2017年11月04日

主イエス・キリストの希望と愛の力を

ルカによる福音書 6章31節〜35節:
6:31 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。
6:32 自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。
6:33 自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。
6:34 また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

エペソ人への手紙 4章30節〜32節:
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。
4:31 すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。
4:32 互いに情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい。
クリスチャンとはキリストに生かされている者、キリストの十字架によって罪赦され愛されていることを忘れないようにと思う。悲しみや試練の中を通っておられる方々が、神さまによる希望と愛の力で強くされますように祈ります。
posted by 優子 at 11:07| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年11月02日

66歳を始む 「神さまが植えてくださったところで咲く」

今改めて「神さまが植えてくださった場所で咲く」(プロテスタントの神学者 ラインホールド・ニーバーの詩)の思いを新たにして66歳の旅路を歩き始めた。


IMG_8656.jpg 神さまがあなたを植えてくださったところで咲きなさい。

諦めるよりむしろベストを尽くして

花のように咲くのです。


花のように咲くということは

 幸せに生きると言うことです。

あなたの喜びが他の人々を幸せにします。

あなたの笑顔は拡がっていきます。


あなたが幸せであり笑顔を示せば、

 他の人々も幸せを知り幸せになるでしょう。


神さまはあなたを特別な場所にお植えになりました。

あなたがそのことを知って人々に分かち合えば

あなたの人柄は輝くでしょう。

私たちが「咲く」と言っているのは、その「輝き」のことなのです。


神さまが私を植えてくださった場所で咲く時、

私の命は人生の庭の美しい花になるのです。

神さまが植えてくださった場所で咲きなさい。


  "Bloom where God has planted you."
             Reinhold Niebuhr

Please bloom where God has placed you.
Rather than give up, make the best of your life and bloom like a flower.
To bloom is to live happily.
Let your joy make others happy.
Your smile is contagious.
When you are happy and show it by your smile
Others will know it and are happy too.
God has planted you in a special place.
If you know it share it with others, your personality will shine.
It is that "shine" which we call "Bloom"
When I bloom in the place
Where God has placed me
My life becomes a beautiful flower in the garden of life.
Bloom where God has planted you


渡辺和子さんはこんなことも加筆されている。


「咲く」ということは

他人の求めに喜んで応じ

自分にとって ありがたくない人にも

決して嫌な顔 退屈気な態度を

見せないで生きるということなのです。


この言葉は具体的でわかりやすく励ましになっていたが、ここにアクセントをつけて読むと形骸化し虚構の生き方に迷い出てしまう危うさを感じる。現況が厳しすぎる人にはそうだと思う。

Q.jpg附記:午後12時半、真智より電話あり。
ワシントンは深夜なので早く切るつもりが1時間にもなっていた。澱(おり)のように溜まっていた気持ちが洗い流されたようで心が柔らかくなった。ありがとう!(上掲の詩、訳が間違っていたら訂正しておいてね)

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posted by 優子 at 18:17| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年03月27日

すべては摂理の道程なり

イソヒヨドリ.jpgこれは2月12日の夕方にユキが撮ったイソヒヨドリ。美しい鳴き声はここをクリック! 
小鳥のように見えるが、名前のとおりヒヨドリの大きさだという。寒くても鳥たちは今日も元気に飛んでいた。


IMG_3172.jpg以上は2月中旬頃に書いたものであり、以下もまた同日に書いていたものである。これは私に洗礼を授けてくださった敬愛する小山恒雄牧師の著書『恩寵の選び』より、目につくまま書いていたものである。

私は精神的苦痛の耐え難き時、魂に酸素吸入をあてがうような思いで書写することがある。この時もまたそうだった。

人生はむずかしい相手とのやり取りの連続である。そして、その問題が困難であればあるほど、神からの可能性も大きい。人間が自分の力に行き詰ったところから、神に突破口が生まれる。

「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」。  
           (ヤコブの手紙 1章12節)

人は自分の弱さを認めず必要を自覚しないゆえに神に近づかない。主のみ前に自己が打ち砕かれてこそ、人は神の手に陥り、へりくだり、神に近づけられるのである。

「信じることが神の業である」。(ヨハネ伝・6章29節)
「私たちの弱さ」を告白する恵み。

信じて救われるのは、瞬間的な神の恵みの御業と決断によるが、信じぬくことは一生一代の大事業であり、そこには山あり谷ありの生活がある。しかし、聖書は試練と忍耐の祝福を確約している。

プラス×プラス=プラスなれば、マイナス×マイナス=同じくプラスである。これは近視眼的なご都合主義の信仰ではなく、救われ、選ばれた神の子たちが栄光のみ子の肖像にまで変えられていくための、当然経なければならない摂理の道程である。

私たちの信仰生涯においても有形無形の危険の中で、一触即発というような中を幾度主の守りによって乗り越えることができたであろうか。


「わが魂よ、主をほめよ。
そのすべての恵みを心にとめよ」。

              (詩篇103・11)

「望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき
 数えてみよ主の恵み 汝が心は安きを得ん」。

              (新聖歌172)

主の恵みは数えがたい。そして、それら一切の恵みの源泉は、十字架、復活、昇天、そして大権の右に即位された栄光の主にある。そして彼こそ常にタイムリーな助けとなってくださる恵みの み座である。

これさえ見ておれば、信仰生涯に行きづまりはない。
これさえ開かれておるならば、いかなる時にも天与の祝福は途絶えることはない。ハレルヤ!

人間は強さだけでは円満な成熟を遂げていくことはできない。どこかで、その行き詰まりを感じなくてはならない。自分の弱さや無力さを感じさせてくれるのが35歳から40代であり、ライフサイクルで言えば、まさに太陽が中天に昇ろうとしている夏から晩夏に向かう過渡期である。

今改めて私もまたそうであったと振り返る。そして、年齢を重ねれば重ねるほど自分の弱さがわかる。人間の限界と無力さを。

しかし行き詰まることは良いことだ。なぜならば行き詰まりこそが良き道への突破口となるからだ。

にもかかわらず、行き詰まっているのに他者や周囲にのみ目を向け続ける人間の頑なさ。自分の弱さの内的体験を通じてこそ他者との真の関係を打ち立てることができ、そこに神と真に出会う道がある。

言葉ではうまく表現できないが、私は今、常に神を感じている。これまでの体験から一つの実を心の中に結ばせようとしてくださっているような気がする。

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「ブルンナー読書会」も半年ぶりに再開の見通しがつき日程を調整中。
イソヒヨドリ。
先週末、京セラドームに行く途中にも見つけて写真を撮っていた。


posted by 優子 at 22:28| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年03月04日

知子とユキは神戸港クルーズに、私たち夫婦は道明寺へ

一方、私たち夫婦は自動車で20分ほどの所にある大阪府藤井寺の道明寺へ出かけた。桜餅の道明寺粉で有名な名前の発祥の地である。一度は行きたいと思っていたので、梅の花が満開と出ていたのでそれを目当てに出かけた。

正しくは道明寺天満宮といい、神仏習合の名称だったので驚いた。

今調べてみると明治5年の神仏分離により、天満宮境内から約50メートル西の現在地に移転したというが、出入り自由のためかパンフレットも説明文も掲示されていなかったので、何も分からなかった。

天満宮おきまりの「撫で牛」があったので、どうやら私たちは天満宮だけで道明寺には行かないで帰って来たようだ。 

道明寺天満宮.jpg

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道明寺粉は、昔の保存食だった糒(ほしいい)を砕いたものだった。道明寺の糒は有名で豊臣秀吉からも礼状が届くほどだったという。

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境内では「猿回し」をやっていた。これは2歳のニホンザル。「猿回し」を直に見たのは初めてかもしれない。私はしばらくして独りで境内を散策した。

地域の人々による大正琴の演奏で懐かしいメロディーが聞こえ、50年も前の世界に舞い降りたような錯覚を覚えた。大正琴の音色はとても心地よく、夫もリラックスしていたようだ。

梅園は300円払って入った。こじんまりしていたが、約80種800本の梅があり「大阪みどりの百選」に選ばれているそうだ。

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道明寺@.jpg

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一つひとつの花に目をやると
一生懸命咲いている花の気持ちと気力が
伝わって来るようだった


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道明寺B.jpg

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30分足らずで梅園をあとに奈良県に戻って遅い昼食を摂り、夫としばらく話し合った。今日はそのための外出でもあった。寡黙な夫が話し続けた。夫の思いも理解でき、客観的に見ていたことに安堵した。

しかし、夫の最たる弱さの岩盤はまだまだ固い。人は皆そうなのだけれど、自分の弱さを言語化できるかどうかは大きな関門であり、人間は本当に自我が強く関門を通過した人は少ないのだろうが。

それでも私は主に在って希望をもって夫婦の総仕上げに励みたい。それをしないでは死ぬに死ねない。2月半ばからその思いで励んでいる。

IMG_2674.jpgこれは昨日撮った植木鉢の花。
自らの咲く季節に備えて厳冬のうちに、いつしか芽を出し、蕾を膨らませて、開花した。


これも昨日写した近隣宅の梅の花。
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道明寺の有名な梅を見てきた夜に、身近に咲いているこの写真を見て、森 有正が口を酸っぱくして言っている「経験と体験」について想起し、少し理解が深まったように感じた。日本人は何事も全部体験の対象にしているということを!

「日本人は出かける前に、観光案内書や写真などでもって知っているのと同じ姿を現地で見つけ出せば、それで満足して帰ってくる。

日本の自然というのは、全部が名所の集まりだ。だからみんな名所を見に行くのであって、自然なんか見に行きはしない。

つまり全部体験の対象になっていて、経験の対象になっていないということだ。経験の対象はいつも無記名だ。これは重要なことで、固有名詞を持ったものでも、経験の中では無記名の要素に分解されてしまう」。


期待していた今日の梅園は体験的にでしかなかったが、この無名の近隣の梅の花を見て、私の中で僅かながらではあっても深みを感じられたことに大きな喜びを感じた。

そして名所の梅の花にも、一つひとつの花から一生懸命咲いている花の気持ちと気力を感じることができたことも大きな喜びだ。

それは森 有正が言うところの、人間の知覚で覆い尽くされた梅園に裸の自然を見る力が養われていたということであり、物の深みや注意力の深まりや、これまで認識し経験したものが自らの中に蓄積されていたということだから。


posted by 優子 at 23:59| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年01月03日

私たちが教会を離れている理由

私は常に「忍耐している時は愛はない」、「愛において真理を語れ」ということを一つの指針にしているが、私たちがなぜ教会を離れて家で礼拝を守っているのか、それを語る備えがなされ、もはやそのことを語らずに進むことはできないので述懐したい。

無牧(牧師不在)だった教会に昨春のイースター礼拝より牧師が招聘された。招聘決定に先立って、2015年12月27日の最終礼拝でその牧師をお招きして説教を聴く機会を設けた。

ところが、それは驚くべきものだった。

「神は間違いを犯す、イエス・キリストも間違う」と、耳を疑うべきことを何度も繰り返されたのだ。このような話は世界広しと言えどもキリスト教会において、時代を超えて前代未聞の内容であろう。

この教会に私たち家族と全く同じ見解の信徒が一人おられたことは救いである。その方は役員会に陪席して異議を述べ、「信徒説教で支えていきたい」と共に労する姿勢も表明されたが、代務の牧師や役員たちの魂には届かず招聘することに決まった。反対した役員は私一人だけだった。

総会でも私たちは共に会衆に訴えた。その時、役員の一人が「教会存続のために役員は(教会に残る)責任がある」と私を批判された。それは私も最終的に悩んだことだった。

しかし、そもそも信仰対象である神概念を全く異にする教会で、私が責務を続けるという行為の意味は何か。せめてあと2人でも反対する人がいれば状況は大きく変わり、その中で労することは大きな意味がある。

しかしながら、この状況下で残るというのは異教の神に仕えることであり、私自身のためにバウンダリーズ(境界線)を引くべきが賢明。

また、孫の人格形成への悪影響は是非とも避けねばならない。もしも私の選択が間違っていたとしても、神さまからその裁きをも受ける覚悟で決断した。

こういうわけで2015年末より2016年2月上旬まで、神の導きを乞うために祈りつつ思いめぐらした末に導き出された答えは、総会でも合意されたならば教会を離れるという結論だった。

敬愛する信仰の先輩の意見を聴き、また、自らの判断に至った段階で2名の牧師にも相談した。共に全く同じ見解を示された。

総会でも審議したが反対者は私たち4名だけで、大多数の賛成を得て牧師招聘が決まった。

この人たちはいったい何を信じ、どんな神に祈っているのだろうか。昨春、教会のために祈っている時、涙なくして祈ることができなかった。神さまの御心を痛めていることが私の痛みである。

あの教会は賀川豊彦の献金により建てられた教会である。神さまは教会を正してくださると信じる。私は神に期待して、時が来れば神の介入により教会が正されることを信じている。

私たちが教会を離れたわけを語ることを急がなかったのは、キリストを遠ざけることになるのではないかと懸念したからだ。

しかし例えば、警察官が犯罪を犯したからといって警察は不要だということにはならないのと同様に、驚くべきことを言う牧師がいるからといって「だから教会は、キリスト教は・・」ということにはならない。

問題はそういうことではない。要はいかに主体的で自立した生き方が大切であるかということだ。そして、自らの限界を知って生きることの大切さをも思い知るのである。

その受け止めがあって初めて、神の御心と自分自身の意志を見分けることができるのではないか。自己洞察できる人ならば深く読み込んでくださると思う。

この教会は病んでいる。自浄作用もできない状態だ。人間はかくも間違いをおかしやすい存在なのであるが、今もまた歩みの途上であることを忘れてはならない。

このことを書くかどうか悩みぬいた末の最終段階で、イエス・キリストならばどうされるだろうかと思い巡らし、福音書に残されているイエスさまが言われたことに集中して記述する判断に至った。

私は教会に失望したが、神に失望することのない確かな信仰が養われていたことを感謝している。現況の教会には望みをもってはいないが、神がどのようになさるのか祈りつつ待っている。その思いは最初から変わらない。

つまり神が教会を正しく再建されるために、私たちを召し出されるならば喜んで戻ろうと思う。必ず神の時が備えられていると信じて「家の教会」を起ち上げた。

クリスチャンにとってクリスチャンの交わりは大切だ。私たちが偏狭で間違った信仰に陥らないように、神はずっと以前より、また新たに祈りの友を与えてくださり、祈り合い、交わりを与えられていることを感謝している。

無牧の時に代務してくださった牧師の一人にも相談したが、最後に言われたことは、「意見の食い違いや宗教観の違いがありますが、要は神さま、要はキリストであり、その基本のところを踏まえて教会形成していただきたいと思います」。

しかし、問題はそれにさえ先立って、「神の概念」が違っているのでどうしようもない。そのことをこそ相談したではないか!

こんな最悪なことの中にも神は良いことをしてくださる方である。このことを通して私たちと同じ価値判断で教会を離れた方と個人的出会いへと導かれた。

クリスチャン同志の交わりのために、そして、学びと霊的必要のために始まったのが「ブルンナー読書会」である。その方を学びのリーダーとして回を重ねている。

私がブログを書いている時は、全能の神さまの御前で神さまと二人っきりの交わりの時であるので、デボーションに準ずる時間である。

常に神さまにアカウンタビリティを取りながら書いている。「アカウンタビリティ」とは会計や経済学から出た用語ではなく聖書の言葉だ。

即ち、かつて日本銀行総裁を務めていた速水 優が語っていたように、「他人がなんと言おうと、自分のしていることを神さまに申し開きができる」と思うことを書いており、神の前で説明責任とれるとの思いを与えられて「我が心の旅路」としてここに記すことにした。

これを書き終えるにあたり、私は今、イエスさまのみことばが脳裏に浮かんだ。

「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる」。
           (マタイによる福音書 15章8・9節)

なお「バウンダリーズ」とは、自分の責任と他人の責任の領域の境界線のことである。


posted by 優子 at 23:10| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年12月31日

渡辺和子さん召天

今朝目が覚めた時、渡辺和子さんの召天を報じていた。一度もお目にかかったことのない方であるが、書物を通して大きな影響を受けた方であるので、「とうとう逝かれたか・・・よく生た人だった」と、しばらく黙想していた。

渡辺和子さんの本は10冊以上買ったと思う。もう20年ほど前のことだと思うが、お手紙を差し上げた時に、あの多忙な方からお返事が届いたのには驚いた。

大切に私の終わりの日まで取っておけばよかったが、残念なことに数年前に落手した手紙を著名な人からのお手紙も廃棄してしまった。

例えば、大学時代に新選組に夢中になっていた時、医師であり沖田総司研究家・歴史作家の森 満喜子さんとの多数の手紙、大学卒業時に板坂 元氏(ハーバード大学で日本文学を講じておられた時)の『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』を読んで5〜6回交信した手紙や、永井隆さんの次女・筒井茅乃さんから知子にいただいた返信など・・・他にもあったかもしれない。

渡辺和子さんは渡辺 錠太郎(教育総監・陸軍大将)の次女で、父を2.26事件で亡くしている。目の前で。そのような過酷な経験をした渡辺さんは、人間は神のように赦すことができるだろうか。本当に赦すことができるのは神さまだけだと思うと、正直に自己の内面を吐露するキリスト者であったので惹かれた。

IMG_1640.jpgかつてキリスト教雑誌『百万人の福音』のコラムに、渡辺和子さんについて書いた拙文を掲載していただいたことがある。
それから30年経ったことを思うと万感の思いがする。私に影響を与えた忘れられない一人である。


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2016年もあと5分、新年なもう一度若い頃のように情熱を奮い立たせて、「よく生きた」と思える日々を重ねていきたい。

過ぐる2016年に感謝して、意欲にあふれて2017年を迎えます。共に良き日々を重ねてまいりましょう!
お一人おひとりに神さまのお導きと祝福をお祈りし、どうぞよろしくお願い申し上げます。



posted by 優子 at 23:52| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年12月17日

「ねこは、はじめて なきました。ねこは 100万回も なきました」。 −結婚40周年の朝に―

毎晩NHKラジオ『深夜便』を聞きながら眠るようになったのは、入院していた母の病室に週2回泊まっていた時からだ。

簡易ベッドを拡げて横になった時、小さなラジオを耳元にぴったりつけて聞いていた。「ソフィーの世界」がベストセラーになっていた頃だ。耳元で聞こえる声が心地よく、以来21年経った今も手放せなくなっている。

いつも10分もしないうちに眠ってしまうので、就寝中の脳には悪いと思いながらもラジオは朝までつけたままだ。

IMG_1443.jpg今朝4時40分すぎ、トイレで目が覚めた時、4時台の「こころの時代」で『100万回生きたねこ』を朗読していた。
佐野洋子さんが書いた100万回死んで100万回生きたネコの話だ。


主人公のトラ猫は王様に飼われた時も王様なんか大嫌いだった。船乗りの猫になった時も、サーカスの手品使い、どろぼう、ひとりぼっちのおばあさん、小さな女の子など、いろんな人に飼われて何度も死んだ。

猫が死ぬたびに飼い主たちは猫の死を悲しんだが、猫は死ぬのなんか平気だった。
ある時、野良猫になって、猫は初めて誰の猫でもない自分の猫になった。猫は誰よりも自分が好きだった。


トラ猫は寄ってくる雌猫に、「おれは、100万回も死んだんだぜ!」と自慢するのだが、一匹だけ見向きもしない白い美しい猫がいて、その猫のそばにいるようになった。そして、かわいい子猫がいっぱい生まれた。

トラ猫はもう決して「俺は100万回も死んだんだぜ!」とは言わなかった。そして、白い猫と子猫たちが自分よりも好きになった。

子猫たちがりっぱな野良猫になって巣立っていった時、白い猫は少しおばあさんになっていた。

「ある日、白いねこは、ねこの となりで、しずかに うごかなく なって いました」。

その時、トラ猫は初めてないた。

「夜になって、朝になって、また 夜になって、朝になって、ねこは 100万回も なきました。
朝になって、夜になって、ある日の お昼に、ねこは なきやみました。
ねこは、白いねこの となりで、しずかに うごかなくなりました」。


ラジオから聞こえる朗読が聞こえた瞬間、今日は結婚40周年であることを思い出した。それがどのような関係があるのかと気になりながら最後まで耳を澄ませて聴き入った。

トラ猫は誰かに飼われていた時は何度も死んで何度も生き返ったが、悲しくも嬉しくもなかった。しかし、自分の人生を主体的に生きることで愛を知り、自分よりも大切な存在ができて愛おしみ、猫が自分らしく個性的に生きることで、ようやく充実した日々になった。そして、人生を全うして安らかな死を迎えた。


私は子育てをしながら、それまで全く関心のなかった子どもの本に眼が開かれていった。この本を1982年夏に購入しているので、長女が4歳8ヶ月、次女が2歳2ヶ月の頃だった。

この絵本は子どもの意識や無意識が揺さぶられる一冊であり、ユキ(孫)にも何度も読み聞かせた本である。先ほど家族が揃うリビングルームでユキに久々に読んだ。

やっぱり最後は涙が溢れて声が詰まり、読み終わった時はしばらく涙を拭かねばならなかった。私の感受性は衰退してはいなかった。

IMG_1442.jpg小さくならば掲載を許してもらえるだろうか。
主人公のトラ猫が小さくなった白い猫を抱いて泣く絵は圧巻だ。この絵を見て何も感じない人がいるのだろうか。

苦労が多く涙をふきながらの日々であろうとも、心を込めて精いっぱい生きる。実はそのような時こそが充実した本当に生きた時間なのだ。

子どもが幼い時に、そういう時間を経験させてやることが親のしてやれる最高の教育だと思う。

だからこそ、今のユキには遊びを通して充実した時を経験させてやりたい。人生のどの段階においても「今しなければならないこと」と「今しかできないこと」を心にとめながら長い時間をかけて育んでいくのだ。 

親や家族が、もちろん教師も子供の周囲にいる大人たちが子どもと向き合って、じっくり話を聴くならば、子どもは必ずや他者の話にも耳を傾け、自己に目を向けていくだろう。

こういう内容になるとエンドレスになるので強制終了しよう。
しかも、今日はこのようなことを書こうとしたのではない。

結婚40年を迎えた今、死んでしまった白い猫を抱いて泣き続けるトラ猫に万感胸に迫るものを書きたかった。相手がどうであれ、これからも自分らしく生きていくために。


posted by 優子 at 13:04| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年12月09日

昨夜の目まいは急性期脳梗塞ではなく三半規管だった 

昨夜入浴中に激しい目まいに襲われた。
私はいつも体を洗って(体を洗ってから入るのが我が家の入浴ルール)、お湯につかりながら歯みがきして上がろうとした時、違和感を感じて慎重に椅子に座った。

まるで台風で木が大きくゆすぶられているように体が左右前後にグラグラ揺れて倒れそうになるので、手すりを握って治まるのを待とうとしたが耐えきれず湯船の蓋に顔を伏せた。大きな揺れが収まったので大急ぎで髪の毛を洗って浴室を出た。

その後も目まいは治まらず吐き気もあったので、脳内で大変なことが起こっているかも知れないと思い、ベッドに入ってから死を覚悟して罪の赦しを祈った。
寝付くまで独り言を言って呂律(ろれつ)が回っているかどうかを調べたり、手足がしびれてきていないかなど確かめていた。

今朝になってもまだ宙を歩いているような感覚で、今日は何もしないでゆっくり休養するつもりだったが、知子が会社へ向かう車内で私の症状を検索し(朝は夫が運転する)、病名を絞り込んだ。

目まいが何か大きな病気の前触れかもしれない。放っておいたために時を逃して悔いを残すようなことがあってはならないと、8時過ぎに知子から電話が入り専門医を受診するように言われた。

そして、夫は知子に説得されて9時半頃帰宅し、自動車で上本町のクリニックまで送ってくれた。

去年今年と2度MRI検査をしてもらったA脳神経外科を受診。診察では「たぶん耳だろうと思うが念のために」とMRI検査をした。新しい異常はなし。最初の診断通り三半規管が原因の目まいだった。

今回は「ディヒュージョン検査」(diffusion)もしたという。これは急性期脳梗塞の診断に使う撮影方法の一種・拡散強調画像で、急性期の脳梗塞があると白く写し出す。骨は白く写っていたが、新しい脳梗塞は全くなかった。

小脳や脳幹に何か異変があると目まいが起こるが、小脳から脳幹全て異常なしだった。小脳から起こる目まいの例として母が負った脊髄小脳変性症が記されていた。


ついでながら、以前から小脳の下にあるくも膜嚢胞はこのままで。血管の突起箇所については出血してもこの場所ならば心配しなくてもよく、ここは骨に囲まれているので破裂しないだろう。頸椎の中を通る血管も年齢的なことで蛇行はするがよく流れているとのことだった。

これからも目まいは起こるだろうとのことで目まい改善薬を処方された。そして、目まいを起こりにくくするためにはラジオ体操が良く、また、椅子に座って首を左右に揺らすなど、こういうことで三半規管が鍛えられる。

毎日パソコン作業を3〜4時間していることを話すと、パソコンをするときは椅子に深く座って正しい姿勢になり、その姿勢の目と同じ高さに画面がくるようにとアドバイスを受けた。
もう13年も前からノートパソコンばかり使っているので今更と思うが、今夜からパソコンの下に分厚い本を積んで改善している。

ゴールデン最後の輝き@.jpgとにかく昨日はクタクタに疲れていた。いつものように7時40分過ぎにユキを見送ると、すぐにシルバー人材センターの方々が庭木の剪定に来てくださり、早速案内しながら説明に入り、そのあとも何度も呼ばれ、この日は落ち着かないので整理や家事など動く用事をしている。


写真はゴールデンクレスト最後の輝き

ゴールデン短く.jpg去年とちがって今年は血圧も正常値だったのでよく動いていたのだが、お昼過ぎにはクタクタになって1時間横になった。2時におやつと飲み物を用意して、2時半過ぎに帰られたが、その後も後片付けと、毎年剪定の日は感謝と疲労でいっぱいになる。

剪定@.jpg 「ユキのスカイツリー」を切った。
台風で倒れるから半分切った方がよいと言われて少々躊躇しつつ3分の一切ってもらった。
あの美しいシルエットが消えてしまってかわいそうでならない。


ユキが持久走大会の前夜(11月30日)に嘔吐して持久走に出られず悔しがっていたが、その日はユキだけではなく5人も欠席していたという。他学年では学級閉鎖のクラスが出るほど感染性胃腸炎が流行している。

私も12月2日の夕方から症状が出て苦しんだが、ユキ同様に下痢はしなかった。嘔吐は8時間ほどで治まって順調に元気になったが、今週は目まい。とにかく大事なくてよかった。

今日は夕方に雹が降るほど寒くなっている。
私の安心を得た知子は仕事に集中し、疲れ切って23時20分過ぎに帰宅した。これで安心して眠れる。眠ろう。

posted by 優子 at 23:47| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年12月07日

さざんかホールの壇上で話したことも遠い思い出

この記事は、娘たちに「ママはこんな経験もさせてもらったよ」と話したくて、11月20日(日)午後に大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏を聴いた「さざんかホール」にまつわることを書こうとしているので、お読みくださる方々には退屈なものだと思う。

それは当地に移ってきてまだ2年にも満たない2001年2月のこと、さざんかホールの舞台に立たせていただいたことがあった。

市の一般健診でコレステロール値が高く高脂血症教室への参加を呼びかけられた。終了後、『市政だより』に体験談の掲載だけではなく、奈良県医師会主催の会でも話してほしい依頼されたのだ。

そのとき私は48歳で、半年前に父を亡くして深い悲嘆の中に在った。これが体験談を掲載された2001年2月21日発行の市の広報紙である。

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生活習慣病教室は2000年9月から始まったと記憶しているが、その8月に父を亡くしていた私はとても行く気になれず、外に出るのも苦痛でチャッピーの夕方の散歩は夜に夫婦で行っていた。

私は10月から2か月間の参加だったにも関わらず、高脂血症の数値が著しく改善された症例だったので指名されたのだと思う。

依頼原稿の校正も終わった頃、奈良県医師会主催の会で体験談を話してほしいと葛城地域所管の保健師が来宅された。スピーチは15分間というわけで、内容をもう少し詳しく話した。

でさざんかホール.jpg

このあと閉経の関係もあるだろうが再び元に戻り、長年そのまま放置していたのを知子に強く勧められて受診。2009年5月から薬を服用、12月から高血圧の薬も加わった。

掲載文には「『健康』という言葉だけにふりまわされず」とあるが、私は「健康の奴隷にならないで」と記していたのを変更されている。

保健センター主催の文章にはそぐわなかったのだろう。また、健康に「二重かぎ括弧」は正しくないので気になったが呑んだが、壇上では持論の人間学を織り込んで「健康の奴隷にならないで」と自らの主張を語った。


今や当時とは比べ物にならないほどサプリメントのCM花盛りの時代。ついに今年は誘惑にまけて次から次へと7〜8種類も手を出してしまった。しかも飲まないから溜る一方で次回配送を送らせたり断ったりと今日も連絡したのだが、これこそ「健康の奴隷」でなくて何だろう。

掲載文を読んでいるとチャッピーも居なくなり、このことも遠い日々のことになった。 

附記:
「今日は霜が降りてた」とユキが言っていた通り、今朝は0.9度まで下がり今夜も冷える。

私はユキをベッドに送り、枕もとでユキの手を握ってお祈りし、お風呂に入る。そのあと、こうして知子の帰りを待ちながらブログを書くことも珍しくなくなってしまった。疲れている知子の足を速めてくださるように。

posted by 優子 at 22:20| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年11月22日

「魂は是非とも歓喜を必要とする」 ベートーヴェン

☆ 今朝午前5時59分頃、福島県沖を震源とするマグニチュード7.4の地震があった。2011年の巨大地震の余震だそうだ。津波警報も出されたが大事にならなくて安堵するも、もはや平穏ボケや平和ボケの時代ではなくなった。

今週は家庭礼拝を捧げることができなかった。先週末も知子は夜遅くに帰宅してからも仕事、19日の学校訪問後も、その夜も午前2時頃まで、また、20日(日)の午前中も休みなく仕事をしていたからだ。

その日の午後は9月から予約していたオーケストラの演奏を聴きに出かけた。生演奏など14〜5年ぶりだ。プログラムに惹かれ、わざわざ大阪まで出かけて行かなくても20〜30分で行けるというので、生協のチラシを見て知子が誘ってくれたのだ。

演奏が終わるまで涙が止まらなくて困った。
知子は「ママの心が弱っていると思って探していた。私もやけれど」と言った。その言葉を聞いた瞬間、私の心が温かい緩衝材で包まれたように感じた。初めて経験する感覚だった。


さざんかホール開館20周年記念イベント
指揮:巨匠・秋山和慶
独奏:情熱のピアニスト・及川浩治
管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団

プログラム: ■モーツァルト/歌劇「フィガロの結婚」序曲
        ■ベートーヴェン/ピアノ協奏曲 第5番「皇帝」
        ■ドヴォルザーク/交響曲 第9番「新世界より」

2曲目、ピアニストが鍵盤に手を付けた瞬間から胸が熱くなり涙が溢れてきた。2楽章のように宗教的な祈りを思わせる穏やかな曲想に涙するのではなく、強く激しくなるほど涙が頬を伝った。
『皇帝』ではベートーヴェンは躍動感を表しているのだが、私には躍動感として聴いてはいなかった。

ロマン・ローランの『苦悩の英雄ベードーヴェンの生涯』の世界が開け、最初のうちは苦悩する孤独なベートーヴェンの傍にいて、彼の言葉を聞いていた。

「できるだけの善を行うこと、何にもまして自由を愛すること、そして、たとえ王座のためであろうと、決して真理を裏切らないこと」。

「私は善良さ以外には優越さの証拠を認めない」。

「魂が苦痛に慣れるためには相当の時間がかかる。魂は是非とも歓喜を必要とするので、歓喜を持っていない時には、それをつくりださなければならない」。

「苦悩を通って歓喜へ!」


ドヴォルザークの『新世界より』もまた、強く激しい曲想になればなるほど涙が溢れた。もはや私の意識ではなく無意識下の魂の反応だとわかった。

両親の庇護の下でクラシック音楽に浸り、ベートーヴェンやシューベルトの世界に生きていた時を単に懐かしく感じたというものではない。それでもやはり父と母が恋しくて、父と母が生きていた日々が恋しくてたまらなかった。

ドヴォルザークの新世界はアメリカのことであるが、私の「新世界」はこうだ。
人生は何度も暗雲に覆われて嵐の中を進まねばならないが、避けないで激しい戦いに耐えて突破した時に新たな世界が開かれる。それは環境や状況の変化ではなく新たなる境地である。

涙を流しながらも、人間について、人生について思いを馳せながら前を向いている自己を感じていた。それでも何が私の心の琴線に触れて涙を流していたのか未だにわからない。ただただ涙が流れ続けていた。


そして最後に思ったことは、人生の全てを突き抜けさせてほしい。苦悩から逃げるのではなく、最後まで思いっきり突き進んでゴールに入りたいと願う。ゴールとは言うまでもなく召天である。

演奏が終わる数分前に横目で知子を見ると、口元を引き締めて前方を凝視して聴いていた。その真剣な表情に荘厳さを感じた。そして、心の中で知子に言葉をかけた。
「今までのとおり一生懸命やればいい。○○がどうであれ!」
そして自らにも言った。
「私も知子や真智子の母親として恥ずかしくないように突き進んでいかねば!」と。

ついでながらユキはどのように鑑賞していたかと言えば、30分もしないうちに居眠りはじめ、まもなく熟睡、『皇帝』の演奏が終わって大きな拍手で目を覚ました。良輔に至ってはイビキをかき始めたので注意しなければならなかったそうだ。

大阪フィルハーモニー交響楽団は関西交響楽団が前身で朝比奈 隆を中心に創設された。家族でフェスティバルホールへ行ったことも懐かしい。もう50年以上も前のことになる。

「この人たちはみんな、楽士さんやで」と、耳元で言った母の声が聞こえるようだった。あの時「楽士」がどういう意味かもわからず、私はただ母の感動にしみじみ感動していたことを今も覚えている。

クラシックの生演奏は五臓六腑を浄化する。これからはたびたび聴きに行きたい。会場が遠いのは嫌だけれど今度は音響装置のいいホールで聴きたい。お金を払って寝に行かれるのはもったいないので、次回は知子と音楽の分かるもの同士で。

posted by 優子 at 21:27| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年11月07日

年金請求の手続き −我は高齢者なり―

先月半ば、農協の営業マンが「年金の受取りには農協で」と来られた。私は年金受給年齢になることなど全く意識になく、緑の封筒で届いていたことも思い出せないでいた。

幸いすぐに見つけたものの、読み始めたが理解できなくて情けなかった。夫に聞いても無関心、「年金事務所に行ったら教えてくれるわ」の一言で却下。

私自身もあまりの無知ゆえに批判できないにしても、夫は既に受給されているにもかかわらず全く理解できていない。それよりも相変わらずの冷酷さ、家族のことをどう思っているのだろうと呆れるばかり。

多忙な知子を煩わすことはできず、とにかく少しずつ少しずつ進めてきた。65歳の誕生日を迎えれば「受給権発生日」、それ以降に交付された書類が要るというわけで今朝市役所へ出かけた。

ところが空振りで帰宅。

股関節が痛いので少しでも軽いものをと小さな財布を持って行ったのがいけなかった。戸籍謄本や住民票を取るのに身分証明になるものを一切持っていなかったのだ。

私は運転免許証を持っていないので健康保険証のほかにも診察券かクレジットカードなど2つ要るとのこと。そのことは聞いたことがある。いずれにしてもいつもの財布を持っていれば全て入っていた。

2時間に1本の公共バスを利用してやってきたというのに出直すしかない。乗り掛かった舟だ、2時間で行ってこられるのだから帰宅してすぐに次の便で行こうと思ったが、とにかく精神的に非常に疲れたので断念した。

昼食後、いつものように横になると1時間も眠ってしまった。

夕方、近隣のNさんが吉野で柿を買って来たからと持ってきてくださったとき、「慣れないことをすると疲れるからね」と言われて、「そういうことか、頭の良い人でもそうなのか」と安堵した。

といろんな話を聞きながら二人で大笑いして、50分間も喋っていたので(自動車の)ライトをつけて帰って行かれた。友はありがたい。友との大笑いでリフレッシュした。

高齢者肺炎球菌予防接種に介護被保険証、そして、年金請求の手続きというわけで、私も高齢者組になってしまった。

今日は疲れた。

昨夜、知子と真智子がこんなことを話している夢を見た。
「とうとうママも死んでしもたな・・・過ぎてしまえばアッという間やなあ」。
この思いは、母のあと父も死んでしまった時に私がしみじみ思ったことだった。
夢の中で私は75歳だった。


IMG_0946.jpgクリスマスの飾りつけがまた進んだ。
昨日薄暗くなるまでご主人が木に登って飾りつけておられた。夫よりも少し年上だと思う。



知子が22時過ぎに帰ってきた。

IMG_0949.jpg

ユキの手紙で知子の疲れも癒されることだろう

posted by 優子 at 22:58| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年10月17日

命、人生、この重きもの

2日前の「ブルンナー読書会 F」の記事で触れたキューブラー・ロスの晩年、特にその最期について記憶が曖昧だったので、手軽だがBSドキュメンタリー「最後のレッスン キューブラー・ロス 〜かく死せり〜」で再確認した。失望感は拭い取られて厳粛な気持ちに満たされている。

キューブラー・ロスは、死を前にした人との関わりや "Grief work"(悲嘆のプロセス)について大きな働きをした。

『死ぬ瞬間』、『続死ぬ瞬間』、『新死ぬ瞬間』・・・など、最期に人が求めるもの、死にゆかねばならぬ子どもに自らの死をいかに話してやればいいのか、子どもの死やこどもが失踪した親の悲嘆・・・など、多くのものを読んだが、キューブラー・ロスの関心が臨死体験や死後の世界に移っていってから読まなくなった。

私は30代の終わり頃から2年間かけてカウンセリング(臨床心理学)の学科を修めた。その講義でもキューブラー・ロスが掲げた「死の受容のプロセス」の5段階が語られていた。

否認(それは間違いではと認められない)、怒り(なぜ私が死ななければいけないのか)、取引(神さま、○○をしますから助けてください)、抑鬱、受容 である。

カウンセリングの学科を終了した頃は、母の難病のことが私の心に重くのしかかっていたこともあり、関連する本をたくさん読んだ。

カトリックの司祭で哲学者であるアルフォンス・デーケンは、キューブラー・ロスよりも詳細に提示し、その最後に宗教者の視点で「希望」を付け加えたことも良く知られている。

悲嘆のプロセス(アルフォンス・デーケン)
@精神的打撃と麻痺状態  A否認  Bパニック C怒りと不当感  D敵意とうらみ  E罪責感  F幻想 G孤独感と抑うつ  H精神的混乱と無関心  I受容(あきらめ) J新しい希望 ユーモアと笑いの再発見  K新しいアイデンティティの誕生(立ち直り)

事故で即死でない限り、人はみなこれらの苦しい道程を通ることになる。これらは死をまじかにした場合だけではなく、重篤な病気を告知された時も同様に、誰にとっても何よりも自らのために知っておくことは大切なことだ。

キューブラー・ロスは人に愛を与えることができても、最後まで愛を受け取ることができなかった。人に世話してもらうこと、そのような自分を受容できなくて、人生最後のレッスンは人から愛を受けることだと言っていた。

そして今、私は再びいのちの問題と向き合っている。脳死の問題である。脳死状態になって11か月になる1歳半の赤ちゃんの病床へ導かれたからだ。

脳死。

ああ、何という残酷な言葉であろう。

3時間、赤ちゃんの枕もとでお母さんと話しながら、手を握り、オムツを変えるのを見せていただいた。オムツが濡れており、その時、きれいな尿が小さなおちんちんから出てきたので、「Mくん、おしっこ したのー」と嬉しくて語りかけてしまった。

日本社会に「脳死」が言われるようになり、これまでにも何度か考えたことがあった。幾冊かの本を読み、その時に私が導かれた結論は脳死は人の死ではないということであったが、その結論は間違ってはいなかった。


これまで脳死になるとまもなく心臓死を迎えると思っていたが、今では、いやもっと以前からその認識は全面的に覆されており「長期脳死」と呼ばれている。特に子どもに多く見られるそうだ。

脳死について先週注文した本が今日届いたので真剣に理解したいと思う。

IMG_0701.jpgこのような耐えがたい悲しみに耐えておられる方々のことを思うと、不誠実極まりない生き方で命を費やしている人はまことに愚かである。それほど命を無駄にしていることはないであろう。
私も短くなるばかりの命の時間を、もっともっと大切に使っていかねばと思う。


posted by 優子 at 17:34| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年09月29日

高齢者肺炎球菌予防接種と介護保険被保険証 −円地文子『朱を奪うもの』、私の「朱」は「情熱」か―

IMG_0347.jpg3〜4か月前だったか市の保健センターから高齢者肺炎球菌予防接種の接種票が届いた。その時は非常にショックで、手に取ったまましばらくぼんやり眺めていた。ついに私も高齢者の枠組みに入るのだ。

肺炎は日本人の死因第3位で、その95%以上は65歳以上ということで、2014年10月から定期接種が始まった。夫は1年前に接種を済ませた。

そして、今日は介護福祉課から介護保険被保険証が届いてまたまたショック。介護が必要になる場合も視野に入ってきたというわけで、かつて読んだ『朱(あけ)を奪うもの』の言葉が脳裏をよぎった。

「さあ、これで全部抜けました。もう歯病で苦しむ思いは一生ありませんよ。・・・(略)・・・
磨滅した一本の歯に滋子(しげこ)はやるせない悔いと愛着を感じた。自分の肉体と離れてしまった歯は、もうどんなに足擦(あしず)りしても自分のものにはならない。自分の生命の一部の死んだのを正しくわが眼で見ているのである。歯はそのまま自分の骨に見えた」。


これは円地文子が50歳の時に書いた『朱を奪うもの』の一節である。読書会のテキストに推薦して、1991年1月の例会で取り上げてもらった。私が39歳の時である。

この作品は、結核菌に冒されて右乳を切り取られ(昭和13年)、2度目は女性だけの病む癌で手術を受け、3度目は一緒に生きてきた歯を抜き去ってしまい、「3つの死を思うと自分に与えられた生命(性)の不思議さについて何とも語りたくてたまらなくなる」と、真っ先に結論を持ってきて幼かった日の記憶から物語が始まる。

女性は老い(年齢)、病気、運命などにより「朱」を奪われていくが、「朱」は無くなるものであろうか。奪うものはあるけれど、私はやっていけるのだという作家の気持ちを書いている。

このときの読書会ノートにはこんなメモが書いてあった。

「3年ほど前から両親の老いを感じるようになり、以来、自分自身の老いをも含めて老いるとはどういうことか考えている。
母の老いていく悲しみ、不安を感じ取る優しさが私にはない」。

正しくは「実感できない」というものであり、そのことで自責の念を感じていた。

その頃の母はちょうど今の私と同じような年齢であったが、実際は「老い」というものではなく、進行性の神経難病に蝕まれていた。

主治医は慰めの気持ちで「老いが早く来たと思えばよい」と言われたことがあったが、とにかく私は母のことをわが身のことのように感じることのできないことにも苦しんでいた。それは人間の限界であり、どうしようもないことであるのに!


『女性の更年期』という本にそのテーマで書かれた山本耿子(こうこ)さんの文章に、「(『朱を奪うもの』には)老いの自覚というものが、どのようなかたちで味わわされるか、老女の気持ちが心にくいまでに表現されてある」と書いているので推薦したのだった。

ついでにこの読書会で心に届いた印象的な感想を2つ。

▼ 読者の年齢が若いと意味のわからないところもあるだろう。

▼ 中島敦の『李陵』には宦官について出ているが、司馬遷は性器を取られながらも『史記』を書いた。そのことを掲げているのは、円地も書くことへの執念はすごいものがある。


肺炎球菌予防接種は来年3月末が期限だが、ユキの日本脳炎ワクチンの2期の接種票が届いたのを機に、ようやく私も重い腰を上げて一緒に内科医院で受けることにした。

ユキは小学校に入学した1日目から雨の日も必ず、お願いもしていないのに帰宅した時に郵便受けの中のものを持って入ってくれるのだが、高齢者案内を孫の手を経て受け取ることに何とも言えない感慨を覚える。

母が召されてちょうど20年、健在ならば90歳になっている。今では90歳でも珍しくない長寿世代だが、さすがに「母が元気だったら・・・」と90代の母を想像するのは難しい。91歳の父の姿もまた・・・

子供の頃は病弱だった円地文子は81歳まで生きた。
私は「朱」を「性」ではなく「人間の情熱」と解釈し、情熱を奪われず円地の執念のごとくに命を燃やさねばと思う。

posted by 優子 at 17:59| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年09月09日

脳のMRI検査を起点に ―空気の抵抗を感じて飛ぶ鳩のごとく―

あれから1年。昨年9月に認知症の心配で受診した脳外科クリニックへ、1年後の予約票を持って今朝受診した。

MRI検査では異常なしで年齢相応の状態だった。記憶力テストも30点満点。理解力が落ちていることや、ストレスフルな時は今日のことか昨日のことだったかわからない時があることについても心配なしだった。

小脳の下にある白く写っている塊(クモ膜のう胞)は一部骨にまで食い込んでいるが、昨年と全く変わらず大きくなっていなかったので進行性ではないこと。もしも破れて出血しても心配なしだった。

昨年も指摘された脳血管の2か所、突き出ている所と膨らんでいる所も変化なしだった。血管の映像を回転させると、膨らんでいる所は血管の根元が膨らんでいるだけで動脈瘤というほどではないから気にしなくてもよいとのこと。

しかし、小さな脳梗塞のあとが3〜4か所あった。心当たりがある。それについても何も注意はなかったが、今後の予防法はいかに。

母の晩年に父が体調を壊したときに見た父の脳のMRI画像と似ていた。父の場合は白い点がいくつも数え切れないほどあり多発性脳梗塞だと記載されていた。

今振り返ると母や父に関わっていた頃は柔軟だった精神力が、60代になってから萎えてきているように思う。老年期を雄々しく生きるために若い頃からいっぱい蓄えてきたものが全く働かない。

積年の悩み事でストレスフルな状態が日常化してしまい、今では霊肉が夏枯れしてアップアップしている金魚のようだ。

しかし今、若い頃に読んだ『純粋理性批判』にあったカントの言葉を思い出した。

「軽快な鳩は、自由に空気中を飛び回って空気の抵抗を感じるので、真空の中ではもっとずっとうまく飛べると考えるかもしれない。しかし、もし空気がなければ、うまく飛べるどころかそもそも飛ぶこと自体が不可能になるであろう」。

そういえば、「ストレス」という言葉を発案したカナダの生理学者 ハンス・セリエは言っている。「ストレスは感謝によって解消される」と。

今一度、みことばの一字一句を脳に入れて聖霊の働きを信じて前進しなくてはならない。昨日クリスチャンのペンの同志からいただいた言葉にも心揺さぶられている。


「私たちは皆、神の像、またその似姿をもった神の被造物です、という一文に会いました。神の似姿とは何か。他の被造物と比べると”言葉”があることがわかります。

私は言葉を鍛えて、私たちの日常から神に知られた者として、何を感じ、何を考えているのか。(時を)与えられているこの今でも書かなければならないと考え始めています」。


IMG_9935.jpg今も毎朝10から12個も花を咲かせる朝顔。しかし、夏の盛りの花と違って花びらはしなしなで痛々しい。
この朝顔は昨朝の激しい雷雨に打たれてまもなくしぼんでしまったけれど、有終の輝きを放っていた姿を残せてよかった。

posted by 優子 at 22:00| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年09月07日

1970年代に会った梅田地下街の「サムじいさん」

先週から棚に突っ込んでいる印刷物を整理している。夏の終わりとはいえ暑い中、波に乗ってやり始めた整理だが、これまでとは違って「終活」の意識が働き始めた。

先週は文学関係の資料も3分の二ほど捨てた。
今日は、もう大学時代のノートも読まないだろうと数冊残して捨て、東大阪市の図書館協議会や国際文化協議会委員を務めていた時のものも殆ど捨てた。

捜していた久保田先生との写真や読書会の写真も出てきた。それぞれの関連するところに大切に直しているのに、それを忘れているからどうしようもない。

母の難病のファイルが出てきたときは胸が痛んだ。
私が生きている限り捨てたくないので、後始末してくれる娘たちに付箋を残した、「私が亡くなったら処分してね」と。


そして、是非ブログに記録しておきたい懐かしい掲載文と新聞記事がでてきた。それは大学を卒業した翌年の1975年に、たぶん初めて投稿した文章であり、幸運にも掲載されたものだ。

私はクリスチャンになるまでキリスト教書店がどこにあるのか知らなくて、阪急デパートの書籍売り場にある「ホーリーコーナー」(女子パウロ会が運営するカトリックの書店)に高校生の頃からよく訪ねていた。

カトリック生活.jpgその関係でカトリックのマガジン『カトリック生活』に投稿した時の記事である。中学校の講師をしていた時に書いたものだ。


初めての掲載文?.jpg



その頃、地下鉄御堂筋線の梅田の改札口を出て、左方向の阪急デパート(阪急電車)に向かう階段の手前に立っておられたおじいさんがいて、無言で穏やかな微笑みをたたえながらパラシュートを飛ばして立っておられた。

私はそのおじいさんから伝わってくる人柄に心打たれて書いたのであるが、そのおじいさんのことを知ったのは1986年の新聞記事だった。

IMG_9925.jpg

ああ、なんて懐かしいのだろう。それこそ30年ぶりに写真を見たが、おじいさんの顔を今もはっきり覚えている。

おじいさんは手作りの紙飛行機やパラシュートを売っていて、川上三郎さんと言い、カナダにも住んでいたことがあり「三郎」をもじって「サム」と名乗っていた。

梅田地下街へは1971年(私は大学2年)よりデビューし、「アクティ大阪」の完成を機に露天商の締め出しにより1984年1月に店じまいされた。

この記事が出た年の5月には90歳を迎えるとあったから、私が毎日見ていたのは、デビュー当時の77歳頃から82歳頃のことだった。梅田地下街を去る時、たくさんのファンが握手を求めに来たという。私もおじいさんに会うたびに声をかければよかった。

新聞記事には、「長生きしてくださいね」と言ってくださった人たちに恩返しがしたいと「服のしわ伸ばし器」を考案し特許を取られたことが書いてあった。

私が投稿した拙文には、「おじいさんに会うたびに自分自身をふりかえり、より美しい気持ちで生きたいという気持ちが強くこみ上げてきます。」と書いてあった。

それから40年。私も来月65歳になり、いよいよ高齢者の範疇に入る。
そして今、あの頃には想像だにしなかったパソコンでブログを書いている。まさに隔世の感を禁じ得ない。


posted by 優子 at 23:19| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年06月13日

M・Mさんとの「カイロス」の時

今日、「神の恵み ブログが取り持つ信仰の友」に記したM・Mさんが、大阪府堺市方面で集まりがあるとのことで大阪駅で待ち合わせた。今日が初対面である。(その時の頓馬ぶりも最後に記しておいた。)

ユキが学校から帰宅して独りで長い時間居るのを不安がるので、2時間半という短い時間だったが信仰の友との話は尽きず、まさに「カイロス」の時。Mさんは素晴らしい方だった! それしか言葉が浮かばない。

かつて久保田暁一先生が話されたことを想起させる。

「本当の出会いとは、その人に出会うことにより自分の生き方や思想に影響を与え、自分が変えられていくことであると思う。

佐伯先生との出会いもそうだった。以来ずっと交流が深められている稀有な人である。

形ではなく心の関係は深まるばかりで、それは共通するキリスト信仰によるが、それだけではなく生き方の共通点による。共に、常に今を生き生きと生きた事実にある」。


とにかくMさんは何でもできる有能な方で行動派。その点からいえば共通点どころか両極にある方だ。
しかも心の美しい成熟した方というのはメールのやり取りを通してわかっていたが、本当に神の恵みを真に知っておられる方だった。

これまでにもこのような友を何人か与えられ、また新たにMさんとの不思議な出会いを得て、私もまた久保田先生の如くMさんに感化されて互いに良きわざをなしていきたい。

手作りシフォンケーキ.jpg泊りがけで外出される前日にシフォンケーキを焼いてきてくださったMさん。
「幸悠くんの今日のおやつに」と持たせて下さった。その他にもたくさん!
私はお菓子も手芸も何も手作りできないので、いつもそうするようにデパートで買ったものに心を込めて用意した。

いただきます!.jpg
「ありがとう!
いただきます!」


教会の牧師と役員代表として来阪されたMさん。
Mさんの生き方、お働きを神さまが喜んでおられるのを強く感じた。

附記:大阪駅での失態。
Mさんとはまだ一度もお目にかかったことがないが、待ち合わせ場所は大阪駅中央改札口だから大丈夫だと安心していた。

しかしサンダーバード14号到着時間寸前に不安が生じた。私がこれまでずっと「中央改札口」と思っていた場所に「中央南改札口」と書いてあるのを見つけたのだ。

通行人のひとりが「ここが中央出口や」と連れの人に話している声が聞こえて安堵するも、列車は3分以上前に到着しているのに、髪の毛が長くて「白いブラウスに紺のスカート」のMさんらしい方がいない。

いよいよ心配になって「延着しているのでは」と駅員さんに尋ねていた時だった。後ろから声をかけられて振り返るとMさんだった!!!

私は今日まで中央改札口が2か所あるとは思ってもいなかった。見ると、その2メートル程度右横に改札口があり、「中央北改札口」と書いてあった。そこは南口と違って人はまばらだったが、私は携帯電話も持っていないので申し訳なくてならなかった。

これでは大阪人の面目も立たないではないか
それどころかMさんは金沢の人なのに、「人が多くて見つけられなかったら中央口から少しルクアイーレの方へ行って鉄道・観光案内所の前で待っていようかと思います。」とまで書いてくださっていたから驚いた。

私は「ルクアイーレ」も知らなくて、知子から昨夏マチ・クマに招待されてディナーに行ったあたりだと聞いて理解したのだが、アメリカへ移って10年になる次女が知っていて、しかもはるか昔のこととは言え、ここは6年間通学時に利用していたのに情けない。

Mさん、もう一度「ごめんなさい」。
さすがMさんはすぐに機転を利かせて動かれた! 私ならば、まず10分間ぐらいは立ち尽くしていたと思います。

これではワシントンへ行くのも自信がないはず、Mさんも感じておられたに違いない。

昼食後にはレストランに荷物を置き忘れて、店員さんにエレベータ前まで駆けつけてもらったり、頓馬ぶりを発揮した。やっぱり認知症の初期ではと不安がよぎる。


posted by 優子 at 23:48| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年05月31日

ワシントン行きD.C.行きは実現するか?!

5月18日の午後のことだった。「今日から27日までルーマニアとブルガリアへ行ってくる」と、突然親しい友から電話が入った。友は多忙な日々にあっても何度もご夫妻で海外旅行を重ねてこられた。そして27日夜に無事帰国された。

「私も行きたい! ワシントンへ行きたい!」
友の電話で背中を押されたように気持ちが大きく動いた。

1年ほど前から次女夫婦のマイルでビジネスクラスの往復チケットを2人分購入できるからと、ワシントン行きを誘ってくれており、いよいよ4月初めには返事を求められていたのに決心が付かなかった。

と言うのはパック旅行ではないのでD.C.の空港でのこと、特に帰りの空港内でのことが心配なのだ。連休明けから体力がなくて1〜2分で疲れてしまうので自信がない。

パスポートの有効期限はあと1年で切れる。この先は更新するつもりはなく海外に出るのはこれで最後と思っている。それでも決心がつきにくかった。ユキはテロを心配して「行ったらあかん!」と言った。

知子はユキと2013年6月にD.C.に行った時、この記事(←字の上をクリックしてください)にもあるように、入国する時は「ESTAによる認証、指紋や顔写真に加えて、たくさんの質問攻めにあってようやく解放された」と話していた。

日本に帰る時も非常にややこしいと言っていた。
ワシントンD.C.ダラス空港はミネソタと違って税関を通過したあとモノレールに乗るとのこと。しかもいくつもの乗り場に分かれているので降りる所を間違うと搭乗する飛行機に辿り着けないというのだ。

かなり英語の話せる知子がそういうのである。
2011年のミネソタ行きもすごく緊張したが、セントポール空港にはモノレールはなかった。それでも家を出る時の血圧は177に101だった。よく健康を守られたものだとしみじみ思う。

真智子は言う。
「空港は確かに迷路のようではあるけど、ミネソタでのママたちのサバイバル能力(←字の上をクリックしてください)があれば、時間に余裕を持てばいけるとは思うけどね」。

9_Baggage20Claim3.jpgああ懐かしい。あの時を思い出すと微笑んでしまう。
ミネアポリス・セントポール空港の待ち合わせ場所だったバッゲイジクライムにマチ・クマは居なくて「どうしよう」と思ったけれど、実に楽しかった。絶対に会えるという安心感があったから気持ちの余裕があった。

そして真智は17日のスカイプで次のように言った。
「例えばJR大阪駅から阪急電車の乗り場までの道順を説明するのは難しい。道というよりも多方面に行く道が入り混じっている広場を通って行くようなものだから、『そこまで行くと大体その前方に歩く歩道があるから』という程度の説明しかできない。
だから事前に聞いておかなくても、『阪急電車の乗り場はどう行けばいいですか?』と何度も聞くのがベストであり、『阪急電車』というキーワードだけでも通じるから、飛行機のチケットを見せて " I want to go here."と言えば何とかなるよ」。


「なるほど」と頷き、ライフラインを確保したような気持になった。しかもミネソタ行きの時と違って、出発前夜は睡眠導入剤を飲んで眠れば異常なほど血圧も上がらないだろうし・・・ああしかし、こんなことを書いているだけで脳内の血圧がブ〜〜〜ンと加わってくるような感じになる。

ワシントンD.C.-ダラス国際空港の施設案内を教えてくれていたが、臆病者で最初から諦めてしまう性格は未だ改善されず、そのサイトも今初めて開いた次第である。

ついに制限時間いっぱいになって20日の午前中に真智から電話があり、その電話で行くことに決めた。真智はすぐに電話でANAオフィスに電話してくれた。しかし、2ヶ月先の便なのに行きも帰りも既に7〜8名のキャンセル待ちだった。

滞在日数が2日短くなるが○○日ならばファーストクラスに乗せてくれるそうだが、それではニューヨーク行きがハードになる。5年前よりもかなり体力が低下しているから強行軍は無理だし、ビジネスで十分だから却下した。

そして、いろいろと調べてもらってキャンセル待ち1人の便に予約してくれた。6月中旬になっても席が空かないようならばキャンセルしてマチ・クマが帰国する方策にした。それ以上待っていては帰国するチケットも取れなくなってしまうからだ。

23日にかかりつけの内科に受診して半年に一度の血液検査をした。むくみがあるので腎臓と甲状腺も心配と検査項目が追加された。ワシントン行きのことも話した。結果が要注意の時は知らせていただくことになっているので、その心配はなかったようだ。

今となっては行きたい気持ちがの方が強いので「チケットが取れたよ!」というメールを待っているが、やっぱり不安や緊張感が交差する。

真智子夫婦は6月に結婚10周年を迎える。10周年を記念して7月にジャマイカへ行くそうだ。そう言えば、私たちは結婚40周年の年。
35年の時にミネソタへ行き、マチ・クマと一緒にサンフランシスコへ行った。マチ・クマの結婚5周年だった。今回の旅行が実現すれば私たちの40周年と次女夫婦の10周年の思い出になる。

私たちの予定に合わせて次女夫婦は休暇の3日間延長を申し出て許可されたそうだ。全ては神の御心のままに。

廊下にデスク.jpg
チャッピーがいた去年の5月最後の日。
今年も早明日から6月、まもなく梅雨に入る。

posted by 優子 at 21:40| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年03月15日

神の恵み ブログが取り持つ信仰の友

2008年の総務省調査によると、国内のブログ総数は1690万、このうち稼働しているブログは308万で、今はブログよりも「SNS」の方が隆盛になっているという。

ウィキペディアによれば、「ソーシャル・ネットワーキング・サービス(英: social networking service、SNS)とは、インターネット上の交流を通して社会的ネットワーク(ソーシャル・ネットワーク)を構築するサービスのこと」で、「人と人とのつながりを促進・サポートする、『コミュニティ型の会員制のサービス』」、スカイプやフェイスブック、ツイッター、ライン・・・のことである。

私はブログを書き始めてから11年目になるが、これからも鞍替えすることはない。ブログが性分に合い、何よりもブログという道具は私の要望を満たす。

これまでにブログが結ぶ不思議な出会いがあった。
娘たちの中学校の先生が『メメントドミニ』を読まれて連絡を取ってくださったこと。もうお1人は、ちょうど1年前に見ず知らずの方が連絡を取ってくださって知己を得たことだ。共に次女が滞在するアメリカ経由での出会いだった。


今改めて次女から転送された昨年のメールを調べると、Mさんが私に連絡を取ろうとして真智子のHPにメールしてくださったのが2015年2月23日で、真智子が返信したのは3月17日だった。その出会いの不思議を過去ログ2015年4月9日に記している。

まず何よりもその女性との出会いが不思議だった!
その方は『メメントドミニ』を愛読してくださっていたクリスチャン女性で、私のブログにコメント欄がないからと「お気に入りリンク」にあるミネソタ大学大学院在籍時代の真智子のHPにメールしてくださった。

ところが次女はIMF(ワシントン)に移ってからめったにそのHPをチェックしないものだから、メールを発見したのは1ヶ月ほど経ってからのこと。次女はすぐにその方のメールを転送してくれ、私は嬉しくて早速メールを差し上げたのだが直ぐにお返事がなかった。

その時私が大怪我をした直後だったのでお心遣いくださり、返信しないでリンク先にある美濃紙業宛にお見舞い状を送ってくださったのである。
※2016年3月17日追記:斜体の部分は私の思い違いで、私のメールが届いていなかったのだ。
そこで「どうしても連絡を取りたかった私はメールがだめならせめてお見舞いを・・・と思って別のルートを探しただけだったのです。それほど、私は優子さんに惹かれるものがあったということなんでしょうね。」と教えてくださった。
いずれにしても本当に嬉しく感謝でいっぱいです。

というわけで、メールはアメリカ経由、詳しく言うならば、ミネソタ、ワシントン経由で私の所に届いたのである。どんなに感激したことか! 

その後、Mさんとの出会いは深まっていき、気がつけば互いに気持ちを分かち合える知己になっていた。
とても聡明で細やかな配慮に富む優しい方。お嬢さんがおられるシドニーへも思い立ったら数日後に出発される行動派。お料理まで気軽にやってのけられ、全てが私とは正反対の女性である。(^0^)

千里さんや文香さん(『生かされて』の著者)、また『希望の風』さんと重なるところ大である。新たに信仰の友を与えられて、他にもあの方この方と、たくさんの良き友を与えられていることを神さまに感謝している。

Mさんが所属されている日本基督教団・金沢元町教会は大きな教会だ。役員として教会のために労しておられる。金沢元町教会では「役員」とは呼ばず「長老」と呼ぶそうだ。
先日2016年度の主題聖句を教えていただいたが、今の私には涙が出るほど素晴らしい教会だと思った。

先日、Mさんがご自身のブログ・『イエスと共に』の3月6日の記事でとても嬉しいことを書いてくださっているので、ここに転載させていただきたい。

2016年 03月 06日
信仰の友
パソコン上で決まって訪れるブログがある。写真集「流れのほとり」 と 「メメント ド ミニ」。そして犬のブログ。だだちゃんとアスカとセナとエビスとかぼすちゃんMaruちゃん。ほとんど毎日おじゃましている。でも個人的に連絡を取り合うということはほとんどしない。遠くから見つめている。

でもひとり「メメント ド ミニ」http://yukochappy.seesaa.net/のFさんとはこんなにも親しく何でもお話できるかしら?というほど意気投合してよく連絡を取り合う。

彼女は最近では日本クリスチャン・ペンクラブ 関西ブロックで「証し文集 第3号 種を蒔く」の編集員として活躍した。この本が私が思っていたものよりもずっとすばらしいものだった。優秀な二人の娘さんも素敵なクリスチャンで、ご主人も最近洗礼を受けられた。

彼女のブログの幅は広く、深い。そのブログにはコメント欄を設けていないので、彼女にどうしてもお手紙を書きたくなって私はちょっと困った。でもなんとか連絡がとれた。それが2015年の3月ころだったと思う。まだ一年程というのが驚きだ。もう十年前からの友人だったような気がする。

彼女から教えられることは本当に多い。
最近一番ショックだったのは「長尾巻牧師」のことである。

長尾巻牧師は私の所属する金沢元町教会の初代と四代目牧師であるけれども、彼女から賀川豊彦と長尾巻の関係を教えられたのである。私はそこまで知らなかった。

彼女が遠藤周作の『沈黙』 について書いていたので「私の教会の創立にもキリシタン迫害が関係あります。長崎から送られたキリシタンを取り締まる奉行であった長尾八之門がキリシタンに惹かれてクリスチャンになったのです。その子の長尾巻が初代牧師です」とお知らせしたら、彼女はもうずっと前から長尾巻を知っていたのである。

それで今、私は長尾巻にとても関心がある。私の教会の創立牧師であるので、彼女よりは詳しくなりたい。先日は教会で「紙芝居 長尾巻」を読んだ。きょうはいろいろ資料を教えてもらって借りてきた。これをもう少しわかりやすくまとめて教会のホームページに掲載したいと思ってる。

このような信仰の友が与えられたことを本当に感謝している。信仰の友が私の信仰を強くしてくれるように感じている。

私もまた友のブログを読ませていただきながら信仰から信仰へと導かれてきた。Mさんからも既に多くのことを教えられ気づかされているので、このような友を紹介してくださった神さまの愛とご配慮に感謝している。

それにしても300万以上も存在するブログの中から生涯の友と出会えたのは偶然ではなく、その背後に神の摂理があると受け止めている。

1年前、『生かされて』の文香さんが、Mさんとのことを「ブログを通して神様が働いてくださっていることがはっきりわかります。」とメールしてくださったことも忘れられない。

そして思う。
昨年の今頃、特に怪我直後の1ヶ月間はチャッピーはどうしていたんだろう。あの時、肩の腱板断裂だけではなく左右の肋骨も強打していたので、寝起きするのも拷問のようで一日中強度の苦痛に耐えていたから。
これがちょうどその頃の写真だ。
これは2015年4月1日のチャッピー。
悲しそうなチャッピー.jpg
ごめんね、チャッピー
この7ヶ月後に死んでしまったチャッピー。
若い頃と違っていつも憂いを含んだ目をしていたね。ひとりぼっちでどんなに孤独だっただろうか・・・

posted by 優子 at 21:11| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年01月13日

リハビリの帰り道、真冬の景色にカラスと菜の花

昨年3月13日に右肩の腱を断裂し、その2か月後からリハビリを受けている。平均して月3回しか予約を取ることができないので、今年初めての昨日は23回目だった。

私が受けているリハビリは理学療法士自らの手による運動療法で、まず患部を10分間ホットパックで温めてからベッドに横になって受ける。
最初は医師に言われるままにホットパックに続いて電気を流したが、非常に不快感が強く血圧に異常を感じたのでやっていない。

リハビリのカルテには「ROM」「伸張」「筋力」に印が入っている。
ネットで検索すると「ROM」とは「Range of motion」の略で、「関節可動域」の意味だという。そして、伸張(ストレッチ)して筋力強化運動の3種類を受ける。
時間にして30分、治療費は730円、これに医師の診察を受けても同額であるが、今では3ヵ月に一度受診する程度だ。

今回は3週間もリハビリが空いたので、それで調子が良ければ今回で終わりにして様子を見ようかと思ったが、やはり受けた後は非常に楽になったので2月いっぱい続けようと思う。

大みそかにした換気扇の掃除も、あのような怪我をしたとは思えないほど平気だった。しかし、いつも療法士さんに指摘されるように、今も肩の関節を開くことができないので「バンザイ」ができない。
また腕を高く上げようとする時、胸の筋肉で助けようとするので、そのうち右鎖骨付近の痛みが出てひどい肩こりにもなる。

これが回復の限界なのかもしれないが、まだ痛みがあるので回復の可能性もあるだろうとのことだ。このような怪我をすると痛みのために体がいびつな形で固まってしまう人が多いそうだが、幸い私はなっていないと言われて嬉しかった。

7ヶ月過ぎた頃から右側に寝返りもできるようになり、きっとその頃からユキを見送る時も右手を振っていたのだと思う。腕は90度しか上がっていなくても。

怪我をした当初どうなることかと思ったが、こんなに回復して本当に感謝している。どの病気も怪我もみんなこのようであればいいのにと、いつも病床にある方々を思う。


リハビリの帰りはパン屋さんという大きな誘惑が待ち受けている。昼食のサンドイッチ(高脂血症なのに卵サンドが大好物)やユキのおやつだけではなく、歩いたご褒美にとパイなど甘い物を買ってしまう。これではせっかく往復1時間歩いても何にもならない。

そして、再び祈りながら、いろんなことを神さまと対話しながら歩く。それも楽しみの一つでもある。クリスマスの前、朝日を受けてキラキラと葉を落としていた木々もすっかり裸になっていた。

リハビリの帰り.jpg

そこにカラスが鳴きながら飛んできて枝にとまった。

カラス君.jpg「おーい、カラス君よ!
いつも悪者あつかいにされて気の毒。カラスだって精一杯生きているんだから嫌ったらかわいそう。
これから友だちになってねー。
元気で長生きするんだよー」


カラスにも思いがいくのもチャッピーのおかげ。ありがとう。

数日前に特派員がワシントンも4日から寒くなったと言っていたが、こちらも新学期が始まった日から一段と寒くなった。それでもワシントンの比ではないが、昨日の最高気温も8度しか上がらなかった。

それでも風がなかったので、初めてリハビリの帰りに少し遠回りしてチャッピーと歩いた砂利道に入って行った。

鮮やかな真冬の黄色.jpg
これは菜の花? 何て鮮やかな黄色だろう!

あるいは何かアブラナ科の植物が長けたあとの花なのだろうか、あの時のようにやっぱり鮮やかに咲いていた。

私はこの景色を見たくて砂利道に入った。
真冬の黄色.jpg

チャッピーとよく歩いたのはユキが来る2009年3月までだったから、もう7年も前のことになる。遠くに見える柵の向こうには池があり、あの頃この土手もよく歩いたね、チャッピー。
チャッピーのおかげでこの地も私の故郷になっていた、第三の故郷に。

チャッピーが居なくなって50日。


寒さはもっと厳しくなって週明けまで続くそうだ。

posted by 優子 at 23:21| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2016年01月01日

主の2016年開く 冬晴れの元旦

主の2016年 明けましておめでとうございます。
2016冬ばれの元旦.jpg

昨年は雪が降る寒い元旦でしたが、今年は空は真っ青で穏やかな冬晴れでした。

新しい1年の幕が明けました。
そして、2006年のお正月に次女にブログを開設してもらって、早いものでちょうど10年が過ぎました。その間に公私ともに状況は変化し、日本や世界は混沌を深めるばかりです。

この年も行く先にどんなことが待ち受けているのかわかりませんが、全てのことを神に委ねて、今まで以上に熱心に主と共に在りたいと思います。

「人の心には多くの計画がある。
しかし主のはかりごとだけが成る」。
 
やはり新しい年の初めはこの聖句を想います。

年賀状2016.jpgこれが2016年度の年賀状です。
写真は昨春3月31日のチャッピーと孫・幸悠(ゆきひさ)です。

当地に引っ越して今年で17回目のお正月ですが、思い起こせば1回目のお正月から常にチャッピーが一緒でしたから、初めてチャッピーがいないお正月です。


そして、これが知子とユキの年賀状です。
知子2016年賀状.jpg


次女夫婦が年末年始に帰国しない時はいつもしているように、今年も元旦の朝に(今日は11時から)2時間余りスカイプしました。ワシントンはまだ大みそかの夜でしたが、日本時間に合わせて新年の挨拶を交わしました。

現在私たちが所属している教会は元旦礼拝はないのですが、スカイプを通して新年を迎えることができたのも神さまのおかげと新年の恵みをいただきました。

その次女とのやりとりは是非次のページに記したいと思います。
特に今年は私たちが次女を通して新年の恵みを受けるばかりでした。

午後は何年か前まで元旦のチャッピーの散歩はいつも家族そろって歩いたように、元旦に、何よりも久々に家族そろって散歩に出ました。これこそが天使犬・チャッピーが残していってくれたものです。


私も久しぶりに歩きました。チャッピーと一緒に歩いた道を。
まずは30分ほど歩いてコンビニへ行き年賀状を30枚買い足して、そのあとはチャッピーも知らない初めての道をユキに案内されて、1時間半、1万歩きました。

雪降る元旦@.jpg2015年元旦は雪降る寒い元旦でしたから、チャッピーにも今日の暖かい陽射しを浴びさせてあげたかったです。


これからチャッピーのいない日々が始まります。
特に今年は四季を通じて何を見てもチャッピーを思い出し、時には涙を流すでしょうが、それも神の恵みです。

私も新たなチャレンジをしていこうと思います。
神さまからいただいたそれぞれの新しいキャンバスに、今年はどんな絵を描いていくのでしょう。

人生に真摯に向き合える人は幸いです。喜びだけではなく痛みをこそ分かち合い励まし合って人生を渡っていきたいものです。

互いに神さまのお導きに気づいて導かれていく者でありますように、共に新しい歩みを始めましょう。


posted by 優子 at 23:50| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2015年12月31日

2015年を送る

神様が必要な助けを神様のタイミングで必ず与えてくださる。・・・人間は人間を救えないし守れない。経済的にも。ここまで守られてきたのは、本当に私達を愛してくださっている神様。・・・

神さまを仰いで、涙をもって賛美し、歩み続けてきたママらしい生き方を今こそ取り戻してほしいです。・・・

敬愛する真智子より今朝メールが届いていた。
そして今夕、先週のクリスマスのメッセージに続いて、新年を迎えるにあたり東(あずま)牧師からお手紙を拝受した。

御恩寵を祈ります。・・・
1年間を顧みていろいろな煩わしい事や困ったこともあったでしょう。それもこれも一切を主に委ねて、ゆっくり1年の疲れをやすませましょう。

夏目漱石の一句があります。
「行く年や猫うづくまる膝の上」
何の不安も無く飼い主のあたたかい膝の上にうづくまって眠っている猫の様に、私達も神様の愛のみ手のうちにうづくまって休ませて戴きましょう。

(このあと旧約聖書から7枚にわたって
祝福のメッセージを書いてくださっている)

来年2月にまた私共の教会をご利用戴けることを楽しみにして居ます。文集の発行を楽しみにしています。

どうか新年を全能の神の宇宙を支配し歴史を動かす強力な力におすがりして、たくましく元気でお迎えください。

クリスマスの翌日、信仰の友M.Mさんからもありがたいお心をいっぱい頂いた。祈ってくださっている方々のことを身に感じて感謝している。

おかげさまで今朝からそれぞれに新たに歩み始めている。
今年も受けた多くの恵みを感謝して忘れないで、今新たな気持ちで2015年を迎えよう。


posted by 優子 at 23:55| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2015年10月30日

1年なんてアッという間、早くも64歳の誕生日 

「光陰矢の如し」「光陰流水の如し」「光陰逝水の如し」「歳月流るる如し」「時節流るるが如し」「盛年重ねて来らず」・・・挙げればキリがない。
時は同じ速さで進んでいるのに、年齢を重ねるほど速く感じるのは何故だろう。人生の充実を感じるからだと思うが、60代も半ば近くになってくると先行きの短さをますます実感するようになり、聖書(詩篇90篇10、12節)の言葉も一層現実味を帯びてくる。

「われらのよわいは七十年にすぎません。
あるいは健やかであっても八十年でしょう。
しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、
その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。

われらにおのが日を数えることを教えて、
知恵の心を得させてください」。

      
私は高校3年生になった時、上級生がいなくなって何か正体不明の感覚があった。そして妊娠中の時のこと、最初は2ヶ月に1度の受診が安定期を過ぎると1ヶ月ごとになり、8ヶ月になると2週間に1回、そして、9ヶ月になると毎週になり、予定日が近い妊婦さんと顔なじみになる。

そして先の人が居なくなっていく。まるで出陣していく特攻隊のよう。高校3年生の時に感じた正体不明の感覚こそこれだった。最前線に立つともう先の人がいない!この感覚の決定的な経験は両親が地上から姿を消した時だ。

私の前に存在していたつい立てのようなものが取り去られて風通しがよくなった。次は私の番だと最前線に立たされた気持ちになった。


母は70歳で、父は75歳で召されたが、そののちは亡き両親の年を数えては、もし健在ならばと両親の姿を想像するのが習慣になっている。想像の父は90歳で母は89歳になった。

この10年余りで90代でも全く驚かない長寿時代になり、先月も「私は今から米寿のお祝いに行ってきます」と元気溌剌のYさんに声をかけられた。
両親の年代の人がいつまでも元気でいてくれるのが嬉しく、何よりもその溌剌さに気弱な私は唖然とするほどの感動を覚える。

しかしながら、これを書いていて思ったが、そろそろ亡き父母の年齢を数えるのはやめよう。そうでないと想像の世界でもう一度喪失体験をしなくてはならなくなる。


「60歳代は1年ごと、70歳代は1ヶ月ごと、80歳代になると1日ごとに体力が衰えていく」と、よく耳にする。確かに63歳ぐらいからガクンと落ちたように思う。

読書会に通っていた時、敬愛していた今は亡き近藤一さんは「この年になると予定が立てられない。体調は日によって違うから、その日の朝にならないとわからない」と仰っていたが、この年齢にして早くも今週はまさにそうだった。

ようやく風邪気味も抜けて27日火曜日は久々に体調がよくコーヒーを飲んだ。私にとってコーヒーが飲みたいかどうかは体調のバロメーターでもある。気力も充実して机に向かった。
ところがその午後はもうしんどくて怠けてしまった。そのあとも冴えなくて昨日一昨日は時間を無為に過ごしてしまった。

今という時は二度と戻ってこないのに怠惰な自分に嘆く。人生で最も大切なものは時間だ。「盛年重ねて来らず」(若い盛りは二度とは来ないから、その時代を空しく過ごしてはならない。)を文字って自らに言おう。

「生ある者、今が最も若い時、この時重ねて来たらず、今を懸命に生きよ!」と。


小学校の入学式.jpgこれは小学校の入学式の日。
肌寒い日で風が吹いていたことや、母の手作りの白い服、スカートの裾に刺繍がしてあったこともよく覚えている。

中1修養会.jpg



これは中学1年生の5月、もう51年も前だ。
同志社に入学すると、新入生は初めての中間考査の最終日に琵琶湖畔の唐崎(からさき)ハウスで一泊2日の修養会がある。通学かばんは教職員の会議室に置いてくる。
PTAの委員になった関係で母も来たことがあり、その時に歌った讃美歌90番が母の愛唱歌になった。
そして、私は64歳になった。
この日を迎えられたことを神さまに感謝します。

今日は近隣のNさんが元気のない私を連れだしてくださり、3時間ペチャクチャお喋りして元気になって帰宅。ユキが帰宅する8分前だった。
パソコンを開くと今年もワシントンの次女夫婦からバースデーカードが届いていて、もっと元気になってネヘミヤの言葉を思い出した。

「主を喜ぶことはあなたがたの力です」。
                   (ネヘミヤ書 8章10節)

バースデーカードから一部だけ記録させてもらおう。

御言葉カレンダーのカードも、使っているよ。教会でも、奏楽したくなってきて、先週初めて挑戦したよ。自分らしい演奏で賛美していこうと思うよ。生きることもそうなのかもな、と思ったよ。

ママはまさに、人生を通じて神様への賛美を綴っていっているね。今年も、神様と共に、素晴らしい日々を過ごしてね。健康も守られますように。お祈りしているからね。
真智子

先日の日曜礼拝で、真智が初めてピアノでの奏楽のご奉仕をさせていただきました。長いブランクにも関わらず、しっかりと7曲も弾くことができて、僕は感動しました。これを機に、僕も礼拝準備や賛美隊への参加をしていこうと思っています。

この一年も、優子お義母さんに主の祝福と恵みが豊かにありますよう、お祈りしています。
太志

真智は中学校の卒業式でピアノ伴奏をしてからピアノから遠ざかっていたのにすごい。経済学者の奏楽者。(^−^) そして、伴侶・娘婿の「僕は感動しました」の言葉に感動し、魂にも届く元気が出る贈り物だった。
そちらの教会では「聖歌隊」ではなく「讃美隊」というようだ。大いに讃美されたし!

「今年は2016年の御言葉カレンダーを既に10月10日に買ったよ。広岡浅子展を見に行った時にね。年末に銀行の手帳と美濃紙業のかわいいカレンダーが手元に届いたらすぐに送るね」。

初めて一人でネスプレッソ.jpgそして、これは知子からの贈り物。9月の5連休に高島屋で購入した。
あの日、試飲して購入しようとしたら、知子も同時に声を上げて、これが私への最適なプレゼントと考えていたのでと、どうしても払わせてくれなかった。

確かに気力が充実している時はコーヒー豆を挽く時間さえ惜しい。これだったらすぐにおいしいコーヒーが飲めるから独りになった時に楽しんでほしいとプレゼントされたのだ。ありがとう!

ところが最初の一杯は美味しかったけれど薄めても苦い。私は本物の味がわからなくて、体調のよかった火曜日もいつものコーヒー豆を挽いて飲んだ。(>_<) ありがとう!

知子、真智子、太志君、Nさん、
また今日から新しい気持ちでやりま〜〜〜す!!!
ありがとう!!!

posted by 優子 at 23:59| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2015年09月15日

リハビリに通う風景

空.jpg肩の腱を断裂して13日で半年過ぎた。
5月9日から始まった理学療法士による運動(リハビリ)は今日で13回目だった。
4ヵ月間に13回は少ないように思うが、女性の療法士さんが1名しかおられないので、次の予約は早い時でも1週間後で、2週間近く空く時も珍しくなく日時も不定期だ。

そんな少しずつのリハビリでも今では信じられないほど回復した。当時の痛みは耐えがたい激痛だった。横になりたいのになるのが苦痛で、特に最初の1ヶ月はようやく眠れても痛みで何度も目が覚めた。

それが4ヵ月経つとかなりできることが多くなった。とはいえ、今日も「肩の動かし方を忘れてしまっている」、「まだ脱力できていないから痛くて動かせない」と指摘されたが、9月に入ってからエプロンの紐を後ろ手で結べるようになったし、大股で歩く時に腕を振って歩いてもほとんど痛くない。手(チョキ) るんるん

娘たちや友に励まされ祈られてここまで回復した。ありがとう!かわいい

IMG_5388.jpgリハビリの帰り道、カメラ撮りを楽しみながら歩いた。






リハビリの道.jpg
ここだけは自動車が通らない。
あんなに賑やかに鳴いていたクマゼミやアブラゼミの声は消え、夏の名残りを告げるツクツクホウシも命果てる時を感じてか、何か落ち着かないように鳴いていた。叢から虫の声が聞えていた。

ザクロの実.jpgザクロが実をつけ、しばらく行くとピンク色のノウゼンカズラが美しい。










のうぜんかつら.jpg


そして、実をいっぱいつけた栗の木を見た時は、「こんな木が家にあったらいいなあ」と思った。

栗の木.jpg
「桃栗3年、柿8年。梨の馬鹿野郎18年」。
桃と栗は芽を出してから3年で実を結び、柿は8年、梨は何と18年もかかるというのだが、60歳になった時にも思ったものだ。今からでも栗と柿を植えれば少しは食べられるのではと。
何度もその思いに駆られたが、僅かな空間があっても日が当たらないので諦めた。
 
シュウメイギク蕾ほころぶ.jpg我が家の庭のシュウメイギも蕾をほころばせていた。







秋の朝顔.jpg





今朝、朝顔が咲いていた。その横の鉢に昨年ユキにもらった種を植えると、かわいいフウセンカズラ(風船葛)が実をつけた。

posted by 優子 at 23:53| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2015年09月11日

杞憂に終わった認知症 

検査結果の説明で呼ばれるまでの間、厳粛かつ謙虚な気持ちにさせられて思い巡らせていた。

2008年6〜7月の膀胱癌の疑いは震え上がったが、今回もあの時のように無罪放免にはならないだろう。認知症も怖いが、残酷な神経難病も怖い。どちらかを告知された時、私はどうするのか。これからまだ動ける時間を、まだ自己認識できる時間をどのように使うのだろうかと。

心配事が解消されても喜び踊る気持ちにはならなかった。昨日の大雨で茨城や栃木では大変なことが起こっている。そして私は今再びしばらく時間をいただいたのである。自分のために生きるのであってはいけないと、漱石のことを思い出していた。


「生き延びた自分だけを頭に置かずに、命の綱を踏み外(はず)した人の有様も思い浮べて、幸福な自分と照らし合せて見ないと、わがありがたさも分らない、人の気の毒さも分らない」。

「四十を越した男、自然に淘汰せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙しい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、病(やまい)に生き還ると共に、心に生き還った。

余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれに打壊(うちこわ)す者を、永久の敵とすべく心に誓った」。


この文章は、1910(明治43)年、漱石が保養先の修善寺で大喀血して30分間意識を失って重体に陥った、いわゆる「修善寺の大患」で生命のはかなさと生き返った感謝と喜びを綴った『思い出すことなど』に書いたものである。
この時の漱石の思いに自らの心境が重なり、私もまたこの考えを打ち壊そうとする古き自我と闘いたいと思う。

今朝、近隣の友から教えていただいた上本町にある脳のクリニックへ行った。そこは、今日行って今日MRIの検査をしてもらえるのだ。

近年は記憶力の甚だしい低下だけではなく、最近は言われても思い出せないことがいくつかあり、これ以上楽観的に考えることはできず、脳に異常が起きていることを覚悟した。

新しいことをするのが脳に良いことなのに、不慣れな役や内容の仕事、また、ストレスフルな話になると、頭がジーンとしびれたような感じになり持続する。

まさにパソコンの「ヤフーは応答していません」状態で思考力が止まってしまうのだ。しかし、例えば先月の信徒説教で話せねばならない時は、さほどストレスを感じなかった。

検査を受けるのは勇気が要り、決断するまで数日要した。肉体の寿命を宣告されるのも怖いが、精神寿命を宣告されるのも怖い。自分の人格が崩れていくのだから。

しかし、心臓死のように突然ではない。最終段階になるまでにやりたいこと、やらねばならないことができる。しかも現代は発見が早いと進行を緩める薬があるので、家族のためにも努力しなければならないと心が決まった。


友は言った。
「あなたが認知症になったら誰が困る? 家族でしょ。知ちゃんが大変になる。今ならば発症していても初期だから。一緒について行ってあげようか?」

幸いにして認知症の心配は杞憂に終わった。私が人知れず心配していた小脳の萎縮も全くなかった。

と言うのは、半年ほど前から夜に外を歩くと宙を歩いているような感じでバランスがとれず、昨日は昼間でもふらついた。母が負った神経難病・脊髄小脳変性症が発症しているのではないかと思った。脳がしびれたような感じになるのも小脳の異変かも知れないと。

論理的に話せないことも医師に伝えた。
医師は私に、目を閉じて手のひらを上にして両手を前方に90度あげるように求めた。小脳関係のチェックだとすぐにわかった。右肩腱板断裂の心配もあったが、前方には痛みもなく伸ばして上げることができ、いつまでも静止できた。

そして、首のエックス線を2枚撮り、15分間のMRI検査、そのあと、例の認知症の質問を受けた。

今日の年月日を聞かれた第1問目から危うかった。何を思ってか「せんきゅうひゃく」と言ってしまい、即「2015年・・・」と言い直した。100から7を引くと93、93から7を引くと86。緊張して時間がかかった。計算の得手不得手も斟酌しないと診断を誤るのではないか?

決定的にダメだったのは、「桜、猫、電車」を覚えて、あとで聞かれた時に「電車」が言えず恐怖を感じた。5つではなく3つだったのに忘れるなんて! 「乗り物」というヒントで瞬間的に答えたものの1点減点で、30点満点で29点だった。

25点以下は「認知症の疑いあり」で、20点以下は認知症だというから30点満点でないと正常ではないと思うが、「まあこれは年齢的な物忘れで気にしなくても良い」とのことだった。しかし、無念だ。

思い出せるのは物忘れで、以前はできたのにできなくなったというのが認知症だという。

そして、再び呼ばれて画像を見ながら医師より詳しく説明を受けた。

小脳も大脳も全く萎縮はなく、年齢を超える萎縮の度合いは全くなかった。脳の血管が詰まっているところも、脳梗塞を起こしたあとも全くなしという結果も非常に嬉しかった。きっと父のように多発性脳梗塞ではないかと心配していたから。

ただし、脳内の血管に1箇所、小さく膨らんでいるところがあり血管性の病気が少しあるが、まず大丈夫であろう。もしもこれが破裂してもくも膜下出血にはならないとのことだった。

また小脳の外側の髄質に白く映っている水っぽいものがあった。これは頭蓋骨の中にできた物らしいが、この2点を1年に1回MRI検査で経過観察となった。
それでも最後に、「これから30年は使えますよ!」と仰ったので安堵した。年齢的な衰えはあるが、要は頭が悪いのだ!

首のエックス線では、頸椎が年齢相応に歪んでいるので、頸椎の中を走る血管もまっすぐに走っていなかったが気にしなくてもよいとのこと。

降圧剤を飲み続けると認知症になると心配していたのは間違いだった。
脳を老化させないように最大限度良い状態に維持するのが血圧の維持であり、血圧が110〜120台に維持できていないと脳の機能低下が起こり認知症を誘発するということだった。血圧のコントロールにもっともっと真剣にならねばならない。


症状説明のメモもせずに行ってしまい、医師の見解を聞けなかったことがある。よく使っている簡単な言葉がわからなくなることはしばしばだが、物忘れと言うよりもわからなくなる現象があるのだ。

例えば数日前の夫との会話で、「公明正大にやりたい」と言いたいのに、「こうせいめいだい」としか言えず、しかも私の頭の中では「公・正・明・大」という字が浮かんでいるのに、この4文字を正しく並べられなくて、夫に言ってもらって「それが言いたかった」ということがあった。何という恐怖!

こんな大事なことをメモもしないで行くのは怠惰な性格の反映だが、仮に思い出そうとしてもなかなか思い出せないのだからメモしておかなくてどうする!

クリニックを出るとゴミ収集車の音楽が聞こえた。何と懐かしいメロディだろう。東大阪市の音楽でもなく、40年も前に聞いていた大阪市のゴミ収集車のメロディだった。
駅までの数分間は父母の居た時空だった。



附記:10時28分、近鉄デパートの公衆電話から知子に結果を伝えた。受話器を置いたのにおつりが出てこなくて待っていると目に入った。「10円・100円はおつりがでません」と。携帯電話を持たずに生きるのもいよいよ限界か。

posted by 優子 at 21:30| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2015年07月28日

叔父の17回忌に

7月26日(日)、叔父の17回忌の法要で神戸市灘区にある妙善寺に出かけた。叔父は私たちが当地へ引っ越してきた1999年の夏に逝き、翌年の夏に父も亡くなった。

この席に従弟T君の姿が見えないのが悲しく、それがわかっていても「トイレに行っているのかな」と、居ないT君を探していた。

叔母の胸中はいかばかりか。親にとって我が子に先立たれる以上の悲しみはない。ただただ叔母の上に神さまの慰めを祈るばかりである。妹のAちゃんの上にもまた。

浄土真宗の聖典である『勤行(ごんぎょう)集』は、祖父母や両親の葬儀の時から聞きなれ耳に懐かしい。叔母の慰めになるのならと思って読経した。
寺ではこの前日にご住職が亡くなられて、境内では翌日翌々日に備えてテント設営中だった。取り込みの中にも関わらず現住職のいつも変わらぬ心ある応対と読経に感銘を受けた。

寺をあとにして「灘の清酒」の酒蔵の町並みを数分間自動車に乗って「酒心館」へ移動した。前回は2012年1月末の従兄弟の一周忌の折に、こちらで食事のもてなしを受けた。

神戸酒心館は創業1751年の清酒「福寿」の蔵元で、2012年のノーベル賞授賞者が神戸大学出身の山中伸弥氏だったことから、その晩餐会で「福寿 純米吟醸」が提供されて一躍有名になった。

テレビでも紹介されていた庭内の酒樽の中で今回も記念写真を撮った。前回と全く同じメンバーで! お許しを得てお顔も消さずに掲載させていただいた。3年前の写真をここに貼りたいのに古い方のパソコンにもなかった・・・

叔父の17回忌に@.jpg

中央のEさんは従妹の義父で、私の敬愛するお1人である。人情に溢れ、実に博学で世間知に富み、絶妙な話術ですぐに引きずり込まれる。今ではすっかり肉親のように思う大切なご家族だ。

従妹のお婿さんは会うたびに「真智子ちゃんはいつ帰ってくるの?」と尋ねてくださり、叔父の葬儀以来ご無沙汰しているのに今も忘れないでいてくださっている。

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Eさんのお話をお聴きしているうちに、私の緩慢になっていた意欲や情熱が引き出されて、今は魂のエンジン全開で心が軽い。親子ともども誠実の塊。善良に生きる人々の上に神さまの豊かな祝福がありますように!

最後に夏の夜空をお楽しみください。
従妹の御伴侶は何度も写真展で大きな賞を受賞されているプロ級の腕前だ。これらは法事前夜の25日に芦屋の花火大会で写されたものや神戸の花火大会で撮られたもので、送っていただいた中からいくつかを掲載させていただいた。

ファイルを初めて開いた時、私はあまりの美しさに絶叫した。

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まさに傑作!

EさんのHPはここ、『ポンタの写真道楽』をクリックしてお楽しみください!

私は帰り際に矢継ぎ早に撮影の心得を尋ねた。
人物を撮る場合は目に焦点を合わせること。それは虫や生き物でも同じ。風景を写す場合は、「主になるものと脇になるものがわかればうまく撮れるようになる」。

文章を書くのと同じだなと思った。
文章を書くにも焦点が定まっていないとメリハリなく、ずっと同じ高さで書き連ねた全く退屈な駄文になってしまう。やはり何を創作するにも作者の感性とこだわりが必須なのだ。

私は簡易なデジタルカメラだが撮るのが本当に楽しいので、アドバイスを心に止めて感性を磨いていこう。

「とにかく撮り続けること」!

仕事でも何でもすべて試行錯誤し実践を重ねながら体得していくのだ。
人生も然り。
生きるって素晴らしい!


附記:真智子夫婦は(日本時間)30日の午前1時半頃にワシントンを離陸する。東京へは30日15時半頃に到着し、帰宅は夜の8時過ぎ頃か?

今回は「ホーム・リーブ」と言って、3年に一度母国に帰る費用をIMFが出してくれるという。国連職員は2年に一度だそうで、妹は1年で辞めたのでその機会はなかったが、母国を忘れず母国の様子を肌で感じてくる意味合いもあるという。

ただし10日間は滞在せねばならず、昨年は何度もアジア圏の国々とワシントンを行ったり来たりしていたので機会がなかった。

IMFに入って丸4年、9月から5年目に入る。
今回も無事に再会できますように、神さまがあらゆる危険からお守りくださるように祈ります。

posted by 優子 at 14:17| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする