2017年11月14日

「祈りが叶えられない意味」―渡辺和子さん最後の著書より―

「願ったことが叶えられなかった時の落胆や失望には計り知れないものがあります。でも、そういう切なさ、つらさこそが、実は人間が成長してゆく上で『本当にたいせつなもの』『必要なもの』だったのだと、いつか必ず気づく日があるものです。

時間の使い方は、いのちの使い方。たった一度の人生をどう生きるか?」

(以下は『クリスチャン・トゥディ』より)

image.jpg89歳で帰天した著者が、最後に遺した書・『どんな時でも人は笑顔になれる』は、ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが2016年12月30日、89歳で帰天する10日前に校閲を終え、今年3月に出版された最後の著書。本書のテーマは、祈りがかなえられない意味。

「はじめに」でも、子どもの幸せを祈ったのに、進学や就職の失敗、病気などで落胆し、失望することが多い人生の現実に触れる。しかし、その時の「切なさ、つらさこそが、実は人間が成長してゆく上で『本当にたいせつなもの』『必要なもの』だったのだと、いつか必ず気づく日がある」とシスターは言う。

1927年、北海道旭川市で生まれたシスターは、冬の「すべてを浄化するような寒さ」が好きだという。父親で当時の陸軍教育総監だった渡辺錠太郎(じょうたろう)が2・26事件で銃弾に倒れたのも、大地を純白の雪が覆った寒い冬の日だった。

人生の冬、それは必ずしも秋の次に来るとは決まっていませんし、三カ月くらい続くものとも限りません。・・・(履歴書で)もっとたいせつなのは、書くに書けない「苦歴」とでもいったものではないでしょうか。・・・文字に表わすことのできない苦しみの一つ一つは、乗り越えられることによって、その人のかけがえのない業績となるのです。

シスターは幼い頃に目の前で父親が殺害されるのを目撃し、その後、18歳で受洗。29歳でノートルダム修道女会に入会し、36歳という異例の若さでノートルダム清心女子大学の学長に就任した。

それまでシスターは、丈夫で健康なのが当たり前と思って、人を厳しく見ることもあったという。ところが、多くの苦労を重ねる中で、50代の約2年間、うつ病で苦しむことに。その間も、学校での授業や仕事は何とかこなしていたものの、常に「私にはその資格がない」という自信のなさがつきまとう。

しかし、つまずいたおかげで見えてきたものもあった。責めることなく、弱い人にも心を注ぐことができるようになったのだ。

「費用対効果」などの言葉に代表されるように、経済的にいかに効率よく生きるかが求められる時代の中で、「待つことの大切さ」についてもシスターは語る。

お金にならない時間、得にならない時間、その意味では無駄と思える時間の中にしか愛情は育たない・・・。待たないですむ人生などありはしないのです。そうだとしたら、待つことの意味も知らなければならないでしょう。

「待つこと」は急ぐことよりも案外難しいのかもしれない。実は待つことへの恐れから、私たちは自らを急がせているだけなのではないだろうか。そんな私たちにシスターは「愛をこめた時間は、無駄にならない」と優しく語り掛ける。

また、「なぜ祈るのか、祈りは叶(かな)うのか」の項でシスターは、私たちが時に祈りに対して感じる疑問を次のように挙げている。

「もし私が祈ったことが全部叶えられたら、どうなるのだろう」「神様のお役目というものは、人間の願いを全部叶えることなのだろうか」・・・「いくら祈っても、所詮(しょせん)、神はご自分の好きなようになさるのだとしたら、祈っても、祈らなくても同じではないか」

その上でシスターはキリストの言葉を紹介する。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11:9−10)

ところが、さすがにシスターの見方は深い。「この言葉には、求めたそのものが与えられると約束されていませんし、捜したそのものが見つかるとも約束されていません」と指摘した上で、その後に続く「魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか」(11節)という言葉に注目する。

そして、「求めたものの『代わりに』何かをくださる可能性があることが示唆されています」として、神が人間の願いをそのままかなえることを自分の愛の証しとなさらないのは、「私たちはいつも“欲しいもの”を願っているからであり、神様が私たちに叶えてくださるものは、“必要なもの”だから」とシスターは言うのだ。

シスターが最後に書き記した言葉は、「自分にしか咲かせられない花を、どこに置かれても、精いっぱい咲かせよう」。

シスターにとって「花の人生」とは、幼い頃は、きれいなお嫁さんになること、10代後半は戦時中なので、平和でおなかいっぱい食べられること、20代は、華やかに若さを奔放に生きることだった。

しかし、いつしか健気(けなげ)に咲く「一輪の花」として生きることに変わってきたという。そこには、有名な「置かれた場所で咲きなさい」という詩との出会いがあった。

花の使命は咲くことにあります。他の花と比べて優劣を競うことにもなければ、どこに置かれるかにもなく、自分しか咲かせられない花を一番美しく咲かせることにあります。(140ページ)

最後は人生を花にたとえたシスター。その死を惜しむ声は今も絶えないが、シスターは天でも精いっぱい、それゆえに美しく花を咲かせていることだろう。

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2017年11月08日

安らぎのひと時 −金沢聖句書道展と聖句―

IMG_8824.jpgかつて我が家で持たせていただいていた家庭集会(オリーブの会)で、導き手になってくださっていた姉妹から「トラクトペン」を頂戴しました。

「トラクト」とは「小冊子」、特に聖書の言葉が書かれた伝道用のパンフレットのことですが、これは「トラクトペン」と呼ばれ、ボールペンの中に聖句の言葉が記されています。インクがなくなるまで読むことができていいですね。

このペンは聖句書道をされている方が作られたものです。金沢聖句書道展(名鉄エムザ:エムザギャラリーで開催)のことも知りました。
ユウチューブに挙がっており、ホッとする安らぎタイムに編集されていますので是非ご覧ください


「今この瞬間、月は時速約3700キロメートルで地球の周りを回り、地球は時速約10万7千キロメートルで太陽の周りを回っています。その太陽は、銀河系の2千億の恒星と1兆を超える惑星の一つにすぎず、銀河系は宇宙にある2兆個の銀河のひとつと言われています」。

IMG_8818.jpgこの壮大な宇宙を支配されている神さまが、私たち一人ひとりに深く心を寄せておられます。(詩篇 139篇1節〜18節)
主よ、あなたはわたしを探り、
わたしを知りつくされました。
あなたはわがすわるをも、立つをも知り、
遠くからわが思いをわきまえられます。

あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、
わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
わたしの舌に一言もないのに、
主よ、あなたはことごとくそれを知られます。

あなたは後から、前からわたしを囲み、
わたしの上にみ手をおかれます。
このような知識はあまりに不思議で、
わたしには思いも及びません。
これは高くて達することはできません。

わたしはどこへ行って、
あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、
あなたのみ前をのがれましょうか。

わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。
わたしが陰府に床を設けても、
あなたはそこにおられます。
わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、
あなたのみ手はその所でわたしを導き、
あなたの右のみ手はわたしをささえられます。

「やみはわたしをおおい、
わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、
あなたには、やみも暗くはなく、
夜も昼のように輝きます。
あなたには、やみも光も異なることはありません。

あなたはわが内臓をつくり、
わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
わたしはあなたをほめたたえます。
あなたは恐るべく、くすしき方だからです。

あなたのみわざはくすしく、
あなたは最もよくわたしを知っておられます。
わたしが隠れた所で造られ、
地の深い所でつづり合されたとき、
わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。

あなたの目は、
まだできあがらないわたしのからだを見られた。
わたしのためにつくられたわがよわいの日の
まだ一日もなかったとき、
その日はことごとくあなたの書にしるされた。

神よ、あなたのもろもろのみ思いは、
なんとわたしに尊いことでしょう。
その全体はなんと広大なことでしょう。
わたしがこれを数えようとすれば、
その数は砂よりも多い。
わたしが目ざめるとき、
わたしはなおあなたと共にいます。

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キリストの栄光教会の「今日のみことば」より:

「私が神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」。 (詩篇15篇16・17節)
自分の無力さを思い知り、絶望するのはよいことです。その絶望が祈りの原動力となるからです。自分の限界を越えているのに、何とかなるだろうと思って祈らないのは、人生の放棄にも等しいことです。絶望から主の憐れみを祈り求める人を、主は放っては置かれません。

「あなたの重荷を主に委ねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない」。 (詩篇55篇22節)
背負いきれない重荷を、わざわざ拾い集めて思い煩っていませんか。その重荷の圧迫が、あなたの考え方を悲観的にします。主に預けて、一旦忘れましょう。忘れている間に、主が解決の道を整えてくださいます。心も体も軽くなり、今、なすべきことが見えてきます。

「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう」。 (詩篇56篇11節)
神への全き信頼は、心から恐れを消し去ります。恐れが消えれば、どんな出来事にも冷静に対処できます。人の悪意や嫌がらせにも、過剰反応せずに済みます。人があなたの心を傷つけようとしても、傷つかない選択ができます。ただ、うろたえず、動ぜず、堂々としていましょう。全能の神が守って下さいます。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」。 (ローマ人への手紙 12章1節)
神に受け入れられる霊的な礼拝とは、自分を捧げることです。自分を捧げるとは、アベルのように自分の持つ最良のものを捧げることです。カインのように自分の理屈で考え、この程度でもいいという捧げ方では、神に喜ばれません。まず、最良の時間を捧げましょう。
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2017年10月11日

「憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。

014932s_mini.jpg4日連続28度〜29.2度という季節外れの暑さで、再びTシャツ1枚にハーフパンツで過ごしている。そんな昨日、小学4年生の孫は遠足で東大寺へ。若草山でお弁当を食べ、午後は奈良県庁を見学。来年の秋の遠足は二上山に登るそうだ。

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キリストの栄光教会より「今日のみことば」:
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。(ローマ人への手紙10章13節)
一日を祈りから始めても、忙しさの中で主を忘れ、思わぬ出来事が起こって狼狽し、自分の感情や判断で動いてしまうことがありませんか。心が激したまま、あるいは不安なまま、主をそっちのけにして行動してはなりません。一旦立ち止まり、主の御名を呼び求め、祈ってから、行動を再開しましょう。主は、求める者を必ず助けてくださいます。

「私は言った。『主よ、憐れんでください。私のたましいを癒してください。私はあなたに罪を犯したからです』」。(詩篇41篇4節)
この謙虚な悔い改めがなければ、何も始まりません。魂が癒されていないからです。立派なことを言っても、失敗に終わります。自虐的なことを言っても、沈んだ心はいつまでも沈んだままです。卑屈は高慢の裏返しです。今日のダビデの告白から始めませんか。主の憐れみが臨みます。

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」。(詩篇42篇5節)
いつまでも心うなだれ、思い乱れていてはいけません。無益であり、時間の無駄です。繰り返せば悪しき習慣になります。90秒以内に心を切り換え、自分の魂に呼びかけて、神をほめたたえ、待ち望むのです。絶望の循環から、祝福の循環への転換です。

「見よ。わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は失望させられることがない」。(ローマ人への手紙9章33節)
自分が見えていない人ほど、自分に頼ろうとします。失敗を繰り返しても、まだ自分を信じようとします。絶対に自分の弱さを認めません。そうした頑固な自信が、人生を、いや世界を破滅に導きます。自分の無力を認めることこそが、道を開きます。認めた者は、主への祈りから始めます。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」。(ローマ人への手紙8章31節)
ダビデは神を味方とする生き方をしました。そのゆえ、ダビデの敵は神の敵になりました。サウルは神に王として選ばれたのに、わざわざ神を敵とする生き方をしました。それゆえ、ダビデを敵視し、殺そうとしました。しかし、神を味方にする者にはかないません。へりくだり、神を味方にすることが、勝利への道なのです。


「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう」。(詩篇40篇3節)
「ブラジルの蝶の羽ばたきが、テキサスに竜巻を起こす」といわれます(バタフライ効果)。同様に、小さな賛美でも、驚くばかりの恵みの世界を開きます。心が震えて、喜びの歌が湧きあがります。その喜びと感謝の歌が、さらなる恵みを人々に広げます。主に喜びの声を上げましょう。2_onpu_ak.gif
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2017年08月01日

日野原重明さんの告別式説教

聖路加(ルカ)国際病院名誉院長の日野原重明さんの葬送・告別式が7月29日午後1時から青山葬儀所(東京都港区)で営まれ、約4千人もの参列者が聖書の言葉に耳を傾け、祈りと賛美に心を合わせた。

司式を務められた聖路加国際大学聖ルカ礼拝堂のチャプレン団、主任チャプレンのケビン・シーバー司祭の告別説教概要を『クリスチャン・トゥディ』より転載させていただいた。

聖路加病院のチャプレン.jpg敬愛する日野原重明先生が成し遂げられた偉業をこの場で一つ一つたたえても、たたえ尽くせません。ただし、キリスト教信仰においては、人の功績と天国への望みはまったく無関係です日野原先生もそのことはよくご存じでした。先生が長年温めてこられたこの信仰について少し説明させていただきます。

キリスト教信仰では、「すべての人間は神の憐(あわ)れみを必要としている罪人である」と考えます。聖書がいう「罪」とは、あからさまな大罪ではなく、自分の創造主である神に背を向け、神がいないかのように生き、神によって生かされている恩恵を認めないことを意味します。

その意味では、神を認めない世の中に生まれた人間は皆、罪人だといえます。人間がそんな風潮に流され、神に背を向けていることが、世の中のさまざまな苦難や悲劇の原因となっています。

それとは違う生き方、違う価値観に基づいた暮らし方をしようと思っても、なかなか難しいのが現実です。ところが、そういう人間でも、創造主である神は父親のようにとことん愛してくださいます。

そして、人間を罪の悲しみから解放するために、御子イエス・キリストを送ってくださいました。イエス・キリストは十字架の上で、罪人の代わりにご自身の命という高い代価を払って、私たちの罪の赦(ゆる)しを勝ち取ってくださったのです。

これを「福音」(良い知らせ)といいます。日野原重明先生はこの福音を子どもの頃からよくご存じでしたし、この福音は先生にとって大きな力となりました。先生のすべての功績は、こういう神の憐れみへのお返しだったといえます。

よど号ハイジャック事件の時、先生はそのことにより深くお気付きになりました。「神様が赦して、改めて命を与えてくださった」という強い確信をいだき、残された命をもって社会や人々に仕えようと決心なさったのです。

変動の多い時代を過ごしたクリスチャンドクターとして、日野原重明先生はこの神の憐れみをさまざまな活動を通して私たちに示そうとなさいました。一流の医療をはじめ、音楽、新老人の会の活動、子ども向けの「いのちの教室」などです。

神の憐れみは確かなものだからこそ、今日、私たちは確信をもって日野原先生を神様のもとに送り、天国での幸福を祈れるのです。

前掲の同記事に掲載されていた内容も興味深い。

シーバー司祭は、日野原さんが召天した日は立ち会うことができなかったが、危険な状態と言われた14日(金)夕方、自宅を訪問したという。

「まだその時は日野原先生の意識がクリアだったので、塗油式(病人の癒やしのためオリーブ油を額などに塗って祈る)をして、ご家族や院長らと一緒に賛美歌を歌って祈る時間を持ちました。その賛美の歌声を聞きながら日野原先生は涙を流し、お祈りの最後もしっかり『アーメン』と言われました。皆、言いたいことはちゃんと伝えて、すごくいい会話でした」。

司式をする上田司祭は、2003年からチャプレンをしていて、日野原さんとの関わりも十数年に及ぶ。

「5、6年前から日野原先生は、自分の死ぬ時に必ず鳴っていてほしいのがフォーレの『レクイエム』、特に『ピエ・イェズ』だと言っておられました。愛唱賛美歌は『丘の上の主の十字架』(『讃美歌21』303番)。

聖路加での合同のクリスマス礼拝などではいつも日野原先生があいさつをされるのですが、それがいつの間にかクリスマスの意味を伝える説教になっていました」。

日野原さんのクリスチャン医師としての姿はー

「つい最近まで、緩和ケア病棟に毎週木曜日のお昼頃、回診して、人生の最期を迎えようとしている患者さんの手を取り、医者としてごく自然に祈り、いい励ましと助言の言葉を掛けていました。何より日野原先生が部屋を訪問するだけで、すごく明るく変わったりする患者さんが多いです。延命効果があります」。

そうシーバー司祭が言うと、上田司祭が「日野原効果」と合いの手を入れた。「日野原先生は初めて会った患者さんともいろいろな話をされます。その上で短く、患者さんが疲れない程度に祈られます。それで回診から帰ってくると『今日の患者さんはこういう人だよ』とわざわざ私に言ってくれたりしました」。

「日本で病院に音楽療法を導入したのが日野原先生です」とシーバー司祭。

「日野原先生がずっと関わっていた患者さんがもうすぐ息を引き取るという時、私を呼んで、音楽療法士を連れて病室訪問したのですが、賛美歌を歌っている中で患者さんが亡くなられたのです。

そこにいた日野原先生は『こういう最期は素晴らしい。私もこういうふうに人生の終わりを迎えたい』と言われたのですが、まさに日野原先生はそのような時を過ごされました。とても穏やかで、苦しむこともなく、皆に賛美歌を歌ってもらい、それ以外はずっと賛美歌のCDを流されていました」。

HINOHARA.jpg日野原さんはどのようなクリスチャンだったのだろうか。

「日野原先生が好きな聖句は、『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ』(ヨハネ15:5)。

それは日野原先生のクリスチャンドクターとしてのアイデンティティーにもつながっていると思います。自分がイエスさまにつながって、イエスさまから命と力と賜物が流れてきて実を結ぶと考えておられた」とシーバー司祭。

トイスラー.jpg

「この礼拝堂に創始者のトイスラー先生の言葉の刻んだタブレットが飾られているのですが、そこに『ADVENTURE IN CHRISTIANITY』と書いてあります。日野原先生がそれを見て、『そうそう、これが私が言いたいことなんだ』とおっしゃられていました。クリスチャンである自分が新しいことに取り組んでいくということがすごく大切なことだと」。

そう上田司祭が言うと、シーバー司祭もうなずく。

「常に日野原先生はチャレンジャーです。神さまに与えられたものをきちんと受け止めて応えたいという意味で、常に新しい領域に入ろうと考えていました。それは医療だけではなくて、音楽とか、スプリチュアルケアとか・・・」

「90になってからゴルフを始め、俳句をやり始めた」と上田司祭がそれを受けると、シーバー司祭も「100歳からフェイスブックを始めたんです」と付け加る。

「日野原先生をひとことで言うと、いろいろなことに関心を持つ人。やったことで満足せず、常に新しいことに目標設定をして進んでこられました。

『常に福音を伝えなさい。必要であれば言葉を使いなさい』というアッシジのフランチェスコの言葉がありますが、聖路加のミッションは、神の愛を一流の医療と看護を通して伝え続けるということです。

そのミッションを今でも聖路加が意識し続けられているのは日野原先生のおかげです。患者さんからも、聖路加の雰囲気、患者との接し方はやはり質が違うと聞きます。そのキリスト教精神はちゃんと生きています」とシーバー司祭は力を込めた。

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ネオゴシック様式の聖路加国際病院旧館の中央にある礼拝堂の外観(1936年完成)。奥に見えるのは聖路加タワー。

聖路加国際大学と聖路加国際病院が建っているのはもともと築地居留地(明治時代、外国人を1箇所に住まわせた場所)。

ここには、横浜に続いて東京で最初のカトリック築地教会(35〜36番地)やプロテスタント各派の教会が建てられるとともに、明治学院大学(元東京一致神学校、17番地)、女子学院(6番地)、青山学院大学(元海岸女学校、10→18番地)、立教学院(37→57〜60番地)、雙葉学園(45〜47番地)、暁星学園(カトリック築地教会内)、関東学院大学(元東京中学院、42〜43番地)、女子聖学院(14番地)といったキリスト教主義学校の発祥の地でもある。

01yuri2b.jpg聖ルカ礼拝堂に献花に訪れた際、ここが日本キリスト教史における重要な場所であることにぜひ思いを馳せてみてはいかがだろうか。百数十年の時を超えて、同じ場所で日野原さんをクリスチャンドクターとして長年用い続けられた神さまの深い摂理に触れ、感謝の祈りに導かれるに違いない。


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2017年06月10日

「主は私の羊飼い」

イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。    
          (マタイによる福音書4章4節)

mail1.gif「キリストの栄光教会」より送られてきた今週のみことばより

詩篇23篇1節:
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」。
私たちは右も左もわからぬまま、この世界に生み出されました。でも今は、飼い主キリストの声を聞きわけ、その牧場で養われています。まさに乏しいことはないという人生です。
人生は、誰を自分の飼い主とするかで決まります。そして人生の豊かさは、飼い主にどう従うかで決まります。自分は主の牧場に属する羊であることを心に刻みましょう。


詩篇23篇2節:
「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」。
羊は臆病です。羊飼いの姿がそばに見えていなければ、牧場に伏すことさえできません。おなかが満ち足り、ハエや寄生虫から守られなければ、落ち着きません。
羊飼いはその条件をすべて整え、水のほとりで安らぎを与えてくださいます。そのとき、仲間同士の些細な争いも止みます。羊は羊飼いから離れたら、何もできないのです。


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詩篇23篇3節:
「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」。
羊は仰向きにひっくり返れば、血が足に行かなくなり、自力では起き上がれなくなります。声を上げて羊飼いに助けを求めなければ、野獣の餌食になります。
私たちは主の牧場の羊です。自分の力や悟りに頼らず、主を呼び求めましょう。主はへりくだる者を助け起こし、霊を奮い立たせ、真っ直ぐに歩ませてくださいます。


詩篇23篇4節:
「たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです」。
「死の陰の谷」は、羊が羊飼いを最も身近に感じる場所です。羊飼いの鞭は野獣を追い払い、杖は羊が道から外れないように守ります。
私たちも人生の闇に包まれるとき、主との距離が最も縮まります。主の「鞭と杖」を肌で感じるときです。


詩篇23篇5節:
「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています」。
野獣が狙っているのに平然と草を食む羊。敵に囲まれているのに、主と差し向かいで悠然と味わう食事。主に信頼する者は、そんな究極の平安が味わえます。
一日の始まりに、聖霊の油注ぎを受けましょう。愛と優しさが全身にみなぎります。あなたに主の祝福があふれ流れます。


詩篇23篇6節:
「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」。
御言葉と祈りと賛美が主の家です。主の家に住み続けるなら、じたばたせずとも、恵みのほうから追いかけてきます。
詩篇23篇は心の処方箋です。不安で眠れない夜、大事を前にして心が騒ぐ日、黙して主を待つことができないとき、何度も唱えることをお勧めします。

posted by 優子 at 21:34| 引用文 | 更新情報をチェックする

2017年03月28日

自民党の石破茂元幹事長 国家晩餐祈祷会で挨拶

IMG_3179.jpg下記の記事は2017年3月25日に公開された『クリスチャン・トゥディ』より転載させていただいたものである。


image.jpg第17回国家晩餐祈祷会が24日夜、京王プラザホテル(東京都新宿区)のコンコードの間で開かれた。国会議員や財界人のほか、さまざまな教派の教職者や信徒およそ400人が集まり、世界と日本の平和のため、また政治や経済、教育などについて祈りをささげた。メインスピーカーには大和カルバリーチャペル主任牧師の大川従道(つぐみち)氏、音楽ゲストにはテノール歌手の新垣(あらがき)勉氏を迎えた。

午後6時、皆で「輝く日を仰ぐとき」(聖歌480番)を讃美。続いて自民党の石破茂元幹事長があいさつに立った。

この日も衆院予算委員会では、森友学園の籠池泰典理事長への証人喚問に関する質疑応答が行われ、石破氏も予算委員として国会に出席した後、会の始まる直前に会場に現れた。石破氏は昨年、一昨年もこの国家晩餐祈祷会に招かれ、3度目のあいさつとなる。

「皆さま、こんばんは。自民党衆議院議員の石破でございます。今朝も6時から働いておるのですが、まだ仕事が終わっておらず、先にごあいさつさせていただく失礼をお許しください。

私は4代目のクリスチャンになります。曾祖父、金森通倫(みちとも)が1857年生まれで、私とちょうど100歳違うのでありますが、熊本バンドの一員として新島襄先生に弟子入りをして、一番弟子と言われておって、新島先生が病に倒れられた後、同志社の総長代理となったらしい。見たわけではないが(笑い)。

その時に新島先生が遺言の中で、『金森通倫を後継者とするに自分は全く反対はしない。彼は事務に精通し、才気あふれる者であるが、惜しむらくは徳に欠けるところがあるので、残念に思う』と。何か私のことを言われているような気もしないではないが(笑い)。

それから幾つかの教会の牧師を務め、『米国のキリスト教は間違っているのだ』と言って米国に行ってキリスト教の伝道をし、何万人かを受洗させたという記録があります。最後は日本に帰ってきて、葉山の洞窟で暮らしておったという、よく分からない人なのでありますが(笑い)、それから数えて私が4代目ということに相成ります。

私が一番真面目に聖書を学んでいたのは、高校3年生の時に教会学校の臨時雇い教師になりまして、子どもたちに教えなきゃいかんということで、その時は聖書をよく勉強しました。

私は所属が日本基督教団鳥取教会なのですが、中学卒業後、東京に来てからは日本キリスト教会の世田谷伝道所(現在の世田谷千歳教会)に通っておりました。同じ高校生できれいな女の子がいて、その子に気に入られたい一心でというところが全くなかったとは申しませんが(笑い)、一生懸命、聖書を勉強致しました。

旧約聖書は大部で難しいのですが、ルカによる福音書はとても好きで、よく読んだことを覚えております。放蕩息子の話・・・まさしく自分そのものである。あるいは、金持ちとラザロのたとえ・・・自分の中に金持ちが間違いなくいるのだ。そして、パリサイ人と取税人の話・・・自分の中にも間違いなくパリサイ人はいるのだと思ったことをよく覚えています。今もそうであります。

最近は讃美歌が変わっちゃったらしくて(『讃美歌21』を指す)、よく分かりませんが、当時も好きで、今も好きなのは、『讃美歌』(1954年)の7番と191番で、私の愛唱歌なのであります。

7番というのは『主のみいつとみさかえとを』という歌であります。191番というのは、『いともとうとき主はくだりて』という歌であります。この3節に『数多(さわ)のあらそい み民をさき・・・』とありますが、実際、私ども、毎日こんなことをやっております。(讃美歌は末尾でご紹介しています)

政治の世界ってのは、憎悪と怒りと悲しみと嫉妬と、ま、そんな世界でありまして、昨日あたりまさしくそんな感じでありまして、『数多のあらそい み民をさき』だと思います。そして、何が正しくて何が間違っているかは人の知るところではありませんが、『かみはたえざるいのりをきき、なみだにかえて歌をたまわん』、そうであるなと心から信ずる者であります。 

私たちは本当に過ち多い者だと思います。私の場合は特にそうだと思っています。ただ、『御心がこの世になりますように』『過ちばかりの私ですが、どうぞこれを正してください』、そして『どうぞ御用のためにお用いください』と祈れることは本当に幸せなことだと思っております


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(頭上に掲げられている横断幕を見上げて)この『世界と日本に平和を!』ということであります。

その手段についてはいろんな考え方があります。私は別にテロ等準備罪の宣伝に来たわけではありませんが、あれは一般の方々に間違っても嫌疑が及んだり、捜査の手が及んだりすることのないように、人権を最大限尊重するようにということで、テロ集団というものを対象と致しております。

何が最も良い手段なのかは、われわれ愚かな人間に分かることではありません。しかし、自由が守られ、人権が守られ、そして民主主義が尊ばれ、法の支配が貫徹されるためには何ができるか。それぞれが正しいと思うことはあるのだと思います。

ただ最も大事なのは・・・ということは私ごときが申し上げることではありませんが、『誤りがあれば正してください』『御用のためにお用いください』という思いをまた皆様方から学ぶことができれば望外の幸せであります。

今日の会が主のご加護のもとに豊かな実りをもたらさんことを心からお祈りして、ごあいさつとさせていただきます。ありがとうございました」。
そして石破氏は拍手の中、会場を後にした。

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祈祷会の最後に全員での集合写真に収まる参加者

2_onpu_ak.gif  讃美歌7番「主のみいつとみ栄とを」

2_onpu_ak.gif  讃美歌191番「いとも尊き」

     1 いともとうとき 主はくだりて
       血のあたいもて 民をすくい
       きよき住居(すまい)を つくりたてて
       そのいしずえと なりたまえり

     2 四方(よも)のくにより えらばるれど
       のぞみもひとつ わざもひとつ
       ひとつのみかて ともに受けて
       ひとりの神を おがみたのむ

     3 数多(さわ)のあらそい み民をさき
       世人(よびと)そしりて なやむれども
       神はたえざる 祈りをきき
       涙にかえて  歌をたまわん

     4 世にのこる民 去りし民と
      ともにまじわり 神をあおぎ
      とわのやすきを 待ちのぞみて
      君の来ますを せつに祈る

posted by 優子 at 10:56| 引用文 | 更新情報をチェックする

2017年02月06日

星野富弘さんの思い

IMG_2331.jpg星野富弘さんをご存知でない方はおられないであろう。
これは得意とする吊り輪をしている大学時代の星野さんだ。

詩画を描く.png1946年・群馬県生まれ、1970年に群馬大学教育学部体育科卒業後、中学校の教諭になるがクラブ活動の指導中頸髄を損傷して手足の自由を失い、2年後より口に筆をくわえて文や絵を書き始める。

口で初めて書いた字
口で初めて書いた字.jpg

星野さんが描いた詩画と共にその思いをご紹介したい。

日々草

星野富弘sann.jpg今日も一つ
悲しいことがあった
今日もまた一つ
うれしいことがあった

笑ったり 泣いたり
望んだり あきらめたり
にくんだり 愛したり
・・・・・・・・
そして これらの一つ一つを
柔らかく包んでくれた
数え切れないほど沢山の
平凡なことがあった


「笑ったり、泣いたり、望んだり、あきらめたりということは、ずっとそういうことがなくなるということではありません。そういうことは私は信仰を持つ前も、持った後も、それほど変わらないと思います。

ただ幸いなことに体が動かないということで、人を殴ったり、そういうことは出来なくなりましたが、気持の面では、時には殴りたいような時もあります。おそらく動いていたら、手を振り上げていただろうなあという時もあります。

でもそういった色々揺れ動く、時には神様を疑って見るような、そんな気持になる時もあります。でもそれも何か神様がニコッと笑いながら見ていて下さるような、そんな安心感があるんですね。

それでこの詩で最後に『平凡なことがあった』と書いていますが、やはり私は神様を受け入れたというところで、何というか平凡なことを発見したということと、何かとても繋がるんですね。

私は平凡になる、なったもの、それは長い間、人間の生活、人間が工夫したり、したものが、時間をかけて角が取れて、誰でも受け入れられる。何とも思わなく、受け入れられるようになったもの、そういうものの極致の姿ではないかなあと思っています。

それは人間だけではなくて、この自然の風景、それから私がごく普通のそこらにある花をたくさん描いているんですが、そういうものに目を向けられるようになったというのも、つい見過ごし勝ちな平凡な普通の花を、花もよく見て見ると、凄く精気に出来ていて細かいところまで綺麗に神様の手が行き届いているなあというふうに感じるんですね」。

花梨の実

さん星野富弘.jpg毎日見ていた
空が変わった
涙を流し友が祈ってくれた
あの頃
恐る恐る開いた
マタイの福音書
あの時から
空が変わった
空が私を
見つめるようになった
 

「私と空は花と同じように切り離せない。空を見ていて色々なことを思う。空が私を見つめるようになった。これは信仰をもつようになってから、空から神がというよりも、そっくり包んでくれる空のような神様がいつも見ていてくださる。空は、神様という言葉よりももっと、私にはぴったりというもの」。

「美しい花をいつも描いていますけど、何と言いますかね、美しいものだけに目がいかないんですね。やはり神様に生かされているという、その生活というか、いつも神様が見ていて下さるという、そういうことを知っていますから、自分がどんなに罪深いというか、醜い心を持った人間であるかというのは、みんな見られているわけです。

もちろんやることは人に見られる、人が感じているところは、何かいい生活というか、とても清い生活をしているんじゃないかというような、それは人にはそういうところを見せますが、でもやはり見えない部分というか、心の中まで覗かれた時には、決してそれは人に見せられるというか、誇れるような生活はしていません。

ですから美しい花を見た時にも、その花の根っ子のほうですね。それもどうしても見つめないわけにはいきません。

美しい花を持っている、その同じ茎にいつも土に隠れた、そしてそこから生えている枝や葉っぱは必ずいつも花のようには美しくないんです。

虫が食ったり、枯れていたり、萎れていたり、どうしてもそういう虫の食った部分まで目がいってしまうというのは、やはり花を描きながら、自分自身を描いているような、描きたいと思う、そういう部分に自分自身を、何というか、描きたい。

そんな思いで虫の食ったところとか、枯れた葉っぱとか、描かざるを得ないんですね。描きたいというよりも、描かざるを得ません。

ですからこれは一枚の小さな紙に描かれた絵ですが、花を描いた花と詩に、いつも自分自身を描いているような気持ちです」。

             (「こころの時代」より)

posted by 優子 at 18:43| 引用文 | 更新情報をチェックする

2015年02月19日

神が将来に備えてくださっている祝福に目を留めよ! ―経営者のための聖書経営学セミナー「キリストの人材教育」より―

今日の記事は2014年9月から13回にわたって、『クリスチャン・トゥディ』に連載された黒田禎一郎氏の経営者のための聖書経営学セミナー「キリストの人材教育」(13)まとめより転載させていただいたものである。

シリーズ初回の「一保堂茶舗の企業姿勢」では、288年間続いている老舗「一保堂が求める人材」は、意欲、感受性、論理性の3つの視点を重視して新入社員を採用しているとのこと、毎回興味深く読んでいた。

本.jpg1989年11月にベルリンの壁が崩壊して間もない1991年に、黒田氏の著書・『激動する欧州と聖書預言』を読み、その後、『ヒズ・ブレッシング 山上の垂訓 (His Blessing)』でも感銘を受けた。

下記は前掲連載記事の最終回を、冒頭を省略して転載させていただいたものである。
私は以前、旧東ドイツ出身の牧師夫妻の通訳をしたことがあります。
彼らは旧東ドイツ時代、カール・マルクス市(現在ケムニッツ市)と呼ばれた町に住んでいました。その名前でお分かりのように、町はカール・マルクス主義が支配し、町全体が無神論主義、共産主義の影響を大きく受けていました。

かつてのソ連もそうでしたが、旧東独でもクリスチャンであれば義務教育後、上級学校に進むことができませんでした。彼女は中学を終えただけで、高等学校に進学を希望しても国が認めず、非常に悲しい思いをしました。彼女は勉強したかったのです。

しかし、彼女の両親はクリスチャンで、「教会でお手伝いをしなさい」と、彼女をルーテル派教会に送りました。教会の掃除をし、日曜学校や青年会で子どもたちを助け、オルガンやピアノを弾くことを覚えました。

ドロテア夫人の母は、彼女が教会の手伝いをし、さまざまな実地訓練を受けることが最適と考えました。しかし、まだ15歳であった彼女にはそのことがとても理解できませんでした。彼女は「他の子どもたちは学校に行けるのに、どうして自分は行けないのか。自分も勉強したい」と思いましたが、許されませんでした。

しかし彼女がルーテル派教会で訓練を終えた時、ルーテル派教会が終了証明書を発行しました。これは学校の証明書とは違いますが、「あなたは日曜学校の指導ができます。オルガンが演奏できます」という内容が書かれていました。彼女はそれを受け取りとても喜びました。

その後、彼女はデイーター・コイヒャー牧師に出会い結婚しました。
彼女はこのように言いました。「私は牧師夫人になるために必要な事柄を、上級学校に進めないことによって学びました。実際に教会に送られ、細かい働きを通して教えられました。あの時、苦しみの中で学んだ事柄が、後になって生かされ、それらは神の備えでありました

やがて二人は結婚し、ケムニッツ教会は会員数80人でスタートしました。今はその10倍の800人の教会となっています。コイヒャー牧師は、ドイツ国教会聖霊刷新協議会議長をしている人格者で立派な方です。
夫人が言いたかった点は、すべての苦しみや試練は神が許されて起こることであるということです。彼女はその一点を理解した時、心のうちに大きな励ましを得たと言いました。

彼女はもうひとつ話をしました。7人の子どもが与えられましたが、3人亡くなりました。親にとって(とくに母親にとって)、子どもが自分より先に世を去ることは大変なことです。

私たちも子どもを1人亡くしましたが、妻にとっては大変でした。ドロテア夫人は、3人も失いました。それは想像を絶することです。ある時、双子が同時に亡くなったというのです。その時、彼女はもう立ち上がれなくなりました。長い間、彼女は双子をお腹にかかえやっと出産したというのに亡くなってしまい、もう抱いてあげられない、ミルクもあげられないという大きな痛みの中に置かれました。

その時、神は彼女の夫を通し、「あなたは今、子どもを亡くしたという大きな悲しみにばかり目を留めている。なぜあなたは私がその先に用意している祝福に目を留めないのか」と言われたそうです。

彼女はそのことを聞いた時、祝福など全く見えませんでした。悲しみのどん底、試練のどん底、戦いのどん底に置かれどうすることもできませんでした。

しかし「そうだ。私の信じている神は私を愛し、私を祝福してくださると聖書が教えている。この神をもっと信頼すべきだ」と彼女は教えられ、励ましをいただきました。それからの彼女は、喜びをもって神にお仕えするようになり、素晴らしい働きをされています


人は例外なく試練を通りますが、その試練がモチベーションにもなります。あなたは人生の戦いをどのように受けとめていますか。

私たちは現実に存在する大きな壁を見ると、勇気を失い疲れてしまう者です。しかし、バイブルはもう一歩先を見ることを教えています。これは不思議な書物です。ですから、私たちはバイブルを読むことをお勧めしているのです

第二番目に、私たちは先人から学ぶ「成功方程式」があります。幸いなことに、私たちは多くの成功ノウハウを学ぶことができます。バイブルの中には、いろいろな秘密が秘められています。それはQuality Lifeの視点で第三番目に大切なことです。

バイブルは私たちに、質の高い、生きがいのある、喜びがある、幸いな生き方を教えています。皆さんがQuality Lifeを発見してくださることを願います。それには何が大切でしょうか。

結局のところ「個」です。
あなたが勉強し、あなたが自分を磨き研鑽を積み、そして「ペルソナ」を磨き上げることにより成長するのです


どうぞ「もう一つの生き方」が、人生にあることを覚えてください。

posted by 優子 at 11:26| 引用文 | 更新情報をチェックする

2015年02月09日

オバマ米大統領、国家朝餐祈祷会に出席 宗教を悪用する勢力に抵抗する3つの原則語る

この記事は昨夜遅くに公開された『クリスチャン・トゥディ』のオバマ米大統領、国家朝餐祈祷会に出席 宗教を悪用する勢力に抵抗する3つの原則語るより、全文転載したものである。
尚、『クリスチャン・トゥディ』記事の全文転載については、出典元を明記してリンクを埋め込めば良いとの許可を2014年8月末にいただいている。
米国朝餐祈祷会のオバマ氏.jpgバラク・オバマ米大統領は5日、米国家朝餐祈祷会に出席し、信仰ある人が、イスラム国(IS)のように信仰をねじ曲げ悪を行う者に立ち向かうのには3つの原則があると語った。

オバマ大統領はこの席で、全ての信仰から哀れみと愛が溢れ出すが、全ての信仰は悪の目的のためにねじ曲げられた歴史を持つと述べた。

信仰は毎日世界中で良いことをするよう、人々にヒントを与える。オバマ大統領は以前エボラ出血熱に罹患し、そして生還したキリスト教支援団体「サマリタンズパース」のケント・ブラントリー医師を指名する際、そのように語った。ブラントリー医師は開会の祈りをし、大統領の左隣に座っていた。

信仰は悪いことのためにも誤用される。「私たちは、信仰が正しいことをする動機となることを見てきています。しかし信仰がねじ曲げられ、曲解され、分裂をもたらすくさびのように、そしてさらに悪いことには武器のように使われることも見ています」とオバマ大統領は語った。

最近の中東やパリでの暴力事件に言及し、オバマ大統領はテロリストが「イスラム教のために闘っていると告白しているものの、事実としては裏切っている」と語った。

「信仰者として、私たちはどうこれらの現実を一致させればいいのでしょうか」と問い掛け、「私たちが持つ全ての信仰から溢れ出る完全な善、力、不屈の精神、哀れみと愛は、自身の残忍な結末のために宗教を乗っ取ろうとするものと並んで、その働きができるのでしょうか。人類の歴史の全体を通して、われわれ人類はこれらの問題を解決するために取り組んできています」。

宗教の名を借りて暴力を振るうことはイスラム教に限ったことではないとオバマ大統領は指摘し、十字軍、宗教裁判(カトリックの異端審判)、奴隷制、黒人への差別を引き合いに出した。そして、これらのものは全てキリスト教徒であると告白した人々によって擁護されてきたものだと述べた。

国家朝餐祈祷会での祈り.jpg
オバマ米大統領、国家朝餐祈祷会に出席 宗教を悪用する勢力に抵抗する3つの原則語る
米国家朝餐祈祷会の閉会祈祷を祈るアンドリュー・ヤング元アトランタ市長に合わせて祈るバラク・オバマ米大統領(左から3人目)とミシェル大統領夫人(同2人目)(写真:ホワイトハウス)

罪こそが、宗教が悪のために誤用される理由だとオバマ大統領は言い、「これは、一つのグループ、一つの宗教に特異的なことではありません。これは私たちの中にある傾向、すなわち罪の傾向によるもので、それが私たちの信仰を悪用し、ねじ曲げるのです」と語った。

そして、宗教を悪のために使う人々に対抗するために必要な3つの原則があると述べた。

1. 謙遜

「信仰の始まりは何かしらの疑いです」とオバマ大統領は語った。

「自分が完全だと思わないこと、自分は正しいと思い込み過ぎないこと、また神は私たちにのみ話しているだけで、他の人には話していないとは考えないこと。・・・そして、自分たちだけが真理に到達していると思い込まないようにすること。

私たちがするべきことは、私たちが真理だと思う見解に、神が応えてくださるよう願うことではありません。私たちがするべきことは、神に、神の言葉に、そして神の命令に真実であることです。

私たちは、自分たちが混乱していて、いつも自分が何をしているか分かっているとは限らないこと、そして神の前によろめいていて罪を犯しやすいことをへりくだって認めるべきです。そして認めるプロセスの中で、謙遜を身に付けるべきです」。

そして謙遜を身に付ければ、「神の名を、狂信、妄信を持って誤用する」人に立ち向かえるはずだと述べた。また、謙遜の重要性を理解していることの表れとして、米国の建立者たちが信教の自由を守ったと説明した。

「家庭でも、また世界中においても、基本的人権としての自由権、つまり信教の自由、自分の選んだ信仰を実践する自由、信仰を選択し変更する自由、あるいは何の信仰をも持たない自由があります。そして、迫害や恐怖にさらされることなくそれを行う自由があります」とオバマ大統領は語った。

2. 政教分離

米国がいまだ非常に宗教的な国家である理由の一つとして、政府がどの宗教に対しても特別視していないことを、オバマ大統領は合衆国憲法修正第1条の国教条項を引き合いに出して説明した。

「私たちの政府は宗教を後援しませんし、誰にも特定の信仰を実践するよう圧力をかけたりしません。そしてその結果は、さまざまな背景を持つ人々が、自由に誇りを持って、恐怖におびえたり強制されたりすることなく礼拝できる文化に表れています。信教の自由は、米国内で私たちが油断することなく守り切るものです」。

オバマ大統領はまた、昨年の朝餐祈祷会で、当時北朝鮮で拘束されていたケネス・ペさんとイランで拘束されていたサイード・アベディニさんのために祈ったことに触れた。2人とも信仰のために拘束されていたが、ペさんが現在は解放されて帰国していることにオバマ大統領が言及したとき、会場からは拍手が沸き起こった。

アベディニさんはいまだイランで拘束されている。オバマ大統領は、最近アイダホ州に住むアベディニさんの妻子と会ったと述べ、その中で大統領は、「アベディニさんを解放させるために、全てのことをしていると伝えた」と語った。

そしてその面会のあと、大統領はアベディニさんから、家族を訪問したことと「拘束中に連帯の意を持ってくれたこと」への感謝の手紙を受け取ったと語った。

3. 黄金律

オバマ大統領はまた、「信仰を持つ全ての人、また信仰について模索している人々を束ねていると見受けられる一つの法則があります」と指摘した。「それは黄金律です。私たちは、自分がそうしてほしいように他の人にも振る舞うべきです」。

黄金律は、ユダヤ・キリスト教系の信仰だけで見られるものではない。オバマ大統領はイスラム教の聖典コーランを引用して、「自分が自分のために望むことを、兄弟のためにも望むことができるようになるまでは、本当に信じているとは言えない」という箇所を紹介した。

また、ブラントリー医師、ローマ教皇フランシスコ、ゲストとして出席したチベット仏教の指導者ダライ・ラマ14世を指し、黄金律の生ける手本として紹介した。

「私たち自身の姿をお互いの中に見ること、兄弟姉妹の後見者となること、互いに信仰を保ち合うこと、恐らくこれは、私たちにとって最も大きい挑戦となるでしょう」とオバマ大統領は語った。

そしてオバマ大統領は、一つ目のポイントである謙遜についてもう一度くり返し、旧約聖書のミカ書6章8節を引用して話をまとめた。

【ブログ筆者附記】ミカ書6章8節:  
「人よ、彼はさきによい事のなんであるかを
 あなたに告げられた。
 主のあなたに求められることは、
 ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、
 へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」。


「もし私たちが十分謙遜であり、機会にあたってひざまずくなら、私たちは自分たちが決して神の目的の全てを知ることができないことを理解するでしょう。私たちは、神の驚くべき恵みの深さを見抜くことは決してできません。私たちは、暗く色づいたメガネを通して神の大きな愛の広がりの一端を知るのです。

それでも、私たちに限界があってさえも、必要なことに留意し、正義を行い、親切であることを愛し、神とともにへりくだって歩むことはできるのです」。

このリポートからオバマ大統領の信仰観は正統なキリスト教信仰であることがわかる。聖書を神の言葉と信じる私たちは、神の御前で共に謙虚になって、人間の行く末に大きな影響力のある米国大統領が、神の知恵をいただいて最善な道を選び取って行くように祈らねばならない。

後藤健二さんの母は、「息子の救出を求めて安倍首相や官房長官に面会を申し入れたが断られた」と報じていたが、オバマ大統領はイランで拘束されているアベディニさんの家族(アイダホ州)を訪問したとは心を打った。

posted by 優子 at 21:54| 引用文 | 更新情報をチェックする

2014年01月06日

神の慈しみに感謝して

我々には今日、どんな喜びが訪れるか知る由(よし)もない。
どんな悲しみや誘惑が
我々の行く道で待っているかも知れぬ。
しかし確かなのは、
良きにつけ悪しきにつけ
神の恩寵が常に我らを助け
聖なるみ旨を行うために助けを送られること。


「今まで、主は我々を助けてくださった」。
                (サムエル記上7章12節)

この喜びも試みも天上からくるもの
我らの日時計の上を愛の指針が巡るゆえ
我らはすべてのことが
我らのためになされると確信する。
主にまったき信頼を置く者は
主がまったき真実であると知る。

              (ウィリアム・バークレー)


posted by 優子 at 21:43| 引用文 | 更新情報をチェックする

2013年08月17日

多様性とは自分と人は違うということ

今夜の『NHKスペシャル』で『緒方貞子 戦争が終わらないこの世界で』を見た。カトリック信仰者の緒方貞子さん(85歳)は尊敬する憧れの人だ。

「“小さな巨人”と称えられ、その類いまれなる行動力と決断力が、今も世界の尊敬を集める、一人の日本人女性である。
1991年から10年に渡って国連の難民救済機関UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のトップを務め、“戦争が生み出した弱者”である難民を救うため、世界を駆け回った」。

以下は緒方さんの言葉より:
▼文化、宗教、信念が異なろうと、大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない。世界はつながっているのだから。

▼忍耐と哲学をかければ、物事は動いていく。

あいまいで不透明な問題などというものはない。あいまいで不透明と考えるのであれば、それを個々の課題に落とし込み、課題ごとの方策を考えていくことが肝要

▼熱い心と、冷たい頭を持て。

▼(決断は)最後は理論ではない。一瞬のカンです。

聡明で行動力のある人だ。
以下は緒方さんの興味深い人となりについて書かれている。("Nスペeyes"より抜粋):
緒方さんが1991年から10年間、国連難民高等弁務官としてトップを務めた国連難民高等弁務官事務所(以下、UNHCR)の外国人の部下やスタッフたちが、緒方さんについて「彼女の持つ一番大事なところは“ケアリング”」と口を揃えて話したこと。

おそらく、難民や戦争の被害者、犠牲者ひとりひとりの立場に立って、彼らの救済に尽力する緒方さんの姿を見たからこその言葉でしょう。

この“ケアリング”を日本語に訳す場合、ニュアンス的にとても難しいのですが「思いやり」という言葉が該当します。しかし、お話を伺った関係者の皆さんが緒方さんを語る“ケアリング”は、いわゆる日本人の考える「思いやり」では表現し切れないように感じました。大きくいえば母性のようなものでもあるのかなと

「母性のようなもの」とは、聖書で培われた世界観の現れではないだろうか。

附記:夫はモスクワで開催されている世界選手権大会から目が離せない。
私は今朝未明から高血圧による強い頭痛で目が覚め一日中伏せっていた。夜になってテレビを見る体力が戻ったが体調はよくない。

posted by 優子 at 23:44| 引用文 | 更新情報をチェックする

2013年02月11日

彼が生涯の終わったあとに残したものは・・・

「明日」(作者不詳)

彼は人間の達しうる最高の者になろうとしていた ― 明日

彼は誰よりも親切で勇敢な者になろうとしていた ― 明日

彼は悩み疲れたひとりの友を尋ね、
どうすればよいか相談しようとしていた ― 明日

彼は朝ごとに、書こうとする手紙を山のように積み重ねた 
― 明日

そして、彼が喜びをもって満たそうとしている人々のことを考えた 
― 明日

きょうは忙しすぎるのだ、一瞬の息をつく暇もない。

彼は言う
「私は他の人々のために働く時間を持つようになるだろう ― 明日」と。

彼は、最も偉大な働き人になったであろう ― 明日になれば。

世界は彼を知ったであろう ― もし彼が明日まで生きていれば。

しかし、彼は死んだのだ。

そして彼は人々の見える所から消え去った。

彼が生涯の終わったあとに残したものは

明日しようとしていた山のような仕事だった。

毎日のように思い出す詩だ。
これは誰にとっても心すべきことだが、特に60歳を過ぎた者にとっては命は限りがあることを実感させられるのではないだろうか。
今日という日を、今を活かそう。

posted by 優子 at 23:09| 引用文 | 更新情報をチェックする

2012年07月18日

「踏みつけられてできた道」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 最終回―

「踏みつけられてできた道」 (村上 宣道牧師)

旧約聖書というのはヘブル語で書かれていますが、「道」と訳されている「デレク」ということばは「踏みつける」という動詞から来ています。

イエス・キリストは「わたしが道である。わたしを通してでなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と言われました。ヘブルの文化の中でお育ちになったイエス様は、ご自分が「踏みつけられるもの」としての道であることを意味しておられたに違いありません。
 
イエス・キリストが神の子でありながらこの地上に来られたのは、罪人である人間、私たちがみな神のもとに行くことができるように、究極的には神の国、天国に行くための道となるためだったのだ、ということです。そのためにご自分が、「踏みつけられるもの」となることを覚悟のうえだった、ということができます。

実は、あの十字架こそは、踏みつけられた姿そのものなのです。あの十字架は、言うまでもなく、私たちの罪の身代わりとして受けられた刑罰の苦しみです。
 
イエス様は、「わたしを通してでなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と言われたのですが、それは、この道を通らずして、つまり、この十字架が私の罪の身代わりとして踏みつけられたものだと受け止めることなしには、だれも父なる神のもとに行くことはできないし、そしてその祝福にあずかることはできないということを意味しているのです。

天国へは、自分の努力や功績、自分の作りだした道によっては、決して行くことはできません。

逆に言えば、自分が今まで道を踏みはずしていて、とても天国に行く資格などない、罪人だ、というふうに自覚し、その罪のために踏みつけられて道となってくださったイエス・キリストの十字架を信ずるならば、そしてその道を歩んでいくならば、確実に神のもとに行くことができるのだということを、ぜひ知っていただきたいと思うのです。


posted by 優子 at 22:56| 引用文 | 更新情報をチェックする

2012年06月22日

「変わらぬ愛、動かぬ契約」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 38回―

「変わらぬ愛、動かぬ契約」(羽鳥 明牧師)
 
旧約聖書、イザヤ書54章10節に、こうあります。
「『たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない』とあなたをあわれむ主は仰せられる」。 

人は変わり、街が変わっても、山は変わらない。「ふるさとの山はありがたきかな」と石川啄木も歌いました。しかし、山も変わり丘も動くのです。天変地異ということば通り、太陽も地球も変わるのです。
 
しかし、そんなすべてが変わる世の中、人生にあって、変わらないもの、動かないものがあると、神は言われるのです。「神の愛」、「神の平和の約束」です。
 
旧い年を送り、新しい年を迎えても、「そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である」(申命記11章12節)と聖書は言っています。
 
お母さんの目が、いつも幼子に注がれていること、それがその子の安全と幸せであるように、神様の目がいつも私たちの上に注がれていることが、私たちの安全と幸せです。
 
また聖書の別のところに、「主(神)はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(歴代誌第二16章9節)とあります。
 
目を注いで、守ってくださるばかりか、私たちが信仰と信頼をもって主を見上げるとき、カを与えてくださる。信じる力、祈る力、ほめたたえる力・・・人生の本当の力を注ぎ込んでくださるというのです。神を信頼し、神に従うことにおいて、いっそう徹底して行こうではありませんか。

「神様、信じます。信仰のない私を助けてください」。
そんなひとことで、私たちの神への信頼と服従の生活は始まるのです。私が69年前、そんな祈りをささげて以来、神様の愛は変わらず、神様の平和の約束は動きませんでした。

聖書のことば「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」。(イザヤ書54章10節)

最後にエレミア書10章2節から5節をご紹介します。
このブログを愛読してくださっている方々に、まことの神さまをお伝えすることができますように。
主はこう言われる、
「異邦の人の道に習ってはならない。
また異邦の人が天に現れるしるしを恐れても、
あなたがたはそれを恐れてはならない。
異邦の民のならわしはむなしいからだ。

彼らの崇拝するものは、林から切りだした木で、
木工の手で、おのをもって造ったものだ。
人々は銀や金をもって、それを飾り、
くぎと鎚をもって動かないようにそれをとめる。

その偶像は、きゅうり畑のかかしのようで、
ものを言うことができない。
歩くこともできないから、
人に運んでもらわなければならない。


それを恐れるに及ばない。
それは災をくだすことができず、
また幸をくだす力もないからだ」。

私たちクリスチャンが信じる神は、人や自然、また、動物を神格化して信仰の対象としているのではありません。そこに人生観や価値観の大きな違いがあります。

ですから私たちはキリストの絵を拝むこともキリスト像や十字架を拝むこともしません。それもまた偶像であり、それらには何の権威もないからです。

これをお読み下さっている方々がまことの神と出会われるように切に祈ります。


posted by 優子 at 17:18| 引用文 | 更新情報をチェックする

2012年06月14日

「人にはどれだけの土地がいるか」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 37―

「人にはどれだけの土地がいるか」(安海 靖郎牧師)

『人にはどれだけの土地がいるか』というトルストイの小説、寓話があります。絵本にもなっています(いのちのことば社刊)。子どもだけでなく、大人にも人気があるそうです。子どもに読み聞かせながら大人が考えさせられるというのです。
 
話の内容は、働き者の農夫だったパホームが悪魔の誘惑を受け、人から借りていた土地を買い取って、自分のものにするというものです。そして、それを二倍、三倍、十倍と広げていこうと努力します。

しかし、最後に彼に必要だった土地は、自分の棺桶を埋めるための、わずかな土地だったという、いかにもトルストイらしい痛烈な皮肉です。
 
でも、考えさせられるものがあります。より広い土地を求めようとするパホームの姿は、私たちだれもがもつ欲望を、所有欲を象徴しているからでしょう。
 
興味深いのは、この小説で私たちの心と土地が対比されていることです。パホームは言います。「土地さえあれば、なんだってこわくない。悪魔だってこわくないさ」。何かバブル時代の私たち日本人の心みたいですね。
 
でも、こんなふうに書かれているんです。「パホームは、広い土地をもつようになりました。でも、彼の心は前よりもずっとせまくなってしまいました」。広い土地の代わりに色々なものをあてはめてみることができるのではないでしょうか。

「これさえあれば」「あれさえあれば」と思い、望んだものを手にしたら、実は心豊かになるどころか、狭く、むなしくなったという経験です。
 
三千年前、富や豊かさの象徴のようなソロモン王は言いました。「人の心を豊かにするものは物ではない。愛だ」と。
 
二千年前に書かれた新約聖書では、こんなふうに言われています。
「たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」。(テモテヘの手紙第一 6章17節)
 
富や財産は大切なものですが、それが望みになったり、それを得ることが人生の目的になると、心は豊かどころか狭くなるというのです。
 
心の豊かさ、広さは、財の量ではなく、すべてのものを与えてくださる神様に望みを置き、頼りにしていくところにあるというのです。



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2012年05月11日

「母の日に思う」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 36―

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「母の日に思う」 (村上 宣道牧師)

「親孝行したい時には親はなし」などと言います。今は「親孝行」という言葉すら死語になりつつあるといわれます。母の日に際して、親に対して、ことに母親に対しての私たちのあり方について、聖書はどう教えているかを少し考えてみたいと思います。
 
旧約聖書の箴言には、「わが子よ、あなたの母の教えを捨ててはならない」ということばや「愚かな人はその母を軽んじる」とか「年老いた母を軽んじてはならない」というようなことばが何回か出ていて、母と母の教えを尊ぶべきことを教えています。
 
イエス・キリストもこの地上で人の子としての生活をされた時には、両親に従い、大工として働き、家計を助けたといわれています。
父ヨセフは早く他界したと思われますが、ご自分が十字架につけられて殺される時、母マリヤはその十字架のすぐ近くで、わが子の苦しみを見守っていました。

イエスが十字架上で発せられたことばが七つ聖書に記されていますが、その中の一つは母マリヤに関することでした。
イエスは十字架上で間もなく息を引き取ろうとする時、わが子の苦しみを目の当たりにしながら、悲しみもだえている母のことがとても気になられたようです。

ただ一人、弟子たちの中で、十字架のそばにいたヨハネを見ながら、母マリヤに「そこにあなたの息子がいます」と言われ、ヨハネに向かって「そこに、あなたの母がいます」と言われたのでした。「その時からこの弟子は彼女を自分の家に引き取った」と、聖書は記しています。

主イエスは耐えられないほどの苦しみのさなかにありながら、自分を生み育ててくれた母親のことを心にかけ、愛する弟子に、その後の面倒を託していかれたのです。
 
親を、家族を大切にするということは、聖書が一貫して教えていることです。その親孝行についてですが、日野原重明先生が新聞に次のようなことを書いておられました。

「親の愛情は『海より深い』などと例えられるが、その愛情のお返しを子どもに望むべきではない。親は、子どもが社会のニーズに貢献することが一番望ましいと考えて欲しい。子どもは親への感謝の心を無形の言葉で返せばよい」ということでした。
 
私たちが神様に喜ばれる生き方をし、少しでも社会のニーズにお応えできる生き方をしていくこと、それが今も変わらぬ親孝行につながることなのではないでしょうか。


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2012年04月22日

「カメ人生で歩もう」―あなたの心を元気にするショートメッセージより 35―

「カメ人生で歩もう」 (関根 弘興牧師)
 
日本の昔話にうさぎとカメの話がありますね。うさぎとカメが「向こうの小山の麓」をゴールに、かけくらべする話です。だれが考えてもうさぎが勝つところですが、うさぎは、どうせカメは追いつけまいと余裕の一眠りをしてしまいます。
 
うさぎとカメの距離はどんどん縮まり、ついには、カメがうさぎを追い越して勝ってしまったという話です。どうしてそんなことになったのでしょう。
 
うさぎがなまけものだったからとか、自己過信があったとか、もちろんそういうこともあるでしょう。でも何を目標としていたかということも、大切だと思います。 
 
うさぎの目標はカメに勝つことでした。だから、カメがどのくらいのペースで、今どこにいるか、ということばかりを考えていました。しかしカメのほうは、うさぎに勝てるはずがありませんから、目標は、あくまで「向こうの小山の麓」まで完走することだったわけです。
 
どうも私たちは、このうさぎのような感覚をもってしまうことが多いようです。目標に向かって走っていくというより、まわりがどうであるかということに左右されます。まわりばかりが気になって、本来、完走すべき道のりを走ることができなくなってしまうのです。
 
私たちはすぐに人と比べたがる癖をもっています。すぐに批判的になってみたり、逆に劣等感に悩んでしまうこともあります。いつのまにか、ゴールを目ざす生き方ではなく、まわりの存在が自分の目標にすり替わってしまい、一喜一憂していることが多いのです。
 
新約聖書の多くの手紙を書いたパウロはこう書いています。
「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」。(ピリピ人への手紙3章13〜14節)
 
私たちの人生は、永遠の天の都というゴールを目ざす生涯なのです。後ろのものを忘れ、一歩ずつ前に進む人生なのですね。カメのように歩むのがゆっくりでも気にしないことです。

「なんと歩みの遅い人」と言われようが、大切なのは、イエス・キリストが私とともに歩み、一緒にゴールをしてくださるということをしっかりと信頼し、歩むことなのです。


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2012年04月06日

「なおも神をほめたたえる」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 34―

「なおも神をほめたたえる」 (村上 宣道牧師)

「歌う」というのは「訴う」から出た言葉だといわれています。歌は必ずしも、楽しく愉快な気分からだけではなく、むしろ、とても歌えないような状況の中で、何ものかを訴えたい気持ちの表れとして生まれてくるほうが多いのかもしれません。

「バイオリンの名器は、谷に落とされ、流れにもまれ、あちこちの岩にぶちあたりながら流れ着いた木からなるものもある」のだそうです。その深い音の響きは、くぐり抜けてきた苦難の経緯と無関係ではないのでしょう。

聖書の中で、一番多くのスペースが割かれているのは詩篇です。この「詩篇」のもとの言葉は〈テヒリーム〉といい、〈ハレルヤ〉(=主をほめよ)という動詞から由来した名詞の複数形で「賛美歌集」という意味です。

この中には、賛美の歌や感謝の歌に分類されるものも多くありますが、嘆きの歌とされる詩篇の数も大変多いのです。イスラエルの歴史というのは、苦難の歴史でしたから、その中での神への切実な訴えが歌となり、それが賛美ともなっていったのだろうと思われます。
 

詩篇42、43篇は、典型的な「嘆きの詩」とされるものです。この二つの詩篇は、もともと一つであったろうといわれるのですが、この中に「わがたましいよ、なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか」(新改訳第二版)と三度も繰り返されています。

この作者を絶望にまで追い込んだ状況が何であったのかを詳しく知る由はありませんが、大変な極限状態にあったことは確かでありましょう。

また、この二つの詩の中には、「いつ」「どこで」「なぜ」という疑問詞が幾つか見られ、特に「なぜ」は九回も繰り返されています。私たちの生活の中にも、この「なぜ」という疑問はしばしば起きてくるのではないでしょうか。
 

しかし、そうした苦しみのさなかで作者は、「私はなおも神をほめたたえる」と賛美をささげているのです。その秘訣は、ある英語の訳で見ますと、「望みを神に置く」ことによってであることがわかります。

たとえどんなに状況が絶望的だったとしても、全能の神、いつくしみの神に望みを置くなら、歌えるはずもない中で、「なおも神をほめたたえる」ことができるということなのです。賛美は力です。
  
 「神を待ち望め。
  わたしはなおわが助け、
  わが神なる主をほめたたえるであろう。
 (詩篇43篇5節)」。


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2012年03月30日

「傷んだ葦を折ることなく」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 33―

「傷んだ葦を折ることなく」 (羽鳥 明牧師)

さあ、きょうの神様からの約束のことばをご紹介しましょう。
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」(イザヤ書42章3節)。
 
八百屋さんは、傷んでいる桃をはじき出し、ぐったりしたレタスを取り除きます。売り物にならないからです。雇い主は、怠けて働かない使用人や役に立たない者を辞めさせます。世の中、弱っている者を退けます。
 
しかし、神様はそうはなさいません。神様は、弱い者に眼を向け、心砕けた人といろいろなことに虜になっている人々を顧みてくださいます。
 
誘惑に負けてぐんなりしている者、罪を犯して神の前に立つことを恐れ、恥じている者、道徳的、霊的な破産者に、優しく眼を向けてくださるのです。
 
神様の赦しの恵みの福音は、すべての折れかかった葦のような、くすぶって消えそうな燈心のような者を、いつくしみ、生き返らせる力があります。
 
溺れて沈みそうな者のために、神様の愛の手は、差し伸べられているのです。神様は、折れかかった葦をもたげてまっすぐにし、煙りを出し始めて今にも消えそうな燈心に手を添え、油を注ぎ、もう一回、明るく燃え立たせてくださいます。
 
神様は、決して、弱くて倒れそうな人をお見捨てになりません。神様の眼の前では、どんな魂にも値うちがあります。
だからこそ、イエス・キリストは、そのような者の身代わりになり、あらゆる苦しみを受けきり、血を流して、いのちを捨ててくださったのです。
神様は、このイエス・キリストを信じてより頼むすべての人を、お救いくださるのです。


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2012年02月27日

「新しい人間関係が」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージ 32―

新しい人間関係が(村上 宣道牧師)
 
おなじみの落語にこういうのがあります。
一人の婦人がある人のところに相談にやって来て、さんざん姑の悪口を言い、あの人さえいなければと何回も繰り返します。

そうまで言うならと、「毎日少しずつ飲ませると、三か月後には原因不明で、ぽっくりいく薬」というのを分けてもらいました。ただし、「原因不明とはいえ、姑が亡くなって、仲が悪いとの評判で、嫁のあなたが疑われては困るだろうから、今後三か月間はだれにも疑われないように仲良くしなさい」と言われるのです。

「そんなことは無理だ」「三か月だけだから」のやり取りを繰り返し、婦人はしぶしぶ、三か月間は我慢して、親切に、優しくすると約束して、薬をもらって帰って行きました。

さて、そろそろ薬の効き始める三か月目ごろに婦人が駆け込んできました。今度は「前の薬が効かなくなる薬を下さい」と言うのです。

訳を聞くと、「姑がとてもいい人になって、殺すことなんかできません」「どうして急に変わったんです」「わかりません」。

そこでその人は言いました。
「それはね、あんたが変わったからですよ。まさか自分を殺すためにやっているとは思わないから、ああ、うちの嫁はなんて優しく親切なんだろうと思っているうちにお姑さんも変わったんですよ。問題はあんただったんです。あんたが意地悪だったから、お姑さんも意地悪になり、あんたが優しくしたからお姑さんも優しくなったのですよ」。

「そうだったんですか。それにしても死んでもらっては困ります。なんとかしてください」。「大丈夫。あれはただの栄養剤です」というわけで一件落着。
 
私たちは毎日の生活の中で人間関係が難しいと言います。そして、あの人がいるばっかりに、あの人さえいなくなればと、他人のせいにしてしまう。

客観的にはあるいはそうなのかもしれませんが、しかしこの落語の中にありましたように「問題はあなた」かもしれませんし、自分が変わることで、相手も回りも変わってくるということがありえるのではないでしょうか。
 
聖書に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者」(コリント人への手紙第二 5章17節)とありますが、その前の句に「かつては人間的な標準で人を知っていたとしても、今はもうそのような知り方をしません」とあります。

キリストにあって新しくなるというのは、まず自分が新しくされることによって、人の見方や人間関係が変わり、新しくなるという意味でもあることを知っていただけたらと思うのです。


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2012年02月04日

「さわやかに生きる」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージ 31―

さわやかに生きる(関根 弘興牧師)

私たちの人生から、さわやかさを奪うものがあるなら、その一つは執着心です。これは、何でも握りたがる癖と言ってもよいですね。これも私のもの、あれも私のもの。いまのこの地位も権力も名誉も、何でも握りたがる癖を、人はもっているのですね。
 
でも、ギュッと握った手を差し出しても、何も受けることができません。握りしめているのですから。
こんな話を聞いたことがあります。サルを捕まえるためにどうするか。まず壺の中においしい食べ物を入れておきます。サルがやってきて、その壺をのぞくと、おいしいものが入っているではありませんか。

さっそく手を入れてその中の食べ物をわしづかみにします。さあ、問題はここから起こります。たくさんの食べ物を握ったまま手を壺から出そうとすると、壺の入口が狭くて手が抜けない。

しかし手を離すと食べ物が落ちてしまうので握った手を開くことができない。そんなことをしているうちに捕まってしまう、というわけですね。握ったものを放さなかったばかりに、結局、たくさんのものを失うなんてこともあるのですね。

いつまでもいろいろなことに固執し、執着し、ギュッと握りしめていると、逆に不自由になることもあると知っておくことは大切なことです。
 
旧約聖書に登場するヨブと言う人は、いろいろな苦難を経験した人でした。しかし、彼は、こう告白しているんです。
 
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」。(ヨブ記1章21節)
 
人生には様々な出来事が起こります。たくさんのものを失い、また手に入れます。私たちは、失うことばかりを心配して、逆に縛られ、不自由になっていることがないでしょうか。
 
聖書は、私たちに、「ゆだねる」という生き方があると教えます。
自分の握った手を開いて、イエス・キリストにゆだねるのです。思い煩いをゆだねるのです。心配事をゆだねるのです。握った手を開く、ほんの少しの勇気をもちたいですね。


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2012年01月29日

「いのちを救う情報」―あなたの心を元気にするショートメッセージ 30―

「いのちを救う情報」(安海 靖郎牧師)
 

「災」という文字に象徴された2004年は台風の連続でした。そして、スマトラ沖地震、インド洋大津波で暮れました。この半年、マスメディアは「災害」から解放される時はありませんでした。災害は、忘れないうちにやってくるようになってしまったようです。

 
旧約聖書で、ノアの洪水で当時の世界が滅びた後に、神は「大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない」(創世記9章15節)と約束しました。そして、その恵みの契約として、虹をしるしとして示しました。
 

ですから、洪水の起こるたびに、災害の起こるたびに、この主の恵みを思い起こし、同時にやがて火による滅亡が来ることへの備えをするようにとの意味があります。
 

新約聖書では、「主は……忍耐深く……ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進む」ように、そして、永遠のいのちを頂くようにと勧めています(ペテロの手紙第二3章9節)。
 

スマトラ沖の震源から至近距離にある小島シムルのことが別の意味でニュースになりました。日本の新聞にも写真入りで載りました。

人口8万余のシムル島で、あの巨大津波に直撃されたのに、犠牲者は、わず7人でした。対岸のスマトラ島沿岸、アチェ州では20万人余が亡くなったというのにです。なぜだったのでしょうか。

それはこの島では97年前にも津波の被害があり、その経験から「地震の後に海水が引いたら、山に逃げろ」という言い伝えがあり、代々語り継がれてきたのでした。

他の島では、海水が引いたところで、魚や貝を採っていて波にのまれたり逃げ遅れて犠牲になってしまったのです。
 
「救いの道を知る幸い」と「知らなかった悲劇」を二つの絵で見るような戦慄を覚えました。インドネシア政府は、最大の津波の被害対策・予防は、子々孫々にこの事実を語り続けることだと、全国民に訴えました。
 

天国への道、永遠のいのちを得る道を知っているかどうか、それは、文字通り、天国と地獄、永遠の光とやみに分けます。
 
キリストは言いました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。(ヨハネの福音書14章6節)

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2012年01月06日

「人生を見つめなおそう」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージ 29―

人生を見つめなおそう (関根 弘興牧師)
 
忙しい時代の中にあって、ふと立ち止まり、人生を見つめ直す、これは本当に大切なことです。聖書には「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」とあります(伝道者の書7章14節)。ですから、折にふれ、自分の人生を静かに見つめ直すのです。
 

人生を見つめ直すのには、二つのアプローチがあります。
一つは「過去から今を見つめる」ということです。昔を振り返りながら、今の自分を見るのですね。
 

しかし、ともすると、「昔は良かった、良かった」と、ただ懐古するだけになってしまうこともあります。過去の栄光に縛られて、今を正直に受け入れられずに、「こんなはずではないのに!」と叫んでいる人もいるかもしれません。

また、過去に多くの苦しい経験をしたために、未来にまったく希望をもてないでいる人もいます。これでは見つめ直すどころか、かえって人生をむなしいものにしてしまいますね。
 

聖書の視点は、まったく違います。
過去を見るなら、神様のなさったことを思い起こしなさい、と教えます。あなたがここまで生かされていることの中に、神様の支えを過去の出来事から見つめてみなさい、と勧めているのです。

あなたは自分の人生、何一つ良いことなんてなかった、とおっしゃるかもしれません。しかし、あなたはこうして生かされているのです。静かに過去を振り返り、神様があなたの人生を支えていることを考えてみることは、大切なことです。
 

そして、もう一つのアプローチは、未来を見つめ今を見る、ということです。未来にある希望を見つめ、待ち望むとき、今という時が限りなく大切な時となっていくのです。
 

聖書に登場する人物も、未来を望みながら、今を力いっぱい生きていったと紹介されています。彼方の永遠の国を見つめながら、今を生きていったと。

人生を見つめ直すとは、あなたの人生に神様が共にいてくださり、永遠の御国を待ち望みつつ生かされていくことなのですね。

「私は、主のみわざを思い起こそう。・・・私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう」。(詩篇77篇11・12節)

過去には感謝、現在は勝利、未来には希望、まさに私のモットーとしている通りです。
お互いに良き日々を築き上げていきたいものです。

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2011年12月23日

「心の境界線」―あなたの心を元気にするショートメッセージ 28―

心の境界線(安海 靖郎牧師)

心の専門分野で、バウンダリー(境界線)ということがいわれます。
国と国との間、家と家との境界線がはっきりしないと問題が起こるように、人と人との間にも心の境界線が必要だということです。

多くの人間関係のこじれ、心の傷は、自分と相手の心の境界線のあいまいなところから起こるというのです。
 
たとえば、「ノー」と言えないで、自分も相手も傷つく結果を招いてしまったというようなことを、だれもが経験しているのではないでしょうか。どうしたら、その大切な心の境界をはっきりしていけるのでしょう。

そのために大切なことは、まず、自分の限界を知ることだというのです。
それは、人間は神に創造された存在だということ、創造されたものだから万能ではない。制限のあるものだと自覚すること。そこから、健全な心の自立、境界線が形成されるというのです。
 

この分野の日本の専門家、臨床心理学博士の丸屋真也さんは、その著書『他人は変えられないけど、自分は変われる!』で、自立についてこんなふうに説明しています。

「自立とは、他人に頼らないで何でも自分でやること、と誤解している人がいます。本当の自立とは、自分でできることは自分でやり、自分の限界を超えたところには、他人の助けを借りることができるということなのです」。

そこに、本当に必要な助けをし合う成熟した関係が生まれる。また、いわゆる過干渉やほったらかしの害を避けられるというわけです
 
ではどうしたら、創造主なる神と、創造された自分を正しく知ることができるでしょうか。実はこれもまた、神と人間との間のバウンダリー、境界がはっきりすることだと思います。
 
立派な人、偉い人が神として拝まれたり、賽銭で時々ご利益をくれる、気まぐれなおっちゃんのような神では頼るべき時に頼れません。神観や宗教の混乱をもたらします。
 
聖書では神はどういう方だと言っているでしょうか。

「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。
主はとこしえの神、地の果の創造者であって、
弱ることなく、また疲れることなく、
その知恵ははかりがたい。

弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。

年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。

しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、
鷲のように翼をはって、のぼることができる。

走っても疲れることなく、
歩いても弱ることはない」。
    
             (イザヤ書40章28〜31節)

つまり、人間と神はまったく異なるものであることを知らなければなりません。


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2011年11月25日

Don't Worry 「心配するな」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージ 27―

Don't Worry 「心配するな」 (安海 靖郎牧師)

誰にも、いろいろな問題や心配事があります。「問題のない人は墓場の中にいる」などとも言われます。つまり、生きている限り、問題や心配事はつきものだということでしょう。厄介なのは、時々大きな問題、どうにもならないと思えるようなことに直面することです。
 

問題解決について書かれたユニークな本があります。題名も『どんなことにもくよくよするな!』というもので、国際弁護士として活躍している佐々木満男さんという方が書いた本です。

佐々木さんはこの本の中で、「私たちは、難しい問題にぶつかると、すぐ〈how〉どうしたら解決できるかと考える。しかし、もっと大切なことは〈who〉誰が解決するか、ということだ」というのです。

普通、私たちは難しい問題が起きたら、「この問題は自分に大きすぎる」、「自分にはどうにもならない」と考え、「この問題は、自分に損失をもたらすに違いない」と心配します。

それを、逆に「どんな問題も大したことはない」、「どんな問題も何とかなる」、そして「どんな問題もプラスになる」と言っているのが聖書だというのです。

そして、聖書に示されている宇宙万物を創造し、これを支配している偉大な神を知り、信じると、次のように考えが変わると言います。

まず、第一に、「神より大きい問題はない」。第二に、「神に解決できない問題はない」。第三に、「神はどんな問題もプラスにしてくださる」と。

佐々木さんは、口下手で、英語が苦手、法律も好きではなかったそうです。それが、キリストを通して、神を信じる信仰によって、今、英語で、法律家・弁護士として働き、毎日の難しい相談事をこなしているということです。
 

先日、私たちの教会でも講演にお招きしました。〈Don't Worry〉(=心配するな)という赤い文字の書いてある帽子をかぶり、いろいろな小道具を使って話されました。佐々木さんは、若い時オーストラリアに留学し、こういう考え方、生き方をするようになったということです。
 
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。                  
              (ピリピ人への手紙4章6・7節)

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