2015年03月06日

「おかめ桜」 ―『種を蒔く』2号掲載文より G ―

寒さの中にも春が近づいてくる気配を感じた昨日の朝、日射しが気持ちを明るくした。長女を駅まで見送った帰り道、木々が春の日射しを受けてキラキラ輝いていた。

あまりに美しいので立ち止まった時、制服姿の上村遼太君が笑っている元気な姿を見たと思った瞬間消えてしまい、私は周囲をキョロキョロして捜していた。春がそこまで来ているのに遼太君はもういない。加害者の底なしの罪深さを思う。

オカメ桜.jpg

私はチャッピーを庭に繋いで、カメラをもって再び外に出た。
今年もおかめ桜は蕾を赤くふくらませていた。今は何を見ても悲しい。湯川遥菜さんと後藤健二さんが殺害されたあともアラブ諸国での蛮行は果てしなく、日本国内でも信じられない出来事があり、私たち人間はこれからどこに向かって進んでいくのであろう。

まもなく開花するおかめ桜にちなんで『種を蒔く』第2号に掲載された文章を読むと、まるで別世界のように感じる。

             おかめ桜   

柴犬を飼い始めて14年目になる。多忙な現代にあっては、犬の散歩は家族との貴重な語らいの時であり会話が弾み、しかしまた、独りで歩く平日朝の散歩は神さまとのゴールデンタイムだ。黙想には人の声は邪魔になるが、犬は黙々と歩くので神さまとの語らいの時である。

長女が子供の参観日のために欠勤した朝のこと、長女が幼稚園に出かける前のひと時一緒に散歩に行くのを楽しみにしていた。ところがこの朝、私は急に何か気配を感じて独りで出ることにした。するとまもなく、ある老婦人と話す機会が与えられた。

この方は、私が民生委員をしていた時に独居老人宅のリストにあった方で、前任者の引き継ぎでは、この方は人を寄せつけない人だから関わらなくてもよいと言われていた。しかし、そうするわけにもいかず玄関のチャイムを鳴らした。

すると案の定、「私は民生委員に世話になるようなことはありません」と問答無用で門前払いされた。民生委員をひと昔前の認識で見ておられたのでプライドが傷ついたのだろう。私は民生委員の働きを端的に説明したが、名刺とチラシさえ受け取ってはもらえなかった。

ところがこの朝、その方が玄関から出てこられて、その瞬間に神さまの気配というのか何かを感じたと同時に声をかけていた。
「この町であの桜が一番先に咲きますね。毎年楽しみに見させていただいています」。

その御宅の玄関前の垣根には、何本かの桜が植えられていた。その方は人恋しく思っておられたのだろうか、「これらの木は引っ越してきた時に苗を買って植えたんです」と、40年ほど前のことを話してくださった。

そして、先週まで圧迫骨折で入院していたこと、飼っていた犬や猫のことなど会話は長く続き、最後に悩み事まで話された。腰を痛めての暮らしは不安だろうからと私の名前と自宅を伝えた。別れる時は明るい笑顔でお礼を言ってくださった。

愛犬は幼児と違って私の立ち話が長くなると腹ばいになって待ってくれるので、時間を気にしないで話すことができた。娘との散歩を断った理由はこのためだったのだと直感した。そしてしばらく行くと、もう一人の老婦人と出会った。

話しているうちに長い間忘れていた感情が蘇ってきた。母や父の介護をしていた頃、病院で出会った多くの人々との交わりが思い起こされ、まるで喪失していた記憶が戻ってくるような感じがした。

そして、私が真に生かされる働きを神さまに示されたように感じた。この朝は散歩中に黙想することはできなかったが、神の恵みを味わい、深い感謝を覚えた。

春先に咲く濃いピンク色の桜は「おかめ桜」だった。

                      (2013年4月)

「おかめ桜」のチャッピー.jpg掲載誌には編集してくださった大田正紀先生がチャッピーの写真を載せてくださっている。これは2014年10月27日の記事から取ってくださったものだ。

柴犬のトレードマークであるクルッと上がった尻尾が下がっているので、よい写真を撮って差し替えていただこうとしたが、昨年1月の患い以降、散歩の時以外は尻尾を上げなくなってしまった。柴犬にとっ尻尾は健康のバロメーターだろうに。

最近はもう少し上がっており、散歩の時は上にクルッと巻いて駅の往復も元気に歩く。ただし今では長話どころか短時間の立ち話でもジッとしていないで動き続けている。認知症が始まっているのだと思う。チャッピーはもうすぐ15歳10カ月になる。

以上で『種を蒔く』第2号掲載文の全てである。
悲しみに暮れている人々に神の慰めを祈りつつ。

posted by 優子 at 23:15| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2015年02月26日

「老いてなお実を結ぶ生涯」 ―『種を蒔く』2号掲載文より F ―

これは2013年11月の例会で発表した文章を49字40行に加筆したものである。文末のみことば(聖句)は、その例会で東(あずま)道男牧師からご教示いただいた。内容についてのコメントは、この記事の最後に刻んでおきたい。
            老いてなお実を結ぶ生涯   

ゴールデンウィークに植えた1本のミディトマトの苗は、7月半ばから甘い実をつけた。完熟したものを孫が摘み、10月終わりまでに200個ほど取れた。

小さな苗がグングン成長し、青い実を鈴なりにつけている姿は実に力強く美しかった。しかし、8月の終わりになると木の勢力が弱くなり、9月下旬になるとプランターの土の表面が湿るようになった。最初は雨が降ったのかと思っていたが、天気がよいのに湿っていた。

それまでは土の表面がすぐにカラカラになっていたから、その頃から水を吸い上げる力がなくなっていたのだ。私は目には見えない命を見るようだった。

その後まもなく茎の下部に白い斑点がつき、斑点は上部に広がり茶色の斑点も加わって三分の一の高さまで広がった。トマトの木の病気だった。すでに枯れてしまった葉や茎もあるのに、それでもなお新たに花を咲かせる木に驚きつつも痛々しく感じた。そしてそれらの実も赤くなった。

10月の終わりにトマトの木を引き抜く時もまだ実をつけているので、その木を引き抜かねばならないのは生き物の命を殺めるようで躊躇した。

これでは花や野菜を育てることさえできないではないかと自らを諭さねばならなかった。そして、「ごめんね、ごめんね」と言いながら手に力を入れた。

私はいつしかトマトの木を人間の一生に重ね合わせていた。老木になってもなお実を結ぼうとするのは、いくつになっても子を思う親の愛を想わせた。そして、父の晩年に入院先で知り合った女性の言葉が思い出された。

その方は父よりもはるかに高齢のお母さんを介護されておられた。「親は最後まで子供に教えているのよね。人間はこうして死んでいくということを身をもって教えてくれているのよね」と言われた言葉がとても印象的だった。

トマトの木は老木の時も生きて輝いていたには違いないが、いのち盛んな頃はなんて美しかっただろうか。小さな苗が成長して次から次へと実を結んでいた頃が輝いて見える。

人間のライフサイクルでいえば30〜40代の頃だ。私もまた何と活動的だったことだろうか。そしてまた、その頃は人生苦に悪戦苦闘していた時でもあった。

その悲しみと苦しみの中で神と出会い、苦悩に慟哭しながら信仰が練られていった。そして、神の愛と神の恵みの中で生かされる喜びを知る者とされた。

私は今、晩夏の頃のトマトの木だ。体のあちこちが傷んできて若い頃のようにはいかなくなってきた。時にはこれから年を取っていく怖れが脳裡をよぎることもあるが、年を重ねてきたからこそわかる神の愛が私を奮い立たせる。

神の恵みは老いの不安や怖れよりもはるかに強く絶大だ。だから老いを憂うのではなく、これからこそが信仰を授かった者の人生の醍醐味だ。

トマトの苗が育っていくさまと、老いてもなお実を結び続けた神秘の美しさに感動したように、神さまは私に聖霊の力を豊かに注いでくださり、これからもチャレンジさせてくださるのだ。

私は生かされている限り心を高く上げて、神さまから勇気と力をいただいて気力にあふれて生きていきたい。そして、私もまたトマトの木のように実を結ばせていただきたいと願う。

    「 正しい者は、なつめやしの木のように栄え、
     レバノンの杉のように育ちます。
     彼らは、主の家に植えられ、
     私たちの神の大庭で栄えます。
     彼らは年老いてもなお、実を実らせ、
     みずみずしく、生い茂っていましょう」。
                   
                (詩篇92篇 12節〜15節)

2013年11月の例会で読み終えた時、東牧師はすぐに「詩篇92篇12節から15節の御言葉をお入れになったら素晴らしいと思います。神に従う人はレバノンの杉やなつめやしのように茂るというところです」と言われた。

「なるほど、それがピッタリだ」と聖書の箇所を書きとめながら、即刻にして「詩篇の何篇何節」と言われた牧師に驚嘆し、この聖句を想起しなかった自分自身にガッカリしたものだ。

そして、次のようなことを言われた。
「『これから年を取っていく怖れが脳裡をよぎることもあるが』というお言葉は信者としての信仰の証しにならないのではないかと思います。『年を重ねてきたからこそわかる神の愛が私を奮い立たせる。』というお言葉が大事だと思います。」と。

ありがたく受けとめた。
しかし、ここだけはどうしても消したくない所であり、このような感慨、弱さこそが私たる所以なのである。こんな者でも、いや、こんな者をこそ神さまは用いてくださるのではないかと思っている。

そういうわけで東先生には申し訳ないがこのまま活字にした。この時以来、たびたび長文のお手紙をいただき教え励ましをいただいている。すでに10通を数えるだろうか。

東牧師は言葉が内から溢れてくるのであろう。「一発書き」とは言葉が悪いが、一字も間違わないで8枚9枚の文章を書き綴られる明晰な頭脳に驚くばかりである。私など1行の文章すら書き直さねばならず、もはや書き直しが自由自在のパソコンでしか全く書けなくなってしまった。

「私は1920年の生まれですが、最近の医学知識とみことばによって教会と保育園の仕事で休むいとまもなく健闘しています」。

今年95歳の東牧師は貴重な歴史の証人でもあり、戦時中の1ページ見るようなエピソードを語られたことがあった。

昭和17年の頃、教会(宗教)を管理していたのは文部省ではなく警察でした。警察はあらゆる宗教が一つになって日本教を作れと言いました。
「それはできない」と私は当局に日参し、ついにキリスト教と神道と仏教をそれぞれ独立した形でやっていくことになり、こうして日本基督教団を強制的に作らされたのでした。・・・

最初80名だった神学生が徴用されて40名になり、昭和20年に全国で唯一の東京神学専門学校ができたが誰も居なくて私ひとりでした。
全国から集められていた膨大な神学・信仰図書を、戦中戦後ひとりで守ったのでした。

「戦争の世紀」と言われた20世紀を通られてきた牧師の目には、混迷を深める現代の世界をどのように感じておられるのだろうか。21日の例会で発表した後藤健二さんのことを書いた文章について、東牧師にもコメントをいただきたくて先日郵送した。

13時。今、M・M姉の告別式が始まった。
関西ブロックから大田先生が弔辞を送ってくださっている。

posted by 優子 at 13:00| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2015年01月27日

「私は戦争放棄を選ぶ」 ―『種を蒔く』2号掲載文より E ―

「日本がアメリカと戦争したんだって?! マジー?」と言った日本の若者に驚いたが、ドイツでも若者の5人に1人が「アウシュビッツって何?」というのが現在の状況だという。

1月27日の今日、ポーランド・アウシュビッツ強制収容所が解放されて70周年を迎える。
その関係からか、先週半ばから「ヒトラーチルドレン −ナチスの罪を背負って―」へのアクセスが毎日300余りあった。ヒトラー側近の子孫たちの苦悩をも心にとめたいと思う。

記念式典では生還者約300人が出席し、生還者の演説を中心に執り行われるようだ。生還者も高齢になり今回は一層貴重な時になるだろう。

下記の文章は2013年6月に書いたものに加筆して、掲載誌の目次・「危機を孕む時代に」に収録された一作である。         

私は戦争放棄を選ぶ

                       
今や世界の状況は混沌とするばかりで、日本の周辺国の動静もかつてないほど緊迫しており、安倍首相は憲法解釈の変更によって集団的自衛権行使容認に向けて躍起になっている。

確かに最低限度の防衛力は必要だ。しかし、これまで通り個別的自衛権と警察権で行使すべきであり、その一線を動かすことは断じてならない。

首相は、「日本が再び戦争するという誤解があるが平和主義を守り抜く」と主張している。しかしながら、その人間観は実に甘く、必ずやズルズルとエスカレートしていくのが人間である。

エスカレートすれば国民もナショナリズムを刺激されて懸命な判断ができなくなるであろう。それゆえに戦争のできる国にしてはならないのだ。

先の大戦でどれほど多くの人命を落としたことか!
これ以上「いつか来た道」を進んではならない。

アメリカとの関係においても、日本は十分に同盟国としての責務を果たしているのである。日本はアメリカを支えている最重要な国であり、イギリスよりも最も対等に近い同盟国だという。

実際、全国各地に132カ所もの米軍基地があり、そのうち米軍専用基地は84カ所も置かれているという。それだけではなく莫大な金を出しているのである。どんなに状況が変わろうとも日本は平和憲法を死守すべきである。

日本国憲法はアメリカが作ったものだと言う人があるが、井上ひさしは「日本国憲法はアメリカの押し付けとは卑怯な俗説」と言い残している。

現憲法が公布された昭和21年は小学校6年生だったというクリスチャン・ペンクラブの同志が、憲法公布について次のように証言しておられる。

「この憲法は、戦争に勝利したアメリカの押しつけ憲法ではないかと言う人がありますが、私はそうは思いません。

マッカーサーは3原則を示して、それを織り込んだ新しい憲法の参考案を作るように命じました。@天皇の地位、A戦争の放棄、B封建制の廃止。それは古い体質の日本に新しい風を吹き込んだのです。

『こうしてこの草案は、国民みずから選んだ代表である国会の手で昭和21年夏の暑い間、熱心な審議が続けられ、若干の修正を加えて可決、11月3日国民の歓呼の声の中に公布された。』(鵜飼信成『憲法』より)

学校でも『あたらしい憲法のはなし』(文部省編)という教科書になって、先生も生徒も感動的に学びました。憲法は守るものです。この平和憲法を次世代へそのまま送りたいと、私は思います」。

憲法改正が叫ばれる同じ時、世界に誇る日本の平和憲法を広めるために、日本国憲法、特に第9条を70年間近くも保持している日本国民に、ノーベル平和賞を受賞させようとの運動が起こっている。

これはクリスチャンの主婦が、「戦争はしたくない」という思いと、「平和賞は素晴らしい結果を出したから与えられるのではなく、平和の実現という目的に向かって頑張っている人たちを応援する意味もある」との思いから声を上げたという。

今年初めにノーベル委員会は平和賞候補にノミネートし、4月に正式に受理した。賛同者の署名は6月8日時点で8万人を超えた。この活動を神が用いてくださり、9条改憲者たちへの圧力となって日本国が間違った道に進まないように祈るばかりである。

戦後69年経った今、戦時中をくぐりぬけてきた世代も少なくなり、私とて戦後生まれで戦争の悲惨さは知らず、戦場に行っていない父や母から戦時下の話を僅かに聞いてきた世代である。

しかしながら、現代においてはそれらのことを直に聞かされただけでも貴重な存在ゆえに、私たちは子や孫のために断固として非戦の声を上げ、戦争の放棄と武力の不保持を定めた憲法を守り抜かねばならない。

集団的自衛権を拡大させていくと日本もテロの標的になり、悪循環の輪を深めていくばかりである。

最後に、第2次大戦下、ナチスの第3帝国の悪の根源がヒットラーであったことは言うまでもないが、親衛隊やドイツの国防軍だけではなく、その背景にドイツ国民の中に独裁者ヒットラーを受け入れる基礎があったということが検証されている。

即ち、ヒットラーの台頭を可能にする危険なメンタリティーがドイツ国民にあったというのだ。しかしこれはドイツ国民に限られたことではなく、人類に共通する人間の実相であり、まさに今の日本に問われていることである。

私たちは同じ愚行を繰り返さないように、集団的自衛権行使容認と憲法改正反対の声を上げ、今一度、国連の壁に刻まれている聖書の言葉を銘記したい。

     「彼らはその剣を鋤に、
      その槍をかまに打ち直し、
      国は国に向かって剣を上げず、
      二度と戦いのことを習わない」。
               
              (イザヤ書 2章4節)
                   (2014年6月)

2月3日追記:
1月31日、ドイツの良心、ワイツゼッカー元大統領が亡くなられた。94歳だった。
「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目になる。過去の罪を心に刻まなければ和解の道はない」。
ワイツゼッカー元大統領の言葉は人類の宝であり、生かさねばならぬ。



posted by 優子 at 11:15| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2015年01月16日

「国家と個人」 ―『種を蒔く』2号掲載文より D ―

目次・「危機を孕む時代に」に収録された一作。
国家と個人

やはりシリアはダマスカス近郊でサリンを使ったようである。

当初アメリカは、「越えてはならない一線」を超えたとし、「米国が何もしなければ独裁的な政権による化学兵器使用を容認することになりかねない。独裁者が大量破壊兵器を使ったことに目をつぶれば、歴史がわれわれに非常に厳しい評価を下すだろう。」との考えで、短期間に限定しての軍事行動を加えると訴えた。

しかし、アメリカが軍事行動をとればシリアの友好国であるロシアは黙ってはいないだろう。そうなれば攻撃は数日間では終わらず、第2のベトナム戦争、いや、第2がイラクならば第3の地獄を見ることになるかもしれない。今も米ロの緊張した対立状況が続いている。

アメリカの言い分を聞いていると、かつてアメリカが広島と長崎に原爆を落とすための大義名分にした、「戦争を早く終わらせるために」と同じに聞こえ、国家のエゴに唖然とする。

8月末の米国務省の定例記者会見では、いみじくもロイター通信の記者が軍事介入の正当性について次のように鋭く突いた。

「米国が核兵器を使用し、広島、長崎で大量の市民を無差別に殺害したことは、あなたの言う同じ国際法への違反だったのか」。
これに対して当局の返答はなかった。

国連本部前の「イザヤの壁」には、イザヤ書2章4節(聖書)の聖句が刻まれている。

    「主は国々の間をさばき、
     多くの国々の民に、判決を下す。
     彼らはその剣(つるぎ)を鋤(すき)に、
     その槍(やり)を鎌に打ち直し、
     国は国に向かって剣を上げず、
     二度と戦いのことを習はない」。

日本国憲法9条もまた同じ戦争放棄の立場である。その日本においても今、憲法改正の声が高まっており憂慮すべき事態になっている。ここで原点に立ち返らなくては再び悲惨な時代に入っていくことであろう。

日々変化する国際状況を見ていると、いったい人間はいつになったら戦うことを嫌悪するのだろうか。いつになったら歴史に学ぶことができるのだろうかと嘆かわしくなる。

地球上では常に戦いが繰り広げられ、それが人間の歴史であった。しかし、戦いは国と国との関係だけではなく、日常生活での個人の問題も同じだと思う。

個人の争いも組織の争いも、そして国家間の争いも全て同じ延長線上の問題だ。十分に話し合い、それでも意見が違った時は、手を離して神に委ねるのが賢明だ。

それができるのは自己の努力ではどうすることもできない罪の問題に気づき、その罪の赦しがなければできないということがしみじみわかるようになった。

私たちは何事においてもある程度までは努力によって何とかなるが、努力すればするほど歪んで行く場合もあり、どうにもならない事も多々ある。私たちの力は何と有限なことかと思う。

それは日常生活でのことだけではなく、政治上のことも全てのことにおいて同じことであり、結局全ての問題は罪の問題に行きつくと気づかされる。

三浦綾子が、「人間の社会はなぜこんなにも幸福になりにくいのか、一体その原因は何かと考える時、やはり教会で教えられている罪の問題に、つき当たらずにはいられなかった。」と書いているとおりである。

為政者たちの上に神の導きと知恵が与えられて、アメリカやロシアに懸命な選択を祈るばかりである。
                               
                         (2013年9月)

2013年のシリアの化学兵器使用に関連して、" usfl.com "
(Wednesday, January 14, 2015)によれば、オランド大統領が2013年のシリア空爆取りやめたことを「まだ後悔している」と、下記のように伝えている。

【共同】フランスのオランド大統領は14日、原子力空母、シャルル・ドゴールの艦上で行った軍への年頭演説で、2013年にシリアのアサド政権に対して軍事介入をしなかったことについて「まだ後悔している」と述べた。

フランスは化学兵器を使用したアサド政権に対する軍事介入に参加方針を表明したが、オバマ大統領の方針転換で実現しなかった。オランド氏は「過激派が支配地域を広め、現在のような結果になった」と話し、暗に米国を批判した。

シリアやイラクではその後、過激派「イスラム国」が勢力を拡大。欧州各国から多くの若者がイスラム国に参加し、テロの脅威が増す事態を招いている。

この状況をいかにして治めて行けばよいのか。
私の祈りは愚者のたわごとなのだろうか。
それでもやはり同じ考えに行き着くのである。

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2015年01月08日

「神の見えざる手に導かれた生涯  ―新島襄―」 ―『種を蒔く』2号掲載文より C ―

神の見えざる手に導かれた生涯  ―新島襄―

110927_110712~1.jpg1864年6月、函館から密出国した新島襄はこの時21歳。吉田松陰が下田から密出国を図った10年後のことである。

国禁を犯して脱国した新島襄の生涯は、まさに神の見えざる御手に導かれてのプロビデンス(摂理)であった。

函館からアメリカ商船のベルリン号に乗り込んだ新島はセイヴォリー船長の同情で乗船することが叶い、上海でワイルド・ローヴァー号に乗り移る時もセイヴォリーの助けがあった。後年それらのことが明らかになって、セイヴォリーは船長を解雇された。

ワイルド・ローヴァー号のテーラー船長もまた新島をかわいがってくれ、新島の名前が呼びにくいので「ジョウ」と呼んだ。これらの良き人々の助けによりアメリカの地を踏み、その後はワイルド・ローヴァー号の所有者ハーディが新島の運命を開花させていくのである。

敬虔なクリスチャンであったハーディは新島の保護者となり、新島を「ジョウ」ではなく「ジョセフ」(Joseph)と呼んで高等教育を受けさせた。まず英語の基礎を学ばせてアマースト大学へ進み、卒業後はアンドヴァー神学校で神学を修めた。新島は帰国する時に、心の父ハーディへの感謝をこめて「ジョセフ・ハーディ・ニイシマ」(Joseph Neesima)と改称している。

日本国が新日本建設のために有力な大勢の官吏を欧米へ派遣した時、新島は岩倉具視一行の文部省当局者・田中不二麿の官吏グループの通訳に抜擢された。

この時すでに在米7年で英語に精通していたこともあるが、政府の留学生ではなく国禁を犯して密出国した新島に神の摂理が働き、キリスト教に強い関心を持っていた森有礼の口添えで特別に抜擢されたのである。

このことから不二麿との深い交わりを得、そしてまた木戸孝允とも知遇を得て同志社創設の実現につながっていくのである。

国禁を犯して脱国した者が、よりによって尊王攘夷の中心地に、しかも、こともあろうに日本国が厳禁していたキリスト教主義の学校を創設できたことは、まことに神の摂理であった。

「同志社」とは、新島の志を同じくする者が創る結社の意味である。新島の志とはキリスト教精神に基づく「良心」であり、「良心を手腕に運用する人物の養成」が建学の理念であった。

1888年に発表した「同志社大学設立の旨意」には、「一国を維持するは、決して二、三、英雄の力にあらず。 智識にあり、実に一国を組織する教育あり、品行ある人民の力に拠らざるべからず」と記されている。

また、「我が校をして深山大沢のごとくになし、小魚も生長せしめ、大魚も自在に発育せしめん事」という言葉からも、学校建設だけではなく新島の描く人間社会の在り方を想像させる。

yjimage.jpg新島は半生を振り返って次のように述べている。
「私の一生はアンシーン・ハンド(Unseen Hand・神の見えざる御手)に導かれて今に至っている。今後も私はこのアンシーン・ハンドの導くがままに行くべきところに行くのである」。

また、1890年に同志社普通学校を卒業し、後年、同校の教頭になった波多野培根は次のように書き残している。
「『彼は其往く所を知らずして出ていけど』(ヘブル書11章8節)、不思議なる『見えざる手(アンシーン・ハンド)』が彼を導きて目的の地カナンに至らしむる。自己の意識せるよりも意義の深遠なる大事業を為し、不朽の感化を後世に垂れるのは此種の人である」。

新島襄筆.jpg「真理は寒梅の似(ごとし)、敢えて風雪を侵して開く」と新島が詠んだ詩のとおり、彼の生涯はまさに風雪に逆らって咲く寒梅のごとき生き方だった。

しかも思いやり深く、内村鑑三をアマースト大学総長のシーリーに引き合わせる時も、多忙な日々にあって陰で人と人との間を取り持つ人物であった。

「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ伝・3章6節)は、新島が「聖書の中の太陽」と呼ぶほどに愛した聖句である。

新島の上に神の摂理が働いたごとく、神は切に求めてやまぬ者の上に働いて御心を成就されることを心に刻みたい。2014年は新島が国禁を犯して函館の地より脱国してから150年目にあたる。
                           (2013年9月)

新島襄は46歳11カ月の若さにして帰天。京都東山・若王子山頂(現在の同志社墓地)に葬られた。私も同志社在籍中に4〜5回(?)墓前礼拝に集っている。

教会のクリスマス祝会で、私が高見牧師とカレッジソングを歌って以来、ユキが聞きおぼえた歌詞を歌っている。
" One purpose, Doshisha, ・・・For God, for Doshisha, and Native Land! "と。
ユキは同志社ボーイだ。7歳にしてカレッジソングを覚え始めるとは新島先生も喜んでくださることであろう。ユキも中学から同志社に進学するのかな?(^−^)

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2014年12月30日

「人生の意味を知っている者として生きる」 ―『種を蒔く』2号掲載文より B ―

人生の意味を知っている者として生きる

                  
「老人祭り」とは何というデリカシーのない命名であろう。毎年「敬老の日」を前にして、市の福祉センターで「老人祭り」が催される。

期間中は毎日5つの老人会から約200名が集い、それらの地区の民生委員は抹茶係を務めることになっている。その日はゲームやカラオケ、踊り、将棋などを楽しみ、センターに併設されている温泉に入って終日楽しく過ごすのである。

そんなある年の「老人祭り」のこと、早くから来ていた老婦人が寂しそうに座っておられたので声をかけた。すると初対面の私に唐突に家庭のことを話し始められた。

私はずっと老婦人の膝をなでながら、神さまにこの方を慰めてくださるように祈りながら聴いていた。

ようやく話が一段落したので慰めの言葉をかけた時、老婦人の目から涙が溢れ、堰を切ったように再び切々と話し続けられた。私は胸をえぐられるような気持ち聴いていた。

「嫁は『あんたの世話はでけへん』とはっきり言いはります。・・・私は3秒でも立ってられへんので、家の中でもこれ(歩行器)を使ってるから、見るたびにうっとうしい顔をしはる。

せやから廊下に手すりをつけたいけれど反対しはるねん。私が死んだら家を売りに出す気やろな。せやから家に手を入れたくないんやな。・・・

毎日顔を見るたびに『死ね、死ね』と言われてる人もいてはる。それも嫁ではなく実の娘に言われている人もいてはる。せやから私はまだましや。そう思うて耐えてます」。

これはどこかで聞いたことがある話だった。いや、母の悲しみを思い起こさせる痛みだった。

母は60歳を過ぎた頃に脊髄小脳変性症を告知された。これは小脳が委縮していく進行性の難病で、食べること、歩くこと、話すこと、書くことなど全てが不能になる。

最も悲惨なのは、思考力と感情が残っているのに意志を伝達するすべがなく、かろうじて瞬きで「はい」と「いいえ」を伝えるのみ。

歩くことはもとより食べることも話すことも、全てが当たり前と思っていたことがどんなに素晴らしいことであるか! 医師が言われたとおり、神経難病はこの世の地獄だった。

かたや、健康を与えられ、経済的にも順境にありながら感謝の心なく、絶え間ない不平を糧として生きている人びとの存在が私を苦悩の底に追いやった。

母と同じ昭和元年生まれの敬愛する姉妹は、「神さまは優子さんに多くの人々のいろんな生き方を見せ、語ってくださっていたのですね」と言われたが、その年月は私と神さまとの闘いの日々だった。

母に続いて4年後に父も召され、10年以上に及ぶ百戦錬磨の年月の果てに辿りついた境地は、「人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる。」という真理だった。

私が通らねばならない狭き門を通り抜けた時にわかったことは、あの人がどうのこうのではなく、神の真理は徹底的に主体性の論理であるというものだった。

と同時に、他者を思いやれないこと自体が喜びのない重い鎖を引きずって歩いているではないかと悟った。

たとえ回復不可能な病いを負い、生きることが闘いの日々であろうとも、人の真心がわかり、人との豊かな交わりの中で感謝して生きられるということが、自分の生き方を刈り取っているではないかと、神さまが納得させてくださったのである。

母と父の晩年は悲しみと苦しみの年月であったが、そこを通らなければ解らない真理だった。

かくして他者の苦しみに対していかに共感的理解を示し、手を差しのべる事ができるか。このことが真に成熟した人間であり、それを求めて励むことが生きるということなのだと受容するに至った。

私にとって40歳になるまで死は無限の彼方にあったが、60代になった今は身近な存在だ。私は主の恵みの中で愛を育み、感謝の日々を重ねていきたいと切に願っている。

「人生の意味を知らない者のようにではなく、
 むしろそれを知っている者として、
 しっかりと責任をもって生きなさい」。

          (エペソ人への手紙 五章一五節)
                    (2013年9月)

この境地に至ったのは今から15年前のこと。以来私は大きく変えられたが、状況(環境)は変わらず、時として耐え難き時があり、あまりにも自己を省みない人々が理解できなくて苦しむのである。

年末年始の休みに入って早3日経ち、ようやく今、新年早々の礼拝奏楽の練習を始めた知子。前奏曲に選んだ「主の祈り」、讃美歌・・・それらが私を神のみもとに導き心安らぐ。

そのうちの1曲、453番(『讃美歌21』)の歌詞を私に聴かせてくれた。私もこの讃美歌は知らない。

1 何ひとつ持たないで 私は主の前に立つ。
  主の恵みがなければ ただ死ぬ他ない命。
  あなたが約束する 未来 待ち望む私。

2 たとえ疑い迷い、無気カになる時にも
  あなたの愛の御手が 私をとらえ続ける
  よろこびのみ国へと 導かれる日はいつか?

3 慰めの御言葉と 日ごとのパンを備えて、
  私を主はかえりみ、平和の道を歩ませる。
  祈りを聞かれる主よ、あなたは私の命。

アーメン!
主よ、感謝します。
知子を感謝します。
今年もまもなく暮れる。

posted by 優子 at 21:57| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2014年12月29日

「神の奇跡の中を往く ― 長女の『出エジプト』―」 ―『種を蒔く』2号掲載文より A ―

昨日の記事に関連して、日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック出版・『種を蒔く』に掲載された、「神の奇跡の中を往く ― 長女の『出エジプト』―」を公開させていただきたい。

神の奇跡の中を往く ― 長女の「出エジプト」―

2009年春、長女は心身を病んで静養のために実家へ戻って来たが、翌年1月に調停離婚した。

同年10月、健康はまだ不十分ながら洋紙卸業を営む父親の会社に入社し、新たなる一歩を踏み出した。娘は当時の心境を教会報に次のように書いている。

「この消えぬ過去・辛い現実を主はどう用いられるというのでしょう。その事も未来への恐れも主に委ねたいと思います。全ての道に主を認めるなら、主は必ず私と息子の人生を導き、いつかこの心の傷も完全に癒されると信じます」。

そして、2012年2月から取締役(正しくは執行役員)として経営改革に着手した。全てが電子化される時代にあって紙業界の経営は厳しく、どうしてこんな時にと嘆きたい時もある。まるで湖上を歩くペテロのようで、周囲に目をやれば立ちすくんでしまう状況だ。

娘はイエスさまから目を離さないで信仰を働かせ、心をこめて最大限の努力を積み重ねている。「今日も不思議なことがあった」、「今日も神さまが助けて下さった」と試練を越えていく娘の姿は、さながらユダヤの民を率いてエジプトを脱出するモーセを想起させる。

娘が常に口ずさむ" When you believe " (あなたが信じる時)は、マライア・キャリーとホイットニー・ヒューストンが1999年のアカデミー最優秀主題歌賞を受賞した曲だ。

娘はその歌詞にひかれて輸入盤のCDが発売された時に買ったという。11年経った今も諳んじて歌うこの歌は、聖書の『出エジプト記』を題材にして作詞されたゴスペルソングだった。

娘は今この時にそれを知りえたことと、はるか前に心惹かれていたことの不思議さに驚愕して次のように証しした。

「新たなる一歩を踏み出した時、私の祈りが聴かれるという確信は持っていなかった。あの時はかろうじて信じられる程度の希望しかなかった。でも、いつも祈り続けてきた。

その間にも強い不安や恐怖を感じることもあり、私たちは何と簡単に恐れに押し潰されて失望してしまうことだろう。祈りが神に届いていないのだろうかと思う時もあった。しかし、神さまはいつも私の祈りを聴いてくださっていた。

苦しみや恐れによって信仰が萎え、希望や神さまの示す道が見えなくなってしまっていた時も、神さまは微かな声で、しかし、力強い声で、『失望しないで。希望は、助けはすぐそこにあるのだよ』と語りかけてくださった。

時には先回りしてまでも、一緒になって大きな山々を動かしてくださっていたことがわかる。

将来どのような奇跡が実現するのか誰にもわからないけれど、神さまは必ず最善の時に神さまの方法で私たちの祈りを聴いてくださるということを、この目で見なくても堅く信じることができるようになった。だから恐れの中にある時でも私の心は平安で満たされている。

『見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、砂漠に川を流れさせる。』という言葉は真実だ。

まだ実現していないにも関わらず、神さまが成し遂げさせてくださることを確信できるという、私が捜し求めてきた本物の信仰を授かった。これが奇跡でなくて何だろう。どんな時も神さまに期待して歩いて行こう。

今は職務を果たすということだけではなく、日々関わる社内外の人々にまことの神さまを伝えたいとの思いだ」。


娘は本来の自分を取り戻しただけではなく、霊の目が開かれて信仰の高嶺へと歩んでいる。あの時、私もまた今の娘を想像することなどできなかった。

私は長女のミッションが成るように、アロンとホルのごとく祈りの手を挙げて長女を支えたい。そして、娘にとって何よりも大切な子育ての大任を果たすことができるように祈り続けよう。

孫のためにも夫と長女の事業の上に神さまの導きと祝福が豊かにありますように。そしてこれら一切のことを通して一人ひとりを導いてくださるように祈ろう。

「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、
夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。
昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった」。

                (出エジプト記 13章21節)
                       (2014・9・20)


posted by 優子 at 11:14| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2014年12月20日

「私の『メメントドミニ』」 ―『種を蒔く』2号掲載文より @ ―

         私の『メメントドミニ』

ブログを書き始めてまもなく9年になる。朝日新聞の統計によれば、2009年7月当時のブロガー人口は2695万人であったから今はもっと増えているだろう。その後登場したツィッターも瞬時に時流に乗り、多くの人々が不特定多数の人につぶやきを発信している。

これらは国や文化の違いを越えて、自分の思いを誰かに伝えたい、聞いてほしいという人間の心の表れであろう。私もまた多くの人に読んでもらうことを願って書いている。

ブログを開設してまもなく、ブログは現代人の甘えではないかと抵抗を感じ、「ブログ考」と題してブログ文化について考察したことがあった。

その後1年余りを要して自分の思いとスタンスが定まっていき、ブログのタイトルを開設当初の『優子の部屋』から『メメントドミニ』に改名した。ブログ伝道という明確な志が与えられたからである。

『メメントドミニ』とは「汝の主を覚えよ」という意味であり、日常生活の出来事や心の動きを書きながら神さまと歩む文章を綴っている。

私にとってブログ執筆中は神さまとの密なる時である。従って感謝や喜びだけではなく不安に感じることや葛藤も取り上げる。それらは証しにはならないと考える人もおられるが、常に意気揚々としている内容だけならば人の心に届かないし私ならば読まないだろう。

人は皆、悩みがあり弱い者であるがゆえに、正直に自分の弱さを書いてこそ主イエス・キリストが必要であると伝えることができると信じるからだ。

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)理事長の池田勇人先生が召される5か月前のこと。2012年10月にJCP60周年の記念会が東京で開かれた。

この時、先生の病状はかなり悪く、これが師の最後のメッセージになるだろうと覚悟し、全身を耳にして聴き入った。私はその内容を是非ブログに書きたく、奨励で述べられたご自身の病状についても触れてよいかと師にお尋ねした。

すると、「それは自由にどうぞ。こうして生かされているのですから、ブログにどうぞ自由に書いてください。」と言われ、先生と一緒に撮らせていただいた写真の掲載も快諾してくださった。

私は池田牧師が私と同じ信仰観であられたことを初めて知り、これこそが伝道する者の姿勢であり、クリスチャンの本質が輝いていると強く心を揺さぶられた。この時私は、神さまが私に師の生きざまをじかに伝えんがために、ギリギリまで迷っていた60周年の出席を決意させてくださったのだと思った。

『メメントドミニ』を書く時は、全能の神さまに対して日常の営みをしているとき以上にアカウンタビリティ(説明責任)を取りながら書いている。つまり、私の書いている内容を神さまに申し開きできるかどうかを考えながら書くのである。

畢竟私にとって書くということは、内なる自己に向かって真実の自己に返ることであり、祈りつつ書きながらキリストからの問いかけを発見する過程である


これからも喜びや感動したことだけではなく問題に感じたこと、また、不安や悩みなどマイナスと思えることも正直に書き、それらをどのように受け止めて歩んで行くのか。そこにこそ力点を置いて書くのであり、それが読んでくださる人の心に届いて、全知全能なるまことの神さまへの道案内になれば最高の喜びである。

「私達の書いていることがいつどこで実るかわからない。神さまの働きが思わぬところで実っている。それがどれだけ大きな励ましを与えているかわからない」とは、今も私の耳に響く玉木功牧師の言葉である。私も先人たちに励まされて私しか書けない文章を紡いでいきたい。

「そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている」。
      (コリント人への第2の手紙 3章2節)
                    (2014年4月)

posted by 優子 at 20:36| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2014年06月19日

拙著・遠藤周作評論が2年前の知恵袋で紹介されていた!

『メメントドミニ』に1日平均750〜800のアクセスをいただいているが、1週間ほど前から多い時は1200を越え、今朝9時半の段階で500を越えていた。
内容については共感してくださる方ばかりではないのは当然のことであるが、何かを感じてアクセスしてくださっていると思うので励ましになっている。

今朝は久しぶりにいくつかリンク先を見たところ、見なれない「知恵袋」があったので覗いてみた。
「メサイア」や「聖書の人間観」などは、今も知恵袋からのアクセスは絶えず、最近ではどこかの教会のHPで水野源三の窓口としてリンクされていたり(こんな光栄なことなのに記録していなくて申し訳ない)、今朝のリンク先では私の遠藤周作作品の評論が紹介されていた。

すでに2年も前の2012年6月のことだ。
卒業論文で遠藤周作の「悲しみの歌」を取り上げることになったのですが、論文が全く見つかりません。この作品について少しでも触れられている論文、本をご存知でしたら教えていただけないでしょうか? (閲覧数:374 回答数:2)
その「ベストアンサーに選ばれた回答」を一部抜粋すると、

「『悲しみの歌』と深い関係のある『海と毒薬』に関する論文も含めて、『遠藤周作に関する論文』を片っ端から読んで、少しでも関係のある箇所を探されることは必須だと思います。」として、私の評論が紹介されており、しかも私のだけであったのは嬉しいことだった。

『悲しみの歌』について、日本キリスト教文学会で遠藤周作学会会長の笠井 秋生氏と意見を交わしたことがあり、そのことも過去ログ2008年1月29日(カテゴリ・文学)「(その2) 懇親会で求められたスピーチで語ったこと」に書いているので是非参考にしていただきたい。

今改めてその記事を読むと、今ならば笠井氏のコメントがよく理解できた。
遠藤が主人公・勝呂を自殺させたことについてだ。
そのことについて最近次女との話題に上った時、「作者がクリスチャンだからじゃないの?」と語った次女の発言に、私には気づかなかった視点を示されたことを話した。

その時、笠井氏が、「いや、違う。あれは勝呂を救いきれなかったと遠藤自身が言っている」と発言され、「なんでですか?」と瞬間的に言葉が出ていた。
「どうしてですか?」と私の中で言葉を変換させることもなく口をついていた。私にはそれほど興味深いことなのだ。

あの時、私はどのようなことを話したのだろうか。
このくだりを読むと、マチ(次女)の指摘は見事に遠藤自身が語ったところと同じではないか!!!

つまり、クリスチャンである遠藤だったから勝呂を救いきれなかったのであり、そのことは評論で私が導きだした結論と一致するではないか!

私は遠藤の作品だから勝呂が救われることを願っていたのだと思う。その思いが無意識にあるゆえに遠藤周作が勝呂を自殺させたことが残念でならなかったのだ。

無意識ではあってもその思いが強かったために笠井氏とのやり取りの時も、小学生でもわかるような理解力が欠如していたとしか思えない。ここにも大きな示唆がある。


そのことについてもこの記事に書きたいし、自分の書いたものも読み直してみたいのだが、明日中に書かねばならない2000字(できれば2作)に集中せねばならず強制終了したい。 

21日の日本クリスチャンペンクラブ関西ブロックの例会では、漱石(講師の関係であるいは有島武郎)について学び、そのこともお分ちしたいと思うので、初めて『メメントドミニ』を訪ねてくださった方が「お気に入り」(ブックマーク)に入れてくださり、時々でも訪ねてくだされば感謝に堪えない。


posted by 優子 at 10:30| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2012年02月09日

神のナビゲーター

結膜下出血を起こして1週間になるが今回は回復が遅い。濃い血糊が消えないところもあり、そこを触ってみると痛みがある。

しかし、今朝の体調はいい。とは言っても昨日からの寒波で外に出るのは怖い。昨朝に続いて今朝も知子が出社前にチャッピーの散歩を済ませてくれているのでありがたい。

先週は寒波の強風の中、自治会役員の方に話しかけられて審議内容の進捗状態や運営について立ち話してしまい、それが直接の原因ではないかと思っている。体感的にもきつかったのに言えなかった。

先ほど聖書を読み、祈り終わって頭を上げた時のこと。
ユキが「神さまは何て仰った?」と聞いたので驚いた。今朝洗濯物を干しながらユキに話していたことを覚えていたのだ。
「神さまの声は小さいから、心を静めて聴かないとね」と話したことを。

ユキとの会話に導かれて一文をご紹介したいと思う。
これは、昨年末に日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック刊行の『種を蒔く』に掲載された証し文である。文集をまだどなたにも配布していないのを神さまにお詫びし、この証し文を『メメントドミニ』の読者の方々に用いて下さいますように祈ります。

神のナビゲーター

私は自動車のナビゲーターを見るたびに神を思う。目的地を設定すると音声付きで道案内してくれるナビゲーターである。

高速道路が混んでいる時は赤く表示されるので、あまりにひどい渋滞の時には地道を行くこともある。すると即座に、そこを起点として新たな道が表示される。

神をナビゲーターに譬えるのは不謹慎かもしれないが、私はナビゲーターを見るたびに神の愛と導きを想って胸が熱くなる。

失敗して挫折感に打ちひしがれた時、人間関係に悩んで行き詰まった時、また、神の御心がわかっているのに自己を通したために悲しみを味わったこともあった。しかし、そのいずれの時も神は新しい道を開いて下さった。

常に寄り添い慰め励まして、手を携えて一つひとつ乗り越えさせて下さった。ナビゲーターは時に間違うことがあっても、神は決して間違うことなく、完璧に光の道にいざなって下さった。私にとって神は、「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす」お方だ。

進むべき道が判らない時や、心に小さなざわめきを感じる時はじっと待つようにしている。そして、神は私に何を求めておられるのかを考えながら動かずに待つのである。それでも選択を間違うこともあるが、そこからまた最善へと導いて下さるのだ。

そして今、しみじみ実感できるようになったことは、私もまた神の目的があって存在させられているということだ。ということは、最終的には神の責任で全てのことが運ばれていくのであり、そう思えるようになって心強くなった。

この世は不可解なことに満ち、理屈の合わぬ悲しみに溢れているが、そのことも最後には納得させて下さると信じることができる。

神を知らずに生きていた者が、神の愛を実感できる者に変えられて、神の恵みの中で生かされている。永遠のいのちを賜り、しかも、地上にいる間は神と交わるすべを与えられているのである。これ以上に祝福された最高の人生があるだろうか。

これからも天の御国に辿り着くまで、神のナビゲーターに導かれて行こう。人の目には見えなくても信仰者の目には見える。聖書に多くのみことばあれど、常に私の胸中にあるのはイザヤ書のみことばであり、最期に人生を振り返る時も、神はこのようなお方であったと御名をほめたたえることであろう。

ここまで導かれてきたことを深く感謝し、これからもただ主にすがって、最後まで主と共に生きていきたい。

私の愛唱聖句
「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす」。 (イザヤ書42章3節)
アーメン。  
                   

これは2008年8月の関西・中部合同の夏期学校で発表したものである。
私は生涯に一書を残したいとの願いがあるが、間に合わない時にはこの一文を印刷して会葬者に配布してもらいたいと思っている。

20:53追記:今日の『生かされて』の追記で、この記事を紹介して下さっています。
文香さんのお人柄そのままの自然体で書いておられる文章は心に届きます。その内容は深いです。是非お読み下さい。


posted by 優子 at 12:37| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2010年09月11日

「愛を宿らせ給う神」 ―『あかし新書 第28篇』掲載文―

今夏発行された『あかし新書 第28篇』は、先月の日本クリスチャンペンクラブの夏期学校で執筆者に配布された。今回のテーマは「愛・ゆるし・平和」である。

「証し」とは、日々の出来事をとおして神さまから頂いた恵みを人に伝えることである。
このたびの試練については久保田先生初め関西ブロックの方々にはお話しているが、私の証し文には具体的に書いてないので「読む人にわかるように」書くようにとアドバイスされた。

今はまだ渦中でもあるのだから書けないことも重々承知しながらも書かずにはおられなかったし、具体性に欠けながらも悩める人への助けになると思った。

切実に求めている魂に触れる文章を書きたい、読者の心に訴える文章を書きたいとの願いは、文書伝道の志を賜った時から微動だにしない。

私の中では筆は鈍っていないつもりだが、要は概念的すぎるのであり説教調なのだろう。

しかし、ここに書いたことは内村鑑三が述べているように、「人生の実際問題に遭遇して、血と涙をもってその解釈を求めてついに得られ」たものであり、しかも、この人生の危機、試練においても、神の平安と支えがあったことを証ししたかったのである。

かくて、この証しを書きながら愛と赦しと平和は同じことであると悟った。赦しがなければ愛も平安(平和)もないということである。これからも祈りをこめて文筆を磨いていきたいと思う。


あかし新書 第28篇.jpg

表紙の写真は長原武夫兄が提供して下さったもので、一輪で咲く時計草を造形したものである。
時計草については2010年7月1日の記事に詳しく書いている。
        愛を宿らせ給う神
                         
                         藤本 優子

昨年、春の訪れと共に私達夫婦に大きな問題が明るみにされた。新たな問題が起こったのではなく、既にあった問題が限界になり破綻したのである。以来、無我夢中の一年を過ごし、これからも困難な道を歩いて行くことになった。

しかし、かつてのように神に対して人生の不条理を問うことはなかった。以前ならば、非道なことをやり続ける人を、神はいつまで見過ごしにされるのかと苦しんだが、葛藤に苦しむことはあっても心の底に深い平安がある。

ここに至るまでには数え切れぬ苦しみをなめた。
私は信仰を与えられてからこそ、理屈に合わぬ不条理さに七転八倒した。

そして、洗礼を受けてようやく十年過ぎた頃になって、神は常に最善をなして下さっていることを信じられるようになった。なんという遅い歩みであろう。

しかも、神の力と平安を深く知るのはもう少し後になってからのことである。その契機となったのが、身近な人々のあまりにも身勝手で神をも恐れぬ暴言だった。

心を尽くして生きてきた母が難病に苦しんで召され、他者のことなど全く省みず、言いたいことを言って生きている人々に安穏な生活がゆるされている。

この納得できない積年の問題に苦悩していた私は、理不尽極まりない暴言の大打撃に打ちのめされて、ついに力が尽きた。

しかし、この最悪が神の最善だった。

それから一ヶ月ほど経って衝撃が和らいできた頃、突如、神の聖霊により私の霊の眼が開かれて、長い苦しみに終止符が打たれたのである。

つまり、あの人がどうのこうのではない、神の真理は人と比べてではなく、徹底的に神と自分とのことでしかわからないことを悟ったのだ。
こうして克己と努力では決してわからなかったことを納得させて下さった。

これは神がなされたことゆえに、その後の幾多の試練においても私の平安は揺らぐことなく、このたびの大きな試練も、そのどん底において主は信仰を証しさせて下さった。

神の愛が心に滲みる。
神に愛され守られていることもよくわかる。
畢竟、人は神を深く知らずして試練は耐え難い。

いや、神の愛がわからないから不条理に苦しむのであり、私は私達を苦しめた人を赦すことで神の平安と愛を知った。

赦しは愛につながっており、神は赦した者の心に愛を宿らせて下さるのだ。そして、それを成長させて下さるのも神であるから、私は愛を蒔き、愛を育てながら歩んでいこう。

今こうして感謝と喜びをもって生かされているのは神の奇跡だ。
主の御名を呼び求める者は、どんなことがあっても必ず最後には勝利に導かれることを信じて、これからのことも思い煩わないでイエスの道を歩いていこう。

この本の「あとがき」には、この本が「主に用いられることを祈りながら、一人でも多くの人たちにお渡しするという仕事が残されている」とある。

未だ労祷教会と妹に届けたのみで、心の友である千里姉にもお届けしていないことを情けなく思う。今夏の猛暑で魂まで夏枯れしたのでもあるまいに、情熱が萎えてしまって主に申し訳ない。

「いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げ
あなたの神は王となられた、と
    シオンに向かって呼ばわる。」


        (イザヤ書 52章7節)

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣(の)べ伝えなさい。」


        (マルコによる福音書 16章15節)

『メメントドミニ』の読者の方へ:
今や印刷物の洪水どころか、インターネット時代に入って文章も無際限に溢れかえっています。
そんな中にあって、『メメントドミニ』を開いてお読み下さっていることを心から感謝しています。お読み下さってありがとうございます。
貴方の上に神さまの豊かな祝福がありますようにお祈りします。
posted by 優子 at 16:02| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2010年08月13日

目に見えない成長 ―『関西ペンの声』17号に掲載―

先週のJCP夏期学校で配布した『関西ペンの声』(JCP関西ブロック会報)は、同日8月4日の発行である。そこに掲載して頂いた拙文をここに転載させて頂きたい。

        目に見えない成長

                       藤本 優子

森有正は『バビロンの流れのほとりで』の中で、こんなことを書いている。
かつてノートルダム寺院の裏は鬱蒼としたマロニエの木立だったが、それらを全て伐採して菩提樹の苗木に植えかえた。
その時は僅か直径1センチにも満たない苗木が、成長すれば直径1メートル以上もの大木になることに気がつき、「実に何とも言えない深い感動を受けた」と言うのだ。

そして、その成長過程はどんなに見つめていても目に見えず、その過程こそが生命の成長であり、「経験」に至る過程だったと思いを深めるのであった。

私は万物復興の春を迎えるたびに在りし日の有正を偲び、「夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と語られた、イエスさまのことばに想いを馳せる。

そして、アマスト大学の総長シーリーが、内村鑑三に語ったところの「植木鉢の教え」を思い出し、神さまはよくぞ私をここまで導いて下さったものだと感謝するのである。

年齢を重ねると、神さまが導いて下さっていることがよくわかる。そして、目に見えないものにこそ積極的意味があることも理解できるようになった。

その時は私達にはわからないけれど、最も忍耐を要している時こそ力が矯められている時であり、自分の可能性を拡げられている時である。私達はただキリストに繋がり、自らの誠実を尽くして成長を待てばよいのだ。


この信仰を頂くまでの年月を思うと今も胸が痛むが、それからは困難なことに悩みながらも平安と希望がある。今や私もまた、有正が感動した菩提樹のように、神ご自身が私の人生の根を深く張り、枝を広げて下さっているのである。
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posted by 優子 at 06:34| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2010年02月10日

『国木田独歩と基督教』再論 F最終回

      9 結論

以上が再びたどってみたかったことである。序論に挙げた問題点については、予想通り同じ結果を得た。しかし、最も興味深い点であった独歩と神との関係や信仰生活については、予想していたものの以前とは大きく違うものであった。

そして、あの頃とは比べものにならないほど行間を深く味わうことができ、年齢を重ねるのはすばらしいことだと感慨深い。それだけに、信仰生涯に導かれた独歩が、日本の精神風土にみられる汎神論の方向に迷い出、死の床にある平安なき独歩を思うと胸が痛む。
 
独歩は常に何かをすることが信仰者であるように思っていた感があり、独歩の日記は信仰的というより倫理的すぎる。キリスト教は福音(喜びの訪れ)であって道徳ではない。人生修業でもない。福音は、我々を一切の恐れから解放し、真の自由を与えてくれるものである。

そして実際に生きていく時に、神様との深い人格的交わりの中で真理が明らかにされていくものであり、それは緩やかであっても確かなものである。

内村鑑三の入信でさえ、最初は真の神は唯一であることに目覚めた程度であり、神が人格的な存在であることがわかったのは、ずっと後のことであった。鑑三は言っている。「私は一度に回心したのではない。それは少しずつ遅々たる歩みであった」と。

信仰が与えられた後も、苦難の日々が続けば誰しも神への懐疑や迷いも経験し、まさに信仰生活は躓きの連続である。しかし、見えるところ悲痛な状態で生涯を終えたとしても、独歩は求めていたものを得たと、筆者は堅く信じるのである。

                      (完)

【参考文献】

1 『国木田独歩全集 第3巻』 学習研究社・昭和44年発行 『あ
 の時分』457頁

2 『近代日本とキリスト教―明治篇―』 創文社・昭和45年発行 149頁

3 『「文学界」とその時代 下』 明治書院・昭和45年発行 1374頁

4 『山梨英和短期大学紀要 第2号』 山梨英和短期大学・昭和43年10月発行 「国木田独歩とキリスト教」23頁

5 『背教者の系譜―日本人とキリスト教―』 岩波新書・昭和48年発行 127〜133頁
 
6 前掲『国木田独歩全集 第9巻』 345〜346頁 

7 前掲『国木田独歩全集 第3巻』 219〜222頁
 
8 前掲『国木田独歩全集 第9巻』 30〜31頁

9 前掲『「文学界」とその時代 下』 1378頁

10 前掲『国木田独歩全集 第10巻』 242頁

                        (完)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上、卒論をもとにして再び独歩の信仰を論じた。結論に記したことは私の信仰理解であり信仰告白でもある。
掲載しながら再読し終えて、久保田暁一先生(著名な文学者・文芸評論家・作家)が語って下さったことを想起した。過去ログ2008年11月16日の記事に書いたことだ。

私の文学活動も一切党派を持たない。なぜならば、客観的に見られなくなるからだ。自由に読んで自分の納得のいくやり方で追求していくために、党派性をもたないでやってきた。
(このことは今年初めの日本キリスト教文学会に出席した時に、私は直観的に感じとっていた。)

イエスを追求するにも自己を持たないかん。人の物まね、受け売りはいかん。遠藤(周作)にしろ椎名(麟三)にしろ独自の文学論をもってやっている。

「おおいなるもの」を宗教と言う。
そのおおいなるものに支えられていることがとても大切だ。おおいなるものに支えられていると傲慢にならずに生きていくことができる。

教会では「赦し」や「愛」、「聖霊」について熱心に説かれているが、自らのことも含めて牧師も口先だけのものになってはいないかという思いも脳裡をよぎる。

「キリスト教の信仰が、口先だけでただスッパスッパやられているだけではどうにもならない、・・・わたくしたちの主体に深くかかわる出来事として、イエスとの出会いを、自分なりに明確につかみとりたい」(同志社女子中・高時代の宗教主任、西村幸郎先生の言葉)のスタンスは大切である。
これからも主体性を失うことなく、自らのこだわりを追求していきたいと思う。

posted by 優子 at 07:15| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2010年02月09日

『国木田独歩と基督教』再論 E

      8 独歩の晩年

『欺かざるの記』における教会に関する記事は、明治30年1月17日が最後であり、それ以後は見られない。そして、小説家としての道を歩み出した後は、次第に教会から遠ざかっていったようである。
では、最後まで驚異心の信仰であったのだろうか。ここに『病床録』の一部を引用したい。
 
  植村正久氏は始めて余の心を開ける人なり。余の心の合鍵は渠
  (かれ)の手にあり。故に余はその鍵を以って、今の余の煩悶より
  救はれんとせり。生死の境に迷へる余の心は、氏の導きに依つて
  初めて救はる可しと信じたり。
  氏は唯祈れと云ふ。祈れば一切の事解決すべしと云ふ。極めて容
  易なる事なり。
  然れども、余は祈ること能はず、衷心に湧かざる祈祷は主も容れ給
  はざらん。祈の文句は極めて簡易なれど、祈の心は難し、得難し。
  誰か来りて、この祈り得ぬ心を救はずや。余は衷心より祈を捧ぐる
  を得ば、その時直ちに救はれ得可きを信ず。(8)


祈ることを断念している死の床にある悲痛な独歩。笹渕氏は「(このように)慟哭せざるをえなかったのは、祈りが人格的、倫理的行為であるのに対し、彼の驚異心の信仰は単なる存在の問題に止まってゐたからである。」(9)と述べている。

しかし、これは離教した者の言葉ではないであろう。それどころか、独歩は神との出会いへ一歩踏み出したと考えられる。独歩に洗礼を授け、独歩と関わってきた植村正久牧師も次のように述べている。

  私が茅ヶ崎へ行って見ると、同君は私に「貴方は私の信仰を開く相
  鍵を持って居るから、私を救って呉れ」と云はれた。然し私はその
  時「私は相鍵を持って居ない。相鍵を持ってるのは神だから神様に
  祈らなくてはならぬ」と話した。けれど何うしても同君は祈ること
  が出来ないと云って泣かれた。
  
  同君が死なれる前に令弟収二君に対して「死は彼岸に達する努力
  なり」と言ったとか聞いて居る。これは私が同君に会った時話した
  事であるから、或は信仰に進むで死なれたのではないかと内心喜
  むでゐる。自分で、意識しなかったかも知れないが、暗々裡に恩寵
  れて居たのであろうと思はれる。」(10)
  

以上のことから、「五」で保留にしてあった点について、独歩は背教者ではなかったと結論づけるのである。
      
                      (つづく)

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2010年02月08日

『国木田独歩と基督教』再論 D

      6 独歩の告白『我が過去』について

明治29年4月12日に信子の失踪、その夏に結婚生活が破綻する。その頃、内村鑑三の招きに応じて京都に旅した時に執筆されたものと考えられる『我が過去』という文章がある。その中で、独歩はキリスト教徒である自分を反省して自分自身に問うているところがある。また、
 
  嗚呼、基督なく聖書なく祈祷なきの基督教信徒、高慢、卑屈、乱行、
  怠慢、薄弱、我儘の信徒。我は決して基督教信徒にあらざるなり。


と厳しく反省し、

  カーライルを夢み、ウォールヅウォースを夢み、バーンスを夢み、
  バイロンを夢み、今又西京に於て基督教信徒を夢まんとす。(6)

と記されている。

これらの意味するところは何か。離婚という大きな挫折を経験した独歩が、再び本心に立ち返って神との出会いを深めていく過程と見るのか、あるいは、独歩の思想に多大なる影響を与えたカーライル、ワーズワース、エマーソンらと同様に、独歩にとってはキリスト教もまた大きな影響を与えはしたが、思想的共鳴という次元で受けとられたにすぎず、信仰にまで至っていなっかたと見るのが妥当であるのか、考えさせられる点である。

かつて著者は後者の考えを結論としたが、笠井氏は、「そのような結論を早急に導き出すべきではない。…『我が過去』は信仰の深まりの中で、独歩がキリスト教徒としての自己を反省したものと考えるべきである。」と述べている。

改めて読み直してみると、この点についても笠井氏の意見を支持したい。何よりもあのように断定するのはなんと浅薄で傲慢であったかと思う。

      7 『悪魔』について

教会生活を経験する中で、独歩は律法の字句にとらわれてその精神を省みない、偽善者であり形式主義者であるパリサイの徒を見、彼らを憎む心を持っていた。

『欺かざるの記』の明治27年4月20日の記事や、『病床録』にも偽善を憎む文章があるが、明治36年5月に発表された独歩の告白、『悪魔』に登場する尾間利雄もパリサイ人の一人であった。

神の子にも似た思想を浅見謙輔に託し、その謙輔の手記『悪魔』は、独歩の思想的悩みの率直な告白であり、これを通して更に自分の思想を打ち建てようとしたものと思われる。
また、この作品から独歩の信仰についても見ることができる。
 
  我黙して山上に立つ時、忽然として我生存の不思議なるを感ず、此
  時に於いて『歴史』なく『将来』なし、ただ見る、我が生命其者の
  此不思議なる宇宙に現存することを、あゝこれ天地生存の感にあら
  ずや。かかる時、口言ふ能はず、ただ奇異にして恐ろしき感、わが
  霊を震動せしむ。思ふ基督が四十日間、荒野に於いて嘗め尽した
るものは此痛感にあらざるか。


これが独歩の信仰である。即ち、魂を裸にしてこの宇宙に向かい、不思議なる宇宙に驚きたいという独歩独自の驚異心の信仰なのである。また、
  
  神の有無を言う勿れ。『人』なる言葉を止めよ、先ず生物の一個と
  して面と面、直ちに此無窮なる宇宙に対し、爾の生命其者の存在を
  直感せよ。(7)


という記述から明らかなように、この天地生存感が独歩の信仰を支え、その充実こそが真の人生であるとする。そして、宇宙に孤立する人間の「生」そのものの意味を問い詰める、独歩独自の純粋な作品が生まれ、ここに独歩の芸術が確立するのである。しかし、それはキリスト教信仰とは全く異質のものである。

                      (つづく)

      
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2010年02月07日

『国木田独歩と基督教』再論 C

      4 独歩のキリスト教観

『欺かざるの記』の中に、熱心な神への祈りが多く見うけられるが、ここで問題になってくるのは独歩のキリスト教および神についての観念である。

この日記から明らかにわかることは、独歩の神とは理想主義精神と結びついているため、当然のことながらキリスト教の核心にある“原罪”についての観念が見られない。

このことは重要な点であり、明確にキリスト教と異にするものである。現実の人間の罪性について、即ち、自由の主体として神にかたどって造られた人間の、神に対する罪の責任という観念が独歩には全く見受けられないのである。それゆえに、人間を理想化して考える理想主義精神と結びつくことも理解できる。

独歩は佐々城信子と灼熱の恋をし、信子の母の猛反対をも押し切って結婚するが、結婚生活は短いものであった。離婚の苦しみにあった時、ヨブ記を読み慰めを得ていたことも記されている。

しかし、日記は3ヶ月間中断され明治29年8月から再び書き始めるが、その後は慰めの対象が「自然」へと変わっていった。著者は独歩の信仰が、キリスト教と無縁なものであるとは考えないが、独歩の場合はキリスト教の教えに強く影響されはしたが、正しい聖書理解と信仰にまで定着するに至らなかったと結論づけた。そこで問題になるのが、背教についてである。
  
      5 背教者の問題
 
『背教者の系譜−日本人とキリスト教−』(5)で、武田清子氏は日本における背教を5つの類型に分けている。

   第一に、弾圧のための背教、第二に、偽装的背教、第三に、く
   ぐりぬけ的背教、第四に、日本化したキリスト教、あるいは、社
   会矛盾解決に積極性の足りないキリスト教などといったキリスト
   教会の現実に不満をいだき、あるいは、躓いて、非キリスト教思
   想へ脱出する背教、第五に、キリスト教を強固な神学的、信仰的
   把握をうらづけとして、信奉するのではなく、心情的共感をもっ
   てキリスト教に接近し、また、それを信じ、日本の民衆の中で生
   活し、実践し、思想する中で、背教を自覚的に決断することなく、
   東洋的宗教思想に回帰するといった背教。
 

独歩の場合を考えると、少し無理があるかもしれないが、第三のタイプに属するものと思われる。特にこの場合、著者も書いている通り日本においては多様な姿をとっている。

   近代日本のプロテスタント史を通観するとき、非常に数多く発見
   するところの、いわゆる「卒業クリスチャン」とよばれる人たち、
   すなわち、青年期にキリスト教とある程度の思想的接触をもちな
   がら、キリスト者集団内に一時身をおいただけで、福音との決定
   的な対決、回心を持つことなしに、ある期間を経てキリスト教か
   ら離れる人々がある。これらの人々は厳密な意味における「背教
   者」の範疇に入れることは適当でないかもしれない。(中略)
   
   また、明治期の欧化時代、あるいは、敗戦直後のアメリカ的デモ
   クラシーの流行時代に表面的「流行」の波に乗って教会の門をくぐ
   り、そしてやがてすりぬけて出て行った、まさに「通過集団」のよ
   うなくぐりぬけタイプももちろんあるであろう。


一般的には独歩も、武田氏が言う明治期欧化時代の「通過集団」のような、くぐりぬけタイプとして受け取られている。しかし、晩年の記述を辿ると単純にはそうは言いきれず、独歩の離教ということに関して筆者は疑問を持っている。

                       (つづく)

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2010年02月06日

『国木田独歩と基督教』再論 B

       3 独歩の教会生活

独歩の最高傑作といわれる『欺かざるの記』は、数え年23歳から27歳までの5年間、即ち明治26年2月4日から30年5月8日までの生活と内面世界の記述であり、貴重な思想史と見ることができる。ここには教会やキリスト教に関する記事が多く、この日記から独歩の教会生活を窺うことができる。
  
  ・夜祈祷会に出席す。(明治26年2月4日)
  ・今朝聖書を読む。(同年2月26日)
  ・今夜自由社より直ちに我が教会の祈祷会に出席し、(同年3月
   1日)


など簡単な記述ではあるが、余程の事情がないかぎり聖日礼拝や祈祷会には欠かさず出席している。また、

  ・日曜日午前教会に出席す(略)余は独り植村正久氏の宅に開かる
   可き委員会に出席す。教会堂に出席者を案内する役をなす事をひ
   きうく、又、教会員人名住所薄編纂を申出で遂に余が編纂する事
   となる。(同年5月4日)
  ・夜教会懇親会委員会に出席す(同年5月17日)
  ・7日、昨日なり、後楽園に開かる可き教会懇親会に出席す。(同
   年5月28日)


などから、地味な教会の仕事にも積極的に協力している。そして、信仰者としての内省や神への祈りも数多く見られる。
  
  ・嗚呼、信仰の念は燃ゆるなり。(同年8月2日)
  ・白状す、薄志弱行を、不信仰を、「不シンシリティ」を、神よ、助
   け給へ。(同年8月10日)
  ・神を忘るゝ時程薄弱なるわれは非ず。(同年9月8日)
  ・余の信仰と思想と感情とは次第に進みつつあるなり。(同年11
   月9日)


このように受洗後の独歩は熱心に励んでいる。
この頃の独歩について代表する二者の見方がある。笹渕友一氏は、次のように述べている。

   受洗後の独歩は毎日曜、礼拝か祈祷会かに殆ど欠かさず出席
   してをり、信仰生活に対して熱意をもってゐた。しかし信仰その
   ものがどれ程の深さをもってゐたか疑問の余地が多い。(3)


これに対して笠井秋生氏は、
 
   『欺かざるの記』に見られる独歩の生活は敬虔なるキリスト教
   徒の瞑想と反省の生活であり、『我が過去』の告白からは決して
   想像出来ないクリスチャン独歩の姿がそこにある。熱心に聖書
   を読み、礼拝や祈祷会にかかさず出席し、教会への奉仕に努め、
   絶えず自己の信仰を祈りをもって反省する独歩は、ある意味で
   は模範的な信仰生活を送っていたと言えよう。(4)


と述べている。
改めて考えてみたかったことの一つはこの点である。卒論では笹渕氏の考えに立った。その理由として、独歩の情熱的な性格によるところが大きいことと、独歩は常に意気揚々と何かをすることが信仰者であるかのように考えているとも受け取れ、当時の独歩は敬虔なクリスチャンと見るよりも、熱心な教会員の姿として捉える方が正確であろうと考えたからだ。

しかし、そのように言い切ってよいものであろうか。著者は今、両氏の説に頷きつつも、信仰生涯に入って間もない頃の独歩に、「信仰の深さ」を問う笹渕氏の意見には異論がある。深さというのは、年月を重ねて生きて行く時にこそ実感し、獲得していくものではないだろうか。私は笠井氏の説が妥当であると考える。  

                      (つづく)

※ この笠井秋生氏に初めてお目にかかったのが2008年1月末のこと、久保田暁一先生に初めて連れて行って頂いた日本キリスト教文学会でだ。

「この人か」と私はどんなに感激したことか!まるで35年を経て憧れの人に会ったような気持ちだった。その時の様子と遠藤周作に関する短い討論は、2008年1月29日の記事(「懇親会で求められたスピーチで語ったこと」)に詳しい。

現在は梅花短期大学名誉教授、当学会の運営委員の一人であり今年もンポジウムの進行役を務められていた。「お名前を直ぐに忘れてしまうのですが、お名前は何て仰いましたか?」と休憩時に声をかけて下さり、親しくお話ししたのだった。


posted by 優子 at 08:56| 掲載文(神・文学) | 更新情報をチェックする

2010年02月05日

『国木田独歩と基督教』再論 A

         2 独歩とキリスト教の出会い
 
独歩が初めて教会の門をくぐったのはいつ頃であったかは、彼の回想的作品である『あの時分』より推察できる。友人、木村(佐藤毅)に連れられて教会に行った時の記述がある。

  木村の教会は麹町区ですから一里の道程は確にあります。(略)
  私は其以前にも基督教の会堂に入たことがあるかも知れません
  が、此夜の事ほど能く心に残って居ることはなく、従って 彼の 
  晩初めて会堂に行った気が今でもするのであります。(1)

 
この記述にある夜は、明治22年末から23年にかけての冬と推定され、それより以前に教会に来たことがあると書かれていることから、独歩が初めて教会の門をくぐったのは明治22年まで遡ることができる。
 
当時のキリスト教はまだまだ異端視されていたようであるが、インテリと呼ばれる人々においては流行していたとも言え、明治時代のキリスト教が、明治の青春を形成する上で大きな役割を果たしたことは見逃すことができない。当時の文学者の受洗について、亀井勝一郎氏は次のように述べている。
  
  国木田独歩、藤村、透谷はみな洗礼を受けています。ごく若いと
  きなのですが、(略)ほんとうに思想的な対決があって洗礼を受
  けたのではない。軽薄な面があったと思います。当時の流行とか、
  たまたま明治学院におったとか、そういう外的な理由があったと
  思う。けれどもその中で初めてヨーロッパ精神の核心に触れよう
  としたということはありますね。学問的にもむろん不完全きわま
  るものですが、青年固有の感情の動き、その精神革命の過程とし
  てみると意味ふかいと思います。(2)
 

確かに、日本におけるキリスト教の歴史の浅さや思想的対決の貧困などを考えると、受洗に際しての軽薄さは理解でき、独歩もその例外ではなかったようである。

政治や法律など社会的なものに関心を持っていた独歩は、哲学や文学というよりは社会倫理の側面からキリスト教に接近し、キリスト教会を中心に推進された社会改良運動の影響を受けたものと考えられる。
 
また『あの時分』に、教会に行った時の感動的な夜の記述があるように、教会で味わった異国情調や社交的雰囲気に魅了されたということも、入信への動機の要因になったのではないかと思われる。

このあと約一ヶ月後の明治24年1月4日、麹町一番町教会(現在の富士見町教会)において、当時、「牧師の牧師」と言われた植村正久牧師より洗礼を受けた。独歩20歳の時である。

                      (つづく)
 
      
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2010年02月04日

『国木田独歩と基督教』再論 @

2008年3月までの20年間入会していた「東大阪読書友の会」は、「河内の郷土文化サークルセンター」に所属しており、このサークルセンターが『あしたづ』という研究発表誌を1999年に創刊し、毎年1回2月末に発行している。

私は第5号より退会する年の10号まで、以下の6つの作品を寄稿した。

  2003年(『あしたづ』5号) 『国木田独歩と基督教』再論
  
  2004年(『あしたづ』6号) 文学作品に見る人間の真相
              ―選ぶということ、自由に生きるとは―
  
  2005年(『あしたづ』7号) 
       遠藤周作が世に問うたことと聖書的視点からの問題点
              (『海と毒薬』、『悲しみの歌』より)
  
  2006年(『あしたづ』8号) 『リア王』は悲劇か
                    ―リアの生涯を考える―
  
  2007年(『あしたづ』9号)  私にとって書くということ
  
  2008年(『あしたづ』10号) 私の忘れられぬ人
                    ―西口孝四郎氏との出会い―


毎年掲載されるたびにブログ上に公開し、ブログ開設以前に発表したものも掲載したが、デビュー作の国木田独歩論だけがブログに刻まれていないことに気づいた。そこで、今日より7回に分けて掲載したいと思う。興味のない方も読み進んで下されば嬉しい。

独歩の『欺かざるの記』の本文は旧漢字旧仮名づかいであるが、パソコンでは旧漢字を打ち出せないので現代使用されている漢字でお読み頂くことをお断りしておきたい。

この作品を書き上げた時、次女から論文の書き方について簡単にレクチャーしてもらって「著者」と書き改めたことや、「これから毎年、チャレンジすればいいね」と意欲を引き出してくれたことが懐かしく思い出される。
真智へ!
真智のおかげで退会するまで寄稿していたなんて驚きです。
真智が2003年春に東大へ行ってからも、結婚してミネソタへ行ってからも、ママは楽しみながらやっていたよ。ありがとう!
これからもますます情熱をもって励もうと思う。これからも時折々にプッシュしてね。

『国木田独歩と基督教』再論
                    
            1 序論
 
筆者は大学の卒業論文で国木田独歩を取り上げ、彼の人生と芸術に強く影響を与えたキリスト教との関係に焦点を絞って論じた。その時の結論は次の通りである。

独歩の神は、罪とは全く無関係の理想主義精神と結びつくものであり、正統なキリスト教信仰と異にするものである。それは、「自然即神」という汎神論であり、宇宙・人生の秘儀に驚異する驚異心の信仰であった。

しかし、死期が迫った時、キリスト教信仰を実感したように思われ、一般的に言われているような背教者ではないというものであった。
 
その後、筆者は35歳の時、まさにダンテの『神曲』冒頭にある通り、人生の半ばにしてキリストを信じる者の一人とされて、是非もう一度、今度は信仰者の目で独歩をたどってみたいと思うようになった。

そこで本稿では、独歩のキリスト教観、信仰観、背教者の問題を調べ直し、それらについてどのような見解を得るのか、また、独歩は神との人格的出会いがあったのかどうかについて探ることとする。

                       (つづく)

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2008年04月27日

太宰の悲劇 ―『かわちの』最終寄稿文―

昨日の理事会の折に、読書会のロッカーに入れておいて頂いた『かわちの』を持ち帰った。年に一度発行される読書会の機関紙『かわちの』に、私に代わって長女と次女に紙面を譲ったこともあるので正確には18回、通算20回目の寄稿が最終となった。

昨年で永年務めてきた編集委員も下りている。
残念なことに一箇所、校正ミスがあった。たった一字違いでも全く意味が違ってくるので、本文とは別の色で提示しておいた。
昨日も例年通り各理事さんたちに配布させて頂いているので、ブログを読んで下さっている方々にだけでも訂正をお伝えしたい。
   
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

          太宰の悲劇

                        藤本 優子

久々に『人間失格』を読んだ。
「人間失格」とは神に対して言ったものではなく、人間不信が高じて恐怖となり、ついに人との関係が完全に失われてしまったことを意味する。

太宰ほど聖書を熱心に読んだ作家はいないという。確かに、マタイ伝を読むだけで3年以上もの年月をかけている。

かつて私が不可解だったことは、そんな太宰が自己の内面をごまかさずに追求したのはいいが、限りなく自己を嫌悪し否定したままで果てたことだった。

真の自己否定に至ったならば、自分の罪を贖って下さったイエスの十字架によって、自己肯定に転じられるであろうに、太宰にとってイエスはキリストではなかった。

もうひとつ不可解なことは、愛なる神ならば、そこまで苦悩して聖書を読む者を、どうして救いに導いて下さらなかったのかということだった。

しかし、今回再読するまでの年月を通してこれらの疑問が解けた。悲劇の原因は太宰の傲慢さであり、救いについては、神から自由意志を与えられている我々一人ひとりの選択に委ねられているということだ。太宰は苦しみ抜いた果てにも神に助けを求めることはしなかった。

聖書の読み方にしても、「聖書は祈りつつ読め、読みつつ祈れ」という言葉があるように、議論する姿勢ではなく、知識を得るためでもなく、応答するつもりで読んでいくならば、必ずキリストと出会ったことだろう。太宰にとって、聖書は自己を追いめていくものでしかなかった。

では、我々にとって聖書とは何であろうか。
自己を直視せずに問題から目を背けている者には聖書も太宰文学もわからない。自分を本当に生かしてくれるものは何か。それを求めてこそ太宰の悲劇を越え、太宰文学を生かすことになるのだと思う。
     
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

訂正箇所は「自分を追い求めていった」ではなくて、「自分を追い詰めていった」である。
著者が、たった一字の校正ミスにもこだわることを理解して頂けるだろう。

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2008年02月29日

私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い― 最終回

それから1ヶ月もしない8月5日のことだった。

「10日前から入院してますねん」と西口氏から電話が入った。私は直ぐに会の重鎮お2人に相談して、その3日後に3人でお見舞いに上がった。
氏は奈良県立医大病院病棟の窓から指さしながら、「ここから家内が上っていった(火葬場の)煙が見えますねん」と涙されていた。
奥様亡きあとは娘さんがお世話されていたが、「家内やないとあかん。娘ではあかん。」と深い悲嘆の中におられる氏を、私はどのようにお慰めしてよいのかわからなかった。

そして9月30日に、3日前に退院したと短い電話があった。
西口氏が私を最も必要として下さっていた時に私は何もしなかったのだ。あの頃の私は人生の大きな問いに七転八倒しながら、死が迫っていた母のことで無我夢中だった。

この電話から25日後に母は召された。
西口氏からも12月下旬になって喪中の葉書きが届いた。
それなのに何と言うことだろう。
年が明けた10日後にご長男から西口氏が亡くなられたことをお聞きして、私は電話口で座り込んでしまった。ウタ子夫人が亡くなって半年後のことだった。私がお見舞いに上がったのは一度きりで、お目にかかったのは8月8日が最後になってしまった。

「父は母の100ヶ日の法要に藤本さんに来てもらうんやと楽しみにしていました。料理屋にも予約していましたが容態が悪くなって・・・」
と、お通夜の席でご長男が話して下さった時には、それほどまでに想って下さっていたのか、取り返しのつかぬ悔いに神さまと西口先生にお詫びした。

あの頃の私は母の悲しみに打ちひしがれ、人を思いやる余裕は全く無かったのだ。何度も何度も心の中でお詫びした。

       6 過去には感謝、未来には希望

これを書きながら西口先生とお出会いできたことを改めて感謝している。西口先生に会いたくなった時は、このページを開けばよいようにと自分自身のためにも書いた。

その後、宗原千里さんと交互に務めた7期14年間は、私たちふたりの懐かしい思い出である。振り返るとキラキラ輝いている。

聖書には、「すべての守るべきものよりもまさりて汝の心を守れ」とある。
素直な心を保持してこそ、読書や人との交わりを通して豊かに感じることができ、感受性を磨いていくことができるだろう。いくつになってもそうでありたいと願う。

創立40周年を迎えた「東大阪読書友の会」に新しい時代が始まった。そして、私にも神さまからの希望の風が吹いている。
読書会で育まれたことを感謝し、これからも神の御手に導かれながら歩いていこう。読書会の良き気風が受け継がれんことを祈りつつ。

(東大阪読書友の会)


花園図書館前にて.jpg

花園図書館前にて

1993年9月11日 読書会創立25周年記念講演会を終えて

右より宗原千里さん、ウタ子夫人、西口先生、筆者、筆者の次
女(中学1年生) 
(撮影者・筆者の夫)

― 完 ―


※ 『あしたづ』に掲載した写真(白黒)をこのページにも掲載できたのは、長女の携帯電話で写真を写して転送してくれたからだ。
夫の携帯電話は会社で規制をかけたらしく、私のフリーメールアドレスへは転送できないようなっていた。尚、写真下の部分は写真を立てて撮った時のテーブルの色である。


乳飲み子がいるのに快く労してくれた知子に感謝(^−^)!
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2008年02月28日

私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い― 5

        5 西口氏ご夫妻との別れ

1993年と言えば既に母の通院介護が始まっており、母の難病の進行と共に私の苦難も厳しくなっていく頃であった。しかし、私は新しい経験に心躍らせ、久々のフレッシュマンの気持ちで以後2年間、西口氏の薫陶を受けた。

そして、その2年間を終えた1995年4月から病気療養を理由に休会された。母もまた、その8月から最後の入院生活になるほど苛酷な状況になっていたので、御夫妻のいない読書会はとても寂しく辛いものであった。

休会(退会)された翌年のこと、「1996年7月9日午前9時15分、西口先生より電話あり」と記録簿に書かれている。
あの時の電話は今も忘れられない。明るく話し始める私に、「藤本さん、家内はもうあきまへんねん」と泣き声になられたので、「ええ?!」と 耳を疑った。

糖尿病の療養のために休会されたのは西口氏御自身だったのに、どうして奥様が死の床にあるのだろうと動揺しながらも、咄嗟に「今から直ぐに参ります」と口走っていた。
この時、深刻な容態になっている入院先の母のところへ出かける直前だったが、即座に優先順位を変更した。

そして、「藤本さん以外は誰にも言うてないから黙っといて下さい」と言われた。私は一瞬心細さを感じたのだろう。「宗原さんには話してもいいですか?」とお聞きしたところ、承諾して下さったので2人で奈良市のお宅へ急いだ。
 
ウタ子さんはすっかりやせ衰えて、お元気な頃の面影は全くなかった。私は驚きを隠すのに必死だった。母の世話で慣れていたので自然に体が動いていた。「よかったなあ、藤本さんが(おしめを)換えてくれはったで」と、涙声で言われた西口氏。

その3年ほど前のこと、ウタ子夫人は嚥下できなくなっていた母のために、栄養があるからとペースト状になった胡麻を買ってきて下さったことがあった。
引退されてからも、あまりの苦悩に私が泣き言を漏らした時には、「あなたにはりっぱな信仰があるじゃない!」とお手紙で励まして下さっていた。その奥様があんなになっておられたとは信じられないことだった。

西口氏は娘さんに奥様のことを頼んで、私たちを2階に住まいされていた娘さんの住居に案内された。そこで30分間くらい話していただろうか。「以前、2人で教会の聖書研究会に長い間通っていたことがありますねん」と唐突に話し出された。

そして、具体的には話されなかったが、苦しい心情を吐露された。罪の告白だった。
ここで言う「罪」とは反社会的な行為を意味するものではなく、神の導きがなければ感じることができない悔い改めである。


私は「神さまも赦して下さっていますよ」と申し上げたものの、どうしてあの時、一緒に祈ってあげなかったのだろうと今も悔いが残っている。
あの頃の私は薄い信仰で、ノンクリスチャンを前にして共に祈る勇気はなかった。祈りが全く足りなかったからだ。


西口氏はなぜ聖書の話をされたのか。
なにゆえに罪の告白をされたのか。
それは、私たちがクリスチャンであるからこそ話されたのであり、神に祈ってもらうことを願っておられたに違いないのだ。導き手がこれでは「教師の当たり外れ」どころではない。


しかし憐れみ深い神は、導き手いかんで救いを求める人が救いに与れないようなことをなさるはずがない。愛なる神は氏の砕かれた魂をごらんになり、救いの手を差し伸べて下さったに違いないと思っている。

この翌日、夫人は亡くなられた。
                 
                 (つづく)
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2008年02月27日

私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い― 4

        4 西口氏の生きざまに触れた出来事

私が西口氏に傾倒するきっかけになった出来事がある。
それは1992年2月の例会後のことだった。皆さんが帰られたあと、事前にお願いしていた私の相談に応えて、西口氏御夫妻は1時間以上も時間を割いて下さった。そこに宗原千里さんにも同席して頂いた。

その頃、小学校5年生だった次女の関係で私はPTA広報誌でペンを奮っていた。毒にも薬にもならないおざなりな、と言っては言い過ぎかもしれないが、保護者に興味をもって読んでもらえる新聞作りに燃えていた終盤の頃である。

その年度は学期末に発行する従来の新聞以外に、春の総会後の5月半ばから翌年の3月半ばまで、夏・冬休みの2ヶ月間を除く9ヶ月間に40号の手書きの新聞発行を重ねた。しかし、3学期に入って学校側対広報正副委員長という構図で対立した。

しかも、PTA役員たちは中立の立場ではなく学校側に与した。もとより、広報委員会は上意下達の学校報を書くものではない。保護者というフィルターを通したものを書かなくてはいけないのに、PTAという意味すらわかっていない役員たちをも相手に、孤軍奮闘の戦いとなってしまった時のことである。

2学期末に発行したPTA新聞は、毎日新聞社のコンクールで優良賞を頂き、手書きの新聞も同新聞社が開いているPTA新聞講座において、毎回模範として講師に取り上げてもらえるほど評価されたものであった。

即ち、健全な内容であることは言うまでもないことなのに、学校という組織は大変に保守的であり、何事も「万事例年通り」を旨とする組織だった。


私の考え方が間違っていないか確かめるために、新聞社編集局の意見を聞き、法律的根拠も調べて問題なきを確かめた。
しかし、一人で学校という組織に立ち向かうには心細さがあった。かといって、真剣に取り組んできたことだけに信念を曲げることはできないというのも、私が生まれて初めて体験した思いであった。

そこで西口氏に相談したのである。
対立した原因と相談内容をブログ『メメントドミニ』に書いているので引用させて頂きたい。

2007年3月21日 「私に影響を与えた西口孝四郎氏」
             (カテゴリ「読書会関係」)

私にとって西口孝四郎氏は忘れられない人である。
読売新聞東大阪支局社会部デスク、支局長の経歴であるが、この方ほど愛と情熱に溢れた谷崎潤一郎研究者はいなかったであろう。その西口氏に深く敬意を抱いた出来事があった。

これまでにも何度も転載させて頂いている『ふじとニュース』、次女が小学校5年生のPTA広報でペン活動をしていた時のことだ。
健全な小学校であったからこそ保護者による自由な広報活動ができたのであるが、2学期に学校側から「待った!」をかけられたことがあった。

2学期末に発行する新聞に、「今や塾通いはあたりまえ、これでいいのでしょうか?!」というテーマで、学校5日制のことも織り込んで特集を組もうとしていたのだが、このようなことにさえ学校側は体面を気にしたのだ。

結局、設問は「塾」から「ゆとり」中心に変えられてしまった。よく耳にした学校側の検閲はなかったものの、これではそれに準ずるものである。


ようやくこの年度に実現した、みんなに読んでもらえる新聞作りをつぶされないために、私は次年度への引継ぎを前にして広報活動を正しく位置づける記事を書いた。

それが学校側を大いに刺激した。

即刻、学校とPTA3役から広報正副委員長と私(夫を委員長とし、私は書き手としてやらせてもらっていた)に呼び出しがかかった。

発行5日後の夜、校長・教頭先生、PTA3役に私たち広報委員3名の11名が集まり、3時間半に及ぶ激論が11時まで続いた。3役は学校側に与(くみ)し委員会を支援しなかったから、我々は孤立状態になった。

さあ、困った。
しかし、このようなことで挫折したくない。
ところが、約9ヶ月間に40号を重ねたことからもわかるように、原稿ができ上がれば印刷のためにたびたび私1人で学校へ行かなくてはならないから気持ちがひるんだ。

この話し合いの前に、私は大学を卒業して以来はじめて憲法の本をひもとき、自由権、特に21条の言論・表現活動について熱心に読み直したものだ。学生時代とは比べものにならない熱心さで読んだ。

また、広報のおかげで出会い一目置いて下さっていた毎日新聞大阪本社編集局次長(PTA新聞講座で有名)にも相談した。私たちは間違っていないと言われたが、「まあまあ・・これ以上は対立しないで・・・」とのアドバイスにがっかりしたものだった。

次に西口氏にも相談した。
すると、西口氏は「戦え!」と言われたのだ。間違っていないのだから、ここで引いてはいけないと言われた。
先のアドバイザーから「引け」と言われて失望したものの、戦うにも恐れがあり、いろんな議論を想定して相談した。

すると、「いつでも行ったげる。これは大切なことやからな。」と何度も言われた。それまでの経験では、言葉では言っていてもいざとなれば逃げ、多数派に調子を合わせる人ばかりというのが私の印象だっただけに、西口氏の本物の生き方に圧倒され尊敬した。

そこで、手書きの新聞に11名の話し合いのことも記事にし、最後の一文で次のように締めくくった。
「委員会に任されて出来上がったものに対して批判ばかり言うことは、言論活動の制限・弾圧になりますから、まだ反論があるなら投稿して紙上ですべきです」。
(元読売新聞社会部デスク、現在は評論家の西口孝四郎先生
より)

するとどうだろう。
水を打ったように騒ぎはピタッと静まった。
法律的にも検討し、専門家に意見を求めるなど真正面から取り組み、紙上に専門家のコメントを公表したことが良い結果に繋がったと思っている。

そして、「父母の豊かな力量を引き出せるPTA、意欲を大切にされるPTAでなければ、PTA離れはますます激しくなると思うからです。」と広報誌に書いたように、「PTAとのトラブルを心配して毒にも薬にもならない『ことなかれ広報』を作る」ことなく、最後まで信念のペンを奮ったのだった。

ちなみに、2学期末にとったアンケートによると、手書きの新聞『ふじとニュース』を「毎号読んでいる人」が79パーセントで、「発行を楽しみにしている」と答えた人が63パーセントという画期的な結果も得ていた。

あの時、恐れがあっても勇気を奮い立たすことができたのは、西口氏の後ろ盾があったからだ。この時、私も西口氏のように社会に対して発言する人間でありたいと強く思った。

今、これを書きながら、すっかり忘れていたあの時の精神の高揚がよみがえり、西口氏が私の自己確立に多大なる影響を与えた人であったことに気がついた。
どうしても流されてはならない、信念を曲げてはいけない事があるのだ。このことを思い出してすごく幸せな気持ちに満たされ、意欲と力が横溢している。
       
 ―以上、ブログ「メメントドミニ」より―


この出来事があった翌年の1993年4月のこと、西口氏は私を読書会の代表として立たせて下さり、広い社会へ引っぱり出して下さったのである。
ひょっとして、この時のことを通して私の姿勢を評価し会長に抜擢して下さったのではないかと今になって思うのである。

                 (つづく)
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2008年02月26日

私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い― 3

          3 西口氏の文学論 

1990年1月の例会では漱石の『倫敦塔』をテキストに、講師をお招きしての会だった。この時は読書会に入って二年過ぎた頃であり、私はまだまだ西口氏を知らなかっただけに、氏が専門家を前にして冒頭から熱く語られたシーンは衝撃的だった。

「文学に玄人も素人もない。即ち学問のあるなしではなく、それぞれの感受性が勝負になる。自分の立場で深く読んでいくことが大切であり、目に見えないものを見、耳で聞こえないことを聞くのが文学を読む者の心である。

文学研究家には、作品について問題が出てきた時に、文献上の知識を話して頂だけばよい、そういうことだ」
と、終始強い語気で語られた。
私は講師である鳥井氏の顔色を見ながらペンを走らせていた。

また、西口氏が何度も話しておられたことは、作家が何を書くか、何を書かなくてはいけないのか、それは「秘密」である。「秘密」とは隠しごとだけではない。アイデアや自分の生き方などであり、どういう秘密を持っているかが作家の仕事である。

画家が自画像を描くのは自分の内面を描くのであり、作家もまたそうである。自分自身でもわかっていない秘密を、どういう視点から、それをどう見つけるのかである。

文学は新しさではなく「ホンネ」である。
「だまし絵」であり「隠し絵」であると、このことは毎回のように熱く語っておられた。また、面白くない本は逆から読んでいくとよい。この読み方は大切で、かえって本質がわかる時があると言われた。氏の語り口のままで続けよう。

「もの書きで一番あかんのは、自分の書きたいことに不足がある時や。書物の資料不足ではなくて、自分の中の書きたい資料不足が一番あかん。

見たもので自分が感じることを書くんや。本当に感じたものは人に伝えたくなるやろ。人に教えてやりたい、伝えてやりたいと思うことを書くんや。作品は頭の中の動きやから、作者が死んでも死なないもんや。

自分の腹の底に秘めている光景、人、音、感動など、自分の忘れられない思い出が自分の原点や。それはすぐに思い出すようなものではなく深いものや。それをいかにつかむかが大切であり、それが文学というもんや。

ジャーナリストの文章は掘り下げより新しさが勝負であり、人にわかる文章でないとあかん。しかし、文学は新しさではなくホンネや。突っ込んで書かんと人の心を打たん」。


まさしく、私に書くことの意味を教えて下さった人物であった。そしてご自身が言われたように、亡くなられた西口氏もまた今も我々に語り続けている。書いたものは残るのだ。

                 (つづく)
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2008年02月25日

私の忘れられぬ人 ―西口孝四郎氏との出会い― 2

2 西口氏の『変身』論で文学開眼

私が今も読書会のノートを何度も開いて西口氏の語られたことを読み直すのは、書くことへの情熱を喚起したいがためである。あまりにも遅きに失するが、今になって西口氏から大きな影響を受けていたことに気づき、読書会に導かれた背後に神の御手を感じている。

まず、読書感想として最も印象的だったのは、何といっても1991年2月の例会で取り挙げて頂いたカフカの『変身』である。

ある日突然、グレゴールが虫になっていたという話だ。
古い訳本には「毒虫」になっているらしいが、「巨大な褐色の虫」はカフカの不安の象徴であり、即ち、ユダヤ人である苦しみや不安から逃げられないという意識や葛藤を表している。カフカが不条理文学の先駆者と言われている所以はここにあるのだろう。


ところが不思議なことに、虫になったグレゴールの苦悩や悲しみは何も書いていない。家族のそれらも書いていない。カフカと父親とのギクシャクした関係はよく表れているが、なぜ虫になったのかもわからない。

グレゴールが死んだ時、家族が簡単に立ち直っていく姿も印象的だった。異常な現実から解放されてホッとしたのだろうか。しかし、死んだ虫は息子であり、兄であるグレゴールなのにと私は悲しく思ったものだ。

さて、この時の西口氏の見方に驚愕した。
今振り返ってみると、その驚きこそが私の文学の眼が開かれた瞬間であったと言っても過言ではないだろう。
氏の見方はこうであった。

変身したのはグレゴールだけではなく家族であり、特に妹の変身は大きかった。最初は文中で「妹」になっていたのに途中から「グレーテ」に変わった。そのうちに妹は餌を入れた器を足で与えるようになり、グレゴールが死んだ時はルンルン気分になった。カフカはこれを書きたかったのではないか。 

一方、それに対して常に変わらなかったものは額縁に入れてあった絵であり、変わらないものは神であるか何なのかはわからないが、これこそがグレゴールの心であり、カフカはそれに希望を託しているのかも知れない。

グレゴールの変身は、突然襲ってくる避けられぬ病気や災難、戦争などの不条理を意味するものであり、変身した目(虫)から家族を見ていたのだと話された。

ぶったまげた。
私の視野が大きく広げられた瞬間だった。

本の扉絵についても教えて頂いた。
扉絵は作品の中に書かれていることを象徴する大切な絵であり挿絵とは違う。従って、扉絵を虫にされては困るとカフカは出版社に注文をつけた。なぜならば、ドアの向こうにグレゴール(虫)という秘密があり、その暗い部屋の秘密を書いているからだ。

カフカは、「この本のテーマは息子たちである」と言っている。

即ち、私(カフカ)が死ぬ時、それを看取るのは息子たちである。その時、息子たちはどのように変わるのか。「変身」とは人間の心である。虫だけに捕らわれて読むと本質から反れる。

文学作品とは手品であり、小説(文学)にはいつも隠し玉がある。『変身』の場合は読者の目を虫に引き寄せておき、実は妹こそが最も変身したのだった。

どの文学作品にも謎があり、それをどう読むか。どのように読んでもよいが、面白く読むことが大切であると教えて頂いた。
紙幅の関係で詳しく書けないが、ヘミングウェイの『老人と海』では、老人は夢を見ていたのであって海へ出ていなかったという読み方にも感心したものだった。

                     (つづく)
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