2017年06月24日

昨日の記事に追記です

Dさんへ
次女の真智子は「FRB」ではなく「IMF」です(笑)。共にワシントンンD.C.にあります。

「FRB」は「連邦準備制度理事会(Federal Reserve Board, FRB)」で、これは「全国の主要都市に散在する連邦準備銀行(Federal Reserve Bank, FRB)を統括する」もので、「IMF」は国際通貨基金(International Monetary Fund, IMF)のことで、「国際金融、並びに、為替相場の安定化を目的として設立された国際連合の専門機関」です。

現在188か国の加盟国があって、「各国の中央銀行の取りまとめ役のような役割を負い、世界銀行と共に、国際金融秩序の根幹を成す」と書いてありました。

関心を持ってくださってありがとうございます。この短いビデオに真智子が登場しますからクリックしてくださいね。


posted by 優子 at 07:18| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2017年06月23日

Dさんを囲んでカイロスの時 −「読書会は絶滅危惧種」で大爆笑−

ようやく今日2ヶ月越しにDさんとのランチが実現。東大阪から駆けつけてくださった千里さんと3人で至福の時となった。

IMG_6024.jpg
楽しかった3時間のランチタイム

4月に東大阪読書友の会の会報・『かわちの』が発行されたら、一駅隣にお住まいになっている読書会の友とお目にかかるのを楽しみにしていた。

ところが3月半ばから『種を蒔く』のことで必死になるばかりでゴールデンウィーク後に延期していただき、5月もますます必死状態だったので全て終わるまで延期に、今月2日に本が届いたのはいいが大きな誤植発見、その翌日はユキの感染性胃腸炎がうつってダウン。

そういうわけでようやく今日2ヶ月越しに再会が実現したのだが、Dさんは左手を布で吊っておられ、1か月前に電車が急停車したので肩から転んで骨折されたというのだ。

病院のは真っ白くて仰々しいのでと目立たない布で補助されていたが大丈夫だったのだろうか。1週間ごとに少しずつ良くなっておられるとのことで安堵したが、2月の読書会に参加した時は圧迫骨折中で痛々しかっただけに、まさかまたこのような痛みに耐えておられたとは想像だにしなかった。

だから神さまはこの時を祝福してくださったのだと思う。先週初めに『種を蒔く』をお届けした千里さんからお礼のお電話をいただいた時にお誘いすると、東大阪から駆けつけてくださり3人で至福の時を過ごした。

勿論Dさんにも『種を蒔く』をお届した。ちなみに私がお届けする方は半分がノンクリスチャンで、文字通り「種を蒔く」のである。
帰宅後、当市の「9条の会」のお世話をしておられる方が、今号に掲載した一文を会報に掲載してよいかと聞きに来てくださった。紙面の関係上全文とはいかないがと。瞬間祈って快諾し、引用箇所の抜粋も相手方に委ねた。

さて某ファミリーレストランで3時間居座っていたが、一秒として中断することなくお喋りは続く。エコノミー症候群にならないようにドリンクバーに2度通いながら、話題はいろんな分野にわたった。

Dさんが言われた「読書会が絶滅危惧種になっている」には大笑いした。   他にも大笑いした言葉が2つほどあったが思い出せない。「活性化」だったっけ・・・

豊中との交歓読書会も2〜3年前から絶えているという。来年の創立50周年を最後に絶滅するのか、サークルの形態をとって気楽に続けるのか、私たちも読書会が絶滅しないように考えた。

そして思った。何よりも私たち一人ひとりの意欲が絶滅しないように互いに影響し合ってがんばらなくては!

2014年の『かわちの』に掲載された「拝啓 二宮金次郎様」はDさんの文章です!
3年前に「歩きスマホ」とは鋭い観点であり、現代の社会現象の先駆けともいえる文章だ。

ハートを持つクマ.gif「Dさん、お大事にね。順調に回復されるようにお祈りしています」。

posted by 優子 at 21:57| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2017年03月08日

春の食卓 ―生節の押し寿司―

春の到来を告げるイカナゴ漁が昨日解禁になりニュースを賑わしていた。1キロで2000円もする高値にびっくりした。

「いかなごのくぎ煮」は曲がって錆びた古釘のような形から名付けられ、大震災前までは家々の台所から甘辛く煮詰める匂いが漂っていたと神戸の叔母が言っていた。

「イカナゴのくぎ煮」が兵庫県の春の風物詩ならば、我が家の春の食卓の風物詩に「生節の押し寿司」がある。主婦になってかなり経ってから、この時期に生節(なまぶし)が店頭に並ぶことを覚えた。

押し寿司の型.jpgこれが、2007年2月24日のブログに記した「母が使っていた檜(ひのき)の押し寿司の型」だ。長さ14センチで幅5.5センチの箱寿司ができる。

その日のブログには、「今年になって4回作っており、実は2日前のお客様にもお出しした。とてもおいしく召し上がって下さったので、次回の家庭集会の献立はこれで決まり」と書いてあった。

押し寿司.jpg今夜は思い付きでバラ寿司(ちらし寿司)にしようと寿司飯の準備をしていたが、いろいろな具を細かく切る時間が無くなくて、急きょ生節の押し寿司に変更した。今日も夕食の用意に取り掛かるのが6時15分頃になってしまったからだ。

大急ぎで作ったので血合いも十分取り除いていないし、雑な仕上がりにスナップエンドウとはセンスを疑われるが、ユキもおいしくペロリと食べてくれた。

生節の押し寿司.jpg2007年3月20日の読書会に皆さんにもお届けした。特に独居の方が3〜4名居られたので少しでも喜んでいただきたかった。 

「8合のお米ではお1人に1人前ずつは足りそうになく、半分にしたものを22個分持って行き完売! 11本分だが結構重たかった」
と、同日の過去ログに記録していた。
今度は、奧様を亡くされた東牧師や長原さんにもお持ちしたい。

あの頃「河内の郷土文化サークルセンター」で開催した「河内の押し寿司」をMIKIOさんが記録しておられ、今もホームページは途切れることなく更新されている。

posted by 優子 at 21:55| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2017年02月23日

9年ぶりに読書会へ B ―佐野一雄さんを偲びつつ明日に目を向ける−

雲が切れ行く.jpg
早朝の激しい雨あがり、ようやく3時間も過ぎてから二上山(雄岳)が姿を現したが、一日中重く暗い雲が空を覆っていた。

読書会があった21日の朝、佐野一雄さんがお正月明けに亡くなられたとのハガキが副会長さんに届いたと訃報を告げられた。98歳だった。足が弱くなっておられたが、前年11月の『サークルの集い』では戦争体験を話されたそうだ。

書道家の佐野さんは『河内(かわち)の表装美術クラブ』を主宰されるだけではなく、東大阪の著名な文化人だった。その前身の「衣摺(きずり)を語ろう会」の1989(平成元)年の総会では塩川正十郎さんの記念講演の記録が残っている。

2000年8月8日に父が亡くなってまだ日も経っていない同月28日に、佐野さんが毎夏行かれる高野山にご一緒したことがあった。

佐野さんは落下傘部隊の生き残りで輸送機の操縦士だった。
落下傘部隊の墓 「空」.jpg「ここに僕の髪の毛と爪も収められてるんや」と、高野山・奥の院に入ってすぐにある「空挺落下傘部隊将兵之墓」に案内された。毎年欠かさず墓参に来ておられた。
正面の石碑に「空」という字が彫ってあり、「空」について思うことを話してくださった。

ここで写真を撮って差し上げると非常に喜んでくださり、「いつもこうして持ってまんねん」とニコニコしながら見せてくださった。

佐野さんは熱心な真言宗信徒で法名を持っておられ、いつもこの前でお経をあげておられた。密教のこともたくさん話してくださり、「○○ソワカ」の意味は忘れてしまったが、その文言を今も記憶している。

物知りの佐野さんのガイドを興味深く聞きながら奥の院を歩いた。たくさんの大きな石碑は中をくりぬいて棒を通して転がして運んだことや、大名の墓に鳥居があるのは鳥居内は霊界を意味することなど話は尽きず、一番奥にある弘法大師の霊廟、そして、大圓院に案内された。

あの頃は父の悲しみで何も話さなかったが、どうして景教について話題にしなかったのだろうと今これを書きながら思う。

翌年8月13日に家族で高野山へ行き、佐野さんのご紹介で平家物語ゆかりの瀧口入道と横笛の恋物語の大圓院で宿泊した。

佐野さんと 2003.5.2.jpgこれは2003年5月2日、Dさんと二上博物館をご一緒したときだ。このとき、佐野さんは83〜4歳だったのか・・・
5月の明るい陽ざしに負けないくらい元気な笑顔が輝いている。

悲しくさみしい。
とうとう逝ってしまわれたか・・・私は読書会を離れてから一度お目にかかっただけだったと思う。

↓これは2002年5月の読書会。
左奥の定席に佐野さんのお姿が見える。
読書会風景.jpg
この時はクリスチャンの友人・鳩飼きい子さん(正面・黒板前の黒い服の女性)が出版された『不思議の薬 サリドマイドの話』をテキストに、鳩飼さんをお招きしての会だった。

鳩飼さんも2010年に80歳で召天された。(私は鳩飼さんの左。ゲストなのに真ん中に座って下さらず、謝儀も受け取ってくださらなかった。)

佐野一雄さんを偲ぶ@.jpg今年は年賀状を作成しなかったのでお送りしなかったが、佐野さんは昨年の年賀状にも「元気にしています」と書いてくださっていた。

←これは2014年の年賀状で、もう一方のは2015年のものだ。
佐野さんの年賀状.jpg

佐野さんを偲び、昨年度発行された『かわちの』64号に寄稿された文章の冒頭をここに貼らせていただこう。

佐野一雄さん最後の寄稿.jpg

佐野さんにお聞きしておくべきだった。戦争の実態と憲法を改正し戦争できる国にしようとしている日本の現状について。

悲しいが前を向かなくては。
頭(こうべ)を上げて、私も残りの時間を精いっぱい生きなくては!


この日、古いメンバーの方々はすぐに私を認知して大歓迎してくださった。「御髪(おぐし)が変わられたけれど」とだけ仰りつつも、それ以上の驚きがあったように感じた。

帰りぎわ、Iさんに「またお会いしたいです」と御挨拶したら、「また来てね。本当に会えなくなってしまうから」と仰った。
本当にまた参加しようと思う。

東大阪市の中央図書館である花園図書館は民営化され、市から出る委託料で運営されている。ただしサービスは良くなったという。元旦も休館せず夜は9時まで開いているそうだ。

読書会に対してもこれまで通り選定図書は10冊ずつ購入してくださっているとのこと。市から助成金が出なくなって久しいが、書籍を購入してくださるだけでもありがたい。それでも会計が苦しいので、年会費を2000円から3000円にアップして会報の印刷代を捻出しているという。

市民会館跡に商工会議所を建て、その1階に永和図書館が入る。設計図もできあがっていた。読書会の要望も出すそうだ。

サークルセンター(商大)との兼ね合いもあるが、これを機に読書会会場を図書館に移すといいのではと思う。草創期は永和図書館で開いていたのである。
花園図書館は遠く、路線バスも廃止されてますます辺鄙になっているので、豊中との交歓読書会も新永和図書館ならば気兼ねくお迎えできる。駅の真正面で足場もいい。

新年度は創立50周年になる。こんな時代だからこそ読書会の存続意義は大きく、ますますの発展を祈るばかりである。
なお、市民会館は更地になったままの市民病院跡地に建つそうだ。

附記:読書会関係の写真を見ていたら、知子が参加した時のがあったので貼っておきたい。

読書会風景B.jpg

読書会風景A.jpg1998年8月の読書会は、漱石研究者・鳥井正晴氏を招いて『三四郎』がテキストだった。
1998年といえば、母を亡くして父が病床にあった時。私は46歳、知子は20歳だった。
 ―完―
 
posted by 優子 at 18:14| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2017年02月22日

9年ぶりに読書会へ A ―『舟を編む』−

この日は寒気が強かったせいか出席者は私を入れて9名だった。以下は参加者の発表を聞き書きしたものである。全員のを書いたわけではなく、聞きのがしや聞きまちがいもあるだろうが記録しておきたい。

Aさん:辞書って素晴らしい、目からウロコだった。辞書への愛おしさを感じる。作者が無くて編集者、関わる人があまりに多くて「賞」も無い。

地味な話題がどうしてこんなに面白く書けるのかと思うと、作者のユーモアであり、主人公の名前を馬締(まじめ)とつけるところから笑ってしまう。15枚のラブレターの面白さ、これを書いたのも作者である。

辞書作りの工程が読む者の頭に入っていくという構成にも驚いた。タケばあさんのみっちゃん(馬締 光也)への言葉かけが楽しい。

Bさん:編集するのを「舟」に喩えるが、今は利益ばかり考えて泥舟ばかり作られている。しっかり校正されておらず短時間で仕上げてしまう。

「本を編む」とは著者と編集者と一緒になって作ること。岩波文庫の創始者は校正を大切にしない出版社はつぶれると言っていた。

出版の裏側の話として、これは本人も言っているが金田一京助は名前だけで一度も目を通していない。
活版印刷の時代、辞書の字は小さいのでロシア語の辞書を5回校正して目が潰れた人がいた。今は拡大して校正する。

広辞苑は機械製本なのであれ以上厚くできないし、手製本のように糸かがりができないのでバラバラになってしまう。上製本は本を開いてももどらない。

福紙.jpg紙には縦目と横目があって、紙をすく時に流れる方向が縦目で、横目に使うと本が波打つ。
また、製本ミスで(写真のような)「福紙(ふくがみ)」というのがあるが、これは「福がつく」(ふりこみ、めでたい)ということで返品しなくても良い。

電子辞書は次の版が作れない。辞書ができ上がったらすぐに改定に入るのはすごいなあと思う。

優子:辞書作りについては全く関心がなかったけれど、すごく興味深く読まされた。「究極の紙」を作りあげていくところは圧巻で、自分もそのメンバーの一人になったような気持で読んでいた。

夫が紙の卸業を営んでいる関係から北越製紙の抄紙機を見学したことがある。
北越製紙が誇る世界最大級(2008年当時)の最新鋭機、「9号抄紙機(通称N9)」は、総全長が264メートル、幅10.7メートルで、夫の言葉を借りればまさしく軍艦のようだった。

1分間に1600メートル、時速にして100キロ程度のスピードで動いている。1日に1000トン、年間35万トンの紙を生産している。できたてホヤホヤの紙を機械からちぎってくださった時、私はうっかり口に入れそうになったほど感激した。

馬締の尋常じゃない熱心さ、編纂に取り組む馬締たちの様子から、1993年8月のテキストだった出久根達郎の『佃島ふたり書房』を思い起こさせた。内容は殆ど忘れてしまっているが、古本屋である主人公の本への思い入れの深さが強く印象に残っている。

『舟を編む』.jpgこの本ではP213。
「なにかを生みだすためには、言葉がいる。岸辺はふと、はるか昔に地球上を覆っていたという、生命が誕生するまえの海を想像した。混沌とし、ただ蠢(うごめ)くばかりだった濃厚な液体を。ひとのなかにも、同じような海がある。そこに言葉と言う落雷があってはじめて、すべては生まれてくる。愛も、心も。言葉によって象(かたど)られ、昏(くら)い海から浮かびあがってくる」。

ここを読んだとき、ヨハネによる福音書(1章1節〜5節)の冒頭を思った。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」。

斜体部分は発表しなかったが、心に届いた文章なので記しておきたい。
p145:「有限の時間しか持たない人間が、広く深い言葉の海に力を合わせて漕ぎだしていく。怖いけれど、楽しい。やめたくないと思う。真理に迫るために、いつまでもこの舟に乗りつづけていたい」。

全く同感。

「言葉は、言葉を生みだす心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものなのです。また、そうであらねばならない。自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟」。


(P258)「言葉はときとして無力だ。荒木や先生の奥さんがどんなに呼びかけても、先生の命をこの世につなぎとめることはできなかった。けれど、と馬締は思う。先生のすべてが失われたわけではない。言葉があるからこそ、一番大切なものが俺たちの心のなかに残った。生命活動が終わっても、肉体が灰となっても。物理的な死を超えてなお。魂はいきつづけることがあるのだと証すもの―、先生の思い出が」。

言葉、そして、書くということを思う。
書いた人が死んだ後も、その人がどのように頭を動かし、感じ考えたかが残る。

(P257)「きみ(荒木)とまじめさんのような編集者に出会えて、本当によかった。あなたたちのおかげで、わたしの生はこのうえなく充実したものとなりました。・・・『大渡海』編纂の日々は、なんと楽しいものだったでしょう。みなさんの、『大渡海』の、末永く幸せな航海を祈ります」。

荒木先生の「このうえなく充実したものとなった」という言葉が、深く打ち込まれた杭のように胸に響いた。私もこのような思いをもって生涯を終えることができたらいいなと思う。

Cさん:文庫本の殆どを請け負っていた日本製紙は津波で大きな被害を受けたが、半年で再開させた「日本製紙釜石の奇跡」に感動した。(日本製紙からいただいたDVDを見ていたので「釜石ではなく石巻では?」とお聞きしたが釜石とのこと。)

子どもの本の紙が分厚いのは手を切らないためで、上等の薄い紙にすると安っぽく感じさせるからだという。

現代は言葉が変化し使い方も変わっていく。

地味でお堅い題材をとった小説なのに退屈しなかった。三浦しをんは若者の仕事を通して成長していくというお仕事小説が多い。紙選びのところに感動し、面白く楽しい本だった。

Eさん:主人公は現代では珍しい人物。今は便利に電子辞書を使ってしまうが、読み物として辞書を読みたいと思った。この本は文庫になるのが遅かった。

Fさん:馬締(まじめ)という名づけ方、全体をユーモアのセンスで包んでいる。
辞書の編纂自体、考えたことが無かったので言葉の選択、言葉の並びや変遷がどうやとか考えたことがなかったので、こんなに多くの人の思い、執念がこもらないとできないのだというのがわかった。

こだわって時間をかける松本先生、荒木、馬締に対して、動的なことを与えている西岡の存在が面白かった。

前半に描かれている香具矢さんと後半の香具矢さんと違っているのが気になった。「梅の実」(自らの小料理屋)に入ると変わるのか・・・。

私は用例が多い岩波国語辞典を愛用しているが、辞書は自分がわからない言葉を引くものだから、「女」や「声」などわかり切った言葉が載っているとは思わなかったので引いてみた。

言葉自体が抽象で記号だから、それを説明することはとても難しい。

(今話題になっている)石原さん(都知事)が小池さんのことを「頭の黒い鼠」と言ったので調べてみた。「鼠」にはなく、「頭」の用例にあった。(2つの辞書の説明文を紹介された)

※ 物がなくなった時に、身近にいる人間が盗んだのだろうということを暗にいう言葉。「 〜のしわざ」(大辞林より)

企みのある都議会議員。餌を引っ張っていく頭の黒い人間。人間を食べ物を取って食べるネズミに喩えて、ネズミのように物を取ってきて懐に入れるという意味だ。

またスパイのことを「犬」と言うのは、牧羊犬は犬のくせに人間側に立って動物の羊を追いかける。それで犬をスパイと言うんだなと思った。

(開業医の家に嫁いだ)50年前、カルテは「いろは」で並べてあったので、「あの人は」と、患者さんが来たら毎回「いろはにほへと・・・」と指を折って数えたが、以前からいた人(事務員)が辞めてからすぐに「あいうえお」順に並べなおした。

お風呂屋さんの下駄箱も「いろは」だった。今は下駄がないから下駄箱とは言わない。「くつばこ」では出ていない。

この本を読むまでならば「出てるわ」で終わっていただろうが、今は「さすが! やっぱり出てる!」と感激して見るようになった。

読後感発表がひとまわりしたあとの話し合いでは、現代の言葉の変化や方言について盛り上がり、私はこんなことを言った。

私は間違った日本語が定着してしまっていることや、方言が失われていくことが気に入らない。例えば「1000円からいただきます」だ。
当初は非常なる違和感を感じていたのに、こちらも慣れてしまって今や市民権を得て大多数の店で使われている。

方言については例えば生協のチラシでも、関西では「関東煮き」と言っていたのが「おでん」に、「鯖の生鮨(きずし)」は「しめ鯖」に、「ぶた汁」を「とん汁」というように関東の言葉が定着している。

これは時代の在りようで止められないけれど残念だ。
以上

言葉だけではなく紙についても話題になったので興味深く聴いた。紙の縦や横についても夫から聞いていたので懐かしく、今夜もそれらの話を夫と交わした。「福紙」のことは知らなかった。

やっぱり読書会は楽しく有益だ。読んで終わりではなく読後感を話し合うことで視野が広げられ考えが深まるからだ。
そして、若い時よりもいっそう強く思ったことは、それぞれの感性で読むということがいかに大切であるかということだ。

この日、会長さんは圧迫骨折で欠席のため、副会長(前会長)のNさんがお世話してくださっていた。4月に発行される『かわちの』の編集作業も始まっていた。

「藤本さんが来てくださったからとても雰囲気が明るかった」、「藤本さんのおかげで明るくなった、これからまた来てください!」と、思いもしないお言葉を何度もかけていただいて感謝が溢れた。

最後に次のページで佐野一雄さんの訃報と、読書会や東大阪市の図書館行政の近況を書いておきたい。

posted by 優子 at 22:03| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2017年02月21日

9年ぶりに読書会へ @ ―懐かしき時空にタイムスリップか―

今日は9年ぶりに読書会に参加した。20年在籍していた「東大阪読書友の会」である。退会したのは2008年3月の例会が最後だった。

15年前から読書会に通っておられるDさんは、私宅から一駅向こうに住んでおられ歩いても40分あれば着く。それでもご無沙汰ばかりしているが、今月のテキストはDさんが推薦された本(三浦しをん著『舟を編む』)だというので読んで読書会を訪ねてみたくなった。

何よりもDさんと行き帰りの時もご一緒できること。お仲間との再会と読書感を語り合うのが楽しみだった。

そしてあと一つは、きっと今も変わっていない建物と部屋にもう一度行きたい、西口孝四郎ご夫妻が居られた頃を感じてみたくて、いよいよ2月半ば頃より今日の日を指折り数えて待っていた。

それは例えば、まもなく命が尽きようとする人が、もう一度だけ何処どこへ行きたいというのはこういう気持ちだではないかと思うほど、それほど待ち遠しくなっていた。


そしてついに、まるで車いすに乗って酸素吸入しながらも夢が叶い、今はもう思い残すことはないと喜びを満喫したという感じがするほどの感慨だ。

今の精神的状況がそれほどきつく、しばし日常から離れて一息つきたかったのだろうと思う。今はデジカメを使えるようになっている。私は読書会会場を撮ってきた。

読書会@.jpg

ここは大阪商業大学の正門。近鉄奈良線・小阪駅から徒歩で5〜6分の所にある。東大阪市長田に住んでいた時は自転車で10分で来られた。

この近くにあったハウス食品の本社とカレー工場は取り壊され、そこに新しく商大の別棟とハウス食品のビルが建っていた。
正門左奥にある風格ある建物が谷岡記念館だ。
かなり前は建物の前は芝生だった。

読書会A.jpg

読書会B.jpg入口の左側に今も二宮金次郎さんが立っていた。
これを見て孫が言った、「あっ、これあそこにもある!」と、近くの保育園に建っている金次郎像を言うので、「この前の日曜日も教えたのに、いいかげんに名前を憶えてよ!」と心の中で呟いてしまった。

そして、中へ入る。ここを見たかった。
やっぱりあの時のままだ。

読書会C.jpg
この景色に読書会や各サークル活動が賑やかだった頃の群像が重なり、私は西口さんご夫妻の姿を追った。

読書会D.jpg
ここもあの時のまま。

そして、部屋に入る。
読書会E.jpg
教室もそのまま。
以前は窓側に掲示板があったので薄暗かった。
机と椅子がつい最近新しくなったそうだ。

読書会G.jpg
「河内の郷土文化サークルセンター」発行の『あしたづ』

読書会H.jpg

読書会F.jpg
私の名札も作ってくださっていた。
そしてしばしの間、一切の心配事を忘れて私は私になった。

今日は1度/7度の寒い一日だった。

posted by 優子 at 23:15| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2016年01月12日

西口孝四郎氏が感じた谷崎潤一郎と松子夫人の「欠落の章」

昨年の1月7日の記事、「谷崎潤一郎の恋文 ―丁未子と松子への文章酷似―」に掲載したかった写真が見つかったので追記した。

西口孝四郎氏.jpg左から西口孝四郎氏、谷崎の3番目の妻・松子夫人、その妹・信子さんである。

西口氏は根津家の別荘の石燈篭とつくばい(手洗い)を発掘され、更に、石段、別荘の石段、木津家(木津家は根津清太郎の母親の実家で根津家と関係が深い)の碑、稲荷社などを発掘された方である。

それらを1987(昭和62)年に、芦屋市が建設していた谷崎記念館完成セレモニーで松子さんに見せたところ、
「一瞬、松子さんはハッとしたようで、『まだこんなものが残っていましたか』」
と、それらの写真を食い入るように眺めていたと記しておられ、
「”思いがけないものに出合った”という強く驚いた様子から、私はやはりここは谷崎と松子さんにしては、生涯の中で『欠落の章』にしておきたかったのだ―いやしてしまっていたのだということを、強く感じた。」
と書いておられる、まさにこれがその瞬間の写真である。

この写真は西口氏のウタ子夫人が撮られたのではないだろうか。いつもご夫妻ご一緒だったから。
ご関心のある方は是非ここをクリックしてお読みください。

posted by 優子 at 23:19| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2015年11月16日

ハンセン病療養所・徒労(たいろう)院

熊本県西区で115年にわたり存続した待労院は、カトリック系の私立ハンセン療養所で、明治時代から「ハンセン病療養所=隔離」とは違ったハンセン病療養所だったという。

徒労院@.jpgこの写真にあるように、修道女らはイエス・キリストが弟子たちの足を洗ったように病者の「足を洗う」ことを通して、入所者たちとの交流を深めていったという。

ふつうは「病院というよりも刑務所のような」ハンセン病療養所であるのに、ここは天国と地獄の違いを感じさせる。しかも明治期に!
この雰囲気は太宰治『パンドラの匣』の舞台となった孔舎衙(くさか)健康道場を思い起こさせる。

「他のハンセン病療養施設と大きく違っていたのは、待労院が建てられた同じ敷地に、親を失った子どもや路傍に捨てられた高齢者などの困窮する人々が集まり、修道女たちと共に信仰に基づく共同生活を送る『聖母ヶ丘』が形成されたことだ」。

徒労院A.jpg「71年に新しく建てられた聖堂は入所者たちの信仰の拠り所となり、祈る姿が絶えなかったという」。




徒労院B.jpg「現在『聖母ケ丘』には『こうのとりのゆりかご』(別名「赤ちゃんポスト」)で知られる慈恵病院が建ち、その意味で『赤ちゃんポスト』の設置と待労院には、大きなつながりがある。
望まれない赤ん坊であっても大切な命を救う背景には、待労院の長い救済の歴史があ」る。


詳しくは「キリスト教と社会事業の関わりを考える 国立ハンセン病資料館企画展『待労院の歩み』」に記されている。

これを読んで北条民雄を思い出さずにはいられなかった。
そして今年初めに「『生命(いのち)』と『生(い)きる』こと(1) ―北條民雄とハンセン病を巡る諸問題を視座として―」2冊をご恵送くださった浅田高明先生のことを思い続けていただけに、メールを書く勇気が出そうだ。


というのは、私は電話をするのが非常に苦手でメールもそうだ。
余談になるが、かつては、と言っても20年以上も前までのことだが、若いころは非常に筆まめで便箋にして年間に350枚近くも手紙を書いていた。返信もすぐに書いていた。しかし、今ではすっかり書かなくなった。インターネットの影響とも言えずメールもマメではない。

今年初めに北条民雄を読み始めてまもなく後藤健二さんのことが報道されたこともあり、民雄の作品は苦痛で耐えられなくなって中断したままになっているが、今ならば少しは読み続けられるかも知れない。

ハンセン病の関係記事過去ログ:

▼ 「『生命(いのち)』と『生(い)きる』こと ―北條民雄とハンセン病を巡る諸問題を視座として―」  浅田高明先生の真髄に心揺さぶられて
▼ 北條民雄、ハンセン病、病者に捧げた人々 @
▼ 北條民雄、ハンセン病、病者に捧げた人々 A

国立ハンセン病資料館も今後の参考になる。


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2015年02月13日

北條民雄、ハンセン病、病者に捧げた人々 A

このたび浅田高明先生の評論をテキストとして私なりの学びを始めたところだが、すでに評論のタイトルにある「生命(いのち)」と「生きること」の意味を感じ始めている。

北条民雄全集.jpgしかしながら、北條民雄の作品はあまりにも衝撃的な内容で息がつまり一向に読み進めない。川端康成が書いているように「癩者の真相」ばかりが心に飛び込んできて読むのが苦痛で、そのたびに神谷美恵子さんや井深八重さんを思い出しては勇気を奮い立たせて読むといった具合だ。あの方たちはこのような「異界」に身を置いて悲惨な病者に寄り添われたのかと、そのことばかりを思う。

▼  天刑病

▼ 毀(こわ)れかかった泥人形に等しい人々ばかりで・・・

▼ 敵(癩菌)は自分の体の内部に棲んでいて、どこへでもついて来るのです。それを殺すためには自分も死なねばならぬのです。自分も死なねばならないのです。

▼ 足袋の裏からぶっすり突きささった釘が、骨の間を縫って甲の上まで貫いているからである。・・・老人はかなり重症の結節癩で、不幸にも眼をおかされていて、もう薄明りの視力では自分の足に刺さっている釘の頭に気がつかなかったのである。もっとも掌でも満足であれば脱ごうとしているうちに判りもしたのであろうが、その掌も、火鉢の中に突込まれてじゅんじゅん焼かれていても、気がつかないでいられるという有様なのである。(上・P84)

▼ この頃(夏)になると、膿汁の溜まった疵口や、疵を覆ったガーゼや繃帯の間に、数知れぬ蛆が湧くことも決して珍しくはなかった。

▼ 癩者独得の体臭と口臭とが澱んでいて息もつまりそうに思われるのである。

▼ 「実際なんという惨(むご)たらしいことでしょう。敵は自分の体の内部に棲んでいて、どこへでもついて来るのです。それを殺すためには自分も死なねばならぬのです。自分も死なねばならぬのです」。 

▼ 「精神が腐らなかったって体は腐るんだ。体の腐らん奴が書いたものなんかこの病院(なか)で通用するもんか。俺だって体が腐らなけりゃもっと物凄い論理をひねり出して見せる。体の腐らん奴はどんな理論でもひっ放しが出来るんだ。都合が悪けりゃ転向すりゃいいんじゃないか。俺はもっと切迫しているんだ。思想か思想自体の内部でどんなに苦しんだって、たかが知れてらあ」。(『癩院受胎』/上・P109)


作品全体が心に突き刺さってくることばかりで書き切れない。文学として読み始めるには、まず一読して「癩者の真相」の衝撃を和らげないと、とても文学的視点は持てそうにない。

北條民雄の肖像(木炭画)
北條民雄・木炭画.jpg島木健作の「推薦の辞」・「光明の文学」より後半部分を引用:
「北條民雄の書き遺したすべてこそは、真に稀有な人生の書である。私は彼の文学を、癩文学の名で呼ぶことには賛成しない。癩はこの天才の発現のための啓示の如きのものであった。
彼の文学が、人間と人生の広く相渉り得なかったのはもとよりとするも、それは人間と人生の核心にまで深く深く徹したのであった。彼の文学は絶望の文学なるが故にこそ光明の文学なのである。そしてそれ故にこそ稀有なのである。
多くの光明の文学が人生を照らす光明は時に光うすれて見ゆるでもあろう。その時にこの絶望の文学からの光明はひとり愈(いよいよ)輝くのである」。


まだ137ページ、3作品読んだだけで返却期間になってしまったので、先ほどインターネットから2週間の貸出延長したが、自分の本でないと線を引いたり書きこみができないので時間のロスが多大だ。

今日は再び強い寒気に入れ替わった。
午後は雪空になり、ニュース映像の大阪城も吹雪で霞んでいた。

posted by 優子 at 22:21| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2015年01月30日

北條民雄、ハンセン病、病者に捧げた人々 @

「イスラム国」に拘束された後藤健二さんは未だ解放に至らず、集中できない日々に在るが、浅田高明先生からご恵贈賜った『「生命(いのち)」と「生(い)きる」こと ―北條民雄とハンセン病を巡る諸問題を視座として―』を読んでいた。

かつて不治の病とされた業病・ハンセン氏病を発病した北條民雄と後藤さんとは状況が全く違うが、極限状況に置かれた人間の恐怖、恐怖の極限状況に在る人間の苦悩といのちを考えながら読んでいた。

北條民雄は20歳でハンセン病を発病し24歳の若さで夭折。死因は腸結核だった。
民雄が自作の原稿を川端に送ったことから手紙のやり取りが始まった。私は川端康成に親しみを感じたことはなかったが、川端と太宰とのやり取りや民雄への心ある関わり方を知り、私の中の康成に息が吹き込まれ人間性を感じたことも嬉しいことだった。

民雄は川端への手紙だけは明るい言葉を伝えたいのだが、実状は「それだのに、ああ、自分のこの絶望をどうしよう。」とは胸が抉られる。

文学も哲学も宗教も糞喰らへだ。僕の體は腐つて行く。ただ一つ、俺は癩病が癒りたいのだ。それが許されぬなら、神よ、俺を殺せ。
            (略)
例のやうに文藝欄を展げて見るが、文壇なんて、なんといふ幸福な連中ばかりなんだらう。何しろあの人達の體は腐つて行かないのだからなあ。

今の俺にとっては、それは確かに一つの驚異だ。俺の體が少しづつ腐つて行くのに、あの人達はちつとも腐らないのだ。これが不思議でなくてなんであろう。
 

極限状態に置かれた人間の絶叫と苦悩!
そんな他人事としてしか受けとめられない己に地団駄踏むが、これは私の人間性なるが故なのか、人間の限界なのか!


『いのちの初夜』は民雄自身が経験したことを小説にしたもので、以下は主人公・尾田(民雄自身)が療養所に入所した日の同病室の佐柄木の言葉である。

▼ 人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。

▼ 苦悩、それは死ぬまでつきまとって来るでしょう。でも誰かが言ったではありませんか、苦しむためには才能が要るって。苦しみ得ないものもあるのです。

▼ 僕思うんですが、意志の大いさは絶望の大いさに正比する、とね。意志のないものに絶望などあろうはずがないじゃありませんか。生きる意志こそ絶望の源泉だと常に思っているのです。

▼ 死ねると安心する心と、(試しに首を枝に引っ掛けた時に危うく首が絞まりかけた時のこと)心臓がどきどきするというこの矛盾の中間、ギャップの底に、何か意外なものが潜んでいるとは思いませんか。

▼ 人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。

誰でも癩になった刹那せつなに、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。

けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。

尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか。

▼ (尾田は)何もかも奪われてしまって、ただ一つ、生命だけが取り残されたのだった。

『「生命(いのち)」と「生(い)きる」こと ―北條民雄とハンセン病を巡る諸問題を視座として―』の目次は以下の通りである。

@『間木老人』と『道化の華』 A発病と入院 B『いのちの初夜』誕生 C断種と隔離の思想 D神山復生病院 E光田健輔と小笠原登 F長島の女医たち G井深八重の生涯 H共生、共存の道 I大和路にて J熊本への旅 K結びに代えて 

浅田先生の医師としての視点と鋭い突っ込みは読む者の魂を覚醒させる。これら一つひとつの目次をもう一度丁寧に読み直し、それと並行して民雄の作品を読むべく、早速今日、市の図書館に北条民雄全集(上・下)をネットで予約した。

そこで不定期ではあるが、浅田先生の評論をテキストとして「北條民雄、ハンセン病、病者に捧げた人々」について学んだことを記録しながらお分ちしたいと思う。

なお、青空文庫でも北條民雄 『いのちの初夜』など、多数読むことができる。 

posted by 優子 at 23:59| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2015年01月14日

「『生命(いのち)』と『生(い)きる』こと ―北條民雄とハンセン病を巡る諸問題を視座として―」  浅田高明先生の真髄に心揺さぶられて

東大阪読書友の会に参加していた時、太宰治の『パンドラの匣』を取り上げた1992年4月の読書会で浅田高明先生と初めてお出会いした。今から23年前のこと、長女は14歳、次女は11歳、私は40歳だった。

ウィキペディアにも記されているように、浅田先生は医学博士の太宰治研究家で実証研究者として著名な方である。

このたび浅田先生から『異土』(文学表現と思想の会)2冊を御恵贈に与った。共に350ページに及ぶ分厚い「小説と評論の文学同人誌」である。
この2014年6月発行の9号には浅田先生の評論、「『生命(いのち)』と『生(い)きる』こと(1) ―北條民雄とハンセン病を巡る諸問題を視座として―」、12月に発行されたばかりの10号には(2)が掲載されている。

(1)では原稿用紙176枚・59ページ、(2)には225枚・74ページに渡って執筆されている。それでもかなり割愛されたそうだが、執筆された評論は研究者たちだけではなく私たち一般の者にもとても興味深い文献である。

郵便受けで封書を見つけ、家に上がる前に封を開くや否や立ち読みし、寒さに気づいて食堂の椅子になだれ座って読み始めた。

とにかく感謝の一筆は1冊分だけでも読ませていただいてからと思いながらも、その一字一句からほとばしる先生の感慨がこちらに伝わり、胸に込み上げてくる思いを押さえることができず受話器を取っていた。

浅田先生は結核や呼吸器の専門医としてだけではなく、ハンセン氏病についても永く心を注いで来られたことから、拙著『メメントドミニ』で「遠藤周作著『わたしが・棄てた・女』の主人公ミツのモデル・井深八重晩年の手記」をご覧くださった時に、その原本を教えてほしいとのご連絡をいただいて同志社同窓会報をご紹介させていただいたことがあった。そのことをお心にとめてくださってご恵贈くださったのである。

同志社同窓会報25.jpg
井深八重姉.jpgこのたびの著述で取り上げておられる井深八重は、同志社女学校(現在の同志社女子大学)英文科を卒業して英語教師になるが、ハンセン氏病と診断されて神山復生病院に隔離入院。その後誤診と判明するが、生涯をハンセン病患者の救済に捧げた人物であり、遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』のヒロインのモデルである。

この世には、かくも数奇な生涯があり、八重のような偉大な生涯を送った人々を前にして、私は己の生き方はこれでよいのかと問いたださずにはいられなくなる。

読み終えたら感じ考えたことを先生にお伝えしたい。

北條民雄のウィキペディアによれば、「2014年、ハンセン病に対する偏見、差別により本名は公表されていなかったが、出身地の阿南市が親族に20年間に渡って本名を公開するように説得、6月親族の了承を得て、没後77年経ってようやく本名が公開された」。 

差別意識や偏見とは、そんなにまで人間の心を束縛し不自由にするものなのか! まるでどうにもならぬ放射能のようではないか!!!

posted by 優子 at 23:35| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2015年01月07日

谷崎潤一郎の恋文 ―丁未子と松子への文章酷似―

1月3日朝、ベッドの中でラジオから聞こえてくる声をウツラウツラ聞いていると、谷崎潤一郎のことを言い始めたので耳を傾けた。

谷崎潤一郎が1964年のノーベル文学賞の最終選考直前の6人の候補に残っていたと言う。そして、選考委員の1人が「作品にあるサディズムは、西洋人の読者からは受け入れられにくいと思う」という見解を示したとのこと。

私は谷崎が好きではないが読書会に入っていたおかげで、今夜の「クローズアップ現代」の「谷崎潤一郎の恋文 〜文豪が貫いた意志〜」を関心を持って見た。
『細雪』のモデルだった3人目の妻・松子と谷崎との間で交わされた288通の手紙から、最後の妻との結婚生活に救いを感じた。

と言うのは、谷崎は最初の妻・千代を離縁して長女・鮎子と共々、友人の佐藤春夫に譲ってすぐに丁未子(とみこ)と結婚したが、稲荷山住まいから3年で離婚、一生の伴侶となったのは3人目の妻・松子だったからだ。

私にとって谷崎と言えば西口孝四郎氏であり、「谷崎の恋文」についても熱く語っておられた西口氏を思い出さずにはいられない。 

西口氏の発掘@.jpgこれは『中央公論』の「文芸特集 秋季号」(1994年)。
この特集号に14ページに渡って西口氏が谷崎年譜の「欠落の章」について、「谷崎潤一郎が妻丁未子にあてた三通の手紙」と題して執筆されている。


西口氏の発掘B.jpg今夜の番組は谷崎と松子の手紙に焦点を当てていたので触れていなかったが、西口氏は丁未子に宛てた手紙を入手したことから、文豪谷崎潤一郎にしては恋文の手法、発想の仕方がびっくりするほど同じで「少し”曲がない”とさえ思わせられる。」と指摘している。


一例を挙げよう。
丁未子さん宛ての恋文:
「その功績と名誉とは、私のものではなく、あなたのものです。私の芸術は実にあなたの芸術であり・・・」

松子さん宛ての恋文: 
「私にとりましては芸術のためのあなた様ではなく、あなた様のための芸術でございます」。


谷崎の人間性を見るに、西口氏の突っ込み方は実に鋭い。

谷崎年譜で空白になっていた1931(昭和6)年10・11月の2ヶ月間、生駒山麓の「稲荷山」に住んでいたことを突き止めたのが、西口孝四郎氏(私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い―)であり、私の文学への興味や社会に対して発言することの大切さを教えてくださった人だった。

西口氏は1956(昭和31)年から1972(昭和47)年まで読売新聞大阪本社の記者として河内支局を担当していたが、退職後の1985(昭和60)年になってようやく稲荷山に入り、新聞記者時代の手法で探り当てられたのである。

谷崎が2番目の妻・丁未子と高野山から落ち伸びて隠れ棲んだのが稲荷であり、その頃は谷崎が最も経済的に行き詰っていた時だった。その住まいをはからったのが稲荷山の持ち主(大阪本町の綿問屋・根津商店店主・根津清太郎)の妻・松子である。

西口氏は根津家の別荘の石燈篭とつくばい(手洗い)を発掘。さらに、石段、別荘の石段、木津家(木津家は根津清太郎の母親の実家で根津家と関係が深い)の碑、稲荷社などを発掘された。

西口氏の発掘A.jpg

それらを1987(昭和62)年に、芦屋市が建設していた谷崎記念館完成セレモニーで松子さんに見せたところ、
「一瞬、松子さんはハッとしたようで、『まだこんなものが残っていましたか』」と、それらの写真を食い入るように眺めていたと記しておられ、
「”思いがけないものに出合った”という強く驚いた様子から、私はやはりここは谷崎と松子さんにしては、生涯の中で『欠落の章』にしておきたかったのだ―いやしてしまっていたのだということを、強く感じた。」
と書いておられる。

まさにその時の松子さんと西口氏のツーショットが掲載された機関紙を持っていたのだが、捜しても見当たらず、大阪商業大学の「河内の郷土文化サークルセンター」事務局でバックナンバーを探していただいてもわからずに残念だ。

西口孝四郎氏.jpg2016年1月12日22時53分追記:
これがその時の写真だ。
左から西口孝四郎氏、谷崎の妻・松子夫人、その妹・信子さんである。

これは、『河内の郷土文化サークルセンター会報』第6号(1989年1月20日発行)2ページに掲載されている。数日前の掃除中に発見し、ここに記録する。

根津商店は後に経済大不況の波を受けて倒産し、店も住宅も別荘も一切を伊藤忠兵衛(伊藤忠)に売却しているが、盛んだった時代の稲荷山は、根津商店の従業員や地元の人たちのために遊園地を開発していた。

その「大阪府中河内郡孔舎衙(くさか)池ノ端遊園地根津別荘」と言えば、太宰治の『パンドラの匣』の舞台となった近辺である!

それを発見されたのが医師で太宰治研究家の浅田高明氏であり、今年拝受したお年賀状には、井深八重氏についても少し触れたハンセン病の論文掲載誌をお送りくださるとのこと。

浅田先生が今なお研究を継続されて健筆を奮っておられることが嬉しくてならず、心待ちにしているところである。


posted by 優子 at 23:44| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2014年05月01日

「拝啓 二宮金次郎様」 ―東大阪読書友の会会報より―

20年間所属していた「東大阪読書友の会」を退会して6年になる。毎年4月に発行している読書会の会報が昨日届いた。今年の62号からA4のワイド版にリニューアルされており、新年度の役員名やテキスト名を見て会に心を馳せながら、懐かしく一気呵成に読んだ。

その紙面でDさんが二宮金次郎のことを軽妙洒脱に書いておられ、最近ブログで取り上げた金次郎のことを興味深く読ませていただいた。いつしか家に居ながらにして読書会に参加しているような気持ちになって心が弾んだ。

まずは感謝の一筆をと、今では1年に1度さえメールしなくなっていたので届くかどうか心配だったが、アドレスを知っている2名の方に送信したところ着信!😃

Dさんからすぐに返信をいただいて、今朝お電話もいただき時間を忘れて1時間も話していた。世間話ではないから退屈せず疲れない。電話の最後にDさんのお許しを得たので転載させていただいた。

拝啓 二宮金次郎様

読書会B.jpgおや、こんなところに金次郎様が。平成のこの時代に、よもやお目にかかるとは思ってもいませんでした。働き者の金次郎様は、江戸時代のお姿で薪を背負い本を読んでいらっしゃる。きっと難しいご本なのでしょうね。

大阪商業大学谷岡記念館は、昭和初期の建物とか。この記念館の脇にひっそりと立っていらっしゃる金次郎様は、谷岡記念館と共にめまぐるしく変わる激動の時代をつぶさに見てこられたことでしょう。

東大阪読書友の会は、この記念館内で毎月一回読書会を行っています。入会以来ここに通うこと十年近く、今ではすっかり顔なじみになってしまいました。

ところで、最近巷であなた様によく似た姿を見かけます。リュックを背負い、あるいは鞄を肩に寸暇を惜しんで歩きながらスマホをする若者の姿。つまり歩きスマホです。

一見金次郎様に似ていますが、あなた様の勤勉の精神とはちょっと異質なもののように思われます。溝にはまったり、ホームから落ちたりぶつかったりと事故も多発し、社会問題にもなっています。

私共の読書会は、本を愛する者が集う会です。本を手に立たれているお姿をいつも拝見しているうちに親しみを覚え、いつしか金次郎様が読書会の名誉会員のような気がして、ついお声をかけてしまいました。

会は今、高齢化という問題に直面しています。もし、フレッシュな会員を紹介していただけると嬉しいのですが。勿論江戸時代のお方ではなく、平成の今に生きる人限定で! 

何と新鮮な視点で書かれた洗練された文章だろう。
今朝の電話で金次郎像出現の顛末譚を興味深くお聴きした。

「スマホとは精神性を異にする金次郎像は昭和初期に建てられた。貧しくともそれに耐えて生産的な生き方をせよと軍国主義に利用されて、昭和10年頃に建てられた学校に金次郎がいた。

石像ではなく銅像の場合は、最後は鉄砲の弾にされ、戦後は校舎解体と共に姿を消していった。ただし、古い学校には今も金次郎像が残っており、大阪商大では記念館として置いてあるので今も残っている」。


同年5月9日追記: 「今日は何の日」で、「1942年の今日、兵器・弾丸等に転用する為に金属回収令により寺院の仏具や梵鐘などの強制供出が始る。」と耳に入り、このことだとわかった。

『かわちの』の「あとがき」を「カプチーノ」にもじって「かわちーの」にされた斬新さもDさんの発想だ。この3月まで4年間会長を務めてくださって、今年度から顧問として会を支えてくださるという。

「お孫さん もう一年生?おめでとうございます!すばらしい! メールでは書ききれません。もどかしいです。」との言葉に、Dさんの深い人柄が窺えた。
久々に読書会関係の最新記事を更新できたことも嬉しい。
感謝!

附記:同じく会報に「冬の裸の木々の美しさはたまらない」と書いておられるNさんの文章から、冬の木々を愛したヴォーリズの詩を次のページでご紹介したい。


posted by 優子 at 13:15| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2011年02月12日

ライフワークの現状と雑感

かつて20年間お世話になった「河内の郷土文化サークルセンター」(「東大阪読書友の会」が所属)を退会した翌年の2009年11月、サークルセンター創立25周年を記念して『河内文化のおもちゃ箱』が発行され、そこに私の一文も掲載されている。

※ 掲載文・「太宰治『パンドラの匣』の舞台は、孔舎衙健康道場だった!」は、カテゴリ『読書会関係』2009年11月17日に公開。

これは『パンドラの匣』の主人公・ひばりのモデル、木村庄助氏(昭和22年22歳)だ。木村庄助氏.jpg

その本が好評で増刷され、「今月末には再び大々的に書店の書棚に並ぶことになる」とのこと。iPadにスポットライトが当てられている今、増販されるとは二重の喜びである。

読書会を退会する最後の3年間を、サークルセンターの役員としても関わらせて頂いた懐かしい日々を思う。

それからまたまもなく3年になろうとするが、遥か以前のことのように感じるのは日常生活に無我夢中だったからだろう。

読書会を去ることにした大きな理由が、今後はクリスチャンペンクラブでの活動に重きを置いてキリスト教文学を深めることにあったが、退会して8ヶ月後、娘の人生に一大事が発覚してそれどころではなくなってしまった。よく読書会も辞めておいたことだと思う。

孫の成長と共にようやく生活のリズムもついてきたので、今年から再びライフワークに意欲的になった矢先、今月の関西ブロック研究例会も欠席することになってしまった。

19日はゴールデンウィークの関係で美濃紙業が振り替え出勤日になったのだ。先月今月と一日ずつ欠勤した知子は、これ以上休むわけにもいかず欠席せざるをえなくなったのだ。

今月の課題図書は何度か読んだ遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』ゆえに、大田先生のご講義をお聴きできないのは残念だ。

拙著「遠藤周作が世に問うたことと聖書的視点からの問題点 (『海と毒薬』、『悲しみの歌』より)」≪カテゴリ:掲載文(神・文学)に掲載≫でも触れたように、これは『わたしが・棄てた・イエス』というのが本当のタイトルである。

遠藤自身が語っているところを上掲の評論にも引用した。

「 犬の眼」の背後に(臆病ゆえにイエスを「 知らない」と言って拒んだ)ペテロを見るイエスの眼差しがダブルイメージとしてある。
『わたしが・棄てた・女』というのは、『わたしが・棄てた・イエス』というのが、本当の題なんですけれども、日本人はそこまで読み取ってくれない。そこが実作者として一番辛い。」


この作品は同志社(女学校)の大先輩、井深八重がモデルになっている。読みやすく、かつ深い内容なのでお薦めの一冊だ。

クリスチャンの方で書くことに関心のある方は、日本クリスチャンペンクラブのホームページ(お気に入りリンク)の案内をご覧頂き、私たちの働きに加わって下さるならば大歓迎!

HPは毎月更新され、エッセイや詩など会員の作品が順次公開されている。
その管理をして下さっているのが文香さん(ペンネーム)で、2月9日のご自身のブログ『生かされて』に、『メメントドミニ』で書いた『わがままな大男』の一文を紹介して下さっている。

その最後を、「巨人が小さな男の子と出会って喜んで天国にいったように、父もイエス様と共に天国へ行ったのだなあと思いました。」と結ばれたお証しに深い安らぎを感じた。

浅田高明先生はお元気にされているだろうか・・・
浅田先生と読書会時代に想いを馳せ、「読書会関係」の記事を開いた。


posted by 優子 at 09:36| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2010年04月22日

20年ぶりに中山義秀『厚物咲』を再読

早速昨日、中山義秀(ぎしゅう)の『厚物咲(あつものざき)』を読んだ。2段組で15ページ半の短編だが、やはり長編を読んだあとのように中身のある作品だった。

この作品は昭和13年に書かれたもので、その時代が作品によく表われている。例えば、28〜9歳の女を「年増(としま)盛り」と書いている。(笑)

小説の内容は、幼なじみの二人の男性(瀬谷直人と片野俊三)の友情と確執を掘り下げたもので、瀬谷の視点から幼友達・俊三のことを書いていっている。

片野は花作りの秘密を守り通し、それを瀬谷が奪ったということは、最後に秘密が破られたというわけだが、自殺した片野の傍にあった作品を盗んで展示したとは何と罪深い!


20年前の記憶では、菊作りについての秘密を絶対に明かさなかったことと、両者の執念だけが残っていた。読書会で発言した内容は長くなるので一部省略して掲げるが、この時は妻・お鱗についての洞察があまりにも未熟だった。

片野の生き方を思うと、いったい何のために生きているのかと問いたい気持ちだ。人生を台無しにしてしまって哀れである。
妻のお鱗の忍耐力はすごいものだが、これもまた人は何のために何ゆえに耐え忍ぶのかを考えさせられ、共に哀れでならない。

性格がその人の運命をつくるのか?!
とにかく、「人は生きてきたように死んでいく」と言われている通りだと思った。
そして、偏屈な片野夫婦から、これほど似つかない息子が出たのはなぜか。養子として外に出されたということから、人間は育つ環境によってこうも変わるということをしみじみ思った。

しかし、今回はこれだけでは済まない。
お鱗もまた片野同様に伏せられた魂を支えに生きており、意地の張り合いで生きてきた片野夫婦だった。片野が首を吊って果てた心理はいかなるものか。人間の真相というものを掘り下げて考えずしては終われない。

片野の心理もお鱗の心理も既に直観しているが、言語化できるまで考えねばだめだ。考えたい。
書くとすればそのあたりだが、この作品だけでは義秀が洗礼を授かって、平安のうちに生涯を終えるに至る息づかいを感じることはできなかった。

ひょっとして、自殺した片野が義秀の分身なのだろうか。
あるいは、分身は瀬谷なのか。
瀬谷もまた片野と同等に罪深く、一番救いがたいのは瀬谷かもしれない。『海と毒薬』の勝呂と戸田を彷彿させた。


1990年10月の読書会で西口孝四郎氏の解説は:
義秀は明治33年生まれで、明治6年に仇討ち禁止令が出た。父、祖父・・・みんな武士の名前で剣豪筋であった。
早大時代に横光利一と知り合い、その後は常にライバル意識があり、横光との精神的葛藤があった。

『厚物咲』とは、義秀にとっては「小説作り」なのである。物を作る者にとっては秘密を絶対に明かさないし、相手の顔やライバルの顔を浮かべて作るのである。
片野の死に焦点を持っていかないといけない。

この時の読書会は、年に一度交流していた豊中との読書交歓会で、豊中から来られた明治42年生まれ(当時81歳)の女性が貴重な話をして下さっていた。

「この当時の500円は今で言うなら3000万円位で、この当時は貯金など考えられない貧しい時代だった。ちなみに昭和6年で家は1000円で建った。今なら一億円。

女の考えが全く出ていないところも前の時代の作品とわかる。
封建制の中での友情(女同士あるいは男同士)の中に、片野と瀬谷のような関係がある」。


義秀は大学卒業後に英語の教師になったが、妻を亡くす。創作活動も長い苦節の時代があったようだ。
第7回芥川賞選考審査員に佐藤春夫、室生犀星、横光利一や久米正雄がおり、この作品を絶賛した久米正雄の選評(抜粋)を参考資料として記録しておきたい。

私は今度の芥川賞候補作品を、一と通り読了した時、中山義秀君の「厚物咲」に最も感心し、第一回会合の時から、敢て是を推奨し通した。(中略)読んだ時、深い感動に打たれて、暫らく芥川賞銓衡なぞの俗事を忘れ得たのは、正直のところ、此の作品だけだった。

室生君が、老人は書き易く、その易きについて、陳套だと言う意味の批難をしたが、その批難は当っているにしても、是だけ書ける人はそうザラに無いと考えた。

集中力が戻ってきているように思うので、義秀の作品をもう少し読んで人間の実相について考えてみたい。


posted by 優子 at 16:18| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年12月12日

増版予定の25周年記念本

『河内文化のおもちゃ箱』が発売されてまもなく1ヶ月になる。
アマゾンドットコムによれば、河内に関する本の売れ筋ランキングが先週は1位で今週は2位という好調な売れ行きで、出版社では既に増版を考えているそうだ。

大阪商業大学のある教授が来年度のテキストに使用されることも先月初めにお聞きしているし、関東の図書館にも置かれているとのこと。
遅ればせながら私も今日、当市の市民図書館にリクエストを出してきた。12月の一冊目として購入すると即答して下さった。ついでに図書館パスワードを交付してもらって、インターネットで予約や延長などの利用状況を照会できるようにした。

『メメントドミニ』を読んで下さっている読者の方も、最寄の図書館にリクエストしてお読み頂きたい。

ついでながら、今春からの『メメントドミニ』アクセス動向では、孔舎衙健康道場へのアクセス数が常に一定数あり、10日に更新した『パンドラの匣』座談会の記事に対しても「大変興味深く読んだ」と反響をお届け下さって嬉しい限りだ。感謝!

早、12月も半ばになる。
街や店は強烈な照明で飾り付けられ、一年中で最も明るい季節でさえある。しかし、人々は人工的な明るさに目がくらんでしまって心の満足を求めないかに見える。

事務的に送られてくるクリスマスの案内に、心の伴わない悲しみと情熱の無さに伝える側がこれではと心が削がれる。
しかし心を分かち、この時を生かして人の心に生きる希望を届けたい。
先週の礼拝中、孫はアドベントクランツ(ロウソク)に向かって息を吹きかけてばかりいた。明日は自治会役員会のために教会へ行けないが、新しい週もクリスマスに備える日々でありたい。

「人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来た」。           
                (ルカによる福音書19章10節)

posted by 優子 at 21:12| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年12月09日

孔舎衙健康道場発掘者の喜び結実す! ―映画『パンドラの匣』座談会のDVDより―

11月28日の「河内の郷土文化サークルセンター25周年記念行事」会場でお目にかかったコミュニティ・エンパワーメント東大阪のS事務局長さんが、先週末に『パンドラの匣』試写会後にもたれた座談会のDVD(2枚)を送って下さった。

これは10月3日(土)に石切剣箭(つるぎや)神社で開催されたものだ。
近畿大学文芸学部教授・佐藤秀明氏をコーディネイターに、木村重信氏(小説の主人公モデルの実弟、大阪大学名誉教授)、浅田高明氏(孔舎衙健康道場発掘者、太宰文学研究者、医師)、映画監督の冨永昌敬氏、そして、道場長役のミッキー・カーチス氏らの1時間半余りの対談である。

原作は木村庄助氏の日記をもとに、関西を知らなかった太宰が架空の土地に健康道場を設定したものであるが、作品論的には構成力や情景描写の不足が指摘されている作品である。

映画では宮城県の廃校(小学校)を利用され、撮影現場の20メートル後ろには高速道路が走っていたそうだ。ベッドは実物の写真そっくりに特注されており浅田先生は感心されていた。

庄助日記によれば、マア坊には木村アサ子さんと飯島まさこさん(字は不正確)という二人のモデルがあった。冨永氏は映画製作前に布施出身の飯島さんに会って話を聞いておられた。

冨永氏も私の最も興味深い道場での挨拶について飯島さんに尋ねておられる。つまりどんな風にあの言葉を交わしていたのかということだが、私の想像していたとおりの雰囲気だった。

道場での挨拶とは、「やっとるか」、「やっとるぞ」、「がんばれよ」、「よーしきた」のかけ声である。

「(挨拶を交わす相手が)目の前にいるのに、かなり絶叫していたらしい(笑)。
飯島さんは『私はあんなに働き者ではなかった』と言われ、結構サボっていたらしい。その時代、その場にいた人だから、会っただけで感動する。当事者に映画を見てもらったのが嬉しい。」
と冨永氏。

木村重信氏も面白いエピソードを話された。
「結核が軽快して兄が一度家へ帰った時、朝から晩まで兄弟で挨拶をやっていた。
兄は中学生で私は兄より4歳年下で、そんな子供同士でやっていた(笑)」。


重信氏は大正14年3月9日生まれだと仰ったから、私の父と同い年だ。父が生きていれば84歳・・・。
そのようなお年には見えなかったが、庄助氏が健在ならば88歳だ。と言うことは私の親世代であり、庄助氏や太宰は決して遠い時代の人ではないことに気づかされ不思議な気がした。

浅田先生のお話:

WHO(世界保健機関)の健康の定義は、肉体だけではなく精神の健康も謳っており、戦時中にそのようなことを率先して基本に据えたところに道場長・吉田さんの見識の高さがあった。

結核菌は感染しても発病しなければいい。感染したからといって直ぐに病気になるわけではない。免疫をつくるためには体力がないと免疫がつかない。結核は絶対安静でなくても良い。吉田さんはそこに目をつけた。

太宰が戦時中に書いたものを戦後に書き直したところにズレがある。戦時中と戦後の価値観は180度転換し、戦時中の出来事を戦後のことに書き直したところに無理がある。

『パンドラの匣』のモデルの研究が進まなかったのは、場所の特定が進まなかったためで、研究者はそこを素通りしてしまったからではないか。

結核療養所は避病院であり近所から嫌がられていたこともあり、知れ渡っていなかったこともあるだろう。30年余り前は、いくら調べてもわからなかった。

昭和52年3月4日のことを今でもはっきり覚えている!
私は道場開場記念の写真が頭にあった。そして、(探索の)帰り間際、石切の坂を上がってくる途中で見つけたのだ!」。


浅田先生が見つけられたのは、2009年3月25日の「ついに道場跡に立った!」の記事にある3枚目の写真のことである。

最後に、司会者が4人のパネリストに求められたコメントで、浅田先生は孟子の言葉を引用して次のように語られた。

孟子の言葉に、「天(てん)の時は地の利に如(し)かず、地の利は人の和に如かず 」というのがあります。(※意味は、天の与える好機も土地の有利な条件には及ばず、土地の有利な条件も民心の和合には及ばない)

私にとって「天の時」とは、私が結核専攻の医者であったこと。太宰が好きで『パンドラの匣』を読んだということです。

「地の利」は、私は京都市伏見区に住んでおり、主人公が京都府城陽市出身であったということで近くだったこと。
そして、調べてみようと発奮して日下(くさか)へやって来て、30年かかって調べて、今映画に作ってもらって日の目をみたことです。

即ち、多くの人たちが皆応援して下さって協力を得て、やっと「人の和」を得て結実しました。

「天の時」も「地の利」も「人の和」も、いっしょくたん(何もかも一緒)に私にやって来たという感じを持っています。非常に感謝しています。ありがとうございました。

浅田先生の深い喜びがわかり感銘を覚えた。

先生が探索を始められたのは昭和52年正月からで、それは私達が結婚して2週間後のことである。私は25歳、まだ人生の夜明け前の時であった。

その後、子育てを通して知的好奇心に目覚め、神と出会って、読書会で浅田先生を知った。それからも3〜4回お目にかかったと思う。そして、今回の執筆を通して不思議な再会へと導かれたのである。

私はキリスト者としてその背後に神の摂理を信じ、神の時が来て(満ちて)今有るを得たと受け止めている。


これを書きながら脳裡に浮かんだ聖書の言葉は「伝道の書11章6節」だ。
「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。
実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである」。

                    
私の人生は既に夕方を迎えつつあるが、しかしそれでも尚、収穫の喜びを期待してあきらめない。全てを見極めておられる神の御手に委ねて励み、希望の種を蒔き続けようと思った。

小説の舞台を発見された研究者と主人公のモデルの実弟との対談は、太宰文学の貴重な研究資料の一つに加えられるであろう。
DVDをお贈り下さったMS.Sさんに心から感謝している。


posted by 優子 at 15:22| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年11月30日

今朝の読売新聞朝刊に刊行本報道さる!

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我が家は毎日新聞を購読しているので知らなかったが、MIKIOさんから喜びの速報が届いた!


posted by 優子 at 10:43| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年11月29日

河内の郷土文化サークルセンター創立25周年

昨日は千里さんもお誘いして「河内の郷土文化サークルセンター創立25周年記念事業」の記念式典に集った。
私はこの文化活動に昨春まで通算8年間を理事として、最後の3年間は役員としても関わらせて頂いた。20年所属して去年お別れしたということは、センター創立4年目に入会したことになる。私たちには懐かしいふるさとの一つである。

記念式典には大阪商業大学学長・谷岡一郎氏に続いて、東大阪市長(野田義和氏)、八尾市副市長、そして、大阪市生野区区長が祝辞を述べられた。

私は田中絹子会長のご挨拶を拝聴しながら、亡き西口孝四郎先生ご夫妻を偲んでいた。ご健在ならばどんなに喜ばれたことであろう。
式の終わりのご挨拶に立たれた杉山三記雄さん(MIKIOさん)もまた草創期からのメンバーであり、それぞれの個性を活かして魅力的に生きておられる方々だ。

昨日は240名を越える芳名記載があり、刊行本も昨日だけで47冊も売れたそうだ。私は午後のシンポジウム、「出版記念フォーラム」にも残りたいのは山々だったが断念して昼過ぎに会場を出た。

驚いたことに、そのフォーラムでパネリストが私の記事を賞賛して下さっていたとのこと。浅田先生に感謝の想いが募る。
折りしも今年は太宰治生誕100年であり、再度映画化されて話題を呼んでいる。その幸運なタイムリーさも忘れられない思い出になった。

先生の御体調が悪く残念ながら再会は叶わなかったが、先生が書いて下さった本への賛辞を編集された方々にお伝えし刻ませて頂きたい。

「河内の国の歴史、風土、習俗、宗教、文化・・・・など、あらゆるジャンルに関する多くの立派な論考が並んだ、まことに素晴しいご本、これから読み進めてゆくのが楽しみです。(略)
いただいたご本を読むことで、記念フォーラムの内容を偲ぶことにしたいと思います」。


ところで、10月3日に石切神社の石切寮で開催された映画『パンドラの匣』の試写会と座談会では、冨永昌敬監督や俳優のミッキー・カーチス、主人公ひばりのモデルになった木村庄助氏の実兄、そして、浅田先生たちで語り合われたが、この開催のために尽力されたお一人が、昨日の会場で掲載文の執筆者ということで声をかけて下さった。

その方は、「NPO法人・コミュニティ・エンパワーメント東大阪」の事務局長さんで、以前は市会議員をされていた活動的な女性だ。
試写会の時にも署名帳に私の名前を捜して下さっていたとお聞きして、思いもよらぬことに恐縮した。

あの時、無理をおしてでも行けば先生にもお会いできたのにと悔いが残る。寒い冬が過ぎて春爛漫の頃に、先生とご一緒にお近くの醍醐の桜を見たい。

人と人の出会い、心の通い合い、同時代に生きる者同士の連帯感・・・いろんな熱い思いが溢れてくる。
どの人も皆、幸いな生涯でありますように。
私も良い人生を送りたいと思う。


posted by 優子 at 22:15| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年11月17日

『河内文化のおもちゃ箱』掲載文          ―「太宰治『パンドラの匣』の舞台は、 孔舎衙健康道場だった!」―

編集者のお許しを得て、昨日ご紹介した書物に掲載された拙文をブログ上に公開記録させて頂きたい。

太宰治『パンドラの匣』の舞台は、
孔舎衙健康道場だった!
藤本 優子



太宰治の小説『パンドラの匣』に登場する健康道場は、現在の東大阪市日下町八丁目六番地、日下新池(天女ケ池)畔にあった「孔舎衙(くさか)健康道場」がモデルになっている。昭和十二(一九三七)年頃から十七(一九四二)年秋まで開設されていた、全国的にも知れ渡った結核療養所である。

健康道場という名の示すとおり、患者を塾生、医師を指導員、看護師を助手さんと呼び、常時三、四十名の職員と百名もの患者が寝起きを共にしていたのである。

創設者の吉田誠宏氏は香川県出身の剣道家で、本職は警察官であった。正義感に燃え、私財を投じて部落解放や差別撤廃のために水平社運動に尽力した。その活動中に肺病で倒れていく青壮年たちの姿に心を痛め、驚くべき情熱と行動力で「吉田式健康法」なる「孔舎衙健康道場」を創設したのである。

当時、結核の薬はなく、「大気、安静、栄養」とされていた時代に、肺以外の健康な部分は運動させるという画期的な療法であった。主に手足の屈伸運動と腹式呼吸、そして全身の冷水摩擦を繰り返し、そこにビタミン類を大量に摂取させた。

もう一つ特徴的なことは、心身の平衡調和を重視し、起床後は合掌念仏から始まり、午後にもたれる一時間の講話、就寝前の二〇分間の感謝読経が日課になっていた。

孔舎衙健康道場が小説の舞台であることを発見された太宰文学研究家の浅田高明氏は、胸部疾患を専門とする医師であり、医学的見地からも吉田式健康法を高く評価されている。また、全人的医療が叫ばれている昨今、心身医学も注目している。

『パンドラの匣』の主人公「ひばり」のモデルは、京都府綴喜郡青谷村(現・城陽市)在住の結核を病む青年、木村庄助氏である。昭和十六(一九四一)年八月から道場に入院し、年末には病態が軽快して退院したが、その後再発して、最後は京都保養院入院中にカルモチンを服毒して二二歳の生涯を閉じた。

木村氏は熱烈な太宰ファンで、太宰から木村氏に宛てた四通の手紙が太宰治の書簡集に収められている。太宰は木村氏の遺言を果たすべく、彼が残した全十二冊の療養日記を基にして『雲雀の声』を書き、戦後に『パンドラの匣』として発表した。

絶望に打ちひしがれて健康道場にやってきた「ひばり」、そこに「竹さん」と「マア坊」との女性をめぐる恋愛感情の揺れ動きなど、明るい療養生活を描いている。

孔舎衙は萬葉集や記紀歌謡にも登場する歴史ある土地だ。古代は河内が海であったことから、日下新池には海辺に自生するヒトモトススキが生えており、東大阪市の天然記念物になっている。

現在、健康道場の面影を残すのは正面の石段と石垣、そして、敷地内にある一基の石灯籠だけである。石段前の小橋は付け替えられ、素朴な鉄パイプ造りの欄干も姿を消した。

しかし、池のほとりに立って耳を澄ませば、道場で交わしていた患者さんたちの元気な挨拶が、今も生駒山麓にこだましているようだ。

「やっとるか」
「やっとるぞ」
「がんばれよ」
「よーしきた」

〔参考文献〕

太宰治『パンドラの匣』(新潮文庫 一九七三年)
 この小説は一九四五年一〇月から翌年一月に仙台
 の河北新報に連載。単行本は一九四六年に河北新
 報社から刊行。
太宰治『太宰治全集』第一二巻(書簡)(筑摩書房、一
 九九九年)
浅田高明『太宰治 探査と論証』(文理閣、一九九一年)
浅田高明「『パンドラの匣』余聞」(『日本医事新報』第
 二八九二号、一九七九年)
浅田高明「続『パンドラの匣』余聞」(『日本医事新報』
 第二九〇〇号、一九七九年)

   (ふじもと・ゆうこ/日本クリスチャンペンクラブ)

PRコーナー:
『河内文化のおもちゃ箱』は定価2800円+税、全国の主要書店に置いています。大阪のジュンク堂では平置きして頂いているそうです。

尚、関西にお住まいの方は今月28・29日に開催される「河内の郷土サークルセンター25周年記念」イベントにもお出かけ下さい。
場所は大阪商業大学、近鉄奈良線・小阪駅下車北東へ徒歩5分です。

両日共に「河内人の物語」と題して各サークルによる記念展示と、次のようなプログラムが予定されています。
時間は10時から16時まで。
入場無料。先着300名様にプレゼントを進呈します!

11月28日(土)
   10時〜    記念式典
   11時〜    祝いの舞 (山村若佐紀)
   13時30分〜 出版記念フォーラム 
           記念講演「『河内文化のおもちゃ箱』と記憶遺産」
             講師 浅野詠子氏(ジャーナリスト)
           ミニシンポジューム

11月29日(日)   
   10時〜    記念展示の解説
   13時〜    記念講演会「考古学から見た河内」
            講師 水野正好氏
   15時〜    民謡コンサート
            「河内木綿織り屋節」他
            井上整憧と井上邦楽会

私も28日は式典に間に合うように馳せ参じたいと思います。
懐かしい役員さんたちに「おめでとう!」を申し上げ、読書会の方々ともお目にかかるのを楽しみに・・・


posted by 優子 at 14:35| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年11月16日

『河内文化のおもちゃ箱』、発売日の今夕拝受!

先週初めに発送して下さった『河内文化のおもちゃ箱』が先週末になっても届かず、今夕、MIKIOさんが当駅までお持ち下さった。メール便の追跡調査によると、12日に我が家の郵便受けに届いたことになっているらしいが・・・。

MIKIOさんが当駅よりもう少し先の駅に御用がおありとのことで、お言葉に甘えてご好意をお受けした。次の電車が来るまでプラットホームでの15分間は、本ができるまでのことやご苦労話など矢継ぎ早に伺う楽しい時だった。今の私には異世界の出来事のように不思議に感じた。

折りしも今日が発売日、待ちに待った本はこれだ!

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掲載文1.jpg

ブログに掲載する写真は低画質にしているのでわかりにくいが、上の写真は太宰治『パンドラの匣』の舞台となった孔舎衙健康道場で、その下の写真は主人公「ひばり」のモデルになった木村庄助氏だ。

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このページの写真は、「竹さん」と「マア坊」のモデルになった女性が写っている。文末にある私の所属は「日本クリスチャンペンクラブ」と記されている。

道場を発掘された浅田高明先生が、快く写真を掲載させて下さったことを心から感謝している。先生にはMIKIOさんにお願いして先週ご送付して頂いた。

MIKIOさんには最初から最後までお世話になった。
今年3月24日には現地を案内して下さったおかげで、思いもしなかった有意義な取材となり(当カテゴリ・3月25日付け、「ついに道場に立った!」に収録)、その直後にこの文章を書き上げたのだった。

この頃はたびたび孫を預かっていたので時間を取れず、その合間を縫って1月半ばから3月末の締め切り直前に仕上げた作品である。

『河内文化のおもちゃ箱』は、東大阪市内にある栗林書店とヒバリヤ書店はもとより、ジュンク堂、旭屋、紀伊国屋書店・・・など、全国の有名書店にて本日より販売されている。
また、最寄の図書館にリクエストして下されば購入してもらえるので、是非図書館で手にとってお読み頂きたい。

今週末の日本クリスチャンペンクラブ関西ブロックの研究例会でもご紹介し、掲載文を配布させて頂こう。

MIKIOさんの電車をお見送りして改札口を出ると、すっかり暗くなっていた。
季節は今日から冬に入ったようだ。

posted by 優子 at 23:46| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年11月10日

『河内文化のおもちゃ箱』、既にアマゾンにも出ていた!

昨日、河内の郷土文化サークルセンターの役員をされているMIKIOさんから、読売新聞に掲載された『河内文化のおもちゃ箱』の広告記事を添付して下さり、執筆者には発送の手配をして下さったとのメールを頂いた。

検索してみると、既にアマゾン(ネット通販サイト)でも見ることができた。新刊書の紹介をしている「版元ドットコム」や発行元である批評社のサイトには次のように紹介され、発売予定は16日になっていた。

紹介
「河内もん」の世界を描いた今東光、グリコのおまけ博士宮本順三、東洋のハリウッドとうたわれた帝国キネマ長瀬撮影所、庶民文化の発明品である回転寿司。近世以降独特で多彩な商業文化を育んできた河内を様々な角度から眺める河内文化のインデックス。

大和川によって形作られる河内地域は、古くより水陸交通の要衝の地であり、日本史において幾多の分岐点となってきた。『記紀』において神武天皇がナガスネヒコと戦いを繰り広げ、聖徳太子が物部守屋を破った地である。

以後、南北朝時代には楠木正成が河内往生院で決戦に臨み、大阪の陣の戦場ともなった。幾多の争乱を経て、河内の地域は「河内もん」に象徴される反骨心を育んできた。

多くの政争の場となった河内地域は、有名な1704年の大和川付け替え工事によって豊かな農業地域となり、綿作等の商業作物栽培によって富農層が誕生した。

近代になると大阪電気軌道の開通によって大阪船場の商人や企業経営者、文化人が移り住み、独特の商業文化を生み出しはじめる。歴史的に育まれた反骨と進取の気質は、民間開発による人工衛星「まいど一号」の打ち上げに表されるように、21世紀になった今なお河内の人びとのこころと文化に息づいている。

目次
序文 U—BOX〔大学の箱〕とおもちゃ箱(谷岡一郎)
インタビュー 無量の光の中で——河内とわたしの考古学(水野正好)
総論——1 河内イメージの形成と展開——河内の文芸史(石上敏)
総論——2 河内・おもちゃ箱の世界(河内の郷土文化サークルセンター)
エッセイ 『河内文化のおもちゃ箱』と記憶遺産(浅野詠子)

■河内のおいたち

河内平野のおいたち(別所秀高)
河内の渡来人(田中清美)
馬と船——河内と東アジア(山野隆雄)
皇紀二千六百年の孔舎衙(中谷作次)

■河内の古代・中世
幻の河内大橋(安村俊史)
横野の万葉歌と犬養孝(大東道雄)
古代山城・高安城の歴史と発見(棚橋利光)
河内玉櫛——楠木正成の生まれた地(関谷広)
楠木正行の墓(滝住光二)
織田信長と若江城(勝田邦夫)
大坂城石垣の石材——生駒山西麓の石切場(館邦典)
大坂築城の石奉行 足立家の墓碑(田中絹子)

■河内の宗教的世界

河内往生院の多様性——生駒山の宗教的世界(小林義孝)
民俗学者赤松啓介と生駒の神々(小林義孝)
コリアタウンと生駒山系の韓寺〔朝鮮寺〕(゙奎通)
戦国時代の河内キリシタン(神田宏大)

■近世の河内と大坂

付替え前の大和川の治水と開発(小谷利明)
柏原船——近世河内平野の大動脈(吉村馨)
舟板塀に魅せられて(杉山三記雄)
河内木綿の生産と新田経営——鴻池新田の分析から(井上伸一)
鴻池新田会所史跡指定奮闘記(天竹薫信)
河内木綿再生へ(中井由榮)
水車〔踏車〕——河内を流通する民具(川口哲秀)
水車〔踏車〕と平野屋新田会所(小林義孝)
近世河内の庄屋と地域社会——『日下村森家庄屋日記』を資料として(浜田昭子)

■近世河内の文化

生駒山人と上田秋成(浜田昭子)
慈雲尊者と梵字研究(横田明)
近世河内の文化人二人——医師芦田梅三と国学者岩崎美隆(伊ヶ崎淑彦)

■河内の伝統と習俗
河内音頭は、民謡か?——そのなりたち、そして今(村井市郎)
雑記帳 河内の方言(後藤利幸)
河内相撲(大西英利)
石地蔵伝承あれこれ——大阪府中部編(三村正臣)
今東光・河内風土記の世界(伊東健)
今東光著『悪名』について(井上万里子)

■河内の近代
おまけ博士の 河内から世界へ発信——井の中の蛙 大海を知る(樋口須賀子)
大軌物語(黒田収)
帝キネ界隈(荻田昭次)
稲荷山遊園地と谷崎潤一郎(浜田昭子)
太宰治『パンドラの匣』の舞台は孔舎衙健康道場だった!(藤本優子)
司馬さんのいた町——鶴橋・猪飼野から守口・八尾へ(足代健二郎)
河内の戦争遺跡——日常の中の戦争痕跡(大西進)
大東ヒストリー——水の恵み、水の災い(古崎勉)
人工衛星まいど一号の推進力——東大阪のものづくり(成瀬俊彦)
河内の回転文化(黒田収)

著者プロフィール
水野正好(ミズノ マサヨシ)
昭和9(1934)年、大阪市生まれ。大阪学芸大学卒業。奈良大学名誉教授、(財)大阪府文化財センター理事長。専門は日本宗教考古学。宗教、まじないなど精神世界の考古学的研究を進める。
主な著書に『土偶 日本の原始美術』(講談社)、『島国の原像』(角川書店)など。研究論文多数。

河内の郷土文化サークルセンター(カワチノキョウドブンカサークルセンター)
昭和58(1984)年創立。中河内地域(柏原市・八尾市・東大阪市・大阪市東部・大東市)などで活動する25の文化サークルセンターで構成。大阪商業大学の支援を受け、同大学谷岡記念館を活動の拠点とする。機関誌『あしたづ』を発行。

8日の自治会役員会にはチラシとサークルセンター会報を持参し、終了後に今月末のイベントを皆さんに紹介した。当地は東大阪や八尾から移って来られた方が多いので、関心を示して下さったように思う。

昨夜、添付して下さった広告写真を拡大して見ると「A5版、360ページ、定価2940円」とあり、「A5版」の大きさを聞きたくて早くからベッドに入っていた夫のもとへ行った。

「A版の紙を16切りしたもの」という説明だけで、具体的な大きさがわからない。B版と違って大きいサイズだからと大体の予想はついた。
明日が楽しみだが、校正後の要望を承諾して下さったものの、写真をどのように仕上げて下さったのか気になるところでもある。

夫は昨夜から喉の具合いが悪くなって早くベッドに入ったが、今日は営業に出たついでに紙商組合の診療所を受診したそうだ。その時は38度2分も熱があったという。がく〜(落胆した顔)
検査の結果、幸いにして新型インフルエンザではなかったが、幼児がいるので緊張感が走る。


夫は昨日も一昨日も孫をお風呂に入れてくれていたが、しんどくなかったのだろうか。もう若くないのだから、今日は少しでも早く帰って来ればいいのに・・・

夕食後は36度2分だからとお風呂に入り、上がってきた時は寒気がすると震えていた。若い時と同じようにしているととんでもないことになる。
私は昨夜に続いて今夜も茶の間で寝ることにしよう。

posted by 優子 at 23:25| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年10月20日

「河内の郷土文化サークルセンター創立25周年記念」ご案内

日時:11月28日(土)・29日(日)、10時〜14時
場所:大阪商業大学 ユニバーシティーホール「蒼天」 
   (近鉄奈良線小阪駅下車、徒歩5分)
入場無料。
先着300名に、ハウス食品(株)の提供によるプレゼント進呈。

「河内人の物語」と題して2日間に渡って記念展示があり、次のようなプログラムが組まれている。
11月28日(土)
   10時〜    記念式典
   11時〜    祝いの舞 (山村若佐紀)
   13時30分〜 出版記念フォーラム 
           「河内文化のおもちゃ箱」

11月29日(日)   
   10時〜    記念展示の解説
   13時〜    記念講演会「考古学から見た河内」
            講師 水野正好氏
   15時〜    民謡コンサート
            「河内木綿織り屋節」他
            井上整憧と井上邦楽会

さて、記念本『河内文化のおもちゃ箱』が、いよいよ11月10日に全国の主要書店で発売される。批評社刊行、定価(予価)は3000円。

河内と言えば、河内弁、河内音頭、今東光、司馬遼太郎、大和川付替え、回転寿司発祥の地、中小企業、最近では人工衛星「まいど1号」など、大阪市の東側、中河内地域(柏原市・八尾市・東大阪市・大東市)の歴史と文化が脳裡に浮かぶ。

そして、「太古の昔からさまざまな文化を育み、多彩な歴史を形成してきた」河内の多様性を、おもちゃ箱を覗いたような内容に編集し、「河内文化のインデックス(索引)」のようにまとめたのが『河内文化のおもちゃ箱』である。

監修は奈良大学元学長で名誉教授の水野正好氏、編集は河内の郷土文化サークルセンターである。

その一部をご紹介させて頂きたい。
「河内イメージの形成と展開−河内の文芸史−」を執筆されている大阪商業大学教授の石上敏氏は、役員をさせて頂いていた時に面識があり、大変興味深くお話を聴かせて頂いた。(過去ログ:2007年11月19・20日)
また、今年の日本キリスト教文学会で会員名簿に石上先生のお名前を発見した時は驚いた。文学についても親しくお話したい方である。

「戦国時代河内キリシタンの世界」を執筆されている神田宏大氏は野崎キリスト教会の牧師である。今年2月8日のブログ(「野崎観音はキリシタンの寺だった」)に書いたように、野崎観音がキリシタンの寺であることを発掘された牧師だ。

「おまけ博士の河内から世界へ発信」は、グリコのおまけの創始者・宮本順三の娘さんが書いておられる。八戸ノ里駅近くにある宮本順三記念館は私たちの年代にとっては懐かしい空間だ。 

この他、
「河内音頭の世界」(村井市郎・河内音頭研究家)
「河内のなりたち」(別所秀高・鴻池新田会所)
「河内の渡来人」(田中清美・大阪市文化財協会)
「皇紀二千六百年の孔舎衙」(中谷作次・新聞資料館)
「幻の河内大橋」(安村俊史・柏原市立歴史資料館)
    ・
    ・
「帝キネ界隈」(荻田昭次)
「稲荷山遊園地と谷崎潤一郎」(浜田昭子)
「太宰治『パンドラの匣』の舞台は、孔舎衛健康道場だった!」(藤本優子)
「人工衛星まいど1号の推進力」(成瀬俊彦) 
など、15の論考に29の小論が掲載されている。

本が刊行されたら、「河内の郷土文化サークルセンター会報」に広告掲載して頂いている関係から、協同組合・大阪紙文具流通センターに1冊贈呈して頂けるとのこと。流通センター事務局サロンの蔵書として多くの方々に読んで頂きたい。

紙と文化の関係にあやかって、企業団体と地元の文化団体と重なり合う関係になれればいいなと思う。
例えば、紙と文具の卸商が東大阪長田の地に結集して40周年を迎えるにあたり、40周年記念事業を開催するならば文化的な講演会をプログラムに加えるのはどうだろう。

当団体は市の著名人の集まりであり、多方面にわたる研究者の集まりなので、商業から文化的なテーマまで講演会の要望に応えてくれるだろう。
各企業が自国(地元)との関係を築きながら自国他国で存分に経済活動を発揮してほしいものである。

ついでながら、有名な岡山県の桃も、元は東大阪の稲田(長田のすぐ近く)の桃を原種としているとのこと。当時の絵を見せてもらったことがある。
かつてこのあたりは桃畑が広がり、今の流通センター附近一帯は蓮根畑だったそうだ。だから地盤が柔らかい。

ところで、拙文のタイトルは愚題だったかも・・・。
「太宰治『パンドラの匣』の舞台、孔舎衛健康道場」にすればよかったかな?そんなことを思いながら発刊を楽しみに待っている。

10月21日午前9時追記:

MIKIOさんに教えて頂いていた10月3日の『パンドラの匣』試写会に行けなくて、浅田先生にもお目にかかれなくて残念だったが、久々に「今どーなってるの?!東大阪」(http://www.do-natteruno.com/con_a/a25/a25.html)を訪ねると、その様子が掲載されていた!

画面の5つ目の写真、「『パンドラの匣』試写会&座談会」の写真にカーソルを置いて頂くと見ることができる。
写真左から木村重信さん(作品の主人公・「ひばり」のモデルになった木村庄助氏の実弟)、作品の舞台発掘者・浅田高明先生、映画監督、ミッキー・カーチスさん。

昨日、浅田先生に25周年記念のご案内をお送りした。
もう一度、懐かしい商大で先生とお目にかかれるならば、こんなに嬉しいことはない。



posted by 優子 at 23:35| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年07月14日

「孔舎衙健康道場そのものが『パンドラの匣』だったような気がする」

今秋10月10日にテアトル新宿を皮切りに全国で順次ロードショーされる『パンドラの匣』の公式サイトがある。数日前に見つけたところだった。
その予告動画では道場内の雰囲気は資料に忠実だったが、「やっとるか」、「やっとるぞ」、「がんばれよ」、「ようしきた」という挨拶表現は、私の印象とはいささか違っていた。

本の刊行と共に秋が待ち遠しくなっていた今日、映画館で配布されているチラシと映画制作に関する冊子を浅田高明先生が送って下さった。

冊子には富永晶敬監督の話、出演者の紹介、裏話などが書かれてあり、浅田先生も4ページに渡って執筆されている。

「いずれにしても私には、孔舎衙健康道場そのものが『パンドラの匣』だったような気がする。」

これを読んだ時、文学的にというだけではなく、先生がこれまで歩んでこられた結晶、真に生きた者だけが見出せる真理と出会った喜びが私の体内にも流れ込んでくるのを感じた。


そのことを書き留めておきたくて走り書きした。
先生にお礼を申し上げるよりも先にブログに向かってしまったので、今からお礼メールを書こう。

posted by 優子 at 22:31| 読書会関係 | 更新情報をチェックする

2009年07月09日

我がブログ人気記事ベスト4!

毎朝前日のアクセス数とアクセス先を見るのが日課になっている。春の頃より「国際平和協会」(http://jaip.kitaguni.tv/e871672.html)からのアクセス数が多くなっており、今朝もそこから訪問して下さっていた。関心を持って下さっている内容は賀川豊彦である。

『国際平和協会』ブログの3月2日付け記事には私のブログが紹介されている。今読み直しても嬉しく励ましを感じるのでその部分だけ転載して記録させて頂こうと思う。
2009年03月02日
賀川豊彦関連ブログ
 日々、ネットで「賀川豊彦」を検索して賀川関連のブログを探し始めて3カ月が経つ。こころなしか賀川に感心を持つ人が増えているような気がする。2月は「メメント ドミニ」が4回続きで賀川と取り上げている。7−9日は神戸大学主催のシンポジウムでバングラデシュのユヌス氏が来日する。講演会のチケットはすでに「完売」(もちろん無料だが)、事務局はうれしい悲鳴をあげている。・・・・

2009年02月26日 賀川豊彦の人物を描いた作品 高原幸男のブログ
2009年02月18日 「勝利者 賀川」" conqueror Kagawa "  メメント ドミニ
2009年02月16日 賀川豊彦の遺書 メメント ドミニ
2009年02月15日 賀川豊彦に学ぶ社会的正義 メメント ドミニ
2009年02月12日 我が魂に賀川豊彦の春一番が吹いた! メメント ドミニ
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ついでながら過去ログでよくアクセスがあるのは、野崎観音がキリシタンの寺であったことをご紹介した記事と、ハレルヤコーラスについても根強い人気がある。

そして、何と言っても2009年上半期のベスト1は、太宰治著『パンドラの匣(はこ)』の舞台が孔舎衙(くさか)健康道場だったことを取り上げた記事である
今年6月に太宰生誕100年を迎えたこともあり毎日のようにアクセスがある。

そのことを発掘された浅田先生のご協力とお励ましによって書かせて頂いた拙文が、今秋刊行される『河内文化のおもちゃ箱』に掲載される。ちなみに、野崎観音がキリシタンの寺であったことを発掘された神田牧師も「戦国時代の河内キリシタン」について書いておられる。

その後ご無沙汰しているが、浅田先生はお元気でお過ごしだろうか。
パンドラ関係のページへのアクセスを見るたびに先生に想いを馳せて神の守りをお祈りしている。

5日に蝉の初鳴きを聞いてから耳にすることはなかったが、今朝はアブラゼミではなく夏の初めからクマゼミが鳴いていた。
蝉が命を燃やしている間に私の情熱をもう一度燃え上がらせたいと思う。

posted by 優子 at 10:22| 読書会関係 | 更新情報をチェックする