2018年10月20日

ブルンナー読書会㉖ −死と復活−

IMG_3173.jpgテキストは、エーミル・ブルンナー著、下村喜八訳『フラウミュンスター説教集T』の15回目、説教のタイトルは「死と復活」。
出席者:all member.
開会礼拝:讃美歌239番「さまよう人々」(奏楽:知子)、聖書朗読とお祈り・要約発表当番(優子)。

ペテロの第一の手紙 1章3・4節:
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
1:4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。

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要約と感想:
この説教(戦後7年目の1952年5月)では最初にユダヤ教とキリスト教の安息日について語り、イエスが死人の中からよみがえられたというイースターの出来事が、初代キリスト者の信仰の主要点であることを解りやすく説明して本論へ入っていく。

モーセの十戒(その四戒)に「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とある。ユダヤ人にとって安息日は6日間の働き日のあとの休息日であることから、週の最後の日(土曜日)であるが、キリスト者にとっては日曜日である。

しかし、初代キリスト教会は、週の7日目の安息日を守ったのではなく、週の最初の日である日曜日を祝った。

しかも、週の最初の日が主イエス・キリストの復活された日であるがゆえに、「元来はすべての日曜日が復活日である」ことを意味し、キリスト者がユダヤ教の習慣から離れたということは極めて重要なことであり、福音は何よりもまず、永遠の生命の音信である。

われわれ現代人は死の陰の中で生活しており、これまで死というテーマはいつも回避されてきたが、2度の世界戦争、さらには第3次世界大戦に対する恐怖や不安から、われわれの世代には死がひじょうに強く意識されるようになった。

死が中心に据えられる実存哲学が生み出され、人生を「死に至る存在」として死に至る生が主要思想となった。そして(実存哲学の中に含まれている第2の点、)「生には何の意味もなく、本来無である」という結論が生じる。「無」はラテン語でニヒルといい、ニヒリズム(虚無主義)は現代の流行哲学の特徴であり綱領である。

しかしキリスト者はそのことに留まらず、「そうだ、死に向かっていきている、そのことの中にこそ、われわれの生の意味がある」と言明しなければならない。世界戦争がなくても最後には必ず死で終わる。人間的な遺産、すなわち物質的、文化的、政治的、社会的な遺産一切は、総相続人である死の手に陥る。

聖書には相続財産のことが語られており、それは最後的に有効な、決して撤回されることのない相続財産のことである。その遺言の対象となった人を死は獲得できず、その人は絶対確実な相続人である死から逃れることができる。それは、朽ちず、汚れず、しぼむことのない遺産を与える遺言であり、遺言者は、実際に死の手から、この遺産の対象となるすべての人を奪い取る。

では、遺言者とは誰なのか。
それは父なる神であり、この神こそが現存する死の総支配に干渉する方である。神は単に生に対する主であるばかりではなく、死に対しても主であられる。そしてこの神とは、主イエス・キリストの父なる神であり、この神のみが真の神であるゆえに死に対しても力ある神である。

遺言書には「イエス・キリストの死人の中からの復活」と書かれてあり、弟子たちが復活された人イエスを見、イエスが弟子たちに、ご自身を現に生きている人間として証しされたということ。これこそがイースターの事実であり、イースターの奇跡である。

そしてそれは、聖金曜日の三日後、すなわち週の最初の日にこの世において初めて生じたゆえに、キリスト者たちは、共に礼拝をもつことによって週の最初の日曜日を毎回祝った。彼らにとっては復活の日を思い出すことであり、キリスト者もその意味において日曜日を祝う。これが「主の日」の意味であり、最初の日が重要なのは、それが新しい遺言の日であるからだ。

では遺産とは何か。
聖書には「神の国」と「永遠の生命」と表現されている。それは復活者であるイエスが啓示された復活の生命であり、それは神との交わりの中にある生命、完成されたまったき生命である。神は当時生きていたキリスト者のみではなく、それ以後あらゆる将来にわたって、イエス・キリストを信じる全ての人を相続人に定められた。

イエス・キリストを信じることは、イエス・キリストが遺言された遺産が私にも向けられているということを信じることである。

そして何よりも大切な点は、われわれが実際にこの声明を待ち望むこと、実際にこの希望をもち、それを確信していることである。「彼と共に生きるために、彼と共に死ぬ」、この二つの言葉の中にキリスト者の全生活が包含されている。われわれがイエスと共に死ぬことによってのみ、彼と共に復活する道が開かれうるのである。

感想:
10-18-1.jpg今回しみじみ感じたことは、聖霊さまが働いてくださらなければ、どんなに素晴らしい説教でさえ知的にしか理解できないということ。
そして聖霊さまが働いてくださるのは、嘆きや苦しみを経験している人が、神の前で真摯に自らと向き合い、神に助けを求める時に与えられるということを強く感じた。

そして、「イエスと共に死に、イエスと共に生きる」ということについて。
初代教会の人々が聖日は復活を思い出す日であったように、私は日々自分に死んで、復活された主イエスに繋がって生きていくことを忘れてはいけないと思った。そして、その体験こそが復活を信じられるということであると思った。すべてはその人の生き方に表れているのであり、主イエスの贖いを無駄にしてはいけない。

パウロが「わたしは日々死んでいるのである」(第一コリント15:31)と言っているように、神さまは今日もこうして命を与えてくださっているのは、「今日も生きよ!」と言ってくださっていることであると強く意識したい。
新しく生かされ、生きている人は、時折々に主の促しを感じ、「また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで『これは道だ、これに歩め』」(イザヤ書30章21節)のように内なる促しを私も体験しているのに、霊的に弱っている今、もう一度信仰を奮い立たせて進んでいきたいとの思いに導かれたことを感謝している。

下村さんのお話より:
最初に「永遠について」の資料(2016.9.24にいただいたダイジェスト版)を配布してくださった。
▼ 旧約時代に6日間働いて1日休むというのはユダヤ人だけだったので嫌われていたという説もある。

▼ シュナイダーの友人がシュナイダーのことを、「われ祈る、ゆえに我あり」と言った。シュナイダーはそのような人だと。また、好本 督(よしもと・ただす)は「自己義認のボロ(服)を投げ捨てる」と言ったが、キリスト者は祈りからこそ、死と復活がその時々に起こる。

ところで柿には甘柿と渋柿と、一本の木に甘柿と渋柿と両方生(な)る(たまには半渋もある)木があるが、良い実は良い木から生る。渋柿が悪い木だとすれば、私たちもキリストの前で甘柿にしてもらうのである。自ら甘柿になるのではなく、イエスの前で祈って成した業は甘柿とされる。

神の前に立って、神の御心を知るために祈ると同時に、愛の業に励めるようにエネルギーを与えられる。

ガラテヤ人への手紙2章19・20節:
「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」。

▼ (P146.L8~)「十字架に架けられた神の子、われわれの主イエスは復活されました。そして彼に属するわれわれ(キリスト者)は、彼を信じる信仰によって復活とその永遠の生命にあずかるのです。われわれがもっているのはその永遠の生命です。

そしてそのことが、なぜわれわれがこんなに喜びに満たされているか、なぜ神の霊がわれわれのうちにあり、われわれの間でこんなにも力強い業をなしているかの理由です。

それはよみがえられた方の霊、生命、永遠の生命の霊です。福音は何よりも先ず、永遠の生命の音信です」。

ブルンナーが「なぜわれわれがこんなに喜びに満たされているか」と語るとおり、ブルンナーもこのような人だった。実際にブルンナーから直接学んだ人は、「ブルンナーの講義は心が高揚していくような講義だった」と語っている。

▼ 実存哲学の視点は常に現在である。意識において死の時点まで問題にし、そこから視点を現在に向ける。四国から小豆島を見るのと、小豆島から四国を見るのとでは景色がガラッと変わるように、実存主義が一般の人を意識的にしたという利点はある。キリスト者として生きている人は、すでに実存的に生きている。

信仰が揺らいで、人間が死を恐れて言葉にしたのがニーチェである。1900年にニーチェが死に、以後ニヒリズムが世界を覆うような状況になって行く。大きく捉えると、ヨーロッパ文明の中に蚕食(さんしょく:蚕が桑の葉を食うように、他の領域を片端からだんだんと侵していくこと)されて、ニヒリズムが広がっていった。

マルクスが1867年に『資本論』を出版、ダーウィンの『種の起源』が1859年に、1849年にキルケゴールが『死に至る病』を書き、1878年にトルストイが『懺悔』を書いた。

「われわれがイエスと共に死ぬことによってのみ、彼と共に復活する道が開かれうるのである。『彼と共に生きるために、彼と共に死ぬ』、この二つの言葉の中にキリスト者の全生活が包含されている。これが目標であり、この目標こそ、福音の本来の内容である。それゆえ、キリスト者としてわれわれは、復活の生命を生きる人間でなければならない」。

2018.10.13@.jpg次回11月は、下村さんは毎月の礼拝説教や教会でもたれている読書会だけではなく、来月は聖書研究者と聖書学者の6名(学生時代の友人)主宰で2日間の修養会が開催されるため、12月1日(土)になった。
テキストは「光の子」。
知子も多忙のため、次回も優子が発表当番を務めさせていただく。

先月、日本キリスト改革派・灘教会で「何が人を『私』にさせるのか −独立学園から見えてくることー」を講演された安積 力也氏は下村さんの後輩で再会を楽しみにされている。下村さんは聖書研究者として、安積氏は聖書学者として講演される。

posted by 優子 at 22:21| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする