2007年04月19日

重荷を下ろして重さを知る ―父母に捧ぐ―

4月17日に発行された読書会会報『かわちの』第55号に現在の想いを綴った。

      重荷を下ろして重さを知る
                 ―父母に捧ぐ―


子供達が巣立ち、養育の重荷を下ろしてからその重さに気がついた。そして、今になって親としての自覚を持ち始めたような気がする。遠くから我が子を見守る立場になって初めて私は、父と母が私をどんなに愛してくれていたかわかるようになった。

大きく時代が変わったことや状況の違いもあるが、私が結婚する時に両親にしてもらった十ぶんの一さえ娘達にしてやれなかったことを不憫に思う。

母は「財産分けのつもり」と言って、十分な嫁入りのこしらえをしてくれた。それら目に見える品々よりも遥かに超えて、これまで受けてきた両親の愛情が痛いほど身に沁みる。

父は、「僕が老いて死んでいくことよりも、子供たちが年老いた時のことを思うとかわいそうでな。」と言っていたが、兄からも同じ話を聞いて共に父母を偲んだことであった。

ご近所の方に教えて頂いた「親に受けた恩を子に返す」という言葉から、不肖な私は深い慰めを感じたものだ。

「おのれ生ある間は子の身に代わらんことを念(ねが)い、おのれ死に去りてのちには、子の身を護る(まも)らんことを願う。」と、『父母恩寵経』にあるらしい。
この想いこそが親の想いなのだ。

両親には何一つ孝養を尽くすことができなかったが、父母が愛してやまなかった娘が良き人生を全うすることを喜んでくれるに違いない。


年を取りながら本当の親になり夫婦になっていきたいと思う。人生の大海に漕ぎ出して行った娘達を背後で祈りつつ、我が人生の仕上げに入っていこう。

                     〈完)


17日の読書会の帰り、車内で見たスポーツ紙の「32名射殺」の文字に震えた。帰宅してテレビをつけると、アメリカでとんでもない事が起こっていた。その夜には長崎市長が銃弾に倒れ、夜半に亡くなられた。

「人間が犯す罪の責任はいったい誰にあるのか、被造物である人間にか、それとも人間を罪を犯すことができるようにした神に責任があるのか・・・」など、方向性を間違いかねない疑問も脳裏をよぎる。

言葉が出ない。
ただ悲しくて、悔しくてならない。
韓国人の犯人の家族もまた、何と言う悲劇であろうか!!
posted by 優子 at 17:02| 掲載文(父母) | 更新情報をチェックする

2006年12月15日

17日は結婚30年周年

かつて、「トゥルニエ読書会」でクリスチャン精神科医の工藤信夫師は、「60歳までは夫婦の危機がある」と仰っていた。
離婚のリスクが低くなるまであと10年か・・・と私は笑っていたが、それからまた5年過ぎて明後日17日には結婚30周年を迎える。

「あなたが結婚した相手ほど、あなたの弱さと強さを知っている人が他にいるでしょうか。」と、ドレッシャー牧師は語る。
たしかに、もはや両親よりも夫の方がはるかに私の全てを知っているし、夫についても同様である。結婚25周年を迎えた時、私は初めて夫婦であることを実感したように思う。

その時は既に夫の両親の傍に住まいを移していて、その直後に最も大きな衝撃を経験していた。あの時、夫は初めて問題を実感し始めたのではなかったかと思う。その後も大きな危機があったし、これからもあろうが、選ぶ答えは決まっている。
結婚25周年の時に刻んだ想いをここに記録しておきたい。

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「25年目の結婚指輪」

私達夫婦は、それぞれ7回目のお見合いで結ばれ25年が過ぎた。私にとっては、両親のもとにいた年月と同じ時間であり、ようやく互いの成長バランスを取り始めたように思われる。
これまでに一度だけ結婚記念日を祝ったことがあるが、今回は銀婚式だから祝会をしようと話していた時、
「結婚指輪を作ったらいいよ。」
と次女が言った。

結婚時、夫は「男が指輪をするのはかっこ悪い。」の一言で、私の願いに気をとめることもなかった。私の指に納まっているはずの指輪も、結婚して10年が過ぎた頃には消失していた。いや、本当のところは高慢不遜にも自ら外して捨ててしまったのである。

それまで何の苦労も知らずにきた私も、このあと苦難と無我夢中の中を通された。今は哀歓愛憎も一つの段階を経たように思われるが、書くにはまだまだ筆が生々しくなる。

両親を天に送り、今まで私を覆ってくれていた人生の屋根が取り払われたようで心細く思うが、もう今までのように弱虫じゃないぞという気持ちもある。

さて、娘の提案に飛びついた私達はデパートの宝石売場へ走った。
どの指輪にしようかと熱心に選ぶ夫の姿を見て、過ぎた日々がいとおしく感じられた。一週間後に、<1976.12.17 R to Y> <1976.12.17 Y to R>と刻まれたリングをそれぞれの指にはめ、その夜、母教会の燭火礼拝に導かれた。

思いもかけない神様の万全なご配慮に驚き、深い感謝と喜びに満たされた。
今後は二人が一致し、いよいよ真の愛に成長していくことができますようにと共に祈った。

姑は、「男の人が指輪をするなんて」と25年前と同じことを言ったが、私の両親は心から喜んでくれていることだろう。私の耳に鮮やかに父と母の声が聞こえる。そして、長い間忘れていた春の感情が萌え出した。

私は今、人生の新しいページをめくろう。
天気は実に明朗で、私の魂は横溢している。 

      (東大阪読書友の会会報 2002年4月発行
                  『かわちの』第5号より転載)

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この夜、次女は外出先から直接教会へ行ったが、私達夫婦と長女は千里さん宅で夕食をご馳走になり、食べ立ちで教会へ見送っていただいた。
この時はもう父も母も逝ってしまっていなかったが、実家へ帰った時のように愛を受けた。千里さんご夫妻と神さまへの感謝を忘れない。
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今年は娘二人ともが一気に去っていき、夫婦二人に戻った。
さて、17日はどのように過ごそうか。
posted by 優子 at 10:50| 掲載文(父母) | 更新情報をチェックする

2006年10月26日

母を偲ぶ E ―母の死―

1996年10月25日、午前1時28分、母は70歳の生涯を終えた。
与えられた生を生き切り、一切の苦しみから解放されて懐かしい我が家に帰った。
私はこの時、夜が明けないで、永遠に真っ暗な夜が続けばいいと思った。今振り返ってみても、死後の強烈な悲嘆にある時は、なんと痛ましく危機的な状況だったことだろう。

特に最初の一ヶ月は、情緒的に麻痺した感じに捕われた。
虚無感と脱力感だけではなく、成しえた僅かなことの喜びよりも、成し得なかったことの大きさを悔い、良心の呵責と不全感に苦しんだ。
そして、「なぜ、私の心に平安がないのですか」という神への怒りと絶望など、苦痛を伴う感情がうねりとなって押し寄せてきた。
これらの喪失感は妥当なものであるが、何とかしてこの混乱から抜け出さなくてはという焦りもあった。

あれから3ヶ月が過ぎ、ショックもかなり和らいできた。
神への想いも、私が神を信じられないということではなく、死後直後の混乱した私の両義的な感情だったということも理解できるようになった。

そして、人生のごとき深遠な問題は解決するというよりも、むしろ向き合わなければならないこと。生涯の終わりまで生きる意味を問い続けることこそが、尊いことなのだという思いにたどり着いた。

「人は喪失を忘れるのではなく、それに馴れるのである」と、臨床心理学者が言っている。
年月は悲しみを和らげることはできても、消し去ることはできない。死別の悲しみは、人間の力ではどうしようもない悲しみであり、ただ神によって慰められる悲しみであろう。

母の死と共に私の体内に宿った母。
それでもやはり、私は常に亡き母の姿を探し求めている。しかし、兄や妹と共に私こそが母の愛児であり、母の世に残した何よりの形見だと思うと、私自身がいとおしく、涙のうちにも微笑むことができる。
そして、私以上に悲嘆に暮れている父を慰めたい。寄り添ってあげたいと思う。


忍耐強く不言のうちに実行した母。
多忙な中にあって保護司や民生委員としても何十年もの間、労を惜しまなかった。その功績に対して、数年前に名誉ある称号が授けられたことを亡くなってから知った。そのような母の生き方が今後の私の道しるべとなってくれるだろう。

私は母を失うまで幸福な愚者の一人だった。
今ようやく、人の心の悲しみを知ることができる人間になりえたのだと思う。
神はこれからの私に何をせよと求めておられるのだろうか。
私は今、神を身近に感じている。



        東大阪読書友の会 1997年4月発行
              『かわちの』45号より転載
posted by 優子 at 08:47| 掲載文(父母) | 更新情報をチェックする

2006年04月17日

娘として 母として

長女が中学校に入学した頃から、私の中で母の姿がクローズアップされてきた。
私自身が子供だった頃の母の姿だ。そのような時、私の子供時代のことや母親である現在の自分のことと共に、3つの人生が重なって見える。

母は今(10年前のこと)、最期の病床にある。
もう食べることも飲むことも話すこともできない。しかし、思考力や感情はしっかり残っている。
私は唯一の意志伝達法である母の瞬きを通して母の想いを探るのだが、「はい」と「いいえ」でしか答えられないような内容に限られてしまう。

判らない時は、文字板で一つの単語を1時間近くかけて判読する。
何という苛酷な生かされ方だろう。
歩く・食べる・話すなど、全て当たり前と思っていたことが、今の私には眩しいぐらい輝いて見える。

しかし、苦難の中にあっても神は良きことをして下さる。
母が元気だったらお互いに忙しいからと、こんなに会えなかったであろう。
私は母と共に過ごす時間のあらゆる小さなことも、どんな瞬間をも何一つ逃さずに脳裏に刻みつけよう。
苦難の連続であった難病との長い闘い。
しかし、母は和らいでくれているに違いない。
「これが反対でなくてよかった。娘が病み、私が看取るのでなくてよかった。」と。

「子供を育てていた時が一番幸せだった」と、懐かしそうに言っていた母。
私の娘たちも18歳と15歳になり、子育てもあと僅かだ。
時が来て、この子達が私達のもとから安心して飛び立っていく日まで、成長を見守りながら子育ての大役を果たしていこうと思う。

当たり前の幸せを深くかみしめながら。

       (東大阪読書友の会会報 1996年4月発行
                   『かわちの』第44号より転載)

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今からちょうど10年前の4月に掲載されたものである。
この春、長女は大学に次女は高校に入学した。
この頃の私は七転八倒の日々、苦悩の極致に達していた。
安らぎのなくなっていた家庭を再建しながらの母の病床通いだった。

私はクリスチャンになってまもなく「瞬きの詩人」と言われている水野源三を知った。
源三は昭和21年夏、小学校4年生の時に罹った赤痢がもとで手足の自由を奪われ、見聞きすることはできるものの話すことができず、目で51音の文字板を追って瞬きで意思表示をした。
そして、多くの詩を産み出したことから「瞬きの詩人」と呼ばれている。

まさか、このことが参考になろうとは思いもしなかった。

しかも、母の場合はもっと悲惨だった。
「眼振」という症状があるため、物が二重や三重に見えるのだ。
そのために源三のように必要な文字を読み取ることができないため、一つの単語に1時間かかることもあり文字板さえ役に立たず、主治医の表現を借りれば「この世の地獄」だった。

この文章を父に読んでもらった時、
「苦難の連続であった難病との長い闘い」のところに異議を唱えた。
「『連続であった』ではなく『連続である』」だと言った。
父の悲しみを深く知りつつも、やはり私の気持ちはこの表現でしかなかった。
母は教科書通り発病後10年を経てこの半年後に召されたが、もっと命があったところで私には同じだった。
この逸話を娘達にも伝えておきたいと思う。
posted by 優子 at 10:01| 掲載文(父母) | 更新情報をチェックする

2006年03月01日

父母に捧ぐ 受け継がれるもの

2001年5月の『広報かしば』に顔写真入りで掲載されたものである。

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     受け継がれるもの

今年、次女も成人式を迎え、素晴しい子育ての季節が終ろうとしている。
私は子供の成長に気をとられていつしか人生の半ばを過ぎた。
結婚して24年が経ち、まもなく両親のもとにいた年月と同じ時間が流れる。

長女が中学校に入学した頃から、私の中で母の姿がクローズアップされていった。
私が子供だった頃の母の姿だ。
わが子の成長と共に、子育ての大任に目が開かれていったのであろう。
と同時に、両親の深い愛と子供が賜物であることを深く味わえるようになった。

父と母は言葉で教え、自らの生き方を通していかに生きるかを示してくれた。
悩みや苦しみが意味を持つかどうかは、その人自身にかかっている。
また、感謝や真の喜びは状況によらず、自分の内側から湧き出てくるものであり、
人はそれぞれの成熟の度合いにふさわしいものを受けている。
私の人生も年を取るに連れてますます開花し、自分自身の内に多くの喜びを見出す者となりたい。

娘達は今、自分の根を下ろし枝を張ろうとそれぞれの道を歩み始めている。
この子たちがこれからどのような人生を築き上げていくのか、私は幸せな期待に胸をふくらませている。そして、父母の教えをその孫たちも受け継ぐことができるように、私も良き人生を全うしたいと願う。

未来を語り合う二人は、若い命が眩しいほど輝いている。

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月に一度発行される市の広報誌に「ペンリレー」という紙面がある。
内容は自由で執筆者が次の執筆者を選んでいくから「リレー」というわけだ。

執筆のご依頼を受けたのは関屋に移って2年も経たない頃であり、2000年8月に父が亡くなって半年後のことだった。
この家からも1年4ヶ月、父の病床に通えてよかったと思っている。
母も父も私の終の棲家になるであろうこの家に来てくれることはなかったから、病床であってもせめて生きている父に触れて帰宅することで、父の思い出をこの家に残すかのような心境だった。

ついに父まで亡くなってしまい、私は半年間くらい写真の父の顔さえ見ることができなかった。
悲しくて目を合すことができなくて写真の前を通る時は目を避けた。
「お父さん」とも呼べなかった。
たぶん、父が死んだという現実に向き合いたくなかったのだろう。
11月半ば頃だったと思う。
犬の散歩の帰り道で、私は勇気を出して小さな声でそっと「おとうさん」と呼んでみた。
すると一気に涙が溢れて私は自宅に走って入り号泣した。

そんな悲嘆の頃に執筆依頼を頂いたのである。
その時、このこともまた神様からのことだとはっきりわかった。
そしてこれを書き上げた時、悲嘆のプロセスを一歩進めることができたように思った。
もう5年5ヶ月も経っている今も涙が溢れた。
posted by 優子 at 11:06| 掲載文(父母) | 更新情報をチェックする