2018年01月17日

阪神・淡路大震災から23年 @ 

今から23年前の今日、兵庫県南部に直下型大地震が起きた時、私達は東大阪の9階建てマンションの8階に住んでいた。

私は43歳、夫49歳、知子は高校2年生、真智子は中学2年生だった。私は母の介護で毎週2回、大阪市内の住友病院に同行し、そのあと実家へ行って母と父を助けていた頃である。

あの朝、地面から突き上げるような地震にびっくりして飛び起きた。

当時は6畳の部屋に、二棹の和ダンスと鏡台を置いた部屋に家族4人が寝ていたものだから、タンスの下敷きになっては大変と、私は咄嗟に子どもたちに寝室から出るように叫んだ。

隣室のリビングルームではCDラジカセが遠くへ飛び、台所の炊飯器はひっくり返って洗米していた米と水が飛び散り、割れた食器で足の踏み場もなかった。トイレの便器の水がザブンザブンという音をたてていた。

すぐにテレビ(NHK)をつけたが、宮田アナウンサーは被害はたいしたことないの繰り返しで、「震源地でもない東大阪でもこれなのにそんなはずはない」と私はブツブツ言いながら片付けていた。

しかし、8時頃になると被害の様子がわかり始めた。神戸の叔母たちのことが心配になって電話したが既に回線は切れていた。

この日は読書会の新年会と例会が予定されており、「東大阪読書友の会」の代表だった関係から、奈良市に住んでおられた顧問の西口孝四郎氏に開催するかどうかを相談した。

「近鉄電車は動いているからやりましょうや」ということで開催することに決まった。

その後、会員さんたちから電話があり、また、こちらから電話したりで大変だったが、まもなく電話も通じなくなってしまった。

しかし予定通り、定刻正午より小阪駅前のユニオンホテル(現コミュニティホテル)で新年会を開き、大阪商業大学に移動して例会を終え5時過ぎに帰宅。すぐにテレビをつけると信じられない光景で立ちすくんでしまった。

夜7時20分頃、父より電話が入った。

私たちの無事を知った父はこう言った。

「あの時、すぐおばあちゃん(私の母)の寝間に入って抱いていた。『死ぬ時は一緒や!』と言ってた」と。

進行性難病だった母は、この時すでに1ミリさえ全く身動きできない状況だった。怖かったであろう!!! 母68歳、父69歳だった。

夜8時頃、兄が電話をくれた。

「優子か、僕や。大丈夫やったか?!!」

力強い口調で安否を聞いてくれた。

灘区に住んでいる叔母夫婦とは連絡がとれず、無事を祈るしかなかった。

あの時、御影(みかげ・東灘区)で一人住まいしていた従妹は、地震直後、パジャマのまま両親に向かって走った。叔母夫婦もまた必死で外に出て我に返った時、叔父が娘を助け出さなくてはと思った時に娘が駆けつけてくれたという。

親を思う子と、子を思う親の姿。

高校時代の従妹は有力なスプリンターで神戸放送サンテレビで映る姿も何度か見た。従妹の走る姿と、その時の従妹の気持ちを想像するだけで今も胸を打つ。私より10歳年下だからAちゃんは32歳だったのだ。

あたりの様子は現実のこととは信じられぬ事態になっており、家はドミノ倒しのように全てが崩壊していたそうだ。私は母の通院介助のために石屋川の様子を見ることなく過ぎてしまった。

翌18日朝の7時半頃に叔父から無事の第一報が入った。

叔父は電話口までこぎつけたものの、公衆電話は長蛇の列で直ぐに切らねばならなかった。8時半頃に叔母からも電話があった。

この日は母の通院日で、私はいつも通り9時前に家を出て住友病院で両親と再会した。帰り道、いつもならば10分ほどで行ける野田阪神に出るまでに1時間かかっていた。

国道2号線の淀川大橋手前の海老江(えびえ)の交差点では一般車両の通行止めでごった返していた。

母の床ずれの痛みも限界を超え苦痛に耐えていた。ようやく先頭の数台前になった時、私は身体障害者の証明書を持って交通整理の警察官まで走って行った。

事情を説明すると警察官は快く橋を通ることを許可してくれ、迂回せずに直進した。「さすが優ちゃんやなあー」と感激する父の反応に、「そんなん当たり前やんか」と返し、喋ることもできない母はホッとした表情を浮かべて微笑んだ。

その夜、叔母たちは西神中央のマンションに住んでいた息子宅に移ったと電話が入り安堵した。同じ神戸でも西区は全く被害がなく、ガスも水道も電気も全てが平常のままだったとは、まさに天国と地獄を見るようだった。

阪神電車は青木(おうぎ)駅までしか行かず、阪神高速道路は飴で作った玩具のように壊れていた。ところが、この大惨事なのに梅田界隈はそれまでと全く変わらず、ここでも天国と地獄絵を想像させた。

あの頃の私は母の介護で疲れていただけではなく、高津高校の役員、東大阪市の2つの行政委員、読書会会長、河内の郷土文化サークルセンター理事・・・と多忙な年月だった。

しかし、この大惨事に何一つお役に立てなくて、土佐堀のYMCAへ駆けつけたもののボランティアは立ち切れになってしまい自己嫌悪に苦しむ日々でもあった。

あれから23年の月日が流れ、今朝5時半頃、目が覚めてラジオを聴きながら当時を思い出し、震災で大切な人を亡くされた方々の悲しみを想像していた。あれから必死に生き抜いてこられた日々であったろう。人は命ある限り最後まで生き抜かなくてはならないと強く思わされた。

母は翌1996年10月に70歳で、父も2000年8月に召された、75歳だった。

神戸の叔父は1999年7月に亡くなり、従弟は2011年2月に50歳で亡くなった。

2018年1月17日附記:
ここにあの日のことがが鮮明に記録されており、記憶力が乏しくなってきている今、知子と真智子に残したい記録ゆえに再掲載した。

posted by 優子 at 22:33| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

阪神・淡路大震災から23年 A ― ご遺族の寄贈により創設された神戸大学経済学部「白木賞」 ―

阪神・淡路大震災で神戸大学の学生39名が犠牲になった。そのひとり、白木健介さんは経済学部第二課程(夜間コース)2回生だった。
葬儀の後、御両親は大学に100万円寄贈された。大学はそのうち80万円を基金として「白木基金」を創設し、震災年度から経済学部の優秀卒業論文受賞者を表彰している。

私は震災後、数多くの犠牲者を出した神戸大の学生やボランティアに励む神戸大生のことを高津高校の連絡協議会(PTA)で耳にしていた。
その4年後に次女が神戸大学へ進学することになり、白木さん御夫妻の亡きご子息への想いがこめられた基金の恩恵に与ることになろうとは思いもしなかった。

私が「白木基金」のことを知ったのは、次女が優秀卒業論文賞(白木賞)で最優秀卒業論文賞を受賞したからだ。今も2002(平成14)年度に名前が記録され、最優秀卒業論文賞受賞者は太字で記され、論文をPDFファイルで読むことができる。

その時、白木さん御夫妻への感謝の気持ちをこめて、今後も基金が永く続いて行くことを願って些少ではあるが次女から大学に届けてもらい、後日、学長からお礼状をいただいたことを思い出したが、今改めて白木健介さんの御両親に慰めと感謝の気持ちが溢れる。

また、福音歌手(ゴスペルシンガー)の森祐理さん(かつてNHK教育テレビ『ゆかいなコンサート』の歌のお姉さんとして活躍)は、東灘区で下宿をしていた神戸大学法学部4回生(読売新聞に内定していた)の弟さんを震災で亡くしている。

2013年3月下旬、日本クリスチャン・ペンクラブ理事長の池田牧師が召天されたことをお伝えするために、国内外を忙しく動き回っておられる森祐理さんとメールのやり取りをしたことがあった。美しいのは声だけではなく、その文面から柔和で美しい心が滲み出ていた。

森さんは今朝午前5時から神戸市中央区の東遊園地で開催された「阪神淡路大震災1・17のつどい」で独唱された。

「弟の命が土台となり、天国への希望を届ける熱意となっていることを思うと、死は終わりでなく、地に撒かれた種として何倍もの実を結ぶものだと改めて思わされています」。

「20年の節目を迎え、この世での命が終わる日まで、弟の命の分までも託された使命を全うしていきたいと、決意を新たにしています」。


01yuri2b.jpg悲しみに耐えて生き抜いておられるご遺族の方々の上に、神の豊かな慰めと希望がありますように祈り、この悲しみが決して無駄になっていないことを信じます。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。
   
                  (ヨハネによる福音書12章24節)
posted by 優子 at 22:31| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2018年01月01日

主の2018年開幕!

主の2018年、明けましておめでとうございます。

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今年の年賀状です。主語と述語が一致しない文章を書いてしまい加筆しなければなりませんでした。

今年は次女夫婦と共に新年を迎えました。5年ぶりのことです。長女は年末30日から一人旅に出かけ今夜帰宅します。

12月22日に帰国した次女夫婦は、東京滞在中に友人を誘って横浜の教会でクリスマス礼拝に集い、IMFの東京事務所や一橋大学に知人を訪ねるなど、幸いな時を過ごして29日の夕刻に帰宅しました。

ところが、その夜から次女が熱でダウンし心配しましたが、今朝は完全に元気回復し、神さまに感謝しました。

大みそかは略式ながらおせち料理、黒豆とトラ豆の煮豆、サゴシの生鮨(きずし)など作りましたが、次女夫婦との時を優先してIMFでの写真を見ながら話に聞き入り中断したりで、日常の掃除すらできないまま新年を迎えました。

昨夜は夫も交えて4人で大笑いしながら紅白歌合戦を観ました。本当に楽しかった!!! 

今年はどのような年になるでしょうか。国内外ますます多難な時代になり、私の人生においても依然として長いトンネルの中にありますが、年賀状に掲げた御言葉を握って乱心しないように一歩一歩進んでまいりたいと思います。

元旦の今朝は食卓で1人ずつ祈りを捧げてシャンメリーで乾杯し、午後は真智(次女)が導き手となって元旦礼拝を捧げました。「家の教会2018」の第一回に記したいと思います。

今年も『メメントドミニ』を訪ねてくだされば嬉しいです。
これをお読みくださっている方の上に、神のお支えとお導きがありますようにお祈りします。

追記:21時7分、知子帰宅。
posted by 優子 at 21:01| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年12月19日

ユキと懐かしき地を踏む ―同志社女子のクリスマスページェント―

IMG_9670.jpgこの写真は今から31年前の1986年12月17日、知子が小学校3年生(9歳)、真智子は幼稚園年長組(6歳)の時に同志社女子中・高(通称「同女」)のクリスマス・ページェントへ行った時のものだ。

この頃も全席満席になっていたが、近年のように早々と列を作って並ぶということはなかった。意外なのは、この頃の方が外国の方の参加者が多かった。
自動車も御所の中に駐車していたのでまだまだ悠長な時代だった。

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私は35歳、良輔は41歳。

私はこの時はまだ明確な信仰を得ていなかったが、この頃より求道し始めて翌春に主イエス・キリストと出会い、同年6月(ペンテコステ礼拝)に受洗した。同志社で毎朝毎朝蒔かれた種が17年後に芽生えたというわけだ。

先週の12月16日、知子の年齢と同じころに孫(幸悠)を案内できたことは望外の喜びである。当日16日の記事の最後に「悲しく、ただただ悲しかった・・・」思いも言語化できればいいと思うが、まずはユキと訪ねた懐かしき地のスナップ写真を記録しておきたい。

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私は大津教会へ行くときも京都駅に立ち寄ることもなく、今20周年記念とあったが初めての下車である。まずはエスカレーターで11階に上り、伊勢丹に入ってユキのリクエスト、好物の天ぷらの昼食。大満足のユキ!

IMG_9574.jpgこの日は一時雨の予報だったので傘持参で行ったが雨は降らず、陽射しはなかったもののさほど寒くもなかった。

京都駅ほど大々的に変わった所はないだろう。外に出て見える京都タワーの景色だけは50年前と同じだった。

ロータリーの真ん中あたりから市電やバスに乗っていた。市電はじれったくて、高校になってからバスに切り替えた。

七条(通り)、五条、四条、御池、丸太町、今出川と、それぞれの通りの間を5分間として、京都駅から今出川まで30分見なければならなかった。

当時は在学生の大多数が京都市内の子女だったから通学するのに2時間かかる私は、帰りはとにかく早く帰りたくて、15分ごとに発車する播州赤穂行きや明石行きなど「快速」に乗るまで時計を見てはイライラしていた。

IMG_9661.jpgそれが地下鉄だと10分で着いた。これまで京都の地下鉄に2度乗ったことがあるが、京都駅から乗るのは今回が初めてだった。


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ここに派出所があったはず。今出川の駅になっていた。すぐ後ろに見えるのは同志社大学の校舎である。

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写真の左右の通りが今出川通りで、後ろに見える木々は京都御苑(御所)だ。
中学1年生の時は御所を右手に今出川通りを歩いていたが、その後はずっと大学のキャンパスを抜けていったので、この日も校内を歩いた。

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ここは烏丸通りに面する大学の西門。
ユキも同志社へ行く?!
バスや市電の停車駅もここ。
校門も新しくされ字体も変わっていた。
かつてここに「薩摩藩邸跡」という石碑があった。

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左の木は夜になると

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礼拝堂(重要文化財:同志社チャペル)
かつて共学の同志社中学はここにあり、
この礼拝堂を使っていた。

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クラーク記念館(重要文化財)
「同志社七不思議」の第一に語られる
クラーク館尖頭の「尽きぬ階段」は有名だ。

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この辺りで何度か兄と会ったことがある。
友人に囲まれた兄の懐かしい光景が目に浮かぶ。
50年前のことなのに見慣れた景色なのが不思議。
死の世界から生き返って戻ってきたような感覚だ。

1968年、私が高校2年生の時に兄が同志社香里(こおり・男子校)高校を卒業して大学に入学した。この年からますます全共闘運動で大学紛争が激化していくことになり、校内は立て看板で溢れ、4回生の頃は皆目授業もなく卒業式も挙行されなかった。

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同志社教育のシンボル「良心碑」
「良心之全身ニ充満シタル丈夫(ますらお)ノ
起リ来ラン事ヲ」

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これが同志社正門。
正門を入った所に「良心碑」がある。

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正門を出ると右側に御所の「今出川御門」があり、左側を行くと正面に相国寺(しょうこくじ)がある。そこに同志社の女子教育に命を捧げたデントン女史の墓所がある。

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同志社正門前に同志社女子大、女子中高、幼稚園への門。

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31年前には左側の建物はなく、広い芝生が広がっていた。
この突き当りが女子中高校門で守衛室がある。
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中学入試の合格発表の光景は今も鮮明に焼き付いている。この場所でまず父が掲示板で合格を確かめ、その直後に私と母も番号を確認。私は大喜びで藤棚まで走っていきブランコに飛び乗ったことが昨日のことのよう。
そして掲示板横で、聖書と讃美歌と『新島襄』の本を購入したことも。

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栄光館(礼拝堂:登録文化財)
右の1階の部屋は教務課で、学期ごとの授業料を納入していた。その2階は国語科と数学科の教職員室が並んでいて、栄光館正面の瞑想室左横が聖書科の職員室だった。各科ごとに職員室が別になっている。

それにしても授業料を自ら教務課に納めるとは時代を感じさせる。高額なだけに当時の私も緊張していたのを覚えている。兄は一度、学内で盗まれたことがあった。私が親ならば怒って気持ちを引きずったであろうから、大きな器量を備えた母が偲ばれる。

私が高校に入学した時に妹が入学したので、5年間は同志社へ3人通っていたことになる。親にとっては大変だったのではと、こんな年になって初めて思う自分が情けなく悲しい。

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新築された静和館。今も中学生の校舎だろうか。
旧静和館は廊下も木で革靴で歩く音が好きだった。
ゆっくり校内を見学したかったのに並んでいないと整理券がもらえないというので、全く校内を散策できなかった。

ユキは退屈し尽して申し訳なくてならなかった。しかも2時間半も立ったまま。子どもには禅寺の修行のようだったであろう。

昨年は寒かったので30分切り上げて開場したというが、私もこの日の前後のような寒さならば血圧が高くなるので10分間さえ待つことができなかったから、その意味においても今回が最後のページェントだったと思う。

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ごめんね、
ユキもゲームを持って来ればよかったね。


ユキ、この写真はどう? 合格点?
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写真で時間を潰そうと思っても冬季で花は僅か。

ユキ、鳥がいるよ!!!
これは何ていう鳥?
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これが当日の行列で、静和館の裏側も長蛇の列だった。(同志社女子中高のHPより)

1600名収容できるファウラーチャペルだが、並んでいても整理券がもらえなかった人もいた。

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やっと入れたね。
勝手知ったる我が家の如くトイレに行った。
歌舞伎座のように数多く改装されていた。

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2階の新島襄の肖像画は昔のまま。

ページェントの内容は、
1936年から全く変わらず引継がれているとのことだが、
以前は聖歌隊や聖書朗読者たちの入堂は
讃美歌98番だった。

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1986年のページェントでは、
「第1部」最後の校長の祈りは、
当時の鎌谷 襄校長(聖書科)が
フランチェスコの「平和の祈り」を捧げられた。

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聖書朗読者たちは声をそろえてゆっくり低い声で読むので、
ユキも言った、「聖書の読み方が怖い」と。😖

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プログラムの裏表紙も変わらず同じ。
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「いと高きところでは、
神に栄光があるように、
地の上では、
み心にかなう人々に平和があるように」

anime_tenshi3_ak.gif皆さまの上にクリスマスの祝福がありますように!

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posted by 優子 at 10:39| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年12月16日

同志社女子中・高のクリスマスページェント ―1970年卒業後2度目で31年ぶり。これが生涯最後のホームカミングか―


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4時頃に整理券が配られるとのことなのに、
2時半過ぎで既に80名ほどが並んでいました。
このあと4時に整理券をいただいて開場の5時まで待ちました。
1100名分完配、入場できなかった人も多数おられました。

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整理券まで同志社カラーにこだわっての紫でした。

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クリスマスページェントは礼拝ゆえに写真撮影禁止。

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ページェントのあとの「ストーム」
聖歌隊が讃美歌を歌って見送ってくれました。
この3倍の人数の聖歌隊でした。

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これは同志社大学のクリスマスツリー。

さあ、ユキ、気合を入れて帰ろうね。
大阪を通り過ぎて奈良県までとは辛かったね。
21時45分に無事帰宅しました。
詳しくは後日記録しておこうと思いますが、
体調が冴えなかったせいもあるけれど
悲しく、ただただ悲しかった・・・

posted by 優子 at 23:58| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年11月04日

主イエス・キリストの希望と愛の力を

ルカによる福音書 6章31節〜35節:
6:31 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。
6:32 自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。
6:33 自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。
6:34 また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

エペソ人への手紙 4章30節〜32節:
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。
4:31 すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。
4:32 互いに情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい。
クリスチャンとはキリストに生かされている者、キリストの十字架によって罪赦され愛されていることを忘れないようにと思う。悲しみや試練の中を通っておられる方々が、神さまによる希望と愛の力で強くされますように祈ります。
posted by 優子 at 11:07| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年11月02日

66歳を始む 「神さまが植えてくださったところで咲く」

今改めて「神さまが植えてくださった場所で咲く」(プロテスタントの神学者 ラインホールド・ニーバーの詩)の思いを新たにして66歳の旅路を歩き始めた。


IMG_8656.jpg 神さまがあなたを植えてくださったところで咲きなさい。

諦めるよりむしろベストを尽くして

花のように咲くのです。


花のように咲くということは

 幸せに生きると言うことです。

あなたの喜びが他の人々を幸せにします。

あなたの笑顔は拡がっていきます。


あなたが幸せであり笑顔を示せば、

 他の人々も幸せを知り幸せになるでしょう。


神さまはあなたを特別な場所にお植えになりました。

あなたがそのことを知って人々に分かち合えば

あなたの人柄は輝くでしょう。

私たちが「咲く」と言っているのは、その「輝き」のことなのです。


神さまが私を植えてくださった場所で咲く時、

私の命は人生の庭の美しい花になるのです。

神さまが植えてくださった場所で咲きなさい。


  "Bloom where God has planted you."
             Reinhold Niebuhr

Please bloom where God has placed you.
Rather than give up, make the best of your life and bloom like a flower.
To bloom is to live happily.
Let your joy make others happy.
Your smile is contagious.
When you are happy and show it by your smile
Others will know it and are happy too.
God has planted you in a special place.
If you know it share it with others, your personality will shine.
It is that "shine" which we call "Bloom"
When I bloom in the place
Where God has placed me
My life becomes a beautiful flower in the garden of life.
Bloom where God has planted you


渡辺和子さんはこんなことも加筆されている。


「咲く」ということは

他人の求めに喜んで応じ

自分にとって ありがたくない人にも

決して嫌な顔 退屈気な態度を

見せないで生きるということなのです。


この言葉は具体的でわかりやすく励ましになっていたが、ここにアクセントをつけて読むと形骸化し虚構の生き方に迷い出てしまう危うさを感じる。現況が厳しすぎる人にはそうだと思う。

Q.jpg附記:午後12時半、真智より電話あり。
ワシントンは深夜なので早く切るつもりが1時間にもなっていた。澱(おり)のように溜まっていた気持ちが洗い流されたようで心が柔らかくなった。ありがとう!(上掲の詩、訳が間違っていたら訂正しておいてね)

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posted by 優子 at 18:17| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年03月27日

すべては摂理の道程なり

イソヒヨドリ.jpgこれは2月12日の夕方にユキが撮ったイソヒヨドリ。美しい鳴き声はここをクリック! 
小鳥のように見えるが、名前のとおりヒヨドリの大きさだという。寒くても鳥たちは今日も元気に飛んでいた。


IMG_3172.jpg以上は2月中旬頃に書いたものであり、以下もまた同日に書いていたものである。これは私に洗礼を授けてくださった敬愛する小山恒雄牧師の著書『恩寵の選び』より、目につくまま書いていたものである。

私は精神的苦痛の耐え難き時、魂に酸素吸入をあてがうような思いで書写することがある。この時もまたそうだった。

人生はむずかしい相手とのやり取りの連続である。そして、その問題が困難であればあるほど、神からの可能性も大きい。人間が自分の力に行き詰ったところから、神に突破口が生まれる。

「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」。  
           (ヤコブの手紙 1章12節)

人は自分の弱さを認めず必要を自覚しないゆえに神に近づかない。主のみ前に自己が打ち砕かれてこそ、人は神の手に陥り、へりくだり、神に近づけられるのである。

「信じることが神の業である」。(ヨハネ伝・6章29節)
「私たちの弱さ」を告白する恵み。

信じて救われるのは、瞬間的な神の恵みの御業と決断によるが、信じぬくことは一生一代の大事業であり、そこには山あり谷ありの生活がある。しかし、聖書は試練と忍耐の祝福を確約している。

プラス×プラス=プラスなれば、マイナス×マイナス=同じくプラスである。これは近視眼的なご都合主義の信仰ではなく、救われ、選ばれた神の子たちが栄光のみ子の肖像にまで変えられていくための、当然経なければならない摂理の道程である。

私たちの信仰生涯においても有形無形の危険の中で、一触即発というような中を幾度主の守りによって乗り越えることができたであろうか。


「わが魂よ、主をほめよ。
そのすべての恵みを心にとめよ」。

              (詩篇103・11)

「望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき
 数えてみよ主の恵み 汝が心は安きを得ん」。

              (新聖歌172)

主の恵みは数えがたい。そして、それら一切の恵みの源泉は、十字架、復活、昇天、そして大権の右に即位された栄光の主にある。そして彼こそ常にタイムリーな助けとなってくださる恵みの み座である。

これさえ見ておれば、信仰生涯に行きづまりはない。
これさえ開かれておるならば、いかなる時にも天与の祝福は途絶えることはない。ハレルヤ!

人間は強さだけでは円満な成熟を遂げていくことはできない。どこかで、その行き詰まりを感じなくてはならない。自分の弱さや無力さを感じさせてくれるのが35歳から40代であり、ライフサイクルで言えば、まさに太陽が中天に昇ろうとしている夏から晩夏に向かう過渡期である。

今改めて私もまたそうであったと振り返る。そして、年齢を重ねれば重ねるほど自分の弱さがわかる。人間の限界と無力さを。

しかし行き詰まることは良いことだ。なぜならば行き詰まりこそが良き道への突破口となるからだ。

にもかかわらず、行き詰まっているのに他者や周囲にのみ目を向け続ける人間の頑なさ。自分の弱さの内的体験を通じてこそ他者との真の関係を打ち立てることができ、そこに神と真に出会う道がある。

言葉ではうまく表現できないが、私は今、常に神を感じている。これまでの体験から一つの実を心の中に結ばせようとしてくださっているような気がする。

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「ブルンナー読書会」も半年ぶりに再開の見通しがつき日程を調整中。
イソヒヨドリ。
先週末、京セラドームに行く途中にも見つけて写真を撮っていた。


posted by 優子 at 22:28| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年03月04日

知子とユキは神戸港クルーズに、私たち夫婦は道明寺へ

一方、私たち夫婦は自動車で20分ほどの所にある大阪府藤井寺の道明寺へ出かけた。桜餅の道明寺粉で有名な名前の発祥の地である。一度は行きたいと思っていたので、梅の花が満開と出ていたのでそれを目当てに出かけた。

正しくは道明寺天満宮といい、神仏習合の名称だったので驚いた。

今調べてみると明治5年の神仏分離により、天満宮境内から約50メートル西の現在地に移転したというが、出入り自由のためかパンフレットも説明文も掲示されていなかったので、何も分からなかった。

天満宮おきまりの「撫で牛」があったので、どうやら私たちは天満宮だけで道明寺には行かないで帰って来たようだ。 

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道明寺粉は、昔の保存食だった糒(ほしいい)を砕いたものだった。道明寺の糒は有名で豊臣秀吉からも礼状が届くほどだったという。

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境内では「猿回し」をやっていた。これは2歳のニホンザル。「猿回し」を直に見たのは初めてかもしれない。私はしばらくして独りで境内を散策した。

地域の人々による大正琴の演奏で懐かしいメロディーが聞こえ、50年も前の世界に舞い降りたような錯覚を覚えた。大正琴の音色はとても心地よく、夫もリラックスしていたようだ。

梅園は300円払って入った。こじんまりしていたが、約80種800本の梅があり「大阪みどりの百選」に選ばれているそうだ。

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道明寺@.jpg

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一つひとつの花に目をやると
一生懸命咲いている花の気持ちと気力が
伝わって来るようだった


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30分足らずで梅園をあとに奈良県に戻って遅い昼食を摂り、夫としばらく話し合った。今日はそのための外出でもあった。寡黙な夫が話し続けた。夫の思いも理解でき、客観的に見ていたことに安堵した。

しかし、夫の最たる弱さの岩盤はまだまだ固い。人は皆そうなのだけれど、自分の弱さを言語化できるかどうかは大きな関門であり、人間は本当に自我が強く関門を通過した人は少ないのだろうが。

それでも私は主に在って希望をもって夫婦の総仕上げに励みたい。それをしないでは死ぬに死ねない。2月半ばからその思いで励んでいる。

IMG_2674.jpgこれは昨日撮った植木鉢の花。
自らの咲く季節に備えて厳冬のうちに、いつしか芽を出し、蕾を膨らませて、開花した。


これも昨日写した近隣宅の梅の花。
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道明寺の有名な梅を見てきた夜に、身近に咲いているこの写真を見て、森 有正が口を酸っぱくして言っている「経験と体験」について想起し、少し理解が深まったように感じた。日本人は何事も全部体験の対象にしているということを!

「日本人は出かける前に、観光案内書や写真などでもって知っているのと同じ姿を現地で見つけ出せば、それで満足して帰ってくる。

日本の自然というのは、全部が名所の集まりだ。だからみんな名所を見に行くのであって、自然なんか見に行きはしない。

つまり全部体験の対象になっていて、経験の対象になっていないということだ。経験の対象はいつも無記名だ。これは重要なことで、固有名詞を持ったものでも、経験の中では無記名の要素に分解されてしまう」。


期待していた今日の梅園は体験的にでしかなかったが、この無名の近隣の梅の花を見て、私の中で僅かながらではあっても深みを感じられたことに大きな喜びを感じた。

そして名所の梅の花にも、一つひとつの花から一生懸命咲いている花の気持ちと気力を感じることができたことも大きな喜びだ。

それは森 有正が言うところの、人間の知覚で覆い尽くされた梅園に裸の自然を見る力が養われていたということであり、物の深みや注意力の深まりや、これまで認識し経験したものが自らの中に蓄積されていたということだから。


posted by 優子 at 23:59| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年01月03日

私たちが教会を離れている理由

私は常に「忍耐している時は愛はない」、「愛において真理を語れ」ということを一つの指針にしているが、私たちがなぜ教会を離れて家で礼拝を守っているのか、それを語る備えがなされ、もはやそのことを語らずに進むことはできないので述懐したい。

無牧(牧師不在)だった教会に昨春のイースター礼拝より牧師が招聘された。招聘決定に先立って、2015年12月27日の最終礼拝でその牧師をお招きして説教を聴く機会を設けた。

ところが、それは驚くべきものだった。

「神は間違いを犯す、イエス・キリストも間違う」と、耳を疑うべきことを何度も繰り返されたのだ。このような話は世界広しと言えどもキリスト教会において、時代を超えて前代未聞の内容であろう。

この教会に私たち家族と全く同じ見解の信徒が一人おられたことは救いである。その方は役員会に陪席して異議を述べ、「信徒説教で支えていきたい」と共に労する姿勢も表明されたが、代務の牧師や役員たちの魂には届かず招聘することに決まった。反対した役員は私一人だけだった。

総会でも私たちは共に会衆に訴えた。その時、役員の一人が「教会存続のために役員は(教会に残る)責任がある」と私を批判された。それは私も最終的に悩んだことだった。

しかし、そもそも信仰対象である神概念を全く異にする教会で、私が責務を続けるという行為の意味は何か。せめてあと2人でも反対する人がいれば状況は大きく変わり、その中で労することは大きな意味がある。

しかしながら、この状況下で残るというのは異教の神に仕えることであり、私自身のためにバウンダリーズ(境界線)を引くべきが賢明。

また、孫の人格形成への悪影響は是非とも避けねばならない。もしも私の選択が間違っていたとしても、神さまからその裁きをも受ける覚悟で決断した。

こういうわけで2015年末より2016年2月上旬まで、神の導きを乞うために祈りつつ思いめぐらした末に導き出された答えは、総会でも合意されたならば教会を離れるという結論だった。

敬愛する信仰の先輩の意見を聴き、また、自らの判断に至った段階で2名の牧師にも相談した。共に全く同じ見解を示された。

総会でも審議したが反対者は私たち4名だけで、大多数の賛成を得て牧師招聘が決まった。

この人たちはいったい何を信じ、どんな神に祈っているのだろうか。昨春、教会のために祈っている時、涙なくして祈ることができなかった。神さまの御心を痛めていることが私の痛みである。

あの教会は賀川豊彦の献金により建てられた教会である。神さまは教会を正してくださると信じる。私は神に期待して、時が来れば神の介入により教会が正されることを信じている。

私たちが教会を離れたわけを語ることを急がなかったのは、キリストを遠ざけることになるのではないかと懸念したからだ。

しかし例えば、警察官が犯罪を犯したからといって警察は不要だということにはならないのと同様に、驚くべきことを言う牧師がいるからといって「だから教会は、キリスト教は・・」ということにはならない。

問題はそういうことではない。要はいかに主体的で自立した生き方が大切であるかということだ。そして、自らの限界を知って生きることの大切さをも思い知るのである。

その受け止めがあって初めて、神の御心と自分自身の意志を見分けることができるのではないか。自己洞察できる人ならば深く読み込んでくださると思う。

この教会は病んでいる。自浄作用もできない状態だ。人間はかくも間違いをおかしやすい存在なのであるが、今もまた歩みの途上であることを忘れてはならない。

このことを書くかどうか悩みぬいた末の最終段階で、イエス・キリストならばどうされるだろうかと思い巡らし、福音書に残されているイエスさまが言われたことに集中して記述する判断に至った。

私は教会に失望したが、神に失望することのない確かな信仰が養われていたことを感謝している。現況の教会には望みをもってはいないが、神がどのようになさるのか祈りつつ待っている。その思いは最初から変わらない。

つまり神が教会を正しく再建されるために、私たちを召し出されるならば喜んで戻ろうと思う。必ず神の時が備えられていると信じて「家の教会」を起ち上げた。

クリスチャンにとってクリスチャンの交わりは大切だ。私たちが偏狭で間違った信仰に陥らないように、神はずっと以前より、また新たに祈りの友を与えてくださり、祈り合い、交わりを与えられていることを感謝している。

無牧の時に代務してくださった牧師の一人にも相談したが、最後に言われたことは、「意見の食い違いや宗教観の違いがありますが、要は神さま、要はキリストであり、その基本のところを踏まえて教会形成していただきたいと思います」。

しかし、問題はそれにさえ先立って、「神の概念」が違っているのでどうしようもない。そのことをこそ相談したではないか!

こんな最悪なことの中にも神は良いことをしてくださる方である。このことを通して私たちと同じ価値判断で教会を離れた方と個人的出会いへと導かれた。

クリスチャン同志の交わりのために、そして、学びと霊的必要のために始まったのが「ブルンナー読書会」である。その方を学びのリーダーとして回を重ねている。

私がブログを書いている時は、全能の神さまの御前で神さまと二人っきりの交わりの時であるので、デボーションに準ずる時間である。

常に神さまにアカウンタビリティを取りながら書いている。「アカウンタビリティ」とは会計や経済学から出た用語ではなく聖書の言葉だ。

即ち、かつて日本銀行総裁を務めていた速水 優が語っていたように、「他人がなんと言おうと、自分のしていることを神さまに申し開きができる」と思うことを書いており、神の前で説明責任とれるとの思いを与えられて「我が心の旅路」としてここに記すことにした。

これを書き終えるにあたり、私は今、イエスさまのみことばが脳裏に浮かんだ。

「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる」。
           (マタイによる福音書 15章8・9節)

なお「バウンダリーズ」とは、自分の責任と他人の責任の領域の境界線のことである。


posted by 優子 at 23:10| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年12月31日

渡辺和子さん召天

今朝目が覚めた時、渡辺和子さんの召天を報じていた。一度もお目にかかったことのない方であるが、書物を通して大きな影響を受けた方であるので、「とうとう逝かれたか・・・よく生きた人だった」と、しばらく黙想していた。


渡辺和子さんの本は10冊以上買ったと思う。もう20年ほど前のことだと思うが、お手紙を差し上げた時に、あの多忙な方からお返事が届いたのには驚いた。


大切に私の終わりの日まで取っておけばよかったが、残念なことに数年前に落手した手紙を著名な人からのお手紙も廃棄してしまった。


例えば、大学時代に新選組に夢中になっていた時、医師であり沖田総司研究家・歴史作家の森 満喜子さんとの多数の手紙、大学卒業時に板坂 元氏(ハーバード大学で日本文学を講じておられた時)の『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』を読んで5〜6回交信した手紙や、永井隆さんの次女・筒井茅乃さんから知子にいただいた返信など・・・他にもあったかもしれない。


渡辺和子さんは渡辺 錠太郎(教育総監・陸軍大将)の次女で、父を2.26事件で亡くしている。目の前で。そのような過酷な経験をした渡辺さんは、人間は神のように赦すことができるだろうか。本当に赦すことができるのは神さまだけだと思うと、正直に自己の内面を吐露するキリスト者であったので惹かれた。


IMG_1640.jpgかつてキリスト教雑誌『百万人の福音』のコラムに、渡辺和子さんについて書いた拙文を掲載していただいたことがある。

それから30年経ったことを思うと万感の思いがする。私に影響を与えた忘れられない一人である。



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2016年もあと5分、新年なもう一度若い頃のように情熱を奮い立たせて、「よく生きた」と思える日々を重ねていきたい。


過ぐる2016年に感謝して、意欲にあふれて2017年を迎えます。共に良き日々を重ねてまいりましょう!

お一人おひとりに神さまのお導きと祝福をお祈りし、どうぞよろしくお願い申し上げます。



posted by 優子 at 23:52| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年12月17日

「ねこは、はじめて なきました。ねこは 100万回も なきました」。 −結婚40周年の朝に―

毎晩NHKラジオ『深夜便』を聞きながら眠るようになったのは、入院していた母の病室に週2回泊まっていた時からだ。

簡易ベッドを拡げて横になった時、小さなラジオを耳元にぴったりつけて聞いていた。「ソフィーの世界」がベストセラーになっていた頃だ。耳元で聞こえる声が心地よく、以来21年経った今も手放せなくなっている。

いつも10分もしないうちに眠ってしまうので、就寝中の脳には悪いと思いながらもラジオは朝までつけたままだ。

IMG_1443.jpg今朝4時40分すぎ、トイレで目が覚めた時、4時台の「こころの時代」で『100万回生きたねこ』を朗読していた。
佐野洋子さんが書いた100万回死んで100万回生きたネコの話だ。


主人公のトラ猫は王様に飼われた時も王様なんか大嫌いだった。船乗りの猫になった時も、サーカスの手品使い、どろぼう、ひとりぼっちのおばあさん、小さな女の子など、いろんな人に飼われて何度も死んだ。

猫が死ぬたびに飼い主たちは猫の死を悲しんだが、猫は死ぬのなんか平気だった。
ある時、野良猫になって、猫は初めて誰の猫でもない自分の猫になった。猫は誰よりも自分が好きだった。


トラ猫は寄ってくる雌猫に、「おれは、100万回も死んだんだぜ!」と自慢するのだが、一匹だけ見向きもしない白い美しい猫がいて、その猫のそばにいるようになった。そして、かわいい子猫がいっぱい生まれた。

トラ猫はもう決して「俺は100万回も死んだんだぜ!」とは言わなかった。そして、白い猫と子猫たちが自分よりも好きになった。

子猫たちがりっぱな野良猫になって巣立っていった時、白い猫は少しおばあさんになっていた。

「ある日、白いねこは、ねこの となりで、しずかに うごかなく なって いました」。

その時、トラ猫は初めてないた。

「夜になって、朝になって、また 夜になって、朝になって、ねこは 100万回も なきました。
朝になって、夜になって、ある日の お昼に、ねこは なきやみました。
ねこは、白いねこの となりで、しずかに うごかなくなりました」。


ラジオから聞こえる朗読が聞こえた瞬間、今日は結婚40周年であることを思い出した。それがどのような関係があるのかと気になりながら最後まで耳を澄ませて聴き入った。

トラ猫は誰かに飼われていた時は何度も死んで何度も生き返ったが、悲しくも嬉しくもなかった。しかし、自分の人生を主体的に生きることで愛を知り、自分よりも大切な存在ができて愛おしみ、猫が自分らしく個性的に生きることで、ようやく充実した日々になった。そして、人生を全うして安らかな死を迎えた。


私は子育てをしながら、それまで全く関心のなかった子どもの本に眼が開かれていった。この本を1982年夏に購入しているので、長女が4歳8ヶ月、次女が2歳2ヶ月の頃だった。

この絵本は子どもの意識や無意識が揺さぶられる一冊であり、ユキ(孫)にも何度も読み聞かせた本である。先ほど家族が揃うリビングルームでユキに久々に読んだ。

やっぱり最後は涙が溢れて声が詰まり、読み終わった時はしばらく涙を拭かねばならなかった。私の感受性は衰退してはいなかった。

IMG_1442.jpg小さくならば掲載を許してもらえるだろうか。
主人公のトラ猫が小さくなった白い猫を抱いて泣く絵は圧巻だ。この絵を見て何も感じない人がいるのだろうか。

苦労が多く涙をふきながらの日々であろうとも、心を込めて精いっぱい生きる。実はそのような時こそが充実した本当に生きた時間なのだ。

子どもが幼い時に、そういう時間を経験させてやることが親のしてやれる最高の教育だと思う。

だからこそ、今のユキには遊びを通して充実した時を経験させてやりたい。人生のどの段階においても「今しなければならないこと」と「今しかできないこと」を心にとめながら長い時間をかけて育んでいくのだ。 

親や家族が、もちろん教師も子供の周囲にいる大人たちが子どもと向き合って、じっくり話を聴くならば、子どもは必ずや他者の話にも耳を傾け、自己に目を向けていくだろう。

こういう内容になるとエンドレスになるので強制終了しよう。
しかも、今日はこのようなことを書こうとしたのではない。

結婚40年を迎えた今、死んでしまった白い猫を抱いて泣き続けるトラ猫に万感胸に迫るものを書きたかった。相手がどうであれ、これからも自分らしく生きていくために。


posted by 優子 at 13:04| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年12月09日

昨夜の目まいは急性期脳梗塞ではなく三半規管だった 

昨夜入浴中に激しい目まいに襲われた。
私はいつも体を洗って(体を洗ってから入るのが我が家の入浴ルール)、お湯につかりながら歯みがきして上がろうとした時、違和感を感じて慎重に椅子に座った。

まるで台風で木が大きくゆすぶられているように体が左右前後にグラグラ揺れて倒れそうになるので、手すりを握って治まるのを待とうとしたが耐えきれず湯船の蓋に顔を伏せた。大きな揺れが収まったので大急ぎで髪の毛を洗って浴室を出た。

その後も目まいは治まらず吐き気もあったので、脳内で大変なことが起こっているかも知れないと思い、ベッドに入ってから死を覚悟して罪の赦しを祈った。
寝付くまで独り言を言って呂律(ろれつ)が回っているかどうかを調べたり、手足がしびれてきていないかなど確かめていた。

今朝になってもまだ宙を歩いているような感覚で、今日は何もしないでゆっくり休養するつもりだったが、知子が会社へ向かう車内で私の症状を検索し(朝は夫が運転する)、病名を絞り込んだ。

目まいが何か大きな病気の前触れかもしれない。放っておいたために時を逃して悔いを残すようなことがあってはならないと、8時過ぎに知子から電話が入り専門医を受診するように言われた。

そして、夫は知子に説得されて9時半頃帰宅し、自動車で上本町のクリニックまで送ってくれた。

去年今年と2度MRI検査をしてもらったA脳神経外科を受診。診察では「たぶん耳だろうと思うが念のために」とMRI検査をした。新しい異常はなし。最初の診断通り三半規管が原因の目まいだった。

今回は「ディヒュージョン検査」(diffusion)もしたという。これは急性期脳梗塞の診断に使う撮影方法の一種・拡散強調画像で、急性期の脳梗塞があると白く写し出す。骨は白く写っていたが、新しい脳梗塞は全くなかった。

小脳や脳幹に何か異変があると目まいが起こるが、小脳から脳幹全て異常なしだった。小脳から起こる目まいの例として母が負った脊髄小脳変性症が記されていた。


ついでながら、以前から小脳の下にあるくも膜嚢胞はこのままで。血管の突起箇所については出血してもこの場所ならば心配しなくてもよく、ここは骨に囲まれているので破裂しないだろう。頸椎の中を通る血管も年齢的なことで蛇行はするがよく流れているとのことだった。

これからも目まいは起こるだろうとのことで目まい改善薬を処方された。そして、目まいを起こりにくくするためにはラジオ体操が良く、また、椅子に座って首を左右に揺らすなど、こういうことで三半規管が鍛えられる。

毎日パソコン作業を3〜4時間していることを話すと、パソコンをするときは椅子に深く座って正しい姿勢になり、その姿勢の目と同じ高さに画面がくるようにとアドバイスを受けた。
もう13年も前からノートパソコンばかり使っているので今更と思うが、今夜からパソコンの下に分厚い本を積んで改善している。

ゴールデン最後の輝き@.jpgとにかく昨日はクタクタに疲れていた。いつものように7時40分過ぎにユキを見送ると、すぐにシルバー人材センターの方々が庭木の剪定に来てくださり、早速案内しながら説明に入り、そのあとも何度も呼ばれ、この日は落ち着かないので整理や家事など動く用事をしている。


写真はゴールデンクレスト最後の輝き

ゴールデン短く.jpg去年とちがって今年は血圧も正常値だったのでよく動いていたのだが、お昼過ぎにはクタクタになって1時間横になった。2時におやつと飲み物を用意して、2時半過ぎに帰られたが、その後も後片付けと、毎年剪定の日は感謝と疲労でいっぱいになる。

剪定@.jpg 「ユキのスカイツリー」を切った。
台風で倒れるから半分切った方がよいと言われて少々躊躇しつつ3分の一切ってもらった。
あの美しいシルエットが消えてしまってかわいそうでならない。


ユキが持久走大会の前夜(11月30日)に嘔吐して持久走に出られず悔しがっていたが、その日はユキだけではなく5人も欠席していたという。他学年では学級閉鎖のクラスが出るほど感染性胃腸炎が流行している。

私も12月2日の夕方から症状が出て苦しんだが、ユキ同様に下痢はしなかった。嘔吐は8時間ほどで治まって順調に元気になったが、今週は目まい。とにかく大事なくてよかった。

今日は夕方に雹が降るほど寒くなっている。
私の安心を得た知子は仕事に集中し、疲れ切って23時20分過ぎに帰宅した。これで安心して眠れる。眠ろう。

posted by 優子 at 23:47| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年12月07日

さざんかホールの壇上で話したことも遠い思い出

この記事は、娘たちに「ママはこんな経験もさせてもらったよ」と話したくて、11月20日(日)午後に大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏を聴いた「さざんかホール」にまつわることを書こうとしているので、お読みくださる方々には退屈なものだと思う。

それは当地に移ってきてまだ2年にも満たない2001年2月のこと、さざんかホールの舞台に立たせていただいたことがあった。

市の一般健診でコレステロール値が高く高脂血症教室への参加を呼びかけられた。終了後、『市政だより』に体験談の掲載だけではなく、奈良県医師会主催の会でも話してほしい依頼されたのだ。

そのとき私は48歳で、半年前に父を亡くして深い悲嘆の中に在った。これが体験談を掲載された2001年2月21日発行の市の広報紙である。

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生活習慣病教室は2000年9月から始まったと記憶しているが、その8月に父を亡くしていた私はとても行く気になれず、外に出るのも苦痛でチャッピーの夕方の散歩は夜に夫婦で行っていた。

私は10月から2か月間の参加だったにも関わらず、高脂血症の数値が著しく改善された症例だったので指名されたのだと思う。

依頼原稿の校正も終わった頃、奈良県医師会主催の会で体験談を話してほしいと葛城地域所管の保健師が来宅された。スピーチは15分間というわけで、内容をもう少し詳しく話した。

でさざんかホール.jpg

このあと閉経の関係もあるだろうが再び元に戻り、長年そのまま放置していたのを知子に強く勧められて受診。2009年5月から薬を服用、12月から高血圧の薬も加わった。

掲載文には「『健康』という言葉だけにふりまわされず」とあるが、私は「健康の奴隷にならないで」と記していたのを変更されている。

保健センター主催の文章にはそぐわなかったのだろう。また、健康に「二重かぎ括弧」は正しくないので気になったが呑んだが、壇上では持論の人間学を織り込んで「健康の奴隷にならないで」と自らの主張を語った。


今や当時とは比べ物にならないほどサプリメントのCM花盛りの時代。ついに今年は誘惑にまけて次から次へと7〜8種類も手を出してしまった。しかも飲まないから溜る一方で次回配送を送らせたり断ったりと今日も連絡したのだが、これこそ「健康の奴隷」でなくて何だろう。

掲載文を読んでいるとチャッピーも居なくなり、このことも遠い日々のことになった。 

附記:
「今日は霜が降りてた」とユキが言っていた通り、今朝は0.9度まで下がり今夜も冷える。

私はユキをベッドに送り、枕もとでユキの手を握ってお祈りし、お風呂に入る。そのあと、こうして知子の帰りを待ちながらブログを書くことも珍しくなくなってしまった。疲れている知子の足を速めてくださるように。

posted by 優子 at 22:20| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年11月22日

「魂は是非とも歓喜を必要とする」 ベートーヴェン

☆ 今朝午前5時59分頃、福島県沖を震源とするマグニチュード7.4の地震があった。2011年の巨大地震の余震だそうだ。津波警報も出されたが大事にならなくて安堵するも、もはや平穏ボケや平和ボケの時代ではなくなった。

今週は家庭礼拝を捧げることができなかった。先週末も知子は夜遅くに帰宅してからも仕事、19日の学校訪問後も、その夜も午前2時頃まで、また、20日(日)の午前中も休みなく仕事をしていたからだ。

その日の午後は9月から予約していたオーケストラの演奏を聴きに出かけた。生演奏など14〜5年ぶりだ。プログラムに惹かれ、わざわざ大阪まで出かけて行かなくても20〜30分で行けるというので、生協のチラシを見て知子が誘ってくれたのだ。

演奏が終わるまで涙が止まらなくて困った。
知子は「ママの心が弱っていると思って探していた。私もやけれど」と言った。その言葉を聞いた瞬間、私の心が温かい緩衝材で包まれたように感じた。初めて経験する感覚だった。


さざんかホール開館20周年記念イベント
指揮:巨匠・秋山和慶
独奏:情熱のピアニスト・及川浩治
管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団

プログラム: ■モーツァルト/歌劇「フィガロの結婚」序曲
        ■ベートーヴェン/ピアノ協奏曲 第5番「皇帝」
        ■ドヴォルザーク/交響曲 第9番「新世界より」

2曲目、ピアニストが鍵盤に手を付けた瞬間から胸が熱くなり涙が溢れてきた。2楽章のように宗教的な祈りを思わせる穏やかな曲想に涙するのではなく、強く激しくなるほど涙が頬を伝った。
『皇帝』ではベートーヴェンは躍動感を表しているのだが、私には躍動感として聴いてはいなかった。

ロマン・ローランの『苦悩の英雄ベードーヴェンの生涯』の世界が開け、最初のうちは苦悩する孤独なベートーヴェンの傍にいて、彼の言葉を聞いていた。

「できるだけの善を行うこと、何にもまして自由を愛すること、そして、たとえ王座のためであろうと、決して真理を裏切らないこと」。

「私は善良さ以外には優越さの証拠を認めない」。

「魂が苦痛に慣れるためには相当の時間がかかる。魂は是非とも歓喜を必要とするので、歓喜を持っていない時には、それをつくりださなければならない」。

「苦悩を通って歓喜へ!」


ドヴォルザークの『新世界より』もまた、強く激しい曲想になればなるほど涙が溢れた。もはや私の意識ではなく無意識下の魂の反応だとわかった。

両親の庇護の下でクラシック音楽に浸り、ベートーヴェンやシューベルトの世界に生きていた時を単に懐かしく感じたというものではない。それでもやはり父と母が恋しくて、父と母が生きていた日々が恋しくてたまらなかった。

ドヴォルザークの新世界はアメリカのことであるが、私の「新世界」はこうだ。
人生は何度も暗雲に覆われて嵐の中を進まねばならないが、避けないで激しい戦いに耐えて突破した時に新たな世界が開かれる。それは環境や状況の変化ではなく新たなる境地である。

涙を流しながらも、人間について、人生について思いを馳せながら前を向いている自己を感じていた。それでも何が私の心の琴線に触れて涙を流していたのか未だにわからない。ただただ涙が流れ続けていた。


そして最後に思ったことは、人生の全てを突き抜けさせてほしい。苦悩から逃げるのではなく、最後まで思いっきり突き進んでゴールに入りたいと願う。ゴールとは言うまでもなく召天である。

演奏が終わる数分前に横目で知子を見ると、口元を引き締めて前方を凝視して聴いていた。その真剣な表情に荘厳さを感じた。そして、心の中で知子に言葉をかけた。
「今までのとおり一生懸命やればいい。○○がどうであれ!」
そして自らにも言った。
「私も知子や真智子の母親として恥ずかしくないように突き進んでいかねば!」と。

ついでながらユキはどのように鑑賞していたかと言えば、30分もしないうちに居眠りはじめ、まもなく熟睡、『皇帝』の演奏が終わって大きな拍手で目を覚ました。良輔に至ってはイビキをかき始めたので注意しなければならなかったそうだ。

大阪フィルハーモニー交響楽団は関西交響楽団が前身で朝比奈 隆を中心に創設された。家族でフェスティバルホールへ行ったことも懐かしい。もう50年以上も前のことになる。

「この人たちはみんな、楽士さんやで」と、耳元で言った母の声が聞こえるようだった。あの時「楽士」がどういう意味かもわからず、私はただ母の感動にしみじみ感動していたことを今も覚えている。

クラシックの生演奏は五臓六腑を浄化する。これからはたびたび聴きに行きたい。会場が遠いのは嫌だけれど今度は音響装置のいいホールで聴きたい。お金を払って寝に行かれるのはもったいないので、次回は知子と音楽の分かるもの同士で。

posted by 優子 at 21:27| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年11月07日

年金請求の手続き −我は高齢者なり―

先月半ば、農協の営業マンが「年金の受取りには農協で」と来られた。私は年金受給年齢になることなど全く意識になく、緑の封筒で届いていたことも思い出せないでいた。

幸いすぐに見つけたものの、読み始めたが理解できなくて情けなかった。夫に聞いても無関心、「年金事務所に行ったら教えてくれるわ」の一言で却下。

私自身もあまりの無知ゆえに批判できないにしても、夫は既に受給されているにもかかわらず全く理解できていない。それよりも相変わらずの冷酷さ、家族のことをどう思っているのだろうと呆れるばかり。

多忙な知子を煩わすことはできず、とにかく少しずつ少しずつ進めてきた。65歳の誕生日を迎えれば「受給権発生日」、それ以降に交付された書類が要るというわけで今朝市役所へ出かけた。

ところが空振りで帰宅。

股関節が痛いので少しでも軽いものをと小さな財布を持って行ったのがいけなかった。戸籍謄本や住民票を取るのに身分証明になるものを一切持っていなかったのだ。

私は運転免許証を持っていないので健康保険証のほかにも診察券かクレジットカードなど2つ要るとのこと。そのことは聞いたことがある。いずれにしてもいつもの財布を持っていれば全て入っていた。

2時間に1本の公共バスを利用してやってきたというのに出直すしかない。乗り掛かった舟だ、2時間で行ってこられるのだから帰宅してすぐに次の便で行こうと思ったが、とにかく精神的に非常に疲れたので断念した。

昼食後、いつものように横になると1時間も眠ってしまった。

夕方、近隣のNさんが吉野で柿を買って来たからと持ってきてくださったとき、「慣れないことをすると疲れるからね」と言われて、「そういうことか、頭の良い人でもそうなのか」と安堵した。

といろんな話を聞きながら二人で大笑いして、50分間も喋っていたので(自動車の)ライトをつけて帰って行かれた。友はありがたい。友との大笑いでリフレッシュした。

高齢者肺炎球菌予防接種に介護被保険証、そして、年金請求の手続きというわけで、私も高齢者組になってしまった。

今日は疲れた。

昨夜、知子と真智子がこんなことを話している夢を見た。
「とうとうママも死んでしもたな・・・過ぎてしまえばアッという間やなあ」。
この思いは、母のあと父も死んでしまった時に私がしみじみ思ったことだった。
夢の中で私は75歳だった。


IMG_0946.jpgクリスマスの飾りつけがまた進んだ。
昨日薄暗くなるまでご主人が木に登って飾りつけておられた。夫よりも少し年上だと思う。



知子が22時過ぎに帰ってきた。

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ユキの手紙で知子の疲れも癒されることだろう

posted by 優子 at 22:58| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年10月17日

命、人生、この重きもの

2日前の「ブルンナー読書会 F」の記事で触れたキューブラー・ロスの晩年、特にその最期について記憶が曖昧だったので、手軽だがBSドキュメンタリー「最後のレッスン キューブラー・ロス 〜かく死せり〜」で再確認した。失望感は拭い取られて厳粛な気持ちに満たされている。

キューブラー・ロスは、死を前にした人との関わりや "Grief work"(悲嘆のプロセス)について大きな働きをした。

『死ぬ瞬間』、『続死ぬ瞬間』、『新死ぬ瞬間』・・・など、最期に人が求めるもの、死にゆかねばならぬ子どもに自らの死をいかに話してやればいいのか、子どもの死やこどもが失踪した親の悲嘆・・・など、多くのものを読んだが、キューブラー・ロスの関心が臨死体験や死後の世界に移っていってから読まなくなった。

私は30代の終わり頃から2年間かけてカウンセリング(臨床心理学)の学科を修めた。その講義でもキューブラー・ロスが掲げた「死の受容のプロセス」の5段階が語られていた。

否認(それは間違いではと認められない)、怒り(なぜ私が死ななければいけないのか)、取引(神さま、○○をしますから助けてください)、抑鬱、受容 である。

カウンセリングの学科を終了した頃は、母の難病のことが私の心に重くのしかかっていたこともあり、関連する本をたくさん読んだ。

カトリックの司祭で哲学者であるアルフォンス・デーケンは、キューブラー・ロスよりも詳細に提示し、その最後に宗教者の視点で「希望」を付け加えたことも良く知られている。

悲嘆のプロセス(アルフォンス・デーケン)
@精神的打撃と麻痺状態  A否認  Bパニック C怒りと不当感  D敵意とうらみ  E罪責感  F幻想 G孤独感と抑うつ  H精神的混乱と無関心  I受容(あきらめ) J新しい希望 ユーモアと笑いの再発見  K新しいアイデンティティの誕生(立ち直り)

事故で即死でない限り、人はみなこれらの苦しい道程を通ることになる。これらは死をまじかにした場合だけではなく、重篤な病気を告知された時も同様に、誰にとっても何よりも自らのために知っておくことは大切なことだ。

キューブラー・ロスは人に愛を与えることができても、最後まで愛を受け取ることができなかった。人に世話してもらうこと、そのような自分を受容できなくて、人生最後のレッスンは人から愛を受けることだと言っていた。

そして今、私は再びいのちの問題と向き合っている。脳死の問題である。脳死状態になって11か月になる1歳半の赤ちゃんの病床へ導かれたからだ。

脳死。

ああ、何という残酷な言葉であろう。

3時間、赤ちゃんの枕もとでお母さんと話しながら、手を握り、オムツを変えるのを見せていただいた。オムツが濡れており、その時、きれいな尿が小さなおちんちんから出てきたので、「Mくん、おしっこ したのー」と嬉しくて語りかけてしまった。

日本社会に「脳死」が言われるようになり、これまでにも何度か考えたことがあった。幾冊かの本を読み、その時に私が導かれた結論は脳死は人の死ではないということであったが、その結論は間違ってはいなかった。


これまで脳死になるとまもなく心臓死を迎えると思っていたが、今では、いやもっと以前からその認識は全面的に覆されており「長期脳死」と呼ばれている。特に子どもに多く見られるそうだ。

脳死について先週注文した本が今日届いたので真剣に理解したいと思う。

IMG_0701.jpgこのような耐えがたい悲しみに耐えておられる方々のことを思うと、不誠実極まりない生き方で命を費やしている人はまことに愚かである。それほど命を無駄にしていることはないであろう。
私も短くなるばかりの命の時間を、もっともっと大切に使っていかねばと思う。


posted by 優子 at 17:34| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年09月29日

高齢者肺炎球菌予防接種と介護保険被保険証 −円地文子『朱を奪うもの』、私の「朱」は「情熱」か―

IMG_0347.jpg3〜4か月前だったか市の保健センターから高齢者肺炎球菌予防接種の接種票が届いた。その時は非常にショックで、手に取ったまましばらくぼんやり眺めていた。ついに私も高齢者の枠組みに入るのだ。

肺炎は日本人の死因第3位で、その95%以上は65歳以上ということで、2014年10月から定期接種が始まった。夫は1年前に接種を済ませた。

そして、今日は介護福祉課から介護保険被保険証が届いてまたまたショック。介護が必要になる場合も視野に入ってきたというわけで、かつて読んだ『朱(あけ)を奪うもの』の言葉が脳裏をよぎった。

「さあ、これで全部抜けました。もう歯病で苦しむ思いは一生ありませんよ。・・・(略)・・・
磨滅した一本の歯に滋子(しげこ)はやるせない悔いと愛着を感じた。自分の肉体と離れてしまった歯は、もうどんなに足擦(あしず)りしても自分のものにはならない。自分の生命の一部の死んだのを正しくわが眼で見ているのである。歯はそのまま自分の骨に見えた」。


これは円地文子が50歳の時に書いた『朱を奪うもの』の一節である。読書会のテキストに推薦して、1991年1月の例会で取り上げてもらった。私が39歳の時である。

この作品は、結核菌に冒されて右乳を切り取られ(昭和13年)、2度目は女性だけの病む癌で手術を受け、3度目は一緒に生きてきた歯を抜き去ってしまい、「3つの死を思うと自分に与えられた生命(性)の不思議さについて何とも語りたくてたまらなくなる」と、真っ先に結論を持ってきて幼かった日の記憶から物語が始まる。

女性は老い(年齢)、病気、運命などにより「朱」を奪われていくが、「朱」は無くなるものであろうか。奪うものはあるけれど、私はやっていけるのだという作家の気持ちを書いている。

このときの読書会ノートにはこんなメモが書いてあった。

「3年ほど前から両親の老いを感じるようになり、以来、自分自身の老いをも含めて老いるとはどういうことか考えている。
母の老いていく悲しみ、不安を感じ取る優しさが私にはない」。

正しくは「実感できない」というものであり、そのことで自責の念を感じていた。

その頃の母はちょうど今の私と同じような年齢であったが、実際は「老い」というものではなく、進行性の神経難病に蝕まれていた。

主治医は慰めの気持ちで「老いが早く来たと思えばよい」と言われたことがあったが、とにかく私は母のことをわが身のことのように感じることのできないことにも苦しんでいた。それは人間の限界であり、どうしようもないことであるのに!


『女性の更年期』という本にそのテーマで書かれた山本耿子(こうこ)さんの文章に、「(『朱を奪うもの』には)老いの自覚というものが、どのようなかたちで味わわされるか、老女の気持ちが心にくいまでに表現されてある」と書いているので推薦したのだった。

ついでにこの読書会で心に届いた印象的な感想を2つ。

▼ 読者の年齢が若いと意味のわからないところもあるだろう。

▼ 中島敦の『李陵』には宦官について出ているが、司馬遷は性器を取られながらも『史記』を書いた。そのことを掲げているのは、円地も書くことへの執念はすごいものがある。


肺炎球菌予防接種は来年3月末が期限だが、ユキの日本脳炎ワクチンの2期の接種票が届いたのを機に、ようやく私も重い腰を上げて一緒に内科医院で受けることにした。

ユキは小学校に入学した1日目から雨の日も必ず、お願いもしていないのに帰宅した時に郵便受けの中のものを持って入ってくれるのだが、高齢者案内を孫の手を経て受け取ることに何とも言えない感慨を覚える。

母が召されてちょうど20年、健在ならば90歳になっている。今では90歳でも珍しくない長寿世代だが、さすがに「母が元気だったら・・・」と90代の母を想像するのは難しい。91歳の父の姿もまた・・・

子供の頃は病弱だった円地文子は81歳まで生きた。
私は「朱」を「性」ではなく「人間の情熱」と解釈し、情熱を奪われず円地の執念のごとくに命を燃やさねばと思う。

posted by 優子 at 17:59| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年09月09日

脳のMRI検査を起点に ―空気の抵抗を感じて飛ぶ鳩のごとく―

あれから1年。昨年9月に認知症の心配で受診した脳外科クリニックへ、1年後の予約票を持って今朝受診した。

MRI検査では異常なしで年齢相応の状態だった。記憶力テストも30点満点。理解力が落ちていることや、ストレスフルな時は今日のことか昨日のことだったかわからない時があることについても心配なしだった。

小脳の下にある白く写っている塊(クモ膜のう胞)は一部骨にまで食い込んでいるが、昨年と全く変わらず大きくなっていなかったので進行性ではないこと。もしも破れて出血しても心配なしだった。

昨年も指摘された脳血管の2か所、突き出ている所と膨らんでいる所も変化なしだった。血管の映像を回転させると、膨らんでいる所は血管の根元が膨らんでいるだけで動脈瘤というほどではないから気にしなくてもよいとのこと。

しかし、小さな脳梗塞のあとが3〜4か所あった。心当たりがある。それについても何も注意はなかったが、今後の予防法はいかに。

母の晩年に父が体調を壊したときに見た父の脳のMRI画像と似ていた。父の場合は白い点がいくつも数え切れないほどあり多発性脳梗塞だと記載されていた。

今振り返ると母や父に関わっていた頃は柔軟だった精神力が、60代になってから萎えてきているように思う。老年期を雄々しく生きるために若い頃からいっぱい蓄えてきたものが全く働かない。

積年の悩み事でストレスフルな状態が日常化してしまい、今では霊肉が夏枯れしてアップアップしている金魚のようだ。

しかし今、若い頃に読んだ『純粋理性批判』にあったカントの言葉を思い出した。

「軽快な鳩は、自由に空気中を飛び回って空気の抵抗を感じるので、真空の中ではもっとずっとうまく飛べると考えるかもしれない。しかし、もし空気がなければ、うまく飛べるどころかそもそも飛ぶこと自体が不可能になるであろう」。

そういえば、「ストレス」という言葉を発案したカナダの生理学者 ハンス・セリエは言っている。「ストレスは感謝によって解消される」と。

今一度、みことばの一字一句を脳に入れて聖霊の働きを信じて前進しなくてはならない。昨日クリスチャンのペンの同志からいただいた言葉にも心揺さぶられている。


「私たちは皆、神の像、またその似姿をもった神の被造物です、という一文に会いました。神の似姿とは何か。他の被造物と比べると”言葉”があることがわかります。

私は言葉を鍛えて、私たちの日常から神に知られた者として、何を感じ、何を考えているのか。(時を)与えられているこの今でも書かなければならないと考え始めています」。


IMG_9935.jpg今も毎朝10から12個も花を咲かせる朝顔。しかし、夏の盛りの花と違って花びらはしなしなで痛々しい。
この朝顔は昨朝の激しい雷雨に打たれてまもなくしぼんでしまったけれど、有終の輝きを放っていた姿を残せてよかった。

posted by 優子 at 22:00| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年09月07日

1970年代に会った梅田地下街の「サムじいさん」

先週から棚に突っ込んでいる印刷物を整理している。夏の終わりとはいえ暑い中、波に乗ってやり始めた整理だが、これまでとは違って「終活」の意識が働き始めた。

先週は文学関係の資料も3分の二ほど捨てた。
今日は、もう大学時代のノートも読まないだろうと数冊残して捨て、東大阪市の図書館協議会や国際文化協議会委員を務めていた時のものも殆ど捨てた。

捜していた久保田先生との写真や読書会の写真も出てきた。それぞれの関連するところに大切に直しているのに、それを忘れているからどうしようもない。

母の難病のファイルが出てきたときは胸が痛んだ。
私が生きている限り捨てたくないので、後始末してくれる娘たちに付箋を残した、「私が亡くなったら処分してね」と。


そして、是非ブログに記録しておきたい懐かしい掲載文と新聞記事がでてきた。それは大学を卒業した翌年の1975年に、たぶん初めて投稿した文章であり、幸運にも掲載されたものだ。

私はクリスチャンになるまでキリスト教書店がどこにあるのか知らなくて、阪急デパートの書籍売り場にある「ホーリーコーナー」(女子パウロ会が運営するカトリックの書店)に高校生の頃からよく訪ねていた。

カトリック生活.jpgその関係でカトリックのマガジン『カトリック生活』に投稿した時の記事である。中学校の講師をしていた時に書いたものだ。


初めての掲載文?.jpg



その頃、地下鉄御堂筋線の梅田の改札口を出て、左方向の阪急デパート(阪急電車)に向かう階段の手前に立っておられたおじいさんがいて、無言で穏やかな微笑みをたたえながらパラシュートを飛ばして立っておられた。

私はそのおじいさんから伝わってくる人柄に心打たれて書いたのであるが、そのおじいさんのことを知ったのは1986年の新聞記事だった。

IMG_9925.jpg

ああ、なんて懐かしいのだろう。それこそ30年ぶりに写真を見たが、おじいさんの顔を今もはっきり覚えている。

おじいさんは手作りの紙飛行機やパラシュートを売っていて、川上三郎さんと言い、カナダにも住んでいたことがあり「三郎」をもじって「サム」と名乗っていた。

梅田地下街へは1971年(私は大学2年)よりデビューし、「アクティ大阪」の完成を機に露天商の締め出しにより1984年1月に店じまいされた。

この記事が出た年の5月には90歳を迎えるとあったから、私が毎日見ていたのは、デビュー当時の77歳頃から82歳頃のことだった。梅田地下街を去る時、たくさんのファンが握手を求めに来たという。私もおじいさんに会うたびに声をかければよかった。

新聞記事には、「長生きしてくださいね」と言ってくださった人たちに恩返しがしたいと「服のしわ伸ばし器」を考案し特許を取られたことが書いてあった。

私が投稿した拙文には、「おじいさんに会うたびに自分自身をふりかえり、より美しい気持ちで生きたいという気持ちが強くこみ上げてきます。」と書いてあった。

それから40年。私も来月65歳になり、いよいよ高齢者の範疇に入る。
そして今、あの頃には想像だにしなかったパソコンでブログを書いている。まさに隔世の感を禁じ得ない。


posted by 優子 at 23:19| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年06月13日

M・Mさんとの「カイロス」の時

今日、「神の恵み ブログが取り持つ信仰の友」に記したM・Mさんが、大阪府堺市方面で集まりがあるとのことで大阪駅で待ち合わせた。今日が初対面である。(その時の頓馬ぶりも最後に記しておいた。)

ユキが学校から帰宅して独りで長い時間居るのを不安がるので、2時間半という短い時間だったが信仰の友との話は尽きず、まさに「カイロス」の時。Mさんは素晴らしい方だった! それしか言葉が浮かばない。

かつて久保田暁一先生が話されたことを想起させる。

「本当の出会いとは、その人に出会うことにより自分の生き方や思想に影響を与え、自分が変えられていくことであると思う。

佐伯先生との出会いもそうだった。以来ずっと交流が深められている稀有な人である。

形ではなく心の関係は深まるばかりで、それは共通するキリスト信仰によるが、それだけではなく生き方の共通点による。共に、常に今を生き生きと生きた事実にある」。


とにかくMさんは何でもできる有能な方で行動派。その点からいえば共通点どころか両極にある方だ。
しかも心の美しい成熟した方というのはメールのやり取りを通してわかっていたが、本当に神の恵みを真に知っておられる方だった。

これまでにもこのような友を何人か与えられ、また新たにMさんとの不思議な出会いを得て、私もまた久保田先生の如くMさんに感化されて互いに良きわざをなしていきたい。

手作りシフォンケーキ.jpg泊りがけで外出される前日にシフォンケーキを焼いてきてくださったMさん。
「幸悠くんの今日のおやつに」と持たせて下さった。その他にもたくさん!
私はお菓子も手芸も何も手作りできないので、いつもそうするようにデパートで買ったものに心を込めて用意した。

いただきます!.jpg
「ありがとう!
いただきます!」


教会の牧師と役員代表として来阪されたMさん。
Mさんの生き方、お働きを神さまが喜んでおられるのを強く感じた。

附記:大阪駅での失態。
Mさんとはまだ一度もお目にかかったことがないが、待ち合わせ場所は大阪駅中央改札口だから大丈夫だと安心していた。

しかしサンダーバード14号到着時間寸前に不安が生じた。私がこれまでずっと「中央改札口」と思っていた場所に「中央南改札口」と書いてあるのを見つけたのだ。

通行人のひとりが「ここが中央出口や」と連れの人に話している声が聞こえて安堵するも、列車は3分以上前に到着しているのに、髪の毛が長くて「白いブラウスに紺のスカート」のMさんらしい方がいない。

いよいよ心配になって「延着しているのでは」と駅員さんに尋ねていた時だった。後ろから声をかけられて振り返るとMさんだった!!!

私は今日まで中央改札口が2か所あるとは思ってもいなかった。見ると、その2メートル程度右横に改札口があり、「中央北改札口」と書いてあった。そこは南口と違って人はまばらだったが、私は携帯電話も持っていないので申し訳なくてならなかった。

これでは大阪人の面目も立たないではないか
それどころかMさんは金沢の人なのに、「人が多くて見つけられなかったら中央口から少しルクアイーレの方へ行って鉄道・観光案内所の前で待っていようかと思います。」とまで書いてくださっていたから驚いた。

私は「ルクアイーレ」も知らなくて、知子から昨夏マチ・クマに招待されてディナーに行ったあたりだと聞いて理解したのだが、アメリカへ移って10年になる次女が知っていて、しかもはるか昔のこととは言え、ここは6年間通学時に利用していたのに情けない。

Mさん、もう一度「ごめんなさい」。
さすがMさんはすぐに機転を利かせて動かれた! 私ならば、まず10分間ぐらいは立ち尽くしていたと思います。

これではワシントンへ行くのも自信がないはず、Mさんも感じておられたに違いない。

昼食後にはレストランに荷物を置き忘れて、店員さんにエレベータ前まで駆けつけてもらったり、頓馬ぶりを発揮した。やっぱり認知症の初期ではと不安がよぎる。


posted by 優子 at 23:48| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年05月31日

ワシントン行きD.C.行きは実現するか?!

5月18日の午後のことだった。「今日から27日までルーマニアとブルガリアへ行ってくる」と、突然親しい友から電話が入った。友は多忙な日々にあっても何度もご夫妻で海外旅行を重ねてこられた。そして27日夜に無事帰国された。

「私も行きたい! ワシントンへ行きたい!」
友の電話で背中を押されたように気持ちが大きく動いた。

1年ほど前から次女夫婦のマイルでビジネスクラスの往復チケットを2人分購入できるからと、ワシントン行きを誘ってくれており、いよいよ4月初めには返事を求められていたのに決心が付かなかった。

と言うのはパック旅行ではないのでD.C.の空港でのこと、特に帰りの空港内でのことが心配なのだ。連休明けから体力がなくて1〜2分で疲れてしまうので自信がない。

パスポートの有効期限はあと1年で切れる。この先は更新するつもりはなく海外に出るのはこれで最後と思っている。それでも決心がつきにくかった。ユキはテロを心配して「行ったらあかん!」と言った。

知子はユキと2013年6月にD.C.に行った時、この記事(←字の上をクリックしてください)にもあるように、入国する時は「ESTAによる認証、指紋や顔写真に加えて、たくさんの質問攻めにあってようやく解放された」と話していた。

日本に帰る時も非常にややこしいと言っていた。
ワシントンD.C.ダラス空港はミネソタと違って税関を通過したあとモノレールに乗るとのこと。しかもいくつもの乗り場に分かれているので降りる所を間違うと搭乗する飛行機に辿り着けないというのだ。

かなり英語の話せる知子がそういうのである。
2011年のミネソタ行きもすごく緊張したが、セントポール空港にはモノレールはなかった。それでも家を出る時の血圧は177に101だった。よく健康を守られたものだとしみじみ思う。

真智子は言う。
「空港は確かに迷路のようではあるけど、ミネソタでのママたちのサバイバル能力(←字の上をクリックしてください)があれば、時間に余裕を持てばいけるとは思うけどね」。

9_Baggage20Claim3.jpgああ懐かしい。あの時を思い出すと微笑んでしまう。
ミネアポリス・セントポール空港の待ち合わせ場所だったバッゲイジクライムにマチ・クマは居なくて「どうしよう」と思ったけれど、実に楽しかった。絶対に会えるという安心感があったから気持ちの余裕があった。

そして真智は17日のスカイプで次のように言った。
「例えばJR大阪駅から阪急電車の乗り場までの道順を説明するのは難しい。道というよりも多方面に行く道が入り混じっている広場を通って行くようなものだから、『そこまで行くと大体その前方に歩く歩道があるから』という程度の説明しかできない。
だから事前に聞いておかなくても、『阪急電車の乗り場はどう行けばいいですか?』と何度も聞くのがベストであり、『阪急電車』というキーワードだけでも通じるから、飛行機のチケットを見せて " I want to go here."と言えば何とかなるよ」。


「なるほど」と頷き、ライフラインを確保したような気持になった。しかもミネソタ行きの時と違って、出発前夜は睡眠導入剤を飲んで眠れば異常なほど血圧も上がらないだろうし・・・ああしかし、こんなことを書いているだけで脳内の血圧がブ〜〜〜ンと加わってくるような感じになる。

ワシントンD.C.-ダラス国際空港の施設案内を教えてくれていたが、臆病者で最初から諦めてしまう性格は未だ改善されず、そのサイトも今初めて開いた次第である。

ついに制限時間いっぱいになって20日の午前中に真智から電話があり、その電話で行くことに決めた。真智はすぐに電話でANAオフィスに電話してくれた。しかし、2ヶ月先の便なのに行きも帰りも既に7〜8名のキャンセル待ちだった。

滞在日数が2日短くなるが○○日ならばファーストクラスに乗せてくれるそうだが、それではニューヨーク行きがハードになる。5年前よりもかなり体力が低下しているから強行軍は無理だし、ビジネスで十分だから却下した。

そして、いろいろと調べてもらってキャンセル待ち1人の便に予約してくれた。6月中旬になっても席が空かないようならばキャンセルしてマチ・クマが帰国する方策にした。それ以上待っていては帰国するチケットも取れなくなってしまうからだ。

23日にかかりつけの内科に受診して半年に一度の血液検査をした。むくみがあるので腎臓と甲状腺も心配と検査項目が追加された。ワシントン行きのことも話した。結果が要注意の時は知らせていただくことになっているので、その心配はなかったようだ。

今となっては行きたい気持ちがの方が強いので「チケットが取れたよ!」というメールを待っているが、やっぱり不安や緊張感が交差する。

真智子夫婦は6月に結婚10周年を迎える。10周年を記念して7月にジャマイカへ行くそうだ。そう言えば、私たちは結婚40周年の年。
35年の時にミネソタへ行き、マチ・クマと一緒にサンフランシスコへ行った。マチ・クマの結婚5周年だった。今回の旅行が実現すれば私たちの40周年と次女夫婦の10周年の思い出になる。

私たちの予定に合わせて次女夫婦は休暇の3日間延長を申し出て許可されたそうだ。全ては神の御心のままに。

廊下にデスク.jpg
チャッピーがいた去年の5月最後の日。
今年も早明日から6月、まもなく梅雨に入る。

posted by 優子 at 21:40| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年03月15日

神の恵み ブログが取り持つ信仰の友

2008年の総務省調査によると、国内のブログ総数は1690万、このうち稼働しているブログは308万で、今はブログよりも「SNS」の方が隆盛になっているという。

ウィキペディアによれば、「ソーシャル・ネットワーキング・サービス(英: social networking service、SNS)とは、インターネット上の交流を通して社会的ネットワーク(ソーシャル・ネットワーク)を構築するサービスのこと」で、「人と人とのつながりを促進・サポートする、『コミュニティ型の会員制のサービス』」、スカイプやフェイスブック、ツイッター、ライン・・・のことである。

私はブログを書き始めてから11年目になるが、これからも鞍替えすることはない。ブログが性分に合い、何よりもブログという道具は私の要望を満たす。

これまでにブログが結ぶ不思議な出会いがあった。
娘たちの中学校の先生が『メメントドミニ』を読まれて連絡を取ってくださったこと。もうお1人は、ちょうど1年前に見ず知らずの方が連絡を取ってくださって知己を得たことだ。共に次女が滞在するアメリカ経由での出会いだった。


今改めて次女から転送された昨年のメールを調べると、Mさんが私に連絡を取ろうとして真智子のHPにメールしてくださったのが2015年2月23日で、真智子が返信したのは3月17日だった。その出会いの不思議を過去ログ2015年4月9日に記している。

まず何よりもその女性との出会いが不思議だった!
その方は『メメントドミニ』を愛読してくださっていたクリスチャン女性で、私のブログにコメント欄がないからと「お気に入りリンク」にあるミネソタ大学大学院在籍時代の真智子のHPにメールしてくださった。

ところが次女はIMF(ワシントン)に移ってからめったにそのHPをチェックしないものだから、メールを発見したのは1ヶ月ほど経ってからのこと。次女はすぐにその方のメールを転送してくれ、私は嬉しくて早速メールを差し上げたのだが直ぐにお返事がなかった。

その時私が大怪我をした直後だったのでお心遣いくださり、返信しないでリンク先にある美濃紙業宛にお見舞い状を送ってくださったのである。
※2016年3月17日追記:斜体の部分は私の思い違いで、私のメールが届いていなかったのだ。
そこで「どうしても連絡を取りたかった私はメールがだめならせめてお見舞いを・・・と思って別のルートを探しただけだったのです。それほど、私は優子さんに惹かれるものがあったということなんでしょうね。」と教えてくださった。
いずれにしても本当に嬉しく感謝でいっぱいです。

というわけで、メールはアメリカ経由、詳しく言うならば、ミネソタ、ワシントン経由で私の所に届いたのである。どんなに感激したことか! 

その後、Mさんとの出会いは深まっていき、気がつけば互いに気持ちを分かち合える知己になっていた。
とても聡明で細やかな配慮に富む優しい方。お嬢さんがおられるシドニーへも思い立ったら数日後に出発される行動派。お料理まで気軽にやってのけられ、全てが私とは正反対の女性である。(^0^)

千里さんや文香さん(『生かされて』の著者)、また『希望の風』さんと重なるところ大である。新たに信仰の友を与えられて、他にもあの方この方と、たくさんの良き友を与えられていることを神さまに感謝している。

Mさんが所属されている日本基督教団・金沢元町教会は大きな教会だ。役員として教会のために労しておられる。金沢元町教会では「役員」とは呼ばず「長老」と呼ぶそうだ。
先日2016年度の主題聖句を教えていただいたが、今の私には涙が出るほど素晴らしい教会だと思った。

先日、Mさんがご自身のブログ・『イエスと共に』の3月6日の記事でとても嬉しいことを書いてくださっているので、ここに転載させていただきたい。

2016年 03月 06日
信仰の友
パソコン上で決まって訪れるブログがある。写真集「流れのほとり」 と 「メメント ド ミニ」。そして犬のブログ。だだちゃんとアスカとセナとエビスとかぼすちゃんMaruちゃん。ほとんど毎日おじゃましている。でも個人的に連絡を取り合うということはほとんどしない。遠くから見つめている。

でもひとり「メメント ド ミニ」http://yukochappy.seesaa.net/のFさんとはこんなにも親しく何でもお話できるかしら?というほど意気投合してよく連絡を取り合う。

彼女は最近では日本クリスチャン・ペンクラブ 関西ブロックで「証し文集 第3号 種を蒔く」の編集員として活躍した。この本が私が思っていたものよりもずっとすばらしいものだった。優秀な二人の娘さんも素敵なクリスチャンで、ご主人も最近洗礼を受けられた。

彼女のブログの幅は広く、深い。そのブログにはコメント欄を設けていないので、彼女にどうしてもお手紙を書きたくなって私はちょっと困った。でもなんとか連絡がとれた。それが2015年の3月ころだったと思う。まだ一年程というのが驚きだ。もう十年前からの友人だったような気がする。

彼女から教えられることは本当に多い。
最近一番ショックだったのは「長尾巻牧師」のことである。

長尾巻牧師は私の所属する金沢元町教会の初代と四代目牧師であるけれども、彼女から賀川豊彦と長尾巻の関係を教えられたのである。私はそこまで知らなかった。

彼女が遠藤周作の『沈黙』 について書いていたので「私の教会の創立にもキリシタン迫害が関係あります。長崎から送られたキリシタンを取り締まる奉行であった長尾八之門がキリシタンに惹かれてクリスチャンになったのです。その子の長尾巻が初代牧師です」とお知らせしたら、彼女はもうずっと前から長尾巻を知っていたのである。

それで今、私は長尾巻にとても関心がある。私の教会の創立牧師であるので、彼女よりは詳しくなりたい。先日は教会で「紙芝居 長尾巻」を読んだ。きょうはいろいろ資料を教えてもらって借りてきた。これをもう少しわかりやすくまとめて教会のホームページに掲載したいと思ってる。

このような信仰の友が与えられたことを本当に感謝している。信仰の友が私の信仰を強くしてくれるように感じている。

私もまた友のブログを読ませていただきながら信仰から信仰へと導かれてきた。Mさんからも既に多くのことを教えられ気づかされているので、このような友を紹介してくださった神さまの愛とご配慮に感謝している。

それにしても300万以上も存在するブログの中から生涯の友と出会えたのは偶然ではなく、その背後に神の摂理があると受け止めている。

1年前、『生かされて』の文香さんが、Mさんとのことを「ブログを通して神様が働いてくださっていることがはっきりわかります。」とメールしてくださったことも忘れられない。

そして思う。
昨年の今頃、特に怪我直後の1ヶ月間はチャッピーはどうしていたんだろう。あの時、肩の腱板断裂だけではなく左右の肋骨も強打していたので、寝起きするのも拷問のようで一日中強度の苦痛に耐えていたから。
これがちょうどその頃の写真だ。
これは2015年4月1日のチャッピー。
悲しそうなチャッピー.jpg
ごめんね、チャッピー
この7ヶ月後に死んでしまったチャッピー。
若い頃と違っていつも憂いを含んだ目をしていたね。ひとりぼっちでどんなに孤独だっただろうか・・・

posted by 優子 at 21:11| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年01月13日

リハビリの帰り道、真冬の景色にカラスと菜の花

昨年3月13日に右肩の腱を断裂し、その2か月後からリハビリを受けている。平均して月3回しか予約を取ることができないので、今年初めての昨日は23回目だった。

私が受けているリハビリは理学療法士自らの手による運動療法で、まず患部を10分間ホットパックで温めてからベッドに横になって受ける。
最初は医師に言われるままにホットパックに続いて電気を流したが、非常に不快感が強く血圧に異常を感じたのでやっていない。

リハビリのカルテには「ROM」「伸張」「筋力」に印が入っている。
ネットで検索すると「ROM」とは「Range of motion」の略で、「関節可動域」の意味だという。そして、伸張(ストレッチ)して筋力強化運動の3種類を受ける。
時間にして30分、治療費は730円、これに医師の診察を受けても同額であるが、今では3ヵ月に一度受診する程度だ。

今回は3週間もリハビリが空いたので、それで調子が良ければ今回で終わりにして様子を見ようかと思ったが、やはり受けた後は非常に楽になったので2月いっぱい続けようと思う。

大みそかにした換気扇の掃除も、あのような怪我をしたとは思えないほど平気だった。しかし、いつも療法士さんに指摘されるように、今も肩の関節を開くことができないので「バンザイ」ができない。
また腕を高く上げようとする時、胸の筋肉で助けようとするので、そのうち右鎖骨付近の痛みが出てひどい肩こりにもなる。

これが回復の限界なのかもしれないが、まだ痛みがあるので回復の可能性もあるだろうとのことだ。このような怪我をすると痛みのために体がいびつな形で固まってしまう人が多いそうだが、幸い私はなっていないと言われて嬉しかった。

7ヶ月過ぎた頃から右側に寝返りもできるようになり、きっとその頃からユキを見送る時も右手を振っていたのだと思う。腕は90度しか上がっていなくても。

怪我をした当初どうなることかと思ったが、こんなに回復して本当に感謝している。どの病気も怪我もみんなこのようであればいいのにと、いつも病床にある方々を思う。


リハビリの帰りはパン屋さんという大きな誘惑が待ち受けている。昼食のサンドイッチ(高脂血症なのに卵サンドが大好物)やユキのおやつだけではなく、歩いたご褒美にとパイなど甘い物を買ってしまう。これではせっかく往復1時間歩いても何にもならない。

そして、再び祈りながら、いろんなことを神さまと対話しながら歩く。それも楽しみの一つでもある。クリスマスの前、朝日を受けてキラキラと葉を落としていた木々もすっかり裸になっていた。

リハビリの帰り.jpg

そこにカラスが鳴きながら飛んできて枝にとまった。

カラス君.jpg「おーい、カラス君よ!
いつも悪者あつかいにされて気の毒。カラスだって精一杯生きているんだから嫌ったらかわいそう。
これから友だちになってねー。
元気で長生きするんだよー」


カラスにも思いがいくのもチャッピーのおかげ。ありがとう。

数日前に特派員がワシントンも4日から寒くなったと言っていたが、こちらも新学期が始まった日から一段と寒くなった。それでもワシントンの比ではないが、昨日の最高気温も8度しか上がらなかった。

それでも風がなかったので、初めてリハビリの帰りに少し遠回りしてチャッピーと歩いた砂利道に入って行った。

鮮やかな真冬の黄色.jpg
これは菜の花? 何て鮮やかな黄色だろう!

あるいは何かアブラナ科の植物が長けたあとの花なのだろうか、あの時のようにやっぱり鮮やかに咲いていた。

私はこの景色を見たくて砂利道に入った。
真冬の黄色.jpg

チャッピーとよく歩いたのはユキが来る2009年3月までだったから、もう7年も前のことになる。遠くに見える柵の向こうには池があり、あの頃この土手もよく歩いたね、チャッピー。
チャッピーのおかげでこの地も私の故郷になっていた、第三の故郷に。

チャッピーが居なくなって50日。


寒さはもっと厳しくなって週明けまで続くそうだ。

posted by 優子 at 23:21| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年01月01日

主の2016年開く 冬晴れの元旦

主の2016年 明けましておめでとうございます。
2016冬ばれの元旦.jpg

昨年は雪が降る寒い元旦でしたが、今年は空は真っ青で穏やかな冬晴れでした。

新しい1年の幕が明けました。
そして、2006年のお正月に次女にブログを開設してもらって、早いものでちょうど10年が過ぎました。その間に公私ともに状況は変化し、日本や世界は混沌を深めるばかりです。

この年も行く先にどんなことが待ち受けているのかわかりませんが、全てのことを神に委ねて、今まで以上に熱心に主と共に在りたいと思います。

「人の心には多くの計画がある。
しかし主のはかりごとだけが成る」。
 
やはり新しい年の初めはこの聖句を想います。

年賀状2016.jpgこれが2016年度の年賀状です。
写真は昨春3月31日のチャッピーと孫・幸悠(ゆきひさ)です。

当地に引っ越して今年で17回目のお正月ですが、思い起こせば1回目のお正月から常にチャッピーが一緒でしたから、初めてチャッピーがいないお正月です。


そして、これが知子とユキの年賀状です。
知子2016年賀状.jpg


次女夫婦が年末年始に帰国しない時はいつもしているように、今年も元旦の朝に(今日は11時から)2時間余りスカイプしました。ワシントンはまだ大みそかの夜でしたが、日本時間に合わせて新年の挨拶を交わしました。

現在私たちが所属している教会は元旦礼拝はないのですが、スカイプを通して新年を迎えることができたのも神さまのおかげと新年の恵みをいただきました。

その次女とのやりとりは是非次のページに記したいと思います。
特に今年は私たちが次女を通して新年の恵みを受けるばかりでした。

午後は何年か前まで元旦のチャッピーの散歩はいつも家族そろって歩いたように、元旦に、何よりも久々に家族そろって散歩に出ました。これこそが天使犬・チャッピーが残していってくれたものです。


私も久しぶりに歩きました。チャッピーと一緒に歩いた道を。
まずは30分ほど歩いてコンビニへ行き年賀状を30枚買い足して、そのあとはチャッピーも知らない初めての道をユキに案内されて、1時間半、1万歩きました。

雪降る元旦@.jpg2015年元旦は雪降る寒い元旦でしたから、チャッピーにも今日の暖かい陽射しを浴びさせてあげたかったです。


これからチャッピーのいない日々が始まります。
特に今年は四季を通じて何を見てもチャッピーを思い出し、時には涙を流すでしょうが、それも神の恵みです。

私も新たなチャレンジをしていこうと思います。
神さまからいただいたそれぞれの新しいキャンバスに、今年はどんな絵を描いていくのでしょう。

人生に真摯に向き合える人は幸いです。喜びだけではなく痛みをこそ分かち合い励まし合って人生を渡っていきたいものです。

互いに神さまのお導きに気づいて導かれていく者でありますように、共に新しい歩みを始めましょう。


posted by 優子 at 23:50| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする