2018年09月27日

ブルンナー読書会㉕ −聖餐の意義−

9-22-2.jpgこれは9月22日(土)の記録である。
テキストは、エーミル・ブルンナー著、下村喜八訳『フラウミュンスター説教集T』の14回目、説教のタイトルは「聖餐の意義」。
出席者:all member.
開会礼拝:讃美歌239番「さまよう人々」(奏楽:知子)、聖書朗読とお祈り(優子)。


第一コリント10章16〜17節)
10:16 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。
10:17 パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。

第一コリント11章23節〜26節:(輪読)
11:23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、
11:24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。

IMG_0730.jpg聖餐式とはいわゆる「最後の晩餐」に由来し、イエスが十字架上につけられる前に弟子たちと最後の食事をし、ご自身の記念としてこの食事を行うよう命じられたことが「コリント人への第一の手紙」11章に記されている。

このパウロの記事にあるパンと葡萄酒はどういう意味を持っているかという聖餐論については、宗教改革者のルター、ツヴィングリ、カルヴァンでさえ全く一致を見ることなく、分派分裂し苦難の歴史を経て来た。

以下はブルンナーの説教要約:
ローマ・カトリック教会のミサが意味するところの、司祭が聖餐であると宣言する言葉によって、パンが肉となり、ぶどう酒がキリストの血となる考え方(魔術的ともいえるような変質が起こるとする実体変化説)は、新約聖書にはそのような考え方の痕跡すら見出せない。

聖餐はパウロの福音全体と関連づけて考える時に最もよく理解できる。即ち、イエスは神との関係を断絶している罪深き私たちの罰を免れるように、身代わりになって十字架上で死んでくださった。私たちに会うために神みずからが降りてこられたことを受け入れ、信じる者には、神がその人の主となってくださり、新しい人間に造り変えてくださる。

この関連の中で考えるとき、「キリストのからだ」というのはゴルゴタの十字架上でわれわれのために裂かれたからだを意味し、ぶどう酒はわれわれのために十字架上で流されたキリストの血を意味し、比喩的に表されている。

それだけではなく、「キリストのからだ」とは教会をも意味する。キリスト者は信仰と聖霊とによってキリストに結合されているゆえに、教会(キリストの群れ)をも意味する。一つの交わりとしての群れである。

聖餐式は真に奇跡的な出来事であるが、決して魔術的な出来事ではなく、イエスご自身が霊として支配者としてそのうちに内在される信仰の群れを創造する奇跡である。

すでに述べたように、イエス・キリストを信じないかぎり、われわれは、われわれ自身の主であり、したがっていつまでも一致することができない。おのおのは自分の思いどおりに自分の生を営み、互いに皆、他に対して競争者となる。

聖餐式は単なる象徴ではなく、一つの現実、一つの奇跡である。聖晩餐が信仰によって享受されるところ ー(略)ー 現実に何かが生じます。実際に変質が生じる。しかしそれはパンという物質の変質ではなく、人間の変質である。

信仰とは、神がイエス・キリストにおいてあなたと出会い、あなたと語り、あなたの古き傲慢な自我を殺し、ご自身があなたの主となられることを真に認めることです

そして教会とは、以前は赤の他人であったが、今やキリストに在って兄弟であり、姉妹であるということを意味しています。

「キリストは真理であり、キリストの中にこそ共同体がある」、このことを正しく理解され、その理解にしたがって経験となった聖餐、すなわち「コムニオ(交わり)」、これがわれわれの時代に対する真の解答です。

9-22-4.jpgこれまでの長い教会の歴史では、聖餐は他教派の人さえ認めない「クローズド」が伝統になっていた。即ち、その教会の教会員や同じ教派の受洗者だけに限られていた。

これに対して、「オープン」と呼ばれる、他教派の者であってもキリストを救い主と信じて洗礼を受けた者は聖餐に与ることができるという考え方や、礼拝に出席している人ならば未信者であってもその人の意思で与ることができるという、近年になって現われた「フリー」など、今なお争いがある。

私はブルンナーの説教を読んで、それらは全て的外れのように思えるが、フリー反対者が言う「安価な恵みの福音が聖餐に現れている」という意見には深く頷かされる。

それに、そもそも未だ信仰のない人に「わたしを記念として(キリストを思い起こして)」聖餐を受ける、また勧めるというのも奇妙なものである。

しかしながら礼拝に出席し、聖餐式に居合わせた人にキリストはどのように言われるだろうか。主イエスは罪人に対して共に食事をしようと誘ってくださるお方だけに、現代的解釈として聖餐は福音であると理解するのはゆるされるのではないかと思うがどうだろう。

いずれにしても、聖餐式によって私たちはキリストの共同体となるのに、主に在って一致できないのは人間の実相を見る思いである。カーライルやトルストイも異端者扱いされて聖餐を受けられなかったとは驚きだ。

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次回は、10月20日(土)、テキストは「死と復活」。
発表当番は再び優子。知子は相変わらず多忙ゆえ。しかし、これまでのように何事も頑張りすぎないようにと幸いな選択をした。

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posted by 優子 at 17:22| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする