2018年01月14日

家の教会2018B ―「悔い改め」こそ神の祝福―

2018年1月14日(月)   (2018第3回 家の教会)

10時〜10時45

  出席者 3名(with良輔&ユキ)

@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌  「主イエスと共に」

               「おおしくあれ」

C 聖書輪読     ローマ人への手紙 2章1節〜11節

D お話       優子

E お祈り      1人ずつ

F 聖歌       498番「歌いつつ歩まん」

※ 知子はようやく体調が回復して、旧友(ファイザー時代の友)と

再会のため三ノ宮へ出かけた。

ローマ人への手紙 2章1節〜11節:

2:1 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。
2:2 わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
2:3 ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
2:5 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
2:6 神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。
2:7 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
2:8 他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。
2:9 悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、
2:10 善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。
2:11 なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。

お話:
「悔い改め」について考えたく思いめぐらせていた時に、この箇所に導かれました。ここは異邦人の罪を裁くユダヤ人に、万人に罪があることを明らかにしているところです。そして、多くの試練や誘惑の中で善を行うことは至難であるが、主に導かれて励みなさいとのメッセージを受け取りました。

この箇所で黒崎幸吉は、「神は決して外面によって不公平に取り扱わず、名義上のキリスト者かどうかも神の前では問題ではない。キリスト者の形式や所属教会などは審判の前には意味はなく、神は人のうわべを見ず、彼を救うものはその信仰のみである」と教えています。

そして、「患難」は「外より来るもの」、「苦難」は「内心の状態」を意味し、「患難」の反対は「神より賜わる光栄と栄誉」で、「苦難」の反対は「平安」であると書いています。

「悔い改め」によく似た言葉に「懺悔」があります。共に「悔い」という字がありますが、意味は全く違います。「懺悔」とはただ悔いることであり、「悔い改め」とは文字通り「悔いて改める」ことです。

このほか「悔い改め」に似た言葉に「回心」があります。「回心」とは、今まで神さまに背を向けていた心を神さまの方向へ回すという意味です。

イエス・キリストに出会って「回心した」と言ったりしますが、今改めて思いますのは、回心は悔い改めとは違います。

人が最初に神さまを求める時、悩みや不幸に悶えての求道であり、罪の意識はないからです。かのルターでさえそうでしたから一般化しても良いと思います。

私は母の患難と不条理の人生に、なぜ非道なほどに他者を傷つけて生きる人が平坦な道を行くのかという苦悩から主イエス・キリストと個人的な出会いをしましたが、そのときはまだ聖書が言う「罪」には目覚めていませんでした。

たとえば、誰かを傷つけてしまったという罪意識から求道に入ったと言えども、そのことで悩んでいるということからの求道であり、やはり罪から求道していなくて、「罪の悔い改めが登場しないで信仰生活が始まる」と言った北森嘉蔵の説教を思い起こします。

「悔い改め」というのは罪の問題であり、造り変えられなければならず、改める力は神さまから来ます。人間の努力では決して悔い改めることはできないのです。

しかし、回心によって神さまの光に照らされて自分の罪がわかって来る、それが聖書の言う「罪」なのです。

今はまだ悔い改めに至らなくても、回心であれ、懺悔であれ、人生のスタートラインに立たせていただいた者は、家庭で、職場で、あらゆるところにおける他者との関わりにおいて、必ずや周囲の人々に気づきや影響を与える生き方ができるのだと思います。

主イエス・キリストに導かれていく時に悔い改めを経験させていただくことを思いますと、神の祝福とは「悔い改め」にほかならないと気づかされました。

ハートマークにバンソコウ.jpg新しい一週間が始まりました。命ある限り、常に新しい気持ちにされて生かされていくのは何という恵みでしょうか。今週も主に在って善き日々を重ねて生きたいと思います。

最後に昨日届いた「キリストの栄光教会」のみことばを励ましの言葉として贈ります。

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」。 
                     (ロマ書15章13節)
あなたの神は希望の神です。どんな状況からでも、主は道を開いてくださいます。ただ、あなたが堅く信仰に立つことを願っておられます。小さな信仰でもいいのです。要は、信仰を働かせることです。からし種ほどの信仰があれば、主が山を動かされます。
posted by 優子 at 14:09| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年01月08日

家の教会2018A ―神による絶対的平安を得て始む―

これは1月7日(日)の記事です。
↓ ヒヨドリ
ヒヨドリ.jpg2018年1月7日(月)              
   (2018第2回 家の教会)

11時〜11時30

  出席者 4

(all member)


奏楽:知子

@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り     一同

B 子どもの讃美歌  82番「おおしくあれ」

C 聖書輪読     列王記上17章1節〜9節

D お話       優子

E お祈り      1人ずつ

F 讃美歌      312番「いつくしみふかき」


列王記上 17章1節〜9節:
17:1 ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。
17:2 主の言葉がエリヤに臨んだ、
17:3 「ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。
17:4 そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」。
17:5 エリヤは行って、主の言葉のとおりにした。すなわち行って、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに住んだ。
17:6 すると、からすが朝ごとに彼の所にパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。
17:7 しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。
17:8 その時、主の言葉が彼に臨んで言った、
17:9 「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。

お話:
真智と太志君がアメリカへ帰ってしまってさみしいですが、共に話し合った時に真智が語っていた、神さまが朝夕にカラスにパンと肉を運ばせてエリヤを養われた箇所を開きました。

今年からはユキが集中できるように、礼拝は30分間順守のチャレンジを受けていますから、立てられた者の思いと心を導いて、聴いてくれるユキたちの役に立てるようにお話しさせてくださいと、なお一層に祈りつつ励みます。

それゆえに今後は今まで以上に要点を圧縮して語ることになりますから、良輔さんは今まで以上にブログを必読してくださいね。

今回は時間がなくて礼拝の準備ができなかったのですが、この箇所の内容はわかりやすいので解説を省略してエッセンスだけをお話しします。

旧約聖書にはイザヤ、エレミヤ、エゼキエル・・・など多くの預言者が出てきます。エリヤは紀元前9世紀に北イスラエル王国で活躍した預言者で、イスラエルの歴史上最悪のアハブ王の時に立てられた預言者です。

アハブ王はバアル崇拝をしていました。アハブ王をバアル信仰へと導いたのは妻のイゼベルです。
バアルは農耕・豊穣の神であり、日本にもあまたある偶像崇拝のご利益信仰です。偶像崇拝は人間が作り出した人間の思いどおりになるカミです。

モーセは律法の代表であり、エリヤは預言者の代表と考えられている預言者ですが、エリヤは決して特別な人ではなく私たちと同じ人間だったことに励まされます。

ヤコブの手紙5章17・18節にはこうあります。
「エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈りをささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。 それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた」。

私たちが今読んでいるところです。
エリヤには神への強烈な信頼がありました。それゆえに義人の祈りには大いなる力があり、このことを通して主なる神こそが唯一絶対なる神であることをイスラエルに明確にされたのです。

「義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである」。
               (ヤコブの手紙5章16節)
ところで、カラスが食べ物を朝夕運んでくるなど常識では考えられないし、しかも旧約聖書(レビ記)には、カラスは汚れたものとされていますから、エリヤの気持ちを考えると非常に辛いものがあり大きなチャレンジだったのではないかと思います。

エリヤはカラスに養われることに悩んだり疑問に思わずに従ったのかも知れませんが、人間エリヤにとっては大きな試練だったと思うのです。

でもエリヤは神さまの言葉を第一としたのです。大変な試練の中にあっても神さまに従うとき、主の平安があります。エリヤには絶対的な平安があったことだけは確かです。

私たちは試練が続き厳しい日々を耐え続けねばならないとき、主に在って(信仰者)でさえ、時にうな垂れてしまうことがあります。しかし、そのたびに神さまの御心に委ねるのです。委ねさせてくださるのですね。

川の水が枯れて、今度は「やもめ女」に養われるというのもそうだと思います。当時の社会ではやもめの女性はとても虐げられていたということですから、エリヤにとっては試練であり、訓練のときだった思います。

私たちの人生途上において万事休すになって神さまを求めるしかない情況があります。その時に神さまの胸に飛び込んでいく者は幸いです。どんなに追い詰められて困っても、ついに真の神さまと出会わないで生涯を終える人もたくさんいるからです。

私たちは神さまの導きを求めて従い、神さまの業を体験させていただきたいと思います。そのためにはまず主の訓練を通して自分の無力さを嫌というほど知り、その時に初めて「私には主イエス・キリストが必要です」と祈ることができるのだと思います。

マタイによる福音書6章33節の 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」とは、神さまが私たち一人ひとりに関わっておられることがわかった時に、初めて神を第一にできるのだと強く感じました。

頑なだった心を開くと、すべてに先立って主の平安が来るということが、夫の様子からも目に見えるようにわかります。主は必ず私たちひとりひとりに語って下さいます。

神さまはカラスを用いてでも愛する者を必ず助けてくださることを忘れないで、今年も大いにチャレンジしましょう! 共に人生を分かち合い励まし合いながら。このこともクリスチャンにとっては必須です。そこに神さまが豊かに働いてくださるからです。
以上のようなことを話しました。

まち、ふー、またね.jpg前途多難な私たち家族に神さまが一筋の光を射しいれてくださいました。良輔は初めて主の平安を体験しているようです。「どちらの場合でも受け入れる」と穏やかに信仰告白し、新たなる出発を始めました。

背後で祈ってくださっていた方々、そして、真智子と太志君に心から感謝し、私たち以上の祝福がありますように主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。

アメリカンロビン.jpg「真智、もう元気回復した?」
真智、太志君   

これは、真智たちの家の周囲にいるアメリカンロビン。

posted by 優子 at 17:53| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年01月05日

家の教会2018@ ―それぞれにいただいた神さまのメッセージを分かち合う―

IMG_9927.jpgこれは1月1日の記事です。
2018年1月1日(月)              (2018第1回 家の教会)

13時10分〜14時25

  出席者 5

(with ユキ・良輔・真智子・太志)

奏楽:真智子

@ 讃美歌   132番「ああ主の瞳」

A 分かち合い  

新しい年を生きていく上で励ましになればとの思いから、昨年一番心に残っている聖書個所と経験を1人ずつ分かち合う。

聖書個所は2節ずつ輪読。

B お祈り         1人ずつ

C 子どもの讃美歌  「雄々しくあれ」

ゆっくりおあがり.jpg


真智子:

マタイによる福音書 25章14節〜30節:

25:14 また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。

25:15 すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。

25:16 五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。

25:17 二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。

25:18 しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。

25:19 だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。

25:20 すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。

25:21 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

25:22 二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。

25:23 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

25:24 一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。

25:25 そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。

25:26 すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。

25:27 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。

25:28 さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。

25:29 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

25:30 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。


去年何度も思い出したのがこの箇所です。この箇所で語られるのは、神さまから預けられたタラントを管理し精一杯運用せよということですが、私は1タラント渡された人の気持ちをよく思いました。


1タラントを預かった人は神さまが善いお方だと信頼できなかったから、良かれと思ってやっても悪い結果になるかもしれないし、失敗したら取返しがつかないし、何をするのも怖かったのではないかと思います。


でも、きっと神さまは、「自分らしくやってごらんよ。失敗しても私が一緒に行くから。」と言ってくださっていると思います。そして、一生懸命心を尽くして生きる中でこそ、主がチャレンジも励ましも与えてくださり、私の人格を練り、私を造りかえて下さると思います。


そう思うと、生きてみよう、と思います。1タラントを預かった人のように怖がってしまわず、主を信頼して、思いっきり生きたらいいんだと思います。この一年も、主が一緒だから、大いにチャレンジしていこうと思います。


太志:

詩篇51篇:

51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、
わたしをあわれみ、
あなたの豊かなあわれみによって、
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、
わたしの罪からわたしを清めてください。
51:3 わたしは自分のとがを知っています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
あなたの前に悪い事を行いました。
それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。
わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。
それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、
わたしは清くなるでしょう。
わたしを洗ってください、
わたしは雪よりも白くなるでしょう
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、
あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、
わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり、
わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
51:11 わたしをみ前から捨てないでください。
あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
51:12 あなたの救の喜びをわたしに返し、
自由の霊をもって、わたしをささえてください。
51:13 そうすればわたしは、とがを犯した者に
あなたの道を教え、
罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。
51:14 神よ、わが救の神よ、
血を流した罪からわたしを助け出してください。
わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。
51:15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。
わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。
51:16 あなたはいけにえを好まれません。
たといわたしが燔祭をささげても
あなたは喜ばれないでしょう。
51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
51:18 あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、
エルサレムの城壁を築きなおしてください。
51:19 その時あなたは義のいけにえと燔祭と、
全き燔祭とを喜ばれるでしょう。
その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。


共に研究しているメンバーの一人が異なる信仰をもっていたのですが、仕事と信仰は別のものであるし、彼の信仰を尊重しつつやっていこうと思ってやってきました。


しかし、最近になって、彼が彼の信仰する宗教の名前がついた職場に移ると聞き、そうなると論文ができあがったときに、彼の所属は彼の宗教名がつくのに対し、自分の所属は信仰とは無関係であるため、自分自身も彼の宗教を信仰しているかのように見えてしまう、ということが気になってきました


最初は、相手を尊重することを思い、むしろ主に信頼するのならば、それでもいいと思いました。しかし真智と話していて、相手の信仰がどうのこうのではなく、自分がクリスチャンであるというアイデンティティーが脅かされるように感じていることに気づいたので、論文の共著を辞めようと思いました。そして、辞めることをしっかりと相手に話してわかってもらおうと思いました。


この決意をしたにも関わらず、翌朝、なぜか気持ちが暗いままでしたので、真智に促されて共に祈りました。


祈って気づいたことは、最初に「それでもいい」と思ったのは、主に信頼してというよりも、人間関係を穏便に済まそうという動機が第一になってしまっていた、ということでした。


相手の信仰は尊重していましたが、自らの信仰を尊重できていなかったように思いました。自分の信仰を犠牲にして、言いにくいことを言わないで済まそうとしてしまっていたのだと気付きました。


2度目の祈りの時に「僕は神さまを裏切った」という言葉が出てきて涙し、主を裏切ったユダの心境を経験しました。その時に出てきたのが詩篇51篇で、特に7節、ダビデの強い信仰を思いました。


罪を認めたときはとても辛いですが、悔い改めたら神さまは赦してくださるというダビデの強い信仰、ダビデのように祈れる強い信仰を与えてくださいと祈りました。


神さまは、概念的な存在ではなく、人格があり、「ごめんなさい」と言う相手だと感じました。


ユキ:
かわいいね.jpgぼくはぼくの一番好きな讃美歌を言います。それは「おおしくあれ」で、気持ちが晴れるから好きです。

優子:
私は年賀状に引用したロマ書8章28節です。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」

今や長い年月続いている苦闘に倒れそうになっているので、これまで主イエスに導かれてきたゆえの恵みの体験を思い起こして、新しい年を出発したいと思っています。神さまの御心であれば必ず成就させてくださるという信仰を握って。

良輔:
ブルンナーで学んだエペソ人への手紙1章3節〜6節、
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである」。

自分にもそのような非人間的な思いがあったので神に願っていこうと思います。そして努力していかねばならないと感じました。
posted by 優子 at 15:55| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年12月24日

家の教会2017㊻ −神の栄光を見る―

christangel.gif
anime_tomosibi01.gif2017年12月24日(日)              (2017第46回 家の教会)

9時55分〜10時30分

  出席者 3名(ユキと良輔)

@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 讃美歌  112番「もろびとこぞりて」  

C 聖書輪読 マタイによる福音書 2章1節〜16節

D お話

E お祈り  一人ずつ

F 讃美歌  111番「神の御子は今宵しも」


マタイによる福音書2章1節〜16節:
2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
2:4 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。
2:5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
2:9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
2:13 彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。
2:14 そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。
2:16 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。

お話:
今日はアドヴェント4週目を迎え、クリスマス礼拝を捧げます。先週の土曜日に同志社のクリスマス・ページェントに行きましたが、「ページェント」とは中世ヨーロッパで祝祭日に演じた宗教劇のことです。

6E5B9B4E7949FE381AEE382AFE383AAE382B9E3839EE382B9E7A59DE4BC9AE291A0.jpgそして「クリスマス・ページェント」とは、イエスさまの降誕物語の劇を演じて神の子の誕生をお祝いするキリスト教の行事です。教会の子どもたちは必ず祝会で降誕劇を演じていることでしょう。
(真智子6年生、マリアさま役)

先ほど輪読した聖書個所も降誕物語で必ず引用される部分です。ヘロデ王というのは「ヘロデ大王」と呼ばれる残虐な暴君でした。ましてや、「わたしも拝みに行くから」とは心にもないことでした。

東の博士というのはこの前お話したように天文学に通じている学者です。キリストの誕生を知ったヘロデ王が秘かに博士たちを招いたのは、自分の王位が脅かされるので2歳以下の男の子を一人残さず殺すためでした。

なぜ生まれたばかりの赤ちゃんではなく2歳以下の子どもを殺せと言ったのかと申しますと、博士たちは星を見つけて大喜びし「家に入って」とありますから、その時はもう馬小屋ではないようです。

ピーテル・ブリューゲル『ベツレヘムの嬰児殺し』.jpg
  ブリューゲル:『ベツレヘムの嬰児殺し』

というより少なくともご誕生から1年以上の時が経っているのでしょう。それゆえにヘロデは2歳以下の子どもを殺させたのです。この子どもたちがキリスト教の初めての殉教者と言われています。

私が注目したいのは、この時もヨセフは夢に現れた主の使いの言葉に従ったことです。つぶやかず黙々と神の導きに従うヨセフの姿からも神さまからの強烈なメッセージを感じます。3人の博士たちも夢で聞いた主のみ告げに従って他の道を通って自分の国へ帰って行きました。

ヘロデは自分の王位を守ることに必死でした。そのために自分の妻や子供たちも処刑したといいますから、時代を超えて現代も神をも恐れない人間がいるのですね。

そのような地上世界に神さまは御ひとり子である幼いイエスさまを送られたのです。まさに血に飢えた猛獣の中に置かれた子羊のようです。

博士たちが捧げた「黄金」は王位の象徴であり「王としてのキリスト」を表し、「乳香」は礼拝の時に用いるもので「神としてのキリスト」を意味し、「没薬」は死んだ人を葬るときに使うものですから「十字架上に死なれるキリスト」を意味すると言われています。

今年の待降節はこれまでで最も御言葉を味わい黙想する恵みに与りました。体調の良い時は朝目覚めた瞬間に聖書を開くのが楽しみで、たびたび朝食を摂る時間も惜しくて、体に悪いとわかっていても朝食も摂らずに没頭したこともありました。

聖書は知的探求心で理解するのではなく、祈りつつ読み、読みつつ祈れと言われていますが黒崎幸吉も次のように記しています。

「神は漁夫に対しては魚により、病者に対しては治療により、学者に対しては星によりてご自身を示し給う。

礼拝と献身、これが信仰生活の基調である。礼拝とは単に教会の礼拝に出席することではなく、畏れ崇むる心をもって神を拝することである。

献身とは伝道専門家になることではなく、自分の身も魂も財もみな神のものとしてしまうことである。(それら一切を神さまの御用のために用いるという意味です。)東方の博士の来訪により宝物をささげてキリストを拝したることは、この信仰の根本を示したものである」。

世界は常に不正義と憎しみで覆われ、時代がどんなに進んでも人間の愚行は増し加わり闇は深くなるばかりで、「平和ボケ」していた日本人さえも今や不安と恐れを実感しています。

私たちは世界の闇に気づき始めましたが自分自身の心の闇についてはどうでしょうか。心の深い所に根づいている闇です。

頑なな自我、自己中心で感謝できない心、憎悪、拒絶・・などなど、今一度神さまに探っていただいて命ある限り導かれていきたいと願います。

そのためにまず一人ひとりが真剣に自らの生きる意味を問い、心を開くことができますように。悩んでいることがあれば神さまに解決を祈り求めて、悔いのない生き方を求めることができますように。

2017年のアドヴェントを過ごしながら私が神さまからいただいたメッセージはこれでありました。空知太栄光キリスト教会の銘形(めいがた)秀則牧師の言葉をお分かちします。

「これまで何度もお話ししているように、神の隠された真理はそれを尋ね求める者に開かれます。表面的に聖書を読んでいるだけでは、決してその深いところにあるものを掘り出すことはできません。

イェシュア(イエス)は『神の国の支配』について多くのたとえ話を用いて語られました。なぜたとえ話で語られたかと言えば、それは多くの者たちがよく理解できるためではありません。

そうではなく、むしろその話の意味を自ら問うことがなければ、決してその意味は明らかにされないような仕掛けになっているのです。神である主の秘密は尋ね求める者たちの『問いかけ』によってはじめて見出されるのです」。

そして自分に絶望して、キリストに全てを託して生きるというところを通って行くのです。私の信仰も神さまからの賜物です。

日本ではイエス・キリスト不在のクリスマスです。クリスマスの喜びを周囲の人々に伝えていくことができますように。

家族の中でキリストを信じる初穂として立てられた私は、何よりも我が家庭で祝福の基となる信仰生活をしていけますように、そして、福音の証し人として多くの実を結ぶ生涯でありますように、それが老年期に入った私の切実な願いです。

『メメントドミニ』をお読みくださっているお一人おひとりの上に、クリスマスの祝福が豊かに在りますようにお祈りします。
anima_boy1.gif

IMG_3399.jpg附記:この日、急きょサッカー教室開催の連絡が入り、今年の「蹴り納め」となった。実はクリスマス・ページェントに行った16日が最終だったが休ませてしまったので、ユキは大喜びで今年最後の練習に飛んで行った。

4サッカー.jpg
久々にサッカー教室のブログにユキの姿があった。

サッカー2.jpg

サッカー3.jpg
posted by 優子 at 14:50| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年12月17日

家の教会2017㊺ ―天地を貫く歓喜―

anime_tomosibi02.gif2017年12月17日(日)                         (2017第45回 家の教会)

9時30分〜10時25

  出席者 3名(ユキと良輔)


@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 讃美歌      115番「ああベツレヘムよ」

C 聖書輪読     ルカによる福音書2章1節〜20節

D お話    優子

E お祈り   1人ずつ

F 讃美歌   114番「天なる神には」


ルカによる福音書 2章1節〜20節:

2:1 そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。
2:3 人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
2:4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
2:9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
み使い羊飼に現る.jpg2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
2:12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
2:15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。
2:17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。
2:18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。
2:19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。
2:20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。

お話:

j_je01.jpg今年は是非ユキに私の母校である同志社女子中・高のクリスマスページェントに連れて行ってあげたいとの思いが与えられ、その準備もかねて待降節より一週間早くから降誕に関する聖書個所や讃美歌を取り上げてきました。


昨日は2時間半も外で立ったまま待たねばならなかったけれど、ユキは居眠りもしないで1時間40分熱心に降誕劇を見、聖書を聴き、讃美歌を歌っていました。今朝讃美したアメリカが生んだ美しい讃美歌、私の大好きな114番まで大きな声で歌っていたのでびっくりしました。


今日のお話も昨日朗読されていた聖書箇所です。

イエスさまはベツレヘムでお生まれになりましたが、皇帝アウグストから全世界(ローマ全土)の住民登録をせよという勅令が出なければベツレヘムではお生まれにならなかったのです。


こうしてミカ(イザヤと同時代の預言者)の預言が成就したのです。


5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、

あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、

イスラエルを治める者があなたのうちから

わたしのために出る。

その出るのは昔から、いにしえの日からである。


「エフラタ」というのはベツレヘムの別名です。ベツレヘムは「パンの家」という意味であり、小麦や大麦などの穀物の産地だったことからベツレヘムと名付けられたのでしょう。余談ですが20年近く前に「パンの家」というパン屋さんを知った時、オ−ナーはクリスチャンなんだろうかと思ったものです。


人々は、皇帝アウグストこそが「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)を完成させた王だと思っていましたが、それは力と権力での治世でありアウグストにとっては、そこにもう一人の王「救い主」が誕生するのはあってはならない事だったのです。


神の子であるイエス・キリストがお生まれになったのは馬小屋でした。寒くて汚くて暗く、神の栄光を捨てて無力で最も貧しい人間として生まれてくださったのです。飼い葉桶はその象徴であり、このこともまた信じられないことでした。


神さまがこの重大な出来事を最初に伝えたのは羊飼いたちでした。当時、羊飼いは貧しく社会的にも最も弱い立場の人々でした。しかし彼らは神さまの啓示を信じることができた恵まれた人々でした。


み使いは羊飼いたちにだけではなく、イスラエルの全ての民に知らせたのですが、信じた人たちはとてもとても僅かな人でした。羊飼いたちは真理を知ることのできる目と耳を備えていたのです。


それは常に真理なる神を待ち望んでいる人に備えてくださり、彼らは神の啓示を聞いて馳せ参じて救い主を拝しました。これが世界で初めてのクリスマスでした。


j_je03.jpg羊飼いたちはどんなに遠くても怯(ひる)むことなく示されたとおりに向かっていく熱心さ、即刻従う人たちでした。

その姿に心が揺さぶられます。しかも見聞きしたことを人々に伝えたとは、これこそが福音伝道者の姿であると深く感じ入りました。

信仰を恥ずべきことのようにひた隠しに隠して生きている人はいないでしょうか。真に主と共にある人は言葉の端々に、その人の言動をとおして伝道させてくださるのだと思います。

救い主の来臨はイスラエルの全民衆が永く待望し切望していたことでしたが、救い主が飼い葉おけに寝かされているのが信じられず、今も多くのユダヤの人々は救い主を待ち続けています。


イエス・キリストは誕生した時から人々に迎え入れられず、最後は十字架に架けられて囚人と共に処刑され、最初から最後まで受け入れられない存在でした。


「メシア」とは、旧約聖書のヘブライ語における「油注がれた者」という言葉で、その言葉をギリシャ語で「クリストス」、即ち「キリスト」という言葉です。また「油を注がれた者」には「選ばれた者」という意味もあります。


「御心に適う人に平和があるように」とは、御心に適わない人(罪人)には平和が与えられないということではなく、そもそも罪人である私たちは誰も「御心に適う人」ではないのです。


しかし、すべての人々にキリスト・イエスの十字架と復活により救いが与えられて、神さまとの関係が修復されたゆえに、この救いは自分のためだったのだと受け止めることができた人は、「神に栄光、地に平和あれ」と神を讃美しながらこの世の旅路を歩んでいくのです。

黒崎幸吉は、「イエス・キリストの降誕は天地の創造以来の第一の事実であり、新人の初穂の出生であり、彼によって人類の救いは完成し、神の栄光が耀き出るのであって、宇宙的に最大の出来事である」と書き残しています。信じる者は幸いです。

ペン友が贈ってくださったクリスマスレターの「あとがき」に書かれた、マリヤの生涯を思いめぐらしての一節にはこうあります。

「ふつうの女性だったらもう少し平和な日々を送れたのではないかと思います。光栄ある救い主の母に選ばれたために、険しい山坂を越え、死の陰の谷を行くような波乱に満ちた人生を送ったとしか思えません。マリヤにも感謝!です」」と。

本当にそうだと思いました。マリヤは光栄ある救い主の母に選ばれたがゆえに、身重の体でナザレからベツレヘムまで220キロも旅し、イエスさまの磔刑まで見なければならなかったのですから。

私たちもキリスト者の生涯を歩む者とされて最高の人生を賜っています。そのことはまたキリスト者は常に神さまの視線を感じていますから、やはりイエス・キリストと出会っていない人よりもはるかに厳しい生き方が求められていますし、そのことを自らが選び取って行くことにもつながると思いました

心が弱っている時は誘惑を感じますが、神さまは「心の思いの高ぶっている者を追い散らし、低い者を高く上げ」てくださるのです。自分のことしか関心のない人や感謝を知らない人に負けないで生きていきましょう。

2000年前、神さまはそれら一切の不条理の中でご計画を成就されたのです。神さまにとっては何があろうとも神のご計画を邪魔されることはないのです。それゆえに私たち一人ひとりにご計画くださっていることも必ず成就してくださるという希望を握って生きることができるのです。

今、エルサレムは争いの地になっています。今月6日にトランプ大統領がイスラエルの首都はエルサレムであると宣言したために、ユダヤ人とアラブ人、正しくはユダヤ教とイスラム教の人々が争い死者が出ています。イエスさまがお生まれになり、そして、死んで復活されたエルサレムで!

この現実も全て神さまの御手の中でのことであることを忘れないでいましょう。私のこれまでの人生においても、神さまは最悪をとおして最善へと導いてくださり、最悪の中にも善きものを与えてくださいました。そのことを解る者に変えてくださったのです!

「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」

神さまは私たちにイエス・キリストを贈ってくださり、真の救いを与え、不安と恐れ、そして憎しみから解放し、平安と喜びと希望をもって歩めるようにしてくださったのです。

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」。

このみ言葉を「あなたにために」、即ち「私のために救い主がお生まれになった」と聞ける者は幸いです。来週はアドヴェント4週目、いよいよクリスマス礼拝です。誰も皆、幸いなクリスマスをお迎えすることができますように祈ります。

附記:知子は全日外出で不在。

サムサムさんよりコメント感謝:

「この現実も全て神さまの御手の中でのことであることを忘れないでいましょう。私のこれまでの人生においても、神さまは最悪をとおして最善へと導いてくださり、最悪の中にも善きものを与えてくださいました。そのことを解る者に変えてくださったのです。」

全くその通りです。そしてわたしもそのことを忘れないようにしたいと思っています。が、情けないことに、渦中にあってはすぐに忘れ、思い悩んだり、途方にくれたり…、サ住にいた時がそうでした。

でも、感謝なことに、神さまは6か月というをかけて、「毎週1回、30分〜60分の看護師による訪問を受けることができるというわたしにとって一番良い方法を教え、導いてくださいました。 

サムサムさん、尊いお分かちを感謝します。

私も理性ではわかっていても感情がついていかなくて、人間の弱さをつくづく思い知らされますが、このように経験や思いを分かち合えることは何という慰めであり励ましでしょうか。お交わりを感謝します。

ご自宅での良き日々を祈っています。


posted by 優子 at 17:18| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年12月10日

家の教会2017㊹ −受胎告知とマリヤの讃歌(マグニフィカート)―

anime_tomosibi03.gif2017年12月10日(日) (2017第44回 家の教会)

10時5分〜11時5分

  出席者 2名(with 良輔)

@ 初めのお祈り

A 主の祈り

B 子ども讃美歌

C 讃美歌   95番「わが心は」  

D 聖書輪読  ルカによる福音書 1章26節〜55節

E お話    優子

F お祈り   1人ずつ

G 讃美歌   100番「生けるものすべて」

知子は全日外出、ユキは同室にいたがFのお祈りより参加。

讃美歌100番は文末に歌詞を掲載しています。


ルカによる福音書1章26節〜55節:

1:26 六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。

1:27 この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。

1:28 御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。

1:29 この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。

1:30 すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。

1:31 見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。

1:32 彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、

1:33 彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。

1:34 そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。

1:35 御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。

1:36 あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。

1:37 神には、なんでもできないことはありません」。

1:38 そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。

1:39 そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、
1:40 ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、
1:42 声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。
1:44 ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。
1:45 主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。
1:46 するとマリヤは言った、
「わたしの魂は主をあがめ、
1:47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
1:48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
1:49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。
そのみ名はきよく、
1:50 そのあわれみは、代々限りなく
主をかしこみ恐れる者に及びます。
1:51 主はみ腕をもって力をふるい、
心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王座から引きおろし、
卑しい者を引き上げ、
1:53 飢えている者を良いもので飽かせ、
富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
1:54 主は、あわれみをお忘れにならず、
その僕イスラエルを助けてくださいました、
1:55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを
とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

お話:

マリアの処女懐胎はエリサベツとザカリヤの出来事よりも信じられないことだと思います。あまりにも超自然的なことゆえに論理的に説明することはできません。ですから何故そのことを信じられるのかと問われても論理的に説明することはできず、信じられるということ自体が神さまからの賜物なんだなぁとしみじみ思います。


アヴェ・マリアの「アヴェ」は「ご挨拶申し上げます」、「こんにちは」などの挨拶言葉ですが、その原語の「カイロー(χαίρω)」の本来の意味は、ラテン語で「祝せられよ」や「喜ぶ」を意味する挨拶の言葉です。その訳語を意図的に「おめでとう」(28節)としたのは、聖書の中でここルカ伝1章28節だけです。


天使ガブリエルがマリアに「おめでとう」と言った真意は、「全く新しい霊的な夜明けを意味する希望に満ちた喜びの挨拶」でした。それはマリアだけにではなく、世のすべての人々が主にあって祝福される新しい時代の到来を意味するのです。


「イエス」とは「神は救いなり」の意味で、ヘブル語では「ヨシュア」です。「神の子」であるは「聖なる者」を意味し、「聖」とは「区別」されることを意味します。即ちイエスは私たちとは異なる存在であり、「インマヌエル」という神性と人性とが完全にひとつとなっているお方です。


マリヤ.png先週のザカリヤの気持ちと同様に、私たちはあまりに大いなる恩恵を受けていることを知る場合も不安を覚えます。マリヤはまだ結婚もしていないし、それに神さまの子を産むだなんて、とても信じられないことゆえに戸惑い心配になって、「どうしてそのようなことがありえましょうか」と驚きの問いかけをしました。


すると天使が、「親族のエリサベツも赤ちゃんを産みますよ」と言い、「エリサベツは赤ちゃんを産むには年を取っているし、赤ちゃんはできないと言われていた人でしたが、今、エリサベツのお腹の中に赤ちゃんがいますよ。それは神さまのお考えで神さまがされたことなのですよ。」と話しました。


IMG_9475.jpg「おことばどおり、この身になりますように」。

マリヤは納得できたから委ねたのではなく、神への全幅の信頼の上に立って、神のご計画が成就されますようにと全てを委ねたのです。この姿こそが神への献身だと思いました。


マリヤのような超自然的なことでなくても、私たちも人生途上でマリヤと同じ全身全霊の祈りをささげる時があります。


例えば、主に在って百戦錬磨の闘いに明け暮れる年月を耐えながらも、全く状況が変わらず、その苦悩と悲しみの末に、より深く謙遜な魂へと導かれて主に委ねるのです。「神さまのみ心が成りますように」と。


しかし、その時の何と平安なことでしょうか。そのような時こそ神の恵みを強く実感させてくださいます。


クリスチャンとは主イエス・キリストの招きを受け入れたキリストに属する者です。ですから私たちにもマリヤのように神の聖霊が臨んでくださっていることを覚え、今一度信仰を強くされて死に至るまで神の約束を信じて神の勝利に立って歩ませてくださいと祈ります。


イエスさまは神の子なのに、神に依存しなければ生きていくことができない貧しく弱い者として、御霊(の助けと力を求めて生き抜かれたのです。ましてや私たちは聖霊を求めずして生きていくことはできません。


マリヤはエリサベツに会いに行きました。マリヤのお話を聞いてエリサベツのお腹の中の赤ちゃんが激しく動いて、マリヤに臨んだ同じ聖霊がエリザベツをも満たし、エリサベツはマリヤのお話も神さまから来たものだとわかったのです。


神さまに選ばれた者たちの交わりは、このように聖霊が行き交って恵みから恵みへと豊かな喜びで満たしてくださいます。


「マリヤさん、おめでとう! 心配しないでいいのよ。あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの赤ちゃんも祝福されています。神さまのことを信じていればいいのですよ」とエリサベツに言われたマリヤは、神さまがどんなに大きなことをしてくださったのかが全身全霊で分かったので、「わたしの魂は主を崇めます」と言葉に出したのです。


46節〜55節もまたあまりにも有名な「マリヤの讃歌」や「マグニフィカート」と呼ばれているところです。それは最初の言葉、「わたしの魂は主を崇めます」をラテン語で“Magnificat”(マグニフィカート)と言うからです。


ここはまさに旧約(神さまとの古い契約)からイエス・キリストが到来した新約に移る黎明の光景です。


力ある者が権力を振るい、貧しい人が虐げられ、善良な人が苦悩し悲しむ不条理、それらのことを超えて全ての事を支配されている全知全能なる神のご計画が実現されていくというのです。ハンナの祈り(第一サムエル記2章1節〜10節)を思い起こさせます。


飼い葉桶の赤ちゃんこそが救い主であり、イエス・キリストを通して朽ちず渇くことのない喜びと希望、魂の解放と平安という真の救いを与えてくださったのです。


こうして紀元前8世紀の預言者ミカの預言が成就したのです。


5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、

あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、

イスラエルを治める者があなたのうちから

わたしのために出る。

その出るのは昔から、いにしえの日からである。

5:3 それゆえ、産婦の産みおとす時まで、

主は彼らを渡しおかれる。

その後その兄弟たちの残れる者は

イスラエルの子らのもとに帰る。

5:4 彼は主の力により、

その神、主の名の威光により、

立ってその群れを養い、

彼らを安らかにおらせる。

今、彼は大いなる者となって、

地の果にまで及ぶからである。

(ミカ書5章2節〜4節)


主イエス・キリストを受け入れた者たちに臨んでくださっている祝福は、その者の周囲の人々に、そして思いもしない人々にも広がって行くのです。
キリスト不在の日本のクリスマス。
1人でも多くの人に人生の夜明けが訪れますように祈ります。

2_onpu_ak.gif讃美歌100番「いけるものすべて」

1 生けるものすべて
  おののきて黙(もだ)
  世の思いすてて ひたすらに仰げ
  かみの御子(みこ)は くだりたもう
  このきよき日にぞ
2 きみの君なれど
  マリヤより生まれ
  うまぶねの中に 産声をあげて
  おのが身をば あたえたもう
  つみびとのために
3 とこしえの光 暗き世にてりて
  み使いは御子を
  かしこみて崇(あが)
  いざわれらも ほめうたわん
  いとたかき君を
posted by 優子 at 11:27| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年12月03日

家の教会2017㊸ ―イエス誕生の序曲―

anime_tomosibi04.gif2017年12月3日(日) (2017第43回 家の教会)
                   

10時30分〜11時

  出席者 2名(with ユキ)


@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌  48番「こどもをまねく」

C 聖書輪読     ルカによる福音書1章1節〜25節

D お話       優子

E お祈り      一人ずつ

F 讃美歌      94番「久しく待ちにし」


ルカによる福音書 1章1節〜38節:

1:1 わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、

1:2 御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、
1:3 テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。
1:4 すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。
1:5 ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。
1:6 ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。
1:7 ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。
1:8 さてザカリヤは、その組が当番になり神のみまえに祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった。
1:10 香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。
1:11 すると主の御使いが現れて、香壇の右に立った。
1:12 ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。
1:13 そこで御使いが彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。
1:14 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。
1:15 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、
1:16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。
1:17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。
1:18 するとザカリヤは御使いに言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。
1:19 御使いが答えて言った、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。
1:20 時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたはおしになり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。
1:21 民衆はザカリヤを待っていたので、彼が聖所内で暇どっているのを不思議に思っていた。
1:22 ついに彼は出てきたが、物が言えなかったので、人々は彼が聖所内でまぼろしを見たのだと悟った。彼は彼らに合図をするだけで、引きつづき、おしのままでいた。
1:23 それから務めの期日が終ったので、家に帰った。
1:24 そののち、妻エリサベツはみごもり、五か月のあいだ引きこもっていたが、
1:25 「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」と言った。


お話:
今年は今日からアドヴェント(待降節)に入り、教会の新しい年が始まりました。私たちは先週からアドヴェントを迎えた気持ちで、クリスマスに間に合うように一緒に関係個所を読み始めています。今日はイエス・キリストが地上に突入される序曲とも言うべきところです。

ルカはユダヤ人ではなく異邦人(ギリシャ人)で医者であり歴史家でした。ルカは他の弟子たちと違ってイエスさまにお目にかかったことはありません。イエスさまの弟子たちによって導かれた人です。

ルカによる福音書はルカがテオピロのために労して書き記したものですが、テオピロという一個の魂の救いだけにとどまらず、ユダヤ人以外の人々にも福音を伝えたいとの祈りがあったと思います。

テオピロがどのような人物であるかよくわかりませんが、「テオピロ閣下」と尊称で呼んでいることから地位の高い人であったようで、しかも熱心にイエスのことを尋ね求めている求道者だったと推察されます。

エリサベツとザカリヤには子どもがいない年老いた夫婦でした。アブラハムとサラのことを思い出しますね。神さまはこの夫婦にも御業を始められ、エリサベツとザカリヤはバプテスマのヨハネの父母になります。

「アビヤの組の祭司」というのは、祭司アロンの子孫は24班に分かれていて、各班の中から籤(くじ)で選ばれて1週間ずつ交替して順番に宮の祭事を司(つかさど)りました。

アビヤはその第8班(歴代誌第一24章7節〜19)で、1回務めると再び選ばれることはないということですから、この日はザカリヤにとって一生に一度の特別な日でした。

ついでながら24班の順番は一定しているので、紀元70年エルサレムの陥落時に順番に当った班の名称から逆算すると、このアビヤの班の順番に当たる週間を知ることでき、そこからイエスの誕生の日を決定する一つの材料となると黒崎幸吉が記しています。

ガブリエルは「神の人」、または「神は人なり」の意味で、神の意志を伝える使いです。その御使いが、すでに老境に入っている夫婦に子供が与えられると聖所で告げたのです。

しかも、その子は万民の祝福となるべき男児だと言われて、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか」と言ったザカリヤは話すことができなくなってしまいました。

なぜ?! あまりの出来事に驚いてそのような言葉が出てしまったのは自然なことだと思うのですが、「あなたの祈りが聞き入れられたのだ」と告げられているのに信じなかったからだというのです。

私たちもイエス・キリストの十字架の死によって罪赦されるという、考えられないような恵みゆえにか、多くの人が信じられないのと同じだなぁと思いました。例えば太宰治は「そんなうまい話はない」と信じられず自殺してしまいました。

私たちもいつも祈っている神さまを本当に信じているのだろうかと、今一度自己吟味することは、まさにアドベントにふさわしい過ごし方だと思います。

ザカリヤが話せなくなったのは罰のように思えるのですが、ザカリヤの出来事は本心に立ち返らせる神さまの警告だと思いました。

神さまが「黙って見ていなさい」と沈黙させてくださり、そのことによりザカリヤは妻の身に起こった神さまの偉大なわざをしっかり見ることになりました。そして、「ザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた。」(64節)と、しゃべられるようになった第一声は神への讃美でした。

この夫婦に授かった子どもはバプテスマのヨハネであり、キリストの出現の前にイスラエルの人々をイエスに導き、イエスによって主なる神に立ち返らせる使命を託された人物でした。

IMG_9338.jpgバプテスマのヨハネの誕生は、まさにイエスさまが誕生される前の序曲です。神さまはいつも私たちが人間の力ではどうにもならなくなった時に不思議なことをなさいます。

私たちにとって喜ばしいことであれそうではないことであれ、それは全知全能なる神さまのみ心に叶う最善なのです。

ザカリヤにとっては試練だったでしょうが、神さまは愛にして愛なるお方です。私たちも神さまの約束をしっかり信じて善き闘いを闘い抜きたいと思います。


posted by 優子 at 16:25| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月26日

家の教会2017㊷ ―インマヌエルの神―

IMG_9110.jpg「イエスさま、今日も家の教会できたことを感謝します」。
いつもこのように祈るユキの言葉に、私の中から深い感謝を呼び起こしてくれます。
そして、「家の礼拝、私も太志もいつも参加しています」との真智子の一言から、神さまからの慰めと祝福を感じます。

今朝も神であるイエス・キリストの御臨在のもとで、次女夫婦も一緒に集っている光景を想いながら礼拝を始めました。
12-3.jpg2017年11月26日(日)
 (2017第42回 家の教会)

    10時20分〜55分

 出席者 3名(with ユキ&良輔)


@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 聖歌     229番「驚くばかりの恵み」
C 聖書輪読   マタイによる福音書1章18節〜24節
D お話     優子
E 聖書輪読   マタイによる福音書2章1節〜12節
F お祈り    一人ずつ
G 讃美歌    529番「ああ嬉し我が身も」
聖歌229番は良輔のリクエストでした。
マタイによる福音書 1章18節〜22節:
1:18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
1:20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使いが夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
1:22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。
その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。
これは、「神われらと共にいます」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
1:25 しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。

ribbon1a.gif

2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
2:4 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。
2:5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
2:9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
お話:
今年のアドヴェントは来週から始まりますが、クリスマスに間に合うように詳しく読んでいきたくて、今日は「プレアドヴェント」と位置付け、今週から関係個所を読むことにしました。

ヨセフとマリアは結婚する約束を結んでいましたが、マリアはまだ一緒になる前に身重になりました。処女が聖霊によって身ごもるというのは、とても理性では考えられないことですから、結婚前に身重になったことがわかるとマリアは姦淫の罪で石打ちで殺されてしまいます。

ヨセフは誠実で責任感のある人でしたから公にはしませんでした。しかしまたそのようなマリアを妻にすることもしませんでした。それがヨセフの正しさであり、「ヨセフは正しい人であったので」と言われる所以です。

それだけではなく、夢の中で語られた主の使いの言葉に従ってマリアを妻に迎えました。これは神に対する全幅の信頼ゆえにできることですね。

「お言葉どおりこの身に成りますように」というマリアの言葉はよく耳にするところですが、主に委ねる従順さはマリアだけではなくヨセフも同様でした。

「イエス」という名は、モーセの後継者ヨシュアのギリシア語訳「イエスース」から来ており、ヘブル語では「イェシュア」、「主は救い」という意味です。

イエスさまがもたらされた救いとは、イスラエルがローマ帝国の圧迫から解放されるというような、ユダヤ人が考えていた救いではありませんでした。

それは人間の深いところにある魂の滅び、死や安全を脅かす根源的な恐れからの解放でした。それが神さまの永遠の保障であり、そのしるしが イザヤ書7章14節に告げられています。それはイエスさまがお生まれになる800年も前に預言されているのです。

「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」。

「インマヌエル」という呼び名は、「神は私たちと共におられる」という意味ですが、「それは本来、状態を意味するのではなく、『神性と人性が共にある存在』という意味です神と人とが一つになったユニークな存在で、その存在の神からの『しるし(サイン)』は、『処女から産まれる男の子』でした。

インマヌエルであるイエス・キリストは、神としてのあり方を捨てて人間として歩まれました。しかも貧しく弱い者として歩まれましたから、神に依存しなければ生きていくことができず、神と共にある祝福をご自身を通して証しされたのです。

昨日の「ブルンナー読書会」で話題になったことと関連しますが(明日には書き上げて更新したいと思います)、物に溢れ満たされていては神に依存する謙虚さは生まれてこないでしょう。

多くの人は依存するのは弱い人間のすることであると批判します。しかし、そうでしょうか。強いことがよいことだとは思いませんが、強い人など一人もいませんし、自分は弱い存在だとわかっている人こそが最も強いとも言えるのです。

ヨセフの信仰と生き方に学びたいですね。
今日はお話が短かったので終わるのが惜しく、みんな心弾ませて今朝読んだ聖書の続きを読みました。
附記:知子は今日も全日外出です。
posted by 優子 at 16:35| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月19日

家の教会2017㊶ ―金持ちの青年―

IMG_9083.jpg2017年11月19日(日) 

  (2017第41回 家の教会)

                10時〜45分

 出席者 3名(with ユキ&良輔)


@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌  82番「雄々しくあれ」

           90番「主イェスと共に」

C 聖書       ルカによる福音書 

            18章18節〜30節

D お話       優子

E お祈り      1人ずつ

F 讃美歌      355番「主を仰ぎ見れば」

           344番「かいぬしわが主よ」


ルカによる福音書 18章18節〜30節:
18:18 また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
18:19 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
18:20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。
18:21 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。
18:22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
18:23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。
18:24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。
18:25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
18:26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、
18:27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。
18:28 ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。
8:29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、
18:30 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。
お話:

救いを求めてイエスさまのところに来て救われなかったのはこの人だけだったのではないかと思うのですが、彼は品行方正でユダヤ教の戒律を守っている青年であり、若くしてサンヘドリンという最高法院の議員に選ばれていました。


それだけではなく人生についても考える人だったのだと思います。それゆえにイエスさまに純粋な気持ちで問うたのです。


しかし、青年は唯一絶対なる神さまのことがわかっていなかったゆえに「よき師よ」と、人間に対する形式的な敬称を用いて呼びかけました。イエスさまはそんな青年の心を直截に神に向けるために十戒を示されました。


その問答の次にまだ一つ欠けている(やり残している)ことがあり、それは大金持ちの青年に全ての資産を売却して貧しい人に分けるということでした。


ここで誤解してはいけないのは、施しをすれば永遠のいのちが与えられるという意味ではありません。持ち物を売り払って施すという善い行いによって救いを獲得するのではありません。


彼は自分中心の生き方でした。言葉を変えて言えば、自分のために生きていたゆえに財産を手放すことができなかったのです。しかし、これは大金持ちだった彼だけの問題ではありません。金持ちではない私たちにもできません。


それに財産だけが問題ではありません。富だけではなく、地位、名誉、習慣、伝統、あるいは、頑なな自我もそうです。いずれにしてもそれらを棄てられないがゆえに、それらを自分の神とし神を求めることもないのです


永遠の生命を確保したいと思わない人はいないでしょう。この大金持ちの青年は「永遠のいのち」を求めることのできる心を持っていたのに財産が大きな妨げになってしまったのです。


全財産を投げ出すなど誰もできないと思います。それどころか時には僅かな額でも出し惜しみしてしまうのが人間の本性ではないでしょうか。イエスさまは「人にはできない事も、神にはできる」と言われました。ここが大切で、ここに心を傾けるのです。


私たちはイエスさまの仰る通りに従えなくて、迷い、惜しんだり、間違いを侵してしまうお互いですが、そんな自分を嫌悪しながらもやっぱりイエス・キリストと共に生きていきたいと願います。


感謝なことに、そのように命の道に踏みとどまらせてくださっているのも神の力、神の恵みです


主イエスはいつか言われました。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と。即ち、富をどこに積むかは心をどこに置くかということであり、何を一番大切なこととして生きるかということです。


地上の富や善行や奉仕に生きることが一番大切なことではなくて、神さまとの関係を一番大切なこととして生きる。それが富を天に積むことであり、「天に宝を積む」生き方なのです。そして、神さまとの関係の中で神さまに喜ばれる生き方に励みたいと思います。


主イエスに従って行くとき、私たちは徐々に握りしめているものから手を放して、隣人や貧しい人々のために用いていく者と変えられていくことでしょう。神の力が働いて必ず変えてくださることを信じます。


IMG_9060.jpg自分の努力によって神さまの救いを手に入れようとするのではなく、ただ神さまの恵みに依り頼んで信頼して生きる。そのためには持っているものを貧しい人々に分けてやりなさい。イエスさまは今日も私たち一人ひとりに語っておられます。

posted by 優子 at 17:15| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月12日

家の教会2017㊵ ―イエスを仰ぎ見る―

12-1.jpg昨日良輔はゴルフで不在、知子は勉強会で全日外出、私はユキと二人で本当に楽しい一日を過ごしました。家庭でこんなに心安らいだのは少なくとも今年初めてだったと思います。

そして今朝、ユキはサッカー教室に。昨夜のうちに「お昼ご飯のあと礼拝が終わってから遊ぶ約束するね」と、驚くべき喜ばしいことを言いました。私たちは9時から自治会の草引き清掃に。

12-4.jpgサッカーから帰宅したユキは、お友達から誘われて他自治会のイベントには勝てず「夕拝しよね!」と言って遊びに行きました。勿論快く見送りました。😖

2017年11月12日(日) (2017第40回 

                     家の教会)

3時30分〜4時15分
出席者2名(with 良輔)
@ 初めのお祈り    優子
A 主の祈り
B 讃美歌        285番「主よ御手もて」
C 聖書輪読       ローマ人への手紙 7章14節〜25節
D お話          優子
E お祈り         1人ずつ
ローマ人への手紙 7章14節〜25節:
7:14 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。

7:15 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

7:16 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。

7:17 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

7:18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

7:19 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。

7:20 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

7:21 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

7:22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、

7:23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

7:24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

7:25 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

お話:

「いずれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)のすみかぞかし。」(わたしのような罪深い者は地獄以外に行き場がない存在だ)とは、親鸞の有名な言葉です。9歳で出家し、20年間もの年月を比叡山にこもって天台宗の厳しい修行を徹底的にした親鸞が最後に行き着いた境地でした。


親鸞の胸中はパウロの苦悩、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(24節)と重なります。


今日輪読した箇所にあります「内なる人」とは、「心」と呼んでいる人間の良心が備わっているところの意味であり、人間は生まれながらに良心が備えられていることをパウロは知っています。ところが善い行いができない、実践できないという自己矛盾、これが人間の本質なのです。


24節の言葉は、心が窒息するほどの絶望であり苦悩の究極の叫びです。ところが次に一転して「感謝」するのです。主イエスによる救いによって解放されるからです。


主イエスを仰ぎ見ることにより即刻即座に解放されます。これは知識によってわかるというものではなく聖霊体験です。私は信仰生活の初めのころはわかりませんでしたが、今はよくわかります。


主イエスに繋がっていることがいかに大事であるか、主イエスを離れては再び深い苦闘に入ってしまいます。信仰者といえども生きている限りこの人間の本質は変わりません。主イエスをそっちのけで生きているならば、罪の存在にも気がつきませんし罪の力に悩まされることもないでしょうが。


ルターでさえ状況に動揺し落胆することがありました。(そのエピソードはここをご覧ください)。エリヤもそうでした(列王記第一の18章)。耐えられないほどの圧迫を受けていたと告白しています。


私たちも生きている限り葛藤から解放されることはなく、揺れ動き、悩み苦しむのですが、自分の弱さ、醜さに絶望するのは素晴らしいことであり、それは信仰を授かった者ゆえに感知できることです。神さまの光に照らされて自分の罪深さがわかるのですから、絶望は神の祝福なのです!


ここで大切なことは、そうした情態に長くとどまっていてはいけないということです。その絶望の苦闘からイエス・キリストを仰ぎ見るのです。主に在って自らの欠けを知った人だけが、そのことを告白することができるのです。


パウロは「わたしは罪人のかしらです」と言っています。私など時にはそのように言えない、言いたくない時があります。そんな時は、自分を悩ます人、悪意を向ける人に縛られているのであり、神さまに対しても素直になれず、悔い改めていないというのもよくわかっています。砕かれていないのです。


パウロは主に在って歩むほどに砕かれて低くされていきました。最初の頃は自らのことを「使徒の中では最も小さい者」、次に「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」と呼び、最後には「私はその罪人のかしらです」(Tテモテ1:15)と。


律法でいつも責められているというのが私たちの現実であり、クリスチャンになるとより一層に自分を責めるものがあるのですが、キリスト者とされた人には聖霊が授けられています。主イエスはその現実を越えて常に私と共にいてくださいますから、主の御名を呼んで即刻解放していただきましょう!


祈ったり聖書を開く気持ちにもなれない時は、「主よ」、「イエスさま」と御名(みな)をお呼びするだけでもいい。讃美できない時は讃美歌を聞くだけでいい。きっとまもなく自らも口ずさんでいることでしょう。本当に「主を喜ぶことはあなたの力になるのです」は真実です。


「もし、祈ることをやめさせ、私たちを気落ちさせるなら、すでに悪魔の餌食になっている。自己吟味せよ」。


「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。

         (ガラテヤ人への手紙 5章1節)


最後に「奴隷」という言葉からミケランジェロの未完成の彫刻を思い出しました。アカデミア美術館の「プリジョーニの回廊」にある4つの奴隷の彫刻は、敢えて未完成に造られたと言われています。

    atlante.jpg 若い奴隷.jpg      

      「奴隷アトランテ」    「若い奴隷」

  

     髭の奴隷.jpg 目覚めた奴隷.jpg

     「髭の奴隷」     「目覚めた奴隷」


これらの彫刻に共感した人が、「奴隷の像は鎖につながれていないけれど大理石の中に閉じ込められていて、それが石の穴から解放されることは決してない」と感想を述べ、「彼らの姿は、罪と苦闘する私にどこか似ています」に始まる鋭い聖書のメッセージがあります。

それが掲載されている『デイリーブレッド』の電子版では文字だけではなく音声でも聴くことができ、ワンメッセージが数分間の短いものですので是非ここを開いてお聴きください。

附記:

大学卒業した頃に読んだロマン・ロランの『ミケランジェロの生涯』で、ありあまる天才を発揮するも意志の欠如や性格の弱さ、病的なほどの小心者ゆえに惨めすぎるほどに繊細な神経の持ちであると知りました。ミケランジェロほど純粋な心を持った人はいなかったと。


「もう時の移り変わらぬ魂は幸いである」。(ミケランジェロ)

「気を狂わせるような奴隷状態から」解放されたいと死を渇望したミケランジェロ。90年の生涯は「聖なる苦悩に満ちた」ものでしたが、「キリストにおいて生き、キリストにおいて死んだことも真実である」とロランは言っています。

ミケランジェロの晩年は何も完成させることができなかったとありますから、これらの彫刻は敢えて完成させなかったのではないと思うのですが、調べて自分なりの結論を得たいと思います。

『ミケランジェロの生涯』の裏表紙の内側に、「2000年10月8日、真智読了」と私の字で書いてありました。マチも読んでいたとは嬉しいです。


20時10分追記:ユキは宿題(今日のことを作文に書く)をしなければならなかったので夕拝もできず、お風呂から上がった今5分間ほど聖書のお話をしました。


posted by 優子 at 17:11| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月05日

家の教会2017㊴ ―サウロの回心―

2017年11月5日(日) (2017第39回 家の教会) 

9時〜9時45分
出席者 3名(with ユキ&良輔)
@ 最初のお祈り  優子
A 主の祈り
B 子ども讃美歌   74番「神のお子のイエスさま」
C 聖書輪読 
D お話      優子
E お祈り     1人ずつ
F 讃美歌199番 「わがきみイエスよ罪の身は」
使徒行伝 9章1節〜19節:

9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、

9:2 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。

9:3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。

9:4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

9:5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

9:6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。

9:7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。

9:8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。

9:9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。


9:10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。

9:11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。

9:12 彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。

9:13 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。

9:14 そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。

9:15 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。

9:16 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。

9:17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。

9:18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、

9:19 また食事をとって元気を取りもどした。

お話:

サウロとは後にパウロと呼ばれる人のことです。サウロはヘブライ名で、パウロはローマ名で、生まれた時からローマの市民権を持っているユダヤ人です。使徒になってから伝道のためにローマ名を用いたようです。


サウロはステパノが石で撃ち殺された場所に居ました。石を投げませんでしたが、律法を守ることが神さまの教えであると信じていましたから、ステパノを殺すことに負い目は感じていませんでした。


イエス・キリストを信じる人々への迫害はエルサレムだけではなく、遠くへ逃げて行った人々も捕まえようとシリアに向かいました。今日のお話しはその途上のダマスコでの出来事で、イエスさまが地上を去られた2〜3年後のことです。


ダマスコ.jpgこれはイスラエルの地図です。左側の青い部分は地中海で、右側にある青い所は上がガリラヤ湖で、そこからヨルダン川が流れて死海(下方の青い所)に行きつきます。


ダマスコはパレスチナからメソポタミヤに通じる世界最古の都市の一つでした。迫害するためにダマスコに向かっていたサウロの上に、突然天から光が射して倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きました。


サウロは「主よ、あなたは、どなたですか」と「主よ」と呼んでいますが、この時は主と認めたからではなく、ただただ恐れおののいて呼んだのだと思います。


主はサウロに「なぜ教会を迫害するのか」ではなく「なぜキリスト信者を迫害するのか」でもなく、「なぜわたしを迫害するのか」と言われました。「わたし」という言葉に強い意味を感じます。


ダマスコでのサウロ.pngそして、「町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」と言われ、この時サウロは目が見えなくなっていました。


これまでのサウロはユダヤ教徒(パリサイ派)として他の追随を許さないほど熱心に神の律法を守っていました。しかしそれは自分の目で見、自分で考えて生きてきたのであり、その結果神に敵対し致命的な罪に陥っていました。


そこにいた人々は主イエスが言われたとおりサウロの手を引いてダマスコへ連れて行きました。私はここにも注目します。


ヨハネ伝9章に出てくる生まれつきの盲人の目を開けられた時、イエスさまがつばきで作られた泥を盲人の目に塗って、「シロアム(「遣わされた者」の意味)の池で洗いなさい」と言われたとおりにしたことを思い出し、主の導きに従うことの大切さに気づかされます。


今まで人を導いてきたサウロが手を引かれて連れて行ってもらった姿も印象的です。サウロの目は見えていたけれど大切なことは見えていなかったのです。


アナニヤ.png主イエスによって一時目が見えなくなり、言われたとおりダマスコへ行き、アナニヤがサウロに洗礼を授けると「目から、うろこのようなものが落ちて」、主イエスによって霊的な目も開かれて大切なことが見えるようになったのです。


ウロコ.jpg

ところでこれが魚のウロコです。昨日、生協のお店の魚コーナーで見つけました。「鱗(うろこ)のない魚もあるよ」と、魚をさばいている人が声をかけてくださいました。

こんなものが目についていたらよく見えません。こんな感じです。

IMG_8756.jpg


IMG_8758.jpgサウロは「目から、うろこのようなもの」が落ちたと言っています。取り除くとこんなにハッキリ見えますね。

「目からウロコが落ちる」という言い回しは聖書のこの箇所から来ています。その意味は、単に目が見えるようになったということだけではなく、今までわからなかったことが突然わかるようになったという意味です。


サウロはこれまで迫害していたことに疑問を感じたり悩んでいたとは書いていませんが、どうだったんでしょうか。この時からサウロの人生が180度転換したのです。神に背を向けていた生き方から正反対の生き方に変わったのです。


「わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」という主イエスのお言葉は強烈です。これに関して黒崎幸吉は次のように書いています。


「『選びの器』、即ち神が特に選び用い給う目的に叶える素質を持って居る事を神は認め給うたのであろう。サウロは是までその誤れる熱心のために基督者を苦しめて居った。今より後は正しき信仰のために自ら苦しまなければならない


主がサウロを選びて、その証人たらしめんとて彼に現れたまえる事を示されし事、彼に視力と聖霊とを与え給う事とであった。要するにサウロの回心を来らしめし主要の事実は栄光の中における主イエスの顕現であった。


いわゆるパウロの神学と称せられる如きものはその片鱗だもここに示されなかった。これを見てもパウロの回心の事実は理論によったのではなく、直接に主イエスに接した事による事が判明る」。


不思議ですね。サウロは教会を迫害するために来たダマスコで伝道を始め、初代教会の最大の伝道者になりました。そして、キリスト教が世界的宗教になる基礎となり、そのおかげで極東の地、日本にも伝えられたのです。


この箇所を読んで思ったのは、クリスチャンになっても見えなくなることもあるのではないかということです。クリスチャンとは「キリストに生かされている者」という意味であり、キリストの十字架によって赦され愛されていると信じている人々です。


ところが立派なクリスチャンになろうとしたり、あるいはまた、静まって神さまとの密な時間を取らなかったり、悔い改めだけではなく悔しさや悲しみを神さまに委ねずに放置したままにしていると、いつしか感謝する心も失われて大切なことが見えなくなってしまいます。


ですから私たちの目にもいつのまにか分厚いウロコに覆われてしまわないように、イエスさまによって神さまに赦され愛されていることを信じて生きる。それが確かな歩き方であり最高の人生であると再確認させられました。


祈ることさえできない時は「イエスさま」と主の御名(みな)をお呼びするだけでいいのです。どんな時も御名を唱えながらこの世の旅路を歩んで行きたいと思います。


主の平安と尽きない希望と喜びは、み言葉(聖書)と祈りをとおして満たされ、主にある交わり(分かち合い)の中で癒され豊かにされていくのだと思います。お互いに教え励まし合って、心の目に鱗がこびりつかない日々を重ねていきたいと思います。


病床にあるかた、病者に寄り添っておられるかた、悲しんでおられる多くの方々に神の慰めと励ましが豊かにあらんことを切に祈ります。

附記:礼拝のあとまもなく、昨夕のニュースで見た堺中央綜合卸売市場で開催されている「第一回あなごサミット」に4人で行ってきました。わずか20分で着いたのに会場近くになると渋滞していて入るまでに同じぐらいかかりました。


ユキはアナゴをつかみ、お目当てのアナゴの天ぷらを食べて大満足。私は買い物をするにも人が多すぎて疲れました。結局アナゴやマグロは会場内にある回転ずし屋さんで食べて13時半頃に帰宅しました。

IMG_8773.jpgユキは今、宿題の作文を書き終わり、おじいちゃんとアケビを採りに「ナルニアの森」へ出かけていきました。食べたこともないのに。

追記:この実を木に登って採って来ましたが、時期遅れの実はブヨブヨになって腐り始めていました。


続きを読む
posted by 優子 at 15:16| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年10月29日

家の教会2017㊳ ―宗教改革から500年 「主に在って一つ」―

2017年10月29日(日) (2017第38回 家の教会) 
10時30分〜11時
出席者 2名(With ユキ)
@ 最初のお祈り   優子
IMG_8618.jpgA 主の祈り
B 子どもの讃美歌  48番「こどもをまねく」
C 聖書拝読(ユキ) ガラテヤ人への手紙2章16節    
D お話       優子
E 聖書輪読     エペソ人への手紙4章1節〜6節
F お祈り      1人ずつ
ガラテヤ人への手紙 2章16節:
2:16 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
エペソ人への手紙 4章1節〜6節:
4:1 さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、
4:2 できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、
4:3 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
4:4 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。
お話:
「キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は、すべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」。

これはルターの有名な言葉です。(「キリスト者の自由」)
今からちょうど500年前の1517年10月31日、ドイツの神学者であり聖職者だったマルティン・ルターが95ヶ条の論題をヴィッテンベルク城教会の門に貼って討論を呼びかけました。

ルターは聖書こそが拠りどころであり、救済は神と人との直接的に成されるものであり教会を介してではなく、信仰によってのみ救われると訴えたのです。

当時ルネサンス文化最盛期、教会は不正にまみれローマ法王(教皇レオ10世)がサン・ピエトロ大聖堂建設中で、その資金不足から贖宥状(免罪符)を販売したのです。

" So bald der Gülden im Becken klingt, Im huy die Seel im Himel springt."「グルデン金貨がチリンと鳴れば、魂はポンと天国へ飛び上がる」。
この謳い文句で贖宥状を売りさばいていたのです。諸侯は金貨25枚 、貴族は金貨10枚、市民は金貨1枚などと価格が設定されていたのです。

といっても贖宥状はこの時に始まったものではなく、第1回十字軍の時には大々的に出回っており、15世紀に贖宥状を批判したボヘミアのヤン・フスが火あぶりに処せられています。

ルターは神学的議論をしようとしたのですが、最高の権威である教会(カトリック)批判は宗教改革に発展しました。
これを機に新派に分裂してカトリック(「普遍的」の意味)は新派を異端とし、新派はカトリック教会に抗議したことから自らを「プロテスタント」(ラテン語で "prōtestārī"・ プローテスターリー)と呼びました。

ヨーロッパは分裂し、その最終戦争が17世紀半ばの30年戦争と言われています。同じ神を信じている者同志であるのに、あまりにも残虐な戦争に恐れをなしてウェストファリア条約やピューリタン革命によって終結させたのです。

宗教改革とは教会改革のことであり、これがごく大まかなアウトラインです。人間の実相に唖然としてしまいます。

私たちプロテスタント信仰は、魂の救いは「信仰義認」であり、善い行いにより救われるのではなく、教会を介してでもなく自ら十字架の死と復活によるイエス・キリストを信じる信仰です。

また、信仰者はすべて神の御前に祭司であるという「万人司祭」の考え方です。そして、カトリックのようにマリア崇拝や偉業を成した人を聖人として崇めることもしません。

しかし今それらの違いを超えて、ようやく50年前からルーテル教会とカトリック教会の対話が始まり、分裂から和解、一致へと歩み寄り、カトリックとプロテスタントの歴史的な和解が進んでいます。

その一例がカトリックとプロテスタントの両教派で使えるようにと、共同で翻訳した新共同訳聖書が1987年に刊行され多くの教会で用いられています。(『メメントドミニ』では、1955年に刊行された口語訳聖書を用いています。)

最も平和を希求していたプロテスタンティズムの歴史に悲惨な戦いがあったこと、それが私たちの現実であり人間の姿です。しかし、プロテスタンティズムが中世の暗黒時代から近代をもたらし、現代社会にも大きな示唆を与え貢献しています。

大切なことは、これからもあらゆる領域で個人の多様性を重んじ、異なる信仰や価値観といかに共存していけばよいか改革し続けて行かねばならないのです。より良きをめざして!

信仰者は自分たちの教会だけが正統なものであり、自分たちだけが聖書的であると自負するとすれば道を踏み外すことになるでしょう。

ただし「神が間違いを犯す」と公言する牧師など論外であり、牧師だけではなく唯々諾々と追従する信徒たちに忠告しなければなりません。関係する教職者たちの在り方にも大きな問題を感じていますが、今はただただ教会の上に主の導きを祈るばかりです。

IMG_8624.jpgエルンスト・トレルチは次のように言っています。
「神的な生は私たちの現世での経験においては一ではなく多なのです。そしてこの多の中に存在する一を思うことこそが愛の本質なのです」。

私はこれからも超教派のスタンスで「主に在って一つ」を信条に歩んでいきたいと思います。
折り紙の「くじゃく」はユキがユウチューブを見て折りました。

附記:選挙結果に愕然としブログに取り上げることもしませんでしたが、多くのことを考えさせられています。

先週26日(木)は2週間ぶりの晴天、翌27日と連日の晴天で気温も23、3度になり、2日間はTシャツ一枚で大忙しだった。ユキと知子の寝具も冬用に交換、電気毛布も敷いた。

タオルケットや夏蒲団カバーなど洗濯機を何度も回して気持ちよく乾いた。これで寒くなっても大丈夫! 
しかし、しんどかった。本当にしんどかった。持ち上げる力も落ち、命の勢いが弱くなっているのがわかる。26日の夕方から頭痛が続いている。

冬支度は終わったが昨日から再び雨。そしてまたしても季節外れの台風で只今22号が接近中、今日もまた、雨、雨、雨。
夫は一昨日のゴルフ後、別の集まりの宿泊先に向かい、昨日は雨の中での連日のゴルフ。しかも2日間で400キロも走行したという。無事に帰宅したことを感謝し胸をなでおろす。

IMG_8596.jpg先月72歳になった夫、私は明日66歳になる。体力の差が大きすぎる。早く本の編集を始めないと時間が尽きてしまう。

今年もシュウメイギクの季節が終わった。
Farewell,
until the next year.


posted by 優子 at 12:08| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年10月15日

家の教会2017㊲ −「あなたのパンを水に投げよ」−

2017年10月15日(日) (2017第37回 家の教会)
9時55分〜10時35分
出席者 2名(With R)

@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 讃美歌     368番「つとめいそしめ」
C 聖書輪読    伝道の書11章1節〜6節
D お話      優子
E お祈り     1人ずつ

伝道の書 11章1節〜6節:

11:1 あなたのパンを水の上に投げよ、

多くの日の後、あなたはそれを得るからである。

11:2 あなたは一つの分を七つまた八つに分けよ、

あなたは、どんな災が地に起るかを知らないからだ。

11:3 雲がもし雨で満ちるならば、地にそれを注ぐ、

また木がもし南か北に倒れるならば、

その木は倒れた所に横たわる。

11:4 風を警戒する者は種をまかない、

雲を観測する者は刈ることをしない。

11:5 あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。

11:6 朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。


お話:

「伝道の書」は冒頭から「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」と、人間は何をやっても益がなく、その意味で人生の一切は空しいと書き始めています。


神の創造も認めていませんから、時間は循環的で永遠の繰り返しだから新しいものは何もなく、偶然や運命という言葉が何度も出てきます。


このような書がどうして聖書に編纂されたのだろうかと思うのですが、しかし、大切なことはちゃんと言っているのです。

人生は空の空であるから「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」と。


ところで、私は「あなたのパンを水の上に投げよ」という言葉を初めて聞いた時は意味が解りませんでした。そして大人になってからは、この箇所を読むたびにアンデルセンの童話「パンを踏んだ娘」を思い出すのです。


インゲルという娘が大きなぬかるみを前にして、きれいな靴を汚さないように持っていたパンを泥の中に投げて渡ろうとした話です。


内容は全く違うのですが「パンを水に投げる」という言葉から、私はやっぱり今も連想してしまうほど強烈な印象を与えた童話でした。


さて、「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」というのはどういうことであるかを考えるに、まず「パン」とは何か、また「水」は何を意味するのかを考えたいと思うのです。


その時に注目すべきは「あなたはそれを得るからである」という言葉です。空しくは終わらず、神さまの約束だというわけですから、「パン」も「水」も共に幸いな意味を指していることがわかります。


「あなたのパン」とは「あなたの生きる上で必要な糧」、それは食べ物だけではなく、無くてはならぬ絶対に必要なものです。イエスさまが言われた、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである。」(マタイ4章4節)というみことばを想起します。


ということは、それは自分の能力や努力によって得るのではなく、また得られるものではないということでしょうか。


「水を意味するヘブル語の『マイム』(מַיִם)は、神の真理の象徴」ということですから、「あなたの大切な糧を得られるように神さまに投げよ」ということになります。


そうするならば「多くの日の後、あなたはそれを得るからである」と言うのです。それはいつなのかはわかりませんが「神の時」であり、神さまがご計画を成就される絶妙な時に与えられるというのです。


この地上に在る時とは限らず、御国(天の国)が成就される時であるかもわかりません。しかし、必ず与えてくださるという約束なのですから、その約束を信じて歩み続けていきたいと思います。


今朝のみことばからこのように神さまのメッセージを受け取りましたので、歩み方においてはこれまでと変わらずに、ただし今朝もう一度姿勢を正して、自分なりの精一杯を務めつつ水の上に投げて(向けて)神の御手に委ねます。


神さまの約束は絶対です。確約です。今、私が深い悩みの中にあっても喜びに変えられるという約束を握りしめて進んで行こうと力をいただきました。

私にも与えて下さっている大切な賜物や時を活かして神さまのために使っていきたいと思います。今も神さまが私の思いもしないところで用いてくださっているかもしれません。


「実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである」。


お読みくださった方々の上に、神さまのお導きとお守りがありますようにお祈りします。


posted by 優子 at 15:54| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年10月08日

家の教会2017㊱ −みことばを宣べ伝える者―

2017年10月8日(日) (2017第36回 家の教会)
10時20分〜11時5分
出席者 2名(With R)
IMG_8269.jpg@ 初めのお祈り 優子
A 主の祈り
B 讃美歌    294番「みめぐみ豊けき」
C 聖書輪読   ローマ人への手紙 
             10章9節〜21節
D お話     優子
E お祈り    1人ずつ
F 讃美歌    405番「神とともにいまして」         

ローマ人への手紙 10章9節〜21節:
10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。
10:13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
10:14 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
10:18 しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ
「その声は全地にひびきわたり、
その言葉は世界のはてにまで及んだ」。
10:19 なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、
「わたしはあなたがたに、
国民でない者に対してねたみを起させ、
無知な国民に対して、
怒りをいだかせるであろう」。
10:20 イザヤも大胆に言っている、
「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、
わたしを尋ねない者に、自分を現した」。
10:21 そして、イスラエルについては、
「わたしは服従せずに反抗する民に、
終日わたしの手をさし伸べていた」
と言っている。
お話:
今月22日の衆議院選挙に向けて政界はめまぐるしく変動していますが、有権者である私たちは真剣に各党各候補者が語る真偽を見分けながら耳を傾けねばなりません。

特に憲法問題は喫緊の課題になっていますので、それに関連して戦争や平和について多くの時間を割いて考えさせられています。

10月4日の記事にも少し触れましたように、選挙に関連して政党や政治について話題になる機会が多いので、私はあくまでも政治改革ではなく聖書の言葉を伝えることに時間を労していきたいという思いを強くしています。

IMG_8249.jpg何よりも私たちクリスチャンは、人間の努力では全き平和を実現することはできないことと、真の平和はキリストが再び来られた時に世界を新しくされてもたらされることを知っています。

だからといって私たちは何もしなくてよいのではありません。パウロが「すべての人との平和を追い求めよ」と教えているように、憎しみや武力ではなく、祈りによって神さまが働かれることを待ちつつ「地の塩、世の光」として歩んでいくことが肝要です

その中で最も大切なことは、私たちがキリストを通して神さまとの平和を与えられたように、周囲の人々に機会を見つけてはイエス・キリストを伝えていくことであり、これが世界平和を推進していくことだと信じるのです。

そこでもう一度深く味わいたいと思ったみことばが今日の箇所です。
13節の「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」というのは、ユダヤ人ばかりではなく、すべての異邦人にも伝えられて、信じる者には誰でも救いが約束されているという意味ですが、そのための大前提として「呼び求めるべき主」であるお方を知っていなければなりません。

そのことを受けてパウロは(14節で)、キリストを信じないユダヤ人の思い(反論)を代弁しているのです。

信じたことのない人をどうして呼び求めるのだろう、聞いたことのない人をどうして信じることができるだろうか、そんなことはあり得ないし、イスラエルがイエスをキリスト(救い主)として受け入れないとしてもイスラエルの責任ではなく、聞かされなかったことに原因があるんだと言うのですが、この気持ちはイスラエルの立場ならば誰でも頷けますよね。きっとパウロ自身の思いでもあったのでしょう。

使徒たちは遣わされて確かに福音を宣べ伝えたのであり、ユダヤ人たちは福音を聞いたのです。でも、聞いた者が皆信じたのかというとそうではなく、皆が受け入れたわけではありませんでした。

しかし、「イスラエルは聞いたのだ!」と、パウロはなおも(18節で)強調しています。しかも更に(19節以下で)「聞いただけで意味を理解できなかったのではない」とダメ押しし、福音に耳を傾けずキリストを拒絶した責任は、不従順なイスラエル自身にあり弁解の余地はないと訴えているのです。

しかしまた、そんなイスラエルに対しても(21節で)、神さまの憐れみと寛容を示しておられるのだとイザヤの言葉を用いてパウロは語るのです。

神さまはイエス・キリスト(福音)を拒んだからとすぐに滅ぼしてしまわれるわけではありません。その人の一生をかけて忍耐強く関わってくださいます。

私に洗礼を授けてくださった小山恒雄牧師は、「私たちは人を救わんがために救われた」と何度も説教で語られました。勿論救い出されるのは神さまの御業ですが、神さまは先に救い出された私たちを通して周囲の人々に福音を宣べ伝えていかれるのです。

そこでテモテへの第2の手紙 4章2節〜5節を読んで自らを励ますのです。

4:2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。

私たちがキリストのメッセージをお伝えした時に共感されなくても、それどころか無関心であったとしても、悩みの時に思い出して求めていかれるかも知れません。

IMG_8248.jpgあとのことは神さまに委ねて(お任せして)、私たちも謙遜に忍耐と寛容をもって機会があるたびに福音を宣べ伝えていきたいと思います。

クリスチャンの使命は政治改革によって国家を変えていくことではなく、神のみことばによって人の心を変えていくことだからです。

ついでながら来る投票日には、自分自身の見解に最も近い人に投票し、有権者の権利と義務を果たしましょう。
IMG_8274.jpg附記:ユキはサッカー教室、午後はお友達からバーベキューのお誘いを受けて、2部礼拝はならず。
今日の最高気温は28.4度、薄くなった着古しのTシャツ1枚でも汗ばんだ。ワシントンも今日(7日)は夏みたいに暑かったそうだ。

posted by 優子 at 12:44| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年10月01日

家の教会2017㉟ −ステパノの殉教―

2017年10月1日(日) (2017第35回 家の教会)
9時15分〜9時55分
出席者 3名(With R&ユキ)
@ お祈り  優子
A 子どもの讃美歌  「神さまがわかるでしょ」
B 主の祈り   
IMG_8176.jpgC 聖書輪読   使徒行伝 
    7章44節〜60節
D お話     優子
E お祈り    一人ずつ
F 讃美歌   354番

使徒行伝7章44節〜60節:
7:44 わたしたちの先祖には、荒野にあかしの幕屋があった。それは、見たままの型にしたがって造るようにと、モーセに語ったかたのご命令どおりに造ったものである。
7:45 この幕屋は、わたしたちの先祖が、ヨシュアに率いられ、神によって諸民族を彼らの前から追い払い、その所領をのり取ったときに、そこに持ち込まれ、次々に受け継がれて、ダビデの時代に及んだものである。
7:46 ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。
7:47 けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。
7:48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、
7:49 『主が仰せられる、
どんな家をわたしのために建てるのか。
わたしのいこいの場所は、どれか。
天はわたしの王座、
地はわたしの足台である。
7:50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。
7:51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。
7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。
7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。
7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、
7:58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。
7:59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
7:60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。
お話:
今朝はステパノのお話です。聖書にステパノが登場するのは初代エルサレム教会時代のこの時だけですが、キリスト教会最初の殉教者であり教会史においてとても大きな存在です。

なぜならばステパノこそが、キリスト教を迫害する側にいたパウロの信仰上と思想上の先駆者であり、ステパノによって明確なキリスト教会の第一歩が踏み出されたからです。

ステパノはモーセの律法と神殿を汚したという嫌疑で捕らえられてユダヤ議会の最高法院で裁かれ、その裁判で語った主張(説教)が7章に記録されています。今朝輪読した個所は裁判の最後の部分でエルサレム神殿について語っているところです。

ステパノを裁いているイスラエルの人々の言い分はこうです。
神さまはエルサレム神殿におられて、そこに行けば神さまにお会いでき、エルサレム神殿がここにあるのも自分たちは神に選ばれた民(選民)の印であるというのです。その神の住まいである神殿を冒涜したと激怒しているのです。

ステパノが語った「いと高き者は、手で造った家の宮にはお住みにならない」は象徴的な言葉です。私はこの言葉からエレミヤの言葉(エレミヤ書10章3節〜5節)を思い出します。

10:3 異邦の民のならわしはむなしいからだ。
彼らの崇拝するものは、林から切りだした木で、
木工の手で、おのをもって造ったものだ。
10:4 人々は銀や金をもって、それを飾り、
くぎと鎚をもって動かないようにそれをとめる。
10:5 その偶像は、きゅうり畑のかかしのようで、
ものを言うことができない。
歩くこともできないから、
人に運んでもらわなければならない。
それを恐れるに及ばない。
それは災いをくだすことができず、
また幸いをくだす力もないからだ」。

目に見える偶像や建物に手を合わす虚しさを見事に表していますね。私たちの信仰は、神さまはどこか決められた建物に居られて、そこに行かないとお会いできないというものではありません。プロテスタントの教会で見るのは十字架だけで、勿論十字架を拝んだりはしません。

先ほど輪読した46・47節にありますように、エルサレム神殿はダビデとソロモンの時代に建てられましたが、これは荒野における幕屋の真髄を象徴したものであり、神は人の手で造られた所におられるのではないと主張しているのであり、ダビデやソロモンの思想を否定したわけではありません。

かつてイスラエルの民が荒野で礼拝していた幕屋の精神を失って迷妄していることを非難し、「イエスは宮より大なる者であり真の神の宮」であり、イエスを信ずべきと主張したのです。

55・56節のステパノの心は聖霊に満たされて恐怖もなく主イエスのみを見ていたのでしょう。まさに命をかけた信仰です。命をかけるとは自分の力で頑張るのではなく、神さまに全てをゆだねる信仰です。いかに精神力の強い人でもこのような恐怖を平安の内に耐えられる人は一人もいません。

後藤健二さんの衝撃的な死以来、私はこのような個所を読むときもあの生々しい記憶がよみがえって心痛に耐えねばならないのですが、と同時に後藤さんもまた聖霊に満たされておられたと信じることができるのです。そしてまた、私は命がけで信仰しているだろうかと自らに問いかけないではいられません。

「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」。
ステパノの臨終の言葉は、敵を愛せと教えられたイエスさまへの真実の信仰を証ししていますね。この衝撃的なステパノの死が人々に多大なる影響を与え、サウロ(パウロ)の回心にも及んだのです。

「多くの殉教の死の中に於て、ステパノの死が殊に偉大なる影響を与えし所以は、彼が徹頭徹尾愛の心を失わなかった事であった。如何なる場合に於ても人を真に感動せしむるものはその雄弁でもなく、豪勇でもなく、又その泰然たる死でもなく、その愛である」とは黒崎幸吉の言葉です。

「ああ、天が開けて、人の子が立っておいでになるのが見える」。
この言葉から、主イエス・キリストはステパノの臨終の折にご自身を鮮明に現されたことがよくわかります。神の右に座っておられる主イエスが立ち上がっておられたとは、ステパノに御手をさし伸べて霊を抱き上げようとしておられたのでしょう。

エルサレムの旧市街地を囲む城壁に「ステパノ門」があるそうです。ステパノはこの門の前で怒り狂った人々に石打ちの刑で生涯を閉じましたが、ステパノが神殿と律法に関する見解を明確に宣言したことにより、それまでユダヤ教の一派と見なされていたものがキリスト教として明確に位置づけられました。

IMG_8175.jpgキリスト教会の礼拝は主イエス・キリストがそこにいてくださり(臨在)、聖霊のお働きによって神さまを実感できる恵みです。聖霊のお働きがなければ、例えば牧師の説教も単なる良いお話で終わるでしょう。

私たちの礼拝も聖霊のお働きにより、それぞれが神さまと出会う恵みの時でありますようにと祈るばかりです。

そして私たちもまた罪や過ちを犯した人を赦すことができますように。主イエスを救い主と信じて贖われた私たちも天の御国に迎え入れてくださるのですから、日々聖霊なる神さまに守り導かれながら明るく生きていきましょう。

紫蘇の花.jpg感謝録:
敬虔な祈りを捧げた夫を主イエスが祝福してお導きくださるように祈ります。

青じその花。
IMG_8177.jpg



posted by 優子 at 14:35| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年09月24日

家の教会2017㉞ ―パウロとバルナバ―

2017年9月24日(日) (2017第34回 家の教会)
9時55分〜10時30分
出席者 2名(With R)

@ 主の祈り
IMG_7992.jpgA 聖歌   462番「わが生涯は」
B 聖書輪読  使徒行伝
      15章36節〜16章5節
C お話    優子
D お祈り   一人ずつ
E 讃美歌  312番「いつくしみ深き」
※ 昨朝に続いて今朝もサッカー教室のためユキ不在。

使徒行伝 15章36節〜16章5節:
15:36 幾日かの後、パウロはバルナバに言った、「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」。
15:37 そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。
15:38 しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。
15:39 こうして激論が起り、その結果ふたりは互いに別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、
15:40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。
15:41 そしてパウロは、シリヤ、キリキヤの地方をとおって、諸教会を力づけた。

16:1 それから、彼はデルベに行き、次にルステラに行った。そこにテモテという名の弟子がいた。信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシヤ人を父としており、
16:2 ルステラとイコニオムの兄弟たちの間で、評判のよい人物であった。
16:3 パウロはこのテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、まず彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることは、みんな知っていたからである。
16:4 それから彼らは通る町々で、エルサレムの使徒たちや長老たちの取り決めた事項を守るようにと、人々にそれを渡した。
16:5 こうして、諸教会はその信仰を強められ、日ごとに数を増していった。

お話:
IMG_7984.jpg今朝はパウロとバルナバのことを考えたくてこの箇所をえらびました。

ペンテコステの出来事に続いてキリスト教会が名実ともに誕生した出来事がエルサレム会議であったと言ってよいと思うのですが、エルサレム会議は紀元48〜9年頃に開催された初代教会の大きな会議です。

ここで問題になったのは、異邦人が救われるためには割礼が必要か否かでした。激論の末に最後に出された見解は、自らの罪を悔い改め主イエス・キリストを我が救い主と信じる者はすべて神の恵みによって救われるのであり、ユダヤ人が守っている割礼は必要なしというものでした。

「私たちがあなたがたに伝えていたとおりだから」と、パウロは第一回伝道旅行で語っていた異邦人たちに伝えようとバルナバに言いました。ところがここでマルコを同行させるさせないで二人の間で激論になりました。

37節の「マルコというヨハネ」とは「マルコ」はギリシャ名で、ヘブル名では「ヨハネ」といいで同一人物です。マルコは第1回目の伝道旅行の途中でエルサレムへ帰ってしまったので、そんな者は連れて行かないとパウロが反対したのです。

かつてイエスの迫害者だったパウロ(その時はサウロと呼ばれていた)が回心し、パウロをクリスチャンの仲間にとりなしたのがバルナバです。当初は誰もパウロの回心を信用しなかったところを、エルサレム教会から信頼されているバルナバの紹介があったから皆は信用したのでした。

バルナバは「慰めの子」を意味する名前のとおり、弱い人たちや苦境にある人を放っておけない人でした。かつてのパウロの苦境を助けたようにマルコにも同じように愛の執り成し、配慮に満ちた関わりをしました。このあたりは私たちにも現実感のある出来事ですね。

パウロとバルナバは激論し、ついに袂をわかってバルナバはクプロ(キプロスのこと)へ、パウロはシリヤ、キリキヤ地方へ赴いたと15章の最後に記されています。

互いに偉大な使途たちです。彼らの激論から感じましたことは、信じるものがある人にとって引けぬ時は激論になることもあるということです。いや、そのような時にさえ議論を避けるのを良しとするならば「日本的キリスト教」なのかもしれません。

その激論の結果、一致を見ずに互いに別れ別れになってしまったことについては残念に思いましたが、特にこの場合はどちらが正しいというものではないと思います。

これについて黒崎幸吉は次のように容義しています。

「この一事実に対してパウロの峻厳なる性格とバルナバの寛大なる性格との間に判断の差異を生じたのであった。自己の利害に関する限り寛容は美徳である、併し乍ら公の問題に関する場合善悪邪正は明確になされなければならない。この点に於てパウロのバルナバに優れる所以が明かになった。

然のみならずこの争論は従来世話になったバルナバに対する争であり、また一度は彼らを離れたけれども再び帰り来れるマルコに関する事であり、またマルコの母は使徒たちの庇護者であった点(12:12)等より考えてパウロがあまりに厳に過ぐとの批難を為す者があるけれども、私情と公職との区別を正しく保持した事はパウロの方が正しかった。この時以後パウロの伝道が栄え、バルナバの働きが鈍った事がこの事を証拠立てる」。

私は聖書の読みが浅いのですが、バルナバは私情で言っていたとは思わないのです。

パウロのような厳しさを持ったリーダーと、バルナバのように忍耐強いリーダーという賜物の違いと受け止めるのであるならば、それらはどちらのほうが優れているというものでもなく両者が必要なのです。

何よりもこのマイナスと見える対立を通しても、神さまのご計画は進められていったことに注目するからです。

後年、獄中のパウロはテモテにこう言っています。
「マルコを連れて、一緒にきなさい。彼はわたしの務のために役に立つから」(テモテへの第2の手紙4章11節)と、マルコの成長を認め、パウロにとっても大切な協力者になっていたことがわかります。それはバルナバの存在、関りがあったゆえのことだと思うからです。

私たちは皆それぞれに欠けがあり、かくも弱いお互いです。「どうしてこんなことで?!」と意見の違いに落ち込むこともあります。

しかし大切なことは、その時にも対立する双方が神に委ね、主イエスから目を離さずに歩んでいくならば、私たちの弱さや失敗をも用いてくださり、私たちの思いや力を超えて神のご計画が成就されていくことを忘れてはなりません。今朝はもう一度そのことを深く心に刻みたいと思います。

キプロス.png

イエス・キリストが昇天されて後、パウロとバルナバが伝道旅行で行ったキプロス島には、バルナバの墓の上に建てられたと言われる小さな美しい教会堂があるそうです。現在は人口の8割近くがキリスト教徒(ギリシャ正教)だということです。

折しも先週から次女の伴侶がミッション(出張)でキプロスに行っており、政府関係者とミーティングを重ねています。今回の派遣先を知った時、シリアやトルコがすぐ近くにある中東なので心配しましたが治安は比較的良好と聞き安心しました。

ウィキペディアによれば「キプロスは、中東やイスラム諸国とも友好関係にありテロの可能性が極めて低い稀有な国である。現在、ロンドンでテロが多発する中、多くの企業がキプロスに拠点を移している」とのことです。

IMG_8048.jpg婿からの無事到着の知らせには「建物や道路が美しい」とありました。キプロスは2000年前にパウロとバルナバが踏んだ地です。娘婿の無事と良き働きを祈ります。

附記:今日のユキ。

IMG_2762.jpg

IMG_2748.jpg

昨日のユキ。

IMG_2732.jpg

IMG_2735.jpg

9月3日のユキ。
P_20170903_111410.jpg
posted by 優子 at 13:28| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年09月17日

家の教会2017㉝ ―何が人を汚すのか―

嵐の前.jpg
嵐の前の二上山(雄岳)
台風18号で気を揉んでいるが晴れ間さえあり、既に洗濯物も乾いた。
そして14時16分大阪府東部に大雨洪水警報が出た。

2017年9月17日(日) (201733回 家の教会)
9時40分〜10時30分
出席者 2名(With R)
@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 讃美歌  187番「主よ、いのちの言葉を」
C 聖書輪読 マルコによる福音書 7章1節〜23節
D お話   優子
E お祈り  1人ずつ
 ※サッカー教室は中止でユキは在宅していたが欠席。

マルコによる福音書 7章1節〜23節: 
7:1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。
7:2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。
7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。

7:4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。
7:5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、
『この民は、口さきではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間のいましめを教として教え、
無意味にわたしを拝んでいる』。
7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。
7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。 7:10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
7:11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、
7:12 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。
7:13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。
7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。
7:15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである
7:16 聞く耳のある者は聞くがよい〕」。
7:17 イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。
7:18 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。
7:19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた
7:20 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。
7:21 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。
7:23 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。
お話:
エルサレムの律法学者は 人々にとても尊敬されていた人たちでした。しかし、パリサイ人や律法学者たちがイエスさまのもとに来るのはいつもイエスさまを非難する材料を見つけるためでした。

ここでは手を洗わないでパンを食べている弟子を見て非難してきました。言うまでもなく食事の前に手を洗う習慣は衛生的であり、とても良い習慣です。

しかし彼らは形式的な事柄を問題にし、衛生的な汚れと良心や善悪など宗教的な汚れと混同して取り上げていることを反対されました。彼らの弟子たちへの非難はとりもなおさずイエスさまへの非難です。

イスラム教徒の知人からお聞きしたのですが、ムスリムの方々は毎日5回メッカに向かって祈り、祈りの前には体を清めるそうです。
手を洗うだけではなく、口や足まで洗うのです。しかも手や足などは全て右側から洗うことに決まっているそうです。

日本でも神社や寺院に手水舎(てみずしゃ・ちょうずや)があり、参拝前に体を清める意味で手を洗い口を漱(すす)ぎますね。

そのやり方にも決まりがあり、まず右手で柄杓(ひしゃく)を持って左手を洗って、柄杓を持ち替えて右手を洗い、口を漱ぐときは左手で口元を見えないようにし、最後は柄杓の柄を洗うために柄杓を立てて水を柄につたわせて置くなど、まるで茶道の作法のようで抹茶を点てる時の茶杓の扱いを思い出させます。

共通しているのは、汚れたままでは神さまの前に出ることができないという思いであり、パリサイ人や律法学者たちが訴えていることも容易に想像できます。

この場面で彼らが主張していることは口先だけの形式的な信仰であり、神の言葉ではなく人の言い伝えを重視しているとイエスさまは叱責されたのです。

十戒の第5戒に記されている「あなたの父と母を敬え」についても例に出されました。

彼らには食べ物についても細かい決まりがありました。
旧約聖書(レビ記、申命記)には宗教的汚れの問題から食べてよいものといけないもの、また、汚れてしまった者が神の前に出るための供え物や清めの儀式について細かく記されています。

例えば「食べてよい動物」は、牛、羊、ヤギなど反芻するもので、ひずめが分かれているもの。魚類はヒレと鱗(うろこ)のあるもの(レビ記11章9節)、鳥類は七面鳥、昆虫はイナゴです。

しかし、イエスさまは食物に汚れたものと清いものとの区別はないと明確に仰いました。聖書にも「手を洗わないで食事してはいけない」ということは書いていなくて、それは人の言い伝えであり、慣習やしきたりとして守っていたことなのです。

人を本当に汚すものは何でしょうか。それは水で洗えば落とせるものなのでしょうか。そうではなくて、汚すものは外から入ってくるものではなくて人間の中から出て来るものであると言われました。私たちの心から出てくるものなのだと。

例えば悪口を聞いていると不愉快になるでしょ?! 
それが人を汚すという意味です。
「汚れ」は自分の外側にあるのではありませんから洗ってもきれいになりません。人間の心こそが汚れの源でありますから、外側ではなく自らの内側こそが大切なのです。

修行や苦行を積むのではなく、悟りを開くのでもなく、自らに目を向けてこそ「汚れ」(罪)に気づかされ、それに気がついた人は汚れからの解放と救いを求めるわけです。

イエスさまは、私たちのどうしようもない汚れ(罪)を赦して解放するために、私たちの汚れ(罪)を全部ご自分の身に背負って、十字架にかかって死んでくださいました。そのために私たちと同じ人間になって地上に来てくださいました。

主イエス・キリストによる罪の赦しを与えられると、「妬み」という「悪い目で人を見る」ことからも解放されていきます。私は実に遅々たる歩みですが少しずつ変えられているのがわかるのです。
黒崎幸吉はこの箇所を「内と外」として次のように書いています。
「外側の行為を潔くすることは困難のようであって実は容易であり、内側の心を潔くすることはその反対に容易のようであって困難である。人間の心の中を見得るものは自己と神とのみである故、人はその心の汚穢を他人の前に偽り隠し、これによって外側の行為を聖者のごとくならしむることができる
しかしながら人は神によらざれば自己の内心を潔めることができない。それ故に人は難行を忌避して易行に移り行き、従って宗教は常に外側の行為を喧(やかま)しく言う律法主義に陥る。イエスの粉砕せんとし給えるはこの外側のみを飾る律法主義であった」。

日本にも多くの慣習や因習があり、日本人は多くの恐れに縛られています。私たちがそれらの恐れに縛られていないのは、主イエスの教えにより解放されたからです。

主イエスは、パリサイ人や律法学者たちが神のみことばよりも言い伝えや慣習という、人間の思いを大事にしていることを叱責されました。

勿論他者の発言を無視してはなりません。と同様に大切なことは、唯々諾々と無批判に他者の意見に迎合するのは自己を持たないことであり無責任でもあるのです。

改めると言うのは勇気がいるでしょう。例えば長年やってきた事業や家事を若い人に世代交代していく時もさみしさや葛藤があることでしょう。特に時代に応じてやり方を変えていかねばならない時、それまで自分がやってきたことを否定されたと感じるかもしれません。

しかし、神のことばは私たちを常に新しく造り変えていくものであり、みことばに聞き従うとは自分が変えられることを選ぶことなのです。

人生は選択の連続です。自分はいかに生きるのか。
刻々と変わっていく状況や環境に在って、自分はいかに生きるかということが常に問われています。そして何を選び取っていくのかは一人ひとりに任されています。

主イエスの御愛の中で賢い選択ができるように祈りつつ進んで行きたいと思います。
1.主よ、いのちのことばを
  あたえたまえ わが身に
   われはもとむ ひたすら
  主よりたまう  みかてを。

2.ガリラヤにて みかてを
  わけたまいし わが主よ
  いまも活ける ことばを
  あたえたまえ ゆたかに。
posted by 優子 at 15:32| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年09月10日

家の教会2017㉜ ―神の恵みが与えられるのはあなたが正しいからではない―

2017年9月10日(日)  (2017第32回 家の教会)
IMG_7708.jpg10時〜10時30分
出席者 2名(With R)
@ 主の祈り
A お祈り    優子
B 聖歌     229番「驚くばかりの恵み」
C 聖書輪読   申命記9章1節〜5節
D お話     優子
E お祈り    1人ずつ
申命記 9章1節〜5節:
9:1 イスラエルよ、聞きなさい。あなたは、きょう、ヨルダンを渡って行って、あなたよりも大きく、かつ強い国々を取ろうとしている。その町々は大きく、石がきは天に達している。
9:2 その民は、あなたの知っているアナクびとの子孫であって、大きく、また背が高い。あなたはまた『アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか』と人の言うのを聞いた。
9:3 それゆえ、あなたは、きょう、あなたの神、主は焼きつくす火であって、あなたの前に進まれることを知らなければならない。主は彼らを滅ぼし、彼らをあなたの前に屈伏させられるであろう。主があなたに言われたように、彼らを追い払い、すみやかに滅ぼさなければならない。
9:4 あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。
9:5 あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。
お話:
IMG_7762.jpgこの箇所はモーセに率いられてイスラエルの民がエジプトから脱出し、その後40年間の荒ら野を旅して、いよいよ約束の地カナンに入って行こうとしている時に、モーセが「イスラエルよ、聞きなさい」と呼びかけて神の御心を語るところです。

4〜5節にありますように、モーセは民に思い違いをしてはならないことを繰り返し告げて、約束の地に入れと勇気づけます。モーセは約束の地に入る前に生涯を終えるので、申命記はモーセの遺言でもあるのです。  

モーセの言葉は、まさに私たちへの戒めであり励ましでもあります。「ヨルダン」とは「死の世界を超える」ということであり、ヨルダン川を渡って約束の地に入るということなのです。

ついでながら、モーセとアロンが約束の地に入れなかった理由については諸説あり、岩を2度打つことは神の真理を疑うことであるというのが主流になっているようです。

私たちも常に私たちの一歩先を歩いてくださる主なる神さまのあとに続いて、勇気をもってヨルダンを渡っていくのです。

しかし、向こう岸は天国ではなく、かえってこちら側にいた時以上の闘いがあるのだと思います。神に導かれる者にとっては、信仰を授からなかった時よりもはるかに多くの試練や闘いを経験すると思うからです。

しかし私たちは一人で闘うのではありません。神が先頭に立って戦ってくださるのです。そのあとを私たちは勇気を奮い起こしてついて行くのです。その時に私たち誰もが陥る思い上がりや勘違いを警告しているのです。

IMG_7773.jpg神さまが約束の地を与えてくださるのは、イスラエルが正しいからではありません。
私たちが正しいからではなくて、この地に住んでいた国々の民が悪いから(神に逆らっているから)、彼らを追い払ってお与えになったのです。

私たちもこのような錯覚をしがちです。神さまから祝福が与えられた時、自分が正しいからと勘違いしてしまうと神さまの祝福が祝福ではなくなり、心の自由を失ってしまうことでしょう。

私は物事が順調に運んだとき、「努力を報いてくださってありがとうございます」と感謝し、試練の時は「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と口ずさんで励むのですが、どんな時も「自分の罪、頑なさを忘れるな」と口ずさんでいたいと思います

(下線部分の詩篇103篇2節は新改訳です。口語訳のそのすべてのめぐみを心にとめよ」より直截的でわかりやすいので新改訳で記憶しています。)

自分の罪、自分の弱さを深刻に受け止めて生きる、そのことが信仰生涯の要諦だと思います。

ついでながら健康であることが祝福ではありません。物事がうまくいくことも、社会的地位や財を得ることも、優秀であることも祝福の証しではありません。もしもそれらを祝福とするならば、人間の価値観を基準にした「ハレルヤ信仰」に陥っているのです。

人間は実に頑なで強情です。9章6・7節にあるように、どんなに良くしてもらっても感謝を忘れて文句を言うのです。

9:6 それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。
9:7 あなたは荒野であなたの神、主を怒らせたことを覚え、それを忘れてはならない。あなたがたはエジプトの地を出た日からこの所に来るまで、いつも主にそむいた。

文語訳では「汝は項(うなじ)の強(こわ)き民なればなり」と訳されています。旧約聖書に何度も出てくる有名な言葉です。

彼らがエジプトから脱出する時、目の前は海、すぐ後ろにはエジプト軍が迫る危機一髪の時に、神さまが海を分けて向こう岸に渡らせてくださったという奇跡を体験しました。それでも荒ら野での日々に不満を言ったのです。

「エジプトで奴隷でいたほうがましだった」と!

神さまは人間が強情であることは百も承知の上で私たちを救い出してくださいました。主イエスを信じる者には、一切の罪ゆるされて永遠の命まで与えてくださったというのに、私たちは試練の時に不満を言うのです。これが人間の実相でありどうしようもないお互いなのです。

これでは主なる神に従っているのではなくて、神を自分のために利用しようしているのと同じではないでしょうか。イスラエルの民も繰り返し主に背き、裏切り、罪を犯しました。まったく私たちの姿そのものです。

神さまはこれまで多くの善きことをしてくださいました。そのことを忘れないで、自分の力でするのではなく、主イエスに依り頼んで導かれる者でありますようにと切に祈ります。

イスラエルの民はモーセの執り成しによって約束の地に前進して行ったように、 私たちは主イエスの十字架の死と復活によって、いつもいつもイエスさまが執り成してくださっています。

IMG_7710.jpg私たちが何度も限りなく弱さを露呈してしまっても、勇気を出して主イエスに助けを求め、イエスさまとの関係を持ち続けることです。
頑なにならずに刻々に悔い改める素直な心を失わないで歩み続けていくとき、少しずつ主イエスに似た者に変えられていくのです。

この1週間もさまざまのことがあるでしょうが、主に在って打ち克とうと新たな気持ちで励みたいと思います。

IMG_7779.jpg
ひとり生えの芙蓉。

IMG_7772.jpg


IMG_7777.jpg
山桜に見つけた小さな秋

IMG_7778.jpg
今が新緑の常緑樹クスノキ。

posted by 優子 at 16:31| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年09月03日

家の教会2017㉛ −破れを繕い平和を実現する者―

IMG_7617.jpg朝の10時過ぎ、夫を誘ってドライブに出た。
葛城山麓を走り、御所(ごせ)市、五條市、吉野方面、そして、ユウターンして吉野熊野の玄関口「吉野路大淀町の道の駅」へ。
御所市で昼食を摂り14時半頃に帰宅。(写真は二上山:右側が雄岳、左が雌岳)。ユキはサッカー教室のあと、午後は友達と野球で不在だった。

今日の礼拝は夫にも声をかけず、夜に私だけで守ることにし、疲れていたがリビングの棚を整理し3時間半も体を動かし続けた。

2017年9月3日(日)  (2017第31回 家の教会)
20時50分〜21時40分
出席者 優子
聖書  マタイによる福音書 5章9節
      イザヤ書 58章11・12節

マタイによる福音書 5章9節:
「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう」。
イザヤ書 58章11〜12節:
58:11 主は常にあなたを導き、
良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、
あなたの骨を強くされる。
あなたは潤った園のように、
水の絶えない泉のようになる。
58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興(おこ)し、
あなたは代々やぶれた基を立て、
人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、
『市街を繕って住むべき所となす者』と
呼ぶようになる。
考え導かれたこと:
毎年8月は特に過去の戦争を思い起こして、2度とあやまちを犯さないために考えを深めるのですが、その間も北朝鮮と米国との関係が一触即発状態の緊張が続いています。

米朝だけではなく韓国、日本など周辺国も緊迫している中、今日またしても北朝鮮が核実験したことを夕方に知りました。 

国連は人類の英知を結集させて努力を重ねていますが、北朝鮮のように挑発や攻撃をし続ける相手にはどのように対処すればよいのかわかりません。

これを国家間のことだけではなく、自分の人生において思い描きながら考えてみたいと思います。一方的に挑発や攻撃される場合だけではなく、自分を傷つける相手を想像して、今一度「平和をつくり出す人たちは幸いである」と仰ったイエスさまの言葉を考えたいと思います。

まず注目したいのは、主イエスは「平和を愛する人は幸いである」と言われたのではなく、平和をつくり出す人は幸いである」と仰ったということです。

ということは、ただ口先で「平和は素晴らしい」と思っているのではなく、実際に争い合っている相手、あるいは人々や国と向き合わないとなりません。思い願っているだけならば何と容易なことでしょう。

国と国の場合、まさに国家間のことになると最終的には軍事力によって平和を実現しようとします。それは現代だけではなく、どの時代においても同じでした。常に力のある国により征服という形で治められていったのです。

これでは争いは治まっても本当の平和を実現したことにはなりません。例えば第2次世界大戦が終結したあとも、戦争中の報復としてナチスと関係なかった一般ドイツ人がたくさん殺されるなど、東ヨーロッパの各地で血が流されました。

権力のある者(国)が仲裁に入ってさえ、本当の平和を来たらせることはできないのです。しかも、主イエスは権力者ではなく貧しい人々に「平和をつくり出す人たちは幸いである」と言われました。

神の御ひとり子であるイエスさまは人間の姿になって、しかも王としてではなく最も弱い者になって地上に来てくださいました。

それは人々の一切の罪をその身に背負って、私たちの身代わりになって死んでくださるためでした。神さまはイエスさまの受難を通して、神を必要としないで生きている私たちの罪を赦してくださり、神さまと和解させてくださったのです。

そのことがわかって感謝が溢れて悔い改めた人がクリスチャンですから、自分の苦手な人に怒りや恨みをぶつけることは、その攻撃をイエスさまにしていることにもなるのです。

クリスチャンはピースメーカー「和解の使者」として生かされる民であり、先ほど読んだイザヤ書に「破れを繕う者」とあるとおりです。

このことは自分の力でするのではありません。実際人間の努力だけでは絶対にできません。真に主イエスを慕い、主イエスを信じて委ねていくときに可能になるのです。

私たちは神さまから赦しを受けたお互いが、和解の使者として主から遣わされているのです。そして「彼らは神の子と呼ばれる」のです。

「繕う」には「管理する」「整理する」という意味があり、主イエスは私たちを破れを繕う者、建設者のような人、基を据える人として用いようとされるのです。

かつて私も非道で不当な攻撃を集団から受けたことがあり、私の人権を侵害し、母のいのちの尊厳をも犯されました。しかし、その真っ只中にあっても心は平安でした。

彼らが暴言を吐き続けている時も、「イエスさま、彼らはあのようなことを言っています。どのように答えればいいですか?」と祈っていました。その時も、その後も、一度も言い争いをしたことはありません。神さまがそのようにさせてくださっているのです。

時に憤りと悲しみが突き上げてきて苦しむ時がありますが、その時は「イエスさま、助けて!」と小さな声で御名を呼び祈るのです。何度も何度も。

今振り返るとこのような生き方を、主イエスは平和をつくり出す大きな業であると喜んでくださっているのだと思いました。尊い経験をさせていただいたことを感謝し、あの頃の真剣さに立ち返りたいと思います。

対立や争いは国家間のことだけではなく、職場や学校、また家庭でも絶えません。しかし主イエスはそれぞれの所で、私たちが向き合う相手の間に立ってくださって、破れを修復してくださることを信じることができるのは本当に恵みです

いつまでも挑発し攻撃をやめない北朝鮮のために、もっと真剣に祈り求めねばなりません。戦いが治まるだけではなく、真の平和の実現へと主イエス・キリストに祈り努力を続けることができますように。

米日韓が北朝鮮の挑発に乗らないように。
為政者たちが謙虚になって全能の神に助けを求めることができますように。そして、神さまが為政者たちに神さまの知恵を授けてくださって、この危機を回避できますように切に祈ります。
posted by 優子 at 22:22| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年08月27日

家の教会2017㉚ −「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。−


IMG_7279.jpg「おはよう!」と声をかけてくれているような朝顔。
先週は暑くて寝苦しかったのに、昨夜は窓を閉めないと肌寒いほどの涼しさ、おかげで熟睡できました。
夜になると鈴虫の声を聞き、今朝は「秋の空に変わったなあ」と夫の一言。蝉の声もほとんど聞こえず、爽やかな風が部屋を通り抜けていきます。礼拝後はしばらくの間、3人で俳句を練って楽しみました。

2017年8月27日(日)  (2017第30回 家の教会)
8時30分〜9時
出席者 3名(R&Y)
@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 子どもの讃美歌 讃美歌21・60番「どんなに小さい小鳥でも」
C 聖書輪読         マルコによる福音書 9章14節〜29節
D お話               優子
E お祈り
F 讃美歌   312番「いつくしみ深き」

よう開けなかった朝顔.jpg(→)8月14日、こんなに大きな蕾だったのに開かずに終わった朝顔の花ふたつ。

マルコによる福音書 9章14節〜29節:
9:14 さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。
9:15 群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。
9:16 イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、
9:17 群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。
9:18 霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。
9:19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。
9:20 そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。
9:21 そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。
9:22 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。
9:23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
9:25 イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。
9:26 すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。
9:28 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
9:29 すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできない」。
お話:
今日は主イエスが汚れた霊に憑りつかれた子を癒された時のお話です。このところから私は3つのことを考えさせられました。

特に注目させられたのは、「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできない。」と言われたイエスさまのお言葉ですが、これは弟子たちの問いに対する答えとして語られたものであるという点です。

私たちも何かをするときには祈ります。例えば『種を蒔く』を差し上げるときも「神さま、この本を祝して用いてください」と祈ります。ましてや、弟子たちが悪霊を追い出す時にも祈ったに違いありません。

しかも6章7節〜12節に、「また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、(略) 悔改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした」とありますように、弟子たちは癒した体験もしているのです。

しかしこのたびは癒すことができなかったのであのように尋ねたのですが、イエスさまは何を教えようとされたのでしょうか。今まで読み流していたのですが、そのことこそを示されたのだと思います。

即ち、主イエスは「あなたがたの祈る姿勢に問題がある」と言われたのではないでしょうか。弟子たちが癒すことができるのは、弟子たちに力があるのではなく、そこに働いているのは主イエスの大能の力であり、弟子たち(私たち)を用いて聖霊の働きによってみわざをなされるということ。

この本質、神さまとの正しい関係がおざなりになっていたのではないかと受け止めました。だからこそ、時には神の助けを祈り求めながらも、実は自分の努力だけで必死になって思い煩ってしまうのだと思います。
この時の弟子たちの祈りの姿勢は、まさに私のことでした。時に惰性的になっていた自らを探られました。

そのような彼らにイエスさまは悲しみと憤りを感じられましたが、見捨てず最後まで共に居て面倒見てくださいます。

注目した2点目は、汚れた霊に憑かれている子の父親です。
「しかしできますれば、わたしどもを憐れんでお助けください」と願ったこの言動は、相手が人間である他者に対してならば礼儀正しく謙遜な心を表しているでしょうが、神さまに対して無礼千万であり何もわかってはいません。。

しかし、神さまに対してならばどうでしょうか。神さまとの関係においては決定的に間違っています。神への全幅の信頼がなく、「癒されなかったら別の方法を考えよう」という思いさえあったのではないでしょうか。

もしもそうであるならば(それが人間の常なのですが)、父親は主イエスの力を借りて自分の願っていることを実現しようとしたのであり、それは正しい信仰ではありません。だからこそ主イエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と言われたのです。

しかも注視すべきは、イエスさまは「わたしには何でもできる」と言われたのではなく「信じる者には何でもできる」と言われたことです。

ここで主イエスは父親に神さまとの正しい関係を教えられました。父親が中心で主イエス(神)が父親の計画に協力するのではないのです。何にも先立って神の存在があり、主従を転倒させてはいけません。

人間が考え出した「カミ」や新興宗教の教祖のように、人間の下に祈る対象である「カミ」を位置づけているのと同じです。

時に私たちも気がつかないうちにこのような誤謬に陥ってしまうことはないでしょうか。あくまでも神が主で、私たちは神さまのみわざのために用いられていくのです。

これこそがまことの神への信仰であり、この真の信仰に立つ時に初めて、不可能を可能にされる神の全能の力と恵みを体験するのだと主イエスは教えておられるのだと思いました。

「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
"`If you can'?" said Jesus. "Everything is possible for him who believes."

「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
"I do believe; help me overcome my unbelief!"
何という素晴らしい叫びでしょう。父親は聡明でした! 

否、父親はイエスのみことばによって心が開かれたのです。
しかしまた不思議な言葉ですね。「信じます」と断固たる心で主イエスを信じて信仰告白しながら「不信仰なわたし」と言っています。でもこのことも私はよくわかります。これが考えさせられた3つ目のことです。

父親は神と人間が転倒していることに気づかされて正しい信仰への転換を経験して「信じます」と叫んだと同時に、弱くてどうしようもない自分ゆえに「不信仰なわたしを、お助けください」。「不信仰であっても我が子を癒してください!」と願ったのです。

黒崎幸吉は言っています。
「真実なる要求なき者にとりてイエスは用なき他人である。祈りは神との霊の交通であるり、人は祈りによりて神の力を受け、この力によりて悪の霊に打勝つことができる」と。

そして、「悪霊に憑かれて苦しめられし少年の姿は、サタンに捕われて苦悩する罪人に似ている。罪の苦悩を経験してここに至らざる者は未だ真に罪の力を知っているものということができない。
而してかくのごとくに死にたるものとなるに及べばイエスは御手を伸べて彼を立上がらしめ給う。悪霊より救われし者の姿も全くかくのごとくであるということができる」と。

信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。

まさにこれこそが私たちの祈りであり、心底から願い求めるものでないならば祈る必要はないのです。もしも助けが必要なのに求めないならば堕落であり「この世ながらの地獄」です。

かつて神なく生きていた私たちは、主イエスの十字架の死によって罪赦されて救いの恵みをいただきました。そして、神の子とされて歩みながら、聖霊の働きを通して救いの恵みを周囲の人々にお伝えする者として用いてくださるのです。

IMG_7285.jpg神に祈ることができることこそが最高の恵みであり、主イエスを信じる者に与えられた神の特権です。ですから私たちも神の全能の力と聖霊の働きを信じて主イエスに助けを祈りましょう。

物事がうまくいかない時も、私の思いではなく、神さまが最も善いようにしてくださるということを信じて前進していくのです。

附記:礼拝後コーヒーブレイクして、ユキはおじいさん(良輔)と自転車で「○○台」へサイクリングに出かけた。何度か行っているそうだ。

E291A3E382B5E383B3E382BFE38195E38293E38288E3828A.jpg坂道は歩いて上がり、下り坂が何とも涼しく最高とのこと。
夫の自転車は、昨年のクリスマスにユキがサンタさんからもらった白い自転車だ。
午後3時半からサッカー教室がある。
posted by 優子 at 11:06| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年08月20日

家の教会2017㉙ −マチ・クマに導かれて―

IMG_7137.jpgこれは先週の礼拝記録である。次女夫婦は帰米後すぐから出勤している。いつものように今も時差ボケで慣れるまでしんどそう。

今朝はユキの全校登校日で午後はサッカーのため礼拝は休んだ。大人たちは午後に読書しー夫は次女に手渡された三浦綾子さんの『光あるうちに』をまもなく読了―私は知子と分かち合いに導かれた。

2017年8月13日(日) (2017第29回 家の教会) 
13時30分〜15時30分
出席者 オールメンバー6名
@ 奏楽       知子
A お祈り      太志
B 主の祈り     一同
C 讃美歌      298番「安かれわが心よ」
D 子ども讃美歌   10番「小鳥たちは」
E お話       真智子&太志
  お祈り      一人ずつ
F 讃美歌      405番「神ともにいまして」


2人は出発前も仕事に追われ、帰国してからも多忙を極めたが、私の霊性がスローダウンしているのでマチ・クマがリードし、「まとまりがないながらも」と聖書から数か所引用しながら折に触れて思うことをシェアしてくれた。

真智子:
ヨブ記 2章7節〜10節:
2:7  サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
2:8 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。
2:9 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。
2:10 しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。

ほか13章23節、19章14節〜18節、38章1節〜2節。

人間は、よくないことが起こると、神にこらしめられているように感じるけれど、そうではないと思った

ルカによる福音書 6章22節〜26節:
6:22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
6:23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
6:24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
6:25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
6:26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。

人間はふとすると、地上で起こること(人の評価など)から自分が正しく生きているかを推し量ってしまうけれど、地上のことと御国のことが一致しない、むしろ逆相関するぐらいであることを思った。

主は人間に「正しさ」よりも、「くだかれた心、素直な心」を求めておられるのではないか、と思う。

自分で自分の価値を作ったり守ったりすることをしなくていいのは恵みだと思う。主が愛し、主がここに置いてくださったから生きる。どんな状況でも、逆境の中でも、主は私と共にいてくださることを信じて、主を想って歩みたい。

ヨハネによる福音書 16章31節〜33節:
16:31 イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。
16:32 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。
16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
マチ.jpg

主を知って弱さを生きる。そのことを生きることこそが大きなチャレンジだと思う。それによって信仰と人格が練られていくのだと思う。神さまが居られるから私は今日も生きよう、明日も生きようと思う。

太志:
創世記 39章9節:
39:9 この家にはわたしよりも大いなる者はありません。また御主人はあなたを除いては、何をもわたしに禁じられませんでした。あなたが御主人の妻であるからです。どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」。

サムエル記下 12章13節:
12:13 ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。

自分の罪を考える時に、誰に何をしてしまったかだけではなく、神を思い、神に対する罪として考えることを思った。

ヨハネによる福音書 9章41節:
9:41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。

この聖句は、私自身の罪の在り方をよく捉えていると思う。人間的な思いや恐れによって、自分を良く見せようとしたり、自分で何とかしようとしてしまいがちだと思う。

マタイによる福音書 6章33節:
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

むしろ主を恐れて、神の国と神の義を求めて、生きたいと思う。

ヨハネによる福音書 16章33節:
16:33 「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。クマ.jpgしかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

この聖句には、読むたびに励まされ支えられている。世のなやみに対して主は勝利されているのだから、勇気を出して悔い改めて、主を想って生きて行きたい。
posted by 優子 at 18:50| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年07月30日

家の教会2017㉘ −サウル王の弱さ−

2017年7月30日(日) (2017第28回 家の教会)

IMG_6744.jpg9時20分〜10時15分

出席者 3名(with R &Y)
@ 初めのお祈り   優子
A 主の祈り
B 子どもの讃美歌  10番
        「ことりたちは」
C 聖書輪読     サムエル記
        13章1節〜15節
D お話       優子
E 聖歌       623番「いつかは知らねど」
F お祈り      一人ずつ

サムエル記13章1節〜15節:

13:1 サウルは三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた。

13:2 さてサウルはイスラエルびと三千を選んだ。二千はサウルと共にミクマシ、およびベテルの山地におり、一千はヨナタンと共にベニヤミンのギベアにいた。サウルはその他の民を、おのおの、その天幕に帰らせた。

13:3 ヨナタンは、ゲバにあるペリシテびとの守備兵を敗った。ペリシテびとはそのことを聞いた。そこで、サウルは国中に、あまねく角笛を吹きならして言わせた、「ヘブルびとよ、聞け」。

13:4 イスラエルの人は皆、サウルがペリシテびとの守備兵を敗ったこと、そしてイスラエルがペリシテびとに憎まれるようになったことを聞いた。こうして民は召されて、ギルガルのサウルのもとに集まった。

13:5 ペリシテびとはイスラエルと戦うために集まった。戦車三千、騎兵六千、民は浜べの砂のように多かった。彼らは上ってきて、ベテアベンの東のミクマシに陣を張った。

13:6 イスラエルびとは、ひどく圧迫され、味方が危くなったのを見て、ほら穴に、縦穴に、岩に、墓に、ため池に身を隠した。

13:7 また、あるヘブルびとはヨルダンを渡って、ガドとギレアデの地へ行った。しかしサウルはなおギルガルにいて、民はみな、ふるえながら彼に従った。

13:8 サウルは、サムエルが定めたように、七日のあいだ待ったが、サムエルがギルガルにこなかったので、民は彼を離れて散って行った。

13:9 そこでサウルは言った、「燔祭と酬恩祭をわたしの所に持ってきなさい」。こうして彼は燔祭をささげた。

13:10 その燔祭をささげ終ると、サムエルがきた。サウルはあいさつをしようと、彼を迎えに出た。

13:11 その時サムエルは言った、「あなたは何をしたのですか」。サウルは言った、「民はわたしを離れて散って行き、あなたは定まった日のうちにこられないのに、ペリシテびとがミクマシに集まったのを見たので、

13:12 わたしは、ペリシテびとが今にも、ギルガルに下ってきて、わたしを襲うかも知れないのに、わたしはまだ主の恵みを求めることをしていないと思い、やむを得ず燔祭をささげました」。

13:13 サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。

13:14 しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。

13:15 こうしてサムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギベアに上っていった。サウルは共にいる民を数えてみたが、おおよそ六百人あった。

お話:

今日はイスラエル王国の最初の王だったサウルについて考えたいと思います。紀元前10世紀といいますから、今から3000年前のお話です。サウルはベニヤミン族の出身で、背が高く美しい若者でした。神さまがサウルをイスラエルの王に立てたのはサウルが30歳の時でした。


僅かな武器しか持っていないイスラエル兵は、強い軍隊と武器を持っているペリシテ人と戦わねばなりません。サウルは3000人の兵を集めて戦いますが、サムエルに7日間待つように言われていたのに最後まで待つことができなかったのです。



ペリシテ人との戦いではイスラエルの民が勝ち目のないことを悟り、兵が次々と逃げていき、サムエルの到着が遅れ、いよいよ八方塞がりになり、怖くなって窮地に追い込まれてしまったサウルの心境は私たちにもよく分かります。 


でもこの時にこそ、神さまへの信仰を働かせねばならなかったのです。私は今もまた自らに言い聞かせる思いで話しています。希望が感じられなくなった時こそ、その人の信仰が本物であるかどうか試される時であり、信仰を奮い立たせる時なのです。


神さまは私たちの思いと願いを超えて、常に最善に成さるということを本当に知っていて信じているのであれば祈って待てたのです。


サウルはなぜ待つことができなかったのでしょうか。サムエルの言葉が信じられなかったからです。サウルは不安と恐怖にたまりかねて、そして、民や兵の心をつなぎとめようとの思いから、自分の考えで自分の力で打開しようしたのです。そのことをサムエルが「愚かなことをした」と言ったのです。


神を恐れず人の気持ちを恐れたのです。「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである」(箴言29章25節)のとおりです。


最後の一人になってしまっても、いえ、だからこそ神の言葉を信じて待たねばならなかったのです。「もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。」と、それがイスラエルの王であるサウルに求められていたことだったのです。


サムエルがサウルに王として選ばれていることを告げたとき、サウルは「わたしはイスラエルのうちの最も小さい部族のベニヤミンびとであって、わたしの一族はまたベニヤミンのどの一族よりも卑しいものではありませんか。どうしてあなたは、そのようなことをわたしに言われるのですか。」(9章21節)と謙虚な人でした。


ところが王になって最初のアモン人との戦いでの大勝利が躓きとなり、自分の力量によるものと己惚れて高慢になってしまいました。この変化は誰にも起こり得る人間の弱さであるゆえに、笑うに笑えないお互いの姿ですからよく理解して心に留めておかねばなりません。


余談になりますが昨今の政治界の出来事は、自分もまた同じ立場になれば犯しうる過ちであるのだろうなぁと自らを見つめながら見ていますが、延々と続く「言った言わない」状態では誰が嘘を言っているか断言することはできないとの思いを持ちながらも、人はどこまでも嘘をつき続けることができるのだなぁと人間の実相を興味深く見つめています。

彼らはどこまでも問題を複雑にするばかりです。もっと最悪はあるのです。今からでも、今こそ心を正して真実を語ることです。そのような人を神さまは赦し道を拓いて行ってくださるでしょう。


彼らは悔い改めのチャンスがあるのに機会を逃し続け、自分から逃げ続けています。その点、民進党の蓮舫さんは勇敢です。自らの足りなさを認め、何よりも自分を見つめたいとは何と素晴らしく、これからを注目したいと人物だと思いました。


さて、サウル王は自分の考えや感情で事をなしていったために神さまに見捨てられ、それ以後は何をしても祝福されませんでした。そのような時にこそ自分自身を見つめ直さなくてはいけないのに、その怒りをダビデに向けたのです。


そんなサウルにも神さまは悔改める機会を2度も備えてくださいました。しかし、相変わらず気がつかず、自分を変えることなく人生を終えました。王として在任したのは僅か2年間でした。


時には「あなたはわたしよりも正しい。わたしがあなたに悪を報いたのに、あなたはわたしに善を報いる。きょう、あなたはいかに良くわたしをあつかったか・・・」(24章)とか、「わたしは罪を犯した。わが子ダビデよ、帰ってきてください。・・・わたしは愚かなことをして、非常なまちがいをした。」(26章)と言うのですが、後悔はしても悔改めることはありませんでした。


口先だけの言葉にさえ聞こえますが、サウルの本心だったのだと思います。要は後悔と悔い改めるということは全く違い、神の導きがなくては悔い改めることはできないということであり、そしてまた私たちも同様に軽薄になってはいないかと自らを鋭く振り返らされました。


サウルやイエスさまを裏切り銀貨30枚で売ったユダの人生でさえ、神さまの御手の中にありました。ましてやユダはサウルが知らなかった神さまの「新しい約束」をも知っていました。


ユダはイエスさまと共に居たので何度も奇跡を見、教えを聴いていました。あとで後悔して銀貨を返しましたが、首を吊って死んでしまいました。そうではなくて、その時にこそ悔い改めることができたらよかったのです!


ユダの最期から遠藤周作の『悲しみの歌』と『海と毒薬』の主人公・勝呂のことを想起します。勝呂は戦時中に米軍捕虜の生体実験をした後ろめたさを感じ、戦後、戦犯の刑を終えてから人知れずに善良な開業医として生きましたが、最後は自ら首を吊って果てました。


悔い改めずして善行を積んでも罪から解放されることはないのです。そのままでは永遠の滅びであり天国へは行けないのです。それゆえに遠藤は死なせたのです。


私たちもサウルのように口先だけの後悔で終わってはいないでしょうか。日々神さまに探っていただいて悔い改めさせてくださいますように切に願います。


神さまは常に私たち誰にも悔い改めの機会を与えてくださっているのですから、悔い改めを拒んではなりません。多くの人がしているように先送りばかりしていると、多くの人のように命の終わりに間に合わなくなって悔い改めないまま死んでしまいます。


サウルの弱さは私たちの弱さゆえに今朝もう一度心に刻みたいと思います。私は今朝もう一度神さまのメッセージをしっかり受け取ります。


それは、どんなに心細くても、いつまでたっても希望が見えなくても、失望しないで神さまを信じ続けること。御心に叶う祈りであれば必ず成就してくださることを信じることをです。


もしも自分の罪に気がついているのに悔い改めの機会を逃していると、政治界の一部の人々のように、そのうち自分の罪に気づかなくなってしまいます。朝に夕に神さまとの交わりの時を大切にしようと思いました


附記:
15章には4回も「悔いた」と訳されている動詞があり、その「原語は『ナーハム』נָחַםで、本来は『慰める』という意味」の動詞を「悔いた、悔まれた」という意味で使われており、「神が『悔やまれた』とは異常なことである」との解説を読んで腑に落ちた一件があった。

「期待していたことが裏切られたという思いが全面に表されています。同じ動詞で『慰める』と訳される場合は、期待していた以上に力づけられたり、励まされたりした場合の表明です。『慰める』のも『悔やまれる』のも同じ感情の裏表ということがてきます」。
これはヘブル語に詳しくヘブル的視点で聖書を読んでおられる銘形(めいがた)秀則牧師(空知太栄光キリスト教会)の『牧師の書斎』より引用させていただきましたが、某牧師の驚くべき誤釈を思い起こさせました。

ノアの洪水、創世記6章6〜7節の「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる』と言われた。」を例に出して、「神は間違いをおかす」と無知蒙昧なことを説教として語った牧師(?)のことです。

このことを当人にお伝えすべきかどうかは未だ保留にしていますが、一度お目にかかるべきかどうかも自らを整えられながら祈って導きを待っているところです。

ヘブライズムの視点で読み解いてくださっていた東道男牧師が召天されてのち、銘形秀則牧師と出会えたことも不思議でなりません。求める者を決して捨て置かれない神の御手を感じずにはいられません。

「ヘブライズムは、神の視点からものごとを考えることです。つまり、神本位の思想です。人間中心的な視点を持つヘレニズムでは理解できないことが多々あると思います。主の祝福がありますように」。

銘形牧師より、ブログへの転載についても「どうぞ自由に転載してください。」と、6月初めにお許しをいただいています。

なお、話の中で触れた遠藤周作の『海と毒薬』『悲しみの歌』は、下記で取り上げていますので字の上をクリックしてください。
バッタの赤ちゃん.jpg
         この時期はバッタの赤ちゃんがいっぱい!
葉っぱをさわるとパラパラと音がしてあちこちでバッタが跳ねる。
ここにも4匹いる。大きさは1p〜1.5p。
礼拝のあとまもなく、ユキはおじいさんと京セラドーム大阪(試合は楽天vsオリックス)へ出かけた。

posted by 優子 at 12:30| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年07月23日

家の教会2017㉗ −幸いな人たち(山上の垂訓)−

2017年7月23日(日) (2017第27回 家の教会)

IMG_6649.jpg9時30分〜10時00分
出席者 4名
@ 初めのお祈り  優子
A 子どもの讃美歌  
19番
「天にいますわたしたちの父」
B 聖書輪読    
マタイによる福音書 
5章1節〜12節
C お話       優子
D お祈り      優子
E 讃美歌      354番「かいぬし我が主よ」
F 後奏       知子
マタイによる福音書 5章1節〜12節:
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。

5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8 心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10 義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。

5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

お話:

最初に今輪読した箇所に入る前の4章の終わりのところを読みます。

4:23 イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。

4:24 そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。

4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。

山上の垂訓 .jpgそして5章に入るわけですが、5章から7章は「山上の説教」と呼ばれている有名なイエスさまの教えです。真の幸福とはこの世的な人間的価値観の「幸福」とは対極にあり、神の視点で解かれています。

先ほど輪読した1節から12節に書いてあるのは「私たちの心の在り方」で、5章13節から48節は「対人関係としての新しい律法」を、6章1節から18節には「宗教生活」を、6章19節から34節には「経済生活」について、そして7章には「雑多の問題」について教えておられます。

「心の貧しい人たち」とは、新約聖書の原典であるギリシャ語を直訳すると「霊において貧しい人々」という意味ということですから、神との関係において貧しいということです。

即ち、「心が狭い」とか「卑しい」というようなものではなく、自分の正しさや能力でしようとしないで神に依り頼んで生きる人のことです。神さまからその時々に必要な心の糧を与えていただいて生きている謙虚な人のことです。

「天国」とは死んでから行くところではなく、神が支配されている「神の御国」の意味です。従いまして神の教えに従って生きる人には地上で生かされている時から天の国に在るのです。

「悲しんでいる人たち」とは、生老病死はもとより人生途上で経験する不条理な悲しみ、また自己と対峙し自己洞察できる人間のみが知る自己の罪を知り、それらの悲しみを悲しむ人のことです。

この世(世界)で成功者になろうとするならば、他者を押しのけてでも先を行かねばなりません。弱肉強食の世界を勝者として生き抜くには、他者を排除し圧力をかけ、策を弄し神経をすり減らしての日々を生きていかねばなりません。

彼らはこの世の権力や富を誇り、力で支配しようとする者たちであり、その対極にあるのが「柔和な人」と言えるかと思います。少なくとも柔和な人は成功者にはなれないでしょう。しかし神さまは「彼らは地を受け継ぐ」と、最後に勝利を与えてくださるのです。

「義に飢え渇わいている人」とは、神の前に正しく生きたいと励んでいる人のことです。しかしながら、この世は不正や欺瞞などあらゆる悪があふれています。

日本の故事に「清濁併せ呑む」という言葉がありますが、これは善でも悪でも分け隔てなく受け入れることが度量の大きいことであり、それを「良し」とする考え方を比喩したものです。

では私たちはいかに生きるべきでしょうか。正義の基準を曲げることはしません。しかし、理解し合えそうにないとわかったら、必要以上の争いをしないように聡明に境界線を引くのが幸いです。

「憐れみ」とは「他者への同情の念。人間に対する神の真実な愛の感情」の意味です。人は自分の蒔いたものを刈りとります。悪意の人にも悪を返さないで憐み深くありたいと思います。

「未来の報いを信じて相手から報いを求めない高尚な心で生きる。しかし、『正当なる報いは神必ずこれを与え給うのであって、人はまた当然にこれを期待することができる』とある」からです。

 「心の清い人たち」とは心の純粋な人のことです。自己中心に陥りやすい私たちお互いは、行為に先立つ動機に不純なものが混じっていないかと常に吟味すべきと思います。心が平安であるかどうかで示してくださいます。

年を取ると「平和」という言葉の重さをしみじみ考えさせられます。自己の立場を少しでも主張すれば衝突します。私たちの生活においても国家間においても同じで、主張し合うならば共に破滅するしかないのです。

「平和をつくり出す人たち」とは、平和な関係を作ろうと励む人のことです。「人類みな兄弟」と、私の知らない人、どこか遠くの誰かを愛したりゆるすのは容易なことですが、職場の人、あるいは近所の人や親族だったらどうでしょう。

自分を害する日々関わる困った人をゆるすのは至難です。しかし、私たちは平和を作り出していかなければならないのです。

神さまは常に正しく評価してくださることを思い出して一線を画するのです。神の心を自分の心とする時、自己主張や自己弁護から解放され神に委ねることができるのです。

「義のために迫害されてきた人たち」とは、神の正義を求めたために悪く言われたり攻撃されたりすることです。これまで数え切れない多くの人々が迫害を受け殉教しましたが、天国において大いなる報いがあるのです。

正しく生きようとする人々が受ける「迫害は一時であって天国は永遠」であり、「義のために責められるものの幸福はこの点に有している」と黒崎幸吉は語っています。

最後に文語訳聖書では、全て「幸いなるかな」で始まっており、この翻訳の方が原文に近いといいます。

神が天から「幸いなるかな」と呼び掛けてくださっています。これこそが地上のどんな災害や苦難からも決して奪い取られることのない幸いなのです!

「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。 
幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。 
幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。 
幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。 
幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。 
幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。 
幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。 
幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり」。


IMG_6655.jpgユキは来る日も来る日も朝から蝉を追いかけている。今年からおじいさんが居なくても、一人で飽きずに遊んでいる。
今日は礼拝の後、ユキと二人で蝉とりに出かけた。珍しく曇っていたので暑くなかったが、帰宅したらすぐにシャワーでさっぱりしないではいられなかった。IMG_6657.jpgこの木には10個以上の抜け殻があった。自然の神秘!

IMG_6658.jpg
この穴は何だろうと思っていたら
蝉が出てきたあとだと教えてくれた。

IMG_6661.jpg
捕まえてはしばらくして逃がしてやる優しいユキ。
「ありがとう、ユキちゃん!」って
蝉は元気に飛んで行った。

IMG_6664.jpg
私にも何度も捕らせてくれた。
ニイニイゼミとクマゼミを捕ったよ!
2015年3月の右肩腱板断裂の痛みも殆ど感じない。
感謝!

IMG_6665.jpg
数年ぶりにお目にかかったMさんは、
ユキを一目見て思い出してくださった。
「私はわからなかった」とお連れ合い。
お連れ合いは腰を破裂骨折して入院されていたという。
「大きくなったねー」「大きくなったねー」
何度も驚いてくださった。
これからはお健やかな日々でありますように。

IMG_6674.jpg
「あっ、結婚してる! 早く帰ろ!」
クマゼミの雌を捕り、そこへ雄を入れたら
ひっついていた。

IMG_6679.jpg
「オスが産卵を促している」とユキ。
(ほんまかいな)
「難しい言葉を知っているんやね」。
このあとしばらくするといなくなっていた。


posted by 優子 at 16:27| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年07月16日

家の教会2017㉖ −失望せずに祈れ(やもめと裁判官)―

IMG_6459.jpg2017年7月16日(日) 
     (2017第26回 家の教会)
8時〜8時30分
出席者 2名(With R)
@ 聖書輪読   
   ルカによる福音書 
                     18章1節〜8節
                     11章5節〜13節
A お話     優子
B お祈り    一人ずつ

ルカによる福音書 18章1節〜8節:
18:1 また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。
18:3 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。
18:4 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、
18:5 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。
18:6 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。
18:7 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。
18:8 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。

お話:
今朝の主題は「祈り」であり「失望しないで祈れ」です。
「神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官」とは、一言で言えば「不正な裁判官」で、お金持ちや社会的地位のある人のためには喜んで裁判するけれど、ここに出て来る「やもめ」のように貧しく立場の弱い人のためには何もしない裁判官のことです。

そんな裁判人がようやく裁判してやろうという気持ちになったのは、「これではいけない」と反省したからでも、正義感や義務感からではなく、お金のためでもありませんでした。やもめの女性がしつこくて面倒をかけるからでした。

この譬えを話されたイエスさまが、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。」 と肯定的に言われ、「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。」と、神さまを不正な裁判官と重ねて見ておられるのは少々驚きですね。

しかし、このお話の要点は1節の「失望せずに」というところです。新共同訳聖書では「気を落とさずに」と訳されています。

私たちも「危険から守ってください」とか、「健康を支えてください」と祈りますが、私たちの祈りは人間的な幸せを求めるのではありません。何よりも神の最善が成るようにと神の導きを願います。

しかしながら長いあいだ祈りつつ主に在って励み続けても、あまりにも状況が変わらない時は気を落としてしまうことがあります。時には形式的な祈りになり、気持ちが入らない時もありますね。

それでもやはり神さまを無視して生きることができず、私たちが祈り続けるのは全てのことを神が支配されていることを信じているからです

現実世界は「神を恐れず人を人とも思わないような」悪の力が支配しているのですが、気を落とさずに絶えず祈ることが大切なのです。そして祈りながら自らの内面が変えられていくのです。

こんな悪い裁判官でさえ、やもめがうるさいからと裁判したのです。「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。神はすみやかにさばいてくださるであろう。と主イエスは言われるのです。

「人の子が来るとき」とは神が裁いてくださり神の国が成就される時です。だからその時まで悪が支配する世の中にあっても失望しないで絶えず祈り続けなさいと教えられたのです。その模範がこのやもめの姿なのです

この内容は「友にパンを3つ貸してください」という話を思い出させます。聖書を読んだことのない人でも耳にしたことがある「求めよ、さらば与えられん」という有名な箇所です。

ルカによる福音書:11章5節〜13節を読んでみます。

11:5 そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、
11:7 彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。
11:8 しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう
11:9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであ
ろう
11:10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである
11:11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。
11:12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。

「求めよ! 捜せ! 門を叩け!」と、ますます熱心に諦めないで求め続けること、神に祈り求めることがいかに大切であるかということです。

私たちは失望してしまいそうな悩み苦しむ現実の中に在っても、いえ、そのような時だからこそ、神さまは時々ご自身の存在をチラッと見せてくださいます。

例えば拙著『メメントドミニ』最近の記事では、もう10年も前のことですが井置牧師との不思議な出会いでした。

あるいはまた、国連事務次長の中満泉さんのご家族は、私たちが10年来通わせていただいていた家庭集会でご一緒だった方の娘さんであり、泉さんが良き働きをされていることを、神のご支配を垣間見せてくださるのです。

それらのことを通して「わたし(主イエス)だ、元気を出しなさい」と励ましてくださり、気を落とさずに絶えず祈る者に示してくださるのです。

私たちは弱いですから気持ちが沈みもします。だからこそ互いに人生や経験を分かち合える家族や友との交わりは本当に大切なのです。

昨日は「ブルンナー読書会」を通して下村さんと実に良き交わりの時をもちました。まさに地上のオアシスでした。

インターネット時代になって私たちはますます忙しくなってしまいましたが、「忙」の字が示すように忙しくしていると心を亡ぼしてしまいます。
しかし、その文明の利器を上手に使って、月に一度メールやスカイプで交信し合うのは非常に大切なことだと気づかされました。

「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。
これについて黒崎幸吉はこう述べています。

「人間の世界における信仰の将来は決して楽観することができない。イエスも常に信仰の前途につき消極的思想を持ち給うた」。

IMG_6460.jpg昨日学んだブルンナーの説教からもこのことを強く感じています。自らの信仰を強めてくださるように祈りたいと思います。
祈りの中で導かれて、まもなく葬儀に参列する良輔に「伝道の書」7章2節のみことばを贈りました。
「悲しみの家にはいるのは、
 宴会の家にはいるのにまさる。
 死はすべての人の終りだからである。
 生きている者は、これを心にとめる」。

今朝は主の御臨在を豊かに感じるひと時でした。神さまが祝してくださったことがわかります。感謝します。

今日のユキのサッカー教室は15時半からですが夕方追記:知子が間違って思い込んでいたとのこと。中学校まで一人で行って、誰も居ないので帰って来ました)、礼拝は無理強いして出席させるものではありません。私はもう家族への気遣いをしずぎないで、「神第一」の生活を選び取っていきたいと思います。
posted by 優子 at 10:22| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年07月09日

家の教会2017㉕ ダビデの告白 −罪の赦しと罪の刈り取り―

IMG_6299.jpg今朝はサッカー教室までに早朝礼拝を捧げ、そのあと、ようやく、初めて、ユキは克己した。
明日の漢字テストに備えて1学期の新漢字を復習。しかし、たった7分間で家庭学習は終わった。


IMG_6273.jpg2017年7月9日(日)
(2017第25回 
家の教会)

7時5分〜7時35分
出席者3名(ユキと良輔) 

@ 初めの祈り  優子
A 聖書輪読   サムエル記下 12章1節〜25節
B お話     優子
C 讃美歌    243番 「ああ主のひとみ」
D お祈り    1人ずつ

サムエル記下 12章1節〜25節:

12:1 主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。
12:2 富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、
12:3 貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。
12:4 時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」。
12:5 ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。
12:6 かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。

12:7 ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、
12:8 あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。
12:9 どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。
12:10 あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。
12:11 主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう
12:12 あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。
12:13 ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。
12:14 しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。
12:15 こうしてナタンは家に帰った。

さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。
12:16 ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食して、へやにはいり終夜地に伏した。
12:17 ダビデの家の長老たちは、彼のかたわらに立って彼を地から起そうとしたが、彼は起きようとはせず、また彼らと一緒に食事をしなかった。
12:18 七日目にその子は死んだ。ダビデの家来たちはその子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。それは彼らが、「見よ、子のなお生きている間に、われわれが彼に語ったのに彼はその言葉を聞きいれなかった。どうして彼にその子の死んだことを告げることができようか。彼は自らを害するかも知れない」と思ったからである。
12:19 しかしダビデは、家来たちが互にささやき合うのを見て、その子の死んだのを悟り、家来たちに言った、「子は死んだのか」。彼らは言った、「死なれました」。
12:20 そこで、ダビデは地から起き上がり、身を洗い、油をぬり、その着物を替えて、主の家にはいって拝した。そののち自分の家に行き、求めて自分のために食物を備えさせて食べた。
12:21 家来たちは彼に言った、「あなたのなさったこの事はなんでしょうか。あなたは子の生きている間はその子のために断食して泣かれました。しかし子が死ぬと、あなたは起きて食事をなさいました」。
12:22 ダビデは言った、「子の生きている間に、わたしが断食して泣いたのは、『主がわたしをあわれんで、この子を生かしてくださるかも知れない』と思ったからです。
12:23 しかし今は死んだので、わたしはどうして断食しなければならないでしょうか。わたしは再び彼をかえらせることができますか。わたしは彼の所に行くでしょうが、彼はわたしの所に帰ってこないでしょう」。

12:24 ダビデは妻バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。
12:25 そして預言者ナタンをつかわし、命じてその名をエデデアと呼ばせられた。

お話:

先週は詩篇51篇からダビデの悔い改めについて考え、ナタンにより罪に気づいて悔い改めたダビデに注目しました。ナタンの話はダビデ自身の話であるにもかかわらず、ダビデは全く気づいていませんでした。このところに焦点を当ててもっと考えてみたいと思います。

「罪を放置しておくと、私たちの良心は麻痺していき、やがて悔い改めることさえできなくなっていく」 というのはどういうことなのでしょうか。

社会の出来事に対して正しく批評できるのに自分のことになると全く見えない人がいます。これが私の目下の疑問であり関心事でもありますので、この問題意識をもって聖書に聞きたいと思います。

これについて考えるにあたり、もしも自らを除外しているのであれば滑稽なほど迷妄な愚者であります。
私自身もそうなってはいないだろうかと常に祈りつつ神に探っていただき、祈りの友の言葉に耳を傾けながら吟味しているつもりですが、自己欺瞞に陥りかけた時にはどうか忠告していただきたいと思います。

さて、かつて古代イスラエルは一夫多妻制が許されていましたから、王であるダビデには700人(側女を入れると1000人)もの多くの妻がいたといわれています。そのダビデがバテシバというたった一人の妻しかもたないウリヤからその妻を取り上げたのです。まさにナタンの譬え話はこのことでありました。

最初にそのあたりをもう少し深めたいと思います。
ダビデはナタンの話は自分のことであるとは全く気がついていなくて、「その人は死ぬべきだ」とまで激怒したのです。「実はこれこそが霊的に破たんした者の姿である」と。

ザアカイのところでもお話ししましたように、律法的には4倍の償いをすればよいのであり死刑にまでする必要はないのです。

ところが、ダビデが「死刑だ!」とまで叫びました。この激怒ぶりはダビデは無意識であっても良心の咎めを自分の心の中に持っていた、良心の叫びであると理解できるかもしれません。不可思議なる人間の実相でありましょう。
それはまた自分のことになると全く見えないのに、その自覚もないから恥ずかしくもなく容赦なく他者を責めるのと同じ姿であることがわかります。

そして今朝はその続きを考えてみたいと思います。即ち、悔い改めたあとのダビデのことです。
先週取り上げたサムエル記12章15節は段落の関係で「こうしてナタンは家に帰った」までとしましたが、15節はその言葉の後に、「さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。」と続きます。

その前の13〜14節を読んでみますと、
「ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪をおかしました』。ナタンはダビデに言った、『主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう。』」とあります。

こんなことを言われたら「ええ? どうして?!」と驚かないでしょうか。私は驚くのですね。憐れみ深い神さまなのにどうしてと。

確かに神さまは悔い改める者を即刻即座、そこに居ながらにして赦してくださり、罪については完全に処理してくださって死後も天国に入れてくださいます。

しかし、パウロがガラテヤ人への手紙(6章7節)にも書いているように、「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」と、罪の結果としての刈り取りをしなくてはなりません。

分かりやすく言えば、例えば犯罪を犯した者は刑罰を受けねばならないのと同じです。ただ大きく違っている絶対者である神さまの赦しというのは、罪の痕跡も残さずに完全に忘れてくださるということです。

ダビデはバテシバとウリヤに大きな罪を犯しました。そのことは即ち神の主権を侵したのです。ゆえに「わたしは主に罪をおかしました」と、深く悔い改めたのです。

そしてその後のダビデはバテシバとの結婚生活を大切にしました。しかし、姦淫した時の子は、「さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になっ」て、死んでしまいました。

主が子どもを打たれたから死んでしまったというのですが、その子に何の関わりがあるのかと拘りたくなります。事実若い頃の私は神義論が最大のテーマでした。

しかし、このような深淵なる一切の出来事は神の領域のことであり、詩篇131篇の「及びもつかない大きなことや、奇(くす)しいことに、私は深入りしません。まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。」のみことばを受容するに至りました。12年間の苦悩を経てです。
              
子が死んでしまったのはダビデにとっては罪の刈り取りですが、深く悔い改めたダビデは自然体で受け入れることができたのです。これは神の御心であると平安の内に受容できたので断食を解いて一歩を踏み出せたのです。

そんなダビデの罪の刈り取りの中にあっても神さまは善いことをなさるお方です。その次に男の子が生まれました。「主はこれを愛され」て祝福されました。

ダビデはその子を「ソロモン」と名付けました。「ソロモン」という名前の由来は「シャローム(平和)」で、「エデデア」というのは「ソロモン」の別名で「主に愛されている」という意味です。

ソロモンといえば「栄華を誇ったソロモンでさえ」と言われるように、サウル、ダビデに続く古代イスラエル王国の第3代目(在位は紀元前971年 〜 紀元前931年頃)の王になり、イスラエルの最盛期を築いて、エルサレム神殿を築きました。

かつては姦淫の関係だったバテシバとの間に生まれた子どもを、神さまが祝福してくださりダビデの後継者とされたのです。

マタイ伝1章のイエス・キリストの系図の中に、「エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、」(マタイ伝1章6節)と、バテシバの名前があるというのは考えられないことではないでしょうか!

ここに神さまは憐み豊かな方であるということが如実に表れています。ダビデは罪の刈り取り、懲らしめを受けましたが、その中にも神の恵みがあったということを忘れないでいましょう! ダビデの過ちは私たちも犯しうるのです。


先週読みました詩篇51篇5節に、「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。」とあるのは、ダビデの母がどうのこうの言っているのではなく人間の罪を言っているのです。

神が創造された人間は神の栄光のために生きるはずだったのに、人類最初の人間であったアダムが誘惑に負けて罪を犯したために人間は罪の力に支配され、神から離れて自分勝手に生きるようになってしまいました。これが聖書のいう「罪」です。

罪の刈り取りについては、10節に、「あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう」と預言されたことも実現されていきます。

ダビデはウリヤを剣で殺したから、剣がダビデの家から離れなくなるというのです。事実、ダビデの長子アムノンが三男アブシャロムによって殺され、後にアブシャロムも後に殺されます。

12章11〜12節の、「わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。 あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである」という予言も実現します。

ダビデの子アブシャロムが王宮の屋上で、ダビデがエルサレムに残していった側妻(そばめ)10人と全イスラエルの目の前で寝ました。

このように13章以降には、ダビデが犯した罪の影響が自分の息子たちに及んでいくのがに記されています。罪の結果は伴うのです。

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」。(ガラテヤ人への手紙 6章7節)

ダビデは深く悔い改めて再び神の主権の中で生きていきます。真に悔い改めたならば、罪の刈り取りの時も主の平安がある。必ず平安のうちに通らせてくださることを確信します。

私たちもダビデのように罪を指摘されたら素直に神さまに悔い改めたいです。その生き方こそが最高の人生です。

イエスさまは言われました。
「おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう」。
            (ルカによる福音書 12章2〜3節)

腐りきった現政治界にも神の導きを祈るばかりです。
今社会問題になっている彼らの言動を思うと、最大の権力者だったダビデゆえに、ダビデの悔い改めは見上げたものだと思わないではいられません。

16時30分追記:

P_20170709_102049.jpgユキはサッカーのあと昼食を終えて再び外出した。

2時半ごろ遠雷が聞こえ、まもなく土砂降りの雷雨、一時停電もした。ユキは遠雷を聞いていたのにA君といつまでも遊んでいたために、帰り始めた矢先に雷雨になって駅前のお店で雨宿りをさせてもらっていた。


P_20170709_111750.jpg

しばらくしてA君のお父さんが迎えに来てくださり、自転車共に乗せてもらって送ってきてくださった。

そして今、ユキは夢の中。

シャワーでさっぱりしたら眠り始めた。


posted by 優子 at 12:18| 家の教会 | 更新情報をチェックする