2017年06月10日

「主は私の羊飼い」

イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。    
          (マタイによる福音書4章4節)

mail1.gif「キリストの栄光教会」より送られてきた今週のみことばより

詩篇23篇1節:
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」。
私たちは右も左もわからぬまま、この世界に生み出されました。でも今は、飼い主キリストの声を聞きわけ、その牧場で養われています。まさに乏しいことはないという人生です。
人生は、誰を自分の飼い主とするかで決まります。そして人生の豊かさは、飼い主にどう従うかで決まります。自分は主の牧場に属する羊であることを心に刻みましょう。


詩篇23篇2節:
「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」。
羊は臆病です。羊飼いの姿がそばに見えていなければ、牧場に伏すことさえできません。おなかが満ち足り、ハエや寄生虫から守られなければ、落ち着きません。
羊飼いはその条件をすべて整え、水のほとりで安らぎを与えてくださいます。そのとき、仲間同士の些細な争いも止みます。羊は羊飼いから離れたら、何もできないのです。


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詩篇23篇3節:
「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」。
羊は仰向きにひっくり返れば、血が足に行かなくなり、自力では起き上がれなくなります。声を上げて羊飼いに助けを求めなければ、野獣の餌食になります。
私たちは主の牧場の羊です。自分の力や悟りに頼らず、主を呼び求めましょう。主はへりくだる者を助け起こし、霊を奮い立たせ、真っ直ぐに歩ませてくださいます。


詩篇23篇4節:
「たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです」。
「死の陰の谷」は、羊が羊飼いを最も身近に感じる場所です。羊飼いの鞭は野獣を追い払い、杖は羊が道から外れないように守ります。
私たちも人生の闇に包まれるとき、主との距離が最も縮まります。主の「鞭と杖」を肌で感じるときです。


詩篇23篇5節:
「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています」。
野獣が狙っているのに平然と草を食む羊。敵に囲まれているのに、主と差し向かいで悠然と味わう食事。主に信頼する者は、そんな究極の平安が味わえます。
一日の始まりに、聖霊の油注ぎを受けましょう。愛と優しさが全身にみなぎります。あなたに主の祝福があふれ流れます。


詩篇23篇6節:
「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」。
御言葉と祈りと賛美が主の家です。主の家に住み続けるなら、じたばたせずとも、恵みのほうから追いかけてきます。
詩篇23篇は心の処方箋です。不安で眠れない夜、大事を前にして心が騒ぐ日、黙して主を待つことができないとき、何度も唱えることをお勧めします。

posted by 優子 at 21:34| 引用文 | 更新情報をチェックする

2017年03月28日

自民党の石破茂元幹事長 国家晩餐祈祷会で挨拶

IMG_3179.jpg下記の記事は2017年3月25日に公開された『クリスチャン・トゥディ』より転載させていただいたものである。


image.jpg第17回国家晩餐祈祷会が24日夜、京王プラザホテル(東京都新宿区)のコンコードの間で開かれた。国会議員や財界人のほか、さまざまな教派の教職者や信徒およそ400人が集まり、世界と日本の平和のため、また政治や経済、教育などについて祈りをささげた。メインスピーカーには大和カルバリーチャペル主任牧師の大川従道(つぐみち)氏、音楽ゲストにはテノール歌手の新垣(あらがき)勉氏を迎えた。

午後6時、皆で「輝く日を仰ぐとき」(聖歌480番)を讃美。続いて自民党の石破茂元幹事長があいさつに立った。

この日も衆院予算委員会では、森友学園の籠池泰典理事長への証人喚問に関する質疑応答が行われ、石破氏も予算委員として国会に出席した後、会の始まる直前に会場に現れた。石破氏は昨年、一昨年もこの国家晩餐祈祷会に招かれ、3度目のあいさつとなる。

「皆さま、こんばんは。自民党衆議院議員の石破でございます。今朝も6時から働いておるのですが、まだ仕事が終わっておらず、先にごあいさつさせていただく失礼をお許しください。

私は4代目のクリスチャンになります。曾祖父、金森通倫(みちとも)が1857年生まれで、私とちょうど100歳違うのでありますが、熊本バンドの一員として新島襄先生に弟子入りをして、一番弟子と言われておって、新島先生が病に倒れられた後、同志社の総長代理となったらしい。見たわけではないが(笑い)。

その時に新島先生が遺言の中で、『金森通倫を後継者とするに自分は全く反対はしない。彼は事務に精通し、才気あふれる者であるが、惜しむらくは徳に欠けるところがあるので、残念に思う』と。何か私のことを言われているような気もしないではないが(笑い)。

それから幾つかの教会の牧師を務め、『米国のキリスト教は間違っているのだ』と言って米国に行ってキリスト教の伝道をし、何万人かを受洗させたという記録があります。最後は日本に帰ってきて、葉山の洞窟で暮らしておったという、よく分からない人なのでありますが(笑い)、それから数えて私が4代目ということに相成ります。

私が一番真面目に聖書を学んでいたのは、高校3年生の時に教会学校の臨時雇い教師になりまして、子どもたちに教えなきゃいかんということで、その時は聖書をよく勉強しました。

私は所属が日本基督教団鳥取教会なのですが、中学卒業後、東京に来てからは日本キリスト教会の世田谷伝道所(現在の世田谷千歳教会)に通っておりました。同じ高校生できれいな女の子がいて、その子に気に入られたい一心でというところが全くなかったとは申しませんが(笑い)、一生懸命、聖書を勉強致しました。

旧約聖書は大部で難しいのですが、ルカによる福音書はとても好きで、よく読んだことを覚えております。放蕩息子の話・・・まさしく自分そのものである。あるいは、金持ちとラザロのたとえ・・・自分の中に金持ちが間違いなくいるのだ。そして、パリサイ人と取税人の話・・・自分の中にも間違いなくパリサイ人はいるのだと思ったことをよく覚えています。今もそうであります。

最近は讃美歌が変わっちゃったらしくて(『讃美歌21』を指す)、よく分かりませんが、当時も好きで、今も好きなのは、『讃美歌』(1954年)の7番と191番で、私の愛唱歌なのであります。

7番というのは『主のみいつとみさかえとを』という歌であります。191番というのは、『いともとうとき主はくだりて』という歌であります。この3節に『数多(さわ)のあらそい み民をさき・・・』とありますが、実際、私ども、毎日こんなことをやっております。(讃美歌は末尾でご紹介しています)

政治の世界ってのは、憎悪と怒りと悲しみと嫉妬と、ま、そんな世界でありまして、昨日あたりまさしくそんな感じでありまして、『数多のあらそい み民をさき』だと思います。そして、何が正しくて何が間違っているかは人の知るところではありませんが、『かみはたえざるいのりをきき、なみだにかえて歌をたまわん』、そうであるなと心から信ずる者であります。 

私たちは本当に過ち多い者だと思います。私の場合は特にそうだと思っています。ただ、『御心がこの世になりますように』『過ちばかりの私ですが、どうぞこれを正してください』、そして『どうぞ御用のためにお用いください』と祈れることは本当に幸せなことだと思っております


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(頭上に掲げられている横断幕を見上げて)この『世界と日本に平和を!』ということであります。

その手段についてはいろんな考え方があります。私は別にテロ等準備罪の宣伝に来たわけではありませんが、あれは一般の方々に間違っても嫌疑が及んだり、捜査の手が及んだりすることのないように、人権を最大限尊重するようにということで、テロ集団というものを対象と致しております。

何が最も良い手段なのかは、われわれ愚かな人間に分かることではありません。しかし、自由が守られ、人権が守られ、そして民主主義が尊ばれ、法の支配が貫徹されるためには何ができるか。それぞれが正しいと思うことはあるのだと思います。

ただ最も大事なのは・・・ということは私ごときが申し上げることではありませんが、『誤りがあれば正してください』『御用のためにお用いください』という思いをまた皆様方から学ぶことができれば望外の幸せであります。

今日の会が主のご加護のもとに豊かな実りをもたらさんことを心からお祈りして、ごあいさつとさせていただきます。ありがとうございました」。
そして石破氏は拍手の中、会場を後にした。

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祈祷会の最後に全員での集合写真に収まる参加者

2_onpu_ak.gif  讃美歌7番「主のみいつとみ栄とを」

2_onpu_ak.gif  讃美歌191番「いとも尊き」

     1 いともとうとき 主はくだりて
       血のあたいもて 民をすくい
       きよき住居(すまい)を つくりたてて
       そのいしずえと なりたまえり

     2 四方(よも)のくにより えらばるれど
       のぞみもひとつ わざもひとつ
       ひとつのみかて ともに受けて
       ひとりの神を おがみたのむ

     3 数多(さわ)のあらそい み民をさき
       世人(よびと)そしりて なやむれども
       神はたえざる 祈りをきき
       涙にかえて  歌をたまわん

     4 世にのこる民 去りし民と
      ともにまじわり 神をあおぎ
      とわのやすきを 待ちのぞみて
      君の来ますを せつに祈る

posted by 優子 at 10:56| 引用文 | 更新情報をチェックする

2017年02月06日

星野富弘さんの思い

IMG_2331.jpg星野富弘さんをご存知でない方はおられないであろう。
これは得意とする吊り輪をしている大学時代の星野さんだ。

詩画を描く.png1946年・群馬県生まれ、1970年に群馬大学教育学部体育科卒業後、中学校の教諭になるがクラブ活動の指導中頸髄を損傷して手足の自由を失い、2年後より口に筆をくわえて文や絵を書き始める。

口で初めて書いた字
口で初めて書いた字.jpg

星野さんが描いた詩画と共にその思いをご紹介したい。

日々草

星野富弘sann.jpg今日も一つ
悲しいことがあった
今日もまた一つ
うれしいことがあった

笑ったり 泣いたり
望んだり あきらめたり
にくんだり 愛したり
・・・・・・・・
そして これらの一つ一つを
柔らかく包んでくれた
数え切れないほど沢山の
平凡なことがあった


「笑ったり、泣いたり、望んだり、あきらめたりということは、ずっとそういうことがなくなるということではありません。そういうことは私は信仰を持つ前も、持った後も、それほど変わらないと思います。

ただ幸いなことに体が動かないということで、人を殴ったり、そういうことは出来なくなりましたが、気持の面では、時には殴りたいような時もあります。おそらく動いていたら、手を振り上げていただろうなあという時もあります。

でもそういった色々揺れ動く、時には神様を疑って見るような、そんな気持になる時もあります。でもそれも何か神様がニコッと笑いながら見ていて下さるような、そんな安心感があるんですね。

それでこの詩で最後に『平凡なことがあった』と書いていますが、やはり私は神様を受け入れたというところで、何というか平凡なことを発見したということと、何かとても繋がるんですね。

私は平凡になる、なったもの、それは長い間、人間の生活、人間が工夫したり、したものが、時間をかけて角が取れて、誰でも受け入れられる。何とも思わなく、受け入れられるようになったもの、そういうものの極致の姿ではないかなあと思っています。

それは人間だけではなくて、この自然の風景、それから私がごく普通のそこらにある花をたくさん描いているんですが、そういうものに目を向けられるようになったというのも、つい見過ごし勝ちな平凡な普通の花を、花もよく見て見ると、凄く精気に出来ていて細かいところまで綺麗に神様の手が行き届いているなあというふうに感じるんですね」。

花梨の実

さん星野富弘.jpg毎日見ていた
空が変わった
涙を流し友が祈ってくれた
あの頃
恐る恐る開いた
マタイの福音書
あの時から
空が変わった
空が私を
見つめるようになった
 

「私と空は花と同じように切り離せない。空を見ていて色々なことを思う。空が私を見つめるようになった。これは信仰をもつようになってから、空から神がというよりも、そっくり包んでくれる空のような神様がいつも見ていてくださる。空は、神様という言葉よりももっと、私にはぴったりというもの」。

「美しい花をいつも描いていますけど、何と言いますかね、美しいものだけに目がいかないんですね。やはり神様に生かされているという、その生活というか、いつも神様が見ていて下さるという、そういうことを知っていますから、自分がどんなに罪深いというか、醜い心を持った人間であるかというのは、みんな見られているわけです。

もちろんやることは人に見られる、人が感じているところは、何かいい生活というか、とても清い生活をしているんじゃないかというような、それは人にはそういうところを見せますが、でもやはり見えない部分というか、心の中まで覗かれた時には、決してそれは人に見せられるというか、誇れるような生活はしていません。

ですから美しい花を見た時にも、その花の根っ子のほうですね。それもどうしても見つめないわけにはいきません。

美しい花を持っている、その同じ茎にいつも土に隠れた、そしてそこから生えている枝や葉っぱは必ずいつも花のようには美しくないんです。

虫が食ったり、枯れていたり、萎れていたり、どうしてもそういう虫の食った部分まで目がいってしまうというのは、やはり花を描きながら、自分自身を描いているような、描きたいと思う、そういう部分に自分自身を、何というか、描きたい。

そんな思いで虫の食ったところとか、枯れた葉っぱとか、描かざるを得ないんですね。描きたいというよりも、描かざるを得ません。

ですからこれは一枚の小さな紙に描かれた絵ですが、花を描いた花と詩に、いつも自分自身を描いているような気持ちです」。

             (「こころの時代」より)

posted by 優子 at 18:43| 引用文 | 更新情報をチェックする

2015年02月19日

神が将来に備えてくださっている祝福に目を留めよ! ―経営者のための聖書経営学セミナー「キリストの人材教育」より―

今日の記事は2014年9月から13回にわたって、『クリスチャン・トゥディ』に連載された黒田禎一郎氏の経営者のための聖書経営学セミナー「キリストの人材教育」(13)まとめより転載させていただいたものである。

シリーズ初回の「一保堂茶舗の企業姿勢」では、288年間続いている老舗「一保堂が求める人材」は、意欲、感受性、論理性の3つの視点を重視して新入社員を採用しているとのこと、毎回興味深く読んでいた。

本.jpg1989年11月にベルリンの壁が崩壊して間もない1991年に、黒田氏の著書・『激動する欧州と聖書預言』を読み、その後、『ヒズ・ブレッシング 山上の垂訓 (His Blessing)』でも感銘を受けた。

下記は前掲連載記事の最終回を、冒頭を省略して転載させていただいたものである。
私は以前、旧東ドイツ出身の牧師夫妻の通訳をしたことがあります。
彼らは旧東ドイツ時代、カール・マルクス市(現在ケムニッツ市)と呼ばれた町に住んでいました。その名前でお分かりのように、町はカール・マルクス主義が支配し、町全体が無神論主義、共産主義の影響を大きく受けていました。

かつてのソ連もそうでしたが、旧東独でもクリスチャンであれば義務教育後、上級学校に進むことができませんでした。彼女は中学を終えただけで、高等学校に進学を希望しても国が認めず、非常に悲しい思いをしました。彼女は勉強したかったのです。

しかし、彼女の両親はクリスチャンで、「教会でお手伝いをしなさい」と、彼女をルーテル派教会に送りました。教会の掃除をし、日曜学校や青年会で子どもたちを助け、オルガンやピアノを弾くことを覚えました。

ドロテア夫人の母は、彼女が教会の手伝いをし、さまざまな実地訓練を受けることが最適と考えました。しかし、まだ15歳であった彼女にはそのことがとても理解できませんでした。彼女は「他の子どもたちは学校に行けるのに、どうして自分は行けないのか。自分も勉強したい」と思いましたが、許されませんでした。

しかし彼女がルーテル派教会で訓練を終えた時、ルーテル派教会が終了証明書を発行しました。これは学校の証明書とは違いますが、「あなたは日曜学校の指導ができます。オルガンが演奏できます」という内容が書かれていました。彼女はそれを受け取りとても喜びました。

その後、彼女はデイーター・コイヒャー牧師に出会い結婚しました。
彼女はこのように言いました。「私は牧師夫人になるために必要な事柄を、上級学校に進めないことによって学びました。実際に教会に送られ、細かい働きを通して教えられました。あの時、苦しみの中で学んだ事柄が、後になって生かされ、それらは神の備えでありました

やがて二人は結婚し、ケムニッツ教会は会員数80人でスタートしました。今はその10倍の800人の教会となっています。コイヒャー牧師は、ドイツ国教会聖霊刷新協議会議長をしている人格者で立派な方です。
夫人が言いたかった点は、すべての苦しみや試練は神が許されて起こることであるということです。彼女はその一点を理解した時、心のうちに大きな励ましを得たと言いました。

彼女はもうひとつ話をしました。7人の子どもが与えられましたが、3人亡くなりました。親にとって(とくに母親にとって)、子どもが自分より先に世を去ることは大変なことです。

私たちも子どもを1人亡くしましたが、妻にとっては大変でした。ドロテア夫人は、3人も失いました。それは想像を絶することです。ある時、双子が同時に亡くなったというのです。その時、彼女はもう立ち上がれなくなりました。長い間、彼女は双子をお腹にかかえやっと出産したというのに亡くなってしまい、もう抱いてあげられない、ミルクもあげられないという大きな痛みの中に置かれました。

その時、神は彼女の夫を通し、「あなたは今、子どもを亡くしたという大きな悲しみにばかり目を留めている。なぜあなたは私がその先に用意している祝福に目を留めないのか」と言われたそうです。

彼女はそのことを聞いた時、祝福など全く見えませんでした。悲しみのどん底、試練のどん底、戦いのどん底に置かれどうすることもできませんでした。

しかし「そうだ。私の信じている神は私を愛し、私を祝福してくださると聖書が教えている。この神をもっと信頼すべきだ」と彼女は教えられ、励ましをいただきました。それからの彼女は、喜びをもって神にお仕えするようになり、素晴らしい働きをされています


人は例外なく試練を通りますが、その試練がモチベーションにもなります。あなたは人生の戦いをどのように受けとめていますか。

私たちは現実に存在する大きな壁を見ると、勇気を失い疲れてしまう者です。しかし、バイブルはもう一歩先を見ることを教えています。これは不思議な書物です。ですから、私たちはバイブルを読むことをお勧めしているのです

第二番目に、私たちは先人から学ぶ「成功方程式」があります。幸いなことに、私たちは多くの成功ノウハウを学ぶことができます。バイブルの中には、いろいろな秘密が秘められています。それはQuality Lifeの視点で第三番目に大切なことです。

バイブルは私たちに、質の高い、生きがいのある、喜びがある、幸いな生き方を教えています。皆さんがQuality Lifeを発見してくださることを願います。それには何が大切でしょうか。

結局のところ「個」です。
あなたが勉強し、あなたが自分を磨き研鑽を積み、そして「ペルソナ」を磨き上げることにより成長するのです


どうぞ「もう一つの生き方」が、人生にあることを覚えてください。

posted by 優子 at 11:26| 引用文 | 更新情報をチェックする

2015年02月09日

オバマ米大統領、国家朝餐祈祷会に出席 宗教を悪用する勢力に抵抗する3つの原則語る

この記事は昨夜遅くに公開された『クリスチャン・トゥディ』のオバマ米大統領、国家朝餐祈祷会に出席 宗教を悪用する勢力に抵抗する3つの原則語るより、全文転載したものである。
尚、『クリスチャン・トゥディ』記事の全文転載については、出典元を明記してリンクを埋め込めば良いとの許可を2014年8月末にいただいている。
米国朝餐祈祷会のオバマ氏.jpgバラク・オバマ米大統領は5日、米国家朝餐祈祷会に出席し、信仰ある人が、イスラム国(IS)のように信仰をねじ曲げ悪を行う者に立ち向かうのには3つの原則があると語った。

オバマ大統領はこの席で、全ての信仰から哀れみと愛が溢れ出すが、全ての信仰は悪の目的のためにねじ曲げられた歴史を持つと述べた。

信仰は毎日世界中で良いことをするよう、人々にヒントを与える。オバマ大統領は以前エボラ出血熱に罹患し、そして生還したキリスト教支援団体「サマリタンズパース」のケント・ブラントリー医師を指名する際、そのように語った。ブラントリー医師は開会の祈りをし、大統領の左隣に座っていた。

信仰は悪いことのためにも誤用される。「私たちは、信仰が正しいことをする動機となることを見てきています。しかし信仰がねじ曲げられ、曲解され、分裂をもたらすくさびのように、そしてさらに悪いことには武器のように使われることも見ています」とオバマ大統領は語った。

最近の中東やパリでの暴力事件に言及し、オバマ大統領はテロリストが「イスラム教のために闘っていると告白しているものの、事実としては裏切っている」と語った。

「信仰者として、私たちはどうこれらの現実を一致させればいいのでしょうか」と問い掛け、「私たちが持つ全ての信仰から溢れ出る完全な善、力、不屈の精神、哀れみと愛は、自身の残忍な結末のために宗教を乗っ取ろうとするものと並んで、その働きができるのでしょうか。人類の歴史の全体を通して、われわれ人類はこれらの問題を解決するために取り組んできています」。

宗教の名を借りて暴力を振るうことはイスラム教に限ったことではないとオバマ大統領は指摘し、十字軍、宗教裁判(カトリックの異端審判)、奴隷制、黒人への差別を引き合いに出した。そして、これらのものは全てキリスト教徒であると告白した人々によって擁護されてきたものだと述べた。

国家朝餐祈祷会での祈り.jpg
オバマ米大統領、国家朝餐祈祷会に出席 宗教を悪用する勢力に抵抗する3つの原則語る
米国家朝餐祈祷会の閉会祈祷を祈るアンドリュー・ヤング元アトランタ市長に合わせて祈るバラク・オバマ米大統領(左から3人目)とミシェル大統領夫人(同2人目)(写真:ホワイトハウス)

罪こそが、宗教が悪のために誤用される理由だとオバマ大統領は言い、「これは、一つのグループ、一つの宗教に特異的なことではありません。これは私たちの中にある傾向、すなわち罪の傾向によるもので、それが私たちの信仰を悪用し、ねじ曲げるのです」と語った。

そして、宗教を悪のために使う人々に対抗するために必要な3つの原則があると述べた。

1. 謙遜

「信仰の始まりは何かしらの疑いです」とオバマ大統領は語った。

「自分が完全だと思わないこと、自分は正しいと思い込み過ぎないこと、また神は私たちにのみ話しているだけで、他の人には話していないとは考えないこと。・・・そして、自分たちだけが真理に到達していると思い込まないようにすること。

私たちがするべきことは、私たちが真理だと思う見解に、神が応えてくださるよう願うことではありません。私たちがするべきことは、神に、神の言葉に、そして神の命令に真実であることです。

私たちは、自分たちが混乱していて、いつも自分が何をしているか分かっているとは限らないこと、そして神の前によろめいていて罪を犯しやすいことをへりくだって認めるべきです。そして認めるプロセスの中で、謙遜を身に付けるべきです」。

そして謙遜を身に付ければ、「神の名を、狂信、妄信を持って誤用する」人に立ち向かえるはずだと述べた。また、謙遜の重要性を理解していることの表れとして、米国の建立者たちが信教の自由を守ったと説明した。

「家庭でも、また世界中においても、基本的人権としての自由権、つまり信教の自由、自分の選んだ信仰を実践する自由、信仰を選択し変更する自由、あるいは何の信仰をも持たない自由があります。そして、迫害や恐怖にさらされることなくそれを行う自由があります」とオバマ大統領は語った。

2. 政教分離

米国がいまだ非常に宗教的な国家である理由の一つとして、政府がどの宗教に対しても特別視していないことを、オバマ大統領は合衆国憲法修正第1条の国教条項を引き合いに出して説明した。

「私たちの政府は宗教を後援しませんし、誰にも特定の信仰を実践するよう圧力をかけたりしません。そしてその結果は、さまざまな背景を持つ人々が、自由に誇りを持って、恐怖におびえたり強制されたりすることなく礼拝できる文化に表れています。信教の自由は、米国内で私たちが油断することなく守り切るものです」。

オバマ大統領はまた、昨年の朝餐祈祷会で、当時北朝鮮で拘束されていたケネス・ペさんとイランで拘束されていたサイード・アベディニさんのために祈ったことに触れた。2人とも信仰のために拘束されていたが、ペさんが現在は解放されて帰国していることにオバマ大統領が言及したとき、会場からは拍手が沸き起こった。

アベディニさんはいまだイランで拘束されている。オバマ大統領は、最近アイダホ州に住むアベディニさんの妻子と会ったと述べ、その中で大統領は、「アベディニさんを解放させるために、全てのことをしていると伝えた」と語った。

そしてその面会のあと、大統領はアベディニさんから、家族を訪問したことと「拘束中に連帯の意を持ってくれたこと」への感謝の手紙を受け取ったと語った。

3. 黄金律

オバマ大統領はまた、「信仰を持つ全ての人、また信仰について模索している人々を束ねていると見受けられる一つの法則があります」と指摘した。「それは黄金律です。私たちは、自分がそうしてほしいように他の人にも振る舞うべきです」。

黄金律は、ユダヤ・キリスト教系の信仰だけで見られるものではない。オバマ大統領はイスラム教の聖典コーランを引用して、「自分が自分のために望むことを、兄弟のためにも望むことができるようになるまでは、本当に信じているとは言えない」という箇所を紹介した。

また、ブラントリー医師、ローマ教皇フランシスコ、ゲストとして出席したチベット仏教の指導者ダライ・ラマ14世を指し、黄金律の生ける手本として紹介した。

「私たち自身の姿をお互いの中に見ること、兄弟姉妹の後見者となること、互いに信仰を保ち合うこと、恐らくこれは、私たちにとって最も大きい挑戦となるでしょう」とオバマ大統領は語った。

そしてオバマ大統領は、一つ目のポイントである謙遜についてもう一度くり返し、旧約聖書のミカ書6章8節を引用して話をまとめた。

【ブログ筆者附記】ミカ書6章8節:  
「人よ、彼はさきによい事のなんであるかを
 あなたに告げられた。
 主のあなたに求められることは、
 ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、
 へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」。


「もし私たちが十分謙遜であり、機会にあたってひざまずくなら、私たちは自分たちが決して神の目的の全てを知ることができないことを理解するでしょう。私たちは、神の驚くべき恵みの深さを見抜くことは決してできません。私たちは、暗く色づいたメガネを通して神の大きな愛の広がりの一端を知るのです。

それでも、私たちに限界があってさえも、必要なことに留意し、正義を行い、親切であることを愛し、神とともにへりくだって歩むことはできるのです」。

このリポートからオバマ大統領の信仰観は正統なキリスト教信仰であることがわかる。聖書を神の言葉と信じる私たちは、神の御前で共に謙虚になって、人間の行く末に大きな影響力のある米国大統領が、神の知恵をいただいて最善な道を選び取って行くように祈らねばならない。

後藤健二さんの母は、「息子の救出を求めて安倍首相や官房長官に面会を申し入れたが断られた」と報じていたが、オバマ大統領はイランで拘束されているアベディニさんの家族(アイダホ州)を訪問したとは心を打った。

posted by 優子 at 21:54| 引用文 | 更新情報をチェックする

2014年01月06日

神の慈しみに感謝して

我々には今日、どんな喜びが訪れるか知る由(よし)もない。
どんな悲しみや誘惑が
我々の行く道で待っているかも知れぬ。
しかし確かなのは、
良きにつけ悪しきにつけ
神の恩寵が常に我らを助け
聖なるみ旨を行うために助けを送られること。


「今まで、主は我々を助けてくださった」。
                (サムエル記上7章12節)

この喜びも試みも天上からくるもの
我らの日時計の上を愛の指針が巡るゆえ
我らはすべてのことが
我らのためになされると確信する。
主にまったき信頼を置く者は
主がまったき真実であると知る。

              (ウィリアム・バークレー)


posted by 優子 at 21:43| 引用文 | 更新情報をチェックする

2013年08月17日

多様性とは自分と人は違うということ

今夜の『NHKスペシャル』で『緒方貞子 戦争が終わらないこの世界で』を見た。カトリック信仰者の緒方貞子さん(85歳)は尊敬する憧れの人だ。

「“小さな巨人”と称えられ、その類いまれなる行動力と決断力が、今も世界の尊敬を集める、一人の日本人女性である。
1991年から10年に渡って国連の難民救済機関UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のトップを務め、“戦争が生み出した弱者”である難民を救うため、世界を駆け回った」。

以下は緒方さんの言葉より:
▼文化、宗教、信念が異なろうと、大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない。世界はつながっているのだから。

▼忍耐と哲学をかければ、物事は動いていく。

あいまいで不透明な問題などというものはない。あいまいで不透明と考えるのであれば、それを個々の課題に落とし込み、課題ごとの方策を考えていくことが肝要

▼熱い心と、冷たい頭を持て。

▼(決断は)最後は理論ではない。一瞬のカンです。

聡明で行動力のある人だ。
以下は緒方さんの興味深い人となりについて書かれている。("Nスペeyes"より抜粋):
緒方さんが1991年から10年間、国連難民高等弁務官としてトップを務めた国連難民高等弁務官事務所(以下、UNHCR)の外国人の部下やスタッフたちが、緒方さんについて「彼女の持つ一番大事なところは“ケアリング”」と口を揃えて話したこと。

おそらく、難民や戦争の被害者、犠牲者ひとりひとりの立場に立って、彼らの救済に尽力する緒方さんの姿を見たからこその言葉でしょう。

この“ケアリング”を日本語に訳す場合、ニュアンス的にとても難しいのですが「思いやり」という言葉が該当します。しかし、お話を伺った関係者の皆さんが緒方さんを語る“ケアリング”は、いわゆる日本人の考える「思いやり」では表現し切れないように感じました。大きくいえば母性のようなものでもあるのかなと

「母性のようなもの」とは、聖書で培われた世界観の現れではないだろうか。

附記:夫はモスクワで開催されている世界選手権大会から目が離せない。
私は今朝未明から高血圧による強い頭痛で目が覚め一日中伏せっていた。夜になってテレビを見る体力が戻ったが体調はよくない。

posted by 優子 at 23:44| 引用文 | 更新情報をチェックする

2013年02月11日

彼が生涯の終わったあとに残したものは・・・

「明日」(作者不詳)

彼は人間の達しうる最高の者になろうとしていた ― 明日

彼は誰よりも親切で勇敢な者になろうとしていた ― 明日

彼は悩み疲れたひとりの友を尋ね、
どうすればよいか相談しようとしていた ― 明日

彼は朝ごとに、書こうとする手紙を山のように積み重ねた 
― 明日

そして、彼が喜びをもって満たそうとしている人々のことを考えた 
― 明日

きょうは忙しすぎるのだ、一瞬の息をつく暇もない。

彼は言う
「私は他の人々のために働く時間を持つようになるだろう ― 明日」と。

彼は、最も偉大な働き人になったであろう ― 明日になれば。

世界は彼を知ったであろう ― もし彼が明日まで生きていれば。

しかし、彼は死んだのだ。

そして彼は人々の見える所から消え去った。

彼が生涯の終わったあとに残したものは

明日しようとしていた山のような仕事だった。

毎日のように思い出す詩だ。
これは誰にとっても心すべきことだが、特に60歳を過ぎた者にとっては命は限りがあることを実感させられるのではないだろうか。
今日という日を、今を活かそう。

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2012年07月18日

「踏みつけられてできた道」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 最終回―

「踏みつけられてできた道」 (村上 宣道牧師)

旧約聖書というのはヘブル語で書かれていますが、「道」と訳されている「デレク」ということばは「踏みつける」という動詞から来ています。

イエス・キリストは「わたしが道である。わたしを通してでなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と言われました。ヘブルの文化の中でお育ちになったイエス様は、ご自分が「踏みつけられるもの」としての道であることを意味しておられたに違いありません。
 
イエス・キリストが神の子でありながらこの地上に来られたのは、罪人である人間、私たちがみな神のもとに行くことができるように、究極的には神の国、天国に行くための道となるためだったのだ、ということです。そのためにご自分が、「踏みつけられるもの」となることを覚悟のうえだった、ということができます。

実は、あの十字架こそは、踏みつけられた姿そのものなのです。あの十字架は、言うまでもなく、私たちの罪の身代わりとして受けられた刑罰の苦しみです。
 
イエス様は、「わたしを通してでなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と言われたのですが、それは、この道を通らずして、つまり、この十字架が私の罪の身代わりとして踏みつけられたものだと受け止めることなしには、だれも父なる神のもとに行くことはできないし、そしてその祝福にあずかることはできないということを意味しているのです。

天国へは、自分の努力や功績、自分の作りだした道によっては、決して行くことはできません。

逆に言えば、自分が今まで道を踏みはずしていて、とても天国に行く資格などない、罪人だ、というふうに自覚し、その罪のために踏みつけられて道となってくださったイエス・キリストの十字架を信ずるならば、そしてその道を歩んでいくならば、確実に神のもとに行くことができるのだということを、ぜひ知っていただきたいと思うのです。


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2012年06月22日

「変わらぬ愛、動かぬ契約」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 38回―

「変わらぬ愛、動かぬ契約」(羽鳥 明牧師)
 
旧約聖書、イザヤ書54章10節に、こうあります。
「『たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない』とあなたをあわれむ主は仰せられる」。 

人は変わり、街が変わっても、山は変わらない。「ふるさとの山はありがたきかな」と石川啄木も歌いました。しかし、山も変わり丘も動くのです。天変地異ということば通り、太陽も地球も変わるのです。
 
しかし、そんなすべてが変わる世の中、人生にあって、変わらないもの、動かないものがあると、神は言われるのです。「神の愛」、「神の平和の約束」です。
 
旧い年を送り、新しい年を迎えても、「そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である」(申命記11章12節)と聖書は言っています。
 
お母さんの目が、いつも幼子に注がれていること、それがその子の安全と幸せであるように、神様の目がいつも私たちの上に注がれていることが、私たちの安全と幸せです。
 
また聖書の別のところに、「主(神)はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(歴代誌第二16章9節)とあります。
 
目を注いで、守ってくださるばかりか、私たちが信仰と信頼をもって主を見上げるとき、カを与えてくださる。信じる力、祈る力、ほめたたえる力・・・人生の本当の力を注ぎ込んでくださるというのです。神を信頼し、神に従うことにおいて、いっそう徹底して行こうではありませんか。

「神様、信じます。信仰のない私を助けてください」。
そんなひとことで、私たちの神への信頼と服従の生活は始まるのです。私が69年前、そんな祈りをささげて以来、神様の愛は変わらず、神様の平和の約束は動きませんでした。

聖書のことば「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」。(イザヤ書54章10節)

最後にエレミア書10章2節から5節をご紹介します。
このブログを愛読してくださっている方々に、まことの神さまをお伝えすることができますように。
主はこう言われる、
「異邦の人の道に習ってはならない。
また異邦の人が天に現れるしるしを恐れても、
あなたがたはそれを恐れてはならない。
異邦の民のならわしはむなしいからだ。

彼らの崇拝するものは、林から切りだした木で、
木工の手で、おのをもって造ったものだ。
人々は銀や金をもって、それを飾り、
くぎと鎚をもって動かないようにそれをとめる。

その偶像は、きゅうり畑のかかしのようで、
ものを言うことができない。
歩くこともできないから、
人に運んでもらわなければならない。


それを恐れるに及ばない。
それは災をくだすことができず、
また幸をくだす力もないからだ」。

私たちクリスチャンが信じる神は、人や自然、また、動物を神格化して信仰の対象としているのではありません。そこに人生観や価値観の大きな違いがあります。

ですから私たちはキリストの絵を拝むこともキリスト像や十字架を拝むこともしません。それもまた偶像であり、それらには何の権威もないからです。

これをお読み下さっている方々がまことの神と出会われるように切に祈ります。


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2012年06月14日

「人にはどれだけの土地がいるか」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 37―

「人にはどれだけの土地がいるか」(安海 靖郎牧師)

『人にはどれだけの土地がいるか』というトルストイの小説、寓話があります。絵本にもなっています(いのちのことば社刊)。子どもだけでなく、大人にも人気があるそうです。子どもに読み聞かせながら大人が考えさせられるというのです。
 
話の内容は、働き者の農夫だったパホームが悪魔の誘惑を受け、人から借りていた土地を買い取って、自分のものにするというものです。そして、それを二倍、三倍、十倍と広げていこうと努力します。

しかし、最後に彼に必要だった土地は、自分の棺桶を埋めるための、わずかな土地だったという、いかにもトルストイらしい痛烈な皮肉です。
 
でも、考えさせられるものがあります。より広い土地を求めようとするパホームの姿は、私たちだれもがもつ欲望を、所有欲を象徴しているからでしょう。
 
興味深いのは、この小説で私たちの心と土地が対比されていることです。パホームは言います。「土地さえあれば、なんだってこわくない。悪魔だってこわくないさ」。何かバブル時代の私たち日本人の心みたいですね。
 
でも、こんなふうに書かれているんです。「パホームは、広い土地をもつようになりました。でも、彼の心は前よりもずっとせまくなってしまいました」。広い土地の代わりに色々なものをあてはめてみることができるのではないでしょうか。

「これさえあれば」「あれさえあれば」と思い、望んだものを手にしたら、実は心豊かになるどころか、狭く、むなしくなったという経験です。
 
三千年前、富や豊かさの象徴のようなソロモン王は言いました。「人の心を豊かにするものは物ではない。愛だ」と。
 
二千年前に書かれた新約聖書では、こんなふうに言われています。
「たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」。(テモテヘの手紙第一 6章17節)
 
富や財産は大切なものですが、それが望みになったり、それを得ることが人生の目的になると、心は豊かどころか狭くなるというのです。
 
心の豊かさ、広さは、財の量ではなく、すべてのものを与えてくださる神様に望みを置き、頼りにしていくところにあるというのです。



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2012年05月11日

「母の日に思う」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 36―

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「母の日に思う」 (村上 宣道牧師)

「親孝行したい時には親はなし」などと言います。今は「親孝行」という言葉すら死語になりつつあるといわれます。母の日に際して、親に対して、ことに母親に対しての私たちのあり方について、聖書はどう教えているかを少し考えてみたいと思います。
 
旧約聖書の箴言には、「わが子よ、あなたの母の教えを捨ててはならない」ということばや「愚かな人はその母を軽んじる」とか「年老いた母を軽んじてはならない」というようなことばが何回か出ていて、母と母の教えを尊ぶべきことを教えています。
 
イエス・キリストもこの地上で人の子としての生活をされた時には、両親に従い、大工として働き、家計を助けたといわれています。
父ヨセフは早く他界したと思われますが、ご自分が十字架につけられて殺される時、母マリヤはその十字架のすぐ近くで、わが子の苦しみを見守っていました。

イエスが十字架上で発せられたことばが七つ聖書に記されていますが、その中の一つは母マリヤに関することでした。
イエスは十字架上で間もなく息を引き取ろうとする時、わが子の苦しみを目の当たりにしながら、悲しみもだえている母のことがとても気になられたようです。

ただ一人、弟子たちの中で、十字架のそばにいたヨハネを見ながら、母マリヤに「そこにあなたの息子がいます」と言われ、ヨハネに向かって「そこに、あなたの母がいます」と言われたのでした。「その時からこの弟子は彼女を自分の家に引き取った」と、聖書は記しています。

主イエスは耐えられないほどの苦しみのさなかにありながら、自分を生み育ててくれた母親のことを心にかけ、愛する弟子に、その後の面倒を託していかれたのです。
 
親を、家族を大切にするということは、聖書が一貫して教えていることです。その親孝行についてですが、日野原重明先生が新聞に次のようなことを書いておられました。

「親の愛情は『海より深い』などと例えられるが、その愛情のお返しを子どもに望むべきではない。親は、子どもが社会のニーズに貢献することが一番望ましいと考えて欲しい。子どもは親への感謝の心を無形の言葉で返せばよい」ということでした。
 
私たちが神様に喜ばれる生き方をし、少しでも社会のニーズにお応えできる生き方をしていくこと、それが今も変わらぬ親孝行につながることなのではないでしょうか。


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2012年04月22日

「カメ人生で歩もう」―あなたの心を元気にするショートメッセージより 35―

「カメ人生で歩もう」 (関根 弘興牧師)
 
日本の昔話にうさぎとカメの話がありますね。うさぎとカメが「向こうの小山の麓」をゴールに、かけくらべする話です。だれが考えてもうさぎが勝つところですが、うさぎは、どうせカメは追いつけまいと余裕の一眠りをしてしまいます。
 
うさぎとカメの距離はどんどん縮まり、ついには、カメがうさぎを追い越して勝ってしまったという話です。どうしてそんなことになったのでしょう。
 
うさぎがなまけものだったからとか、自己過信があったとか、もちろんそういうこともあるでしょう。でも何を目標としていたかということも、大切だと思います。 
 
うさぎの目標はカメに勝つことでした。だから、カメがどのくらいのペースで、今どこにいるか、ということばかりを考えていました。しかしカメのほうは、うさぎに勝てるはずがありませんから、目標は、あくまで「向こうの小山の麓」まで完走することだったわけです。
 
どうも私たちは、このうさぎのような感覚をもってしまうことが多いようです。目標に向かって走っていくというより、まわりがどうであるかということに左右されます。まわりばかりが気になって、本来、完走すべき道のりを走ることができなくなってしまうのです。
 
私たちはすぐに人と比べたがる癖をもっています。すぐに批判的になってみたり、逆に劣等感に悩んでしまうこともあります。いつのまにか、ゴールを目ざす生き方ではなく、まわりの存在が自分の目標にすり替わってしまい、一喜一憂していることが多いのです。
 
新約聖書の多くの手紙を書いたパウロはこう書いています。
「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」。(ピリピ人への手紙3章13〜14節)
 
私たちの人生は、永遠の天の都というゴールを目ざす生涯なのです。後ろのものを忘れ、一歩ずつ前に進む人生なのですね。カメのように歩むのがゆっくりでも気にしないことです。

「なんと歩みの遅い人」と言われようが、大切なのは、イエス・キリストが私とともに歩み、一緒にゴールをしてくださるということをしっかりと信頼し、歩むことなのです。


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2012年04月06日

「なおも神をほめたたえる」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 34―

「なおも神をほめたたえる」 (村上 宣道牧師)

「歌う」というのは「訴う」から出た言葉だといわれています。歌は必ずしも、楽しく愉快な気分からだけではなく、むしろ、とても歌えないような状況の中で、何ものかを訴えたい気持ちの表れとして生まれてくるほうが多いのかもしれません。

「バイオリンの名器は、谷に落とされ、流れにもまれ、あちこちの岩にぶちあたりながら流れ着いた木からなるものもある」のだそうです。その深い音の響きは、くぐり抜けてきた苦難の経緯と無関係ではないのでしょう。

聖書の中で、一番多くのスペースが割かれているのは詩篇です。この「詩篇」のもとの言葉は〈テヒリーム〉といい、〈ハレルヤ〉(=主をほめよ)という動詞から由来した名詞の複数形で「賛美歌集」という意味です。

この中には、賛美の歌や感謝の歌に分類されるものも多くありますが、嘆きの歌とされる詩篇の数も大変多いのです。イスラエルの歴史というのは、苦難の歴史でしたから、その中での神への切実な訴えが歌となり、それが賛美ともなっていったのだろうと思われます。
 

詩篇42、43篇は、典型的な「嘆きの詩」とされるものです。この二つの詩篇は、もともと一つであったろうといわれるのですが、この中に「わがたましいよ、なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか」(新改訳第二版)と三度も繰り返されています。

この作者を絶望にまで追い込んだ状況が何であったのかを詳しく知る由はありませんが、大変な極限状態にあったことは確かでありましょう。

また、この二つの詩の中には、「いつ」「どこで」「なぜ」という疑問詞が幾つか見られ、特に「なぜ」は九回も繰り返されています。私たちの生活の中にも、この「なぜ」という疑問はしばしば起きてくるのではないでしょうか。
 

しかし、そうした苦しみのさなかで作者は、「私はなおも神をほめたたえる」と賛美をささげているのです。その秘訣は、ある英語の訳で見ますと、「望みを神に置く」ことによってであることがわかります。

たとえどんなに状況が絶望的だったとしても、全能の神、いつくしみの神に望みを置くなら、歌えるはずもない中で、「なおも神をほめたたえる」ことができるということなのです。賛美は力です。
  
 「神を待ち望め。
  わたしはなおわが助け、
  わが神なる主をほめたたえるであろう。
 (詩篇43篇5節)」。


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2012年03月30日

「傷んだ葦を折ることなく」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージより 33―

「傷んだ葦を折ることなく」 (羽鳥 明牧師)

さあ、きょうの神様からの約束のことばをご紹介しましょう。
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」(イザヤ書42章3節)。
 
八百屋さんは、傷んでいる桃をはじき出し、ぐったりしたレタスを取り除きます。売り物にならないからです。雇い主は、怠けて働かない使用人や役に立たない者を辞めさせます。世の中、弱っている者を退けます。
 
しかし、神様はそうはなさいません。神様は、弱い者に眼を向け、心砕けた人といろいろなことに虜になっている人々を顧みてくださいます。
 
誘惑に負けてぐんなりしている者、罪を犯して神の前に立つことを恐れ、恥じている者、道徳的、霊的な破産者に、優しく眼を向けてくださるのです。
 
神様の赦しの恵みの福音は、すべての折れかかった葦のような、くすぶって消えそうな燈心のような者を、いつくしみ、生き返らせる力があります。
 
溺れて沈みそうな者のために、神様の愛の手は、差し伸べられているのです。神様は、折れかかった葦をもたげてまっすぐにし、煙りを出し始めて今にも消えそうな燈心に手を添え、油を注ぎ、もう一回、明るく燃え立たせてくださいます。
 
神様は、決して、弱くて倒れそうな人をお見捨てになりません。神様の眼の前では、どんな魂にも値うちがあります。
だからこそ、イエス・キリストは、そのような者の身代わりになり、あらゆる苦しみを受けきり、血を流して、いのちを捨ててくださったのです。
神様は、このイエス・キリストを信じてより頼むすべての人を、お救いくださるのです。


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2012年02月27日

「新しい人間関係が」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージ 32―

新しい人間関係が(村上 宣道牧師)
 
おなじみの落語にこういうのがあります。
一人の婦人がある人のところに相談にやって来て、さんざん姑の悪口を言い、あの人さえいなければと何回も繰り返します。

そうまで言うならと、「毎日少しずつ飲ませると、三か月後には原因不明で、ぽっくりいく薬」というのを分けてもらいました。ただし、「原因不明とはいえ、姑が亡くなって、仲が悪いとの評判で、嫁のあなたが疑われては困るだろうから、今後三か月間はだれにも疑われないように仲良くしなさい」と言われるのです。

「そんなことは無理だ」「三か月だけだから」のやり取りを繰り返し、婦人はしぶしぶ、三か月間は我慢して、親切に、優しくすると約束して、薬をもらって帰って行きました。

さて、そろそろ薬の効き始める三か月目ごろに婦人が駆け込んできました。今度は「前の薬が効かなくなる薬を下さい」と言うのです。

訳を聞くと、「姑がとてもいい人になって、殺すことなんかできません」「どうして急に変わったんです」「わかりません」。

そこでその人は言いました。
「それはね、あんたが変わったからですよ。まさか自分を殺すためにやっているとは思わないから、ああ、うちの嫁はなんて優しく親切なんだろうと思っているうちにお姑さんも変わったんですよ。問題はあんただったんです。あんたが意地悪だったから、お姑さんも意地悪になり、あんたが優しくしたからお姑さんも優しくなったのですよ」。

「そうだったんですか。それにしても死んでもらっては困ります。なんとかしてください」。「大丈夫。あれはただの栄養剤です」というわけで一件落着。
 
私たちは毎日の生活の中で人間関係が難しいと言います。そして、あの人がいるばっかりに、あの人さえいなくなればと、他人のせいにしてしまう。

客観的にはあるいはそうなのかもしれませんが、しかしこの落語の中にありましたように「問題はあなた」かもしれませんし、自分が変わることで、相手も回りも変わってくるということがありえるのではないでしょうか。
 
聖書に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者」(コリント人への手紙第二 5章17節)とありますが、その前の句に「かつては人間的な標準で人を知っていたとしても、今はもうそのような知り方をしません」とあります。

キリストにあって新しくなるというのは、まず自分が新しくされることによって、人の見方や人間関係が変わり、新しくなるという意味でもあることを知っていただけたらと思うのです。


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2012年02月04日

「さわやかに生きる」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージ 31―

さわやかに生きる(関根 弘興牧師)

私たちの人生から、さわやかさを奪うものがあるなら、その一つは執着心です。これは、何でも握りたがる癖と言ってもよいですね。これも私のもの、あれも私のもの。いまのこの地位も権力も名誉も、何でも握りたがる癖を、人はもっているのですね。
 
でも、ギュッと握った手を差し出しても、何も受けることができません。握りしめているのですから。
こんな話を聞いたことがあります。サルを捕まえるためにどうするか。まず壺の中においしい食べ物を入れておきます。サルがやってきて、その壺をのぞくと、おいしいものが入っているではありませんか。

さっそく手を入れてその中の食べ物をわしづかみにします。さあ、問題はここから起こります。たくさんの食べ物を握ったまま手を壺から出そうとすると、壺の入口が狭くて手が抜けない。

しかし手を離すと食べ物が落ちてしまうので握った手を開くことができない。そんなことをしているうちに捕まってしまう、というわけですね。握ったものを放さなかったばかりに、結局、たくさんのものを失うなんてこともあるのですね。

いつまでもいろいろなことに固執し、執着し、ギュッと握りしめていると、逆に不自由になることもあると知っておくことは大切なことです。
 
旧約聖書に登場するヨブと言う人は、いろいろな苦難を経験した人でした。しかし、彼は、こう告白しているんです。
 
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」。(ヨブ記1章21節)
 
人生には様々な出来事が起こります。たくさんのものを失い、また手に入れます。私たちは、失うことばかりを心配して、逆に縛られ、不自由になっていることがないでしょうか。
 
聖書は、私たちに、「ゆだねる」という生き方があると教えます。
自分の握った手を開いて、イエス・キリストにゆだねるのです。思い煩いをゆだねるのです。心配事をゆだねるのです。握った手を開く、ほんの少しの勇気をもちたいですね。


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2012年01月29日

「いのちを救う情報」―あなたの心を元気にするショートメッセージ 30―

「いのちを救う情報」(安海 靖郎牧師)
 

「災」という文字に象徴された2004年は台風の連続でした。そして、スマトラ沖地震、インド洋大津波で暮れました。この半年、マスメディアは「災害」から解放される時はありませんでした。災害は、忘れないうちにやってくるようになってしまったようです。

 
旧約聖書で、ノアの洪水で当時の世界が滅びた後に、神は「大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない」(創世記9章15節)と約束しました。そして、その恵みの契約として、虹をしるしとして示しました。
 

ですから、洪水の起こるたびに、災害の起こるたびに、この主の恵みを思い起こし、同時にやがて火による滅亡が来ることへの備えをするようにとの意味があります。
 

新約聖書では、「主は……忍耐深く……ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進む」ように、そして、永遠のいのちを頂くようにと勧めています(ペテロの手紙第二3章9節)。
 

スマトラ沖の震源から至近距離にある小島シムルのことが別の意味でニュースになりました。日本の新聞にも写真入りで載りました。

人口8万余のシムル島で、あの巨大津波に直撃されたのに、犠牲者は、わず7人でした。対岸のスマトラ島沿岸、アチェ州では20万人余が亡くなったというのにです。なぜだったのでしょうか。

それはこの島では97年前にも津波の被害があり、その経験から「地震の後に海水が引いたら、山に逃げろ」という言い伝えがあり、代々語り継がれてきたのでした。

他の島では、海水が引いたところで、魚や貝を採っていて波にのまれたり逃げ遅れて犠牲になってしまったのです。
 
「救いの道を知る幸い」と「知らなかった悲劇」を二つの絵で見るような戦慄を覚えました。インドネシア政府は、最大の津波の被害対策・予防は、子々孫々にこの事実を語り続けることだと、全国民に訴えました。
 

天国への道、永遠のいのちを得る道を知っているかどうか、それは、文字通り、天国と地獄、永遠の光とやみに分けます。
 
キリストは言いました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。(ヨハネの福音書14章6節)

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2012年01月06日

「人生を見つめなおそう」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージ 29―

人生を見つめなおそう (関根 弘興牧師)
 
忙しい時代の中にあって、ふと立ち止まり、人生を見つめ直す、これは本当に大切なことです。聖書には「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」とあります(伝道者の書7章14節)。ですから、折にふれ、自分の人生を静かに見つめ直すのです。
 

人生を見つめ直すのには、二つのアプローチがあります。
一つは「過去から今を見つめる」ということです。昔を振り返りながら、今の自分を見るのですね。
 

しかし、ともすると、「昔は良かった、良かった」と、ただ懐古するだけになってしまうこともあります。過去の栄光に縛られて、今を正直に受け入れられずに、「こんなはずではないのに!」と叫んでいる人もいるかもしれません。

また、過去に多くの苦しい経験をしたために、未来にまったく希望をもてないでいる人もいます。これでは見つめ直すどころか、かえって人生をむなしいものにしてしまいますね。
 

聖書の視点は、まったく違います。
過去を見るなら、神様のなさったことを思い起こしなさい、と教えます。あなたがここまで生かされていることの中に、神様の支えを過去の出来事から見つめてみなさい、と勧めているのです。

あなたは自分の人生、何一つ良いことなんてなかった、とおっしゃるかもしれません。しかし、あなたはこうして生かされているのです。静かに過去を振り返り、神様があなたの人生を支えていることを考えてみることは、大切なことです。
 

そして、もう一つのアプローチは、未来を見つめ今を見る、ということです。未来にある希望を見つめ、待ち望むとき、今という時が限りなく大切な時となっていくのです。
 

聖書に登場する人物も、未来を望みながら、今を力いっぱい生きていったと紹介されています。彼方の永遠の国を見つめながら、今を生きていったと。

人生を見つめ直すとは、あなたの人生に神様が共にいてくださり、永遠の御国を待ち望みつつ生かされていくことなのですね。

「私は、主のみわざを思い起こそう。・・・私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう」。(詩篇77篇11・12節)

過去には感謝、現在は勝利、未来には希望、まさに私のモットーとしている通りです。
お互いに良き日々を築き上げていきたいものです。

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2011年12月23日

「心の境界線」―あなたの心を元気にするショートメッセージ 28―

心の境界線(安海 靖郎牧師)

心の専門分野で、バウンダリー(境界線)ということがいわれます。
国と国との間、家と家との境界線がはっきりしないと問題が起こるように、人と人との間にも心の境界線が必要だということです。

多くの人間関係のこじれ、心の傷は、自分と相手の心の境界線のあいまいなところから起こるというのです。
 
たとえば、「ノー」と言えないで、自分も相手も傷つく結果を招いてしまったというようなことを、だれもが経験しているのではないでしょうか。どうしたら、その大切な心の境界をはっきりしていけるのでしょう。

そのために大切なことは、まず、自分の限界を知ることだというのです。
それは、人間は神に創造された存在だということ、創造されたものだから万能ではない。制限のあるものだと自覚すること。そこから、健全な心の自立、境界線が形成されるというのです。
 

この分野の日本の専門家、臨床心理学博士の丸屋真也さんは、その著書『他人は変えられないけど、自分は変われる!』で、自立についてこんなふうに説明しています。

「自立とは、他人に頼らないで何でも自分でやること、と誤解している人がいます。本当の自立とは、自分でできることは自分でやり、自分の限界を超えたところには、他人の助けを借りることができるということなのです」。

そこに、本当に必要な助けをし合う成熟した関係が生まれる。また、いわゆる過干渉やほったらかしの害を避けられるというわけです
 
ではどうしたら、創造主なる神と、創造された自分を正しく知ることができるでしょうか。実はこれもまた、神と人間との間のバウンダリー、境界がはっきりすることだと思います。
 
立派な人、偉い人が神として拝まれたり、賽銭で時々ご利益をくれる、気まぐれなおっちゃんのような神では頼るべき時に頼れません。神観や宗教の混乱をもたらします。
 
聖書では神はどういう方だと言っているでしょうか。

「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。
主はとこしえの神、地の果の創造者であって、
弱ることなく、また疲れることなく、
その知恵ははかりがたい。

弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。

年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。

しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、
鷲のように翼をはって、のぼることができる。

走っても疲れることなく、
歩いても弱ることはない」。
    
             (イザヤ書40章28〜31節)

つまり、人間と神はまったく異なるものであることを知らなければなりません。


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2011年11月25日

Don't Worry 「心配するな」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージ 27―

Don't Worry 「心配するな」 (安海 靖郎牧師)

誰にも、いろいろな問題や心配事があります。「問題のない人は墓場の中にいる」などとも言われます。つまり、生きている限り、問題や心配事はつきものだということでしょう。厄介なのは、時々大きな問題、どうにもならないと思えるようなことに直面することです。
 

問題解決について書かれたユニークな本があります。題名も『どんなことにもくよくよするな!』というもので、国際弁護士として活躍している佐々木満男さんという方が書いた本です。

佐々木さんはこの本の中で、「私たちは、難しい問題にぶつかると、すぐ〈how〉どうしたら解決できるかと考える。しかし、もっと大切なことは〈who〉誰が解決するか、ということだ」というのです。

普通、私たちは難しい問題が起きたら、「この問題は自分に大きすぎる」、「自分にはどうにもならない」と考え、「この問題は、自分に損失をもたらすに違いない」と心配します。

それを、逆に「どんな問題も大したことはない」、「どんな問題も何とかなる」、そして「どんな問題もプラスになる」と言っているのが聖書だというのです。

そして、聖書に示されている宇宙万物を創造し、これを支配している偉大な神を知り、信じると、次のように考えが変わると言います。

まず、第一に、「神より大きい問題はない」。第二に、「神に解決できない問題はない」。第三に、「神はどんな問題もプラスにしてくださる」と。

佐々木さんは、口下手で、英語が苦手、法律も好きではなかったそうです。それが、キリストを通して、神を信じる信仰によって、今、英語で、法律家・弁護士として働き、毎日の難しい相談事をこなしているということです。
 

先日、私たちの教会でも講演にお招きしました。〈Don't Worry〉(=心配するな)という赤い文字の書いてある帽子をかぶり、いろいろな小道具を使って話されました。佐々木さんは、若い時オーストラリアに留学し、こういう考え方、生き方をするようになったということです。
 
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。                  
              (ピリピ人への手紙4章6・7節)

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2011年10月17日

「自由は制限つき」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージ 26― 

「自由は制限つき」(関根 弘興牧師)
 

だれでも、人は自由でありたいと願っています。「束縛を受けずに歩みたい」という思いですね。でも、自由ということを考えるとき、私たちの自由はいつも制限つきの自由なのだということを知っておくことは大切です。

しばらく前に、子どもと一緒に川に行って魚を釣ってきました。うちに帰るとすぐに水槽に水を張り、飼い始めたんです。しかし、悲劇は数日後に起こりました。

なんと魚が泳いでいるとき、ジャンプをした拍子に水槽から飛び出てしまったんです。魚は、「きっとこんな小さな水槽じゃ嫌だ、俺は自由になるぞ!」と言って水槽から出たのかもしれませんね。

しかし、私たちがその魚に気づいたときには、すでに魚は死んでしまっていたのです。魚にとっては、自由を謳歌する場所は水の中という制限があるわけです。
 
あなたが宇宙に出たら、分厚い宇宙服を着なければなりません。酸素ボンベも必要でしょう。「俺は、鳥のように自由になるぞ」と考えて、屋上から飛び降りたら、大変なことになります。
 
ですから、自由というものは必ず制限がついているのです。魚にとっては、水の中が自由な場所であり、鳥であったら大空でしょう。それでは、人は、どんな場に生かされるとき、本当の自由を味わうことができるのでしょう。
 
聖書はこう教えています。
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」。
              (ペテロの手紙第1 2章25節)

本来あるべき場所から離れてしまったら、それは不自由なんですね。羊が羊飼いから離れたら、自由ではなく、それはただ危険なだけです。

聖書は、イエス・キリストこそが私たちの羊飼いであり、この方の導きの中で歩むことこそ、本当に自由の中を歩む生き方が始まると教えているのです。

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」。
               (ガラテヤ人への手紙5章1節)

先日の日光東照宮での説明でも感じたことは、日本人は何と多くの恐れに縛られているんだろうということです。
私はキリストと出会って全ての因習や慣習から解放されました。
本当に恐れるべきものを知らないということは、本当に畏れるべきものをも知らないということではないでしょうか。
posted by 優子 at 21:26| 引用文 | 更新情報をチェックする

2011年10月03日

「人を輝かす神」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージ 25―

人を輝かす神 (安海 靖郎牧師)
 
『北国に駆ける愛』の新版が出ました。映画にもなった故三橋萬利(みつはし・かずとし)牧師の自伝です。新版には、奥様とお子様がたの思い出も添えられて、より立体的にその生涯と信仰に触れることができます。
 
三橋牧師は、昭和3年に青森県で生まれました。3歳の時、重い小児麻痺にかかり、両足と右手の機能を失ってしまいました。戦前ゆえ、学校に入れず、独学で大学入試資格を得たのです。

当時は、男は皆、兵隊検査を受けて、甲・乙・丙とランクづけされて、徴兵されました。師はそんな検査に呼ばれることもなく、「自分は一体、生きている価値があるのだろうか」と真剣に悩みました。

21歳の時、友人から一冊の聖書をプレゼントされ、読みました。一条の光が暗い心と生活の中に差しました。その時の経験を、この本の「喜びの訪れ」という項目でこんなふうに書いています。

「生まれて初めて手にした聖書。読んでみても内容についてはさっぱりわかりません。けれども、何か重々しいものを感じました。これは普通の本とは違うという印象を受けながら読んでいくうちに、ある時から特に『神』という言葉に注目するようになりました。今までの日本人の持つ神観とは異なるものでした。
(・・・中略・・・)

引力の法則を発見したあの有名なニュートンは、『私にとっては、引力の法則を発見したことより、神の存在を知ったことのほうが、より偉大な発見であった』と言ったそうです。私にとっても、唯一の創造主を知ったことは、彼の感激に優るとも劣らないほどすばらしいものでした」。
 
三橋牧師はこの後、それまで抱いていた「私は何の役にも立たない者」という低いセルフイメージ(自己像)が全く変わります。神のかたちに似たものとして造られたという存在意義を知り、神よりの使命に生きる道を進みました。

素晴らしい結婚に導かれ、ご夫妻で聖書学校で学び、40年にわたって札幌の教会で牧師を務め、大きな教会を建て上げました。また、″優しい夫″、 ″尊敬する父″ として生涯を送りました。

しかし彼は言っていました。「私は自分の世話も満足にできないんです。教会のお世話などできません。全部イエス様のおかげです」。
本物の信仰と謙遜に生きた方でした。神が誇る生き方といえましょう。

夫人がご主人(三橋牧師)を背負って移動されていた写真を今も鮮明に覚えています。

posted by 優子 at 11:36| 引用文 | 更新情報をチェックする

2011年09月22日

「地の塩・世の光」 ―あなたの心を元気にするショートメッセージ 24―                  

「地の塩・世の光」(村上 宣道牧師)

イエス・キリストは、次のように話されました。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう」(マタイの福音書5章3節)。

また、「あなたがたは、世の光である。・・・あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし・・・」(マタイによる福音書5章14〜16口語訳)。
 

まず、「地の塩」についてですが、塩の役割というのは、第一に、味をつけるということです。本来そのものが持っている味を引き出すという役割です。

さらに、塩の効用は腐敗を防ぐということでしょう。そのままにしておけばすぐに腐敗してしまうものでも、塩によって腐敗を防ぐばかりか長く保存することができるわけです。

このように、私たちもこの世にあって、周りに味をつけるように、周りを生かし、また、腐敗をとどめるような存在として役割を果たすようにと勧められているわけです。

ただ、その塩が塩として効力を発揮するためには、自分が世の中に溶け込んでいく、つまり自分自身を犠牲にしていく覚悟というものが求められるだろうと思います。

「光」というのはこれとは対照的で、自分自身の存在を周りのために明らかにしていくことが求められます。また、光は通常、熱を伴い、周りに温かさを提供するものともいえましょう。

さらに、光は燈台が最も象徴的なように、その行く手を照らし、方向を示す役割を果たします。そして、光はすべて生きているものに命を与え、育みます。

そのように、私たちもこの世にあって、周りを生かし、人々の人生のガイドになるような生き方をしなさいとキリストは勧められたのです。

あるキリスト教主義の全寮制高校の教頭先生が次のように言っていました。
「私たちの学校は、『地の塩、世の光』というのがモットーなので、生徒に、人のしたがらないことを率先して行いなさい。自分が汚れ、泥だらけになることをいやがらないようにしなさい。

つまり、地の塩となって周りを生かすために、自分を溶け込ませていく生き方をすることで、周りの人々に光を与える存在となれるのだ」と教えています。

お話を伺って、地の塩と世の光というのは、別のことを言っているのではなく、本当に地の塩としての役割を果たしていくと、それは光となって輝いていく存在になるのだと思わされました。私たちも存在感のある生き方をしていきたいものです。

posted by 優子 at 21:54| 引用文 | 更新情報をチェックする

2011年09月16日

「嘆きは人生の転換を与えるためにある」( リック・ウォレン牧師)

以下は9月15日に『クリスチャントゥデイ』が配信した記事である。

9.11テロ事件から10周年−「悲しむ者は、慰められる」

米国のメガチャーチであるサドルバック教会牧師のリック・ウォレン氏は9.11米同時多発テロ事件から10周年となった11日に特別礼拝を行い、「この事件は決して見過ごされ忘れ去られてしまって良いようなものではありません」と強調した。

サドルバック教会では「希望と自由」と題した5回にわたる礼拝がリック・ウォレン牧師によって取り次がれ、10年前の9月11日、またそれに続く戦争で愛する人を亡くした人々への追悼を述べた。

米同時多発テロ事件をきっかけに、米軍がイラクおよびアフガニスタンで戦争を展開し、多くの犠牲が生じた。

ウォレン氏はサドルバック教会のそれぞれの礼拝に集った3千人以上の人々、そしてウェブキャスティングを通して礼拝を閲覧しているすべての人々に対し、9.11テロ事件の悲劇から学ぶべき教訓として、「先週私は9.11テロ事件に関する多くの異なる見解を述べた文章や社説を読んでいました。

その結果その中の多くの論者たちが米国人は9.11を乗り越えていかなければならないと主張されておられました。明らかに、このような論説を書く人々は人間の性質について知り得ていないのではないかと思いました。

なぜなら嘆きというものは乗り越えられるような種類のものではないからです。嘆きというものは、乗り越えるのではなく、それを理解した上で通り抜けなければならないものだからです。

嘆きは、神様が私たちに与えてくださった、私たちの人生の転換をもたらすツールであるともいえます。私たちは壊れた惑星に住んでおり、多くのいのちの損失に直面しています。イエス様は『悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから(マタイ5:4)』と述べておられます。

嘆きというものは私たちを硬直させてしまうようなものではなく、私たちは9.11を通して人生の転換を生じさせなければなりません。困難な時に直面したならば、それから転換するための一定の期間が必要です。そのような転換を与えるのが嘆きの感情であるといえるでしょう」
と述べた。
 
ウォレン牧師はクリスチャンは人生の様々な段階に差し迫る変化に適応するためにも、聖書勉強をする小グループのメンバーである必要があるとし、「私たちは共同体のために作られているのです。神様はあなたに、人生をひとりで歩まないように願っておられます」と述べている。

礼拝中のメッセージの動画はニューヨーク市南部マンハッタンコミュニティチャーチにも生中継の映像が届けられ、共にメッセージが分かち合われた。マンハッタンコミュニティチャーチはグラウンド・ゼロのすぐ近くにある教会で、9.11テロ事件後数か月間にわたってサドルバック教会員による聖書勉強グループが行われたのが始まりのきっかけであった。

礼拝では今年初めに行われたブッシュ前大統領に対するウォレン牧師によるインタビュー動画も流された。ブッシュ前大統領はウォレン牧師のインタビューに対し、「このような教会の人たちの前で話をするのは大変です。テロ事件の犠牲者のご遺族の方々には、この国は皆さまのために嘆いていることを伝えたいと思います。真の慰めは神様の中にのみ見出されます。神様は悲劇の最中にある人々を助けられます」と述べていた。

礼拝後、南部マンハッタンコミュニティ教会牧師のライアン・ホラデイ氏は9.11テロ事件後のニューヨーク市民の行動の大きな変化について言及し、「9.11テロ事件が生じた際に、それは地上に物理的な穴を形成しただけではなく、精神的な空洞も作ってそれを置き去りにしていきました。それは、このテロ攻撃にはいくつかの混同したメッセージが含まれていたからです。

イスラム教過激派テロリストからは飛行機が建物の中に突っ込んでいったことが神様のニューヨーク市に対する裁きであったという意味をもっていました。

しかし神様は逆に『わたしからもっとも離れている人々がわたしが最も愛する人々である』こともこの事件を通して伝えられたのです。自分の夢の実現のために事を成そうと決心している人々が、実は神様がもっとも捜し求めていた人々であったのです」と述べた。

ホラデイ氏は、グラウンド・ゼロの付近に教会を置いている理由について、神様の愛を伝える権威を与えられたクリスチャンとして、その愛を宣べ伝えて行くことにあると述べた。サドルバック教会の礼拝はウォレン牧師の一連の説教と、「ゴッド・ブレス・アメリカ」含む愛国的な賛美歌で締めくくられた。

9.11後、アメリカはアフガニスタンとイラクに220万人の兵士を送り、2つの戦争に4兆ドル(320兆円)もつぎ込んだが、米兵たちにも深刻な問題が起きている。
それは年間6500人にも及ぶと推定される自殺者のことだ。


夫を自殺で失った女性は次のように語っていた。
「頻度の派兵で回数を増すごとに夫がおかしくなっていくのがわかった。そして、8度目の派兵から自宅に戻った今年6月、夫は自ら銃で頭を撃ち命を絶った」。

どの国も多くの問題を抱えており、世界は混沌とするばかりである。「アラブの春」が未来を開く突破口になることを祈らずにはいられない。

posted by 優子 at 16:20| 引用文 | 更新情報をチェックする