2016年10月19日

キンモクセイとシュウメイギクの思い出

金木犀の花.jpg今週からずっと夏日が続いており、窓を全開していても室温は29度にもなった。今日も窓を開けたままなので四六時中キンモクセイの香りがする。

今年はキンモクセイの開花が遅く、ようやく16日の夜から香りはじめた。

大きな金木犀.jpgこの花(↑)は近隣のお宅の大きな金木犀の花だが、今年は珍しく花が少ないように思う。まだ満開ではないからか。いつもなら木全体がオレンジ色になり、落花し始めると道路がオレンジ色に染まる。


金木犀A.jpgそれにくらべて我が家のキンモクセイは貧弱だ。私たちの家を建てるまでは母屋の玄関先の庭に植えてあったので、1997年の秋まで芳香を放っていたのだろう。
家を建てるためにキンモクセイはパーキングのきわの狭く日の当たらないところに移植した。そこしか場所がなかったからだが、以来すっかり花をつけなくなってしまった。

私は婚約時代の秋に当家を訪ねた時、初めてキンモクセイを知った。ちょうど40年前の秋である。帰る時、良輔がキンモクセイの枝を折ってくれたことや、夜は肌寒くなっていたので義母からカーデガンを借りたことも懐かしく思い出す。

ちなみに1976年9月の気温を調べてみると、今年よりも昼夜共に10度近くも低かった。もう10月下旬になるというのにとても暖かく、ユキは帰宅した時も遊んで帰ってきた時も汗だくだ。

ということは私が結婚して20年後に母が亡くなったのだ。そういえば、もうすぐ母が亡くなった日だ。
母が入院した年の秋(1995年)、知子は祖母のために不本意ながら大学帰りの道で金木犀の小さな枝を折って持って帰ってきた。それからまた母が亡くなって20年もの年月が過ぎ、あと5年で私は母が亡くなった年齢になる。


2016シュウメイギクB.jpgこれらキンモクセイの思い出と共にシュウメイギクの花が咲くと心中に去来する新たな思いが加わった。それはチャッピーのことだ。



E8A18CE381A3E3819FE3828AE69DA5E3819FE3828A.jpg去年の今頃は認知症になっていたので、この短い距離を休みなく行ったり来たりしていた。この写真でさえ顔を撮ろうとしても写すのは至難だった。
※ 花の数も昨秋から大幅減した。

2年生の運動会の日のチャッくん.jpg 
ここにこうして居たのに、もう居ないなんて・・・

チャッピーはいない.jpg
今朝の庭。

チャッピー16才5ヶ月、ユキ8才ヶ月C.jpg
チャッピーと別れてもうすぐ1年になる。

遠足の朝.jpgその間にユキはまた大きくなった。でも相変わらず幼くて中身は全然変わっていない。
今日は遠足で橿原市の昆虫博物館へ行った。知子はお弁当を作って父親と一緒に家を出た。いつもより6〜7分遅れで。遠足は本当に楽しかったようで、帰宅すると5分間ほどいろんな虫の話を興奮して話してくれた。

「その時、チョウチョが2匹飛んできてね、葉っぱに止まって結婚した!」

キンモクセイとシュウメイギクの秋。
秋はやっぱりさみしいけれど、ユキがいるから感謝! 
明日は創立記念日で学校が休みなので嬉しいようなような・・・しかも知子は明日明後日は長崎へ出張だ。

追記:この朝、知子が先週会社の帰りの受診時に受けた検査結果は異常なしの連絡あり。夕方、過度のストレスと疲労のため4時頃に退社し自動車で帰宅、夫が電車で7時半頃帰宅。知子(専務)の自動車は購入していないため。

posted by 優子 at 22:06| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2016年01月07日

懐かしき友、懐かしき年末年始の光景

「学生時代の友人は、空白の時間があっという間に埋まってしまいますね。」と、ブログを欠かさずに読んでくださっている大学時代の友が再開メールに書いてくださった。

「昔、学生時代に優子さんと高野線の中で、『大晦日の雰囲気が好きやね』と話した事を覚えています。忙しい年末も母という頼もしい大黒柱が居た幸せな娘時代の事ですね。母は今の私よりずっと若かったのに、足元にもおよびません」。

そのような話をしていたことを私も覚えている。
Sさんもずっとお節料理を作っておられたことを知って嬉しかった。私のいだいているSさんのまま年を重ねてこられたことが嬉しいのだと思う。

私もSさん同様に今もお節料理を作っている。正確には母が亡くなってから作るようになり、ずっと今も変わらずお気に入りの純和風だ。

しかし、2014年の暮れに続いて今年はもっと簡素になってしまった。昨年よりももっと家庭に平和がなかったために心身共に余裕がなく、かろうじて、蓮根、ごぼう、人参、筍、里芋、干し椎茸のお煮しめと、あとは黒豆と虎豆を煮ただけだった。

結婚後の越年風景は仕事納めの夕刻から藤本の家へ行き、元旦の昼下がりに実家へ向かった。その数年後から31日は私がお節料理を作り、義母はその日の掃除をするという習慣になった。

夜は夫と義父の靴を磨き、義母に「アイロンをかけましょうか」と申し出ると、義父の分に加えて義弟の分も合わせて17枚も出されたのにはびっくりした。すでにその段階で疲労困憊していたのでなおさらだ。大晦日のお風呂はいつも午前0時前になっていた。

そして、元旦の夕方に実家へ帰った。両親は首を長くして私たちの帰りを待ってくれていた。途中で東大阪の自宅の郵便受けから年賀状を取りに寄るのも習慣になっていた。

実家に帰る時はいつもクタクタに疲れていて、ある年は声が全く出なくなっていたので、あの母が辛そうに「そこまでしなくてもええのに」と言ったことが忘れられず、「そうなのか・・」と思った。
今になって母の気持ちを慮(おもんばか)れるようになるとは情けない。

母はいつも私たち家族の分として別に四段のお重箱を用意してくれていた。このほかにもご馳走や子供たちへのお菓子をいっぱい用意し、他者にも同じように惜しげなくふるまえる心の豊かな人だった。

夫はその翌日に実家へ戻り、数日後に迎えに来くる。お正月に限らず、ゴールデンウィークやお盆休みなど、私はただただ実家に帰ることが楽しみだった。今思うと親子水入らずで過ごす数日間は私だけではなく、両親も楽しみにしてくれていたのだと思う。

しかし、母が60歳になった頃、進行性の難病を告知された。難病中の難病と言われている「ALS」とどこが違うのだろうと思うほど、脊髄小脳変性症もまた残酷な神経難病だった。

ある年のお正月、お雑煮の中に入っている野菜の切り方がいびつになっていた。どんなに悲しく衝撃だったことか!

その時から私は母に甘えるのをやめた。娘時代はよく手伝っていたものの、結婚して実家に帰った時は殆ど母任せだったから。

そして、その年からお正月道具の屠蘇器、重箱、雑煮椀などの漆器類や食器を片づけて帰った。「助かるわ」と、しみじみ喜んでくれた母の顔が今も鮮明に思い出される。
今、この私の傍に母がいて目と目を合わせて笑っていて、声まで聞こえるように。


その後、母の体はますます不自由になり、私は父を助けるためにも通院時の介助に加わり、年末から藤本の家へは行けなくなった。
30日の(お餅つき機で)お餅つきだけ日帰りで行き、元旦に新年の挨拶に行った。その夕刻に実家へ向かったが、その数年後にはそれもできなくなった。

あの頃はお正月どころではなく、「ただ月が替わるだけ」と自分に言って聞かせていた。

そんなわけで母が病んでから年末年始は嫌いになった。
年末年始の雰囲気が大好きだったのは母が元気だった時までだから、私が35〜36歳で、母が61〜62歳頃までだった。私も母と肩を並べることもなく、40〜50代だった頃の母の年齢もはるかに過ぎてしまった。

母が亡くなった3年9ヶ月後に父が亡くなってまもなく15年半になる。今では両親が居ないことにもすっかり慣れたが、やはり年末年始は嫌いだ。

実家へ帰るのが楽しみだった頃が懐かしく、私は家族がいてもさみしくて、独り住まいの人はどんなにさみしいことだろうと思うのが年末年始の心象になっている。


posted by 優子 at 11:21| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2015年10月23日

19年前の今頃は ― 母を偲ぶ ―

10日ほど前からずっと風邪気味で熱っぽい日々が続いている。昨日は久々に元気になったかと思うと午後は急にしんどくなって臥せっていた。
今日は昨日より元気になり、九州に行く夫を見送りに駅まで歩いた。その帰りに、町の呉服屋さんに所要があって訪ねると、七五三の晴れ着をひろげて接客されていた。

母が亡くなった10月は母を思い出していたので、私は早足で、まるで母に会えるような気持ちで帰宅して娘たちの祝い着を出した。

知子の祝い義は七五三の時に知子が自動車に酔って吐いたので悉皆屋さんに出して、真智子の七五三にも着たが、何よりも38年近くも経っているのですっかり古びていた。

真智子・お宮参りの絽の着物@.jpgところが真智子の晴れ着はまっさらのままだった!
「お母さん」
私は着物を抱きしめた。


真智子は6月生まれのため夏のお宮参りに合わせて絽の着物を用意してくれた。箪笥の中はいっぱいなので押し入れに入れていたが、箱を開けると匂い袋の香りも残っていた。

真智子を出産後1ヶ月間実家で静養している時に、母は呉服屋さんを呼び、いくつかの反物から2点選び出してどちらか好きな方を私に選ぶように言った。

真智子・お宮参りの絽の着物A.jpgこれも母の好きな加賀友禅なのだろうか。あるいは絽の加賀友禅などないのだろうか。こんな年齢になってもそんなこともわからないが、その時に見た「280000円」という値札だけは今もはっきり覚えている。
あの時は今の40万円くらいに感じたものだ。着物に仕立て、長襦袢なども合わせるとかなり高額になったことだろう。

お宮参りは男性側の祖母(母親)が抱くので母との写真がない。

真智子のお宮参り・橿原神宮.jpgあの時どうして「お母さんも真智子を抱いて一緒に写真を撮ってやって」と声をかけなかったのだろう。この日、室内であれ母や父が真智子を抱いている写真は一枚もない。

真智子のお宮参り.jpg
この時、母は55歳、父は56歳、
良輔は35歳だった。
そして今日、あの日以来35年ぶりに着物を出して衣文賭けに掛けて風を通したとは! 今日から桐の箪笥に直そう。そして、いつか真智子に持たせてやろう。これを着る真智子のジュニアを授かるならば、それ以上の喜びはない。その時は私はアメリカだってどこにだって行こう。
これは知子のお宮参り、共に橿原神宮だった。
懐かしい父と母。お父さん、元気にしてる?
お母さん、本当にいろいろありがとう!

知子のお宮参り.jpg

この時、母は52歳、父は53歳、義母は55歳。

この時、私が夫の実家に長襦袢を忘れて行ったために着物を着ることができなかった。母が私に着物を着せようとした時に長襦袢がないことに気づき、母は義母に長襦袢を貸してほしいと頼んだが叶わず、とても残念がっていた。

この際、長襦袢は絽でなくても紗でも麻でも夏用であれば素材は何でもよかったと思うのだが、持ち合わせがなかったから素っ気なかったのかもしれないと、これを書きながら過ぎた日を思った。

母は60歳になった頃に進行性難病である脊髄小脳変性症を告知され、10年の闘病のあとに70歳の生涯を終えた。1996年10月25日(金)、日付けが変わった午前1時28分だった。

この日(最高気温26.1度)は今週のように汗ばむ気温だったが、この夜の通夜は野分の風が吹いて急に肌寒くなった。
夜が明けて東大阪の自宅に帰り、母の遺影の写真を探し大急ぎで再び実家へ向かった。そのラッシュアワーの地下鉄で涙が流れ、目の前に立っていた女性が訝しげに私を見ていたことも忘れられない。

19年前の頃を覗きたくて日記帳を開く。
1996年10月21日(月):
朝8時20分頃、主治医より電話あり。母の容体悪く、挿管するか気管切開しないと助からないので早く来てほしいとのこと。真智子はこのことを知って中間考査のため学校へ行く。兄と私と良輔と知子(大学1回生)の4人で外来の方で話を聞く。

COが70近い(普通は40以下)
が50
PH(血液の酸性度)は7.317(7.3以下は厳しい状態)

COで呼吸状態がわかる。この状態になるとOを送ってやるだけではダメで補助呼吸が必要。ただし、本人の苦しみはあまりないらしい。なぜならCOが多くなると意識が混濁するため。Oは死期を早めることもあるとのこと。

10月22日(火):
医師の朝の話では今日があぶないとのこと。知子は9時半ごろ(???)来てくれる。真智子は試験のため学校へ。
その後まもなく、お昼までもたないと告げられ、良輔から学校へ連絡。昨日も試験のあと駆けつけてくれているので、おばあちゃんとの別れもしている。おばあちゃんもよくわかってくれているから試験が終わってから来るようにと伝えたが、2教科目を受けずに帰らされたと駆けつけてきた。先生の判断にも胸を打つ。

竹内の伯母、長男、神戸の叔父叔母も来てくれた。その後、母の様子がすごくよくなったので今の間に一度帰るようにと、叔母たちに何度も説得されてようやく病院をあとにした。
お母さん、私が帰っている間に逝かないで! 

良輔の車で真智子と2人帰る。お風呂に入り、知子が作っておいてくれた焼き飯とポテトサラダを食べ、黒の服と喪服の用意をする。母が用意してくれたものを出すのだ。母が20年前に箪笥に入れてくれた匂い袋の香りが部屋中に漂った。

10月23日(水):
11時過ぎ、母と再会。昨夜初めて妹が泊まったが、家族が揃うのを待たずに帰った。母は一晩中、目を見開いて起きていたという。

午後1時前から主治医の話を聞いた。私、知子、父、神戸の叔母、妹婿。父(71歳)は難聴のため、知子は祖父に寄り添って途中で中座する。
母は苦しそうに見えるが、そんなにそうではないようだろうということで酸素は流さないことに決めた。

しかし、「苦しくても呼吸していることに価値がある」と言って妹婿が酸素を流すべきだと主張し、廊下で議論になる。私は人間の尊厳を守るという事はどういうことかを話した。

兄が4時過ぎに来た。兄と二人で再び医師の話を聞きに行く。酸素は流さないと決める。真智子は4時半ごろ帰った。試験中、3日目である。かわいそうに。

夕方5時半ごろ、兄が仕事に戻る時に叔母も帰ってもらった。母についてくれるために再び兄が9時半頃来て、肥後橋まで送ってくれて10時15分ごろ帰宅。
この夜8時頃から母は眠り出した。この日は白目が膨れていた。点滴のための浮腫とのこと。

10月24日(木):
朝7時半、昨夜母の病室に泊まってくれた兄から電話あり。血圧が下がってきている。過去のデータからだと今日1日ぐらいとのこと。私は電話を切ってから何も手につかず1時間もオロオロしていた。

10分ぐらい叔母に電話し、谷口さんに電話する。谷口さん(母と同じ昭和元年生まれ)は言われた。

「あなたはイエスに立てられた人。リーダーシップをとって『みんなでお母さんを送ってあげよ』と言ってあげてください。その人の一生が終わるという厳粛な場、お母さんも今、肉体だけでなく魂も闘っておられる。そして、みんなの一番いい時に『もういいよ』と神が引き上げてくださる』」と。
電話の途中から苦悩する魂が静められた。祈った。

この日が最後の泊まりとなる。10時頃家を出る。母のために出かけるのが今回で最後になった。たった380回・・・

母の息は静かになっていた。この時はもはや瞬きはできなかった。しかし、かすかに動かして意思を返してくれたように思う。この時、母はどんなだったんだろうか。肉体の苦しさと心の情態はどうだったのだろうか。

最期の最後に2度目も泊まれる私は幸せだと思った。兄が泊まる時はいつも病室で午前1時〜2時まで、あの薄暗い光りで仕事をしていた。ところが、昨日に限って何か仕事の忘れものをしたので何もできなかったそうだが、母との時が与えられてよかった。忘れものも神の計らい。

そして兄にこの夜こそ休んでほしいと思った。どんなに苛酷な中にあっても、母に寄り添おうとして来てくれた。私もこの日はもうクタクタで歩くと股関節も痛い。夕刻6時頃、兄は叔母と知子を梅田へ送り帰宅した。

腰がビリビリしていたので、8時頃からベッドを広げて横になった。この夜、私は母が危篤状態になって初めて吸引した。怖かったが2〜3度した。

そして、9時過ぎから1時間あまりも眠ってしまったように思う。その時、蚊が私の下唇あたりをかんで痒くて目が覚めた。蚊のおかげで起こされたと思っている。これまでのように大きな呼吸音のない今、寝ていては母の様子がわからない。

しばらくすると喉にたくさんの分泌物があるようで苦しそうだった。もはや口を開くこともできなくてナースは鼻腔から吸引するが苦しそうなままだった。

しかし、何か様子がおかしい。
ナースコールを押してもなかなか来ない。また慌てて呼んだ。「言ってます!」と無礼な言葉が返ってきた。「早く来てください!」と言って切ったあと、まもなく主治医が入ってきた。血圧を測った。あとは覚えていない。

この時はもう、この1週間ほど何度もやってきた股間の動脈血からの検査は刺激になるのでしないとのこと。これを何度もしてきたのは、家族の人にあと母の命がどのくらいか予測して伝えるためだったと言われた。母よ、痛かったであろう。
針を抜いた後、私は毎回、強く、長い間指で抑えていた。動脈血が噴き出すと天井まで達するからだ。

そして医師は家族に「知らせてください」と言われた。
12時半頃、知子と真智子が来た。大阪市内の兄たちの方が遅くて、来たのは12時45分頃だったと思う。こんな時は服装を整える必要もないのに、父はスーツに身をかためていた。父が遅くて兄は困ったと言う。父もいよいよと連絡が入り戸惑ったのだろう。かわいそうに!

このあと母はどんどん悪くなった。妹はやっぱり間に合わないのだと思ったが、和歌山からタクシーを飛ばして1時25分すぎに到着した。
この時すでに医師は母の胸に聴診器を長い間あてて最期の心音を聞き分けようとされていた。そして、「残念ですが1時28分、お亡くなりになりました」と言われた。


その瞬間、私の耳に母の笑い声が聞えた。この時、私は母のベッドサイドの左手側に居たが、それはそれは大きな笑い声が鮮やかに聞こえたので、思わず声のする左側を見た。母の足元の天井あたりから聞こえた。はっきりと! そうか、ようやく母は苦しみから解放されたのだと思った。

住友病院建て替え.jpg母が亡くなった翌11月19日の新聞に住友病院建て替えの記事が出た。それでいい。悲しい思い出の建物は無くなったほうがよい。

今月初め、住友病院のホームページを見た。
我が国の神経内科学の最高の権威であり外来の主治医であった当時の病院長・亀山正邦氏も亡くなっておられた。
そして、病床で知り合った早苗ちゃんの主治医は副院長に、母の主治医だった心優しいN医師は診療主任部長として従事されている。私はN医師より年上だったのだろうか、殆ど変わっておられないから驚いた。

19年前の明日の夜に母を看取り、そして、母の初七日に私は45歳になった。

posted by 優子 at 23:07| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2014年08月08日

父を偲び 自らの時に思いを馳せて

1997年8月5日(火):
「いつも同じ夢を見る。空襲で足の周りが燃えている夢や」と言って父は泣いた。
1997年8月7日(木):
この日、知子が(祖父の病床へ)行く。夜が明ける前、大変な雷雨だった。長時間の激しい雷に父のことを想ったが、案の定、父は怯えて泣いていた。空襲と間違えて恐怖におののいていたという。

父は出兵した3日後に浜松で終戦になって帰阪したので戦地での体験はない。そんな父が重度の脳梗塞により認知できなくなった時、戦時中の空襲の記憶が父を苦しめた。戦争とはいかに非人間的なものであるか!

2000年8月8日、父が亡くなって14年になる。
母が亡くなって半年後、父は重い脳梗塞に倒れた。その日の日記を開く。
1997年5月14日(水):
(真智子は高校2年生。知子に続いて真智子の時も学年委員長を務めさせていただいていた)
高津高校の総会でのスピーチにメッセージをこめることができた。
そのあとの連絡協議会の自己紹介では、「ここ2〜3年ぶりに病床の母を想うことなく安らかな気持ちでこの席に座っています」と言った矢先のこと。その夜、父が重度の脳梗塞で病院へ搬送された。

翌15日(木):
命は取りとめたものの父が父でなくなっていた。目の焦点は定まらず意識は朦朧とし、時間の経過ごとに麻痺が広がっている。
脳の腫れが起こり、意識も早朝時より今の方が悪い。ろれつが回らず右目が開けにくく麻痺が進行してきている。高血圧により心臓に負担がかかって肥大、血圧を急に下げるとよくないので150〜160ぐらいにとどめる。

兄に入院案内を届けるために実家へ向かう。

疲れた。怖い。お母さんどうしよう・・・
私以上に父は大変なのだからしっかりしなくては!
私は経験を積むほど弱くなっていく。精神力も動作も何もかも・・

吸引している患者さんを見て涙が流れた。
お母さんの事が昨日のことのように思い出されて泣く。病院で何度も泣いた。
お母さん!お父さんが大変なことになってしまった。お母さん、どうすればいいのかわからない。明日は知子を国立病院へ。どうしたらいいの?しっかりしないと!!!

父との時間を思い出したくてノートを開くと必至の戦いが綴られていた。そして、「母は英雄的犠牲だったように思う。実らなかった期待・・・」と、ポツンと書いている言葉からも当時の心中が窺える。

45歳の私は『ヨブ記』の答えのない脈絡を苦悩し続けていた。しかし、父が亡くなるまでの3年間で人生が深遠なものであることを受け容れる者とされた。

知子は商社に勤務し、真智子は大学2回生になっていた。
その前年4月に自宅を東大阪から夫の両親のもとへ移した。その直後からの親族との出来事は非道なものだった。夫が最も遠い存在に感じた。
しかし、神はこの最悪を通して私を訓練し勝利させてくださった。霊の目覚めを得る。

今振り返れば1年間この家から父の病床に通わねばならなかったことは、最悪な状況下の私の支えにもなっていたように思う。

絶叫しながらも父のために一切を耐えることができた。父にふさわしい娘でありたかった。そのことは取りも直さず、神の御心でもあった。
かろうじて父が私の新居を見届けてくれたというこじつけの思いが私を慰めもした。


あの日も暑い日だった。
いよいよ父の危篤を告げられて、8月8日朝、前夜詰めてくれていた兄と交替し、真智子と病院に詰めていた。そして、私たちの昼食と入れ替わりに兄が昼食に帰宅してまもなくのことだった。

あの夏から14年が過ぎた。
私は父を天に送ってまもなく真の信仰を与えられた。それでも尚、憎しみや悲しみの感情に苦しんだ時期があったのを覚えている。それもまた当然のことであり必然の道だ。

未だ実現されない父母の祈りはこれからも神に委ねつつ務めよう。醜い自我との葛藤に悩むこともしばしばだが、その葛藤は生きている限り解放されることはないだろう。
その葛藤から紡ぎだされる祈りこそが生きていることの充足にほかならないと思う。


「もし神の義が、人間の理解力によって、義として認められ得るような性質のものだとすれば、それは明らかに神的ではなく、かつ人の義と少しも異なるところがなくなるだろう。

ところが神は真実かつ唯一であり、更に全然理解し難く人間の理性を以てしては近づき難いから、その義もまた理解し難いことは自然であり、むしろ必然である」。
       
                 (オットー著・『聖なるもの』より)

お父さん、ひ孫の幸悠ですよ。.jpgユキは今日、父の写真に呼びかけた。
「ひいおじいちゃん、ゆきひさです」。
お父さん、お父さんの曾孫の幸悠ですよ。

posted by 優子 at 17:14| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2014年05月12日

母を偲ぶ私の「母の日」

母を偲ぶ.jpg私にとって「母の日」は母を偲ぶ日である。
この写真は母の介護で週2回、東大阪から実家(大阪市内)に通っていた1994年の「母の日」だ。

この時すでに母は1人で歩くことも立つことさえできなかった。それでも私には贈り物を持って訪ねて行ける母がいた! 母は68歳で私は42歳だった。
これは「母の日」の讃美歌510番歌っているところ。この時からちょうど20年目の「母の日」とは、まことに感慨深い。

今では母のいない生活にもすっかり慣れたが、今も時々辛い思いがよぎる時がある。母より3歳年上の91歳の義母に、義妹(娘)が贈り物を届けたり孝行している姿を見る時だ。私にはもう贈り物をする母がいない。

ああしかし、70歳近くなっても親が健在な人がいれば、○○ちゃんのように幼稚園時代にお母さんと死別する子もいるのだ。
幼くして、また、若くしてお母さんを亡くした方々の上に、どうか天来の慰めがありますように。45歳になっていても母の死は悲哀の底に落とし、慟哭し、思いっきり泣くこともできず、涙があふれ出るまで長い月日がかかるほどの悲嘆だったから。

私の中で「父母に捧げる」と副題をつけた「受け継がれるもの」を読んで、母と父を偲びたい。
この文章は東大阪から当地に移って2年目に入ったばかりの2001年5月のこと、当地広報誌の「ペンリレー」で顔写真入りで掲載されたものである。

このとき私は49歳で、1996年10月に召天した母に続いて2000年8月に父が亡くなってから、まだ1年も経たない時だった。

ペンリレー.jpg        受け継がれるもの

今年、次女も成人式を迎え、素晴しい子育ての季節が終ろうとしている。
私は子供の成長に気をとられていつしか人生の半ばを過ぎた。結婚して24年が経ち、まもなく両親のもとにいた年月と同じ時間が流れる。

長女が中学校に入学した頃から、私の中で母の姿がクローズアップされていった。私が子供だった頃の母の姿だ。わが子の成長と共に、子育ての大任に目が開かれていったのであろう。と同時に、両親の深い愛と子供が賜物であることを深く味わえるようになった。

父と母は言葉で教え、自らの生き方を通していかに生きるかを示してくれた。
悩みや苦しみが意味を持つかどうかは、その人自身にかかっている。また、感謝や真の喜びは状況によらず、自分の内側から湧き出てくるものであり、人はそれぞれの成熟の度合いにふさわしいものを受けている。

私の人生も年を取るに連れてますます開花し、自分自身の内に多くの喜びを見出す者となりたい。

娘達は今、自分の根を下ろし枝を張ろうとそれぞれの道を歩み始めている。この子たちがこれからどのような人生を築き上げていくのか、私は幸せな期待に胸をふくらませている。
そして、父母の教えをその孫たちも受け継ぐことができるように、私も良き人生を全うしたいと願う。

未来を語り合う二人は、若い命が眩しいほど輝いている。
(※ 過去ログ・2006年03月01日「父母に捧ぐ 受け継がれるもの」より抜粋。)

ユキにも愛を注いでくれる叔母(母より2歳年下)に感謝の気持ちを届けたく、今年は「母の日」の包装で贈り物をした。この時期に贈り物をしたことはないが、どことなく私の気持ちが和んだ。

今も父母が健在ならば父は89歳、母は88歳である。両親がどのような老人になっているのか、もはや想像するのは難しいけれど久しぶりに声を出して呼ぼう。「お父さん お母さん」と。

私は両親からあふれる愛をいただいたから、それを子どもや孫に返そう。我が子も私のようにいつまでも親の願いのわかる子でありますように。そのことだけを記した遺言を書いておこう。

「みくにの門を 開きて我を 招きたまえり、いさみて昇らん」。

今朝(11日)の礼拝で歌った「主われを愛す」の言葉を感謝した。

附記:▼今年も次女夫婦から「母の日」のグリーティングカードが届いた。
▼この記事を「母の日」の11日20時26分に更新したが、22時39分に12日の日付で再更新する。

posted by 優子 at 00:00| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2013年08月14日

父母の墓前で涙の祈り

連日ベランダなどの金属面に肌が触れると1秒たりとも触っていられないほど熱い。しかし、昨日も夜になると涼しくなり夜半から窓を閉めるほどだったので熟睡できた。

最近の猛暑で知名度を上げている大阪府豊中市は、今日は38.9度でランキング全国一となった。その豊中市の服部緑地に実家の墓がある。今日は最初に藤本の墓へ、そのあとで父母の眠る墓に行った。
熱波で溶け折れたロウソク.jpg
11日に兄が灯したロウソクは
連日の熱波で溶けて垂れていた。

父母の墓前で.jpg
母が着ていたワンピースを着て、父と母が愛した知子と。
真智子も帰国するたびに祖父母の墓参を気遣ってくれるが、
未だ実現せず。

 
父母の墓前でA.jpg 
私たちもすっかり熟年になった。
ここに父と母が一緒に立っていたとは信じがたい。
母の年齢まであと8年。会いたい。

父母の眠る墓.jpg
叔母と従姉妹の愛(絵ろうそくと甘茶香)を墓前に。
「絵ロウソクとお香を持って帰ってもらえて本当に良かったです!
今週出張で金沢に行った際たまたま目に留まって買ったのですが、それがおじさんやおばさんの近くで灯ってくれるのかと思うととても嬉しいです^_^ 」。


白檀や沈香などに甘茶を混ぜてお香にした甘茶香、そして、絵ろうそくはとても高価なものだった。叔母と従姉妹にいくつかの写真を添付した。兄も一緒のはずだったのに・・・。ユキは態度が悪くて写らず。

今日は百合の花がなくて残念だったが、例年ロウソクと線香は兄が、私は百合の花を用意し、私は神に祈った。
今日も、夫、知子、幸悠は祈りの姿勢をとり祈った。私は神に呼びかけた瞬間から声がうわつり涙の祈りになった。

母に続いて父が亡くなってから12年間続いた兄との墓参は、年に一度の再会の日でもあった。今年は事情があって別々になった。今日の記事は、祖父母の墓参に心を寄せつつも行けない真智子に様子を知らせたくて記録した。

叔母が言うように墓参は一人で行くのがよい。家族で行くと賑やかで嬉しいが、一人でゆっくりと懐かしい父や母と心ゆくまで居たい。


帰宅するとチャッピーがいつもの場所で暑さを凌いでいた。風が通るからだろうか、今夏はここにいることが多い。チャッくんのサバイバルの知恵である。
チャッ君のサバイバル.jpg
お留守番してくれてありがとう!
冷たいスイカを美味しそうに食べた。

※ 夫が会社に免許証を忘れてきたので、今日は終始知子の運転だった。初めての道だったが無事に帰宅できたことを神に感謝した。
これを機に運転は若い知子がしてやってほしい。兄がそうであったように、全てが懐かしい光景だ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
附記:
90歳の義母は足がふらつくからと、(藤本の)墓へは私たちだけで行くことになっていたが、今朝になって行くと言って玄関に座っていた。今月初め、庭でこけて後頭部を3針縫う怪我をしているので躊躇したが、全くいつもどおり力強く歩いていたので一緒に行くことができて良かった。
私のほうがふらついて頭もボヤーっとして、私自身はもとより夫と知子が案じるほどだった。

藤本の墓地からPLの塔が一望できるので、ここはPLの花火(毎年8月1日にある)を見るには最高のロケーションである。
PL.jpg

帰りは大阪府堅下(かたしも)や国分の特産品である「大阪ぶどう」を買った。私も知らなかったが大阪はぶどう栽培が盛んで、特にデラウエアでは生産量全国第3位だそうだ。自宅からすぐの165号線沿いにはたくさんのぶどうの直売所がある。大阪ぶどうはとても甘いデラウエアで、今年のは特に甘いように思う。
大阪ぶどう.jpg
スーパーの店頭に並べられているぶどうと違って軸も青く新鮮だ。これで1000円、おまけの3房を入れて11房あった。

明日の夕刻、上本町の寺町からお寺さん(禅宗)が来られて、その後親族と夕食。義母と(義妹も?)送り火をしてお盆の行事が終わる。疲れるから明朝はゆっくり寝ておこう。

posted by 優子 at 23:32| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2012年08月16日

父母の墓参、霊標を記録する

今年も一年ぶりに兄と再会し11日に両親の墓参に行った。その後二時間ほど昼食しながら歓談した。今年も兄よりも早く着いたので今年こそはとばかりに霊標の文字をメモしてきた。戒名には関心がないので省き、年齢は満年齢で記した。

弥三郎(父の祖父)昭和7年2月24日 76歳

弥吉 (父の父) 昭和42年8月24日 78歳
  

つね (祖父の母か?)明治25年1月14日 26歳  
   祖父(亀吉)から母親を早く亡くしたと聞いたように思う。

ちかの(祖父の継母か?)大正9年6月9日 56歳
    なぜ父に聞いておかなかったのだろうか。きっと何度
    かは聞いていたのだが、この人たちのことは記憶にも
    残らない聞き方をしていたのだと思う。

ヨシ (父の母) 昭和44年9月8日 76歳

亀吉 (父の伯父)昭和48年7月1日 84歳
    
    生涯独身だったため父の養父となり次男だった父が
    引き取り共に暮らした。母にとっては結婚当初から
    夫婦だけの生活ではなかった。

成子 (母)   1996年(平成)8年10月25日 70歳
    介護は女の仕事と決まっていた時代である。母は多忙
    な日々にあって義兄姉の助けも全くなく、義父、義母、
    そして、義養父の三人を介護して看取った。

三郎 (父)   2000年(平成)12年8月8日  75歳

藤本の墓参は義母が般若心経を唱えている間、皆は立ったまま全員で手を合わせるが、実家は一人ずつ正前にしゃがんで手を合わせる。
私は両親を初め故人に対して手を合わせるのではなく墓前で神に祈る。昨年は知子たちは来なかったが、今年はユキを膝にとって墓前にしゃがんだ時、自然に父と母に語りかけていた。そして、神への祈りに導かれた。

「お父さん、お母さん、この子が私の孫です。知子の子供です。(嗚咽)お父さんとお母さんの曾孫ですよ。(嗚咽)
兄も私たちもそれぞれに苦労していますが、お父さんとお母さんのように最後までしっかり生きていきますから、どうぞ安心してください。

天のお父様、今年も兄と一緒に両親の墓前に来られたことを感謝します。今年も妹の姿はなく一緒に来ることができませんでしたが、どうぞ兄の家族も、妹の家族も、私の家族も皆、天国へ入れてください。これからの一年もどうぞ私達を見守りお導きください。
(最後はユキと一緒に声を合わせて)このお祈りをイエスさまのお名前により御前にお捧げします。アーメン」。


ユキの声が天空に響いた。
神さまは一言のお祈りも決して忘れることなく覚えていてくださる。
父が亡くなって12年目の夏である。

附記:正確にはこの記事は17日に書いたものであるが日付けを16日とした。
posted by 優子 at 21:45| 奈良 ☀| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2011年10月28日

いかにして脱出不可能な状況から脱出するか

火曜日から晴天が続いているので工事も中断されないからありがたい。
昨日の奈良の最低気温は5.8度まで下がり、日中は20度まで上がったものの我が家は「核の冬」のように暗く寒い。家中がシートで覆われているからだ。

外壁工事@.jpg


これは玄関で、家中がこの状態だから息が詰まりそう。
昨日から「3D(スリーディー)工法」と呼ばれる作業に入り、タテヨコの窪んだところに濃い色が入った。

家の周囲をシートで覆われているだけではなく、24日から全ての窓がビニールで覆われたので空気の入れ替えもできない不自由な日々である。

窓がビニールで覆われてからはカーテンを開けているが、それでも昨日の室温は17度から上がらなくて寒かった。
冷暖房の室外機も覆われているので暖房することもできず、室温が20度になった今日でも何度か外へ出て体を温めに行った。まるで温泉につかるような感じである。

私はこの工事の初日から安部公房の『砂の女』と大江健三郎の『飼育』が脳裡に浮上し考え続けている。

つまり、脱出不可能なものからの脱出、閉鎖的状況においての脱出の仕方など、人はどうにもできないものからいかに脱出するかについて想像力を働かせて文学的に掘り下げようと試みている。


10月22日の記事で、「だからこそこの期間を有益に生かしたいと思う」と書いたのはそういう意味である。

『砂の女』ではジリジリと迫ってくる砂の怖さ。それは死の恐怖というのが定説だったように思うが、自分の穴の中から出られぬ自分を思わせる。
それはまた毎日毎日砂かきをしている日常であり、我々の生活と同じようでもある。


「脳の力を信じきっているのが作者(安部公房)であり、作中人物の仁木順平だ。公房は脳さえあれば生きていけるという考え方で、心の脱出(楽しみ)は脳からしか湧いてこない」とは、読書会の導き手だった西口孝四郎氏のお説だ。(1991.8.20)

『飼育』では監禁されている状態、閉ざされた壁の中で生きる状態がテーマになっており似通っている。

では現代における監禁状態とは何だろうかと考えると、原発事故で放射能に捕らえられたこともそうだ。


この読書会の時(1989.9.11)も西口氏は次のように言われた。

「人間は誰かに捉えられている。これを突破するには考え方によるしかない。思想的に、あるいは政治的にするなど、自分の楽しみを見つけさえすればよいのではないか。
(登場人物の)黒人の場合は食べ物をもらえること、子供たちとの交わり、セックスなどだ。

書記(登場人物)の死は何を意味するか。
それは身障者からの解放だ。義肢を外してソリに乗って滑り、死ぬ。その顔は微笑んでいた」。


しかし、西口氏の大ファンである私もここは頷けなかった。人間は考え方で解放されるものではないことだけは明確だからだ。
この時、私はどのような感想を述べたのか知りたくてノートを読み進めた。

「現在における監禁状態とは何だろう。病気や戦争も監禁されたのと同じだろう。
では、私自身にとっての監禁状態とはどういうことが考えられるだろうかと考えてみるに、自分自身から解放されなくて自由人になれないことだ。

それは即ち罪に監禁されているのではないか。
生まれたままの肉、自我に監禁されている。
しかし、完全に解放されるということがあるのだろうか、人間が・・・」
と、準備していった発表要旨のメモが残っている。

この時、私は37歳であり、洗礼を受けてから2年経過しているが、まだまだイエス・キリストの贖罪がわかってはいなかった。
そのこともごまかさずに記録されている。メモの最後まで発言したかどうかは覚えていない。

この時すでに母は無情な神経難病を告知されていたが、このあとの過酷極まる病気の進行と共に私の霊的目覚めへと導かれていくことになる。そこに至るまでには安部公房が描いた砂地獄のような時期もあった。

外壁工事の最初の数日間は息が詰まりそうになって何度か外へ出た。初めて外気に触れた時、母の入院介護中のことがよみがえった。辛く悲しい心象風景だ。

母の病室で一泊して病院の外に出た時の外気は別世界のように感じた。
しかし、1分間さえ息抜きすることができない母に、「お母さん、ごめんね。私も自分の時に苦しまねばならないからゆるしてね」と、自分の無力さと薄情さを詫びながら梅田(大阪駅)まで歩く繰り返しだった。
まるでそのシーンが映像で映されているかのように、肩を落として歩いていく私の後ろ姿がはっきり見える。


工事中の不自由さは難病に捕らえられた母と違って、洗濯物はパーキングに干せるし気晴らしもできる。午前中はチャッピーと長い散歩に出かけたり、チャッピーを繋いでから再度ユキと2人で公園へ行ったりして2時間ほど外で過ごす。

外壁工事中.jpg

今では不自由さにも慣れて格段に耐えやすくなっている。でもやっぱり早く終わってほしいが。

義母は一日に何度でも会うたびに工事中の煩わしさを共感してくれるかのように話題にする(笑)。予定通り2週間で終わるかどうかあやしいところだが、神さまが人間に適応力を備えて下さっていることを思いつつ、もう少しの辛抱だ。

思いもかけず母を偲ぶ記事になってしまった。
母の初七日が45歳の誕生日だった私も60歳になる。
母と別れて15年、もうそれほどは生きられないと思う。それだけ両親と会える日が近くなった。
命ある限りは一日でも長く生きて成すべきことを誠実に果たさねばと思う。

附記:夕食後にも降圧剤を飲んでいるのに血圧が170を越えている。体感的にも非常に悪い。明日、検査を兼ねて他の病院を受診。
今夜夫は熊本泊。静かでいい。3日前から夫対私たち3人で対立中。
   

posted by 優子 at 22:17| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2011年10月21日

母の即断で助かった命 

石屋川沿いを六甲山に向かって上がっていくと、右側の山の中腹に甲南病院が見える。
石屋川を行くC.jpg

晩夏だったと思うが叔母の家へ遊びに行った時に病気になった。幼い妹から発病し、時間の経過と共に私、兄と症状があらわれてきた。
妹は2歳になっていなかったと思う。だとすれば私は5歳前で兄が6歳くらいで母はまだ31歳だった。

往診してくれた開業医は腸炎と診断し、自分が治す、治せると自信をもって言ったそうだが、この1年前に従兄弟(父の兄の子で、私より4歳ほど年上だったと思う)が腸炎で亡くなっており、私達もグニャとしてコーヒー粕のようなものを吐いたので、母は迷うことなく医師の言葉を振り切ってタクシーを呼んだ。

そして、運転手さんにこのあたりで最も良い病院はどこかと尋ねて、教えられた甲南病院へ連れて行ったのだった。治療費も高いと言われたそうだが、お金にはかえられないと母は即決した。

病院では3人の命は助かるかどうかは五分五分だと告げられるほど一刻を争う容態だった。あの時、母の機転と行動力がなければ私達は間違いなく3人とも死んでいたのである。
その同じ頃に父の会社の得意先の子供さんも同じ病気で亡くなっている。「経済的にも豊かな社長さんだったから十分に手を尽くされただろうに・・・」と何度も母が言っていた。

私もかすかに往診して下さった開業医のしぐさを覚えている。病院の廊下をベッドに乗せられて運ばれたことや、最初に角の部屋に入って耳たぶに傷をつけて血を採られたような記憶がある。輸血をしたのだろうか。

病室はとても広く、ドアを開けると綺麗なベージュの布のついたてが立ててあった。私を真ん中にして、左に兄、右に妹が寝ていた。

院長・副院長共にとても優しく穏やかな人柄だったことも覚えているから、幼児でも人格的なことはわかるのだ。

しかし、お医者さんが部屋に入って来られたら泣いていた。
というのは、毎朝、両太ももに黄色い薬の入った注射が打たれた。これがまた非常に痛かった。続いて太いリンゲルの針が刺された。兄には父が付き、妹には母が、私には神戸の叔母が付いてくれた。

看護婦(看護師)さんと付き添いの家族が、泣き暴れる私たちを抑えてのリンゲル注射だった。両親は本当に辛かったことだろう。

終わるまで30分間か1時間かかったのか時間はわからないが、点滴注射と違って終わるまでずっと痛いので泣いていた。終われば足はパンパンに腫れ上がり包帯が巻かれた。今も太ももに針のあとが残っている。

高い入院代に加えて、あの当時でも1本何万円もする高価な注射が3人分だったというから、当時の両親には支払いが大変だったと思う。

付き添いの人の食事もホテルのような食事が出されたと母が何度も言っていた。母は私たちにわからないようにそっと食べるのだが、今もあの時のトーストの香ばしい香りを思い出せる。

ようやく重湯を口に入れられるようになり、次に小さなジャガイモをひと切れ食べられるようになった頃のことだ。

母は私たちに付きっきりだったので、留守宅は祖父(父が養父としてひきとった独身の伯父)が夕食を作ってくれていた。「おじいさんのカレーはシャブシャブやった」と、父が笑いながら話していたことも懐かしい。

あの頃はまだ自家用車がなかった時で、父は毎晩仕事が終わると大阪からオートバイで国道2号線を走り、甲南病院まで山を登ってきてくれたのだ。まだ32歳と若かったとはいえ、大変な日々だっただろう。

抵抗力のない妹から病気になり、年上の兄から回復していったそうだ。
3人揃って退院の日、御影(みかげ)駅から電車に乗ったが、私は駅の階段を登れずに尻餅をついたのを覚えている。足に力が入らなくて登れなかったのである。その時も叔母が一緒だった。小さい時から叔母にはお世話になった。

いつも石屋川を歩くたびに遠い日々を思い出す。
10月25日は母が召された日、母逝きて15年目の命日を迎える。


posted by 優子 at 09:38| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2011年01月03日

お正月は父と母を偲ぶ時

今年も神戸の叔母を訪ねた。
高速道路も空いていて55キロの道のりも50分余りで到着した。従姉妹も交えてゆっくりできるのはお正月くらいである。

ユキにとっては大おばあちゃんと大叔母からお年玉を頂き、お腹いっぱいご馳走になった。

私自身の記録:
「わが名(イエス・キリスト)のゆえになしたことは冷や水一杯の報いも失わない」と言われた主イエスの言葉を信じ、一切を神に委ねて別れた。


今年は予定通り6時前に帰宅。家の前に親族の自動車が2台止まっていたので、荷物を置いてすぐに母屋へ新年の挨拶に行った。

今秋、私が60歳になるなんて信じられないが、しかしまた、母が亡くなって15年にもなるというのはもっと信じ難いことだ。
もう15年間も母に会っていないし、父と別れて12年になる。

東大阪に居た頃は、夫の仕事納めの日から藤本の両親宅(当地)で泊まり、お餅つき、買い物、おせち料理を作り、夫の親族と過ごして元旦の夕方に実家へ向かった。

途中、年賀状をとりに自宅の郵便受けに立ち寄るのが恒例だった。実家では父と母が溢れるご馳走を用意して待っていてくれた。

父が亡くなってから、私は毎年お正月になると父の年賀状と箸袋を出して父を偲ぶようになった。

父を偲ぶ祝い箸紙.jpg

この箸紙は1987年のお正月のものだ。
1987年と言えば私が求道へと導かれつつあった時で、両親にとっても苦悩の年末年始であった。

そして、この年の春まだ浅き頃に主イエスに出会い、6月に受洗した。

この年、お正月の3ケ日が終わって祝い箸を捨てる時、私はそっとバッグに収めた。父の筆跡が懐かしい。


次の写真、右側の年賀状は、父が1984年のお正月に子どもたちに出してくれたものだ。幼いいたずら書きは6歳の知子が書いたもの。

この頃が懐かしい.jpg
   
        「あけまして おめでとう
           とも子ちゃん
           まち子ちゃん
         おしょうがつですよ
         おぢいちゃんも おばあちゃんも
           まっています」


左のは1985年のもの。
この年は丑年だったということは父の還暦の年だった。自分がその年になって改めて気がついた。

        「他愛ありて 自愛あり 
         感謝ありて 繁栄あり
           ことしも 
            その心を 大切に」
  

毎年500枚もの年賀状を書いていた父。そこにはいつも父らしいメッセージが刻まれていて、毎年読むのが楽しみだった。

私にとってお正月は両親を偲ぶ時でもある。
懐かしい父と母。
再会の時、私は父と母の胸に抱きつくのを楽しみに今年も生きる。

posted by 優子 at 19:33| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2010年10月16日

父母を偲ぶ秋

母が生きていたら何歳になるんだろう・・・私は今も時々母や父の年を数える。

爽やかな秋の土曜日、昨日一昨日と北海道へ行っていた夫も今朝は元気回復して、孫を誘ってチャッピーの散歩に出た。

その間に私と知子はおしゃべりしながら丁寧に掃除した。昨日はしんどくて掃除も怠けて寝てしまったので、気になっていた埃だらけの2階をスッキリさせた。

すると、「ママー、おばあちゃーん、ちょうちょつかまえたよ!」と、ユキが走りながら帰って来た。

怖がりのユキがアゲハチョウをつかんで、「じゃり道のところでね、おじいちゃんが帽子でつかまえてん。」と、それは得意そうに見せてくれた。

初めて蝶をつかんだよ!.jpg

生まれて初めて触った虫はアゲハチョウ!

私も子供の頃はチョウチョやバッタにコオロギぐらいはつかまえたが、今は気持ち悪くて何も触れなくなってしまった。

2人は栗やドングリを拾いながら2時間近くも行ってきた。ユキは2歳の頃から平気で1万歩以上歩く。義母は「丈夫い、丈夫い」(岐阜弁)と感心してばかり。

そのあと2人は母屋へ行ったので、私は箱から溢れている夫の仕事関係の写真を整理し始めた。
会合、挨拶しているところ、パーティ、ゴルフ、旅行など、同じような写真ばかりなので、2〜3年前に続いて第2弾の今日も150枚くらいは捨てたと思う。

私も業界の方々の顔見知りが多くなっており、興味深く見てしまうので時間がかかる。
人は年を取る。
夫も若かったが、みんな若かったなあ〜〜〜。

男性は年を取った方が素敵だ。
夫も50歳代からいい顔になってきた。私は結婚後の日々と重ねながら夫の表情を見ていた。


しばらくすると裏庭から夫とユキと義母の声が聞こえてきた。
私はいつものように微笑ましく聞いていたが、そのうち母のことを思い出して悲しくなった。母や父にもこのような静かな日々を過ごしてほしかった。

10月は母が亡くなった月だ。
今年は10月に入っても寂しくなかったのに、やっぱり寂しくなった。
あれから14年経って、私は今月で59歳になる。来年は自分が還暦だなんて信じられない。母は我が子が還暦を迎えると知ったらどんな気持ちになるんだろう。


「知ちゃんと真智ちゃんは僕の孫やけれど、優ちゃんの孫になると縁が薄くなるからなぁ・・・」と話していた父。

「お父さん、今どうしているの?」


義母は87歳だからユキとの年齢差は84年、ユキの人生のごく僅かだけ重なってかすかな思い出となるのだろう。
私とでさえ56年もの年齢差があり、そう思うと私もまた母や父のように死んでいく存在であることを実感させられる。

ユキがどのような人生を歩んでいくのか具体的にはともかくも、神への信仰と正しい価値観だけはしっかり継承させて頂きたいと願っている。


義母は体調が良い時は私よりも速い速度で歩く。その遺伝子を受け継いでいる夫も元気で長生きしてほしい。

今週半ばから庭のシュウメイギクが咲き始めた。今年も秋が深まっていく。

たった今、真智子がログアウトしたサインが出た。
今はミネソタ時間の16日午前3時過ぎ。真智たちはハードな日々を頑張っているのだろう。

10日(日)の午前中は久々にスカイプした。
時差のことと、翌日は大溝教会から帰って来るのも夜になるため、大切な要件だったので教会を休んだ。


posted by 優子 at 17:09| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2010年04月09日

父と母に会いたい、早く会いたい、たまらなく会いたい

自分の感情を正直に書けるのが羨ましいとまで言われていたのに
私は書けなくなってしまっているのかもしれない
この頃のブログは美しいことだけを書いているようにも思う

マイナスと思える心の内を書かないならば
読む人の心を打つことはないだろう
「ハレルヤ、アーメン」のひとこまではなく
「ハレルヤ、アーメン」に至る心情を書かなくては
キリストを伝えるどころか
キリストを遠ざけるであろう


急に思い立って梅田へ出た
いや、
娘とささいなことで衝突して家を飛び出したのだ


大阪駅前の交差点に立っていると
無性に父と母が懐かしく会いたくてたまらなくなった
行き交う自動車に目をやり父を捜している自分がいた
自動車を運転する父などいるわけがない!と自分を叱った
父が死んでから8月で10年にもなるのに、いるわけがないだろう!と自分に言い聞かせていた

書店での買い物を済ませてデパートへ入った
母に寄り添っていた頃
いつも帰りはデパートをウロウロしていた
いつも悲しく重い心を引きずって歩いていた
家路に着くまでの時間は
娘から母親に
娘から妻になるために必要だった

もう14年も15年も前のことだ
悲しくも懐かしい日々・・・
父と母に会いたいなあ
会うにはまだまだ苦労を越えていかねばならないか・・・
とにかくもう少しの辛抱だ


桜ノ宮の桜は今日も咲いていた
あの時よりももっと花が残っていた

1997.4 最愛の父と.jpg

1997年4月12日 
半年前に母を亡くして憔悴しきっていた父(72歳)
この1ヵ月後に父は重い脳梗塞に倒れた


posted by 優子 at 17:37| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2009年10月24日

南田洋子さんを偲び、母の死と自分自身の死を思う

21日に南田洋子さんが亡くなられた。76歳だった。南田さんは私の好きな女優の一人だった。
娘時代は「ミュージックフェア」を毎週家族と一緒に見ていたが、私が最も記憶に残っているのは、NHKで放送されていたテレビドラマ、『横堀川』だ。昆布屋の根性物のドラマだったように思う。
あれは1966年に放映されていたというから、あの時の南田さんは33歳で、私は15歳、高校一年生だった。

認知症になられた南田さんをドキュメントされていたのを何度か見たが、長門氏に対して虚飾的な臭いがして嫌だった。

南田さんが亡くなられたことを知った時、悲しみよりも安堵が先にきた。与えられた生を誠実に生きた南田さんだからこそ、全てのことから解放されたことに安堵し、私も最後まで務めを果たさなければと思った。

進行性難病だった母と認知症の南田さんの違いはあれど、在宅介護の空気は相通じるものがあり、南田さんの姿がなくなった家の中と、あとに残された者の寂しさを想って胸が痛い。


そして、自分の死を思った。
神はいつまで私を生かして下さるのだろうか。
あの時、精一杯やっておけばよかったという悔いだけは残したくない。これからも最後まで逃げずに誠実に心を込めて生きていきたいと、それだけを思う。

明日は母が亡くなった日だ。
明日というより日付けが変わって直ぐだった。2時半頃だったか・・・。いや、それは長女が生まれた時間だ。
もはや母が息を引き取った時間も忘れてしまうほど、死別の悲しみは癒されている。日記を開いて捜していると、傍らで長女が正確に「1時28分」と言った。

しかし、私は今でも亡くなった母や父の年齢を数え続けている。
母は70歳で亡くなったから、生きていたら83歳か・・・と。きっと90歳くらいまで数え続けるのだろうが、もはや私に母と父を亡くした悲しみは殆どない。

毎週、実母を訪ねてくる義妹を見ていると親孝行できていいな、60歳になっても母親が元気でいてくれるなんてと、時には羨ましさと寂しさを感じることもあるが、母と娘のいい時間を過ごしてほしいと心から思える。
そして、こんなことも思う。
義妹は母を看取らねばならぬ悲しみが残っていると。

そして、不思議なことに、いや、これは私の習性だからだろうが、86歳の義母のことよりも、自分の死を死ななければならないという想いの方が強く、緊迫感は増すばかりである。

だから、当たり障りのない話題でお茶を濁さなければならないような交わりは避けたいと思う。

母は病床で救われて天の御国へ召し上げられたが、葬儀は家の宗教である浄土真宗で執り行われた。
初七日が45歳の誕生日だった私は、今月58歳になる。10歳になったチャッピーの老いも気になり始めた2009年の秋である。

posted by 優子 at 23:51| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2009年09月15日

28年の時を越えてニューヨークに想いを馳せる

8月下旬のワシントンは日本のような気候だが、ミネソタへ帰るとベッドに毛布を敷いたそうだ。極寒の地はこれから急激に寒くなっていくのだろう。こちらも朝晩は肌寒くなり、今朝シュウメイギクの蕾が一つ開いていた。

雨の日の今日、妹がニューヨークのおみやげを持ってやって来た。
私も一度は行ってみたい所だけに、150枚以上もある写真を楽しく見せてもらった。地下鉄だけで使えるトークン(コイン)は姿を消していたという話も何もかもおもしろく、私もニューヨークの街を歩いているような気分だった。

妹がかつて住んでいたアパート、ローラースケートで走っていたセントラルパーク、お気に入りだったピザ屋のピザ、New York Public Libraryの職員用Cafeのミネストローネ・・・

それらの写真を見ていると遠い日々が写真に覆いかぶさるようだった。パソコンで打った文書を別のフォルダーに入れる時のように、娘の無事を祈りながら待っていた両親の姿そのままの時空が写真にピッタリと重なった。

妹はここに住んでいたのか・・・この通りを歩き、この景色を見ながら過ごしていたんやね・・・と、私は両親に話しかけながら見ていた。「ニューヨークの秋」を口ずさみながら歩いてみたくなるような、留学中の妹を思いながら想像していた通りの素敵な街並みだった。


孫にはニューヨーク名物のイエローキャブ(タクシー)とピーター・ラビットの飛び出す絵本を買ってきてくれた。孫は「えいご、えいご」と言っていた。
そして、知子には素敵なガラスのクリスマスツリー!

NYCのおみやげ.jpg

孫が長い昼寝をしてくれたのも主のお計らいだと思った。話し合いの間も主が私たちと共に居て下さり、一人ひとりを豊かに祝福して下さった。
今、これを書きながらみことばが与えられた。

「何事も思い煩ってはならない。
ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」
               
               (エペソ人への手紙 4章6・7節)

我が家は今日からアドベント(待降節:クリスマスを迎える前の時期)に入ろう。
「妹よ、心のこもったおみやげをありがとう、大切にします!」

今日の日付けを記しておこうと思ってツリーの裏を見ると、" MADE IN CHINA " と書いてあった。わーい(嬉しい顔)


posted by 優子 at 23:59| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2009年01月15日

懐かしい父よ、母よ、時よ!

叔母は2007年2月にも23針も縫うヘルニアの手術をし、その前には胆管結石のために胆嚢を取る手術をしている。冠婚葬祭やお見舞いなどを記録しているノートには、1992年6月22日と記されていた。

この時は両親と夫と一緒に行ったことを覚えている。
母の難病がかなり進行していた頃で、大手術後に点滴をぶら下げて歩く叔母の方が母のことを心配してくれていた。叔母の3回の手術、そして、叔父が亡くなったのも六甲病院だった。

昨日は雪やみぞれが降ったり止んだりする寒い日だったが、母の通院介護に通っていた時のように薄いスプリングコートで外出した。

母の時はいつも真冬でも薄いコートで出かけた。
病院ではオーバーコートが荷物になって介助の邪魔になるからだ。歩いていると寒くないし電車の中も暖かい。帰りには必ず寄っていたデパートも薄手で十分だ。

昨日は行き先が病院であり、この出で立ちだったことも関係していたと思うが、梅田を歩いていると実家や住友病院へ通っていた時のことが無性に思い出されて、懐かしさと寂しさでウエットになっていた。


最近は梅田へ行くこともめったにないのでカードを解約するために大丸に入ると、母の時の帰りと錯覚するほどだった。
しかし、悲しい痛みを感じながらも、ずっと錯覚の世界に留まっていたい気持ちだった。


今、真智子夫婦が2度目に大叔母を訪ねた記事(2007年6月8日・「ミネソタ便り」)を読み返した。
今回は阪急電車で行こうかと思ったが、やはり阪神電車に乗って石屋川から登って行った。叔母の快癒と、私を見舞う者にふさわしく整えて下さるように祈ったあと、叔母が母のところへ来てくれていた時のことを思いながら歩いてた。

六甲山を真正面に見上げながら歩いていると、真智子は奈良から神戸大学までよく通学してくれたものだと思った。
娘には家のローンが始まったからという理由にしたが、正直のところは敵地の中に置かれたような当時の状況だったので、心細さから新居に私の分身に居て欲しかったことや、通学運賃の方がはるかに安くつくからという私のケチ根性も多分にあった。

「六甲病院」の文字と建物が間近に見えた時、何か遠藤周作の世界を思わせた。病院の廊下を歩きながら、大叔父を見舞ってくれた大学1回生の真智子の姿を追っていた。

病院に着きエレベーターの中で射祷して、詰め所で尋ねると叔母は今朝退院したと聞いて驚いた。行く道で留守宅の叔母の家を寂しく横目で見ながら通り過ぎたものだから、あるじの居る家を訪ねることができて嬉しかった。

その日、叔母の家を出たのは7時半だった。
叔母と別れて駅までの帰り道では、まもなく14年目を迎える神戸大震災のことを思っていた。家々は全て新しい家ばかり。ご遺族の方々の慰めを祈った。

御影で一人住まいしていた従姉妹は、地震直後、パジャマのまま両親に向かって走った。親たちもまた必死で家から外に出て我に返った時、父親が娘を助け出さなくてはと思った時に娘が駆けつけてくれたという。

あたりの様子は現実のこととは信じられぬ事態になっており、家はドミノ倒しのように全てが崩壊していたそうだ。私は母の通院介助のために石屋川の様子を見てはいない。

親を思う子と、子を思う親の姿。
高校時代は有力なスプリンターだった従姉妹の走る姿と、その時の従姉妹の気持ちを想像するだけで今も涙が溢れる。


そんなことを思いながら石屋川まで歩いていた。
御影(みかげ)から急行だったので甲子園で直通特急に乗り換えた。梅田まで直通というのに尼崎でも止まった。

車窓から「ひめじま」という字を見た瞬間に祖父を思い出し、父と母が懐かしく泣けて泣けてしかたがなかった。
「泣かないで!もうすぐ梅田に着くよ!」と自分を泣きやませるのに必死だった。

窓に映った泣き顔は皺だらけで、すっかり年老いていた。
目は父のようでもあった。父と母の居ないことにもすっかり慣れたのに、昨日はどうしたのだろう。


叔母の家を出てから45分後には梅田に着いていた。
今どきのデパートは遅くまであいているのだ。入りたかったが大急ぎで地上へ出た。そこに旭屋があると思ったらうっかり間違えてしまった。あえて後方で降りたのに、呆けてしまったのか?!どうかしている。
大急ぎで阪神百貨店の売り場を通り抜けて行った。

階段を上がる、そうそう、ここだ。
ようやく御堂筋に出た。懐かしき旭屋本店が見えた。太宰治の『パンドラの匣』と『もの思う葦』を買いたかったからだ。
学生時代によく通った本屋、私は紀伊国屋よりも旭屋がお気に入りだった。そして、思想・哲学の分野が私の精神界だった。

本屋を出てこのまま「ただいま!」と実家に帰れば、元気な母が「おかえりなさい」と言ってくれそうな気がした。懐かしいなぁ。会いたいなぁ。

本屋を出て地下街への階段を下りながら気持ちを現実に戻した。


阪神、大丸、マツキヨで買い物をしながら大阪をあとにし、ようやく自宅のある駅にたどり着いた。ここに引越してきてはや10年過ぎようとしているのに、昨日はいつもの愛着心はなかった。
「でも、チャッピーが待っている」と思った。
「夫が待っている」と思わなかったのはなぜだろう・・・。
「娘たちもいないし・・」と一瞬脳裡をかすったが、娘たちを手放した生活にもすっかり慣れた。

夜遅くに、閉店前のデパートで買ってきたプチシューを15個と巻き寿司の殆どを食べた。甘いもの好きな夫も欲しがったので4〜5個あげた。

今朝は夫を見送ってから8時過ぎまで寝てしまい、とても怖い夢で目が覚めた。
午後は築10年目のメンテナンスに来られるので、夢のこともゆっくり考える暇もなく昨日の掃除の続きを始めた。
2時間余りの家のチェックでは畳を上げてシロアリのチェックもあり、2度目の掃除をし終わればすっかり真っ暗になっていた。


おなかもすいたはずだ。
朝は昨日の残りのプチシュー3つと巻き寿司2切れだけで、食パンも出したままで焼くのさえ忘れていた。昼食も忘れていた。今はもうクタクタだが、明日は母屋の関係で一日ガス屋さんの工事がある。

夫は今夜、製紙メーカーの新年会で京都・岡崎の「つる家」まで行っているので、夕食を作らなくてすんで助かった。

以上、他人にとっては全く退屈な駄文であることも承知している。太宰治なら『如是我聞』風にボロクソに言うだろうが、娘たちは心を寄せてくれるだろう。

昨日のブログを読んで真智子もこんなことを書いてきてくれている。
「まちも叔母ちゃんに会いたい。神戸のおばちゃんも元気でいてほしい。
今週はとてもさびしい。
おじいちゃんやおばあちゃんのことも思い出す。
ゆきちゃんと相手しているママとパパも見たい。」
と。

そして大ニュースは、今朝のチャットで春休みに緊急帰国することにほぼ決定した!

メンテナンス10年と言えば、神戸の叔父が亡くなって今夏で10年になる。
家のローンも昨夏に完済し土地の抵当権も外され、神さまと夫に感謝している。この10年の恵みを書き出してみたい。






posted by 優子 at 21:31| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年11月14日

我が子への父の篤い想い

昨日の記事を読み直しながら、医師から母に気管切開するように迫られた時のことを思い出している。神経難病はあまりにも過酷だった。この病の死因の主なものは窒息死だと早い時期に説明も受けていた。
母が亡くなる半年前にはますます息苦しくなり、呼吸するたびに声が漏れてベッドが揺れていた。

入院10ヶ月後の1996年4月初め、「気管切開すれば5〜6年はもちます」と切開を薦められた。私は「もちます」という表現にさえ憤りを感じるような精神的状況だった。

「気管切開すれば窒息することもなくなり、自宅介護もできる」
と説明を受けた。そのことを父に伝え電話で話し合ったのを覚えている。
母の病室に置いていたノートには父がこのようなことを書き残している。1996年4月3日朝の記述である。
 <重要案件>

気管切開と自宅療養の延命
申し分のない話ですが(医師側の思考と吾々の将来への思考との差異)、これからの5年先き延命が長くなる程 お父さんの命がなくなることもある。(※実際に、父はこれを書いて4年4ヵ月後に75歳で亡くなった)

2人の老人の世話 また 2人老人の入院(経済的にもある)(※母の入院中は毎日1万円あまりの出費だった)
、司(私の兄)も仕事と(Tが大学卒業には司も55歳位であり)これからの年月で予想以上に体力の低下が想像出来得る。

これは優子も同意義であるし、藤本のご両親の事もある。
其の後の孫達にまでも 高令化の時代への移行に 現在 お父さんや、司、優子達の現在の生活苦闘状況が、子から孫へと繰り返されることは避けていかねばならない。

将来的指向として 熟慮して考えるべきと思います。
これを読んで、私は父の悲痛なる憤りを感じ取り、私も全く同意見であることと、医師にも伝えてあることをもう一度書いて父に伝えた。

主治医は心ある方だったが、月1回だったか部下を複数連れての部長診では、部長と呼ばれる医師が「切開すれば楽になるのにねえ」とつぶやきながら部屋を出て行かれたことがあった。

この人は、患者のことを一度でも考えたことがあるのだろうか。全く他人事で、自分がそうなった時もそうするのだろうか?!

大脳が機能しているのに一切の意思伝達法がない者に、気管切開することが「必要の医学」なのであろうか?!彼にとっては「欲望の医学」でもなく、「傍観者の医学」「オモチャの医学」でしかない。

ただ長らえさせることを母は喜ぶだろうか?!
人為的に死を引き伸ばしてはいけないのだ。母の延命は良いことだとは思わなかった。


母のような場合の気管切開は人工呼吸器を挿管するのと同様で、切開したはいいが、あまりにかわいそうだから塞いでほしいと求めても法律上許されないことなのだ。悲痛な思いで父と共に決断したのだった。

やはりこのようなことを振りかえるだけで果てしなく悲しくなって心も体も動かなくなってしまう。もう13年も経っているのに!!!
だからこそ喜代子さんのことを思い出しては祈る日々である。

ところで、三浦綾子の『母』は読書会で取り上げていたことは覚えていたが、最後の章「山路越えて」を一度でも読んでいたらもっと記憶は残っていただろうと思う。
7月のテキストを2月に購入しており、読み始めた記憶はあるが最後まで読んだのか読んでいないのかもわからない。あの頃の社会生活の記憶が全くないことに気がついた。


2000年7月の読書会ノートには何も書いておらず、「欠席」とも書いていなかった。そこで「生活記録簿」を開いてみた。
この記録簿も娘たちが結婚してからズボラし始め、最近では殆ど書かなくなってしまった。今では空白ばかりのひどいものになってしまっている。

父のこと(ノート)についても引越し準備で中断してしまい、以後も途切れてばかりで母の時のように記録しなくなっていた。
そこで当時の生活記録簿から2007年7月の読書会の日を捜してみてハッとした。
この頃は父の容態が非常に悪く、連日通っており、読書会の日もまた病床にいた。父が亡くなるちょうど3週間前のことだった。
その後1年間も全く集中できていない。殆ど読んでいないし例会のノートさえひどいものだった。

我々の多くは多喜二のお母さんのように非情な人生でなくても、人が誕生して死亡するまで、我々は何と多くの悲しみや苦しみを通っていかねばならないかと思う。
50歳を越えてからというもの年齢を重ねながら、生を全うするということはまことに尊いことであり厳粛なことであると感じている。
posted by 優子 at 13:48| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年08月31日

神と共に悲しみを越え行く C

「優子姉と共にキリスト者が父上様を共に守られ導いておられます」とは、当時の私にはとうてい理解できないことだった。
闘いの年月にあった頃、自分で祈ることができない時があった。しかし、そんな時も常に祈られてきたのだった。私のために祈りを積み上げて下さったことに思いを深めたい。

神は時に友を遣わして慰めと励ましを与えて下さった。
今回を最後に、これは父を看取った1週間後に届いた富樫姉からのお手紙である。
敬愛する優子様

京の五山の送り火 大文字が今夜です。
奈良も大阪も 全国で召された人達の霊を慰めます。
その八月 人生の大往生を 愛する人達に囲まれて 地上を去られたお父上様は お幸せな人でいらっしゃいます。

不思議なおはなしですが 召されゆく人も介護する者も 映画やお芝居のように お別れを充分にできる例はありません。そばにいても 眠りに誘われているか トイレに立つ間か・・・であります。最も愛する者が眼をみひらいてそばにいては お別れができないそうです。

私は朝6時 病院から電話で 10年介護した人と別れました。覚悟していましても 病院の庭の木の下で慟哭しました。
残された者の上に十字架があり、愛する人を 父母 そして家族が 宝であることを知ります。

身体は解放されても精神状態はいつまでも不安定なのです。
愛する人を失った傷あとを 自ら(猫が手をなめて癒していくように)の思いと愛で埋めましょう。

両親ほど愛を与えてくれた人はありません。墓参の度にごめんなさいを私は繰り返しています。

優子さまは、智と愛と理 を兼ね備えておられるので 悩まれるのです。何事にもすぐれておられるので 他者のなされることに 人よりも鋭く感じられるのです。
その長所を 文筆 または 何かの 未知なるものに投影なさいませ。

しばらくご両親様のことが 胸中から動きませんが それが供養と仏の道では申します。
涙がこぼれないように 上を向いて歩いて下さいませ。

炎天下、今津の礼拝に出ています。「教会はキリストの身体である」、 その中に入れてもらうだけの原始的な信仰なのです。
お祈りしています。

      2000年8月16日
           M.Togashi

この頃は放出教会が改築中のために、今津の礼拝に出ておられたのだろうと思う。放出教会に行くたびに昨年まではお目にかかっていたのに、小山牧師の告別式にお姿がなかった。ご無沙汰しすぎてしまった。

手紙こそが何にも先立つ贈り物だ。
私も40歳になる頃までは筆まめだった。1年間にどのくらい書くのか数えてみたことがあり、便箋170枚以上になっていたことに驚いた。しかし、母の苦難が厳しくなるにつれ書かなくなっていったように思う。以来、今ではすっかり筆不精になってしまった。

人は一人では生きていけない。
友のために何もできなくても、その方のことを思い出すたびに手紙を書こうと思う。そして、「あなたは一人ぼっちではない、いつも憶えて祈っていますよ」と伝えよう。
私が苦しかった時、私のことを気にかけて下さっている人がいるということが、何よりも嬉しくて頑張ろうと思えたからだ。

父と母の晩年をふり返る恵み。
2008年の8月も今日で終わる。
恵みの紐を絞め直して、神と共に新しい週を始め、9月に入って行こう。これを読んで下さっている方々の上に、神の祝福が豊かにありますように!          God bless you!






posted by 優子 at 09:50| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年08月30日

神と共に悲しみを越え行く B

このお手紙は、父が亡くなる1年前の1999年夏だったと思う。放出教会の富樫正子姉より頂いたものである。

藤本優子様

厳しい暑さの中、愛する御父上様の御介護とお心のゆれる中、摂理の神への信頼に基づいていられます。他者の非情な振る舞いに慣れていても心は揺れます。それが人間なのです。

地上を去る人にとり、傍らにいてほしい人は妻と娘です。男と女を造られた神の憐れみでしょうか。
今、優子姉が父の待たれる病床訪問は天使の使命があります。心を美しくして父上に介護してあげて下さいませ。

私は歌舞伎を見て感動するのは、義理にはさまれても 我を殺して正義に殉ずる場が多いからです。
まわりを見ないで、父と娘の最高の刻を! 特権を! 神に感謝しましょう。

それは後の日にわかります。あの日々の戦いがあったからこそ、神よりの慰めの宝が与えられます。優子姉と共にキリスト者が父上様を共に守られ導いておられます。

「慰める」の英訳は「共にいて力づける」の意味です。
天に送られる人は受洗の儀式はなくとも父(神)のみもとに召され、地上から祈らばそのことは叶えられるとあります。

私はキリスト教について考えています。
キリストの寛容は、殺人に近い行為、多くの人の信頼を裏切り続けても主はゆるされておられます。

寛容は「共に苦しみつつゆるす愛」とあり、私共も毎日毎日キリストを悩まして、そしてゆるされているのですね。

40代50代は花ざかり、60、70は娘ざかり、樋口女史が話されています。優子さんは人生のまだ花の日々です。

「あなたが右にゆくにも左にゆくにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ、これに歩め』」。(イザヤ30)

主が歩めと仰せの道は険しくとも共に歩んで下さいます。
共に苦しみ悩み、別れの苦しみも共有して下さるのがキリストです。
ふり返ると足あとが一人しかない時、主は抱きかかえていて下さるのです。
     
富樫姉は文学に造詣が深く、俳句の奥義を極め、画家であり、書家のような美しい字を書かれる。
今は施設に入所されていると最近お聞きした。もう92〜3歳になっておられると思うが、頭脳は鮮明であるともお聞きした。
富樫さんにもう一度お目にかからねばならぬ。地上におられるうちにどうしても感謝申し上げたい。
posted by 優子 at 07:48| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年08月29日

神と共に悲しみを越え行く A

ただ過去を振り返っているのではない。
今、強く迫られるものに促されて母と父に関する記事を続けたいと思う。それは誰のためなのか、何のためなのかわからない。

私が死に去りてのちの娘たちへのためなのか ― 娘たちには母親(私)がいかなることに苦しみ、何を求めて、どのように生きてきたか。子どもたちにどのような人間になってほしくて、いかなる生涯を送ってほしいかを願って育ててきたのか、そのことを知ってほしいという願いが強くある。だからこのブログは娘たちへの遺書でもあるというわけだ―、
あるいは、このような苦悩と悲しみの年月を歩いてきた私自身に、神は今一度、「しっかりせよ」と励まさんとしておられるようにも思うが、今は過ぎた日々を振り返りたくてならない。

私はこれまでに多くの愛を受けてきた。
あの方、この方に支えて頂いて今日在ることを忘れてはならない。
以下は谷口幸子先生より1995年10月31日落手した手紙だ。
この前日に私は44歳になり、翌年の10月25日に母は召される。
優子様

長いご看病に心身のお疲れ如何ばかりかと拝察致します。何の力にもなれませず、口先ばかりの人間でご免なさいね。ただ心から毎朝祈らせて戴いています。私も(夫と)一緒したかったのですが精検前で自重しています。

お顔色よいし笑顔で迎えて下さって、平安なご様子だったと聞いて、神様がご臨在下さって、厳しかった夏も力を与えて越えさせて下さったんだと感謝しております。

70年のご生涯、ご主人の片腕として一家を支え、3人のお子様をこんなに立派に育て上げられましたのです。
その上近隣の為に、特に恵まれない人、困っている人の為に温かく相談にのってあげられ、援助して来られたお母様のご生涯、ほんとうにご立派です。

しかも戦中、戦後の試練の中を生きて来られたそのご生涯には、おかし難い重みを持った貴品を覚えさせられました。確実に記された年輪の風格を見せて戴きました。

私と同じ大正15年(昭和元年)のお生まれだったと思っていますが、特別親しみを持たせて戴いております。

私は今、「死の積極的意義」について考えさせられています。
(甲状腺がんを)発病以来、私の生活は一貫して死の問題ばかり考えて生きているといってもいいと思います。

それ程、死は大きな問題です。クリスチャンにとっても死は人生最重要事ですね。
私は今、自分の死を見つめつつ生きています。癌でなかったらあるいは、ぼやけた生活が続いたかもしれませんが、癌は転移し、再発しひとり歩きする細胞である、恐ろしい病気であるという事実の前に自分の死を見つめて生きる毎日です。

自分の死を見定めて生きるとは、逆に自分の生を見定めて生きることです。限られた生命なるが故に、その限られた生命をいかに真摯に生きるかです。・・・
    

     
posted by 優子 at 07:44| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年08月28日

神と共に悲しみを越え行く @

1993年9月3日(金)
戦後最大級の台風が接近していて夕方までが雨のピークと伝えていたが、一日中雨は降らず両親との再会が叶った。

点滴している母の傍に座る。(この僅かな時間だけが会える時間だった)。窓から蝉がお腹を上にして死んでいるのが見えた。羽の透けた蝉だった。
「蝉が死んでる」と私は母に言った。
「私はなかなか死なへん。・・・私はどうやって死ぬんやろうな・・・。だんだん弱っていって死ぬのかなあ」と、母は一点を見つめて静かに言った。
「心配せんでいいよ。いのちを握っておられるのは神さまやから、良いようにして下さると思うよ。」
「そうやな。・・・急やったらええな、忙しいけれど」
「えっ?! 誰が忙しいの?」
「死ぬ人が」
そして、2人で笑った。

いつものように大江橋近くで別れた。(この頃は病院の帰りに実家に行くこともできなかった。両親が改築した家なのに、父は嫁に気遣って私を連れて行くこともできないでいた)。
私は車から降りて助手席の母のほうへ回り、いつも父と母と私は笑う。

「元気やな、走ってるから。まだ20代みたいやな」。そして、父は「嬉しい」と言った。父を喜ばすことができてよかった。
「また月曜日ね。ありがとう、さようなら」と、自動車が見えなくなるまで見送った。いつも神に祈りながら。

母と父のこと、両親の言葉をひとこと漏らさず書いておきたい。一瞬一瞬を私の胸に永遠に刻むために。


1993年9月20日(月)
母の頭が白い包帯で包まれていた。
昨日の朝、また母はこけて、あたりは血だらけの中、仰向けに倒れて意識が無かった。父はオロオロして私に電話をしようと思ったが、こんな時もしなかった。あの嫁のためだ。

ああ、お母さん!!!
かわいそうに、こんなにひどい苦難を忍ばねばならないのですか?
神よ、あなたは本当に存在されるお方ですか?
なぜですか?!
これまでにも頭を縫うほどまでの転倒を3度もしているのに、あなたは今回も母の命には触れなかった。だから感謝せよとでも言うのですか?
この極限状態にも、何も、何の杖も与えずに苦難を通らされるのですか?
母が何をしたというのですか?!
母があなたに何かしましたか?!
信仰さえ今も与えずに、ひどい方だ。


点滴の時に母と話した。
ああ、時間が止まってほしい。母と話せる時間が尊く尊く胸に迫った。

「死ぬことはこわくない。昨日も全然わからなかったから」と母は言った。私は一瞬祈って母に応答した。
「そうらしいね、死ぬ時は肉体の苦痛はないらしいね。
だから何も心配する必要はないから、それまでの生活をできるだけ快適にしようよ。生きやすいように・・・」

「そうやな」と言った母の目に、希望の光がかすかに走った。

「生きてる限り苦しみやな」
「生きる悲しみ、死ぬ喜び?!」
「そうや、その通りや。・・・私が悪いねん、こんな病気になったから」
「違うよ、お母さん。これはお母さんには何の責任もない。責任があるとすれば、全てを治めておられる神さまや、神さまの責任やろ?」
母は頷いた。

母に寄り添う父の肩を落とした姿、父が小さく見えた。
母自身は苛酷なすさまじい苦難を黙して耐え、父は母のことで落胆失望の悲しみを耐えている。母の悲しみを心身共に背負いきれない極限状態にある。私が実家へ手伝いに行くことさえできれば、父の荷も少しは軽くなるであろうに。
私は母だけではなく、その父をも励まさねばならない。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・

これらは母が亡くなる3年前の記録である。
母の場合は発病以来進行が非常に速く、この頃から甲状腺刺激ホルモンであるTRH(商品名はヒルトニン)の筋肉注射と、パーキンソンの症状も出ていたために脳の代謝改善薬ニコリンHの点滴が週に2回になった。しかし、効き目は全くなかったと思う。

しかしながら、この頃はまだ不自由ながらも母は話すことができ、私たちも聞き取ることができた。
それから3年後、母の死が近くなった9月18日の日記は14ページも書き綴っている。もうすぐ母が逝くというのに、長女も次女も、夫も、家庭も何もかもどうしようもない状態だった。兄嫁や妹のことも、夫のことでも苦しみ抜いていた。

1996年9月18日(水)
神の時が近づいていることを予感した。
とにかく私は長い間の次から次への苦難に加えて、K牧師やM牧師(9月6日、高津高校役員会を途中で退席し京橋のホテルケイハンへ急ぐ。クリスチャンペンクラブの重鎮である山崎宗太郎師と花盛勲一牧師に相談するために)の不可解な苦悩も全て真剣だった。
しかし、一切の苦悶の果てに、ついに神と対決することもなくなり虚脱状態になった。

私は嫌と言うほど神の前に素直になれぬ頑なな自分を知った。
理論や考え方の転換では、イエスを主とは呼べないことも最近わかるに至った。聖霊の助けがないと祈ることもできないことを知った。ああ、これが私のキリスト体験なのか!!!・・・

しかし、今は心から信じられるのだ。
祈り求めることは叶えて下さると!!だから祈ろう。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・

「過去を振り返ることはクリスチャンの命取りになりかねない」と、小山牧師が言われたことがあったが、私は常にそうであるとは思わない。きっと振り返り方を言われたのだろう。

これらは悲しい出来事には違いないが恨みもなく全き平安だ。
自己憐憫に陥ることもない。私にとっては、母と父の苦難を振り返ることで人生の何たるかを思い起こさせ、主の豊かな恵みの世界へと引き寄せられるのだ。
          
         こたえて
              河野 進
     天の父さま
     願い通りにならなかった
     恵みを感謝いたします
     願いをはるかに超えた
     恵みを感謝したします
     どのような愚かな願いも
     最善にこたえて下さる
     恵みを感謝いたします

最後の最後まで、神は母の上に正義はなされなかった。
しかし、最期の1年3ヶ月間に千里姉と谷口先生ご夫妻を母の病床に遣わして下さり、母を救い出して御許に引き上げて下さった。そして、父をも同じようにして下さったことを確信させられている。

ついに、神は私の切なる祈りを叶えて下さったのである。
ここに神の栄光を見ることができた。
神の栄光とは神の本質であり、私は全権を支配されている真実なる神を崇めたのである。




posted by 優子 at 10:27| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年08月13日

年に一度の再会、兄の上に神の導きを祈る

母に次いで父も亡くなった2000年夏、「せめて1年に一度だけでも、お盆のお墓参りの時に兄妹(きょうだい)揃って一緒に会おうよ」と、私は兄と妹に発案した。悲しい事情のために実家を訪ねる状況ではなかったからであり、それは今も変わらない。

以来、賛同してくれた兄と私たち家族は、昔話の七夕のように年に一度会うのが習慣になった。娘たちが結婚してからは私たち夫婦と3人だけである。

「みんな(墓に)入ってしもたなぁ。」と、兄が言った。
兄は父と母に手を合わせていた。
私は神さまに祈った。
「神さま、今年も兄妹(きょうだい)揃うことができませんでしたが、来年はどうなのでしょうか。3人一緒に来ることができますように一人ひとりをお導き下さい。お父さん、お母さん、心配しないでね。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン」。祈り終えて目を開けた時、涙で目が潤んでいた。

この次は声に出して祈ることができるように。そして、両親の愛の片身である私たち兄妹3人揃って、墓前礼拝できるように祈ろう。
道は遠くとも御心に叶う祈りは必ず成就して下さることを、私は何度も経験済みだから希望を持って祈ることができる。


墓参のあとは、いつものように帰り道にあるファミリーレストランへ入った。
今回は長女夫妻も一緒のはずだったが、孫がまた11日から熱出しで私たちだけになってしまった。結婚して未だ墓参にも来ていない娘と婿であり、長女は伯父に子供も見てもらいたかっただろうから残念だったが、兄と2時間近くもいろいろと話すことができて主に感謝している。

最後に兄は言った。
「いつもお祈りしてくれてありがとう。僕はお父さんとお母さんが見守ってくれていると思うので、お父さんとお母さんに手を合わせている」。

この時は既に、かなり濃厚なイエスさまのメッセージを伝えたあとだったから、私は「うん」と小さな声で頷き、イエスさまがいいようにして下さるからと思いつつ兄の上に神の導きを祈った。

今回も兄に讃美歌のテープを渡した。
「またか(笑)」と言われる前に、「今度のは合唱団の讃美歌だからグリークラブ風でいいよ。」と言うと、兄は喜んでくれた。封筒の中に『デイリーブレッド』も入れておいた。

先日、鳩飼さんのことを知り、昨日の朝早く公共バスに乗って図書館で讃美歌のCDを借りてきた。それをテープに録音してメール便でお送りしたのだが、今朝それと同じものを兄にも録音してきたのだ。

録音しながら昨年・2007年8月11日付けの記事を読んでいた。
「優子、頑張れよ」と、兄が励ましてくれたことも全てが昨日のことのようだ。
また1年後はどのような日を迎えるのかわからないが、私は主に在って、一日一日を悔いなく重ねていこう。
まことの神を信じ、素直な心で誠実に生きること。これが全てであり、間違いのない人生、唯一幸せになる道である。


今年もまた去年同様に高島屋に立ち寄った。
明日、夫は弟たちと早朝5時出発でプライベートゴルフに出かける。さすがに4時半の起床は、私の営業時間外なので見送りなしの完全セルフサービスになる(笑)。あしからず。

幸悠(ゆきひさ)は、お昼過ぎから熱が下がったとのこと。ユキ坊、早く元気になあれ!


posted by 優子 at 22:02| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年08月07日

神の祝福

1997年5月15日、父が救急車で病院に搬送されて、命の危機を脱してからはすっかり変貌していた。そして、亡くなるまで一度も家に帰ることはなかった。

「お母さん、どうしてる?」
「お母さん、死んだやろ・・・」
「そうか・・・」と言って泣いた。

父が話してくれた言葉は宝石のように思え、帰りの電車の中で書き取っていた。

「ここはもうええから、お母さんとこへ行ったげて。喜ぶから。行って、手を握って、肩をもんであげて。・・・かわいそうや、疲れきってるから」と泣いた。
母はこの時も住友病院に入院していると思っていた父。

真智子が(高校の)修学旅行のお土産に買ってきたプーさんのぬいぐるみを、食べ物と間違えて口に入れようとした父。
壊れてしまった父を見るのは胸がつぶれそうだった。

「いつも同じ夢を見るねん。手を縛られる夢を。僕は何も悪いことをしていないのに」と泣いた。夜は手を縛られると、抑制されることを訴えていたが、私は何もできなかった。しなかった。

「お母さんの手がうずく」と言い、動かなくなった左手を撫でながら「大丈夫やで」と慰めている。

「お母さん、この頃、来ないけどどうしてる? 元気か?
お母さんに電話して顔出してと言うといて。はよ(早く)来てほしい。お母さんに会いたいなあ。」
と言って、少し泣き顔になった父。

明日は父が召された日。
8年が過ぎた。
今年の夏は、妹と一緒にペンクラブの研修会に行くなんて、これも絶対に考えられないことだった。
主に感謝し、これからも全てを委ねていこう。

イエスさま、ありがとうございます!!!!!
posted by 優子 at 05:58| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年07月29日

神による軌跡

もう12年前のことになる。
母の入院中に出会った今も忘れられない不思議な方がいた。
その方は入院患者さんに24時間そばについて世話をする付き添い婦さんで、実に心の行き届く誠実な介護をされていた方だった。それだけではなく、とても深い精神の持ち主であることは話していて直ぐにわかった。

私は人生を分かち合えそうな方には、出会いを深めていきたいがために、自己紹介の意味も込めて活字になったエッセイをお渡しする。この時は読書会会報の最新版、「娘として、母として」だったように思う。

するとまもなく、「よく書けているねぇ。こんなに短い文章のなかで、これだけ書きこめるなんてすごいねぇ」というような言葉を下さり、ひどく感動して下さった。

そして、「今は親の面倒も見ない。ほったらかしやのにあなたはえらい。あなたは必ず幸せな人生になるよ。」というようなことを何度も仰った。

しかし、そんな時はいつも、「私は自分の親のためにやっているので当たり前のことです。舅や姑のことではないので、えらいことも何もないんです」と語気を強めて言ったものだ。決して謙遜で言ったのではない。
すると、
「いや違う。今は自分の親でも世話をしない人がどんなに多いことか。あなたのやっていることを子供が見てる。」と、いろいろと話して下さった。

この頃の私は、この方が話して下さった因果応報説にも鼻で笑うような荒んだ気持ちになっていた。
聖書に書いてある「人は自分のまいたものを刈り取ることになる」という教えさえ信じることができないほど、苦しみの「深い淵」にあった。(「深い淵」については7月19日記事ご参照)


ゆえに、このような話も慰めにならなかったが、しかし、この方の存在は大きな慰めであった。
そして、エッセイを読まれて、ご自身は数ヶ月間ほど付き添いの仕事をしては、自動車で長い旅に出るのだと話して下さった。
夏まつり 合掌の手に 母を思ふ
  
                     豊月

平成七年七月二十五日 天神まつりによせて
                 住友病院にて

このように毛筆で書かれた和紙の短冊に添えて、
「ふと浮かぶ 貴女のお顔 なぜ
美しい あたたかい心にうたれ ○(達筆な一字が読めない)を思い出したように筆を執りました。
私は無の世界をひたすら美しい世界をもとめあるきつづけています」

と、同じく和紙に書いて下さっていた。
水墨画を描いておられたと記憶している。
その後まもなく半年近く姿が見えなくなり、その間にお手紙を下さった。この方のことを読み直したくノート『母のこと』をめくるのだが見つからない。
身にしむや 病魔を流せ 堂島川
                     豊月

八月二十八日 貴女の祈り

病む母の 心をのこし 夏の暮れ
                     豊月
八月二十八日 貴女の心の声

付き添い婦さんらしくない不思議な方。
それがまた不思議なことに元の病室に戻ってこられて、同年、即ち1996年の10月13日に再会したのだ。かろうじてこの記録だけを見つけたが、これは母が亡くなる12日前のことである。

私から危機的な雰囲気を察知されたのだろう。
「頑張るんよ。最後まで頑張るんよ。お母さんのために頑張るんよ。貴女は必ず幸せになる。子供たちも貴女の姿を見てきたんだから、これからの貴女の人生は幸せや。必ず幸せになる」というようなことを仰って、力強く励まして下さったことだけは鮮明に覚えている。

その後、その方と連絡がとれなくなってしまったので、私には尚更に不思議な出来事として記憶に残っている。

この方はクリスチャンではないが、再会したのは神さまのご配慮だと思った。
母の死が近いのに私に平安など全くなく、苦しみ抜いた妹のことだけではなく、夫婦間も家庭もメチャクチャ、多感な娘たちも危機的な状況だった。
これでどうやって母の死を通過できるのか!
倒れそうになっていた私のために突然現れて姿を消されたと思っている。神の計らいによって。


新井豊子さん。今もお元気ならば75歳くらいになっておられると思う。私は今、新井さんに神さまのことを伝えたくてならない。

気がつけば母のノートを2時間もめくっていた。
気持ちはすっかり落ち込んでしまった。何という地獄を通ってきたのだろうか! もう過ぎてしまったことなのに、底知れないほど心が重く沈んだが、悩みや怒りに引きずり込まれることはなかった。

そして思う。
よくぞあの地獄を生き延びさせて、しかも私たち家族4人をこのようにして下さったと。私だけではない知子も真智子も苦しみ抜いた。
その頃すでに、長女が身心の健康まで損ねていたことさえ私は気づいておらず、尚も新たな苦しみが増し加わっていたのである。このあと長い年月にわたって。

しかし、私たちが苦難に破滅されることなく今あることを思うと、不思議としか言いようがない。
それは何よりも、根底に神に助けを求め続けていたからこそであり、そして、問題から逃げなかったからだ。
自分の義務、親への愛を果たすべく努力し、そして、子どもたちもそれぞれ血の出るような努力をしたゆえに、人生の崖っぷちから落ちないように守られたのだ。


私たちは決して、何か大きな良い事があって家庭の平和を取り戻したのではない。神さまが私たちを憐れみ、失敗ばかりのそれら一切のことを生かして下さったのだ。

それぞれが現実を直視し、問題から逃げないで、的外れでない苦しみを苦しんだゆえだと理解している。常に主が共に居て下さっていたことがしみじみわかる。「あしあと」のごとく、私の詩を書き残したいほどだ。


「人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる」ということさえ信じられなくなった私が、その3年後には、「神は常に最善をなして下さっていると、いつしか信じられる者として下さっていたのだ」と書き、その翌年には、「最悪と思われる出来事を通して、ついに神さまが(刈り取りについて)説明し納得させて下さった」とまで書かせて下さった。

この時の「最悪」もまた言葉では尽くせぬ現実であり、決して過去のことになったから麗しく書けたというものではないのだ。


傲慢な私だから10年以上も百戦練磨しなければならなかったのだが、私の魂を揺るぎないものに造り変えて下さったのはイエス・キリストであることだけは、もう疑うことのできないことなのだ。

それゆえに、今の大きな問題も、これからのことも何も心配していない。ただ私がキリストに繋がっているかぎり!


posted by 優子 at 07:46| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2008年07月26日

父と母を偲ぶ夏

平成4年1月19日、早朝5時
夜半3時30分、看護婦さん2名、いつもの通り体位交換と排泄物の処理などで見回りに来室される。
ふとその気配で目覚めた私は4階の喫煙室で煙草を一ぷくして、1階の飲料機でCドリンクを飲む。

深夜の病院は不気味な静けさである。而し、この静けさのなかで、どうしようもない痛さや辛さや悲しみで、呻吟している患者さんが寝られぬ夜を過し、また辛く悲しい朝を迎えるのだろうと思うと切ない。

私達も平成2年頃からの通院から約5年が過ぎた。
寄り添って歩いて通院していた頃は普通の健康体であった妻、手を取り合って通院していた頃は、2名で歩くのが昔人間の私には恥かしい思いが一ぱいだった頃。

街路樹が春から夏への変化が何故か懐かしく、懐旧の念がしきりと心にうずく。
やがて妻は車椅子に乗る。優子はそれらの初めより病院前で出迎え、診療を受け、診察を終える迄 一切世話してくれた。
診察から点滴が週2回(月・金)となり、政子さん(母の妹・神戸の叔母)も応援にかけつけてくれた。ロイヤルホテルで3名で、また4名で「すし萬」で食事したのもその頃である。

妻と初めて二人だけで「すし萬」で差し向かいで食事した頃は、病人とは思えない程、二人で楽しく、上手に、そして、美味しく食事したものである。
今から思えば、初老の男女の楽しく、貴重なデートであったらうか。

平成6年頃〜7年6月頃までは、妻の前に立って手をとり自宅の廊下も歩けたし、お便所の介護も司(優子の兄)と2名で、よく出来たものであった。

病状の変化に私たちは慌て、また、次の変化で「とまどい」「あわて」、その変化する度に私達の身心も疲れを覚えたものであった。
それ等の病状の変化するのに慣れた頃に、また次の病状悪化と また闘いが始まる。

体重も妻が元気であった頃は65kgの体重が、現在は56〜57kgである。
加えて平成4年に頂点であった日本経済が、平成6年7年と
27%〜30%ダウンの経営時代と、妻の介護、心労である。

けれど 私には 昭和24年頃からの必死の人生があった。
誰にも負けない人生の辛さを克服してきた懸命の生きざまがある。成子と2名で頑張り人生がある。

「負けてたまるものか」
私達には優子を初め立派な子供達が 私達を励ましてくれている。会社の方も司ひとりが涙ぐましい程 頑張ってくれている。
             (後略)

今日もあの時のように、クーラーのきいた病室から真夏の空を見つめていた。
今日は夫はゴルフで不在のため近隣の病院に入所されている方を慰問した。もう4ヶ月ぶりになっていた。

病院のロビーでは夏祭りの夜店(よみせ・同じ関西でも京都では縁日と呼ぶ)をイメージして、ヨーヨー、金魚すくいならぬ小物すくい2種、綿菓子(綿あめ)の模擬店が出ていた。
金魚を食べてしまう老人がいたので、今年から金魚ではなく、おもちゃを浮かせるようになった。穏やかな雰囲気ながら、秋の催し(敬老の日だったか?)と違って入院されているご家族の姿は殆どなかった。

知人のお母様は大正10年のお生まれだから87歳になられ、脳梗塞の父を思い出させる恍惚状態である。

しかし、5日前に肺炎になられたとは思えないほど、おいしそうに嚥下も上手に早いスピードで昼食を摂っておられたが、痰がゴロゴロして吸引して頂いた。
ところが、吸引のやり方がいけなかった。と私は思っている。

母の時を思い出していたのだが、吸引は長くやりすぎるといけない。本人が苦しいだけではなく刺激が強すぎるので気になって見ていた。その後、血液中の酸素濃度が低くなった。このたびの検査手術で私も経験した指先で測るものだ。

さすがに母が逝って12年9か月、父の時からもまもなく丸8年が過ぎようとしているので、私もずっと見守っておられたが、何度も何度も口や鼻からされているのを見ていて、いたたまれなくなった。その後、お母様は酸素マスクをされたそうだ。
既に3時間も過ぎていたこともあり、知人のことを思いつつも一足先に失礼した。4つのヨーヨーはお隣りのお子達に差し上げた。

帰る道すがら、ずっと母や父のことを思い出していた。
母が入院した日も、父が亡くなった日も、今日のような猛暑だった。

昼食を済ませて、久しぶりにノートを取り出した。意志伝達ができなかった母の病室に置いていたノートだ。
冒頭の述懐は、父が母の病室に泊まった時に書いたものであり、その父もとっくに逝ってしまった。

父と母のことで胸がいっぱいになると、私はいつも取り残された思いになる。しっかり命の義務を果たし終えて早く会いたくなる。
父の記述したものを文字で打ちながら涙していたら、日に焼けた夫が「買い物行こかー」と元気な声で帰って来た。


今週はゴルフで休養日なしになるが体力は大丈夫と言うので、明日は放出教会へ連れて行ってもらうことになっている。高校生の男の子が伝統的な教会の礼拝に出たいというので、明日は放出教会で礼拝を守ることにした。

今の時を心から感謝して大切に大切に生きよう!!!
病床にある方、そして、ご家族の方々のことを覚えつつ。



posted by 優子 at 21:26| 父母を想う | 更新情報をチェックする

2007年10月30日

感謝の56歳を迎える!

午前8時、育児戦争まっただ中の知子から「お誕生日おめでとう」電話が入り、パソコンにはミネソタからカードが届いていた。
ママ、お誕生日おめでとう!
ママの信仰はまち達がより人生の喜びを感じることができるように導いてくれました。これからも、ママの人生を大いに開花させて、周りに喜びを振りまいていってね。真智子

お誕生日、おめでとうございます!
優子お母さんの文学活動がさらに大きく実を結ぶ一年でありますように。影ながら応援しています。太志

ありがとう!!!!!!!!!!!!
本当にありがとう!!!!
知子、そして真智子と太志君、それぞれに忙しいのに心にとめて頂いてありがとう。
何よりも私を喜ばせたのは、「ママの信仰はまち達がより人生の喜びを感じることができるように導いてくれました」というメッセージです。私にとってこれ以上の幸せはないのです。

昨夜父と母に話していた。
「お父さん、お母さん、私は56歳になります。とてもとても幸せな56歳を迎えます。知子と真智子はしっかり育ってくれました。」と、神さまに感謝し夫にも話していた。

昨日知子に、「たまには実家へ帰ってきたら?」と尋ねたが今週も来ないと言うので、知子の「お食べ初め」の祝いにと両親が整えてくれた祝い膳を、今朝夫から婿に託してもらうことにした。

昨日何十年ぶりかで箱をあけると、実家で見慣れていた漆器屋さんの懐かしい栞が入っていた。母はお正月の重箱も屠蘇器も全てこの店で買っていたようだ。

実家へ帰っても何もしなかった私も、母の体が不自由になりだしてからはお正月の道具をかたづけるのを手伝った。母も父も亡くなってから実家の整理をした時、ボロボロになっていた包装紙の切れ端を捨てずにとっておいた。
その頃から覚えている懐かしい名前である。
「菱屋 杉原漆器店 京都市下京区万寿寺町通西入る」と書いてあった。


「藤本の紋は下がり藤に『一』が入るの?!間違いないの?!」と、祝い膳を求めに出た先の母から電話がかかってきた。3年後の真智子の時にも同じように電話があった。これもまた母らしい。

足つきお膳に飯椀、汁椀、平椀、つぼ椀、そして、まん中に「歯固め」の思いをこめて茹で蛸を入れる蓋の無い器を置く。地方によっては石を入れるらしい。

雛人形には女紋を入れるが、お椀には地方によって女紋(実家の紋)を入れるところもあるとのこと。女の子は「黒内朱祝膳」、外側が黒で内側が朱色で、男の子は反対である。

そのような言い伝えや形式には固執しないで、母(知子)が使った祝い膳を子や孫に譲っていくということこそ最高の伝承文化だと思う。
先様も気楽な方々なのでありがたい。私たちは祝い膳の代わりにお祝いの気持ちを包んでやろうと思う。

生後100〜120日に行う日本の伝統文化を知ることも大切だろう。この機会を捉えて家田さんたちとの交わりをもち、共に神への感謝と孫の成長を祈ることができれば幸いだ。

両親は祝いの品々を整えて藤本の家に届けてくれたが、祝宴も実家の両親が設けてくれた。父が知子の成長を祝って一口食べさせてくれている写真が残っている。
真智子の時には藤本の両親も気遣いをみせてくれ、私たち主催で東大阪のマンションで両家の両親が集っての「お食べ初め」だった。

母は食べ初めのお膳も京都まで行って揃えてくれていたのだ。
何事も軽い軽い感謝の気持ちだけだったから、私はそんなことさえ知らなかったのだ。もうとっくの昔に両親とも死んでしまっているというのに、今になってわかるとは!!!

お父さん、お母さん、ごめんなさい!!! 
私だったら感謝もしない子供なら文句を言うに決まっている。
婚家先から一方的なことを言われた時も耐え忍び、その上に何も私に聞かせはしなかったね。一度として藤本の両親を批難したことはなかったね。

私は子供たちが結婚してから尚のこと、お父さんとお母さんの大きさを痛いほど感じています。私は全く親に似ない不肖な娘です。
また辛くなってきた××××

私も親孝行がしたかった。
義母は娘と一緒に旅行に行くそうだ。嬉しそうに昨日、義母が語っていた。何度も何度も義妹が親孝行している姿、今回は久々に辛い感情がある。私は最後の最後まで受けてばかりだった。


ブログはいいものだ。
子供の幼少期のことを唯一知っている親が、ブログを通して折々の小さな出来事を話し子供たちが読む。
何気ない話ではあっても、そこには私の気持ちが込められている。これこそが我が子に残してやる最大の遺産だと思う。こういうことに私は価値を置いている。


56歳の誕生日を元気で迎えることができたことを感謝します。

知子へ:
「このお膳はお正月やお祝いの時に出して使えばいいよ」とおばあちゃんが言ってました。ママはおばあちゃんの心を無駄にしてしまったけれど、ユキに使ってやってくれれば嬉しいです。

真智子へ:
「父母を想う」、昨年10月25日の真智の手紙を読んで涙が溢れて止まらなかった。ブログは人生の足跡やね。悔いのない日々を生きようね。
posted by 優子 at 14:07| 父母を想う | 更新情報をチェックする