2012年05月30日

漱石の「私の個人主義」

今日はスローダウンから脱しつつあるが、この1週間ほど身体が重くしんどくてならなかった。元来が怠惰な者ゆえに自らに鞭打つも動けなくて、挫折感も加わって心身共に冴えない状態でゴロゴロしていた。

しかし、数日前から奮起して漱石を読み始めている。日本クリスチャンペンクラブの6月研究例会に備えての読書だ。

夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、遠藤周作は、これまでに私の中で何度かブームがあった。漱石を読むのは2005年以来だろうか、それまで継続していた思索活動は長女の一大事で一変してしまい、2009年春以降じっくり文学作品を読んだ記憶はない。

今回の課題図書の一冊『私の個人主義』は、今からちょうど100年前の1912(大正3)年11月25日に、漱石が学習院輔仁会で講演した記録である。
それは『こころ』を書いた2年後であり、亡くなる4年前のことだ。漱石の言う「個人主義」は「自己本位」と同意語と解することができる。

講演記録とあって漱石を直に感じ、早々からまるで私も聴衆の一人になって聴いているような気分だった。21世紀に入った現代でも全く異和感がないどころか、現代人は今も同じ課題で励んでいるのであり、100年前に風穴を開けた漱石の偉大さを思う。

次に思ったことは、漱石はもとより聴衆も全て死んでしまったことを思い、暫くの間ぼんやりと一点を眺めながら限りある人生をいかに生きるか、また、同時代の人々との連帯感に考えを馳せていた。

かつて私は漱石の晩年の境地を表す「則天去私」(天に則り私を去る)を、「『自己本位』で自己の精神を確立支配しようとして成らず、その対極にある『則天去私』を唱え迷走した。」と読書会の機関誌に書いたが、「則天去私」は「自己本位」と対極にあるのではなく、その延長線上にあるとも捉えられるのではないか。

というのは、漱石が生涯かけて求め続けた問いかけに対して光らしきもの、結論への手応えを感じつつあった時に人生の終焉となって、「いま死んじゃ困る。いま死んじゃ困る。」と言ったのかも知れないとも考えられる。
http://yukochappy.seesaa.net/archives/20060128-1.html

「耶蘇嫌い」で有名な漱石だが、キリスト教の影響を強く受けている。
いずれにしても、漱石は生涯求め続けてきたテーマの解決を得ずに人生を終えたと見るのは妥当であろう。そんなことを考えたあと、最近よく思い出す西口孝四郎氏の言葉が脳裡に浮かんだ。
 

「文学に玄人も素人もない。即ち学問のあるなしではなく、それぞれの感受性が勝負になる。自分の立場で深く読んでいくことが大切であり、目に見えないものを見、耳で聞こえないことを聞くのが文学を読む者の心である。

文学研究家には、作品について問題が出てきた時に、文献上の知識を話して頂だけばよい、そういうことだ」。

http://yukochappy.seesaa.net/archives/20080226-1.html

この姿勢は漱石の、「この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。」と語った考え方と類似する。

文学作品を作る者と読む者の違いこそあれ、読む側も評論家の説を鵜呑みにするようではいけない。独自の読み方を深めていきたいものだ。研究例会ではクリスチャン文学者の評論を拝聴できるので自分の文学を深める機会となる。
以下は私の読書メモとして本文から引用抜粋したものである。

それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。

もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。

ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。

容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡(もた)げて来るのではありませんか。

すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄(もや)のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。

必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。

もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰(ふみつぶ)すまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。

・・この私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。その苦痛は無論鈍痛ではありましたが、年々歳々感ずる痛には相違なかったのであります。

だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛にお進みにならん事を希望してやまないのです。

もしそこまで行ければ、ここにおれの尻を落ちつける場所があったのだという事実をご発見になって、生涯の安心と自信を握る事ができるようになると思うから申し上げるのです。

なぜそれが幸福と安心とをもたらすかというと、あなた方のもって生れた個性がそこにぶつかって始めて腰がすわるからでしょう。
そうしてそこに尻を落ちつけてだんだん前の方へ進んで行くとその個性がますます発展して行くからでしょう。ああここにおれの安住の地位があったと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しっくり合った時に、始めて云い得るのでしょう。

それで私は常からこう考えています。第一にあなたがたは自分の個性が発展できるような場所に尻を落ちつけべく、自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進しなければ一生の不幸であると。

今までの論旨をかい摘(つま)んでみると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。

第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。
第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります。
 
これをほかの言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。

それをもう一遍云い換えると、この三者を自由に享(う)け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。

私はあなたがたが自由にあらん事を切望するものであります。同時にあなたがたが義務というものを納得せられん事を願ってやまないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚(はばか)らないつもりです。この個人主義という意味に誤解があってはいけません。

個人の自由は先刻お話した個性の発展上極めて必要なものであって、その個性の発展がまたあなたがたの幸福に非常な関係を及ぼすのだから、どうしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差支ないくらいの自由は、自分でも把持(はじ)し、他人にも附与しなくてはなるまいかと考えられます。それがとりも直さず私のいう個人主義なのです。

『私の個人主義』はネットの「青空文庫」でも読める。(http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html


posted by 優子 at 18:17| 文学 | 更新情報をチェックする

2011年07月14日

40年ぶりに『黒い雨』を開く

原爆資料館で「黒い雨」のあとを見て井伏鱒二の『黒い雨』をもう一度読みたいと思って久々に開いた。

この本が出版されたのは1970(昭和45)年で、その翌年の大学2回生の時に庄野英二氏(児童文学者、父は帝塚山学院の創立者・庄野貞一、弟は作家の庄野潤三)の日本文学作品研究で読んだ。

この授業では、毎週1冊読んでくる課題図書があり全員が読後感を述べる授業形式だった。このたび手にするのはたぶん40年ぶりだと思う。

私がその時に述べたメモ書きには次のようなことが書いてあった。
井伏の描写力はすさまじい。本を読んでいて何回顔をそむけたかわからない。

「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の平和より不正義の平和の方がいい。」
これは原爆を体験した人だから実感をもって言える言葉である。

アメリカは何のために原爆を落としたのか!!
心から憤りを感じた。

人間は容易に過去を忘れて現実を受け入れていく。憎しみについてはそうでなければ生きていけないだろうが、この地獄は忘れることなく生かさねばならない。

この地獄を伝えていかないと私たちは忘れてしまい、いつかまた人は同じ事を繰り返すだろう。人間とはそういうものだ。

日本人が一体となって平和を叫び、核兵器を持つ国を無くならせることが、原爆を知っている日本人の責任であると思う。

『黒い雨』を簡単に拾い読みしただけだが、主人公の名前もよく覚えていたほどに強烈な作品であり、40年の人生経験を経ての感想の骨子も19歳の時と変わっていない。

井伏鱒二の描写の凄さとは、たとえば原爆投下直後に亡くなった人々を兵隊たちが戸板やトタン板で運んで穴の中に放り込むところもそうだ。(新潮文庫・昭和46年10月5刷・P165〜166)

穴ぼこに死体が多すぎて焔が下火になると、穴のほとりへどしりと死体を転がして行く。その弾みに、死体の口から蛆のかたまりが腐爛汁と共に、どろりと流れる出るものがある。

穴のそばに近づけすぎた死体からは、焚火の熱気に堪えきれぬ蛆が全身からうようよ這い出して来る。なかには転がした弾みに、関節部に異変の起きたものがある。

たとえば童話のピノキオが、関節部の留釘を抜きとられたことのような始末になってしまう。ピノキオは板と留釘とで組立てられた玩具だが、それでもなお臑(すね)を何かに打ちつけると、自分が木であるからして痛さを感ずるそうだ。況(いわ)んや死体は生前には人間である。

「この屍(むくろ)、どうにも手に負えなんだのう」
トタン板を舁(か)いて来た先棒の兵がそう云うと、
「わしらは、国家のない国に生まれたかったのう」と相棒が云った。

僕がこの場で聞いた人間の声は、トタン舁きの二人の兵が交したこの言葉だけである。そのトタンの上の死体は、ピノキオの留釘をすっかり抜きとったようにして纏(まと)められていた。

僕は思わず知らず「白骨の御文章」を口のうちで誦(とな)えていた。
広島はもう無くなったのだ。それにしても広島という町が、こんな惨状で末路をつげるだろうとは思いもよらなかった。

この授業で庄野先生が言われたことは:
「井伏はレンズが捉えるほどによく書き取っており綿密である。
あらゆるところにオトボケのような井伏のユーモアがある。井伏の文学を読む時はこれを考えること」。


また、「宝石箱をひっくり返したような輝かしい青春を持とう!」と言われた庄野先生の言葉を40年ぶりに思い出した。作家らしい表現と内容に感銘を受けて走り書きしたメモがノートの欄外に残っている。
そして、そのような青春時代でありたいと願いつつ20〜30歳代を過ごしていた。

ウィキペディアによれば、庄野先生は「BC級戦犯容疑をかけられたが、佐藤春夫がマッカーサーに宛てて書状を送ったため釈放される。」とあるので、特に青春への熱い想いがおありだったのだろう。

1993年に78歳で亡くなられているので、指導していただいていたのは先生が56歳の頃だ。返却された提出物に懐かしい「Eiji」のサインが残っている。学内に掛けられていた絵画のサインと共に懐かしく思い出される。

私の持ち時間もそう長くは残っていないから、少しでも多く黙想し思索する時間をとりたい。

最後に『黒い雨』の中で何度も出てくる「白骨の御文章」を読んでみたい。これは浄土真宗の葬儀で何度も聞いたことがある。

「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら觀ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。

されば、いまだ萬歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。

我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露(つゆ)より繁しと言えり。 されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。

すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)の装いを失いぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり。

されば、人間の儚き事は、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ」。


これを読むと底なしの虚無の悲哀に落ち込んでいくが、私はまことの神と出会い、イエス・キリストと共にある平安と希望の恵みに感謝があふれる。

この世の旅路を希望をもって生きがいある歩みとして下さるために与えて下さった信仰、これ以上の大いなることはない。より良き日々を生きたい。

posted by 優子 at 18:14| 文学 | 更新情報をチェックする

2011年02月08日

深い感動に浸る『わがままな大男』

文香さんの2月4日のブログで『わがままな大男』という童話を知り、6日の夜にアマゾンに発注した。今は大手の書店まで出向かなくても、家に居ながらにして手に入るのでありがたい。

原書に忠実な訳本はどれだろうと悩み、小野忠男氏の名前への信頼で決定したが、期待を裏切られることはなかった。

ワイルドの『獄中記』は大学時代あたりに読み、今も印象に残る1冊である。
ワイルドは同性愛の罪で牢獄に入れられ、『獄中記』はその獄中で書いたものである。私の心に添う福田恆存(つねあり)の翻訳本には、あらゆる箇所に線を引いたあとがある。

このほか『幸福の王子』は知っているが、迂闊にもこの名著をこの年齢まで知らずにいたとは悔やまれる。娘たちも知らないのではないかと思う。

今朝、チャッピーとユキと朝の散歩から帰って来た時、ユキが郵便受けから本を見つけた。
生協さんが来るまでに掃除をと思っていたが先に読んでやった。ユキよりも私のほうが後回しにはできなかったのだ。

小野忠男氏の手による訳本は素晴らしいものだった!

読み終わった時ユキは言った。
「初めは大男が怖かった。それから、ちょっと悲しくなった」。

3歳6ヶ月の幼児にしては感度良好だ。
これから何度も読んでやりながら、イエスさまの話と共に豊かな想像力を伸ばしていってやりたいと思う。

この大男の姿は我々人間に巣食らっている本質でもあろう。
童話に登場する両方の手のひらと両足に釘のあとがある「小さな子ども」は、神の子イエス・キリストであり、ワイルドは神の愛によって人間は救われることを述べているのである。


大男の庭は大男の心のありさまであり、しかし、いつしか「自分の心の高い塀に気づき、自らの手で塀を打ち破った」のである。

この本と出会えたのも神の導きである。
今まさに私の身近に、かつての大男の如き哀れな人がいるのだ。大男が自分で塀を打ち破ったように、自らの心の分厚く高いコンクリート壁を壊してほしいと願わずにはいられない。

大男の庭に遊びに来た子供たちを通して大男に気づきが与えられたように、神さまはいろんな方法で私たちに導きを与えて下さっているのである。

どうかその人も神さまと共に自らの心をこそ見つめてほしいと切に願う。


ワイルドはこの作品を34歳(1888年)で書いた。
46歳で亡くなる最後の著述となった『獄中記』にはこんなことも書いている。

「ぼくにとってなすべきただひとつのことは、すべてを受けいれることだと理解したのだ。それ以来―きっと奇妙にきこえるだろうが―ぼくは以前よりしあわせになった。

いうまでもなくぼくが到達したのは純粋な自分の魂そのものだった。いろいろな点でぼくは自分の魂の敵だった。

しかるにいまそれが友のごとくぼくを迎えてくれるのに気がついた。魂に触れるとき、ひとはクリストの教えさとしたごとく、幼な児のように純なるものとなる」。


『わがままな大男(巨人)』の粗筋は、「お気に入りリンク」の『生かされて』2月4日の記事をご覧頂きたい。

以上、ユキのお昼寝中に一気呵成に書いた。
さてさて、ユキもヒックンのように何度も「読んで」と本を持ってきてくれるかな?(^ー^)
改めて文香さんに感謝しつつ。


posted by 優子 at 16:01| 文学 | 更新情報をチェックする

2010年04月27日

読書ノート <中山義秀『碑』を読む>

何から先にやらねばならないのか優先順位もつけられず、落ち着かないまま今日も本を読んでいた。中山義秀のもう一つの代表作であり、作家として不動の地位を与えられた『碑』である。
この作品は『厚物咲』よりも2年前に書いているが、発表したのは4年後の1939(昭和14)年、義秀39歳の時である。

小説のあらすじは、小さい時から反(そ)りが合わなかった高範と茂次郎の兄弟がいて、三男・平太は狂気して母親を殺してしまい高範に仇討ちされる。
時は幕末から明治へ、大政奉還、廃藩置県と、時代の情勢が大きく激変する中で高範と茂次郎の人生が進んでいく。

そして、40余年ぶりに二人が再会して兄弟の交わりが始まる。
時流に乗って金貸しで成功した高範と、貧困のままであったが多くの人々にその死を悲しまれた茂次郎、共に思いのまま生きた二人であった。

兄は弟の遺体の前で、「お主は我が意どおりに世の中を渡ってきた。何も思い残すことは御座るまい」と声を張り上げて叫び涙を流した。この言葉、この心情こそが、義秀の心であり遺言だと言いたかったのではないか。 

この作品を書いたのは義秀が36歳の時であり、その頃は「一身の不遇に絶望していた」と書いているので、人生は実を結ばずとも努力することが大事なんだと大声で叫びたかったのであろう。


本文で義秀の魂を感じたのは以下のところだ。
茂次郎の生涯は失敗だったにしても、とにかく彼は自分一人の力で生きてきた。そして彼相応の努力をつくし、命を賭けて闘いもしたのである。
してみれば彼とても己の生涯を代償にして人生の底から掴(つか)み獲(え)た物が、何かあったことだろうと思う。それは言葉にも文字にもあらわせぬ心魂の響にすぎなかったにしたところで、やはり誰からの借り物でもなく茂次郎自身の物にほかなるまい。

「人生の底から掴み獲た物」とは、義秀が36歳の人生途上で得た境地であり、これを出発点として円熟していったと思われる。それは人生の意味を求めての行程であり、死の前日にキリストの救いを求めるに至ったと解することができる。

この作品は「作者自身の孤高の精神の悲しみを投影した名作であり、不遇時代の義秀が自らの墓標とする決意で書き上げた執念の作」とのことだ。

『厚物咲』でも感じたが、義秀には「性格」を人物や人生で大きく位置づけているように思うのは、私の考え方と少々異にするからだろうか。作品を読んでいると、義秀が性格というものを強く意識しているような印象を受ける。

それに関連して、「人は同じ教えを受けて同じ環境に育っても全く異なる人格に育っていく。・・・一人ひとり違うことをしっかり認識し・・性格や生きていることさえ自分で選び取ってここにいるのではない」と、今週の礼拝で語られた牧師の話を思い出していた。

兄弟姉妹でもそれぞれ違うという、そんな当たり前のことに深く頷きながら、私の兄妹、そして、長女と次女に想いを馳せ、人間の尊厳について考えさせられる作品でもあった。

『碑』はインターネット上の電子図書でも読むことができる。
書物では2段組で22ページの短編小説である。興味のある方はここをクリックされたし。(http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/novel/nakayamagisyu.html


posted by 優子 at 22:31| 文学 | 更新情報をチェックする

2010年04月24日

読書ノート <田宮虎彦の中山義秀論より>

評論家・中島健三は、中山義秀は孤独、孤高の人で、背丈は「5尺9寸(約180cm)に近く、容貌枯痩とでもいうか、雲突く男で、剣道の達人。武士の面影があり、酒を飲むとよく怒り出した」と書いている。

大岡昇平の追悼文(1969年8月21日付け朝日新聞夕刊より):

「(義秀が亡くなる1ヶ月前の病床で)文壇の気に入らない連中の悪口を言っていた。・・・男の醜さを彼のように底の底まで掘り起こした作家はほかにない。真に独創的な人格だった。・・・
しかし、彼は言った。『美しいものを書けよ。おれたちには義務があるんじゃないかな』」。

以下は、田宮虎彦の「中山義秀論」からの抜粋である。
中山義秀氏の作品を貫いている精神は、孤高の精神であり烈しい求道の精神である。孤独に身悶えしながら、なお生きる道を求め続けている人の悲しみと苦しみとが、氏のすべての作品をつらぬく色調の基本である。・・・

氏の作品は、ことごとく人間が自分の力の限りをつくして生きてゆこうとする姿を描いているといっていいと思う。・・・

菊は片野老人の化身であり、老人が縊(くび)れ死んでもなお美しく咲き続ける。・・・

「『厚物咲』は私の意識せぬ悲願のおのずから成れるものだった。『碑』は私の一種の遺言状である。・・・
(『厚物咲』について)私がこれほど完全に、作品に没入しえたことは、前後にない」

と、書いているが、氏の作品は、『厚物咲』にかぎらず、『碑』にかぎらず、作者と作品の中の人物とが完全に一体となりきっている。・・・これほど完璧に『私』を作品に没入しえた作品は数少ないといわねばならぬであろう。・・・

作品の中に書かれた暗い人物は、中山氏自身の分身であり、そのおかれた凄惨な環境は、中山氏自身が当時おかれていた凄惨な環境そのものであったのである。・・・

美しい花も、主観の暗さの投影で、醜い花と化し去ってしまうのだ。・・・
氏は『厚物咲』の執筆中、作品の暗さに、しばしば思いまどったと書いている。・・・すなわち氏自身の暗さに思いまどっていた氏でなければならない。

『梅花』(戦後の作品につながる作品)にきざす明るさは、勿論、氏の精神の円熟ということから生まれたといわねばならない。・・・『梅花』で氏が氏自身の心の底をのぞいた時、氏は新しい坂道をのぼりはじめたということができるようである。

「現実の生活に自足していれば文学は生まれない。」
「不幸や悲しみにうち砕かれた人間の魂は手痛く傷つけられると共に、彼の心情にある微妙な翳りを漂わせ愛と徳と人情の優しい滋味を帯びさせるようになる。」
と、氏は、また、書いている。・・・

それは、ただ悲苦から逃避したり、悲苦に眼をふさいだりすることによって得られる境地ではない。たじろぐことなく悲苦と対決し、それを克服せねばならぬのである。

不幸や悲しみにうちくだかれたままならば、それは人生の敗北者にすぎない。・・・傷を自分一人の手で癒した時、人は再生のよろこびを感じるのだ」。
(以上、筑摩書房『現代日本文学体系 68』・初版第13刷発行)より)

と書き、「死人を生きかえらすほどの努力」を要したと田宮虎彦は続けていくのだが、それだけだったとすれば、義秀は神と出会うことはなかったであろうと思う。仮に死の前日に洗礼を申し出た義秀だったとしても。

このあと、もう一つの代表作『碑』を読み、『梅花』、そして戦後の作品、『春日』と『寂光の人』を読むと見えてくるかもしれない。死の直前にイエスの御手にすがることができた義秀の心の軌跡を。

『春日』は「その一行一行が、春の日の野にもえたつかげろうの明るさでうずめつくされている」そうだから、書かれた時系列で作品を追っていくと何か感じとることができるかも知れない。


今はやりたいことやしなければならないことが山積みだが、一段落したらもっと腰をすえて『テニヤンの末日』と『少年死刑囚』も読んでみたい。
これは2枚くらいの原稿であるので、とりあえずは『厚物咲』の感想文でもいいではないかと、自分自身に言って逸(はや)る気持ちを抑えている。

付記:
今日は午後も陽射しがなく、一日中暖房をつけなければおられない寒い一日だった。
夫は美濃紙業の美友会主催の「春の遠足と新入社員歓迎会」で近江八幡へ出かけた。近江八幡水郷めぐり、水茎焼き陶芸体験とバーベキューの昼食。そして、情緒ある町並みを散策して6時半頃帰宅した。

私は長女の運転で食料品の買出しに行った。
最初に図書館へ寄ってもらって中山義秀の本を借りたのはいいが、昼食は3人で美味しいものを食べようと、買い物のあとを楽しみに出かけたのに、結局、家で粗食な昼食になってしまった。
しかし、3時間に及ぶ大笑いの買出しだった。


posted by 優子 at 22:15| 文学 | 更新情報をチェックする

2010年02月03日

芥川が最後に開いた聖書の箇所は?

芥川が自殺する夜(1927年・昭和2年7月24日)、芥川は午前2時頃まで2階で書いていた。

階下に下り、寝室の隣りの部屋には子供たち(長男・比呂志、次男・多加志、三男・也寸志。次男は父に似て最も文学志向が強かったが第二次世界大戦で戦死)が寝ていて、そばでウトウトしていた妻の文(ふみ)と視線が合い、「いつもの薬を飲んできたよ」と言った。

そして、寝床に入ってから聖書を開いていたが、薬が効いて聖書で顔を覆うようにして眠りに入った。
「茂吉さんが与えていた睡眠薬は、急に回ってくると、それこそぱったり眠りにつく」と、佐古純一郎は斉藤茂吉から実際に聞いている。当時としては最高級の睡眠薬だったそうだ。


芥川は「いつものように飲んできたよ」と言ったが、実は致死量飲んで寝床についたのである。彼は2度と目覚めることなく35歳の生涯を閉じた。

最後の寝床で聖書のどこを開いていたのかは誰もが興味深いところである。大家はエマオのキリストのところに間違いないと言われている。そこはルカ伝24章、有名な場面だ。

イエスが復活された日、それを知らずに悲しみながらエマオ村に向かって歩いていた二人の弟子に、イエスが現れたという箇所である。(最後の「続きを読む」にその箇所を掲げた)

というのは、絶筆となった『続西方の人』(この作品は文夫人が聞き書きしたものだったと思う)の最後を、「我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないであらう」という言葉で結んでいるからだ。
「これが芥川が地上に残した最後の言葉」であり、遺言でもある。

この言葉は「聖霊が言わせたんじゃないですかね。私にはそう思えてしようがないんですよ」と言った佐古純一郎(牧師)の言葉に、佐藤泰正もまた「そうですねえ」と、第一級の二人の文学者が同じ見解を述べている。


先日の日本キリスト教文学会で発題された細川正義氏の芥川への視線とは、同じクリスチャン文学者であっても少々異にするように思う。

私は昨夜遅くから今朝も目覚めてすぐ読んでいたのだが、この書物(『漱石 芥川 太宰』 朝文社・1992年発行、先日30日にお目にかかった宮坂氏のことも何度か話に出てくる)を改めて読むと、今まで芥川のことを「知の敗北」と片付けていた私は傲慢だと思った。

そして不思議に感じるのは、錆びついていた感性がたった一日で潤いを取り戻し、しかも、これまで以上に磨かれているように感じるのはどうしてだろうか。このたびの苦悩がもたらしたものなのか。

底なしの空虚に苦悩する芥川と、裁きの神しか見なかった絶望の太宰をじっくり読んでみたいものだ。

漱石に傾倒していた芥川、そして、「芥川の枕頭に開かれた聖書を取り上げて読み出した」太宰。

共に自己を深く見つめ、人間を掘り下げていった彼らへの関心は尽きず、私の中で眠っていたマグマが噴出してくるような勢いを感じる。


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2010年02月02日

日本キリスト教文学会メモ・芥川龍之介(後編)

関学の副学長細川氏もまたクリスチャン文学者で、この日は通っておられる教会の牧師も来られていた。以下は細川氏の話されたことの中から興味あるところをメモしておきたい。

芥川は東と西の対立する地点に立っており、日本人の変わらない価値観に西方のものというメスが入れられている。

『おぎん』は儒教の影響が非常に強い作品で、ザビエルの書簡を読まずして『おぎん』は論じられない。

ザビエルは1549年から1551年の2年間ほどの宣教で900人導いた。インドでは一ヶ月に1万人だったというから日本での伝道の仕方に問題があったのだろうか。

ザビエルは、「日本の第一の悪魔は釈迦と阿弥陀だ」と言っている。
日本人は中国の哲学を重んじるので、中国人が信じたら日本人も信じるだろうと考えたザビエルは中国へ渡ったが死んでしまった。

当時の宣教師といえばパードレ(神父)であるが、伝道者への批判もあっただろうが、遠藤(周作)は信仰者であり、芥川は正しくキリストに向き合うことができない負い目があるから、最後まで造形なものを見ていく芸術性になっていったのではないか

そこがクリスチャンでない芥川の限界であり、「父なる神、母なる教会」を持てなかったから自殺に至ったのではないか。それと、遠藤は皮膚感覚として「母なるもの」があったのに対して、芥川は無かったことも関係するだろう。


(※芥川は築地居留地の隣接地に生まれ、両親の大厄のために捨て子の形式をとられ斜め向かいの教会の扉の前に捨てられた。)

出席された牧師の発言:

『おしの』では宣教師のあり方も問題があったということだが、イエスに躓くのならばしかたなくとも教会の姿で躓かせてはならない。包み込むような教会でないといけないと思う。牧師への助言があれば伺いたい。

現代はアジアを一区切りにできず、例えば、日本のクリスチャン人口が0.7%に対して韓国は非常な伸びを示している。それについて興味深いことをお聞きした。

「大都会ではクリスチャンは30%越えていると言われている。いろんな宗派があり、考え方の違いもあり、シャーマニズムの土着化もある。日本はもっと厳しい信仰ではないかと思う。」

今回もまたこの学会のために韓国から来日された韓国仁川大学校の曹(正しくは縦の棒が1本の漢字)教授だ。

一時期、『西方の人』を「さいほうの人」と読むのが正しいと言われた時代もあったが、「せいほう」が正しい。「芥川家では『せいほうの人』と読んでいます」と家人も述べている。

芥川の絶筆は『西方の人』だが、本来ならば『日蓮伝』などを書くのが自然だった。辞世の句は、「水洟や 鼻の先だけ 暮れ残る」。
                           ―以上―

何事も知識がないと質問は湧いてこないものだ。
この1年間で知力だけではなく、感性も著しく錆びついてしまっているのがわかった。理解度も低く、それに比例して感動もなく、メモを取る内容も限られてしまった。


大阪キリスト教短期大学准教授・森田美芽氏の「キェルケゴールの女性論 ―その思想と生涯―」も同様だった。感動なく聞き流していた。

キルケゴールは、「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何か?自己とは一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。・・・」と述べている。

キルケゴールは人間に対して自分というものを自覚せよ。自己であれ。神の前に立つ一人の人間であれとしながら、女性は男性と同じ精神ではありえないと言っている矛盾をいかに考えるのか、それが森田氏の主題である。

女性観については時代的制約を免れ得ないだろうが、その人物の母親像はその思想に大きな影響を与えるものである。独裁的な父に黙って服従する母だった。森田氏は次のように結ばれた。

「キルケゴールは自分を深め、神に対して問うばかりであったが、神と出会い、隣人を発見し、他者との関わりを通して癒され変えられていったり、私と神と他者との三角関係になっていく。そのほうがキルケゴールが求める自己のあり方だと思う。」

キルケゴールについては高校2年生の聖書の時間に知り、スピノザと共に興味をもった哲学者だった。
今振り返ると、キルケゴールは私に信仰に至る言葉を与えてくれたように思う。信仰をもってからも、神の真理を求める者の真髄を教えくれた思想家である。

昨日は冷たい雨が降り今も雫が残る曇り空であるが、天気予報を伝える明るい女性の声がラジオから耳に飛び込んできた。

「上空では既に青空です」!

2010年2月、今より再び真理への探究心を燃え上がらせて励もう!


posted by 優子 at 08:56| 文学 | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

日本キリスト教文学会メモ・芥川龍之介(前編)

日本キリスト教文学会関西支部は1996年に発足された。母が召された年である。第1回目では芥川を取り上げ、三者による華々しいシンポジウムだったようだ。

三者とは、芥川研究のトップ・宮坂覚氏(国際芥川龍之介学会会長、フェリス女学院大学学長)、遠藤周作の笠井秋生氏、そして、当会の世話役であり関西学院大学副学長の細川正義氏だ。

15回目の今回は3度目の芥川である。三者共に今も活躍されている。
出席者36名中、その3分の2が近現代文学の著名な研究者、大学教授、大学非常勤講師である。あとは10名ほどが大学院生であり、私のような畑違いの者は2〜3名であろう。カルチャーセンターではないのだから。

宮坂氏の発言(青色で示す): 

芥川は聖書を読みながら自殺した。これが大きなことで、これこそが始まりで研究しはじめた。
どういうところから自分の人生を発題していくか。
どういうところから自分の人生や人の人生を語っていくのかを押さえておかないといけない。どのような視点でそれが転回していくのか押さえておかないと語れない。

(例えば)あの時の芥川は芸術的だったというように。そのことを押さえておかないといけない。
私(優子)自身を語ればこういうことだ。

苦悩一色だった2009年の出来事を押さえておかないと、ノイローゼになる危うさを感じるほどに悩んでしまった信仰者の在り方―特に牧者への深い絶望と迷妄―を、的確に批評することはできないということだ。

確かに自分史においても2009年―正確には2010年1月末まで―は間違いなく転機になる時期である。それゆえに、まさに今この時、新しい芽生えを感じ始めている。


誰が初めに「切支丹もの」と言い出したのか調べたがわからないが、芥川作品から「切支丹もの」を何作に数えるのかというまとめ方は好ましくない。キーワードで作品群をくくることには問題がある。

(宮坂氏が)イギリスに居た時、英国人に質問された。日本人のわからないのは、困った時は困った顔をすればいいのに微笑むことだ。これはどういう理由だと問われて困った。
異物感か・・・何かが倒壊していくような感じなのだろうか・・・返答に困った。

芥川は自分の中でわだかまっていた問題(西と東の問題)があったと思われる。勿論、文明批評を考えていたのではない。それは日本人の近代の宿命的なものだ。
近代精神がプラスのものとして一気になだれ込んでくるが、それらは日本的なものと鋭い対立関係にあった。

芥川が著名になりつつあった時に、あえてメジャーではない同人雑誌に『煙草と悪魔』(1916年・大正5年、『新思潮』)を書いたのかを考える。

「こののんびりした鐘の音を聞いて、この曖々(あいあい)たる日光に浴してゐると、不思議に、心がゆるんで来る。善をしようと云ふ気にもならないと同時に、悪を行なふと云ふ気にもならずにしまふ。」(『煙草と悪魔』より)

何らかの問題を持っていないと、このような着想は出てこないだろう。


内村(鑑三)は、「日本には徹底した悪人も徹底した善人もいない」と言っている。・・神が有っても無くてもいい日本人。

『西方の人』は切支丹ものではなく、東と西を乗り越えていくものがあるのではないか。東と西の同質性を探っていくようなものがある。キリスト教受容の可能性。


結びとして、「近代精神、宗教(キリスト教)、芸術という三者鼎立(ていりつ)の構図の中に芥川龍之介の切支丹ものを発見することができる。さらに、その意味を問うことが、新しい地平を拓くものとなる。」と、芥川の問題を自分の問題として語られた宮坂氏にクリスチャン文学者たる輝きが顕在している。

芥川は実母の発狂や自らの苦しみから何かに庇護されたいとの思いがあったのであろうか・・・作品を時系列に読みながら芥川の心の揺れを探るのも興味深い。
                       (つづく)

posted by 優子 at 14:48| 文学 | 更新情報をチェックする

2009年02月04日

太宰治論・文学会ノートより(後編)

福井県立大学教授・木村小夜氏の「関係の物語としての聖書受容―山岸外史『人間キリスト』から『駈込み訴へ』―」は、「一人称で話しているユダは自分をどんどん見失っていき、愛をこのように表現せざるを得なかった言葉の問題に最後は辿り着いてみたい」と前置きされて、エネルギッシュに時間内に語り終えられた。教授とはいえ、まだ40歳前後(?)の女性だった。

話の流れを追いながら記録するには多くの時間がかかるので、私が特に関心を示した事柄をキーワード程度に箇条書きしておきたい。

★ 悲劇の哲学・シエストフ論

★ 「ユダは努力すればするほど耶蘇からその才能を黙殺された。ユダは、いつか、耶蘇に対して怨恨に満ちた気持ちをもつようになったことさへある。冷酷だと考えた。」(山岸外史)

この発想は面白い。現実に容易にありうることである。

★ ユダは「最後まで、耶蘇に求愛しながら、容れられなかつた自分の性(さが)の拙さを情けないものと考えてゐた。」(山岸)

★ 「対等であること・人間の寂しさをわかってほしい愛は、それが『わかってもらえぬ』ことによって、劣等感と優越感との錯綜する憎に転ずる。」(森厚子)

★ 「分裂した自己を同一化したかった。お金を得る事で、自分でも目的が分からぬままなされてしまった裏切りを、『お金目当て』だったと自分の中ですり替えて納得することができる。」(小林幹也)

★ 「あの人(耶蘇)と対等になる・なれるという願望を、さまざまな曲折を経て、追いつめられるかたちで『裏切りという禁断の手段』によって一応は実現することになった身の破滅の物語、というふうに読むことはできないだろうか。」(陸根和)

★ 「語り、回想すること(殊に告白)は、一方的に収斂しないものを収束させようとする志向(そうでなければ、語り終えられぬ)。
同時に、この語りは一つの決定的行動=対等な関係(願望)の成就。」

★ 「特徴的なのは、イエスの言葉に対する徹底した不信からその物語が成立していることだろう。・・・一体、他者の言葉を信じない他者の語りとはあり得るのだろうか。結局、それは自己の物語でしかなく、ここにイエスという他者を排除したユダの物語が展開されることになる筈だろう。
まさに『駈込み訴へ』はその宿命をたどるのであって、それはまた自意識が生産する物語の必然の結果と言えるのだ。」(服部康喜)


そして発題者の導き出された結論は、「言葉は他者に使われるもので他律的なものである。ユダにとっては愛、即ち、裏切りという矛盾が矛盾しなかった。
信仰というよりも関係の中に生きる言葉のあり方ではないか。ユダの追い詰められた語りから、そんなことを思わずにはいられなかった。」
というものであった。


私が大変興味深かったことは―
内面の自律性が脅かされたユダには、過去のことや現在のことを話すにも自律的な言葉が困難になっていることだ。
自分と周囲を冷静に見られなくなるという人間の自律性に危機が生じた時、人は対等性を主張するということ

「二転三転している中でも一貫しているところは、個としての意思決定と自己認識への確信を言葉で示し続けるのがユダの際立った特徴である。しかし、全く自律性はない。」

(他者との)「関係の呪縛」とは、私の人生の不可解な出来事の参考になった。
『如是我聞』から受ける太宰の印象も、関係の呪縛に捉われた姿と感じないでもない。


来年1月の関西支部冬季大会は芥川のキリシタン物を取り上げ、今夏7月25日(土)には、大阪薬科大学で遠藤周作をやるらしい。

posted by 優子 at 19:02| 文学 | 更新情報をチェックする

2009年02月03日

太宰治論・文学会ノートより(前編)

日本キリスト教文学会は、日本文学と英文学などの専門にこだわらずキリスト教と文学という接点で、あらゆる分野の人が集まって考える会である。
シンポジゥムも前述した詩人の研究発表に同じく、一人30分間の発表に20分間の質疑で進められた。

最初の発題者・仏教大学教授の三谷憲正氏の問題提起は今後の参考になるものだった。
いわゆる作家論ではなく、太宰治全集から立ち上がってくるキリスト教理解という趣旨で、「〈太宰治〉における『神』とは何か」と題して話された。

太宰に限らず、日本の近代が「ゴッド〈神)」をどう受け止めてきたのかを考えるために、「日本近代の『神』概念」から取り上げられたのである。
続いて「太宰作品における様々な『神』」として、ギリシャ神話の神、日本の神仏の神(前世と現世という捉え方などは仏教の輪廻転生の表われ)、聖書的文脈の神」などを各作品から提示された。

結論として三谷氏の問題提起は、太宰は浄土的受け皿をもってキリスト教を理解しようとしたのではないかというものであった。
これに関連して笠井氏は、「太宰とキリスト教ではなく、太宰と聖書と設定して考えるのが良い」と発言されたことも、私の太宰を見る微妙なズレを正されたようで頷いた。

発題者二番手は関西学院大学大学院研究員・洪(ホン)明嬉(ミョンヒ)さんが、「太宰治『如是我聞』論―『己を愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』を中心に―」のテーマで問題提起された。

まずその前に「如是我聞〈にょぜがもん)」というのは、浄土真宗の最初に唱えるお経で「かくのごとくわれきけり」と読み下す通り、「私はこのようにお釈迦様の説法を聞きました」という意味であり、太宰は「今から言うことは真実本当のことですよ」と銘打って痛烈な批判を書いたものである。

文学の本質への批判に爽快さを感じて笑って読んだところもあるが、あまりに感情的で喧嘩腰な書き方に、読後は哀れな独り相撲に感じた。
例えばこのような調子だ。以下は本分の引用である。
或る「外国文学者」が、私の「ヴィヨンの妻」という小説の所謂読後感を某文芸雑誌に発表しているのを読んだことがあるけれども、その頭の悪さに、私はあっけにとられ、これは蓄膿症(ちくのうしょう)ではなかろうか、と本気に疑ったほどであった。大学教授といっても何もえらいわけではないけれども、こういうのが大学で文学を教えている犯罪の悪質に慄然(りつぜん)とした。

そいつが言うのである。(フランソワ・ヴィヨンとは、こういうお方ではないように聞いていますが)何というひねこびた虚栄であろう。しゃれにも冗談にもなってやしない。嫌味にさえなっていない。かれら大学教授たちは、こういうところで、ひそかに自慰しているのであって、これは、所謂学者連に通有のあわれな自尊心の表情のように思われる。また、その馬鹿先生の曰(いわ)く、(作者は、この作品の蔭でイヒヒヒヒと笑っている)事ここに到っては、自分もペンを持つ手がふるえるくらい可笑(おか)しく馬鹿らしい思いがしてくる。何という空想力の貧弱。そのイヒヒヒヒと笑っているのは、その先生自身だろう。実にその笑い声はその先生によく似合う。

太宰は偽善に敏感だ。
「文章の神様」と言われている志賀直哉のような、自分が手本になると思える人物が一番ゆるせなかったのである。
「暗夜行路」
大袈裟な題をつけたものだ。彼は、よくひとの作品を、ハッタリだの何だのと言っているようだが、自分のハッタリを知るがよい。その作品が、殆んどハッタリである。詰将棋とはそれを言うのである。いったい、この作品の何処に暗夜があるのか。ただ、自己肯定のすさまじさだけである。

何処がうまいのだろう。ただ自惚(うぬぼ)れているだけではないか。風邪をひいたり、中耳炎を起したり、それが暗夜か。実に不可解であった。まるでこれは、れいの綴方教室、少年文学では無かろうか。それがいつのまにやら、ひさしを借りて、母屋に、無学のくせにてれもせず、でんとおさまってけろりとしている。

しかし私は、こんな志賀直哉などのことを書き、かなりの鬱陶しさを感じている。何故だろうか。彼は所謂よい家庭人であり、程よい財産もあるようだし、傍に良妻あり、子供は丈夫で父を尊敬しているにちがいないし、・・・、おまけに自身が肺病とか何とか不吉な病気も持っていないだろうし、訪問客はみな上品、先生、先生と言って、彼の一言隻句にも感服し、なごやかな空気が一杯で、近頃、太宰という思い上ったやつが、何やら先生に向って言っているようですが、あれはきたならしいやつですから、相手になさらぬように、(笑声)それなのに、その嫌らしい、(直哉の曰く、僕にはどうもいい点が見つからないね)その四十歳の作家が、誇張でなしに、血を吐きながらでも、本流の小説を書こうと努め、その努力が却(かえ)ってみなに嫌われ、三人の虚弱の幼児をかかえ、夫婦は心から笑い合ったことがなく、障子の骨も、襖(ふすま)のシンも、破れ果てている五十円の貸家に住み、戦災を二度も受けたおかげで、もともといい着物も着たい男が、短か過ぎるズボンに下駄ばきの姿で、子供の世話で一杯の女房の代りに、おかずの買物に出るのである。そうして、この志賀直哉などに抗議したおかげで、自分のこれまで附き合っていた先輩友人たちと、全部気まずくなっているのである。それでも、私は言わなければならない。狸(たぬき)か狐のにせものが、私の労作に対して「閉口」したなどと言っていい気持になっておさまっているからだ。

いったい志賀直哉というひとの作品は、厳しいとか、何とか言われているようだが、それは嘘で、アマイ家庭生活、主人公の柄でもなく甘ったれた我儘、要するに、その容易で、楽しそうな生活が魅力になっているらしい。・・・何度でも繰返して言いたい。彼は、古くさく、乱暴な作家である。古くさい文学観をもって、彼は、一寸(いっすん)も身動きしようとしない。頑固。彼は、それを美徳だと思っているらしい。それは、狡猾(こうかつ)である。あわよくば、と思っているに過ぎない。いろいろ打算もあることだろう。それだから、嫌になるのだ。倒さなければならないと思うのだ。頑固とかいう親爺(おやじ)が、ひとりいると、その家族たちは、みな不幸の溜息(ためいき)をもらしているものだ。気取りを止めよ。私のことを「いやなポーズがあって、どうもいい点が見つからないね」とか言っていたが、それは、おまえの、もはや石膏(せっこう)のギブスみたいに固定している馬鹿なポーズのせいなのだ。

も少し弱くなれ。文学者ならば弱くなれ。柔軟になれ。おまえの流儀以外のものを、いや、その苦しさを解るように努力せよ。どうしても、解らぬならば、だまっていろ。むやみに座談会なんかに出て、恥をさらすな。無学のくせに、カンだの何だの頼りにもクソにもならないものだけに、すがって、十年一日の如く、ひとの蔭口をきいて、笑って、いい気になっているようなやつらは、私のほうでも「閉口」である。勝つために、実に卑劣な手段を用いる。そうして、俗世に於て、「あれはいいひとだ、潔癖な立派なひとである」などと言われることに成功している。殆んど、悪人である

太宰にとって「隣人」とは、また、「隣人愛」をどういうふうに見ているのか。
隣人とは「自分には理解できない他人であり、その他人を愛することができたかどうかという自分の限界に気がついていたらしい。」
そして、「志賀直哉たちへの批判と反キリスト教的なものへの闘いが『隣人愛』に収斂されていく。」
「丁寧に作品論をやって『懼(おそ)れる』の意味を見ていかないといけないが、『神を愛する』を『神を懼れる』と思っていた」そうだ。

(資料)東郷克美曰く:
志賀は「太宰の死」を書き、太宰批判にも、その文学にも一言もふれず、太宰の自殺の原因を「肉体の不健康」に帰する、まことに志賀らしい反応をしている。この無神経ともいえる健康な「強さ」こそ太宰が命がけでプロテストしたものであった

「あの不健康な、と言っていいくらいの奇妙に空転したプライド」と怒った太宰が、自分の死について語った志賀の言葉を読めば何と叫ぶのか。
もはや言葉にはならず、狂気するのか超越できるのか、それしかないであろう。
posted by 優子 at 14:40| 文学 | 更新情報をチェックする

2009年02月02日

アン・セクストンの神の探求

1月31日(土)、関学での日本キリスト教文学会で「Anne Sexton(アメリカ詩人・1928〜1974)のThe Death Notebooks における神の探求 ―"Hurry up Please It's Time"を中心に―」の発表要旨には、「ピューリタン色の濃いボストン近郊で終生を過ごしながらも、Sextonはキリスト教信仰を素直に受け継ぐことはしなかった。」とあったので興味深く聴かせて頂いた。

Anne Sexton は、20世紀の精神的荒野に生きる人間、キリスト教から遠ざかった20世紀の絶望、焦り、ジレンマを表現したアメリカ詩人(1928〜74)である。まだ日本語の翻訳物は出ていないとのこと。

欧米の文学や詩を理解するには聖書の知識がなくてはならぬことがわかる。詩に関心のない私には、現代詩においてさえそうなんだと新鮮な驚きを覚えた。

詩の中には" cherub "(「保つ者、守る者、天使」を意味するケルビム。複数形cherubim、またはcherubs)、「造り主」、" Lazarous "(ラザロ)・・・など、聖書に出てくる言葉や人物、また、「造り主」など神の概念がわからないと読み進めない。

この詩には、アン、ミズ・ドッグ、語り手の3人のペルソナ(人格をもった存在・人物)が登場する。
ミズ・ドッグは荒廃した社会の復活として登場するが、彼女もまた死の訪れに向き合っていない人物である。”Ms.Dog”を逆さまに綴れば”God "(神)になる皮肉なネーミング。
アンが彼女に言う。

「ミズ・ドッグ、時間はもう残っていないのよ。
 ミズ・ドッグ、いつまであの冷たい鼻面を無視するの?
 造り主とちゃんと折り合いをつけなきゃ。
 だってその時が来ているんだから、その時が!」


死すべき運命に向き合えない者が贖罪を求めている。

十字架上でイエスが祈られた祈りの「彼ら」を「私たち」にして、
"Forgive us,Father,for we know not."(父よ。私たちをおゆるし下さい。私たちは何をしているのかわからずにいるのです。)と祈るが、作者はその祈りを誰に捧げているのだろうか。贖罪の希望が見つからない。

そして、最後には神への興味を示したアンに語り手が聞く。
" Why talk to God?"(なぜ神に話をするのか?)
アンは答える。
" It's better than playing bridge."(ブリッジをするよりマシだからです)と、「神との対話を選び取って再生の明るい兆しが見える」と発表者は解説された。
詳しい詩の流れを知らずには不毛の感想だが、私には明るい兆しにはとても感じられない。それどころか、もはや探求することも放棄したようにさえ感じる。


詩の最後では、救いから一番かけ離れた存在だったミズ・ドッグが現れて、不毛の世界には縁が切れたことを宣言する。
そして、明確な答えは生きている限りは与えられないが、死んでから与えられると「希望を持って詩を書き終えているが、どのような神に祈ったかは不明である」という解説者の最終節にも私の印象と矛盾するものではなかった。

即ち、このように神なき世界ながらも贖罪を求める一篇の詩を通して、「救済の可能性にまで辿りつく変容を描いた作品である」と発表者が結論づけられたことである。

しかし、「キリストの神ではなく、詩を書くことで神を見出すという文学の中に見出す神に安らぎを見つけているように思った」とのお説には頷ける。

どのような神に祈ったのか?!
人や動物、また、自然を神格化して祈るなどは論外としても、どのような神に祈るのかという信仰の対象は非常に重要だ。私は詩の解釈を聴きながら、思い当たる事例と人物が脳裡に浮かんでいた。

正統な教会で洗礼を受けた者が神に祈っているというが、いつしか救い主がキリストではなくなっている場合を目撃し、一体どんな神に祈っているのか疑問に感じた時があった。

聖書が示すイエス・キリストなのか?!
仮にイエスを知らない人でも、「本当にまことの神が居られるならば私を助けて下さい!」と祈り求める者に狂気に至る危うさがあるのだろうか?

例えばいつまでも自己中心的で愛に乏しくとも、そういう自己に悩みながらも祈りつつ生きる。いや、悩むからこそ主の慰めがわかるのであり、これが神の恩寵と言われるもので狂気に向かうなどは考えられないのである。

セクストンは次女出産後、鬱病になって精神病院に入院し医師より詩作をすすめられた。
それを起点に勉強を始め、ハーバード大学を初め多くの大学で詩作を教え、2つの大学より名誉博士号を授与され、ピューリッツァ賞まで受賞したのであるが、自動車に二酸化炭素を引き込んで自殺した。50歳だった。

堕胎、何度もの浮気など自分の罪に悩み、神を見つけようと作品を書いた。
「セクストンは何を求めたのか。あるいは何を求められなくて自殺したのだろうか。その原因はわからず、本当のことは書いていないと思う。という発表者の弁に深く考えさせられた。

「告白詩人だから人生そのものが反映されているというものではなく、詩と詩人は必ずしも一致しているとは限らない」ということは、このあとの太宰論でも取り上げられた。

このことは偶然にも学会の前日(30日)に、鳩飼さんとの電話で「作品と作家とは違う」とお聞きしていたことでもあった。

私も私の書いた文章に、どの程度正確に自分自身が投影されているだろうかと考えることがあったので、作品の読み方も再考せねばならないと気づかされたところだった。その点においても興味深い内容だった。


posted by 優子 at 16:29| 文学 | 更新情報をチェックする

2008年06月05日

書いておきたかったこと

読書会とサークルセンターの役員を辞して文化活動から退いたのは、クリスチャンペンクラブ専一にと思ってのことだった。しかし、14日の例会もまた欠席になってしまった。

8月7日(木)から1泊2日で、関西と中部ブロック主催により日本クリスチャンアカデミーで合同夏期研修会がある

久保田先生たちと共に、クリスチャンアカデミーの下見で京都へ行くのを楽しみにしていたのに行けず、今は参加できるかどうかも答えられない状況になっている。
とにかく入院していない限りは、どうしても出席したいとお伝えしてあるが。

しかし、日本キリスト教文学会は欠席することにし、今後は会員継続もしないつもりだ。
と言うのは、遠藤周作の『深い河』を読んでいる時に、学究研究は私が最も関心のあることではないとわかったからだ。

読書中(3月半ば)、「遠藤さん、あなたはそんなふうに感じていたんですか。・・・」と、まるで遠藤氏と対話しているような読書になっていた。あんなことは初めてだった。

もとより遠藤文学に対しては少々違和感があり、救いの手軽さを強く感じ、信仰解釈を異にするので、決して遠藤と考え方が一致したからというわけではない。

故 能登一郎牧師に至っては、遠藤をクリスチャン作家と呼ぶのは危険であり、異端であるとまで明言している。
私はそれも承知の上で遠藤作品を読んでいる。

しかし今回強く感じたことは、遠藤の信仰が異端に行き着いたとしても、彼にとっては誠実に神を求め続けていたことには違いないのだから、あとは神の領域であろうし、私は作家自身の深い思いを知りたく、それらを互いに交わしたい。これこそが私の求めていたものであるとわかったのだ。

従って、文学(学問研究)というよりも、常々主張しているように、クリスチャンの深い心のうちを語り合える交わりがしたいのだ。
クリスチャンならば誰でもというものではなく、偽りない自己の内面に向き合える正直な語らいのできる人との交わりである。


従って名を残した作家ならば魅力的な相手であり、その意味において文学を深めていきたいと思っている。

以来、今も鮮明に覚えている1月29日(カテゴリ「キリスト教文学」)に記した考えとは違ってきた。

「23号を重ねている学会誌『キリスト教文藝』・・・これは権威ある研究誌であるとのこと。
私は早々から、ここに論文を発表したいという大きな望みを抱いた。続きを書いてやろうとは、ここに発表してやろうとの意気込みであり、それほどに私のボルテージを上がらせる会合だった」。


文学の知的資料としては今も大変興味深く思うが、先月早々から事態が変わってしまったこともあり、文学会の案内状はゴミ箱に捨てた。



posted by 優子 at 09:23| 文学 | 更新情報をチェックする

2008年01月29日

(その2) 懇親会で求められたスピーチで語ったこと

さて食事も一段落した時、論者たちや主要な方々のスピーチがあり、続いて思いもかけず日本クリスチャンペンクラブからの新来者というご紹介でO姉と共にスピーチを求められ、私は次のようなことを語った。

中学高校を同志社で学び、キリスト教に触れていたこと。
大学は帝塚山学院大学に移り、独歩の研究で有名な山田博光先生のゼミに入り、卒論では「国木田独歩と基督教」を論じた。その中で笠井先生(この学会の支部長)の御著書から引用させて頂いたことを話した。

この間に2度、傍線箇所で「おおー」と聴衆がざわめいた。

35歳で受洗、専業主婦であること。
20年間読書会に入っていたが、突込みが足りない物足りなさを感じて、この3月で退会すること。
そして、5年前から(原稿用紙)25〜6枚であるが1年に1本ずつ書いており、一作目は信仰者の目でもう一度独歩を読み直したく「国木田独歩と基督教再論」と題して書いたこと。

あとの4作の論述テーマもご紹介し、遠藤周作の『海と毒薬』と『悲しみの歌』については、少し内容にも触れた。遠藤が主人公・勝呂を自殺させたことについてだ。
そのことについて最近次女との話題に上った時、「作者がクリスチャンだからじゃないの?」と語った次女の発言に、私には気づかなかった視点を示されたことを話した。


その時、笠井氏が、「いや、違う。あれは勝呂を救いきれなかったと遠藤自身が言っている」と発言され、「なんでですか?」と瞬間的に言葉が出ていた。
「どうしてですか?」と私の中で言葉を変換させることもなく口をついていた。私にはそれほど興味深いことなのだ。


笠井氏の言葉に「何故?」という問いかけは的を得ていないが、それを詳しく説明するには時間が要る。
その時、「そこで議論しなければ!」と文学会事務局長の細川教授が仰り、(そうなんだ!)と思いつつも、この懇親会の雰囲気を知らない私は議論を展開してもいいのかどうか躊躇し、これ以上時間を頂戴しては空気を読めない人間になるのも嫌なので「なぜ」の意味を話さなかった。

笠井氏からも言葉が無かったのでガッカリもしたが、遠藤自身が語ったことと私の結論は矛盾しないし一致しているので―いや不一致でもいいのであるが―、是非続きを書いてやろうと思った。

突然に求められたスピーチだったが、終始全く上がらずに話したいことを話せたのは初めてかもと思うほど、専門家たちを前にして皆さんの顔も見つめながら話していた。
改めて西口先生の感化の大きさを思った。このことについては2月末に発行される『あしたづ』に記した。

スピーチのあと、久保田先生が立ち上がられて、O姉は360枚の作品を書いておられる書き手であることもご紹介されて、私たち二人のことをお口添え下さり深々と頭を下げて下さった。
私は胸が熱くなり感謝の気持ちでいっぱいになった。久保田先生、79歳である。
西口孝四郎先生のことも思い出させた。
そして、こうして人は育てられていくのだと!


O姉と共にお昼に入会手続きをした時、23号を重ねている学会誌『キリスト教文藝』を頂戴した。これは権威ある研究誌であるとのこと。
私は早々から、ここに論文を発表したいという大きな望みを抱いた。続きを書いてやろうとは、ここに発表してやろうとの意気込みであり、それほどに私のボルテージを上がらせる会合だった。

久保田先生と共に閉会より一足先に大学を出る用意をしていた時に、韓国の仁川大学校の教授と金城学院大学の教授がO姉と私にご挨拶下さり名刺を交わした。
また、今、修士論文で『悲しみの歌』を書いているので連絡させてほしいと院生の方からも名刺を求められた。

それは単なる驚きや嬉しさではなくて、私のやっていることは彼らにも通用するのだと確認させられた驚きと嬉しさだった。

勉強していないのでひらめきも具体的な収穫は少なかったが、遠藤と椎名の無意識観は興味をそそった。
即ち、「文学は無意識を掘る作業であるという遠藤周作と、書くことは意識であるという実存哲学で書いている椎名とは相当違う。
たった2歳違いという遠藤と椎名ではあるが、2人はかくも違う文学であり、イエスの解釈、信仰の相違がはっきりと表われている」
という。
私は遠藤と同じ立場で書き進めているだけに、異にする椎名に新たな関心が湧いている。

来年のシンポジューム(この1月の会)は太宰に決定し、「太宰治とキリスト教」のテーマで、7月の会では大学の講読形式で遠藤作品を読むそうだ。
そして、東京で開かれる5月の全国大会では「作家と死」がテーマになっているとのこと。たいそう興味深い。
これを機に熱心に研鑽を積んでいきたいと思っている。
posted by 優子 at 08:36| 文学 | 更新情報をチェックする

2008年01月28日

日本キリスト教文学会デビュー (その1)

「ここが関学か・・・」と感慨深い想いで初めて関西(かんせい)学院大学の門をくぐった。
林立する現代の大学と違って歴史を感じさせる校舎とキャンパスは、喧騒で混沌とした現代から別世界に移されたような錯覚を覚えた。
まるで故郷へ帰って来たような懐かしさ、これは何だろう。そうだ、同志社女子中高の庭であり、時空を越えて40年以上も前と同じ空気を感じていた。

文学会の会場は文学部教授会が開かれる会議室が充てられていた。
私は専門家が集う学会という場に初めて出席し、心地よい緊張感を味わいながら発表に耳を傾けていた。プログラムは24日記事にある。

私は斉藤末弘氏が椎名麟三研究の第一人者であることも、長濱拓磨氏が若手40歳の有名な研究者であることも全く知らないし、それどころか椎名の作品を読むのも初めてに近い者が集っていることも妙な気持ちだった。
しかし、誘いを受けても断るばかりの出不精の私が迷わずに行こうと決心した。

毎回、関西支部の集まりは50人を越える盛会とのこと。
出席されている方々は大学教授、非常勤講師、院生、牧師、また、仏教大学の講師や学生、そして、韓国からの留学生や大学校教授も居られ、このような中に自分が居ることに不思議を感じながら最後まで拝聴した。

発表者に対する意見のやりとりを聞きながら次女のことが脳裏をかすめた。経済学会においても同じような、いや、今日のよりももっと厳しいやりとりがなされているだろう光景を想像していた。

大学教授職から退かれている久保田先生は、日本文芸家協会や日本ペンクラブ会員でもあられるように、文学者だけではなく作家でもある。
信仰者として敬愛できる文学者、久保田先生との出会いは、私が感じている以上に大きな意味があるように思い始めている。

膝の痛みに耐えながら滋賀県高島の遠方から来られた久保田先生のお気持ちも察して、O姉と共に懇親会にも同席させて頂いた。そこに30数名が残っておられたと思う。
閉会より一足先に8時半頃に会場を出たが、帰宅したのは外出して14時間後の10時10分だった。                     
                       (続く)

記録:

昨日この記事を掲載しようとした時、何度やっても公開表示されなくてシーサーブログにヘルプを求めたところ、ブログサイト(ドメイン名:seesaa.net)に投稿した記事が正常にブログに反映されない状態になっているとのことで、正常に戻ったのは29日午前2時だった。

そんなわけであるが、右下の時刻表示にあるように昨日公開した時間のままで掲載した。

尚、次の記事はこの続きに書いていたものであるが、あまりに長くなるので2部に分けて29日付けの記事として公開することにした。
posted by 優子 at 13:45| 文学 | 更新情報をチェックする

2008年01月24日

新しい冒険に一歩を踏み出す

26日(土)は関西学院大学で日本キリスト教文学会関西支部冬季大会があり、久保田暁一先生のご紹介を頂いて出席させて頂くことになっている。
ご一緒するO姉は、クリスチャンペンクラブ関西ブロックの代表をされており、今回が2回目の出席であるとのことだ。

送られてきた案内には10時半から夕刻6時前までビッシリ予定が組まれている。まず初めに1つ目の研究発表、〈『スキャンダル』における<光>の意味―「老いの祈り」を中心に―〉があり、昼食後に2つ目の〈「シャイロックからオセローへ・・・・異質なるものの戦い」〉がある。

続いて14時から17時30分まで「椎名麟三とキリスト教―『自由の彼方で』をめぐって―」と題する公開討論会があり、久保田先生も発題者の一人になっておられる。

開会の辞を述べられる笠井秋生氏は大学の卒論に引用した笠井氏だろうか、お名前を見た時から確かめたく、また遠くからでもいいから拝見したいと思っている。

遠藤周作の『スキャンダル』は、ユングの「影」と深い関わりがあるので私にも興味深い作品だが、今回は椎名麟三の『自由の彼方で』だけを読んで出席する。

椎名麟三については高校3年生の聖書の授業で読んだことがある。
「太宰治の次に自殺するのは椎名麟三だろう」と噂され、「絶望の作家」と呼ばれていた麟三は、共産党の一斉検挙で捕まり獄中でドストエフスキーと出会ってキリスト者になった。

麟三の代表作品であり、キリスト者になって書いた注目すべき『邂逅』は、中・高6年間の聖書の授業最後のテーマに取り上げられたものであり、「真の自由に生きるとは」について考えさせられた作品である。

麟三自身は次のように述べている。
「人間の生き方は、その人間が何に出会い、何に対して戦ってきたかによって決定されると思う。
この『邂逅』は僕のニヒリズムに対する戦いの記録であり、その分裂から自己を回復し得た自由と喜びの告白でもある」
と。

同志社で学んで以来38年の人生を経て、いよいよ熱心に読もうとしている。新しい冒険であり、ライフサイクルから言えば最終段階の始まりでもある。
今までの経験や思索を振り返りながら、より良き人生を求めてキリスト教文学を深めていきたいと思う。
posted by 優子 at 18:17| 文学 | 更新情報をチェックする

2007年04月03日

遠藤周作への違和感

読書会5月のテキスト『落第坊主を愛した母』を読み終えた。遠藤周作の母のことで、遠藤の作品を監修したものである。

遠藤の母を知る人は皆、「烈しい人だったけれど愛さずにはいられない女性だった」と言っている。成績が悪く馬鹿扱いされていた遠藤に、「周ちゃんは大きいことをする人間になる」と常に言ってくれていた母だった。

遠藤周作は実に正直な人間だと思った。

特に『母なるもの』から遠藤の人間性を読み取れる。
他人が読めば何でもないようなことであっても、本人にとってはかなりの勇気がいったであろうからだ。なかなか書けるものではない。

私は遠藤文学について語れるほど何も読んでいないが、彼の作品が正しい聖書理解に立っているかどうかについては、やはり大きな疑問を感じる。

晩年の傑作と言われている『深い河』に異質さが際立っている。と言うよりも、遠藤の持つ危うさがここに至ったという感じだ。
イエスの暗喩とした「玉ねぎ」呼称や、輪廻転生を予感させて終わるところなどは聖書とは全く異質のものである。

輪廻にはいつまでも解決はないし、第一、死ねば別人に生まれ変わるのであれば、2度と再び会えないではないか!!

『深い河』について、大田正紀氏が7年前に書かれたコラムでは、
神やイエスを玉ねぎと符号化する「周作玉ねぎ教」も、市民社会での他宗教への寛容と愛の実践という装いをとっているが、偶像崇拝の日本の神々や現人神を「神」のもう一つの顔と呼ばせかねない危うさがある。

と書いておられる。
3年前に没頭した『海と毒薬』と『悲しみの歌』について(「掲載文」)、私なりに満足できる結論に達したものと符号するような資料を手にした。昨秋、読書会の講師にお招きした折に大田氏ご自身の興味深いレポートを頂いたのだ。その中に、

「『滅びに定められた人間』の絶望が作品の底部に奏でられている」。

とあり、「やっぱりそうなんだ!」と、大いに共感した。

しかし、この遠藤もイエスに迎え入れられたであろうと思う。
それについては神の領域であるが、日本という独特の精神風土に生きるキリスト者、私もまたその危うさに在ることを覚えていたい。


posted by 優子 at 17:13| 文学 | 更新情報をチェックする

2006年12月08日

スクルージの如くにあれかし

昨年12月の読書会は、チャールズ・ディッケンズの『クリスマス・キャロル』だった。その時のMさんの感想に深い感動を覚えた。
「うっとうしくて、すごい嫌やなあと読み出したけれど、これは私やと思った。私のことが書いてあると思った。
自己を深く洞察しておられるだけではなく、実に正直な告白である。

私がなぜそこまで感動したのかを考えた。
この作品に触れる時はいつも、「私もスクルージのように変えられますように」と新しい気持ちにさせられる。
しかし、「私はスクルージほどではないな」という気持ちも、なきにしもあらずなのかもしれない。

感想の表現は人それぞれであろうが問題は表現云々ではなく、いかに自分の姿に気がついているかである。気がついていてもMさんのように正直に発言できるかどうかの問題もあろう。
しかし、私の場合はそれではなく、「私はスクルージほどではない・・・」という思い上がりがあったのではないだろうか。
そういうことだ。
感想自体に優劣はないだろうが、時として、発言する人物の真相が見事に現れるものである。

私には忘れがたい感想であった。

主人公のスクルージは、冷酷無慈悲な守銭奴の老実業家で、書記のボブ・クラチットを薄給で雇用し、全ての人々に嫌われている。
クリスマス前夜、7年前に亡くなったかつての共同経営者マーレイ老人の夢を見る。スクルージと同様の生き方のまま生涯を終えたマーレイの亡霊は、良いことをしなかったことを悔い、いかに苦しみ続けているかを語る。そして、スクルージにこれから3人の精霊が出現すると伝えたのである。

そして、夜が明けた。

クリスマスの朝を迎えたスクルージは生まれ変わっていた。


するとどうだろう。引用してみよう。

何もかもが自分に喜びをもたらすものだと知った。散歩することが―いや、どんなことでも、これほどの幸福を与えてくれるとは、夢にも思ったことがなかった。

ありがたい!
これから先の時間も自分のもので、なんとか埋め合わせをつけることができるのだ!


そして、作品の最後を次のように結んでいる。

「彼(スクルージ)はいつもこう言われていた、クリスマスの上手な祝い方を知っている人があるとすれば、それこそあの男だ、と。
そういうことが、わたしたちに、わたしたち全ての人に本当に言われますように!

そして、チビのティム(クラチットの末息子)が言ったように、

ぼくたちだれにも神の祝福がありますように!」

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神様がスクルージに与えて下さったのは、人を愛する心であり、生かされていることを感謝する心だった。

ぼくたちだれにも、あなたにも神の祝福がありますように!
 
posted by 優子 at 12:00| 文学 | 更新情報をチェックする

2006年09月03日

遠藤周作に再燃!

昨日の学びで久保田先生は、藤村にとどまらず遠藤周作についても触れられ冷めていた私の文学への想いが再燃した。
その理由は2つある。
以前より承知していることであるが、先生の遠藤解釈(信仰解釈と言い直してよい)は私のそれと異にするものであること。
また、大田先生が配布された遠藤周作の『海と毒薬』論である。
これは今年7月に韓国で開かれた「日本学連合会国際学術発表大会」で、氏が「キリスト教文学批評の可能性」と題して遠藤の『海と毒薬』を取り上げて論じられたものである。その中で、

遠藤周作は戦時中、一人のキリスト教教徒として棄教と呼ぶに値する罪を犯したと思われる。

と書いておられる。この箇所を読んで溜飲が下がる気持ちだった。

と言うのは、『海と毒薬』の主人公の勝呂が何故に自殺を遂げたのか?
と言うよりもっと的確に言えば、遠藤は何故、勝呂を自殺させたのかが私の納得できないところであったからだ。


大田氏は続けて次のように書いておられる。

赦しの恩寵が聞こえてこないのは、ジャンセニズム(敬虔主義)の教会で洗礼を受け、更にイエズス会の信仰に鼓舞され、献身まで志ながら、断念せざるを得なかった出来事が、影を落としているのではないか。
『神の選びの教理』を裏返しにした、『滅びに定められた人間』の絶望が作品の底部に奏でられる所以である。


やっぱりそういうことだったんだという思いと共に、カトリックと我々プロテスタントの違いをも垣間見たように感じた。
私が今まで抱いていた大きな疑問に対して納得のいく背景がわかり、同時に次の観点が見え始め、今後ももっと深く突っ込んでいきたいと思った。

そこで2年前の夏に熱中していた遠藤作品の評論を読み直してみたいと思う。これは2005年2月に発行されたもので、2004年11月末の原稿締め切りに燃えた忘れられない作品の一つである。
posted by 優子 at 09:00| 文学 | 更新情報をチェックする

2006年08月30日

面白くなってきた『カラマーゾフの兄弟』

・・・しかし予め言うておきますがな、どのような努力にしても目的に達せぬばかりか、かえって遠のいて行くような気がしてぞっとする時、そういう時あなたは忽然と目的に到達せられる。
そして絶えず密かにあなたを導きあなたを愛された神様の奇跡的な力を、自己の上にはっきりと認められますじゃ、・・・


生きることは何と味わい深いことだろうか!
このセリフは、ドストエフスキーが残してくれた人類の遺産、『カラマーゾフの兄弟』に出てくる愛の人ゾシマ長老が語った言葉である。

前述の記事にもあるように、このたびも10日間ほどではあったが「小さな不自由」の中に捕らわれてしまい、相変わらずの進歩のない己の姿にガッカリしていたのでゾシマ長老の言葉に深く共感した。
そして何よりも、神の恵みの中に生かされているという喜びを確認することができた。

信仰が奇跡から生まれるのではなくして、信仰から奇跡が生ずるのである。
これもまた信仰者でないとわからぬ経験であろう。

祈りの友がブログで呼びかけられた〈『カラマーゾフの兄弟』読破ツアー〉が8月
15日から始まっている。
私は8日遅れで参加している上に毎日読めていないし、時には3〜4日間も読まない日もあり、かなりの遅いペースでやっている。
しかし、昨日くらいから面白くなってきて明日は出番だというのに、今日は2時間余りも『カラマ・・・』の世界に引き込まれていた。

現在、226ページをゆっくり旅しているところである。



posted by 優子 at 21:41| 文学 | 更新情報をチェックする

2006年05月18日

メビウスの輪

「メビウスの帯」は文学の象徴と言われている。
それは裏表のある一枚の帯(長い長方形)で、その4つの角を左上からA、左下をB、右下をC、右上をDとすれば、そのAをCに、BをDにつなぎ合わせることでできるのが「メビウスの帯(輪)」である。
つなぎ目を消してしまえば、表側を歩いて行って自然に裏側に入ることができる。

これが言わんとしていることは即ち、何が終わりで何が始まりなのかわからず、この世は何が原因で何が結論なのかわからないということである。
ひとひねりした輪の一面を辿って行くと元に戻ることから、文学は「メビウスの輪」だと言われている。

しかし、まことの神を知らされた者は、我々が何処から来て何処へ行くのかも知っている。
私の文筆活動は、「メビウスの輪」の中を歩き続けている人々の救命活動とも言えよう。
輪廻のごとく解決のないメビウスの輪だけで人生を終えてほしくない。
一人でも多くの人に、「栄光への脱出を成さしめ給え」と祈りつつペンの業に励むことが私に賜った使命である。

ところで、太宰治はあれだけ聖書を読んでいたのになぜ自殺したのかとはよく問われることだ。芥川龍之介しかりである。
しかし、彼らは聖書に触れてはいても神への信仰がなかった。
故に、メビウスの輪のようにグルグル回っているだけで、どれだけ聖書を探求し続けても何も出てこないのは自明の理であった。

いかに突き詰めたところを書きとめるかが作家の命であるが、彼らは日本の文学者の中でも鋭い視点を持つ少数派であり、真理を求めていたからこそ聖書を読んだのである。
ならば何故、あれだけ聖書を読んでいたのに神と出会えなかったのかということについて疑問が残る。
しかし、それは神の領域であるから我々が軽々に糾弾することではなかろうと思う。
ただ一つだけ言えることは、聖書は祈りつつ読み、読みつつ祈るものであるということだ。  

    真理によって彼らを聖別して下さい。
    あなたの御言(みことば)は真理であります。

               
               (ヨハネによる福音書 17章17節)

    キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。
                 
                (コロサイ人への手紙 2章3節)

文学や音楽だけでなく自然科学の分野においても、全ての領域において神と出会った人々の功績はひときわ偉才(異彩)を放っている。
posted by 優子 at 09:20| 文学 | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

『ライオンと魔女』続編  C・S・ルイスのファンタジー

今朝のテレビ番組『ライフライン』からの速報。
C・S・ルイス(1898〜1963)は、オックスフォード大学で30年間も英文学の教授を務めた。専門領域は中世である。
学生時代にトルキン(『指輪物語』ロードオブザリングの作者)との出会いで刺激を受け、ルイスの創作の才能も発揮されることになる。2人は共に、キリスト教の背景を強く持った作品を書いた作家である。
ルイスは、全7巻からなる『ナルニア国物語』の1冊目を1950年に発表、1957年に完結篇を出し、『ナルニア国』は世界で1億冊も発行されたとは驚きである。
しかも完結篇『最後の戦い』は、児童文学の権威である「カーネギー賞」を受賞した。

まもなく封切られる映画『ライオンと魔女』のテーマは、善と悪の戦いがバックボーンとなっている。クリスチャンとしてのルイスの物の見方や考え方をベースにしたキリスト教が産んだ偉大なファンタジーであるが、誰もが見ても切実なテーマを含んでいる。

そもそもファンタジーとは、何かを伝えるとか知識を与えるとか言うものではなく、疑似体験させるものであるから、主人公と同じように生々しく感じるものである。

この映画では、「悪」が美しい白で描かれているという。
美しく飾られている「悪」が持っている危険性。少年は、その世界に入ってしまい取り返しのつかないことになってしまう。
しかし、そのためにアスラン(ライオン)が身代わりになってつぐないをする。
そこには強い姿はなく、絡みとられ、たてがみをとられた惨めな姿だ。

裏切り、不信感、後悔・・・、「しかし、回復があるんだ!」というのがこの作品のテーマである。
まさに今、少年が裏切りの罪のために処刑されようとしている。
そこに絶対者なる王が、自ら進んで処刑され、惨殺されるのだ。

聖書・コリント人への第2の手紙 5章21節に

  神はわたしたちの罪のために、罪をしらないかた(イエス)を罪とされた。
  それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。


とある。
これこそが、聖書のメッセージである。
本来罪ある者が、私が、あなたが、赦されて神様に祝福されるのである。
私は一人でも多くの人にまことの神様をお伝えしたいと願う。




posted by 優子 at 08:25| 文学 | 更新情報をチェックする