をお話しすることで、子育てや教育で苦闘中の方々に、ささやかなエールを送れればと思います。

以下は、2時間20分の講演概要である。
IMG_0683.jpg今、一つの時代の終わり、破局がひたひたと近づいている。そのことは誰もがわかっているのに心の奥にグッと隠して日常を続けている。これが私の、私たちの現実です。

終わりの時代は本物、普遍的なもの、変わらないものしか残らない。人からの借り物や偽物は残らない。それが一つの時代の終わりの特色です。

中学3年の子が言った、「先生、なぜ生きてるの?」 生存の不安、実存の不安。人間は頭の知的理解で現実を生きられるか? 
科学は言葉で知的に教えられるが、生きることに関する真理はどうか。どうしたら人を愛せるのか。どうしたら人を思いやれるのか。勇気を持てるのか。どうしたらこんな大嫌いな自分を愛せるのか! 

私は知識を教えることはできず触媒役しかできないから、私の話は触媒だと思ってほしい。

2006年に改訂された「教育基本法」に残された文言に、「この理想を実現するために、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、」(前文)、「教育は、人格の完成を目指し、」(第1条・教育の目的)とある。

尊厳とは外からは絶対に侵されない何かが宿っているものであり、「私」という固有の人格になる教育を目指す。ところが、教育が政治問題化して固有の尊厳よりも、場合によっては国家の尊厳となる。

岩波国語辞典によれば、「人格」とは人柄(キャラクター)、個人として独立しうる資格とある。即ち、人間である限り人格をもち、固有の「私」となる存在である。

人格概念には、西欧起源のヘレニズムとヘブライズムの2つの流れがある。
@ 「生まれながらの自己の資質を、全的に調和をもって開花させることで、人格は完成する」。(古代ギリシャ・近代ルネサンスの人間観)
A 「人間は、神によって創造され、神の語りかけに応える者として創られた。人間は、神との対話のうちで、人格となる」。(聖書の人間観)

人間は神によって創造された存在というのが日本人にはわからないのだが、創られた者は創ったかたの意図があり、その人にしか果たせない役割がある。創られた者は創ったかた、即ち、神に応答する。

この2つの概念の共通項は:
@ 「人格」それ自体が「目的」。如何なる意味においても「手段」におとしめられてはならない。人間はロボットになってはいけない。

A 「人格」は、他者と出会い、交わることで、初めて目覚め、動き出す。
(参考資料;下村喜八「人格の衰退とその回復」 キリスト教雑誌『共助』2018年第2月号)

対話の相手は「他者」だけではない。内なる私、超越者。

今は自己確立が難しい時代ですが、あなたは今、ご自身の人格を生きていますか?!
私たちは今しか生きられない。今しか私たちは存在していない。この今は誰も経験していない。未来は不確実で予測できない。私はこの私を生きているのか?!

あなたの子ども時代はいつ終わったか。私は何歳のあの時に心理的に変わったのか、自分の心理を時代区分する。

私は誰にも出したことのない自分はいないだろうか。この国の子どもがこれに気づけないと自殺のみ。今、この国の子ども達が異様なほど「素直」だ。なぜ「異様」か。それは「”私”のない従順さ」だから。”私”になろうともがく若者の自死率は高止まりしている。

自己を表出できず、外側の自己を演じ続け、内側の自己を封印してきた時、墓の前にいる。私しか入れない内面の奥、その穴からもっと深い奥を見る。私がもう一人の「私」が生まれた時はいつだったか。親とは違う内面を持っている。

罪意識の奥にあるのは虚無感であり、若者が最も感じているものだ。私は教育現場に立とうと覚悟した時から、校長になった時も人格教育に徹した。生徒が訪ねてきたら(保護者も)、よほどの予定が入っていない限り時間を取って向き合った。

聖書の真理は教えることはできず、生きることによってしかわからない。(苦悩の)余裕のある人に、なぜ神がわかりますか!  
答えは自分で探す。探し方は教えます。

あなたは本当のところ、私自身何を願っている人間ですか?

思春期に入った人間が問いたかったことは、「私は親の操り人形じゃない。それは、お父さん、お母さんの問題でしょ!」 私は自分の「心の闇」(未解決問題)を我が子(生徒)に肩代わりさせていないかという「世代間伝達」の問題。

また、思秋期は、「こんな生き方をしていて、私は満足して死ねるか?」という問題。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主はあなたの心の願いをかなえられる」。(詩篇37篇4・5節)
「主に委ねる」とは全体重を預けるということ。「願い」とは、心の底の、底の、どん底で願う願いであり、その願いこそ神さまは必ず実現してくださるという約束です。

自分の中に起こってくることを言葉にする。「思想は飛ぶ鳥の如し」で、フッと何かを感じたら言葉にする。
心の中に葛藤があり、存在の欠けがある。それを本当に言えないと他者と出会えない。親の未解決の問題を言語化した時に、我が子と言うスクリーンに投影される。

1995年に乳幼児精神科の看板が挙がった。最近の5万人を対象にした調査では、本気で死のうとした人が4人に1人いる。

独立学園高校では「あなたは、本当のところ何を願っている人間なの?」と問いを課し、約束と自由を課す。監視する目を捨てて生徒を信じ抜く。信じなければ、人は待てない。

ラムネ瓶の中のビー玉のような私。多くの人が、自分で作った分厚いラムネ瓶をいつか割りたいと思っているが、人格が触れ合うような交わりがない。自分の人格の核に触れてくれる交わりを求めていく。

「とりま(とりあえずまあ)」ではなく、本当にまともに向き合ってくれる大人を求めている。「この問題を持っていいんだよ」と言ってくれる大人を求めている。私たちは何となく孤独で、何となく不安なのに、不安や孤独を明確にする他者が居ない。自分を確かにするものの感覚がない。

今の人々は自分の闇と向き合うすべを教えられていない。「闇」とは未解決の問題。この国の子どもたちは、心の闇を見る意味と勇気が教えられておらず、真向ってくれる大人がいないのが最大の悲劇だ。

放蕩息子レンブラント.jpgここで有名なレンブラントの『放蕩息子の帰還』を手にされて語られた。
放蕩を尽くした息子が父の家へ帰って来た。ひとりの他者に身を投げ出して泣く経験。
自力が尽き果たした時になお、誰ひとり例外なくできることが一つ残っている。

「私」の立ち返りどころはどこか。
何によって「私」を確かにするのか。
何が人を「私」にさせるのか。

人は自分が扱われたように人を扱います。これが教育の原理です。親や教師は子どもを信じ、存在をかけて腰を据えて待つ。そのような形で待たれている子は、自分が信じられていることを知っている。

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全身全霊で教育に尽くされた安積先生の話は心を強く打った。生徒の「意思をもった応答の拒否」、その心的情景が印象的だ。

資料に書かれた高1の不登校生の言葉、「結局、人間って”自分を知る量”までしか、人を理解できないんですね」は見事な洞察だ。これは「特に教師に求められる力量」の「自己吟味力」に記されている。他、「自己開示力」と「聴く力・待つ力」が挙げられている。

余談だが、講演で語られた「『人格』は、他者と出会い、交わることで、初めて目覚め、動き出す」の箇所だけ太文字、かつ、下線が引いてあり、今日はここが最も伝えたいところだ」と言われた。

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IMG_2376.jpg(参考資料;下村喜八「人格の衰退とその回復」 キリスト教雑誌『共助』2018年第2月号)紹介されている下村喜八さんは、私たち家族が毎月「ブルンナー読書会」でご指導いただいているかたなので驚いた。


IMG_0691.jpg教会を出ると雨が勢いを増していた。
阪急沿線からJRまで下り、六甲道駅を通り過ぎる時、引っ越したばかりの奈良県から神戸大学まで通っていた次女を想った。懐かしくも雨粒越しに見える景色は寂しさを助長した。

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posted by 優子 at 19:44| JCP関係 | 更新情報をチェックする