2018年04月22日

「家の教会」雑感

4-22-4.jpg今朝は町内会の集まりに、午後はユキが昨日に続いてサッカー教室のため、今日の礼拝は聖書輪読と祈り会で終わりました。

輪読箇所はルカによる福音書17章、知子とユキの3人でしたが、誘えば良輔も参加したと思います。同じ部屋に在席していました。

私はこの箇所から、私たちの信仰がからし種ほどに小さくても、本物の信仰ならば神さまの力が信仰を通して働くというメッセージを受け取りました。

4-22-5.jpg昨日は日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会の帰りの電車でペン友と話していた時、統計によると信仰に導かれた人が生涯信仰を失わない人は4分の一だと聞き、なるほどなぁと考えさせられました。というのは信仰生涯を全うするということの重さ、恵みの大きさ、また、至難さを思うからです。

そのとき私は内村鑑三のこんな言葉をお話ししたことでした。

「私は少年のころ洗礼をうけクリスチャンになった。その時から今まで信仰生活を続けてきた。そして伝道するようになった。かえりみて、信仰的には一向進歩したとは思わないが、今まで信仰生活をやめなかったこと、伝道をやめなかったこと、それが感謝である」。

著名な神学者(旧約聖書学者)の故浅野順一牧師も語っています。
「私もそうだと思います。信仰者が曲がりなりにも生涯変わらず信仰の道を歩んでゆくのは、それは、たいへんなことだと思います」と。

4-22-3.jpg内村鑑三や浅野順一のようなりっぱな人物と自らを同列に並べて申すのは口幅ったいことですが、私もまた感謝するのです。

そして、「家の礼拝」を始めて1年ほど経った頃から強く感じますのは、聖書を読み、祈っている時に最も神さまが働かれるということです。

それに関連して、今冬高校時代のテキストの一冊だった浅野順一の『旧約聖書入門』を読み直していた時に、そのことを裏付けてくれるような内容が書かれていました。

★ 聖書はできるだけゆっくり、考え考え読むために音読するのもよかろうし、またできれば数人で輪読するのもよい。輪読から自分自身で会得するところは非常に大きいものがある。

★ 聖書の参考書ばかりを読んで聖書そのものを読まぬことは、聖書の勉強からいって外道ともいうべきものであろう。

★ 旧約のうち何か一書について注解を用いて丹念に勉強することも結構であるが、注解書にとらわれる必要はない。注解書は参考にしかすぎぬのであって聖書を読み、それを理解する者は自分自身だからである。

★ 聖書との関係は直接的でなくてはならず、説明つきでなければ、と言うのではだめです。(略) 牧師の説教や注解は参考にしか過ぎません。それ以上を注解や説教に期待しますと、期待されるほうで困ってしまいます。聖書は自分で読むべきであります。

★ 自分の理解や解釈をあまり主観的な勝手気ままなものにしないために、参考書を用いる程度に止めておけばよい。

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礼拝は抱えている問題を持ってままで神さまの御前で安らいで、日常のすべての事から解放されて神を讃美し、新たなる希望という力と導きをいただく時。礼拝は時間があるからするのではなく、時間を聖別して神にささげる時。

ユキは高学年になり思春期に入っていく年齢に達しましたので、人生とは何か、人は何のために生きるのか、また、生きる上で最も大切なものは何かを、イエスさまのみことばによって共に考えながら進めていきたいと思います。

4-22-1.jpgついでながら浅野順一は、エレミヤにおける「真実」の意味とは、単にまことであり正直だというばかりではなく、「現実に対して目を覆わないこと。現実がどんなに辛く、どんなに嫌であっても、それをはっきり見る正直さと勇気を失わないというものである」ということに深く頷かされました。


昨日の日本クリスチャン・ペンクラブ例会の学びで、大田正紀先生が語られた「証しとしての文学ー三浦綾子」の要諦は近々お分かちしたいと思います。

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附記:聖書輪読会のあと、夫と食料の買い出しに行き、ついでにデジタルカメラを買った。これまでの20倍ズームから40倍になり、遠くのオオバン(水鳥)もこんなに鮮明に写せて感激したが、大きさも重さも2倍になったのが難点。この画面の5枚は全て新機種で撮ったものである。

私がデジタルカメラを使い始めたのは遅く2009年春からである。1台目は2009年4月から5年間、2台目は20014年・ユキの幼稚園卒園式の時から4年間、今も利用しているが24000枚以上撮っているので今回のセールで買った。

午後3時過ぎ、義母の世話と町内会の用事を終えて、久しぶりに夫婦で歩いた。夫は昨日、岡寺の牡丹とシャクナゲが観たいからと独りで飛鳥へ出かけて石舞台も見学していた。

「独りで行って家族連れを見てさみしくなかった?」
 笑って頷く。
「家庭円満で独りだったらさみしくなくても、不和で独りは辛かったんとちがうん?」
 夫はやっぱり笑って首を横に振った。
「だからあかんねん。。。hopelessやなぁ」

posted by 優子 at 23:31| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年04月15日

家の教会2018O −ヒゼキヤが失ったもの―

4-13-14.jpg2018年4月15日(日) 
       (2018第16回 家の教会)
9時20分〜10時20分
出席者3名(with良輔&ユキ)
@初めのお祈り
A主の祈り
B讃美歌    199番「わが君イエスよ」
C聖書輪読     列王記下20章1節〜19節
Dお話     優子
Eお祈り    1人ずつ
F頌栄     讃美歌541番「父、御子、みたまの」
知子は講演会参加のために全日外出。
ユキに先週のホセアの話もしたので長くなった。
列王記下20章1節〜19節:
20:1 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。アモツの子預言者イザヤは彼のところにきて言った、「主はこう仰せられます、『家の人に遺言をなさい。あなたは死にます。生きながらえることはできません』」。
20:2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて主に祈って言った、
20:3 「ああ主よ、わたしが真実を真心をもってあなたの前に歩み、あなたの目にかなうことをおこなったのをどうぞ思い起してください」。そしてヒゼキヤは激しく泣いた。
20:4 イザヤがまだ中庭を出ないうちに主の言葉が彼に臨んだ、
20:5 「引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる、わたしはあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう。
20:6 かつ、わたしはあなたのよわいを十五年増す。わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、わたしの名のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守るであろう』」。
20:7 そしてイザヤは言った、「干しいちじくのひとかたまりを持ってきて、それを腫物につけさせなさい。そうすれば直るでしょう」。
20:8 ヒゼキヤはイザヤに言った、「主がわたしをいやされる事と、三日目にわたしが主の家に上ることについて、どんなしるしがありましょうか」。
20:9 イザヤは言った、「主が約束されたことを行われることについては、主からこのしるしを得られるでしょう。すなわち日影が十度進むか、あるいは十度退くかです」。
20:10 ヒゼキヤは答えた、「日影が十度進むことはたやすい事です。むしろ日影を十度退かせてください」。
20:11 そこで預言者イザヤが主に呼ばわると、アハズの日時計の上に進んだ日影を、十度退かせられた。
20:12 そのころ、バラダンの子であるバビロンの王メロダクバラダンは、手紙と贈り物を持たせて使節をヒゼキヤにつかわした。これはヒゼキヤが病んでいることを聞いたからである。
20:13 ヒゼキヤは彼らを喜び迎えて、宝物の蔵、金銀、香料、貴重な油および武器倉、ならびにその倉庫にあるすべての物を彼らに見せた。家にある物も、国にある物も、ヒゼキヤが彼らに見せない物は一つもなかった。
20:14 その時、預言者イザヤはヒゼキヤ王のもとにきて言った、「あの人々は何を言いましたか。どこからきたのですか」。ヒゼキヤは言った、「彼らは遠い国から、バビロンからきたのです」。
20:15 イザヤは言った、「彼らはあなたの家で何を見ましたか」。ヒゼキヤは答えて言った、「わたしの家にある物を皆見ました。わたしの倉庫のうちには、わたしが彼らに見せない物は一つもありません」。
20:16 そこでイザヤはヒゼキヤに言った、「主の言葉を聞きなさい、
20:17 『主は言われる、見よ、すべてあなたの家にある物、および、あなたの先祖たちが今日までに積みたくわえた物の、バビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはないであろう。
20:18 また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られ、バビロンの王の宮殿で宦官となるであろう』」。
20:19 ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「せめて自分が世にあるあいだ、平和と安全があれば良いことではなかろうか」と思ったからである。
20:20 ヒゼキヤのその他の事績とその武勇および、彼が貯水池と水道を作って、町に水を引いた事は、ユダの王の歴代志の書にしるされているではないか。
20:21 ヒゼキヤはその先祖たちと共に眠って、その子マナセが代って王となった。
お話:

4-13-17.jpgこの箇所はヒゼキヤの病気とバビロンから見舞いに来た使者の物語です。「そのころ」というのは6節から類推して紀元前701年のエルサレム包囲のことと関連するということです。

旧約時代においては寿命は神に従う生き方と深い相関関係があり、長寿は神の大きな祝福であると考えられていました。ゆえに39歳にしてヒゼキヤの死の病の原因は深刻です。

ところが18章5節〜7節には正反対のことが書かれています。

18:5 ヒゼキヤはイスラエルの神、主に信頼した。そのために彼のあとにも彼の先にも、ユダのすべての王のうちに彼に及ぶ者はなかった。

18:6 すなわち彼は固く主に従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。

18:7 主が彼と共におられたので、すべて彼が出て戦うところで功をあらわした。彼はアッスリヤの王にそむいて、彼に仕えなかった。

ヒゼキヤは主に在って敬虔な姿勢で、王として自国内外の危機管理に励みました。歴代誌下32章7・8節にもあるように、敵の脅しにも屈せずに民を励ます信仰の人でした。

「心を強くし、勇みたちなさい。アッスリヤの王をも、彼と共にいるすべての群衆をも恐れてはならない。おののいてはならない。われわれと共におる者は彼らと共におる者よりも大いなる者だからである。彼と共におる者は肉の腕である。しかしわれわれと共におる者はわれわれの神、主であって、われわれを助け、われわれに代って戦われる」。民はユダの王ヒゼキヤの言葉に安心した。

しかしいつしか熱心に励んだゆえの高ぶりの罪に捕らわれてもいたのです。「私は主に在って多くの善を成した」というヒゼキヤの驕りを砕くために、神さまは苦悩を与えられたのですが真剣に祈るヒゼキヤの願いを叶えてくださいました。

このことから神さまが決定を下した後でも覆されることがあり、ヒゼキヤは神さまに祝福された人物であったことがわかります。

主から与えられた癒しのしるしは、「アハズの日時計を十度あとに戻す」というものでした。「アハズの日時計」とは、アハズがソロモンの神殿の西側に設けた王の入口の階段のことで、これを日時計として用いていました。

「十度」とは「十段」のことで、時を戻すというのは大いなる奇跡です。ヒゼキヤは苦悩の中で神さまの恵みに触れて真に神さまを知り、その時はじめて苦悩を通して感謝に至ったのです。

「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。これは、あなたがわが罪をことごとく、あなたの後に捨てられたからである」と。(イザヤ書38章17節)

ところがこのヒゼキヤが病を癒された喜びで迂闊になったのでしょうか。当時はまだ小国でありましたがバビロンから来た見舞いを喜んで、倉に納めてあるものを全て見せたというのです。つまり国の内情を見せたということですが、何よりも自らの功績を誇るという、神さまへの信頼を忘れた愚行をしでかしてしまったのです。

これを「気のゆるみ」とか「軽率な行為」と言うのでしょうが、これが私たち人間の実相なのです。神さまに死の宣告をされたにも関わらず癒されたのに、後に迎えるバビロン捕囚という裁きを告げられたのです。

その時のヒゼキヤの言葉に驚きます。自分が生きている間が平和で安全ならば良いとは、かつて信仰をもって国を治めていたヒゼキヤの魂は完全に失ってしまっています。

まさに「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(ルカによる福音書9章24節」とイエスさまが言われたとおりです。

そして、ヒゼキヤの子マナセ(ユダ王国14代目)は、偶像礼拝を復活させ悪行を尽くし、その罪がユダ王国滅亡の原因となりました。

ヒゼキヤから多くの教訓を学び取りたいと思います。人生が順調な時ほど要注意なのです。驕りが人生を取り返しのつかないことにしてしまいます。神の言葉に従う時に祝福が伴うことを忘れてはなりません。

なお、エルサレムの城壁の中に造った地下水道(ヒゼキヤ・トンネル)は1880年に発見されました。今から2700年前にヒゼキヤがアッシリヤの脅威から水源を確保するために造ったものです。

posted by 優子 at 16:41| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年04月08日

家の教会2018N ―ホセアの苦悩と神の愛―

4-8に使用.jpg2018年4月8日(日) 
       (2018第15回 家の教会)
13時15分〜14時5分
出席者2名(with良輔)

@初めのお祈り
IMG_2958.jpgA聖書輪読        ホセア書11章1節〜11節
Bお話     優子
C分かち合い
Dお祈り    1人ずつ
F聖歌     402番「丘に立てる荒削りの」
     
ホセア書11章1節〜11節:
11:1 わたしはイスラエルの幼い時、
これを愛した。
わたしはわが子をエジプトから呼び出した。
11:2 わたしが呼ばわるにしたがって、
彼らはいよいよわたしから遠ざかり、
もろもろのバアルに犠牲をささげ、
刻んだ像に香をたいた。
11:3 わたしはエフライムに歩むことを教え、
彼らをわたしの腕にいだいた。
しかし彼らはわたしにいやされた事を
知らなかった。
11:4 わたしはあわれみの綱、
すなわち愛のひもで彼らを導いた。
わたしは彼らに対しては、
あごから、くびきをはずす者のようになり、
かがんで彼らに食物を与えた。
11:5 彼らはエジプトの地に帰り、
アッスリヤびとが彼らの王となる。
彼らがわたしに帰ることを拒んだからである。
11:6 つるぎは、そのもろもろの町にあれ狂い、
その門の貫の木を砕き、その城の中に彼らを滅ぼす。
11:7 わが民はわたしからそむき去ろうとしている。
それゆえ、彼らはくびきをかけられ、
これを除きうる者はひとりもいない。
11:8 エフライムよ、
どうして、あなたを捨てることができようか。
イスラエルよ、
どうしてあなたを渡すことができようか。
どうしてあなたをアデマのように
することができようか。
どうしてあなたをゼボイムのように
扱うことができようか。
わたしの心は、わたしのうちに変り、
わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている。
11:9 わたしはわたしの激しい怒りをあらわさない。
わたしは再びエフライムを滅ぼさない。
わたしは神であって、人ではなく、
あなたのうちにいる聖なる者だからである。
わたしは滅ぼすために臨むことをしない。
11:10 彼らは主に従って歩む。
主はししのほえるように声を出される。
主が声を出されると、
子らはおののきつつ西から来る。
11:11 彼らはエジプトから鳥のように、
アッスリヤの地から、はとのように急いで来る。
わたしは彼らをその家に帰らせると
主は言われる。

お話:
かつてダビデやソロモンの時代に栄えたイスラエル王国は、ソロモンの死後に北王国イスラエルと南王国ユダに分裂しました。ホセアはイザヤと同時代の紀元前8世紀に北イスラエル王国で用いられた預言者です。

王国は分裂していたとはいえ物質的には非常に繁栄していました。そのような時にホセアは神に背くならばイスラエルは滅びると預言したのです。エフライムとはユダヤ12部族の中にある種族の名前で、北イスラエル王国の指導的な部族だったので北イスラエル王国の別名でもあります。アデマとゼボイムというのはソドムとゴモラと共に滅ぼされた町の名前です。

ホセア書を開くと、神さまはホセアに淫行の妻ゴメルと、淫行によって生れた子らを受け入れて愛せと言われるのです。「この国は主にそむいて、はなはだしい淫行をなしているからである」と。

なぜこのようなことをと思いますが、それは神さまに背を向け続けるイスラエルを思う神ご自身の悲しみと痛みをホセアに知らせるために、淫行を続ける女を妻にせよと求められたのです。そして、ホセアは神の言葉に従ってゴメルを受け入れ、ホセア自身の家庭の悲しみと苦悩を通して神の愛を深く知るに至るのです。

ホセアは、神さまがご自身に反逆するイスラエルを見捨てないで愛し続けておられることを深く知ったのです。ホセアと道徳的な罪をくり返す女・ゴメルとの物語は、まさに神さまとイスラエルの関係を物語っています。

愛がなければ苦しみはなく、愛が強ければ強いほど苦悩するのです。私達は善良な人を愛するのは容易であり何の苦痛も伴いませんが、信頼を裏切り悪を成し続ける者を愛すのは至難です。

神さまにも強い心の痛みがあるというのは、神さまが私たちを愛してくださっているからであり、信仰者にとってはそのことをいかに切実に感じることができるかで歩み方が違ってくるのですね。

神さまの愛の背後には苦悩と真実の究極の愛があるということを、ホセアは実体験から学びました。どんなに私たちが神さまの愛を裏切り続けても、神さまは私たちが本心に立ち返ることを待ち続けてくださるお方であるということをです。

ホセアの苦悩は預言者に限らず、神に用いられる人はここまで苦悩の中を通されるのだということも強く感じました。そしてゴメルの姿は、神さまの御心を悲しませてばかりいる私たちの姿でもあるのだなぁと思いました。

ホセアはゴメルをゆるしました。真実の赦しは神さまにしかできませんが、ホセアの視点から言えば、神の教えに従ったゆえに愛が勝利したということも私が受け取った神さまのメッセージでした

苦難に耐え抜くエレミヤの様子が伝わってくる言葉を想起させられます。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む」。(新改訳聖書 哀歌3章22〜24節)

ホセアが自らの結婚生活を通して深められて知った神の愛は、私達の苦悩をも耐えせしめるものです。神さまは私たちの弱さをよくご存じの上で、日々闘っている私たちと共にいて、共に苦しんでくださり、私たちを支え導いてくださっていることがこれまで以上にわかりました。

イスラエルはアブラハムの信仰ゆえに神さまに愛されて、奴隷になっていたエジプトの地から脱出させてくださり、最後に約束の地カナンに導かれました。ところが偶像礼拝に毒されて神さまを完全に忘れてしまい、北イスラエル王国の偶像信仰のバアル礼拝をしていたのです。

神さまはこれまでにも何度も預言者をとおして警告されたのですが、注意されていることを心にとめなかったのです。私たちも罪を犯し続けると良心のとがめを感じることもなくなり、こんなことをしていたらダメだとか、正しく生きたいとも思わなくなってしまって悔い改めることができなくなってしまいます。

エフライムも神さまに何度も呼ばれているのに神さまを無視しつづけたのです。先ほど読んだ箇所には、神さまがエフライムを裁こうか赦そうかと苦しんでおられるのがわかります。裁くことのできる唯一の神さまが苦悩しているのです。

そしていつまでも向きを変えないエフライムに変わって、神さまが向きを変えられたのです。神さまの愛の背後にどんなに心の痛みや苦しみがあったことでしょう。

私たちも人生の途上で理屈に合わない出来事に「なぜ!」と絶叫したくなる闘いを経験しますが、苦悩を受け入れることができた時に初めて主イエスの十字架の愛がわかり始めるのではないでしょうか。そして、主イエスの十字架は私の贖罪のためだったとわかった時に絶叫は止み、信仰を強められて新しい歩みが始まるのです。

しかし、いや、そしてそのあとも、私たちは何度も何度も失敗し、そのたびに悔い改め、何度も何度も神に立ち返りながら生涯を歩み切るのです。ああ主よ、あなたの愛に応えるために、これからもあなただけを頼りに歩いて行きますから、どうか最後まで支えお導きください。


近隣宅のチューリップ。
2018大浦さんちの春.jpg附記:今年は自治会の班長当番で、自治会総会に出席のため午後の礼拝となった。
思い起こせば2008年に班長を、続いて2009年は副会長を務めて8年ぶりの参加である。
総会のあと旧班長さんから引継ぎを受け、昼食後すぐに自治会年会費(7200円)の集金に回った。不在宅は後日に。

先週の異常な暖かさは夢のよう。28日の掃除は膝までの半パンと半袖のTシャツ一枚でやっていたのに、昨日から寒い冬に逆戻り。しかし、チューリップも花の盛りを過ぎていく。

4-4-11時24分.jpg
チューリップの季節もチャッピーのいない悲しみがこみ上げてくる。

2013_4_26E38381E383A5E383BCE383AAE38383E38397E381A8E38381E383A3E38383E38394E383BCE381A8.jpg
2013年4月26日

E38381E383A3E38383E38394E383BCE69C80E5BE8CE381AEE698A5.jpgこれはチャッピー最後の
2015年春。


posted by 優子 at 19:00| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年04月01日

家の教会2018M ―死は勝利にのまれた―

IMG_2477.jpgイースター
おめでとうございます!
4月1日にイースターを迎えるのは62年ぶりだそうです。

イースター.gif
IMG_7369.jpg2018年4月1日      
     (2018第14回 家の教会)

10時20分〜11時

出席者 4名

奏楽:知子


@最初のお祈り 優子

A主の祈り

B讃美歌21   575番「球根の中には」

C聖書輪読   マタイによる福音書 28章1節〜10節

        コリント人への第一の手紙 15章55節〜58節

Dお話     優子

Eお祈り    1人ずつ

F聖歌     172番「墓の中にいと低く」

G頌栄     讃美歌21・29番「天のみ民も」


マタによる福音書 28章1節〜10節:

28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。

28:2 すると、大きな地震が起った。それは主の使いが天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
28:3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
28:4 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
28:5 この御使いは女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
28:6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
28:7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。
28:8 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。
28:10 そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。
お話:
IMG_7324.jpg金曜日に十字架で死なれたイエスさまは、アリマタヤのヨセフが用意した墓に埋葬されました。
そして今朝、誰よりも早くマグダラのマリヤが友人と墓に駆けつけた時、墓を塞いでいた大きな石が転がされて空っぽになっていました。

それを聞いた使徒たちはびっくりしたことでしょう。この絵はユージーン・バーナンドが、墓に駈けつけるペテロとヨハネの様子を描いたものです。

ユージーン-バーナンド.jpg

イエスさまがあのような惨たらしい死を遂げられて、使徒たちは絶望と悲しみの苦悩に打ちひしがれていたことでしょう。ところがイエス・キリストは復活されたのです。墓にはご遺体がなく空っぽだったと告げられたのですから、彼らは混乱した驚きの中で墓に向かって走り出したことでしょう。

私たちもそこにいた彼らの気持ちを共有したいです。彼らは走りながらイエスさまが3日目に甦ると仰っていたことを思い出して、「ああ、やっぱり真実だったんだ! 主は甦られたんだ!」と喜びを感じ始めたと思うのです。

とにかく墓に向かって走っているペテロとヨハネの複雑な心境が見事に描かれています。彼らはしっかりと前方を見据えているのがとても印象的で、これは信仰者でしか描けない絵だと見入ってしまいます。

イースターは、私たちが受けるべき罪の身代わりになって十字架にかかって死んでくださったイエスさまが、父なる神さまによって呼び出されて命を与えられたことをお祝いする日です。だから「イースター、おめでとうございます」なのです。

27-2.jpgイエスさまに命をお与えになった父なる神さまは、私たち一人ひとりの命をかけがえのないものと愛してくださっていますから、私たちが命の終わりを迎える時も永遠に生きることを願っておられます。

そのためには罪を赦していただかなくてはなりません。イエスさまの十字架によって私の罪は赦されたと信じる人は、自分のいのちの終わりを迎えても永遠に生かされる希望を与えられています。

死は圧倒的な巨大な力で容赦なく人を飲みこみます。科学という人知では死は全ての終わりです。この世に誕生した者は誰一人例外なく死んでいきます。

しかし、キリストは復活されました。死が敗北したのです。イエスさまを信じる者も死の苦しみを通りますが、既に死は征服されてイエスさまと結ばれていますから、世の終わりの日に甦らせてくださるのです。

「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
死のとげは罪である。罪の力は律法である。
しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
      (コリント人への第一の手紙 15章55節〜58節)

4-1-1.jpg私たちは賜ったいのちを感謝し、その喜びをイースターエッグで表現してお祝いします。
卵は命の象徴であり、ひよこが卵の殻を破って出てくるように、イエスさまも死に勝利してよみがえられた意味がこめられています。クリスチャンにとってはクリスマスよりも復活祭の方がはるかに大いなる祝福であり意味深い記念の日なのです。

イエスさまを信じる人にとっては既に神さまの永遠の中で生かされているのですから、 尚更に与えられたいのちを大切に、楽しく喜んで生きるのです。

イエスさまが復活してくださったことを感謝します!
イエスさまがいつも私たちと共にいてくださっていることを感謝し、今からイースターのお祝いのテーブルを囲みましょう。
イースター おめでとうございます!
IMG_2479.jpg附記
今朝5時半過ぎに太志君(次女の伴侶)から無事帰宅したとのメール受信。感謝!
まもなくアメリカ東部もイースターの夜が明ける。神の祝福が豊かにありますように。

posted by 優子 at 15:42| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年03月25日

家の教会2018L ―受難週を心して歩む―

24-10.jpg2018年3月25日

   (2018第13回 家の教会)

12時15分〜12時50分

出席者:3名


@ 初めのお祈り 

A 主の祈り

B 聖書輪読    イザヤ書53章

C お話      優子

E お祈り     1人ずつ

F 讃美歌             聖歌400番、讃美歌21の306番

               「君もそこにいたのか」

ユキは昨朝に続いて今朝もサッカー教室に。昨日の午後は祖父と野球観戦に、今日は友人と野球。
今朝(10時40分〜11時15分)夫と二人で聖書を読み、語り、祈り合い幸いな時をもった。しかもこの時に大きな気づきがあったことを「附記」に記した。

イザヤ書53章1節〜12節:

53:1 だれがわれわれの聞いたことを

信じ得たか。

主の腕は、だれにあらわれたか。

53:2 彼は主の前に若木のように、

かわいた土から出る根のように育った。

彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、

われわれの慕うべき美しさもない。

53:3 彼は侮られて人に捨てられ、

悲しみの人で、病を知っていた。

また顔をおおって忌みきらわれる者のように、

彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、

われわれの悲しみをになった。

しかるに、われわれは思った、

彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、

われわれの不義のために砕かれたのだ。

彼はみずから懲しめをうけて、

われわれに平安を与え、

その打たれた傷によって、

われわれはいやされたのだ。

53:6 われわれはみな羊のように迷って、

おのおの自分の道に向かって行った。

主はわれわれすべての者の不義を、

彼の上におかれた。

53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。
53:8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。
53:9 彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。
53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。

 お話:

24-6.jpgイースターの46日前の「灰の水曜日」から始まったレント(受難節)も今日受難週迎えましたので、3月4日にユキと読んだ「苦難のしもべ」をもう一度取り上げました。イエスさまが突き進んで行かれた日々を深く心にとめながら、私たちも一日一日を確かに歩いて行きたいからです。

イザヤが預言していたように、イエスさまはみんなが喜ぶ救い主ではありませんでした。人々が求める威厳に満ちた王でもなく、悪人をやっつけてくれるスーパーマンのようでもなく、それどころか馬小屋で生まれ、飼い葉おけのベッド、果ては十字架につけられてしまいました。

ローマ兵がイエスさまを捕まえた時も、ユダが口づけしてイエスだと教えたるほどでした。兵隊と申し合わせしていたのです。蔑まれ見るべき姿もなかったからです。ルカ伝22章47・48節にこうあります。

十二弟子のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。

今朝のみことばにある「悲しみ」とは主に精神的苦痛のことです。主イエスは神の御ひとり子でしたが、私たちのように人間の姿になって地上に生まれてくださいましたから肉体の痛みも敏感でした。しかも十字架に磔にされて死ぬというのは悶絶する苦痛を受けてくださったのです。私たちの苦痛をわからないお方ではないのです! 

「病を知る」とは、イエスさまが病身だったというのではなく、病に対して同情できる心を持っておられるという意味です。イエスさまは悲しみや痛みや病を知っておられても、決して暗く悲しそうな顔で生きておられたわけではなく、生き生きと過ごされました。

即ち、神であられたけれど人間の悲しみや苦痛を十分理解できるお方であるというのです。だから私たちを慰め励ましてくださるのです。ラザロの死を悲しむ家族を見て「イエスは涙を流された」ということからもわかるように、同情してくださる優しいお方です。

それゆえに悲しみや痛みなどそれら一切の根源である私たちの罪の解決のために、私たちの身代わりになって神の裁きを負ってくださったのです。

私たちキリスト者の信仰の土台はイエスさまの十字架と復活ですから、イエスさまの最期の1週間は特に大切に過ごしたいです。

復活されるまでのイエスさまの日々を追ってみますと、

今日の日曜日は、昼頃にエルサレム入城され、翌月曜日の早朝、実らないイチジクの木(ユダヤ人のこと)を呪い、また、神殿(宮)から商人を追い出されました。火曜日パリサイ人(ユダヤ教の指導者)と論争し、やもめの献金を褒められました。

水曜日はベタニヤでマリヤよりナルドの香油を注がれ、それはイエスさまの死を暗示するものでした。木曜日は最後の晩餐、そして弟子たちの足を洗われました。ユダの裏切り、ゲツセマネの祈り、捕縛されます。

そして金曜日の朝、鶏が鳴く頃にペテロの裏切り。ピラトの裁判で死刑宣告され、鞭打たれてゴルゴダの丘へ。午前9時に十字架につけられ、午後3時に絶命、埋葬されます。

「苦難の僕」に預言された悲しみ、痛み、病、これら一切のことを十字架の上で担ってくださいました。この私のためにです。あなたのためにです。私たちは主イエスと出会ったときのことを何度も思い出しながら、今日からの1週間を過ごしていきましょう。そして、4月1日は復活してくださったイエスさまに心からの感謝を申し上げましょう。

ペテロの第一の手紙2章22節〜25節:

2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。

2:23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。

2:24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。

2:25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである


24-2.jpg附記:私とイエス・キリストとの出会いは6回に分けて、「イエスさまとの出会い −わが生涯は改まりぬー」に刻んでいます。

今朝、夫との時に語りながら「私は子ロバだったんだ!」と大きなことに気づかされました。
「イエスさまとの出会い」に記した私の苦悩、主はその根源である罪に気づかせて解放してくださるために、私を導き、母と父のためにも、3人きょうだいで一番親を悩ませ(中・高時代は勉強に打ち込めず)、わがままでダメな私を導き出してくださったのだとわかりました。
主は私を救うためだけではなく、過酷な病気になる母のために、母に寄り添う父のために私を立ててくださったのでした。

イエスさまは子ロバに乗ってエルサレムに入られたのは、もちろん明確な目的を持ってロバを求め、ゼカリヤの預言(9章9節)にあった通り子ロバに乗られたのですが、マタイ伝21章3節の「主がお入用なのです」のお言葉に神さまからインスパイアされたのです。

「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。
                      (21章2・3節)

24-7.jpg
posted by 優子 at 15:04| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年03月18日

家の教会2018K  ―クリスチャン生涯の秘訣 「わたし(イエス・キリスト)に繋がっていなさい」―

春爛漫のブログ、感謝です。
今週は、東日本大震災、そして原発事故をめぐって、核のゴミを残し原発を海外に輸出までしている罪を指摘くださり、私たちが声をあげなくてはならないことを呼びかけてくださり、感謝です。ほんとうにその通りだと思います!

家の教会で、ユキちゃんも、しっかり主の身体のたてあげに加わっていらっしゃること、心強くほほえましく思い、ヤコブ書のみことばに聴きいらせていただきました」。

sakura.jpgこれは先週初めに敬愛する祈りの友よりいただいたお言葉です。メールをいただくたびに必ず励ましのお言葉と共に御言葉をいただき、そのたびに私は姿勢を正され、心を強くされて導かれますことを心から感謝しています。

知子は講演会で朝から全日外出。1か月以上ぶりに良輔も加わり3人で礼拝を守りました。
17-3.jpg2018年3月18日(日) 
   (2018第12回 家の教会)

11時〜11時40分
出席者3名(withユキ&良輔)

@初めのお祈り
A主の祈り
B讃美歌       30番「朝風しずかにふきて」
C聖書輪読    ヨハネによる福音書15章1節〜17節
Dお話      優子
Eお祈り     1人ずつ
F頌栄      讃美歌541番「父、御子、御霊の」
ヨハネによる福音書15章1節〜17節:
15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
15:3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
15:4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
15:6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
15:8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
15:10 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
15:11 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
15:17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためである。
お話:
今輪読した箇所は「クリスチャン生涯の秘訣」であり、イエスさまの教えの奥義です。私も感謝に溢れる時や、その反対に落ち込んでいる時も思い出しては口ずさむ御言葉です。

この箇所は2年前の礼拝で1節から5節を取り上げ、ぶどうの木の剪定の話にも重きをおいてお話しましたが、今日はイエスさまに繋がっていること、イエスさまにとどまることをしっかり心に憶えたいと思います。

イエスさまに繋がるということはどんな意味でしょうか。信じたらそれでよいというのではなく、祈り、聖書を読んでイエスさまに喜んでいただけるように生きるということです。その歩みを続けていけば、必ず実を結ばせてくださると約束されているのです。

ところでユキにも写真を見てもらったけれど、2月の終わりに池のそばに植わっている柳の折れた枝を見て、イエスさまが仰ったことをしみじみ思わされました。

そもそも柳は「柳に雪折れなし」と言われているほど、折れそうで折れにくい木ですから人為的な力が加えられて、つまり誰かが折ったのではないかと思うのですが、あの状況は人間にとりましては希望を失ったときや挫折したとき、罪を犯したときの姿だと思いました。

私たちもまたイエスさまに繋がっていても、困ったことが次から次に起こったり、苦しい状態が長い年月続くと希望を失ってイエスさまから引きずり降ろされそうになります。私はあの折れた柳の枝を見た瞬間にそんなことを想いました。

柳.jpg折れてしまった枝には栄養はいかず命は絶たれてしまいます。冬芽は春が来てもそのままで、そのうちすっかり枯れてしまうでしょう。
この写真は今日の柳です。3時頃からすっかり曇空になったので薄暗いですが、新芽は日に日に伸びているのに、下に垂れた枝に葉は出ていません。

この折れた枝のように、私たちもイエスさまに繋がっていなければ「光の子」として生きていけません。

しかし、大切なことは、万が一信仰から離れて道を迷ってしまっても悔い改めて神さまのもとに帰り、本心に立ち返るならば赦して迎えてくださいます。再び繋がってくださることを忘れないでください。

私たちは「神の家族」と呼ばれる信仰の友と交わり、悩みや喜びを分かち合い、共に励まし合うことがとても大切です。そして共に信仰生涯を全うさせていただきましょう。天国で愛する家族や友たちと再会できますように。

私は天の御国で再会する時に、家族から「あっ、ママがいない!」ということにならないように、主イエス・キリストに誠実を尽くして生きていきたいです。ただただ主の憐みにおすがりして。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない」。

1ミリの花.jpg附記:
昨日の「ブルンナー読書会」は明日更新したい。

posted by 優子 at 20:28| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年03月11日

家の教会2018J ―試練と誘惑は紙一重―

10-11.jpg7年前の今日14時46分、三陸沖でマグニチュード9の日本の観測史上最大規模の地震が起き、津波が多くの人命を奪い去っただけではなく、福島原子力発電所の大事故は国際原子力基準レベル7の深刻さで、今も事態は全く収束していません。

試算通り30〜40兆円という天文学的な費用を使えば30年後に収束させることができるのでしょうか。

将来、今生まれたばかりの赤ちゃんや小学生も大人になって事故処理の任務を担ってもらわねばならないことを思いますと悲しくてなりません。しかも収束できたとしても核のゴミは永遠に残るのです。

福島の人々は人間が生きるために必要な根源的なものを全て失いました。風評被害で事足りる情況ではありません。このような取り返しのつかないことになっても日本は何も変わりませんでした。原発を再稼働させ原発輸出するのです。
人の命よりも優先しなければならないものは何もありません! 私たちも声を出しましょう。
8-2.jpg2018年3月11日(日) 
   (2018第11回 家の教会)
14時25分〜45分
出席者 3名(with 知子とユキ)
@ 最初のお祈り   優子
A 主の祈り
B 子どもの讃美歌  74番「神のお子のイェスさま」
C 聖書輪読
D お話       優子
E お祈り   一人ずつ
F 讃美歌   512番「わが魂の慕いまつる」

IMG_1222.jpg★ユキは今朝、「あっ、今日はおうちの教会や!」と目を輝かせて言ったという。ところが、今朝のサッカーで疲れて私の話の途中から睡魔に襲われていたのでショート礼拝になってしまいました。ユキのお祈りの番になると眠ってしまっていました。

ヤコブの手紙 1章2節〜4節、12節〜16節
1:1 神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。
1:2 わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。
1:3 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
1:4 だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。


1:12 試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。  
1:13 だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。
1:14 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
1:15 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
1:16 愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
コリント人への第一の手紙 10章13節:
10:13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
お話:
今日開いた箇所は、ヤコブが試練の中に在る人々に励ましを書いている手紙です。私たちは耐え難い苦しみや悲しみに出会った時、どのように処して行くでしょうか。

試練を乗り越えるためには神の知恵を必要としますから、信仰により与えられる主の平安をいただいて意志を働かせて励みます。

しかしそれでも時に悶々とした気持ちを経験しますが、私たちは主イエスさまの贖いを信じて信頼するのです。試練は神さまから与えられた訓練であり、信仰を強められる時でであると!

「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」。

この第一コリント10章13節の御言葉(みことば)はノンクリスチャンにもよく知られています。

では「逃れる道」とは何でしょう。神さまの導きをいただいて見つけるのですが、私は全てに先立って祈ることが逃れる道であると思っています。

神さまは私たちの祈りに対して応答すると約束されています。祈ることができるというのは何という特権でしょうか。

ところで、ヘブル人への手紙12章6節に、「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。」とありますが、私は今よりも信仰の浅かった頃は素直に受け取ることができない時もありました。

次から次へと試練がやってきた時に、信仰の先輩方は「神さまに愛されているんやね」と私を励ましてくださるのですが、それは励ましにはなりませんでした。

私は主に従っているのに「どうして?!」と神さまに聞き、「あなたはいつまで悪をなす人を思い通りにさせておくのですか?!」と憤りをぶつけるほど過酷な年月が続きました。

しかし、今改めて気づかされたことは、そんな時も悩むべきことを正しく悩んでいたと申しますか、非道なことをする人に悩まされはしましたけれど、どんなに理不尽で不条理なことであっても、「私はいかに生きるのか」というスタンスだけは崩すことはありませんでした。そのことも主が私の魂を守り支えてくださっていたからです。

そのおかげで両親や私が苦悩のどん底に貶(おとし)められても試練から逃げないで、しっかり受け止めることができていたのです。

渦中にある時、非道なことをする人は良心のかけらもないのだろうかと思うほど苦しみましたが、私は無意識ではあっても、それらの苦悩(試練)を訓練と受け止めていたからではないだろうかと思うのです。

そして同時に思いますのは、現実から逃避し問題と向き合わないと試練は誘惑に変わると思うのです。私は若い頃よりも最近は誘惑を感じることがあり、まさに試練と誘惑は紙一重であることを実感させられています。

私たちは皆誰ひとり例外なくこの弱さを持っていることを忘れてはなりません。そうです、私たちは試練だけではなく誘惑もまた自分の力では乗り越えられませんから、主イエスに助けを求めて誘惑を振るい落とし、み言葉と祈りによって打ち勝っていかねばなりません。

「試練」と「誘惑」という言葉が、ギリシャ語では共に ” Peirasmos “(ペイラスモス)という一つの言葉であるということも深く納得できます。

どんなに困ったことが起きても問題と向き合わない人たちに共通しているのは、常に相手が悪いと、いつまでたっても自己洞察しないと言うのが顕著です。

いつまでもそのような生き方を続けていると悔改めの機会を失ってしまいますから、私たちはその人たちのために祈り続けなければなりませんね。

私たちお互いも常に主イエスを見失わないように、毎日あったことを何でもイエスさまにお話しするのを忘れないで、今週も雄々しく日々の務めを果たしていきましょう。

 附記:
▼ユキは昨朝に続いて今朝もサッカー教室。母親に迎えに行ってもらったはいいが1時間経っても帰って来なくて心配していたら、自宅に着いてからボールを中学校に忘れてきたのを思い出して再び中学校へ向かったという。

知子は3回も往復しなければならなかったとは忍耐が要ったことだろう。礼拝後本格的に眠ってしまったユキは、先ほど宿題の作文の下書きを終えて只今入浴中。

▼良輔は大和まほろば相撲連絡協議会主催の「相撲ゆかりの地と古刹をめぐる」ウォーキングに単身参加した。約15キロ歩いて13時頃帰宅。

▼私は昨日今日と知子と二人で1時間歩いた。何年ぶりのことだろう。

これは昨日、小学校でのサッカーの様子。
この日は2回シュートを入れた!
IMG_4082.jpg


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IMG_4087.jpg
ユキ、たくましくなったね。
今年1月の身長は140.1p、体重は30.4s。
共に平均値で、今では背は高い方ではない。

E6BA96E58299E4BD93E6938DE291A0.jpgこれはサッカー教室に入った2回目の日。
1年生の夏休みはこんなにかわいかったんやね。


posted by 優子 at 19:35| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年03月04日

家の教会2018I ―苦難の僕(しもべ)―

IMG_0951.jpg2018年3月4日(日) 
       (2018第10回 家の教会)
12時30分〜55分
出席者 2名(with ユキ)
ヒイラギの花
@主の祈り
A子どもの讃美歌  讃美歌21・60番「どんなに小さい小鳥でも」 
B聖書輪読  イザヤ書53章全章
Cお話   優子
Dお祈り  1人ずつ
E聖歌   402番「丘に立てる荒削りの」
★ユキはサッカー教室へ。
知子はユキを見送って講演会出席のため全日外出。
イザヤ書53章全章:
53:1 だれがわれわれの聞いたことを
信じ得たか。
主の腕は、だれにあらわれたか。
53:2 彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
53:3 彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。
53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。
53:8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。
53:9 彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。
53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。
お話:
イザヤは紀元前742年から701年まで南ユダ王国で活躍した預言者です。イザヤは貴族出身で女預言者と結婚して2人の息子がいたと伝えられており、イザヤが活躍した40年間の預言活動は「イザヤ書」と「列王記下」に記されています。

イザヤ書には、古代イスラエルの滅亡と回復、そしてメシヤ(救い主)来臨の預言が書かれていますが、イザヤ一人によって書かれたのではありません。
1章から39章を「第一イザヤ」、40章から55章までを「第二イザヤ」、56章から66章を「第三イザヤ」と呼ばれており、全章に一貫して流れているのはメシヤ誕生の預言、即ち、イエスさまの十字架の罪の贖いの預言であり、神の救いの業(わざ)が記されています。

先ほど輪読した53章はあまりにも有名な「苦難の僕(しもべ)」と呼ばれている箇所であり、旧約聖書の中で頂点を極めるような大切なところです。

この時、イスラエルは紀元前586年にバビロンによって滅ぼされてバビロンの捕囚になり、イスラエルの歴史上最も苦悩の時代でした。

IMG_1003.jpgその700年後にイザヤの預言が成就したのです。今、私たちは受難節を過ごしています。主イエスさまがわたしの身代わりになって、あなたの身代わりになって十字架で死んでくださったことを覚えながら(意識しながら)過ごしてきましょう。

今朝もう一度これまでの罪を深く悔い改め、贖われた復活の命に生きる者としてくださったことを感謝しましょう。

IMG_0992.jpg知子の体調は疲れ気味ですが、主の恵みの中で「光の子らしく」歩んでいます。
ユキもまた聖日礼拝を重んじて自ら席を共にします。そして、遊びに行く前にまず週末の宿題になっている作文の下書きをしてから野球に出かけました。先週からのことです。(^0^)

posted by 優子 at 16:07| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年02月25日

家の教会2018H −克己して励む―

IMG_0749.jpg2018年2月25日(日) 
       (2018第9回 家の教会)
14時30分〜15時
出席者 3名
奏楽:知子

@ 主の祈り
A 子どもの讃美歌  88番「雄々しくあれ」
B 聖書輪読
C お話       優子
D お祈り      1人ずつ
E 讃美歌332番  「主はいのちを与えませり」
コリント人への第一の手紙 3章1節〜9節:
3:1 兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。
3:2 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。
3:3 あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。
3:4 すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。
3:5 アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。
3:6 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。
3:7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。
3:8 植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。
3:9 わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。
お話:
今日取り上げた個所は受難節とは直接関係ないところですが、自らの成長を願って今一度立ち止まって考えたくて取り上げました。

パウロは2回目の伝道旅行でコリントを訪れ、1年半滞在して教会の基礎を築きました。そしてパウロが去ったあと、アポロがコリント教会の指導者になりました。

ところがその後、コリント教会の信者たちがパウロ派とアポロ派に分かれて争っているのです。そのような霊的に全く成長していない信徒たちに、パウロは「あなたがたは肉の人(生まれたままの人)に留まっているではありませんか」と、彼らの分派争いを嘆いています。

2章14節にはこうあります。
「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」。

パウロはコリントの地にイエス・キリストの十字架の福音の苗を植えました。でも植えただけでは苗は枯れてしまいます。水をやらないと成長しません。

そこでパウロが去ったあと、アポロが苗に水をやりました。パウロもアポロも共に尊い働きをしましたが、成長させてくださったのは神さまです。

IMG_0643.jpgイエスさまのお言葉にもありますね。
「夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と。
パウロもアポロも神さまのご用を尽くした尊敬される人たちですが、彼らもまた主イエスさまによって罪を赦されて救われ、新しい命に生かされた人たちです。

そして私たちもまた神さまが私たちの頑なな心を打ち砕いてくださって、イエスさまの十字架の福音は自分のためだったと受け入れて信じさせてくださいました。

そこから真の人生が始まったわけですが、私たちはどうでしょうか。肉的な生き方になってはいないかと深く探られます。

何も分派の争いをしているわけではありません。自己主張しようとあくせくしているわけでもありませんが、霊的にスローダウンする時があります。

時には体の不調が原因するときもありますが、私の場合は熱心に導きを求めることもなく口先だけの祈りになっていることが多いようです。

神さま抜きの生活は霊的な命取りになってしまいます。真実の祈りと聖書に親しむ時間を取りながら歩んでいくとき、神さまは豊かに平安と希望を与えてくださいます。

人間は呼吸しなければ生きていけないように、クリスチャンにとって祈りは呼吸と同じです。祈りの時をもたないクリスチャンは仮死状態といえるでしょう。

祈る人は祈られていることを知っています。それと同じように祈らない人は祈ることができなくなってしまいます。祈りは神さまとの対話です。言葉にしたくないことも何でもお話しするのです。そして、耳を澄ませて神さまの思いを聴くのです。

そのためには独りの時間がどうしても必要です。神さまと二人だけの密な時間は楽しい時です。祈りは場所や時間は限定されませんから、多忙な人は通勤電車の中で、また私のように体調が良い時は散歩に出るのもよいでしょう。私にとって散歩は祈りの時です。

分派争いする信徒たちは御名(みな)による祈りが形骸化していたのだと思います。聖霊に助けられて切に導きを求めて祈るならば、必ずや主に在って一つになって神さまに委ねることができたでしょう。

私たちもまたイエスさまに救われて新しい命に生かされているのですから、常にそのことを覚えて霊的に成長していきたいです。それを期待されているお互いであることを覚えて受難節を過ごしたいと思います。

聖書を味わい、祈り、心の糧をいただくことがなければ、主の恵みを味わうことができないことを覚えて、克己して新しい週を過ごしていきたいと思います。

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2月20日の青い空とロウバイ。
posted by 優子 at 22:20| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年02月18日

家の教会2018G ―灰の水曜日―

IMG_0620.jpg2018年2月18日(日)  
     (2018第8回 家の教会)
9時45分〜10時15分
出席者 3名(with 知子&ユキ)

@ 主の祈り
A 讃美歌   312番「いつくしみふかき」(ユキの選曲)
B 聖書輪読  創世記2章4節〜7節、3章19節
C お話    優子
D お祈り   1人ずつ
E 頌栄    讃美歌21・29番「天のみ民も」 知子の演奏です!
    歌詞:「天のみ民も、地にあるものも、父・子・聖霊なる神をたたえよ、              とこしえまでも。アーメン」。
  創世記2章4節〜7節、3章19節: 
2:4 これが天地創造の由来である。
主なる神が地と天とを造られた時、
2:5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。
2:6 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。
2:7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

3:19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
あなたは土から取られたのだから。
あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
お話:
IMG_0689.jpg今日も−1.4度と冷たい朝でしたが、陽ざしに春の気配を感じます。そして2月半ば頃になると主の復活を思い起こします。
イースターの日は毎年何月何日と決まっているわけではなく毎年変わります。「春分の日の後の最初の満月から数えて最初の日曜日」と決められているからです。

そして、イースター前の6回の聖日を除いた40日間を受難節(レント)と言い、カトリックでは「受難節」を「四旬節」と言います。「四旬」は「40日」の意味だからです。
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この期間はイエスさまの十字架の苦難を思いながら、自らの罪や歩み方を振り返りながら悔い改める特別な時です。

イースターの46日前からレントが始まるのでレントの第一日目は常に水曜日と決まっており、その日を「灰の水曜日」と呼びます。

今年のレントは先週の14日から始まりました。2月14日と言えばバレンタインデーですが、四旬節の始まりである「灰の水曜日」と重なりました。

世の中はバレンタインデーで浮き上がり、心を静めて質素に過ごす「灰の水曜日」の対極にあるので、「1945年以来初めて2つの暦が重なった」とボストンのロイター通信が報じていました。

さて、「灰の水曜日:Ash Wednesday」の「灰」について考えてみたいと思います。「灰」と聞いてまず思い起こすのは、今朝輪読した箇所にありますように、塵から造られた私たちはいつか必ず塵に帰る身であることを思います。

また、ヨブが「それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。」(ヨブ記42章6節)と言っているように、旧約時代から苦悩や悲しみの悔い改めの祈りをする時は灰を被る習慣があり、「灰」は悔い改めの象徴であることを思い起こさせます。

カトリック教会では、「あなたはもともと土から生まれたので、まもなく土に返る。だから罪を悔い改めて、イエスの教えに立ち返りなさい。」と祈り、司祭が一人ひとりの額に灰を少量の水で溶いたもので十字を記すということです。

その灰は、前年の受難週(復活祭の1週間前)の「棕櫚(しゅろ)の主日」に使った棕櫚の枝を燃やした灰です。信徒は灰で記された額の十字をすぐには拭き取らないでそのまま教会を後にするそうです。

私たちプロテスタント教会では「灰の水曜日」の儀式はしませんが、私たちも心を静めて深い悔い改めと祈りの時を過ごしてイースターに備えたいものです。

それは即ち、イエス・キリストによる罪の赦しと主イエスが与えてくださる永遠の命がいかに尊く、そのことにより儚(はかな)い人生を意味あるものとされたかを自覚し、その喜びと感謝をささげるためです。

ところで「40」という数字は聖書によくでてくる意味深い数字です。「40」と聞いて思い浮かぶのは、イエスさまが公生涯に入る前に受けた荒れ野の誘惑が40日間だったことや、モーセが出エジプトしてカナンの地に入るまでの荒れ野の40年間、また、ノアの洪水では40日間雨が降り続いたこと、そして、ヨナが40日経てばニネベは滅びると警告したことなどですが、それらは全て準備期間だったことも意味深いですね。

2000年前の今、イエスさまは十字架の苦しみに向かって歩み始められたことを覚えて、私たちも受難節を歩み始めたいと思います。

IMG_0694.jpg自らを振り返り悔い改めさせてくださるように。そして、人生が何たるものであるかを深く思い巡らせながら受難節を過ごしたいと思います。
そして誰もみな、生涯の終わりには「よく生きた」と思えるように、今より心新たに力強く踏み出したいと思います。
附記:心身の疲れで、昨日のクリスチャンペンクラブ関西ブロックの例会(大津教会)を欠席した。
今朝も9時まで寝ていたが、午後は知子と散歩に出た。2人で歩くのは何年ぶりだろうか。おしゃべりしながら9500歩も歩いた。これも何年ぶりだろう。
そのあと4時頃から夫と食料の買い物に。ユキはサッカーを終えて5時半に帰宅した。
posted by 優子 at 19:08| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年02月11日

家の教会2018F −神に赦されて生きる―

IMG_0534.jpg2018年2月11日(日)  
       (2018第7回 家の教会
10時30分〜11時5分
出席者 3名        

@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 子どもの讃美歌 「おおしくあれ」
C 聖書      主の祈り    
D お話      優子
E お祈り     1人ずつ
F 讃美歌     332番「主はいのちを与えませり」
知子は講演会出席のため全日外出。
お話:
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名(
みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
 我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

IMG_0522.jpg今朝も「主の祈り」を祈りましたが、私は時に「主の祈り」を祈る時、「われらに罪をおかすものを われらがゆるすごとく われらの罪をもゆるしたまえ」という箇所で立ち止まってしまう時があります。それは葛藤に苦しむときです。

人間というのは時として、「あの時、あの人にこんなひどいことをされた」、「それでも私はこのようにしてあげた」と思うことがあるのですね。一瞬であっても心の傷が疼いて鬱陶しい気持ちになります。

そのような時は、「われらに罪をおかす者を、われらがゆるすごとく」とは祈れなくて、心の中でそのように自己主張する自分が嫌で、「神さま、ごめんなさい」と申し上げるのです。

そしてまた常に思うのは、「われらに罪をおかす者を、われらがゆるすごとく」ではなく、まず最初に「われらの罪をおゆるしください」、「私の罪をおゆるしください」と祈りたいのです。まずお詫びせずにはいられないと思うのです。

そのあとでさえ、「われらに罪をおかすものを われらがゆるすごとく」と本当に祈ることができるのだろうかと思うことさえあるのです。

牧師の牧師と言われた植村正久は晩年の説教で、「私はこの歳になっても、まだ赦すことの出来ない人がいる」と告白し、説教を続けることができなくなったという有名な話があるそうです。
何があったのでしょうか。
植村正久ともあろう人物ゆえによほどのことがあったのでしょう。そうであっても、それではイエスさまのあとを往く者にふさわしくないと、内なる声に示されて絶句したのです。

また渡辺和子さんのお父さんは2.26事件で殺されました。渡辺さんは父を殺した人をゆるせるだろうか。人間は神さまのようにゆるせるだろうかと、生涯かけて神さまと対話してこられました。多くの著書で正直に心情を書いておられます。

「私には、一人の人間が他の人間を心から許せるだろうかというこだわりがあります。それは、大好きな父親を私の目の前で殺した相手に対して抱いている自分の正直な気持ちなのです。

『まだ恨んでいますか』と尋ねられれば、『いいえ、その方たちには、その方たちの大義名分がおありだったのでしょうから』と答えるのが常だった私には、その”敵の1人”と10年ほど前思いがけず一つのテーブルについた時、コーヒーが喉を通らなかった覚えがあるからなのです。

今でも、父の死を陰で操ったと思われる人たちの家族に対してのわだかまりはとけていません。

心から許すなどということが、人間に果たしてできるのでしょうか。イエスさまにはそれがおできになりました。―神さまですもの。でも、私には、どうしても心の片隅にこだわりが残ってしまい、そしてそのことで苦しむのです」。

※ 私は渡辺和子さんが、「ゆるす」を「許す」という漢字で表現されているのは意味があると理解しています。罪を赦すことができるのは神さまだけであり、人間ができるのは「許す」ことであると。

しかし、晩年には父親を殺した人の墓前で祈り、その弟さんと食事をされました。生涯をかけて主イエスの前で真摯に自らと向き合ってこられた方ゆえの姿であると、私は深い感銘を受けました。求め続ける者には、神さまがそのようにさせてくださるのです。

マタイは、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」(6章12節)と記し、ルカは、「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちのをもおゆるしください。」(11章4節)と記しています。

「負債」とは「借金」ですが、広義で「負い目」を意味し、人との関係で生じる罪を示す言葉です。
イエスさまは「まずあなたから赦しなさい」と言われるのです。そして、「7の70倍ゆるせ」と言われました。私たちは1万タラントの負債を赦された人の譬えを忘れてはいけないのです。

あるいはまた、この箇所から「ゆるさないとゆるされないのか」と思われるかも知れません。確かに文面では、まず自分が人をゆるさないと神さまの赦しを得られないように受け取れます。しかしながら、もしもそうであるならばイエスさまの十字架の贖罪、福音とは正反対のものになってしまいます。

私はかつて受けた非道な出来事を思い出して悶々とすることがありますが、そのような時も裁きの神ではなく、イエスさまの慈愛に富んだまなざしを感じることができることも感謝です。

IMG_0551.jpgそして今まで以上に、主イエスを信じるということはイエスさまの十字架の一事に尽きるということがわかります。
イエスさまは私が受けるべき罪の身代わりになって死んでくださったということ、本当にこのことがわかっているかどうかなのです。

私たちも「ゆるします」という正直な祈りを捧げても、相手が全く改善することなく長い年月繰り返され続けると挫折します。また、過去の出来事が思い出されて落ち込み、ゆるすと決意しても実践することの至難さこそが人間の現実です。

だからこそ、そういう自らの弱さを認めて自分自身と向き合い、主イエスに助けを求め続けることが生きると言うことではないでしょうか。

まず神さまが私たちを何度も何度も赦してくださっていることを思い出して一歩踏み出すのです。その数えきれない葛藤と赦しの中で人は変えられていくのだと信じられるのです。

渡辺和子さんほどの過酷な悲しみと憎しみではなくても、私たちは人をゆるせなくて悩み、しかし、主イエスと共に生かされて行く時に、この私もまた「このようにして神さまがさせてくださるんだなぁ」と思わされることがあるのです。

イエスさまは言われました、7の70倍ゆるせ、ゆるし続けよと。 
そうです、私たちも神さまに無限に赦され続けているのです。そのことを思い出さねばならないのです。思い出すと醜い葛藤から短時間で解放されることでしょう。そのことをもう一度自ら心に刻みます。

イエスさまが私のために身代わりになって死んでくださり、そのことによって私は赦されたのです。かくて、「われらに罪をおかすものを われらがゆるすごとく われらの罪をもゆるしたまえ」感謝と希望をもって祈ればよいのだと思いました。主イエスはその祈りを喜んで聴いてくださることでしょう。

私たちは祈るたびに神さまからどんなに赦されているか、どんなに愛されているのかを思い出し、祈るたびに神さまが与えてくださる真の平安の中で、このような闘わねばならない闘いから逃げないで信仰によって勝利させていただきましょう。

IMG_0564.jpg「生きることは 愛すること、愛することは 理解すること、理解することは 赦すこと、赦すことは 赦されること、赦されることは救われること」。

私の生活信条もこの通りであると告白します。

附記:

IMG_0569.jpg午後はサッカー教室へ。サッカーに行く前も寒風の中、2重跳びの練習に余念がない。

今日の会場は山の上にある校区の中学校のため、おじいさんと自転車で行くことになっていたが、休み気味のクラスメイトに出席するからと誘われて子どもたちで行った。

今日から新しいサッカーウェアを着用した。

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ユキはネックウォーマーをかぶっている。
サッカー教室では、4・5・6年生は上級生。
向こうに1・2・3年生が集まっている。

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(サッカーボールはどっちかな)
写真では活躍していないが、
今日は(or 今日も?)1回シュートを入れたそうだ。

IMG_20180211_151200.jpg
「3連休の中日。○中で真冬のサッカー!
昨日雨一転今日は青空満開の気持ちいい日でした! 」
でも、最高気温7度で強風が吹く寒い寒い1日でした。
posted by 優子 at 16:40| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年02月04日

家の教会2018E −パウロのギリシャ伝道―

IMG_0421.jpg2018年2月4日(日)  
       (2018第6回 家の教会        
                        10時20分〜55分
出席者 4名
奏楽:知子
@ 初めのお祈り  優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌 「神さまがわかるでしょ」

C 聖書輪読    使徒行伝 17章22節〜34節

D お話      優子

E お祈り     優子、良輔、幸悠。

E 讃美歌     312番「いつくしみ深き」

使徒行伝 17章22節〜34節:

17:22 そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。
「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。
17:23 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。
17:24 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。
17:25 また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、
17:26 また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。
17:27 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
17:28 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、
『われわれも、確かにその子孫である』。
17:29 このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。
17:30 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。
17:31 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。
17:32 死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。
17:33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
17:34 しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かあった。その中には、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女、また、その他の人々もいた。

お話:
ギリシャはソクラテス、プラトン、アリストテレスを初め、ヘラクレイトスにピタゴラスやタレス・・・とか、数多くの哲学者を生み出した国です。その中心地であるアテネで、パウロはギリシャのあらゆる哲学思想とその文化を前にして説教を始めました。

「アテネの人たちよ」というのは、まさにソクラテスやプラトンがアテネの人々に呼びかけた言い方と同じです。16節に、「パウロはアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。」とありますが、彼らを批判するのではなく偶像崇拝するギリシャ人の心の内を理解して、まことの神への信仰へ導くべく話しました。

まず(24・25節)ギリシャ人の神観の間違いを正そうとしました。ここを読んでいると日本人も同じだなあと思います。というより、人間の考えることは国や時代を越えて同じだと気づかされます。

人が「カミ」に水や食べ物を与えて養わねばならないこと。そして、共通しているのは汎神的(簡単に言えば、神と自然を同じとする一元論的、かつ、非人格的)であるということです。
人間は唯一の神を求めるのではなく、人間に都合の良い「カミ」を作ったのです。これまた万国共通です。

28節の「われわれも確かにその子孫である」という言葉は、B.C.3世紀のアラツスの詩の引用だということです。ギリシャ人に旧約聖書の引用は無意味と思ったからでしょう。これもまたギリシャ人にはギリシャ人の立場に立っての話し方でした。

そして次に(30・31節)救済観を述べるのです。神さまはキリストをとおして人類の審判と救済が告げられましたが、復活の話になると彼らは信じがたく嘲笑したのです。

偶像崇拝が万国共通であれば、福音もまた多くの人の嘲笑でしかなく、心に届く人は僅かであることも時代や国を越えて今も同じ、「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。」というみことばのとおりですね。

この時代のギリシャではかつてのように熱心な真理への探究心は堕落し、聴衆は救いを求めてではなく、好奇心から新しい考えに耳を貸したにすぎなかったのです。

しかし、そんな中にも幾人かの人が救われました。その人たちは自己洞察できる人ゆえに、自らを「弱い者」であると自覚している人、自らの罪を知る人たちだったのでしょう。

本当にごく僅かな人の心にしか届かず、パウロのアテネ伝道は失敗に終わったのですが、パウロの伝道は無駄ではありませんでした。その後ギリシャはキリスト教を国教とする国になりました!

私たちもその時はガッカリした結果であろうとも、すべてを握っておられるのは神さまなのですから、尊い働きを決して無駄にはなさらない神さまを思い出して元気を出しましょう!

キリスト教を大きな枠組みで見ると、カトリック、プロテスタント、正教会の3つに分派しましたが、ギリシャ正教は即ち正教会のことでありロシア正教も同じです。

ギリシャではパウロは自らがユダヤ人であることを忘れて、ギリシャ人の立場に立って言葉や知恵を用いてアテネ伝道しました。パウロはギリシャでの失敗といえる経験から、次のコリント伝道は主イエス・キリストの十字架のみを語ることにしたのです。

福音は哲学ではなく、あまたある宗教とも全く異なります。福音は人間が考え出したものではなく、神さまから出たものだからです。その意味からも「知」の最たるものでもあるのです。

ついでながら、「哲学」は英語で " Philosophy "といい、ギリシア語で "Philosophia "(フィロソフィア)。「ソフィア」とは「知」で、「フィロ」は「愛する」、即ち、「哲学」とは「知を愛する」という意味です。 

今日の箇所から私は伝道について考えさせられました。
福音を道徳として語るならば多くの人が共感します。しかし、イエスさまの十字架と復活こそが救いの中心であり福音のいのちです。私はこの福音を私が経験した生きた言葉で伝えたいです。
posted by 優子 at 12:58| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年01月28日

家の教会2018D −「受けるより与えるほうが幸いである」―

IMG_0332.jpg今日も−3度、5度と連日同じでも、日に日に寒くなっているように思うほど寒い。二上山・雄岳も薄っすら雪化粧。

知子は朝から全日のセミナー参加のため不在。
2018年1月28日(日)  (2018第5回 家の教会        
                       12時25分〜12時50分
                              出席者 3名 

@ 初めのお祈り  優子、幸悠。

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌  82番「おおしくあれ」

C 聖書輪読    使徒行伝 20章28節〜35節

D お話      優子

E お祈り     一人ずつ

F 讃美歌     448番「み恵みを身に受くれば」 

使徒行伝 20章28節〜35節:
20:28 どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。
20:29 わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。
20:30 また、あなたがた自身の中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする者らが起るであろう。
20:31 だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。
20:32 今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。
20:33 わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。
20:34 あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。
20:35 わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。
お話:

使徒行伝は、ルカがルカ伝の続編としてA.D.80年頃に書いたもので、ルカ伝同様にテオピロに捧げています。その内容は、ペテロとパウロを中心とした使徒たちの福音伝道の記録です。そして今日開いた箇所は、パウロがエペソ伝道でエペソの長老たちに推奨しているところです。

「受けるよりは与える方が幸いである」。これも多くの人が知っている有名な言葉ですね。パウロはイエスさまが語られた言葉であると言っていますが、どの福音書にも出てきません。

「受けるよりは与える方が幸い」をユキに分かりやすく言えば、「もらうよりもあげるほうが幸せ」と言うことになろうかと思いますが、イエスさまは何を言おうとされているのか考えてみたいと思います。

「与えるほうが幸い」というのは、経済的に豊かでないと人に与えられないから、与えられるのは幸せだと言っているのでしょうか。しかし、パウロは「わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。」と言っているように、決して経済的に豊かであったわけではないことがわかります。

この頃は誕生したばかりのキリスト教会ですから、ユダヤ教的な考えから躓く人もいたと思われます。というのは、ユダヤの律法学者は律法を教えることで報酬を得てはいけないという決まりがあり、熱心なパリサイ派の律法学者だったパウロは、人を躓かせないように「自給伝道」を実践したのです。

私たちもパウロのようにイエスさまの教えに倣いたいと思うのですが、どうでしょうか。なかなか難しいですね。特に若い頃は獲得の人生と言いましょうか、自ら経済的に自立し、結婚すれば家族を養っていかねばならず、何事につけ他者への思いやりは、年を重ねた今よりもなかったように思います。

そして50歳になる頃から、それまでの獲得の人生から手放していく生き方に変わっていくのだと思うのですが、私は初めてこの言葉を読んだ時、この教えをクリスチャン倫理の原則として禁欲的に受け止めたように思います。

しかし禁欲的に倫理を実践するなど、全く愛のない行為であり、それさえも実行するのは至難です。ただし注意しなければならないのは、受けることが悪いと言うのではなく、受けるのも恵みであり感謝です。人は互いに与え合い、互いに受け合って生きているのです。祈り合うこともそうです。

でも、「受けるよりも与えるほうが」と言っているように、与えることは受けることよりももっと幸いだと言うのです。イエスさまこそが徹底的に自らを与え尽されたご生涯でした。

しかも「与える」とは何も金銭や贈り物だけではありません。自分にできること、自分の能力や時間を困っている人のために用いることも「与える」ことであり、神さまが一人ひとりに与えてくださっている賜物を用いることは大いなる愛です

それらを自分のためにだけ、自分の愛する人のためにだけ使わないで、悲しんでいる人や困っている人に用いさせていただく時、与えられた時よりもはるかに多くの喜びに満たされます。

福音を与えられて主イエスと共に生かされる神の恵みは、どんなことからも奪い取られることはありません。パウロはそのことを本当に知っていたから実践できたのです。

私たちも弱い人々のために心から与える者となりたいです。イエスさまの福音が深く我が身に浸透していくときに、私たちは愛の人に変えられていくのだと思います。

最後に三浦綾子さんのこんな言葉が思い浮かびました。三浦さんは『銃口』という作品の登場人物に、「どうしたらよいか迷った時は、自分の損になる方を選ぶといい」という言葉を語らせています。深い言葉ですね。

今週も毎日毎日を丁寧に生き、関わる人に愛をこめて悔いのない人生を生きたいと心から願っています。

posted by 優子 at 16:42| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年01月21日

家の教会2018C ―十字架の音信 「愚かさと躓き」―

IMG_0198.jpg2018年1月21日(日)   
      (2018第4回 家の教会)

8時55分〜9時25

  出席者 4

奏楽:知子


@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り                           スズメ
B こどもの讃美歌 「神さまがわかるでしょ」
C 聖書輪読    Tコリント 1章18節〜25節
D お話      優子
E お祈り     1人ずつ
F こどもの讃美歌 74番「神のお子のイエスさま」

コリント人への第一の手紙 1章18節〜25節:
1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。
1:19 すなわち、聖書に、
「わたしは知者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さをむなしいものにする」
と書いてある。
1:20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
1:21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
1:22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
1:23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
1:24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
お話:
ユダヤ人は、ローマの支配から解放してくれる力強い者を求めていましたから、十字架に磔(はりつけ)にされて殺されてしまう神は認められず、十字架が躓きになりました。

また、知恵を求めるギリシャ人にとっては、救い主が十字架上で死ぬなんて筋の通らない愚かな教えであり、世の人々にとってはイエスさまの教えは愚かな福音でしかなかったのです。

しかし主イエスを救い主と信じる私たちにとっては、だからこそイエスはキリスト(救い主)である「しるし」であり、ここにこそ神の知恵が顕れているのです。

なぜならば、イエスさまは神さまであるから十字架上から飛び降りることもできました。しかし、私たちの身代わりになって十字架にかかって死んでくださったからです。

まさにそこが知性や理性では理解できないのです。罪人である私たちは何も罰せられなくて、身代わりになって死んでくださったなんて、そんなこと理性では考えられず、理屈に合わないのです。

修行や難行を積めば救われると言われれば理解できるのですが、善い行いをしたから、あるいは、能力があるから救われたわけではありません。

このように知恵や理性には限界があり、己が低くされて、自分の無知と無力を知った者が神さまの圧倒的な愛に気がついて、救いに入れられるのです。

自分の無力さを知っている者は、生きている限り何度も何度もそのことを思い出しては神の愛に立ち返らされて、主の平安と喜びを味わいながら、人々との関係も豊かにされていくのです。

私はそのような人生を生きたいです。それで主イエスを信じて生きる人々は、イエスさまの十字架の福音を宣べ伝えているのです。
IMG_20180113_190650.jpg
2018年1月13日(土)夕方。
知子がサッカーを終えたユキを迎えに行った帰り、
ムクドリ.png
パン屋さんの前から撮ったもの。
鳥の大群はムクドリだったという。
向こうの電線にもいっぱい! 私も見たかったなあ。

posted by 優子 at 15:56| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年01月14日

家の教会2018B ―「悔い改め」こそ神の祝福―

2018年1月14日(日)   (2018第3回 家の教会)

10時〜10時45

  出席者 3名(with良輔&ユキ)

@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌  「主イエスと共に」

               「おおしくあれ」

C 聖書輪読     ローマ人への手紙 2章1節〜11節

D お話       優子

E お祈り      1人ずつ

F 聖歌       498番「歌いつつ歩まん」

※ 知子はようやく体調が回復して、旧友(ファイザー時代の友)と

再会のため三ノ宮へ出かけた。

ローマ人への手紙 2章1節〜11節:

2:1 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。
2:2 わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
2:3 ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
2:5 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。
2:6 神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。
2:7 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
2:8 他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。
2:9 悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、
2:10 善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。
2:11 なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。

お話:
「悔い改め」について考えたく思いめぐらせていた時に、この箇所に導かれました。ここは異邦人の罪を裁くユダヤ人に、万人に罪があることを明らかにしているところです。そして、多くの試練や誘惑の中で善を行うことは至難であるが、主に導かれて励みなさいとのメッセージを受け取りました。

この箇所で黒崎幸吉は、「神は決して外面によって不公平に取り扱わず、名義上のキリスト者かどうかも神の前では問題ではない。キリスト者の形式や所属教会などは審判の前には意味はなく、神は人のうわべを見ず、彼を救うものはその信仰のみである」と教えています。

そして、「患難」は「外より来るもの」、「苦難」は「内心の状態」を意味し、「患難」の反対は「神より賜わる光栄と栄誉」で、「苦難」の反対は「平安」であると書いています。

「悔い改め」によく似た言葉に「懺悔」があります。共に「悔い」という字がありますが、意味は全く違います。「懺悔」とはただ悔いることであり、「悔い改め」とは文字通り「悔いて改める」ことです。

このほか「悔い改め」に似た言葉に「回心」があります。「回心」とは、今まで神さまに背を向けていた心を神さまの方向へ回すという意味です。

イエス・キリストに出会って「回心した」と言ったりしますが、今改めて思いますのは、回心は悔い改めとは違います。

人が最初に神さまを求める時、悩みや不幸に悶えての求道であり、罪の意識はないからです。かのルターでさえそうでしたから一般化しても良いと思います。

私は母の患難と不条理の人生に、なぜ非道なほどに他者を傷つけて生きる人が平坦な道を行くのかという苦悩から主イエス・キリストと個人的な出会いをしましたが、そのときはまだ聖書が言う「罪」には目覚めていませんでした。

たとえば、誰かを傷つけてしまったという罪意識から求道に入ったと言えども、そのことで悩んでいるということからの求道であり、やはり罪から求道していなくて、「罪の悔い改めが登場しないで信仰生活が始まる」と言った北森嘉蔵の説教を思い起こします。

「悔い改め」というのは罪の問題であり、造り変えられなければならず、改める力は神さまから来ます。人間の努力では決して悔い改めることはできないのです。

しかし、回心によって神さまの光に照らされて自分の罪がわかって来る、それが聖書の言う「罪」なのです。

今はまだ悔い改めに至らなくても、回心であれ、懺悔であれ、人生のスタートラインに立たせていただいた者は、家庭で、職場で、あらゆるところにおける他者との関わりにおいて、必ずや周囲の人々に気づきや影響を与える生き方ができるのだと思います。

主イエス・キリストに導かれていく時に悔い改めを経験させていただくことを思いますと、神の祝福とは「悔い改め」にほかならないと気づかされました。

ハートマークにバンソコウ.jpg新しい一週間が始まりました。命ある限り、常に新しい気持ちにされて生かされていくのは何という恵みでしょうか。今週も主に在って善き日々を重ねて生きたいと思います。

最後に昨日届いた「キリストの栄光教会」のみことばを励ましの言葉として贈ります。

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように」。 
                     (ロマ書15章13節)
あなたの神は希望の神です。どんな状況からでも、主は道を開いてくださいます。ただ、あなたが堅く信仰に立つことを願っておられます。小さな信仰でもいいのです。要は、信仰を働かせることです。からし種ほどの信仰があれば、主が山を動かされます。
posted by 優子 at 14:09| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年01月08日

家の教会2018A ―神による絶対的平安を得て始む―

これは1月7日(日)の記事です。
↓ ヒヨドリ
ヒヨドリ.jpg2018年1月7日(日)              
   (2018第2回 家の教会)

11時〜11時30

  出席者 4

(all member)


奏楽:知子

@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り     一同

B 子どもの讃美歌  82番「おおしくあれ」

C 聖書輪読     列王記上17章1節〜9節

D お話       優子

E お祈り      1人ずつ

F 讃美歌      312番「いつくしみふかき」


列王記上 17章1節〜9節:
17:1 ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。
17:2 主の言葉がエリヤに臨んだ、
17:3 「ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。
17:4 そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」。
17:5 エリヤは行って、主の言葉のとおりにした。すなわち行って、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに住んだ。
17:6 すると、からすが朝ごとに彼の所にパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。
17:7 しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。
17:8 その時、主の言葉が彼に臨んで言った、
17:9 「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。

お話:
真智と太志君がアメリカへ帰ってしまってさみしいですが、共に話し合った時に真智が語っていた、神さまが朝夕にカラスにパンと肉を運ばせてエリヤを養われた箇所を開きました。

今年からはユキが集中できるように、礼拝は30分間順守のチャレンジを受けていますから、立てられた者の思いと心を導いて、聴いてくれるユキたちの役に立てるようにお話しさせてくださいと、なお一層に祈りつつ励みます。

それゆえに今後は今まで以上に要点を圧縮して語ることになりますから、良輔さんは今まで以上にブログを必読してくださいね。

今回は時間がなくて礼拝の準備ができなかったのですが、この箇所の内容はわかりやすいので解説を省略してエッセンスだけをお話しします。

旧約聖書にはイザヤ、エレミヤ、エゼキエル・・・など多くの預言者が出てきます。エリヤは紀元前9世紀に北イスラエル王国で活躍した預言者で、イスラエルの歴史上最悪のアハブ王の時に立てられた預言者です。

アハブ王はバアル崇拝をしていました。アハブ王をバアル信仰へと導いたのは妻のイゼベルです。
バアルは農耕・豊穣の神であり、日本にもあまたある偶像崇拝のご利益信仰です。偶像崇拝は人間が作り出した人間の思いどおりになるカミです。

モーセは律法の代表であり、エリヤは預言者の代表と考えられている預言者ですが、エリヤは決して特別な人ではなく私たちと同じ人間だったことに励まされます。

ヤコブの手紙5章17・18節にはこうあります。
「エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈りをささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。 それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた」。

私たちが今読んでいるところです。
エリヤには神への強烈な信頼がありました。それゆえに義人の祈りには大いなる力があり、このことを通して主なる神こそが唯一絶対なる神であることをイスラエルに明確にされたのです。

「義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである」。
               (ヤコブの手紙5章16節)
ところで、カラスが食べ物を朝夕運んでくるなど常識では考えられないし、しかも旧約聖書(レビ記)には、カラスは汚れたものとされていますから、エリヤの気持ちを考えると非常に辛いものがあり大きなチャレンジだったのではないかと思います。

エリヤはカラスに養われることに悩んだり疑問に思わずに従ったのかも知れませんが、人間エリヤにとっては大きな試練だったと思うのです。

でもエリヤは神さまの言葉を第一としたのです。大変な試練の中にあっても神さまに従うとき、主の平安があります。エリヤには絶対的な平安があったことだけは確かです。

私たちは試練が続き厳しい日々を耐え続けねばならないとき、主に在って(信仰者)でさえ、時にうな垂れてしまうことがあります。しかし、そのたびに神さまの御心に委ねるのです。委ねさせてくださるのですね。

川の水が枯れて、今度は「やもめ女」に養われるというのもそうだと思います。当時の社会ではやもめの女性はとても虐げられていたということですから、エリヤにとっては試練であり、訓練のときだった思います。

私たちの人生途上において万事休すになって神さまを求めるしかない情況があります。その時に神さまの胸に飛び込んでいく者は幸いです。どんなに追い詰められて困っても、ついに真の神さまと出会わないで生涯を終える人もたくさんいるからです。

私たちは神さまの導きを求めて従い、神さまの業を体験させていただきたいと思います。そのためにはまず主の訓練を通して自分の無力さを嫌というほど知り、その時に初めて「私には主イエス・キリストが必要です」と祈ることができるのだと思います。

マタイによる福音書6章33節の 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」とは、神さまが私たち一人ひとりに関わっておられることがわかった時に、初めて神を第一にできるのだと強く感じました。

頑なだった心を開くと、すべてに先立って主の平安が来るということが、夫の様子からも目に見えるようにわかります。主は必ず私たちひとりひとりに語って下さいます。

神さまはカラスを用いてでも愛する者を必ず助けてくださることを忘れないで、今年も大いにチャレンジしましょう! 共に人生を分かち合い励まし合いながら。このこともクリスチャンにとっては必須です。そこに神さまが豊かに働いてくださるからです。
以上のようなことを話しました。

まち、ふー、またね.jpg前途多難な私たち家族に神さまが一筋の光を射しいれてくださいました。良輔は初めて主の平安を体験しているようです。「どちらの場合でも受け入れる」と穏やかに信仰告白し、新たなる出発を始めました。

背後で祈ってくださっていた方々、そして、真智子と太志君に心から感謝し、私たち以上の祝福がありますように主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。

アメリカンロビン.jpg「真智、もう元気回復した?」
真智、太志君   

これは、真智たちの家の周囲にいるアメリカンロビン。

posted by 優子 at 17:53| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年01月05日

家の教会2018@ ―それぞれにいただいた神さまのメッセージを分かち合う―

IMG_9927.jpgこれは1月1日の記事です。
2018年1月1日(月)              (2018第1回 家の教会)

13時10分〜14時25

  出席者 5

(with ユキ・良輔・真智子・太志)

奏楽:真智子

@ 讃美歌   132番「ああ主の瞳」

A 分かち合い  

新しい年を生きていく上で励ましになればとの思いから、昨年一番心に残っている聖書個所と経験を1人ずつ分かち合う。

聖書個所は2節ずつ輪読。

B お祈り         1人ずつ

C 子どもの讃美歌  「雄々しくあれ」

ゆっくりおあがり.jpg


真智子:

マタイによる福音書 25章14節〜30節:

25:14 また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。

25:15 すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。

25:16 五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。

25:17 二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。

25:18 しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。

25:19 だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。

25:20 すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。

25:21 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

25:22 二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。

25:23 主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。

25:24 一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。

25:25 そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。

25:26 すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。

25:27 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。

25:28 さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。

25:29 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

25:30 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。


去年何度も思い出したのがこの箇所です。この箇所で語られるのは、神さまから預けられたタラントを管理し精一杯運用せよということですが、私は1タラント渡された人の気持ちをよく思いました。


1タラントを預かった人は神さまが善いお方だと信頼できなかったから、良かれと思ってやっても悪い結果になるかもしれないし、失敗したら取返しがつかないし、何をするのも怖かったのではないかと思います。


でも、きっと神さまは、「自分らしくやってごらんよ。失敗しても私が一緒に行くから。」と言ってくださっていると思います。そして、一生懸命心を尽くして生きる中でこそ、主がチャレンジも励ましも与えてくださり、私の人格を練り、私を造りかえて下さると思います。


そう思うと、生きてみよう、と思います。1タラントを預かった人のように怖がってしまわず、主を信頼して、思いっきり生きたらいいんだと思います。この一年も、主が一緒だから、大いにチャレンジしていこうと思います。


太志:

詩篇51篇:

51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、
わたしをあわれみ、
あなたの豊かなあわれみによって、
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、
わたしの罪からわたしを清めてください。
51:3 わたしは自分のとがを知っています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
あなたの前に悪い事を行いました。
それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。
わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。
それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、
わたしは清くなるでしょう。
わたしを洗ってください、
わたしは雪よりも白くなるでしょう
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、
あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、
わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり、
わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
51:11 わたしをみ前から捨てないでください。
あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
51:12 あなたの救の喜びをわたしに返し、
自由の霊をもって、わたしをささえてください。
51:13 そうすればわたしは、とがを犯した者に
あなたの道を教え、
罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。
51:14 神よ、わが救の神よ、
血を流した罪からわたしを助け出してください。
わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。
51:15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。
わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。
51:16 あなたはいけにえを好まれません。
たといわたしが燔祭をささげても
あなたは喜ばれないでしょう。
51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
51:18 あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、
エルサレムの城壁を築きなおしてください。
51:19 その時あなたは義のいけにえと燔祭と、
全き燔祭とを喜ばれるでしょう。
その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。


共に研究しているメンバーの一人が異なる信仰をもっていたのですが、仕事と信仰は別のものであるし、彼の信仰を尊重しつつやっていこうと思ってやってきました。


しかし、最近になって、彼が彼の信仰する宗教の名前がついた職場に移ると聞き、そうなると論文ができあがったときに、彼の所属は彼の宗教名がつくのに対し、自分の所属は信仰とは無関係であるため、自分自身も彼の宗教を信仰しているかのように見えてしまう、ということが気になってきました


最初は、相手を尊重することを思い、むしろ主に信頼するのならば、それでもいいと思いました。しかし真智と話していて、相手の信仰がどうのこうのではなく、自分がクリスチャンであるというアイデンティティーが脅かされるように感じていることに気づいたので、論文の共著を辞めようと思いました。そして、辞めることをしっかりと相手に話してわかってもらおうと思いました。


この決意をしたにも関わらず、翌朝、なぜか気持ちが暗いままでしたので、真智に促されて共に祈りました。


祈って気づいたことは、最初に「それでもいい」と思ったのは、主に信頼してというよりも、人間関係を穏便に済まそうという動機が第一になってしまっていた、ということでした。


相手の信仰は尊重していましたが、自らの信仰を尊重できていなかったように思いました。自分の信仰を犠牲にして、言いにくいことを言わないで済まそうとしてしまっていたのだと気付きました。


2度目の祈りの時に「僕は神さまを裏切った」という言葉が出てきて涙し、主を裏切ったユダの心境を経験しました。その時に出てきたのが詩篇51篇で、特に7節、ダビデの強い信仰を思いました。


罪を認めたときはとても辛いですが、悔い改めたら神さまは赦してくださるというダビデの強い信仰、ダビデのように祈れる強い信仰を与えてくださいと祈りました。


神さまは、概念的な存在ではなく、人格があり、「ごめんなさい」と言う相手だと感じました。


ユキ:
かわいいね.jpgぼくはぼくの一番好きな讃美歌を言います。それは「おおしくあれ」で、気持ちが晴れるから好きです。

優子:
私は年賀状に引用したロマ書8章28節です。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」

今や長い年月続いている苦闘に倒れそうになっているので、これまで主イエスに導かれてきたゆえの恵みの体験を思い起こして、新しい年を出発したいと思っています。神さまの御心であれば必ず成就させてくださるという信仰を握って。

良輔:
ブルンナーで学んだエペソ人への手紙1章3節〜6節、
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである」。

自分にもそのような非人間的な思いがあったので神に願っていこうと思います。そして努力していかねばならないと感じました。
posted by 優子 at 15:55| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年12月24日

家の教会2017㊻ −神の栄光を見る―

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anime_tomosibi01.gif2017年12月24日(日)              (2017第46回 家の教会)

9時55分〜10時30分

  出席者 3名(ユキと良輔)

@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 讃美歌  112番「もろびとこぞりて」  

C 聖書輪読 マタイによる福音書 2章1節〜16節

D お話

E お祈り  一人ずつ

F 讃美歌  111番「神の御子は今宵しも」


マタイによる福音書2章1節〜16節:
2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
2:4 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。
2:5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
2:9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
2:13 彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。
2:14 そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。
2:16 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。

お話:
今日はアドヴェント4週目を迎え、クリスマス礼拝を捧げます。先週の土曜日に同志社のクリスマス・ページェントに行きましたが、「ページェント」とは中世ヨーロッパで祝祭日に演じた宗教劇のことです。

6E5B9B4E7949FE381AEE382AFE383AAE382B9E3839EE382B9E7A59DE4BC9AE291A0.jpgそして「クリスマス・ページェント」とは、イエスさまの降誕物語の劇を演じて神の子の誕生をお祝いするキリスト教の行事です。教会の子どもたちは必ず祝会で降誕劇を演じていることでしょう。
(真智子6年生、マリアさま役)

先ほど輪読した聖書個所も降誕物語で必ず引用される部分です。ヘロデ王というのは「ヘロデ大王」と呼ばれる残虐な暴君でした。ましてや、「わたしも拝みに行くから」とは心にもないことでした。

東の博士というのはこの前お話したように天文学に通じている学者です。キリストの誕生を知ったヘロデ王が秘かに博士たちを招いたのは、自分の王位が脅かされるので2歳以下の男の子を一人残さず殺すためでした。

なぜ生まれたばかりの赤ちゃんではなく2歳以下の子どもを殺せと言ったのかと申しますと、博士たちは星を見つけて大喜びし「家に入って」とありますから、その時はもう馬小屋ではないようです。

ピーテル・ブリューゲル『ベツレヘムの嬰児殺し』.jpg
  ブリューゲル:『ベツレヘムの嬰児殺し』

というより少なくともご誕生から1年以上の時が経っているのでしょう。それゆえにヘロデは2歳以下の子どもを殺させたのです。この子どもたちがキリスト教の初めての殉教者と言われています。

私が注目したいのは、この時もヨセフは夢に現れた主の使いの言葉に従ったことです。つぶやかず黙々と神の導きに従うヨセフの姿からも神さまからの強烈なメッセージを感じます。3人の博士たちも夢で聞いた主のみ告げに従って他の道を通って自分の国へ帰って行きました。

ヘロデは自分の王位を守ることに必死でした。そのために自分の妻や子供たちも処刑したといいますから、時代を超えて現代も神をも恐れない人間がいるのですね。

そのような地上世界に神さまは御ひとり子である幼いイエスさまを送られたのです。まさに血に飢えた猛獣の中に置かれた子羊のようです。

博士たちが捧げた「黄金」は王位の象徴であり「王としてのキリスト」を表し、「乳香」は礼拝の時に用いるもので「神としてのキリスト」を意味し、「没薬」は死んだ人を葬るときに使うものですから「十字架上に死なれるキリスト」を意味すると言われています。

今年の待降節はこれまでで最も御言葉を味わい黙想する恵みに与りました。体調の良い時は朝目覚めた瞬間に聖書を開くのが楽しみで、たびたび朝食を摂る時間も惜しくて、体に悪いとわかっていても朝食も摂らずに没頭したこともありました。

聖書は知的探求心で理解するのではなく、祈りつつ読み、読みつつ祈れと言われていますが黒崎幸吉も次のように記しています。

「神は漁夫に対しては魚により、病者に対しては治療により、学者に対しては星によりてご自身を示し給う。

礼拝と献身、これが信仰生活の基調である。礼拝とは単に教会の礼拝に出席することではなく、畏れ崇むる心をもって神を拝することである。

献身とは伝道専門家になることではなく、自分の身も魂も財もみな神のものとしてしまうことである。(それら一切を神さまの御用のために用いるという意味です。)東方の博士の来訪により宝物をささげてキリストを拝したることは、この信仰の根本を示したものである」。

世界は常に不正義と憎しみで覆われ、時代がどんなに進んでも人間の愚行は増し加わり闇は深くなるばかりで、「平和ボケ」していた日本人さえも今や不安と恐れを実感しています。

私たちは世界の闇に気づき始めましたが自分自身の心の闇についてはどうでしょうか。心の深い所に根づいている闇です。

頑なな自我、自己中心で感謝できない心、憎悪、拒絶・・などなど、今一度神さまに探っていただいて命ある限り導かれていきたいと願います。

そのためにまず一人ひとりが真剣に自らの生きる意味を問い、心を開くことができますように。悩んでいることがあれば神さまに解決を祈り求めて、悔いのない生き方を求めることができますように。

2017年のアドヴェントを過ごしながら私が神さまからいただいたメッセージはこれでありました。空知太栄光キリスト教会の銘形(めいがた)秀則牧師の言葉をお分かちします。

「これまで何度もお話ししているように、神の隠された真理はそれを尋ね求める者に開かれます。表面的に聖書を読んでいるだけでは、決してその深いところにあるものを掘り出すことはできません。

イェシュア(イエス)は『神の国の支配』について多くのたとえ話を用いて語られました。なぜたとえ話で語られたかと言えば、それは多くの者たちがよく理解できるためではありません。

そうではなく、むしろその話の意味を自ら問うことがなければ、決してその意味は明らかにされないような仕掛けになっているのです。神である主の秘密は尋ね求める者たちの『問いかけ』によってはじめて見出されるのです」。

そして自分に絶望して、キリストに全てを託して生きるというところを通って行くのです。私の信仰も神さまからの賜物です。

日本ではイエス・キリスト不在のクリスマスです。クリスマスの喜びを周囲の人々に伝えていくことができますように。

家族の中でキリストを信じる初穂として立てられた私は、何よりも我が家庭で祝福の基となる信仰生活をしていけますように、そして、福音の証し人として多くの実を結ぶ生涯でありますように、それが老年期に入った私の切実な願いです。

『メメントドミニ』をお読みくださっているお一人おひとりの上に、クリスマスの祝福が豊かに在りますようにお祈りします。
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IMG_3399.jpg附記:この日、急きょサッカー教室開催の連絡が入り、今年の「蹴り納め」となった。実はクリスマス・ページェントに行った16日が最終だったが休ませてしまったので、ユキは大喜びで今年最後の練習に飛んで行った。

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久々にサッカー教室のブログにユキの姿があった。

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2017年12月17日

家の教会2017㊺ ―天地を貫く歓喜―

anime_tomosibi02.gif2017年12月17日(日)                         (2017第45回 家の教会)

9時30分〜10時25

  出席者 3名(ユキと良輔)


@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 讃美歌      115番「ああベツレヘムよ」

C 聖書輪読     ルカによる福音書2章1節〜20節

D お話    優子

E お祈り   1人ずつ

F 讃美歌   114番「天なる神には」


ルカによる福音書 2章1節〜20節:

2:1 そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。
2:3 人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
2:4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
2:9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
み使い羊飼に現る.jpg2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
2:12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
2:15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。
2:17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。
2:18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。
2:19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。
2:20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。

お話:

j_je01.jpg今年は是非ユキに私の母校である同志社女子中・高のクリスマスページェントに連れて行ってあげたいとの思いが与えられ、その準備もかねて待降節より一週間早くから降誕に関する聖書個所や讃美歌を取り上げてきました。


昨日は2時間半も外で立ったまま待たねばならなかったけれど、ユキは居眠りもしないで1時間40分熱心に降誕劇を見、聖書を聴き、讃美歌を歌っていました。今朝讃美したアメリカが生んだ美しい讃美歌、私の大好きな114番まで大きな声で歌っていたのでびっくりしました。


今日のお話も昨日朗読されていた聖書箇所です。

イエスさまはベツレヘムでお生まれになりましたが、皇帝アウグストから全世界(ローマ全土)の住民登録をせよという勅令が出なければベツレヘムではお生まれにならなかったのです。


こうしてミカ(イザヤと同時代の預言者)の預言が成就したのです。


5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、

あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、

イスラエルを治める者があなたのうちから

わたしのために出る。

その出るのは昔から、いにしえの日からである。


「エフラタ」というのはベツレヘムの別名です。ベツレヘムは「パンの家」という意味であり、小麦や大麦などの穀物の産地だったことからベツレヘムと名付けられたのでしょう。余談ですが20年近く前に「パンの家」というパン屋さんを知った時、オ−ナーはクリスチャンなんだろうかと思ったものです。


人々は、皇帝アウグストこそが「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)を完成させた王だと思っていましたが、それは力と権力での治世でありアウグストにとっては、そこにもう一人の王「救い主」が誕生するのはあってはならない事だったのです。


神の子であるイエス・キリストがお生まれになったのは馬小屋でした。寒くて汚くて暗く、神の栄光を捨てて無力で最も貧しい人間として生まれてくださったのです。飼い葉桶はその象徴であり、このこともまた信じられないことでした。


神さまがこの重大な出来事を最初に伝えたのは羊飼いたちでした。当時、羊飼いは貧しく社会的にも最も弱い立場の人々でした。しかし彼らは神さまの啓示を信じることができた恵まれた人々でした。


み使いは羊飼いたちにだけではなく、イスラエルの全ての民に知らせたのですが、信じた人たちはとてもとても僅かな人でした。羊飼いたちは真理を知ることのできる目と耳を備えていたのです。


それは常に真理なる神を待ち望んでいる人に備えてくださり、彼らは神の啓示を聞いて馳せ参じて救い主を拝しました。これが世界で初めてのクリスマスでした。


j_je03.jpg羊飼いたちはどんなに遠くても怯(ひる)むことなく示されたとおりに向かっていく熱心さ、即刻従う人たちでした。

その姿に心が揺さぶられます。しかも見聞きしたことを人々に伝えたとは、これこそが福音伝道者の姿であると深く感じ入りました。

信仰を恥ずべきことのようにひた隠しに隠して生きている人はいないでしょうか。真に主と共にある人は言葉の端々に、その人の言動をとおして伝道させてくださるのだと思います。

救い主の来臨はイスラエルの全民衆が永く待望し切望していたことでしたが、救い主が飼い葉おけに寝かされているのが信じられず、今も多くのユダヤの人々は救い主を待ち続けています。


イエス・キリストは誕生した時から人々に迎え入れられず、最後は十字架に架けられて囚人と共に処刑され、最初から最後まで受け入れられない存在でした。


「メシア」とは、旧約聖書のヘブライ語における「油注がれた者」という言葉で、その言葉をギリシャ語で「クリストス」、即ち「キリスト」という言葉です。また「油を注がれた者」には「選ばれた者」という意味もあります。


「御心に適う人に平和があるように」とは、御心に適わない人(罪人)には平和が与えられないということではなく、そもそも罪人である私たちは誰も「御心に適う人」ではないのです。


しかし、すべての人々にキリスト・イエスの十字架と復活により救いが与えられて、神さまとの関係が修復されたゆえに、この救いは自分のためだったのだと受け止めることができた人は、「神に栄光、地に平和あれ」と神を讃美しながらこの世の旅路を歩んでいくのです。

黒崎幸吉は、「イエス・キリストの降誕は天地の創造以来の第一の事実であり、新人の初穂の出生であり、彼によって人類の救いは完成し、神の栄光が耀き出るのであって、宇宙的に最大の出来事である」と書き残しています。信じる者は幸いです。

ペン友が贈ってくださったクリスマスレターの「あとがき」に書かれた、マリヤの生涯を思いめぐらしての一節にはこうあります。

「ふつうの女性だったらもう少し平和な日々を送れたのではないかと思います。光栄ある救い主の母に選ばれたために、険しい山坂を越え、死の陰の谷を行くような波乱に満ちた人生を送ったとしか思えません。マリヤにも感謝!です」」と。

本当にそうだと思いました。マリヤは光栄ある救い主の母に選ばれたがゆえに、身重の体でナザレからベツレヘムまで220キロも旅し、イエスさまの磔刑まで見なければならなかったのですから。

私たちもキリスト者の生涯を歩む者とされて最高の人生を賜っています。そのことはまたキリスト者は常に神さまの視線を感じていますから、やはりイエス・キリストと出会っていない人よりもはるかに厳しい生き方が求められていますし、そのことを自らが選び取って行くことにもつながると思いました

心が弱っている時は誘惑を感じますが、神さまは「心の思いの高ぶっている者を追い散らし、低い者を高く上げ」てくださるのです。自分のことしか関心のない人や感謝を知らない人に負けないで生きていきましょう。

2000年前、神さまはそれら一切の不条理の中でご計画を成就されたのです。神さまにとっては何があろうとも神のご計画を邪魔されることはないのです。それゆえに私たち一人ひとりにご計画くださっていることも必ず成就してくださるという希望を握って生きることができるのです。

今、エルサレムは争いの地になっています。今月6日にトランプ大統領がイスラエルの首都はエルサレムであると宣言したために、ユダヤ人とアラブ人、正しくはユダヤ教とイスラム教の人々が争い死者が出ています。イエスさまがお生まれになり、そして、死んで復活されたエルサレムで!

この現実も全て神さまの御手の中でのことであることを忘れないでいましょう。私のこれまでの人生においても、神さまは最悪をとおして最善へと導いてくださり、最悪の中にも善きものを与えてくださいました。そのことを解る者に変えてくださったのです!

「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」

神さまは私たちにイエス・キリストを贈ってくださり、真の救いを与え、不安と恐れ、そして憎しみから解放し、平安と喜びと希望をもって歩めるようにしてくださったのです。

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」。

このみ言葉を「あなたにために」、即ち「私のために救い主がお生まれになった」と聞ける者は幸いです。来週はアドヴェント4週目、いよいよクリスマス礼拝です。誰も皆、幸いなクリスマスをお迎えすることができますように祈ります。

附記:知子は全日外出で不在。

サムサムさんよりコメント感謝:

「この現実も全て神さまの御手の中でのことであることを忘れないでいましょう。私のこれまでの人生においても、神さまは最悪をとおして最善へと導いてくださり、最悪の中にも善きものを与えてくださいました。そのことを解る者に変えてくださったのです。」

全くその通りです。そしてわたしもそのことを忘れないようにしたいと思っています。が、情けないことに、渦中にあってはすぐに忘れ、思い悩んだり、途方にくれたり…、サ住にいた時がそうでした。

でも、感謝なことに、神さまは6か月というをかけて、「毎週1回、30分〜60分の看護師による訪問を受けることができるというわたしにとって一番良い方法を教え、導いてくださいました。 

サムサムさん、尊いお分かちを感謝します。

私も理性ではわかっていても感情がついていかなくて、人間の弱さをつくづく思い知らされますが、このように経験や思いを分かち合えることは何という慰めであり励ましでしょうか。お交わりを感謝します。

ご自宅での良き日々を祈っています。


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2017年12月10日

家の教会2017㊹ −受胎告知とマリヤの讃歌(マグニフィカート)―

anime_tomosibi03.gif2017年12月10日(日) (2017第44回 家の教会)

10時5分〜11時5分

  出席者 2名(with 良輔)

@ 初めのお祈り

A 主の祈り

B 子ども讃美歌

C 讃美歌   95番「わが心は」  

D 聖書輪読  ルカによる福音書 1章26節〜55節

E お話    優子

F お祈り   1人ずつ

G 讃美歌   100番「生けるものすべて」

知子は全日外出、ユキは同室にいたがFのお祈りより参加。

讃美歌100番は文末に歌詞を掲載しています。


ルカによる福音書1章26節〜55節:

1:26 六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。

1:27 この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。

1:28 御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。

1:29 この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。

1:30 すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。

1:31 見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。

1:32 彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、

1:33 彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。

1:34 そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。

1:35 御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。

1:36 あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。

1:37 神には、なんでもできないことはありません」。

1:38 そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。

1:39 そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、
1:40 ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、
1:42 声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。
1:44 ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。
1:45 主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。
1:46 するとマリヤは言った、
「わたしの魂は主をあがめ、
1:47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
1:48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
1:49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。
そのみ名はきよく、
1:50 そのあわれみは、代々限りなく
主をかしこみ恐れる者に及びます。
1:51 主はみ腕をもって力をふるい、
心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王座から引きおろし、
卑しい者を引き上げ、
1:53 飢えている者を良いもので飽かせ、
富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
1:54 主は、あわれみをお忘れにならず、
その僕イスラエルを助けてくださいました、
1:55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを
とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

お話:

マリアの処女懐胎はエリサベツとザカリヤの出来事よりも信じられないことだと思います。あまりにも超自然的なことゆえに論理的に説明することはできません。ですから何故そのことを信じられるのかと問われても論理的に説明することはできず、信じられるということ自体が神さまからの賜物なんだなぁとしみじみ思います。


アヴェ・マリアの「アヴェ」は「ご挨拶申し上げます」、「こんにちは」などの挨拶言葉ですが、その原語の「カイロー(χαίρω)」の本来の意味は、ラテン語で「祝せられよ」や「喜ぶ」を意味する挨拶の言葉です。その訳語を意図的に「おめでとう」(28節)としたのは、聖書の中でここルカ伝1章28節だけです。


天使ガブリエルがマリアに「おめでとう」と言った真意は、「全く新しい霊的な夜明けを意味する希望に満ちた喜びの挨拶」でした。それはマリアだけにではなく、世のすべての人々が主にあって祝福される新しい時代の到来を意味するのです。


「イエス」とは「神は救いなり」の意味で、ヘブル語では「ヨシュア」です。「神の子」であるは「聖なる者」を意味し、「聖」とは「区別」されることを意味します。即ちイエスは私たちとは異なる存在であり、「インマヌエル」という神性と人性とが完全にひとつとなっているお方です。


マリヤ.png先週のザカリヤの気持ちと同様に、私たちはあまりに大いなる恩恵を受けていることを知る場合も不安を覚えます。マリヤはまだ結婚もしていないし、それに神さまの子を産むだなんて、とても信じられないことゆえに戸惑い心配になって、「どうしてそのようなことがありえましょうか」と驚きの問いかけをしました。


すると天使が、「親族のエリサベツも赤ちゃんを産みますよ」と言い、「エリサベツは赤ちゃんを産むには年を取っているし、赤ちゃんはできないと言われていた人でしたが、今、エリサベツのお腹の中に赤ちゃんがいますよ。それは神さまのお考えで神さまがされたことなのですよ。」と話しました。


IMG_9475.jpg「おことばどおり、この身になりますように」。

マリヤは納得できたから委ねたのではなく、神への全幅の信頼の上に立って、神のご計画が成就されますようにと全てを委ねたのです。この姿こそが神への献身だと思いました。


マリヤのような超自然的なことでなくても、私たちも人生途上でマリヤと同じ全身全霊の祈りをささげる時があります。


例えば、主に在って百戦錬磨の闘いに明け暮れる年月を耐えながらも、全く状況が変わらず、その苦悩と悲しみの末に、より深く謙遜な魂へと導かれて主に委ねるのです。「神さまのみ心が成りますように」と。


しかし、その時の何と平安なことでしょうか。そのような時こそ神の恵みを強く実感させてくださいます。


クリスチャンとは主イエス・キリストの招きを受け入れたキリストに属する者です。ですから私たちにもマリヤのように神の聖霊が臨んでくださっていることを覚え、今一度信仰を強くされて死に至るまで神の約束を信じて神の勝利に立って歩ませてくださいと祈ります。


イエスさまは神の子なのに、神に依存しなければ生きていくことができない貧しく弱い者として、御霊(の助けと力を求めて生き抜かれたのです。ましてや私たちは聖霊を求めずして生きていくことはできません。


マリヤはエリサベツに会いに行きました。マリヤのお話を聞いてエリサベツのお腹の中の赤ちゃんが激しく動いて、マリヤに臨んだ同じ聖霊がエリザベツをも満たし、エリサベツはマリヤのお話も神さまから来たものだとわかったのです。


神さまに選ばれた者たちの交わりは、このように聖霊が行き交って恵みから恵みへと豊かな喜びで満たしてくださいます。


「マリヤさん、おめでとう! 心配しないでいいのよ。あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの赤ちゃんも祝福されています。神さまのことを信じていればいいのですよ」とエリサベツに言われたマリヤは、神さまがどんなに大きなことをしてくださったのかが全身全霊で分かったので、「わたしの魂は主を崇めます」と言葉に出したのです。


46節〜55節もまたあまりにも有名な「マリヤの讃歌」や「マグニフィカート」と呼ばれているところです。それは最初の言葉、「わたしの魂は主を崇めます」をラテン語で“Magnificat”(マグニフィカート)と言うからです。


ここはまさに旧約(神さまとの古い契約)からイエス・キリストが到来した新約に移る黎明の光景です。


力ある者が権力を振るい、貧しい人が虐げられ、善良な人が苦悩し悲しむ不条理、それらのことを超えて全ての事を支配されている全知全能なる神のご計画が実現されていくというのです。ハンナの祈り(第一サムエル記2章1節〜10節)を思い起こさせます。


飼い葉桶の赤ちゃんこそが救い主であり、イエス・キリストを通して朽ちず渇くことのない喜びと希望、魂の解放と平安という真の救いを与えてくださったのです。


こうして紀元前8世紀の預言者ミカの預言が成就したのです。


5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、

あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、

イスラエルを治める者があなたのうちから

わたしのために出る。

その出るのは昔から、いにしえの日からである。

5:3 それゆえ、産婦の産みおとす時まで、

主は彼らを渡しおかれる。

その後その兄弟たちの残れる者は

イスラエルの子らのもとに帰る。

5:4 彼は主の力により、

その神、主の名の威光により、

立ってその群れを養い、

彼らを安らかにおらせる。

今、彼は大いなる者となって、

地の果にまで及ぶからである。

(ミカ書5章2節〜4節)


主イエス・キリストを受け入れた者たちに臨んでくださっている祝福は、その者の周囲の人々に、そして思いもしない人々にも広がって行くのです。
キリスト不在の日本のクリスマス。
1人でも多くの人に人生の夜明けが訪れますように祈ります。

2_onpu_ak.gif讃美歌100番「いけるものすべて」

1 生けるものすべて
  おののきて黙(もだ)
  世の思いすてて ひたすらに仰げ
  かみの御子(みこ)は くだりたもう
  このきよき日にぞ
2 きみの君なれど
  マリヤより生まれ
  うまぶねの中に 産声をあげて
  おのが身をば あたえたもう
  つみびとのために
3 とこしえの光 暗き世にてりて
  み使いは御子を
  かしこみて崇(あが)
  いざわれらも ほめうたわん
  いとたかき君を
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2017年12月03日

家の教会2017㊸ ―イエス誕生の序曲―

anime_tomosibi04.gif2017年12月3日(日) (2017第43回 家の教会)
                   

10時30分〜11時

  出席者 2名(with ユキ)


@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌  48番「こどもをまねく」

C 聖書輪読     ルカによる福音書1章1節〜25節

D お話       優子

E お祈り      一人ずつ

F 讃美歌      94番「久しく待ちにし」


ルカによる福音書 1章1節〜38節:

1:1 わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、

1:2 御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、
1:3 テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。
1:4 すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。
1:5 ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。
1:6 ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。
1:7 ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。
1:8 さてザカリヤは、その組が当番になり神のみまえに祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった。
1:10 香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。
1:11 すると主の御使いが現れて、香壇の右に立った。
1:12 ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。
1:13 そこで御使いが彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。
1:14 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。
1:15 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、
1:16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。
1:17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。
1:18 するとザカリヤは御使いに言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。
1:19 御使いが答えて言った、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。
1:20 時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたはおしになり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。
1:21 民衆はザカリヤを待っていたので、彼が聖所内で暇どっているのを不思議に思っていた。
1:22 ついに彼は出てきたが、物が言えなかったので、人々は彼が聖所内でまぼろしを見たのだと悟った。彼は彼らに合図をするだけで、引きつづき、おしのままでいた。
1:23 それから務めの期日が終ったので、家に帰った。
1:24 そののち、妻エリサベツはみごもり、五か月のあいだ引きこもっていたが、
1:25 「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」と言った。


お話:
今年は今日からアドヴェント(待降節)に入り、教会の新しい年が始まりました。私たちは先週からアドヴェントを迎えた気持ちで、クリスマスに間に合うように一緒に関係個所を読み始めています。今日はイエス・キリストが地上に突入される序曲とも言うべきところです。

ルカはユダヤ人ではなく異邦人(ギリシャ人)で医者であり歴史家でした。ルカは他の弟子たちと違ってイエスさまにお目にかかったことはありません。イエスさまの弟子たちによって導かれた人です。

ルカによる福音書はルカがテオピロのために労して書き記したものですが、テオピロという一個の魂の救いだけにとどまらず、ユダヤ人以外の人々にも福音を伝えたいとの祈りがあったと思います。

テオピロがどのような人物であるかよくわかりませんが、「テオピロ閣下」と尊称で呼んでいることから地位の高い人であったようで、しかも熱心にイエスのことを尋ね求めている求道者だったと推察されます。

エリサベツとザカリヤには子どもがいない年老いた夫婦でした。アブラハムとサラのことを思い出しますね。神さまはこの夫婦にも御業を始められ、エリサベツとザカリヤはバプテスマのヨハネの父母になります。

「アビヤの組の祭司」というのは、祭司アロンの子孫は24班に分かれていて、各班の中から籤(くじ)で選ばれて1週間ずつ交替して順番に宮の祭事を司(つかさど)りました。

アビヤはその第8班(歴代誌第一24章7節〜19)で、1回務めると再び選ばれることはないということですから、この日はザカリヤにとって一生に一度の特別な日でした。

ついでながら24班の順番は一定しているので、紀元70年エルサレムの陥落時に順番に当った班の名称から逆算すると、このアビヤの班の順番に当たる週間を知ることでき、そこからイエスの誕生の日を決定する一つの材料となると黒崎幸吉が記しています。

ガブリエルは「神の人」、または「神は人なり」の意味で、神の意志を伝える使いです。その御使いが、すでに老境に入っている夫婦に子供が与えられると聖所で告げたのです。

しかも、その子は万民の祝福となるべき男児だと言われて、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか」と言ったザカリヤは話すことができなくなってしまいました。

なぜ?! あまりの出来事に驚いてそのような言葉が出てしまったのは自然なことだと思うのですが、「あなたの祈りが聞き入れられたのだ」と告げられているのに信じなかったからだというのです。

私たちもイエス・キリストの十字架の死によって罪赦されるという、考えられないような恵みゆえにか、多くの人が信じられないのと同じだなぁと思いました。例えば太宰治は「そんなうまい話はない」と信じられず自殺してしまいました。

私たちもいつも祈っている神さまを本当に信じているのだろうかと、今一度自己吟味することは、まさにアドベントにふさわしい過ごし方だと思います。

ザカリヤが話せなくなったのは罰のように思えるのですが、ザカリヤの出来事は本心に立ち返らせる神さまの警告だと思いました。

神さまが「黙って見ていなさい」と沈黙させてくださり、そのことによりザカリヤは妻の身に起こった神さまの偉大なわざをしっかり見ることになりました。そして、「ザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた。」(64節)と、しゃべられるようになった第一声は神への讃美でした。

この夫婦に授かった子どもはバプテスマのヨハネであり、キリストの出現の前にイスラエルの人々をイエスに導き、イエスによって主なる神に立ち返らせる使命を託された人物でした。

IMG_9338.jpgバプテスマのヨハネの誕生は、まさにイエスさまが誕生される前の序曲です。神さまはいつも私たちが人間の力ではどうにもならなくなった時に不思議なことをなさいます。

私たちにとって喜ばしいことであれそうではないことであれ、それは全知全能なる神さまのみ心に叶う最善なのです。

ザカリヤにとっては試練だったでしょうが、神さまは愛にして愛なるお方です。私たちも神さまの約束をしっかり信じて善き闘いを闘い抜きたいと思います。


posted by 優子 at 16:25| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月26日

家の教会2017㊷ ―インマヌエルの神―

IMG_9110.jpg「イエスさま、今日も家の教会できたことを感謝します」。
いつもこのように祈るユキの言葉に、私の中から深い感謝を呼び起こしてくれます。
そして、「家の礼拝、私も太志もいつも参加しています」との真智子の一言から、神さまからの慰めと祝福を感じます。

今朝も神であるイエス・キリストの御臨在のもとで、次女夫婦も一緒に集っている光景を想いながら礼拝を始めました。
12-3.jpg2017年11月26日(日)
 (2017第42回 家の教会)

    10時20分〜55分

 出席者 3名(with ユキ&良輔)


@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 聖歌     229番「驚くばかりの恵み」
C 聖書輪読   マタイによる福音書1章18節〜24節
D お話     優子
E 聖書輪読   マタイによる福音書2章1節〜12節
F お祈り    一人ずつ
G 讃美歌    529番「ああ嬉し我が身も」
聖歌229番は良輔のリクエストでした。
マタイによる福音書 1章18節〜22節:
1:18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
1:20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使いが夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
1:22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。
その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。
これは、「神われらと共にいます」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
1:25 しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。

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2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
2:4 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。
2:5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
2:9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
お話:
今年のアドヴェントは来週から始まりますが、クリスマスに間に合うように詳しく読んでいきたくて、今日は「プレアドヴェント」と位置付け、今週から関係個所を読むことにしました。

ヨセフとマリアは結婚する約束を結んでいましたが、マリアはまだ一緒になる前に身重になりました。処女が聖霊によって身ごもるというのは、とても理性では考えられないことですから、結婚前に身重になったことがわかるとマリアは姦淫の罪で石打ちで殺されてしまいます。

ヨセフは誠実で責任感のある人でしたから公にはしませんでした。しかしまたそのようなマリアを妻にすることもしませんでした。それがヨセフの正しさであり、「ヨセフは正しい人であったので」と言われる所以です。

それだけではなく、夢の中で語られた主の使いの言葉に従ってマリアを妻に迎えました。これは神に対する全幅の信頼ゆえにできることですね。

「お言葉どおりこの身に成りますように」というマリアの言葉はよく耳にするところですが、主に委ねる従順さはマリアだけではなくヨセフも同様でした。

「イエス」という名は、モーセの後継者ヨシュアのギリシア語訳「イエスース」から来ており、ヘブル語では「イェシュア」、「主は救い」という意味です。

イエスさまがもたらされた救いとは、イスラエルがローマ帝国の圧迫から解放されるというような、ユダヤ人が考えていた救いではありませんでした。

それは人間の深いところにある魂の滅び、死や安全を脅かす根源的な恐れからの解放でした。それが神さまの永遠の保障であり、そのしるしが イザヤ書7章14節に告げられています。それはイエスさまがお生まれになる800年も前に預言されているのです。

「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」。

「インマヌエル」という呼び名は、「神は私たちと共におられる」という意味ですが、「それは本来、状態を意味するのではなく、『神性と人性が共にある存在』という意味です神と人とが一つになったユニークな存在で、その存在の神からの『しるし(サイン)』は、『処女から産まれる男の子』でした。

インマヌエルであるイエス・キリストは、神としてのあり方を捨てて人間として歩まれました。しかも貧しく弱い者として歩まれましたから、神に依存しなければ生きていくことができず、神と共にある祝福をご自身を通して証しされたのです。

昨日の「ブルンナー読書会」で話題になったことと関連しますが(明日には書き上げて更新したいと思います)、物に溢れ満たされていては神に依存する謙虚さは生まれてこないでしょう。

多くの人は依存するのは弱い人間のすることであると批判します。しかし、そうでしょうか。強いことがよいことだとは思いませんが、強い人など一人もいませんし、自分は弱い存在だとわかっている人こそが最も強いとも言えるのです。

ヨセフの信仰と生き方に学びたいですね。
今日はお話が短かったので終わるのが惜しく、みんな心弾ませて今朝読んだ聖書の続きを読みました。
附記:知子は今日も全日外出です。
posted by 優子 at 16:35| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月19日

家の教会2017㊶ ―金持ちの青年―

IMG_9083.jpg2017年11月19日(日) 

  (2017第41回 家の教会)

                10時〜45分

 出席者 3名(with ユキ&良輔)


@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌  82番「雄々しくあれ」

           90番「主イェスと共に」

C 聖書       ルカによる福音書 

            18章18節〜30節

D お話       優子

E お祈り      1人ずつ

F 讃美歌      355番「主を仰ぎ見れば」

           344番「かいぬしわが主よ」


ルカによる福音書 18章18節〜30節:
18:18 また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
18:19 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
18:20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。
18:21 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。
18:22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
18:23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。
18:24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。
18:25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
18:26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、
18:27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。
18:28 ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。
8:29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、
18:30 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。
お話:

救いを求めてイエスさまのところに来て救われなかったのはこの人だけだったのではないかと思うのですが、彼は品行方正でユダヤ教の戒律を守っている青年であり、若くしてサンヘドリンという最高法院の議員に選ばれていました。


それだけではなく人生についても考える人だったのだと思います。それゆえにイエスさまに純粋な気持ちで問うたのです。


しかし、青年は唯一絶対なる神さまのことがわかっていなかったゆえに「よき師よ」と、人間に対する形式的な敬称を用いて呼びかけました。イエスさまはそんな青年の心を直截に神に向けるために十戒を示されました。


その問答の次にまだ一つ欠けている(やり残している)ことがあり、それは大金持ちの青年に全ての資産を売却して貧しい人に分けるということでした。


ここで誤解してはいけないのは、施しをすれば永遠のいのちが与えられるという意味ではありません。持ち物を売り払って施すという善い行いによって救いを獲得するのではありません。


彼は自分中心の生き方でした。言葉を変えて言えば、自分のために生きていたゆえに財産を手放すことができなかったのです。しかし、これは大金持ちだった彼だけの問題ではありません。金持ちではない私たちにもできません。


それに財産だけが問題ではありません。富だけではなく、地位、名誉、習慣、伝統、あるいは、頑なな自我もそうです。いずれにしてもそれらを棄てられないがゆえに、それらを自分の神とし神を求めることもないのです


永遠の生命を確保したいと思わない人はいないでしょう。この大金持ちの青年は「永遠のいのち」を求めることのできる心を持っていたのに財産が大きな妨げになってしまったのです。


全財産を投げ出すなど誰もできないと思います。それどころか時には僅かな額でも出し惜しみしてしまうのが人間の本性ではないでしょうか。イエスさまは「人にはできない事も、神にはできる」と言われました。ここが大切で、ここに心を傾けるのです。


私たちはイエスさまの仰る通りに従えなくて、迷い、惜しんだり、間違いを侵してしまうお互いですが、そんな自分を嫌悪しながらもやっぱりイエス・キリストと共に生きていきたいと願います。


感謝なことに、そのように命の道に踏みとどまらせてくださっているのも神の力、神の恵みです


主イエスはいつか言われました。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と。即ち、富をどこに積むかは心をどこに置くかということであり、何を一番大切なこととして生きるかということです。


地上の富や善行や奉仕に生きることが一番大切なことではなくて、神さまとの関係を一番大切なこととして生きる。それが富を天に積むことであり、「天に宝を積む」生き方なのです。そして、神さまとの関係の中で神さまに喜ばれる生き方に励みたいと思います。


主イエスに従って行くとき、私たちは徐々に握りしめているものから手を放して、隣人や貧しい人々のために用いていく者と変えられていくことでしょう。神の力が働いて必ず変えてくださることを信じます。


IMG_9060.jpg自分の努力によって神さまの救いを手に入れようとするのではなく、ただ神さまの恵みに依り頼んで信頼して生きる。そのためには持っているものを貧しい人々に分けてやりなさい。イエスさまは今日も私たち一人ひとりに語っておられます。

posted by 優子 at 17:15| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月12日

家の教会2017㊵ ―イエスを仰ぎ見る―

12-1.jpg昨日良輔はゴルフで不在、知子は勉強会で全日外出、私はユキと二人で本当に楽しい一日を過ごしました。家庭でこんなに心安らいだのは少なくとも今年初めてだったと思います。

そして今朝、ユキはサッカー教室に。昨夜のうちに「お昼ご飯のあと礼拝が終わってから遊ぶ約束するね」と、驚くべき喜ばしいことを言いました。私たちは9時から自治会の草引き清掃に。

12-4.jpgサッカーから帰宅したユキは、お友達から誘われて他自治会のイベントには勝てず「夕拝しよね!」と言って遊びに行きました。勿論快く見送りました。😖

2017年11月12日(日) (2017第40回 

                     家の教会)

3時30分〜4時15分
出席者2名(with 良輔)
@ 初めのお祈り    優子
A 主の祈り
B 讃美歌        285番「主よ御手もて」
C 聖書輪読       ローマ人への手紙 7章14節〜25節
D お話          優子
E お祈り         1人ずつ
ローマ人への手紙 7章14節〜25節:
7:14 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。

7:15 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

7:16 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。

7:17 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

7:18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

7:19 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。

7:20 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

7:21 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

7:22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、

7:23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

7:24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

7:25 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

お話:

「いずれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)のすみかぞかし。」(わたしのような罪深い者は地獄以外に行き場がない存在だ)とは、親鸞の有名な言葉です。9歳で出家し、20年間もの年月を比叡山にこもって天台宗の厳しい修行を徹底的にした親鸞が最後に行き着いた境地でした。


親鸞の胸中はパウロの苦悩、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(24節)と重なります。


今日輪読した箇所にあります「内なる人」とは、「心」と呼んでいる人間の良心が備わっているところの意味であり、人間は生まれながらに良心が備えられていることをパウロは知っています。ところが善い行いができない、実践できないという自己矛盾、これが人間の本質なのです。


24節の言葉は、心が窒息するほどの絶望であり苦悩の究極の叫びです。ところが次に一転して「感謝」するのです。主イエスによる救いによって解放されるからです。


主イエスを仰ぎ見ることにより即刻即座に解放されます。これは知識によってわかるというものではなく聖霊体験です。私は信仰生活の初めのころはわかりませんでしたが、今はよくわかります。


主イエスに繋がっていることがいかに大事であるか、主イエスを離れては再び深い苦闘に入ってしまいます。信仰者といえども生きている限りこの人間の本質は変わりません。主イエスをそっちのけで生きているならば、罪の存在にも気がつきませんし罪の力に悩まされることもないでしょうが。


ルターでさえ状況に動揺し落胆することがありました。(そのエピソードはここをご覧ください)。エリヤもそうでした(列王記第一の18章)。耐えられないほどの圧迫を受けていたと告白しています。


私たちも生きている限り葛藤から解放されることはなく、揺れ動き、悩み苦しむのですが、自分の弱さ、醜さに絶望するのは素晴らしいことであり、それは信仰を授かった者ゆえに感知できることです。神さまの光に照らされて自分の罪深さがわかるのですから、絶望は神の祝福なのです!


ここで大切なことは、そうした情態に長くとどまっていてはいけないということです。その絶望の苦闘からイエス・キリストを仰ぎ見るのです。主に在って自らの欠けを知った人だけが、そのことを告白することができるのです。


パウロは「わたしは罪人のかしらです」と言っています。私など時にはそのように言えない、言いたくない時があります。そんな時は、自分を悩ます人、悪意を向ける人に縛られているのであり、神さまに対しても素直になれず、悔い改めていないというのもよくわかっています。砕かれていないのです。


パウロは主に在って歩むほどに砕かれて低くされていきました。最初の頃は自らのことを「使徒の中では最も小さい者」、次に「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」と呼び、最後には「私はその罪人のかしらです」(Tテモテ1:15)と。


律法でいつも責められているというのが私たちの現実であり、クリスチャンになるとより一層に自分を責めるものがあるのですが、キリスト者とされた人には聖霊が授けられています。主イエスはその現実を越えて常に私と共にいてくださいますから、主の御名を呼んで即刻解放していただきましょう!


祈ったり聖書を開く気持ちにもなれない時は、「主よ」、「イエスさま」と御名(みな)をお呼びするだけでもいい。讃美できない時は讃美歌を聞くだけでいい。きっとまもなく自らも口ずさんでいることでしょう。本当に「主を喜ぶことはあなたの力になるのです」は真実です。


「もし、祈ることをやめさせ、私たちを気落ちさせるなら、すでに悪魔の餌食になっている。自己吟味せよ」。


「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。

         (ガラテヤ人への手紙 5章1節)


最後に「奴隷」という言葉からミケランジェロの未完成の彫刻を思い出しました。アカデミア美術館の「プリジョーニの回廊」にある4つの奴隷の彫刻は、敢えて未完成に造られたと言われています。

    atlante.jpg 若い奴隷.jpg      

      「奴隷アトランテ」    「若い奴隷」

  

     髭の奴隷.jpg 目覚めた奴隷.jpg

     「髭の奴隷」     「目覚めた奴隷」


これらの彫刻に共感した人が、「奴隷の像は鎖につながれていないけれど大理石の中に閉じ込められていて、それが石の穴から解放されることは決してない」と感想を述べ、「彼らの姿は、罪と苦闘する私にどこか似ています」に始まる鋭い聖書のメッセージがあります。

それが掲載されている『デイリーブレッド』の電子版では文字だけではなく音声でも聴くことができ、ワンメッセージが数分間の短いものですので是非ここを開いてお聴きください。

附記:

大学卒業した頃に読んだロマン・ロランの『ミケランジェロの生涯』で、ありあまる天才を発揮するも意志の欠如や性格の弱さ、病的なほどの小心者ゆえに惨めすぎるほどに繊細な神経の持ちであると知りました。ミケランジェロほど純粋な心を持った人はいなかったと。


「もう時の移り変わらぬ魂は幸いである」。(ミケランジェロ)

「気を狂わせるような奴隷状態から」解放されたいと死を渇望したミケランジェロ。90年の生涯は「聖なる苦悩に満ちた」ものでしたが、「キリストにおいて生き、キリストにおいて死んだことも真実である」とロランは言っています。

ミケランジェロの晩年は何も完成させることができなかったとありますから、これらの彫刻は敢えて完成させなかったのではないと思うのですが、調べて自分なりの結論を得たいと思います。

『ミケランジェロの生涯』の裏表紙の内側に、「2000年10月8日、真智読了」と私の字で書いてありました。マチも読んでいたとは嬉しいです。


20時10分追記:ユキは宿題(今日のことを作文に書く)をしなければならなかったので夕拝もできず、お風呂から上がった今5分間ほど聖書のお話をしました。


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2017年11月05日

家の教会2017㊴ ―サウロの回心―

2017年11月5日(日) (2017第39回 家の教会) 

9時〜9時45分
出席者 3名(with ユキ&良輔)
@ 最初のお祈り  優子
A 主の祈り
B 子ども讃美歌   74番「神のお子のイエスさま」
C 聖書輪読 
D お話      優子
E お祈り     1人ずつ
F 讃美歌199番 「わがきみイエスよ罪の身は」
使徒行伝 9章1節〜19節:

9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、

9:2 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。

9:3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。

9:4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

9:5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

9:6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。

9:7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。

9:8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。

9:9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。


9:10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。

9:11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。

9:12 彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。

9:13 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。

9:14 そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。

9:15 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。

9:16 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。

9:17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。

9:18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、

9:19 また食事をとって元気を取りもどした。

お話:

サウロとは後にパウロと呼ばれる人のことです。サウロはヘブライ名で、パウロはローマ名で、生まれた時からローマの市民権を持っているユダヤ人です。使徒になってから伝道のためにローマ名を用いたようです。


サウロはステパノが石で撃ち殺された場所に居ました。石を投げませんでしたが、律法を守ることが神さまの教えであると信じていましたから、ステパノを殺すことに負い目は感じていませんでした。


イエス・キリストを信じる人々への迫害はエルサレムだけではなく、遠くへ逃げて行った人々も捕まえようとシリアに向かいました。今日のお話しはその途上のダマスコでの出来事で、イエスさまが地上を去られた2〜3年後のことです。


ダマスコ.jpgこれはイスラエルの地図です。左側の青い部分は地中海で、右側にある青い所は上がガリラヤ湖で、そこからヨルダン川が流れて死海(下方の青い所)に行きつきます。


ダマスコはパレスチナからメソポタミヤに通じる世界最古の都市の一つでした。迫害するためにダマスコに向かっていたサウロの上に、突然天から光が射して倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きました。


サウロは「主よ、あなたは、どなたですか」と「主よ」と呼んでいますが、この時は主と認めたからではなく、ただただ恐れおののいて呼んだのだと思います。


主はサウロに「なぜ教会を迫害するのか」ではなく「なぜキリスト信者を迫害するのか」でもなく、「なぜわたしを迫害するのか」と言われました。「わたし」という言葉に強い意味を感じます。


ダマスコでのサウロ.pngそして、「町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」と言われ、この時サウロは目が見えなくなっていました。


これまでのサウロはユダヤ教徒(パリサイ派)として他の追随を許さないほど熱心に神の律法を守っていました。しかしそれは自分の目で見、自分で考えて生きてきたのであり、その結果神に敵対し致命的な罪に陥っていました。


そこにいた人々は主イエスが言われたとおりサウロの手を引いてダマスコへ連れて行きました。私はここにも注目します。


ヨハネ伝9章に出てくる生まれつきの盲人の目を開けられた時、イエスさまがつばきで作られた泥を盲人の目に塗って、「シロアム(「遣わされた者」の意味)の池で洗いなさい」と言われたとおりにしたことを思い出し、主の導きに従うことの大切さに気づかされます。


今まで人を導いてきたサウロが手を引かれて連れて行ってもらった姿も印象的です。サウロの目は見えていたけれど大切なことは見えていなかったのです。


アナニヤ.png主イエスによって一時目が見えなくなり、言われたとおりダマスコへ行き、アナニヤがサウロに洗礼を授けると「目から、うろこのようなものが落ちて」、主イエスによって霊的な目も開かれて大切なことが見えるようになったのです。


ウロコ.jpg

ところでこれが魚のウロコです。昨日、生協のお店の魚コーナーで見つけました。「鱗(うろこ)のない魚もあるよ」と、魚をさばいている人が声をかけてくださいました。

こんなものが目についていたらよく見えません。こんな感じです。

IMG_8756.jpg


IMG_8758.jpgサウロは「目から、うろこのようなもの」が落ちたと言っています。取り除くとこんなにハッキリ見えますね。

「目からウロコが落ちる」という言い回しは聖書のこの箇所から来ています。その意味は、単に目が見えるようになったということだけではなく、今までわからなかったことが突然わかるようになったという意味です。


サウロはこれまで迫害していたことに疑問を感じたり悩んでいたとは書いていませんが、どうだったんでしょうか。この時からサウロの人生が180度転換したのです。神に背を向けていた生き方から正反対の生き方に変わったのです。


「わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」という主イエスのお言葉は強烈です。これに関して黒崎幸吉は次のように書いています。


「『選びの器』、即ち神が特に選び用い給う目的に叶える素質を持って居る事を神は認め給うたのであろう。サウロは是までその誤れる熱心のために基督者を苦しめて居った。今より後は正しき信仰のために自ら苦しまなければならない


主がサウロを選びて、その証人たらしめんとて彼に現れたまえる事を示されし事、彼に視力と聖霊とを与え給う事とであった。要するにサウロの回心を来らしめし主要の事実は栄光の中における主イエスの顕現であった。


いわゆるパウロの神学と称せられる如きものはその片鱗だもここに示されなかった。これを見てもパウロの回心の事実は理論によったのではなく、直接に主イエスに接した事による事が判明る」。


不思議ですね。サウロは教会を迫害するために来たダマスコで伝道を始め、初代教会の最大の伝道者になりました。そして、キリスト教が世界的宗教になる基礎となり、そのおかげで極東の地、日本にも伝えられたのです。


この箇所を読んで思ったのは、クリスチャンになっても見えなくなることもあるのではないかということです。クリスチャンとは「キリストに生かされている者」という意味であり、キリストの十字架によって赦され愛されていると信じている人々です。


ところが立派なクリスチャンになろうとしたり、あるいはまた、静まって神さまとの密な時間を取らなかったり、悔い改めだけではなく悔しさや悲しみを神さまに委ねずに放置したままにしていると、いつしか感謝する心も失われて大切なことが見えなくなってしまいます。


ですから私たちの目にもいつのまにか分厚いウロコに覆われてしまわないように、イエスさまによって神さまに赦され愛されていることを信じて生きる。それが確かな歩き方であり最高の人生であると再確認させられました。


祈ることさえできない時は「イエスさま」と主の御名(みな)をお呼びするだけでいいのです。どんな時も御名を唱えながらこの世の旅路を歩んで行きたいと思います。


主の平安と尽きない希望と喜びは、み言葉(聖書)と祈りをとおして満たされ、主にある交わり(分かち合い)の中で癒され豊かにされていくのだと思います。お互いに教え励まし合って、心の目に鱗がこびりつかない日々を重ねていきたいと思います。


病床にあるかた、病者に寄り添っておられるかた、悲しんでおられる多くの方々に神の慰めと励ましが豊かにあらんことを切に祈ります。

附記:礼拝のあとまもなく、昨夕のニュースで見た堺中央綜合卸売市場で開催されている「第一回あなごサミット」に4人で行ってきました。わずか20分で着いたのに会場近くになると渋滞していて入るまでに同じぐらいかかりました。


ユキはアナゴをつかみ、お目当てのアナゴの天ぷらを食べて大満足。私は買い物をするにも人が多すぎて疲れました。結局アナゴやマグロは会場内にある回転ずし屋さんで食べて13時半頃に帰宅しました。

IMG_8773.jpgユキは今、宿題の作文を書き終わり、おじいちゃんとアケビを採りに「ナルニアの森」へ出かけていきました。食べたこともないのに。

追記:この実を木に登って採って来ましたが、時期遅れの実はブヨブヨになって腐り始めていました。


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posted by 優子 at 15:16| 家の教会 | 更新情報をチェックする