2018年12月01日

ブルンナー読書会㉗ −光の子−

IMG_3836.jpgテキストは、エーミル・ブルンナー著、下村喜八訳『フラウミュンスター説教集T』の16回目、説教のタイトルは「光の子」。
出席者:3名(知子・欠席)
開会礼拝:讃美歌239番「さまよう人々」

聖書朗読とお祈り・要約発表当番(優子)。

エペソ人への手紙5章8節〜14節:
5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――
5:9 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――
5:10 主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。
5:11 実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。
5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、
   「眠っている者よ、起きなさい。
    死人のなかから、立ち上がりなさい。
    そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。

良輔の質問:
「キリスト者の信仰は存在のうちにはなく、生成のうちにある」という意味がわからない。

(下村さん)「私はキリスト者である」ということが「存在」ということであるが、「生成のうちにある」とは、ルターが「日々新たに回心しないと」と言っているように、(P157、L13〜16)「信仰とはむしろ、絶えず汲み出していれば清冽であるのに、汲めずに放置するとよどみ腐敗してしまう井戸水に似ている。あなたは命(生命)を日々新たにキリストから汲まなければ、命はよどみ腐敗して無力なものになってしまう。」ということでしょうね。

要約と感想(優子):
私たちがイエス・キリストと出会うまでは、まさに人間が考え出した神々を崇める異教徒の生活を送っていた。しかしスイス(欧米)では、生後数週間以内に洗礼を授けられて教会の一員になり、その後も信仰が養われていった。

即ち、彼らは異教徒ではなかった。
では、パウロがエペソの人に語っている「かつてと今の違い」、過去と現在の違いはどのようにして生じるのか。

それは、信仰や教会との関係を全く持たずに成長した人々や、堅信礼(洗礼。聖霊を豊かに受ける儀式)を受けはしたものの教会や信仰との繋がりを失った人々、また聖書を開くことも祈ることもせず重要な祝祭日だけ教会へ行く人々など、そのような人々が教会に加わったり、あるいはまた教会生活は続けてはいたが自覚的なキリスト教徒になるなどの場合は、過去と現在の違いについて理解できる。

しかし、(日本でも3代目4代目のクリスチャンホームで育った人は例外としても、異教の地にある日本のクリスチャンのように)異教徒だった人が経験する一回的な(コペルニクス的)転回は経験できない。

その代り、ルターが「キリスト者は日々新たに回心しなければならない」と言っている意味での「回心」は何度も起こり、「キリスト者の信仰は存在のうちにはなく、生成のうちにある」とも言っているとおりである。

このことが、すべて全く新しくキリスト者になったエペソの人たちの場合にも当てはまると、パウロは言っているのではないだろうか。

キリスト教会はごく少数だったエペソのキリスト者たちは、命に留まり続けるために身を守らねばならなかった。それゆえに異教の大都市エペソにいるキリスト者に向かって、「眠っている者よ、起きなさい。死人の中から、立ち上がりなさい」と呼び掛けている。

われわれの信仰は賜った信仰の上にあぐらをかいているようなものではなく、命(生命)を日々新たにキリストから汲まなければ、命はよどみ腐敗して無力なものになってしまう。

ではこの命をわれわれは日々どこから汲むことができるのだろうか。それはイエス・キリストという泉である。(「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない」。

地下の井戸から汲むという比喩を用いて表現すると、信仰という容器と、容器を下へ降ろす祈りというロープが必要で、即ち、聖書を読む時間、信仰の良書、そして「祈り」と呼んでいる神と語る時間を必要とする。

われわれは光や救いやキリストにある永遠の生命を作り出すことはできないが、光の中へ足を踏み入れることや、闇から外へ歩み出すことはできる。光の中を歩み、光の中に留まることはできる。

光は外的な光だけではなく内的な光も存在するように、闇もまた外的な闇だけではなく内的な闇も存在する。われわれの内部が闇であるならば、光の中へ足を踏み入れること、主イエス・キリストの光の中へ足を踏み入れることだ。そうすれば不思議なことが起こる。

以前には、他の人々や周囲の状況に責任があると考えていたが、キリストの光の中へ足を踏み入れた瞬間、闇の本流とは私であることが完全に明白になる。私自身がいつも光を遮っているのであり、この「私」こそ、闇に対して責任がある

しかし、キリストの光の中に足を踏み入れる時、新たな第二のことが開かれてくる。それは、この「私」は透明になり、キリストの光を透過するようになる。このことを使徒パウロは「光にさらされる」と表現しており、「光にさらされる時、すべてのものは光になる」

この光にさらされることは、告白によって生じる。……キリストの光の中に歩み入る時、キリストは罪がわれわれにあることを、あるいはこの場合のわれわれの罪が何であるかを認識させてくださいます。…「私」とは、神によれば、本来キリストを入れるべき容器にほかならない

このことを自らの経験に即して語ったパウロの言葉がガラテヤ書2章20節:

「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」。

パウロが十字架に架けられたキリストを信じ、自分のために死なれたキリストに自己を捧げた時、その瞬間に、彼の「私」が透明になるということが起こったのである。

われわれが「私という質量(素材)」によって満たされて暗く不透明であるかぎり、他の人々にわれわれ自身の「私」による陰を投射しているかぎり、主イエスの証人になることはできない。

ここで大事なことは、われわれがイエスの弟子であろうとすれば、自分自身であることをやめなければならないということではなく、神がわれわれの個性としてわれわれに与えてくださったものを失うことなく、すべてが透明になりうるのである。(個性が生かされる生き方)

わが身大事と思う「私」、あらゆることにおいて自分自身のことを考え、自己の要求を押し通そうとする「私」、権勢欲の強い「私」、自己追及的な「私」、一切の中心であろうとする「私」のみが不透明なのである。

あなたにとって大事なのは、自分自身ではないでしょうか。この問いこそ、キリストの光とのっぴきならない関係を持ってくる問いである。この問いを自己に投げかけない限り、あるいは、この問いに対して真実に答えない限り、私は光の中へは入れません

われわれ自身からは陰、闇のみしか生じないということ、そして光は神の赦しの恵みからのみ生じるということを認める時にのみ、われわれは神の子になる。われわれ自身が光であろうとするところには闇が生じる。しかしながら、神のみが光であることをわれわれが認めるところでは、われわれも光になることができる。

イエス・キリストの光に自分をさらすために必要なあの静寂を得るには、必ずしも休暇を必要としない。祈りながら真剣に聖書と取り組むための時間が数分でもありさえすれば、毎朝、静寂を手に入れることができます。光の子どもとなるために光の中へ入りなさい。

以上が要約ですが、私が改めて理解を深めたところは、「光にさらされる時、すべてのものは光になる」という箇所です。キリストの光の中に足を踏み入れると、この「私」は透明になるからキリストの光を透過するようになるのだということ。このことをパウロは「光にさらされる」と言い、「光にさらされる時、すべてのものは光になる」ということ。
私は改めてみことばを解き明かされたという喜びを感じる。何という神の恵みだろう!

下村さんのお話しメモ:
(優子の言葉を受けて)ブルンナーは説教者もそうだと言っていますね。「ああ、福音の説教者であるわれわれが、しばしば、ほんのわずかなキリストの光しか透過しない何と暗いランタンであることでしょう」と。

▼「十字架の愚かさと躓き」で学んだことと通い合うところがある。
(P63.L13〜 P64.L4)「悪の根源、罪の実体は、われわれが高貴な事柄に携わっていても罪が姿を現してきて、慈善的な行為の中にも、倫理的な最高の努力の中にも、いやそればかりか信仰や祈りの中にまで侵入してくる。
おのが内へと屈折したこの心、自己自身を求め、自己自身のことを思い、ひそかに名誉と称賛と渇望しているこの『私』は絶えず存在し続けている」。

優子発言:私も時に意識することがあり、「そうではない!」と声を出して自らに言う時があるが、あまりにも自らに厳しすぎると精神衛生上、要注意だと思う。

そうですね。高倉徳太郎(神学者、牧師、思想家)は、自我を追及して最後は自殺しました。

▼「二種類の悲しみ」で学んだ P97の最後の6行を思い起こさせる。
「すなわち、誰もが自分自身を訴える代わりに他人を訴えるということ、他人に同情する代わりに自分自身に同情するということ、いとしい自我をもった人間ーむしろ、自分に惚れ込んだ、わが身かわいい自我をもった人間といったほうがいいでしょうーが神の愛を妨げている(今日の表現では「神の光を妨げている」)ということではないでしょうか。

神を妨げている自我、神と隣人を愛するよりも自分自身を愛する自我、是が非でも自己主張をする自我ーこれこそ人間の本来の病、聖書が罪と呼んでいるあの病です」。

▼ 翻訳していて印象的だったのは、P161の最後から4行目の「われわれは光の子、光の運搬人、キリスト=透明人間として歩まねばなりません。」というところです。

次回は、2019年1月19日(土)

附記:
学びのあと、下村さんは私たち夫婦の悩みを長い時間傾聴してくださり、見解を述べて優しく導きを示してくださった。私は最後まで神の御心が成るように信じて祈り続けます。

ひいらぎ.gif昨日落手した灘教会の案内状に記された大田先生の一筆、「よいクリスマスを!」が強烈な閃光となって私の内奥を射した。
今年もいよいよ明日からアドベント(待降節)に入る。

posted by 優子 at 23:27| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする