2017年04月23日

家の教会2017O ―信仰は神の恵み―

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今日の二上山(にじょうざん・雄岳)

2017年4月23日(日) (2017第16回 家の教会)
16時10分〜17時
出席者 3名(Except R)
@お祈り  優子 
A 聖書輪読  ヨハネによる福音書 20章19節〜31節:
B お祈り   一人ずつ
C 分かち合い
D 子ども讃美歌  「雄々しくあれ」
          ユキの独唱に始まり共に讃美する
E 讃美歌   496番 「麗しのしらゆり」

ヨハネによる福音書 20章19節〜31節:
20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

20:26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
20:28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

20:30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
20:31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。

お話:
イエス・キリストの誕生は神の言葉(ロゴス)が人となった「キリストの受肉」という、とてつもない出来事でした。そしてクリスマスと同様のとてつもない出来事がキリストの復活でした。

復活の出来事により、神さまがイエスさまの十字架の死によって私たちの罪をお赦しくださったことがわかったのです。復活は神さまからの赦しの宣言であり神さまの応答です。

ですからイエスさまのお言葉を信じる者は、キリストの復活によってその人の罪の問題は完全に解決しました。このことを「救い」と言い、復活こそがクリスチャンの原点なのです。


パウロはこのように言っています。

「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」。

           (コリント人への第一の手紙15章17節〜20節)

復活などあり得ないと多くの人は言うでしょう。2000年前の人にとっても復活は信じがたいことでした。

今日のお話はイエスさまが復活されたその日の夕方の出来事です。弟子たちはイエスさまへの迫害が自分たちにも及ぶことを恐れて戸を閉めていたのですが、イエスさまは戸を開けずに戸を通過して入ってこられました。

イエスさまは弟子たちにご自身を現してくださいました。
ところがそこに居なかったトマスが帰って来た時に、仲間から「わたしたちは主にお目にかかった」と言われて、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。」 と主張しました。

その8日後にイエスさまはトマスにも現われてくださり、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。見ないで信ずる者は、さいわいである。」と仰いました。

それ以後の人々のクリスチャンはみな見ないで信じる者になったわけですが、2000年前多くの人々がイエスさまの奇跡を見ました。しかし、奇跡を見た人が皆信仰を持ったわけではありません。

奇跡を見て信じた人もいれば、見ても信じなかった人がいました。ではどうして信仰を授かる人と授からない人がいるのでしょうか。

私は全く疑う余地もなく信じることができました。なぜならば復活されたのは人間ではなく神だからです。
「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである。」とイエスさまは言われました。

そのこと以前に、信じることができないのは主イエスが話されたことに関心がないからだと思っています。聴く者の心に、また、奇跡を見ていた人の心に求めがないからです。「求めがない」とは即ち心に飢え渇きがないのです。

自分の人生にさえ主体的になれず傍観者として生きている人も大勢います。誰も皆、人生途上で次から次へと難題がやってくるわけですが、傍観的に生きている人はそれらと対峙しないで流してしまうのです。

自分自身と向き合うことをしないのです。そういう人に限って決まって他者を責めるのが特徴ですね。「悪いのは全て相手だ」と。常にそのような生き方をしていると、ついに何も見えなくなってしまうのでしょう。

ですからいくら年齢を重ねても他者の優しさや思いやりがわからず、感謝と喜びのない人生を生きることになるのです。それではせっかくの命が勿体な過ぎます。

自己と向き合うと自分の内面の葛藤の醜さを知り、そのようにありたいと願いながら実行が伴わないという二律背反に苦しみます。偉大な思想家は言います、パウロの告白に優る自己省察はないと!

自分の姿を見ると落ち込みますが、そのたびに主イエスを見上げるのです。そしてパウロの言うように、「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」と何度も立ち上がるのです。常にこのことを憶えて生かされていることこそが神の恵みです。

御言葉(聖書の言葉)にこそ力があります。神の力が働いているから慰めを受け、励ましと力を受けるのです。真剣に求めている人ほど恵みが豊かに注がれます。最近の私は知子の唇を通して聴く御言葉から溢れる励ましと希望を感じています。

私たちは修養してクリスチャンになるのではありません。神の恵みによって一方的に授かったのです。そして、「あなたこそ生ける神の子キリストです」という告白の恵みを経てクリスチャンになるのです。

そのとき神さまは自分の生涯が何のためであるかを確認させてくださり、そこから真の人生が始まるのです。まさに神を知るまでは「人生の夜明け前」なのです。


弟子たちは復活の主と出会って福音を宣べ伝え始めました。

「わたし(イエス・キリスト)はよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」。

ブルンナーはこのように語っています。

「この言葉によってキリストが言おうとしておられることは、何よりも先ず、もしあなたが地上的ないのちを超えて、永遠に向かって目を上げないなら、わたしが誰であり、あなたがたに対して何を意味するものであり、わたしがあなたがたのためになしたこと、これからなそうとしていることを全然理解できないであろう」。

一人でも多くの人が神さまの恵みを受け取られますように!
厚かましく「ありがとうございます!」とお受けすればいいのです。

そして、互いに良い影響を与え合いながら生きていきたい。そのような日々こそが最高の人生だと思います。
今週も多くの闘いがあるでしょうが、どんなことの中にも主のみ旨がなるように信じて励むことができますように。今週もそのことを祈って始めましょう!

「イエスさま、今日の朝はいろいろありましたが『家の教会』ができて感謝します。・・・」(ユキの祈り)

讃美歌 496番 「うるわしの白百合」

無題.png@ うるわしの白百合 ささやきぬ昔を
  イエス君の墓より いでましし昔を

(繰り返し)うるわしの白百合 ささやきぬ昔を
      ゆりの花 ゆりの花 ささやきぬ昔を

A 春に会う花百合 夢路よりめさめて
  かぎりなき生命に 咲きいずる姿よ
  
B 冬枯れのさまより 百合しろき花野に
  いとし子を御神は 覚したもう今なお

附記:外出中のお昼過ぎのこと。
良輔より淳子姉が来てくださっているとの連絡が入り、出先で出会ってしばらく話す。1月に入院されていた時よりもお元気になっておられたが、痛みが完全に癒されますようにお祈りします。

posted by 優子 at 17:48| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年04月16日

家の教会2017N ―イエスの復活―

IMG_3955-thumbnail2.jpg昨朝、脳死の赤ちゃんが「昨夜7時に亡くなった」との連絡が入った。午後はイスラム教式で埋葬するので午前中ならば在宅しているという短い知らせだった。

この日は大津教会でクリスチャン・ペンクラブの集いがあり、会計報告と編集に関して連絡事項と多くの検討を抱えていたので休むことができず、関係者に遅刻する可能性ありを連絡して知子と共にご自宅に馳せ参じた。

ご遺体の前で、そのお母さんに寄り添い、許しをえて声を出して神に祈らせていただいた。まもなくお母さんとRちゃんの泣く声が聞こえた。お祈りのあとRちゃんを抱きしめて長い間泣いていた。3年生までずっとユキとクラスも同じ、まだ9歳の女の子だ。

まもなく伴侶が役所から帰ってこられた。日本では死亡後24時間経たないと埋葬できないので翌日の午後になると動揺しておられた。

どのような言葉でもって慰めることができようか。
私はただ " I have deepest sympathy." としか言えなかった。

我が子の不条理な死という悲しみと苦しみだけではなく、それに加えて私と知子が経験している積年の苦悩の、その究極にある女性とご家族である。ただただ神のご加護を祈るばかりである。

今頃、埋葬されたところだろう。

知子は信仰によって夜が明けるのを心待ちにし、朝早くからイースター愛餐会の準備を整えてくれていた。知子と私は今年のイースターほど神の真実を深く感じたことはない。

今朝はRちゃんご家族のことを憶えつつイースター礼拝を捧げた。

2017年4月16日(日) (2017第15回 家の教会)
10時5分〜10時55分
出席者 4名
@ 前奏
A 主の祈り
B 讃美歌(21) 575番 「球根の中には」
C 聖書輪読 マタイによる福音書28章全章
D お話   優子
E お祈り  一人ずつ(T)
E 聖歌 172番 「墓の中に」
F 後奏

マタイによる福音書28章全章:
28:1 さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
28:2 すると、大きな地震が起った。それは主の使いが天から下って、そこにきて石をわきへころがし、その上にすわったからである。
28:3 その姿はいなずまのように輝き、その衣は雪のように真白であった。
28:4 見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。
28:5 この御使いは女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、
28:6 もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。
28:7 そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。
28:8 そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。
28:10 そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。

28:11 女たちが行っている間に、番人のうちのある人々が都に帰って、いっさいの出来事を祭司長たちに話した。
28:12 祭司長たちは長老たちと集まって協議をこらし、兵卒たちにたくさんの金を与えて言った、
28:13 「『弟子たちが夜中にきて、われわれの寝ている間に彼を盗んだ』と言え。
28:14 万一このことが総督の耳にはいっても、われわれが総督に説いて、あなたがたに迷惑が掛からないようにしよう」。
28:15 そこで、彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした。そしてこの話は、今日に至るまでユダヤ人の間にひろまっている。

28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
28:17 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

お話:
安息日である土曜日が終わって日曜日の明け方のことです。ユダヤ人の律法では土曜日が安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)でした。

今朝は先週の続きでマタイが書き残した箇所を読みましたが、マルコはマタイよりも詳しく記しています。

「さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは『だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか』と話し合っていた。」
         (マルコによる福音書16章1節〜3節)

ここに登場するサロメとは、洗礼者ヨハネの首を求めた人物(ヘロディアの娘)ではなくイエスの弟子です。サロメと言えばバプテスマのヨハネの首を求めた人を思い浮かべますが、それは「ヘロディアの娘」と呼ばれているサロメであり、ここにでてくるサロメは別の人物で、イエスの母マリアの姉妹である「クロパの妻マリア」(マリア・サロメ)と同一人物と言われているようです。

墓の入り口に大きな石が置いてあります。これは死者と生者の世界を分け、もはやどんなに嘆いても交わることができないという象徴的なものですね。

この石を動かすことができなければイエスさまの御遺体に香料を塗ることもできません。でもとにかく行ったのです。行かずにはおられなかったのです。

すると地震が起こって天の使いにより大きな石を転がされ、恐る恐る墓の中に入って行くと白い長い衣を着た若者が座っていたと言いますから凍りつくほどびっくりしました。
実際「見張りをしていた人たちは、恐ろしさの余り震えあがって、死人のようになった。」と書いてありますね。

しかし「恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」とあります。私は「恐れながらも大喜びで」という言葉に引き付けられました。 

見張りをしていた番兵たちはただただ恐怖だけでした。しかし、イエスを信じる者にとっての恐怖は直ちに喜びに変わったのです。試練や苦悩なくしてクリスチャンはありえません。

私たちは人生の途上で何度も呻く苦悩を経験します。理屈に合わないことばかりで「どうしてですか?! いつまで忍耐すればいいのですか?!」と苦難に耐えかねて何度も呻きます。

私はクリスチャン生涯に入れられて今年で30年になりますが、信仰生活の初めの頃は「神は物事すべてを良きものにしたもう。神は愛にして愛なるお方」と知ってはいても、小さな慰めは感じ得てもよく分からなかった。実感できませんでした。

ようやく10年あまり過ぎてからわかる者とされました。
そこに至るまでの苦しみは恵みへの必然の道であり、それらのことを通されながら神さまは確かに深みへと導かれてきたことがわかります。呻きから恵みへとセットされていたのです。

墓に馳せ参じた彼女たちの根底にイエスさまへの信頼があったと思います。最初は驚きと恐れでいっぱいでしたが、次の瞬間、恐れながらも大きな喜びが来たのです。

私たちの信仰生涯においても主の御心の時(神の時)に思いもしない出来事があり、まさに神の絶妙なる時に絶妙なる出来事があり驚きに震える時があります。

その出来事を通して「優子よ、わたし(イエス)だ。わたしはいつも共にいる。全てを知っているぞ」と、神の臨在を知らせてくださいます。

墓に急いだ女性たちは半信半疑ではあったかもしれないけれど、主は復活されるということを確信していたのです。その時は半信半疑ではあったとしても、復活されるという信仰をもっていたのです!


私たちの日々も尽きぬ試練との闘いで無我夢中の日々ですが、彼女たちのように信仰を持って「走るべき行程」を最後まで走り抜きたいと思います。神の家族(信仰の友)と共に互いに励まし合いながら。

IMG_4008.jpg自然界を見ていますと不思議でなりません。
自然界を創られた神はその中に死者の復活をも暗示しておられるように思います。


この「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」。(ロマ書10章4節)

主イエス・キリストが復活されたことより土曜安息日は廃止され、復活された日曜日を「主の日(聖日)」と定められました。ハレルヤ!

「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」。
    (コリント人への第一の手紙 15章19節)

カール・バルトは言っています。
「聖書は信じた時に神の言葉になる」。

「イエスさま、ユキはおなかがすいたのでお話の聴き方があまりちゃんとできなかったけれど、イエスさまが復活されたことがわかりました。
イエスさま、復活してくださってありがとうございます。おめでとうございます。イエスさまが復活されたので、ユキの家も今からパーティーみたいなものをします・・・」。

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★聖歌172番「墓の中に」歌詞:

1.墓の中に いと低く
  葬られたり ああ我が主
 (くり返し)
  黄泉(よみ)より帰り 死と悪魔に勝ちし
  君こそ勝利の主なれ 君こそまことの主なれ
  ほめよイエスを  我らの神を

2.番し続けし  兵の努力
  虚しかりき  ああ我が主
  (くり返し)
3.封印固き  門(かど)破り
  出でたまえし  ああ我が主
(くり返し)


英語版はここをクリックしてください。

★讃美歌(21) 575番「球根の中には」
 
     1 球根の中には 花が秘められ、
       さなぎの中から いのちはばたく。
       寒い冬の中 春はめざめる。
       その日、その時を、ただ神が知る。

     2 沈黙はやがて 歌に変えられ、
       深い闇の中 夜明け近づく。
       過ぎ去った時が 未来を拓く。
       その日、その時を、ただ神が知る。

     3 いのちの終わりは いのちの始め。
       おそれは信仰に、死は復活に、
       ついに変えられる 永遠の朝。
       その日、その時を、ただ神が知る。


posted by 優子 at 14:34| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年04月09日

家の教会2017M ―十字架の意味―

4月8日 9時46分.jpg
2017年4月9日(日) 
     (2017第14回 家の教会)

10時5分〜10時55分
出席者 4名
@ 前奏(Dubois:「大路を旅する汝らよ」−十字架上の七言より―)
A 主の祈り
B 讃美歌
C 聖書輪読 マタイによる福音書27章27節〜56節
D お話   優子
E お祈り  一人ずつ(T)
F 新聖歌  113番 「君もそこにいたのか」 
G 後奏 

IMG_3627.jpgマタイによる福音書27章27節〜56節:
27:27 それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。
27:28 そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、
27:29 また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。
27:30 また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。
27:31 こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。

27:32 彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。 27:33 そして、ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、
27:34 彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、
27:36 そこにすわってイエスの番をしていた。
27:37 そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。
27:38 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
27:39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって
27:40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。
27:41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、
27:42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。
27:43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
27:44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。

27:45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
27:47 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。
27:48 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。
27:50 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。
27:51 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、
27:52 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。
27:53そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。
27:54 百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。
27:55 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。
27:56 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。

お話:
今日から受難週に入りました。十字架にかかられて復活されるまでの最後の7日間です。聖書にはこの最後の7日間を詳しく書いています。

これらのことをマタイは28章中の8章を、マルコは16章中の6章、ルカは24章中6章、ヨハネは21章中10章も書いているということです。ゆっくり時間をかけて読み直してみたいです。

エルサレム神殿には12の門があり、イエスさまは子ロバに乗って、その中の「黄金の門」と言われている門から入られました。

ゼカリヤ書(旧約聖書)9章9節に、「見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。」という言葉があり、イエスさまのエルサレム入城により成就しました。

ローマ帝国に支配されていたユダヤの人々は、イエスさまがローマ帝国から自由にしてくれる強い王、革命家のような王だと思っていましたから大歓迎して迎えました。マタイの記事から群衆の声が聞こえてくるようです。

「群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、
『ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ』」。

       (マタイによる福音書21章8・9節)

「ホサナ」とはヘブライ語で「今、救ってください」という意味です。ところが、このように熱狂していた大人たちは一転して「イエスを十字架につけろ!」と喚(わめ)き始めます。子どもたちには意味がわからず非常に混乱したことでしょう。

ついでながら「黄金の門」は、その後エルサレムがイスラム教徒に占領された時に塗り固められて、今も封鎖されたままだそうです。ユダヤ教の人々はイエスさまを救い主と信じることができなくて、今度こそ本当の救い主がこの門を通って現われると信じて待ち望んでいるのです。

木曜日の最後の晩餐の後、イエスさまは祈るためにオリブ山に行きます。ここでイエスさまとペテロの有名なやり取りがあります。マタイによる福音書26章34・35節です。

「『よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』。 ペテロは言った、『たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』。弟子たちもみな同じように言った」。

そしてゲッセマネの園で祈りますが、ここでユダの手引きでイエスさまは捕まり、大祭司カヤパによる取り調べが朝まで続きます。その中庭に入り込んでいたペテロが見つかり、イエスさまが予告されたようにペテロは3度イエスを知らないと言うのです。

そして金曜日の朝早く、イエスさまはサンヘドリンという最高裁判権を持ったユダヤ人議会で尋問されました。死刑にする有罪の証拠は何一つ見つからなかったのですが、総督ピラトはユダヤ人指導者や群衆の声に動揺し、「あなたがユダヤ人の王であるか」と問うたことに対して「そのとおりである」と言われたイエスさまの言葉で有罪判決を下しました。

ローマ兵はイエスさまを十字架につける前に40回鞭打ちました。その鞭には尖った金具がつけてあり、打たれるたびに肉が飛び散りました。映画の『パッション』でリアルに描いてあるそうですが、映画とわかっていても私は見ることが出来ません。

ヨハネはイエスさまが亡くなられる時のことを次のように書き残しています。
「しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た」。(19章34節)

私は今も忘れられないのですが、教会へ行き始めた頃にお聴きした小山恒雄牧師の説教で、イエスさまの肉体には外科医が扱う全ての症例があったということが忘れられません。
「血と水とが流れ出た」というのは、大量出血で心臓が停止して心臓組織に水がたまったものが流れ出たのです。

死刑は9時頃から始まり3時頃まで続きました。12時から3時まで全地は暗くなりました。神殿の幕が真二つに裂け、地震が起こり、墓が開いて眠っていた聖徒たちが生き返ったこと、また、ローマの百卒長(百人隊長)が「まことに、この人は神の子であった」と証言したことなどが記録されています。

calvary.jpgイエスさまは「すべてが完了した」と言われて息を引き取られました。 これは全人類の罪の身代わりが完成した宣言です。

イエス・キリストの十字架の死は疑いようのない歴史的事実であり、すべての人間の罪の身代わりとなって死んでくださったのです。このことでイエスさまの十字架を信じる者は罪が赦されて永遠の命が与えられるようになったのです

私たちの身代わりになって罪を贖ってくださったのに、それでもなおどこまでも強情なのが私たちです。勿論クリスチャン倫理を示されてもそれを成就することは誰もできません。

そのこともイエスさまがご存知であったために、それら一切を背負って負けて死んでくださったのです。そして、そこから神のわざが始まったのです。命ある限りそのことをもっともっと深く知り味わっていきたいです。

私の人生を誰が最も評価してくださるのでしょうか。
それは主イエスです。
人の評価は役に立つものだけです。人の評価は3日もすれば変わってくるでしょう。だからそんな人の評価には立たないのです!

私はイエスさまの愛がわかった時に、イエスさまが私のすべてを見ていてくださり、覚えてくださっているのを知りました。いや、イエスさまが私のすべてを見ていてくださり、覚えてくださっているのを知った時にイエスさまの愛がわかったのです

3日前の散歩のとき、殆どの桜は3分ほど咲き始めていた中で、まだ蕾もそんなに膨らんでもいないのに焦らず堂々と風に揺られていた木がありました。その木がとても個性的に見え、神さまも私たちに全てさまざまなことは個性に任せてくださっているんだと思いました。

私たちはイエスさまという神さまによる受け皿があるから信じるのです。私たちが召されるとき、まだ捉えていなくてもイエスさまはそれで「良し」として天国へ迎え入れてくださいます

さあ受難週を心に刻みましょう。
AD30年頃の今頃の日曜日に主イエスはエルサレムに入城され、月曜日にいちじくの木を呪い、神殿から商人を追い出され、火曜日は神殿で問答され、水曜日はベタニヤへ行かれマリアから香油を注がれ、木曜日は最後の晩餐をされ、金曜日に十字架につけられて亡くなられ、黄泉に降られて日曜日に復活されました。

ユキのような児童にはわからないでしょうが、今一度私たちは自らと向き合い、イエス・キリストの十字架とは何であったのかを考えたいと思います。これは全ての人に問われているのです。

あなたにとって十字架の意味は何でしょうか。
あなたは、自分が神さまに救われ、愛されていることを確信していますか?

次の聖日はイースターです。
それまで主に導かれ備えられて共に御復活の感謝と喜びを捧げましょう。
 
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聖歌400番、新聖歌113番
「君もそこにいたのか」

@ 君もそこにいたのか  
  主が十字架につくとき
  ああ 何だか心が震える 
  震える 震える
  君もそこにいたのか

A 君も聞いていたのか 
  釘を打ち込む音を
  ああ 何だか心が震える 震える 震える
  君も聞いていたのか

B 君も眺めてたのか 
  血潮(ちしお)が流れるのを
  ああ 何だか心が震える 震える 震える 
  君も眺めてたのか
IMG_3641.jpg
C 君も気がついたのか 
  突然日が陰(かげ)るのを
  ああ 何だか心が震える 震える 震える 
  君も気がついたのか

D 君も墓に行ったのか 主をば葬るために
  ああ 何だか心が震える 震える 震える
  君も墓に行ったのか 
               アーメン

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これは昨日の様子。
折ってしまったチューリップが花を咲かせてくれた!

附記:午後、良輔は天王寺へ。
   高校時代のバスケットクラブの友人と4人で同窓会!

posted by 優子 at 14:22| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年04月02日

家の教会2017L ― ナルドの香油 ―

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2017年4月2日(日) (2017第13回 家の教会)
10時5分〜10時55分
出席者 4名
@ 前奏 
A 子どもの讃美歌  「天にいます私たちの父」 
B 主の祈り
C 聖書輪読  ヨハネ12章1節〜11節
C お話    優子
D お祈り   
E 讃美歌   313番 「ナルドの壺ならねど」
F 後奏

ヨハネ12章1節〜11節:
12:1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
12:2 イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
12:3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
12:4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
12:5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
12:7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
12:8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
12:9 大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
12:10 そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。
12:11 それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。

お話
主イエスは復活される1週間前にエルサレム入城されました。まだ人を乗せたこともない小さな子ロバに乗って。この時、ユダヤの当局から指名手配されて「イエスの居どころが分かれば届け出よと」命令が出され、イエスさまの死が近づいていました。

最後の1週間の水曜日、イエスさまがとても愛しておられたマルタとマリアとラザロの兄弟姉妹に会いに行かれました。ベタニヤという村です。この翌日、主イエスは逮捕されるのです。

ナルド.jpg「ナルド」はヒマラヤの高山地に自生するオミナエシ科の多年草植物で、精油はその根茎から採取される高価なものです。
マリアが持ってきたのは約300グラムで、それは300デナリといいますから300万円余りにもなる年給に相当するものでした。

香りをつけるためならば数滴で十分なのにイエスさまの足に塗りました。そのようにするのは埋葬の時だと言いますから、マリアはイエスさまの死を予感しての行動でした。

マルコによる福音書の14章8節に、
「この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。」とイエスさまが仰っています。

しかもユダヤでは人前で髪の毛を解くのは娼婦のすることであり、女性にとって恥辱と考えられていましたから、マリアは本当に砕かれた心だったことがわかります。マリアの信仰、優しさをイエスさまはご存知でした。

それに対してユダは、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか。」と言いましたが、他の弟子たちもそのように思ったに違いありません。マタイ伝では「弟子たち」と記しています。

このことについて黒崎幸吉は、「功利的にまた道徳的に考うるならば、この言は最も正しき考えであると言わなければならぬ。しかしながら天国における価値判断は功利主義の原則によらない。」と言っています。

ここで想起するのが“ Not doing , but being. ”です。
つまり、私たちは何をするかではなくて、どのように生きているかという「在り方」こそが大切であるということです。” doing ”の前に自分はいかにあるのかという " being "です。

今しかできないこと。今すべきことを精いっぱいやったのです。マリアの行為は受難のキリストと正面から向き合っていた純粋な愛の発露でした。弟子たちはイエスさまがまもなく世を去ろうとしていることに対して無関心だったのでしょうか。


イエスさまはユダのことも重々承知の上でした。黒崎幸吉は次のように述べています。
「神の御旨に従いてこれを用い給いしものであって、その目的はおそらく彼によりて神の経綸が実現せんがため、また最も優れたる人間といえども罪に陥る可能性あることを占めさんがため、またこの世においては聖徒の群中にすらサタンの侵入を免るることができないことを示すがためであろう」と。

これに加えてもっと突っ込んで言えば、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか。」というような場面や状況にあった時、欺瞞を感じたことは無いでしょうか。自らに、また、その場の人々にも。

主イエスが語られた全てのメッセージの中核は「罪」の問題です。聖書(キリスト教)がいう「救い」とは罪が赦されるということです。人は罪の解決なくして死ぬに死ねないのです。死ねばすべて赦されるわけではなく、死んでからでは遅いのです。


IMG_3391.jpgいつも精神を研ぎ澄ませて「神の時」を生きたいと思います。それはどんな生き方かと申しますと、苦しい時は苦しみ、悲しい時は悲しむということであり、それらを避けないで対峙するということ。クリスチャンならば苦しみながらも神に祈りつつ生き抜くということです。

来週はいよいよ受難週に入ります。私たちもマリアのように今一度主イエスの受難を心に留めたいと思います。主イエスは私の罪を贖うために、あなたの罪を贖うために身代わりになって死んでくださったのです。

私たちも「私のナルドの香油」をマリアのように惜しげもなく差し出せる者でありたいと切に願う者であります。


  主イエスと関わりのない罪人はない
  主イエスが忘れる罪人はいない
  主イエスがそっぽむく罪人はいない
  主イエスが怒る罪人はいない
  主イエスが見捨てる罪人はいない
  主イエスが招かない罪人はいない
  主イエスが御手を差し伸べない罪人はいない
  主イエスに救われない罪人はいない
                 
                (河野 進)

附記:同じ記事がマタイ26章6節〜13節、マルコによる福音書14章1節〜11節に記載されていますが、それぞれ記述の違いがあります。

マタイ・マルコでは「重い皮膚病の人シモンの家」で、ラザロは客となっているのに対して、ヨハネは特筆していませんが生き返った「ラザロとマルタ、マリアの家」と考えられます。

マタイ・マルコでは頭に香油をかけたのに対して、ヨハネでは足に塗って自分の髪の毛で拭ったとあります。

また、ヨハネでは「マリア」と記しているのに対して、マタイ・マルコでは「一人の女」。
マリヤの行為に文句を言ったのは、ヨハネでは「イスカリオテのユダ」で、マタイでは「弟子たち」、マルコでは「そこに居合わせた人の何人か」となっています。

IMG_3390.jpg「イエスさま、ユキは今週から4年生になります。これからもたぶん怪我もするけれど、大きな怪我はしないようにお守りください。
いつも日曜日にしている『家の教会』で、讃美歌を歌ったあとに聖書を読んで一つひとつ覚えています。
今週も遠くにいるマチとフーも元気で過ごせますように。このお祈りをイエスさまのお名前によって御前にお捧げします。アーメン」。


追記:この日の午後、久々に4人で散歩に出た。
posted by 優子 at 13:10| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年03月26日

家の教会2017K ―最も大切な戒め―

「家の教会」を始めてちょうど1年になる。今朝47回目の礼拝を重ねることができたのは、神さまの深い憐みとお支えであると強く感じる。
2017年3月26日(日) (2017第12回 家の教会)
10時10分〜10時55分
出席者 4名
@ 前奏    Sarabande (Handel)
A お祈り    優子
B 主の祈り
C 讃美歌    461番 「主われを愛す」
D 聖書輪読   マルコによる福音書 12章28節〜34節
E お話     優子
F お祈り    一人ずつ
G 讃美歌    第2編196番 「救い主は待っておられる」
               (このビデオの1分27秒より)

マルコによる福音書12章28節〜34節:
IMG_3144.jpg12:28 ひとりの律法学者がきて、彼らが互いに論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
12:31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
12:32 そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。
12:33 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。
12:34 イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。

お話:
IMG_3141.jpg私たちは今、受難節(イースターまでの46日間)を過ごしています。今日は受難節第4主日ですから、このあと3回目の日曜日が今年のイースターです。

イエスさまはエルサレムに入られてから神殿の境内で宗教指導者たちと論争をされました。イエスさまが十字架上で苦しみを受けられる前の最後の1週間にも多くのお話をされました。

枯れたイチジクの木、ぶどう園の農夫の譬え、やもめの献金、タラントの譬えなど、このほかにも「家の教会」でもいくつか取り上げています。今日の個所も受難直前にお話しされたことです。

磔刑される3日前の火曜日は「論争の火曜日」と呼ばれています。マルコ伝では11章20節から13章までが火曜日の出来事です。

律法学者、パリサイ派、サドカイ派などが、何とかしてイエスさまを訴える口実を見つけるために言葉巧みに陥れるための質問をしてきました。しかし、イエスさまは彼らの罠にはまることなく丁寧に答えて全て論破されました。

そんな律法学者の一人がイエスさまをジッと見つめて尊敬の念を感じたのでしょう。彼はイエスさまに敵対心を持たないで素直な気持ちで尋ねました。

「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。
即ち、613もある律法の中で何が一番大切なのですかと聞いたのです。

するとイエスさまは、「主なるあなたの神を愛し、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言われました。律法学者は同意して、「それらのことはすべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」と答えました。

この律法学者は今までの律法学者たちと違って正当な受け答えをしたので、イエスさまは「あなたは、神の国から遠くない」とお褒めになりました。もう神の国のすぐ近くまで来ているということですね。

彼がイエスさまの言われたことを理解できたことは素晴らしいことです。しかしイエスさまは「神の国に到達している」とは仰いませんでした。そのことを知的に理解しても神の国に到達するには深い溝のような狭き門があるからです。

私たちが神さまを愛しているならば神さまが喜ばれることをしよう、神さまが仰る通り隣人を愛し、隣人が喜ぶことをしようと思います。

しかし、それはとても難しいことです。それを完全にできる人はどこにもいません。私たちは心の深くでしっかり神さまの教えを憶えていても、それを実践するのは難しく、何度も自らの姿にガッカリし神さまを失望させることが多いです。

でも思うのです、それが神と共に生かされている証しではないかと。神さまが喜ばれるような人間になりたいと願いつつもできないことを嘆くのは、神さまの光を受けているから気づかされるのであります。

そんな自己的で愛のない自分だからこそ救われる必要があり、救いを求めて神の恵みによって救われるのです。


律法学者は知的には理解できましたが、それで満足して終わってしまったのでしょうか。そこからいよいよ自らの真の姿と対峙していく時に真理への道が開かれていくのです。

燔祭の儀式や犠牲が大切ではなく、また苦行や修行で立派な人間になることができると考えるのは大いなる的外れであり、人間の努力では決して得ることはできないのです。

パリサイ人のパン種は偽善であり、ヘロデのパン種は世俗主義、サドカイ人のパン種は快楽主義、イエスさまはこれらを警戒せよと言われたのです。

IMG_3150.jpgイエス・キリストは、神を愛することも隣人を愛することもできない罪深い私たちをこよなく愛してくださり、私やあなたの身代わりになって十字架にかかって罪を贖ってくださいました。

このイエスさまにこそ罪をゆるす権威があり、そのことを認め受け入れた人に罪の赦しが現実となるのです。


私たち家族もまた、イエス・キリストの贖罪によって神の国に至る深い溝の橋渡しをしていただいて、断絶していた神さまとの交わりが与えられました。これはただただ神さまからの一方的な憐みによって罪赦されて救われたのです。

救いに入れられた私たちは今一度そのことを深く心に留めて、日々刻々悔い改め、主イエスにふさわしい者に変えられていきたいと切に願います。今週もイエスさまと共に明るく生きて行きましょう!
 
IMG_3146.jpgこのあと市会議員選挙の投票に出かけた。

2月より報道されている学校法人「森友学園」の籠池泰典氏が23日の証人喚問で、国有地売買関連問題は混迷の度合いを増すばかり。安倍首相は自縄自縛状態か? 人間の実相を考えさせられる日々である。

posted by 優子 at 16:07| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年03月19日

家の教会2017J ―パリサイ人とサドカイ人のパン種に警戒せよ―

つくし.jpg
(Photo by Yuki.)
2017年3月19日(日) (2017第11回 家の教会)
9時40分〜10時10分
出席者 4名
@ 主の祈り
A 讃美歌    465番 「うれしき朝よ」
B 聖書輪読   マタイによる福音書 16章1節〜12節
C お話     優子
D お祈り    優子
E 讃美歌    294番「みめぐみ豊けき」

マタイによる福音書 16章1節〜12節:
16:1 パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。
16:2 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、
16:3 また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。
16:4 邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。

16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
16:6 そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。
16:7 弟子たちは、これは自分たちがパンを持ってこなかったためであろうと言って、互いに論じ合った。
16:8 イエスはそれと知って言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互いに論じ合っているのか。
16:9 まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
16:10 また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
16:11 わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。
16:12 そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教えのことであると悟った。

お話:
裏のスイセン.jpg今日のお話は、パリサイ派とサドカイ派の人々が主イエスを試そうとして「天からのしるし」を見せて欲しいとやって来たところです。

パリサイ派は聖書をよく読んでいるのですが、律法(神さまが与えられた教え)を形式的に従う人々で、サドカイ派は理知を重んじ政治に関心がありました。新約聖書に出てくる「祭司長たち」とはサドカイ人(びと)のことです。

共に復活や霊の存在を信じていないことや、当時のユダヤ社会の体制派ですが互いに対立関係でした。しかし一度だけ意見が一致しました。それはイエスさまを十字架に架けるという裁判においてです。

夕焼けならば明日は晴れ、朝焼けは天気が悪くなる前兆であることは私たちもよく知っています。それと同じように、イエスさまが多くの不思議な業をなさったことを「恵みによる救いの時の徴」であることを見分けることができないのは、不信ゆえに霊的な盲目になっているからだと言われました。

パリサイ人やサドカイ人は主イエスを救い主として認めていないのに信仰者を装っている。つまり、イエスさまによって福音が伝えられて罪の赦しが示されているのに、それを「ありがとうございます」と受け取っていないのです。

だから彼らは「徴」を求めるのであり、イエスさまは「邪悪で不義な時代」(よこしまで神に背いた時代)だと厳しいことを言われました。

「ヨナのしるし」というのは、「家の教会」でも『ヨナ書』を読んだことがありますが、ヨナが神さまからアッシリアの都ニネベの人々に伝道するように言われた時の話です。

ヨナは神さまからニネベの人々に悔い改めて神に立ち返るように告げなさいと言われたのに、神さまの命令に背いて舟に乗って逃げました。
そして、海に投げ込まれ、大きな魚に呑み込まれて魚のお腹の中で3日3晩経ってからニネベに打ち上げられたというお話しです。

「すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる」。
        (マタイによる福音書12章40〜41節)

このようにイエスさまご自身がヨナのことを解き明かしておられる通り、イエスさまもヨナのように3日3晩、大地の中におられるというのです。即ちイエスさまが十字架の上で処刑されて死なれ、葬られて、3日後に復活されることを示しています。

そして、この数日後にイエスさまは十字架につけられるのですが、パリサイ人もサドカイ人も主イエスの復活が信じることができませんでした。

パリサイ人らは不信仰ゆえに盲目だったのです。このことは信仰によって受け止めることなのです。霊的に盲目な者にはどんな徴も、どんなに徴を与えられても何の意味もなしません。だから彼らにはヨナのほかには何の徴も与えられないと仰ったのです

イエスさまが言われた「時代のしるし」の「時代」とは「時」という言葉であり、絶妙なる時や機会を意味するものであり、「時のしるし」を見分けるとは「思い起こす信仰」に生きることだというのです。

私たちが主に在るならば、日々の出来事にイエス・キリストの恵みが示されていることに気づきます。そして、私たちは生かされて生きている今こそが、神の時であり、神の恵みにあずかる時であることがわかります。

心が不純な時は静まって思い起こさねばなりません。私たちは何度も何度も神さまから赦されて、支えられて常に最善へと導いてくださっていることを思い出して恵みの中で生きることです。

イエスさまのあとから追って来た弟子たちはパンを持ってくるのを忘れていたことに気がつきました。その時、イエスさまに「パリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に警戒しなさい」と言われたので、食料の調達を忘れたことを叱られると思ったのでしょう。

それにしても、イエスさまの5つのパンの奇跡や、7つのパンで4000人を満腹にさせてくださったことを、すぐに思い出せたらイエスさまが何とかしてくださると安心できたはずです。

即ち弟子たちにとって、パンの奇跡の体験が彼らの中で生きた経験にはなっていなかったのです。自分の生活において生きた働きにはならなかったのです。

私はここを読んで、「弟子たちはパンの奇跡を見ていたのに食料のことで心配するなんて」と驚きました。そして自らのことを振り返っても、やはり「私だったら一瞬忘れたとしても、あんなに印象的なことならばすぐに思い出すのに」と思いました。

しかしその次に、彼らを笑えないと気づかされました。

私たちもこれまで何度も何度も神さまに助けていただいて心から感謝の祈りを捧げたのに、それらが身についていないこともあるのです。例えばいつまでも気持ちを変えることができないならば、それらは生きた経験にはなっていないということだからです。


「信仰の薄い者たちよ」の語源は「信仰が小さい」という意味だそうですが、イエスさまは弟子たちを誤解されて信仰が小さいと言われたのではなく、そういうことがあなたがたの信仰の小ささの現れだと言われたのです。

そんな弟子たちだから、イエスさまは何度も何度も弟子たちに教えられたのです。パリサイ人やサドカイ人の思想の中にある多くの害毒に感染しないように教えられたのです。

サドカイ人にはヘロデ党が多かったことから「ヘロデのパン種」(マルコ伝8章15節)とあり、彼らは「しるし」を求め、証拠を示されて納得する人々です。

私たちは既に主イエス・キリストによって大いなる「しるし」を与えられています。それはイエスさまの十字架の死と復活であり、そのことを思い起こすことができる恵みを与えられています!

この恵みによって導かれていくのがイエス・キリストを救い主として信じる者の生涯です。私たちもかくありたいものです。


「あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか」。
          (コリント人への第1の手紙5章6節)

かつて「今日でもキリスト教徒の中に、このパリサイ型とサドカイ型とがあり、いずれも真の信仰ではない。」と警鐘を鳴らした黒崎幸吉の「パン種に対する注意」を記しておきます。

「口と手とをもって形式的に律法的にキリストに仕えんとする教会主義は、一種のパリサイのパン種である。

又福音の中より奇跡を除き、イエスの神の子に在し給うこと、十字架によりて罪を贖い、復活して神の右に在し、やがて再び来りて審判を行い給うこと等を除きて、キリスト教を一種の文化運動、社会運動に化せしめんとするものは一種のサドカイ主義である。

かくのごとく今日我らの世界においてもこの二主義が種々の形を為して存在しているのであって、我らはイエスを神の子と信ずる信仰によりてこのパン種を除くことをしなければならない」。

ユキが撮ったノスミレ.jpg昨日、裏庭でユキが見つけた野すみれ。今朝、私も撮ってみた。

今日は午後2時からサッカーだった。



@2017.3.jpg
これも昨日ユキがお友達と見つけたつくしの大群。
ユキに誘われて早速今朝、野すみれとツクシの大群を見に行った。

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2017年03月12日

家の教会2017I ―ソドムとゴモラ 執り成しの祈り―

2017年3月12日(日) (2017第10回 家の教会)
12時25分〜13時5分
出席者 4名
@ 主の祈り
A 子供の讃美歌 10番 「ことりたちは」
B 聖書輪読    創世記18章16〜33節
C お話      優子
D 分かち合いとお祈り    
E 讃美歌   368番 「つとめいそしめ」

創世記18章16〜33節:
18:16 その人々はそこを立ってソドムの方に向かったので、アブラハムは彼らを見送って共に行った。
18:17 時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。
18:18 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。
18:19 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。
18:20 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、
18:21 わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。
18:22 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
18:24 たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
18:25 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
18:26 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
18:27 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
18:28 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
18:29 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
18:30 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
18:31 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
18:32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。
18:33 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。

お話:
東日本大震災から6年経ちました。マグニチュード9の大地震、全てを呑み込んでいった津波、そして原発事故、あまりの出来事に今も言葉を失い涙だけが流れます。

このような大災害をどのように受けとめればいいのか、年月が経てば経つほど容易に言えることではないと思います。神さまが全てを創造され支配されていると信じる私たちにも、「神さま何故? どうしてこのようなことをゆるされたのですか?」というのが正直な気持ちです。

しかしながら、そのような深淵な問題は神の領域のことであり、私たちが単純明快に理解できることではなく、各自が生涯かけて深めていくことが賢明であると思います。


今日は「ソドムとゴモラ」の個所から「執り成しの祈り」について心に留めたいと思います。

「お祈り」は、神さまと対話であるとイエスさまが教えてくださいました。私たちは感謝と共に神さまのお導きを願います。また、悔い改めて赦しを乞います。それらは自分のこと、自分のために祈るのですが、自分以外のために祈る「とりなしの祈り」があります。

家族や友人、知人のために祈ります。私たち家族のことも次女夫婦や友人が祈ってくださっており、互いに祈り合います。それを「執り成しの祈り」と言います。

その最たる執り成しの祈りが、イエスさまが十字架上で祈られた祈りです。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と、イエスさまを十字架に架けた人々のことを祈ってくださいました。

「ソドムとゴモラ」 ジョン・マーティン.jpg今日読んだ箇所は、神さまがアブラハムにソドムとゴモラを滅ぼしに行くと告げた場面です。
ソドムとゴモラの滅びについては、このあとの創世記19章に記されており、この箇所を題材に多くの画家が描いています。この絵はその一つです。

「ソドム」と「ゴモラ」は不道徳であらゆる悪がはびこり退廃しきっていたために、天からの硫黄と火によって滅ぼされた町の名前で、紀元前3100年以上も前の出来事です。

「ソドム」と「ゴモラ」は「滅びの象徴」として用いられていますが、現代は科学者も政治家もあらゆる分野のリーダーたちの殆どが、基準も目的も失われたソドムとゴモラのような状態です。

アブラハムは主の僕である以上に「神の友」と言われた人物です。神さまに「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重い」ので、その通りであるならば滅ぼすと告げられて、アブラハムは神さまに訴えました。

「神さまは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が50人いたとしても、正しい者までも悪い者と一緒に滅ぼしてしまわれるのですか?!」と訊ねました。

すると「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」と言われたので、「では45人では? 40人では? 30人、20人、10人では」と食い下がったのです。これも「執り成しの祈り」の代表例であると思います。

私たちが信じているおかたは人間が作り出した神ではありません。そのお方がイエス・キリストを信じれば死んでも死なない永遠の命を与えて、天国に入れてくださると言われるのです。

そのことを神さまの応答として受け止めることが幸いであり、そのことを信じて感謝と喜びと希望をもって生きることは最高の人生です。そして人生を深めていきながら「3.11」のことや、世界中で起きている不条理なことを考え続けていくことが「生きる」と言うことであると思います。

イエスさまは私のこと、あなたのことを神さまに執り成してくださいました。だから私たちもまた悲しんでいるかたがたのために祈り続けましょう。

それだけではなく、自分を傷つけ、悪意を向ける人のために祝福の祈りをささげるならば、神さまはどんなに喜んでくださることでしょう。そんなことを思いました。

IMG_2840.jpgユキは昨朝に続いて今朝もサッカー教室に参加し、今日は午後1時半から4・5年生のサッカー仲間と遊ぶ約束をしたというので、大急ぎで昼食を終えて礼拝後再び出て行きました。

陽ざしで部屋はポカポカ、23.1度あります。

附記:
昨日のサッカー教室は校区中学校のグラウンド。DSC_0002.jpg

DSC_0004.jpg

この日は中学生がクラブ活動していたので
野球側の草の上で。

DSC_0008.jpg
「石で足が痛かった」。

DSC_0006.jpgこれは手を使わないでお尻だけで移動させているところだそうだ。




中学校は遠いので自動車で送迎。この日は私たちも同乗して迎えに行き、その足で昼食に。そのあと買い物で3軒はしごして、ユキの髪の毛もカットしてすっきりして15時半頃に帰宅した。

DSC_0028.JPGそして今朝は自転車で小学校のグラウンド。
昨年末に自転車の鍵を失くし(スペアキーも全てつけていたため)たので鍵を外すのも大変。おじいさんが苦労してようやく自転車を使えるようになった。
posted by 優子 at 15:41| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年03月05日

家の教会2017H ―やもめの献金 偽善者に惑わされてはならない―

早1年の6分の一が終わり3月に入りました。
春が近づきますとイースター(復活祭)を想います。今年の復活祭は4月16日ですから、3月1日から受難節(レント)に入りました。より一層心を低くしてイエスさまが話されたことを味わいたいと思います。
2017年3月5日(日) (2017第9回 家の教会)
13時15分〜13時45分
出席者 4名
@ 主の祈り
A 子供の讃美歌 90番  「主イエスと共に」
B 聖書輪読   マルコによる福音書
            12章35〜44節
C お話      優子
D お祈り     優子、ユキ
E 聖歌      474番 「主がわたしの手を」

マルコによる福音書12章35〜44節:
12:35 イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。
12:36 ダビデ自身が聖霊に感じて言った、
『主はわが主に仰せになった、
あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、
わたしの右に座していなさい』。

12:37 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。

12:38イ エスはその教えの中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、
12:39 また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。
12:40 また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。

12:41 イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。  
12:42 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。
12:43 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
12:44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。

お話:
今日のお話は、イエスさまが律法学者たちの偽善を厳しく非難されたというお話です。エルサレム神殿の中で祭司長や学者たち、古代ユダヤ教の最高裁議会を司る衆議所の役員たちが、イエスさまを攻撃しようとやってきた時のことです。

イエスさまはダビデの子以上であることを話す良い機会でした。イエスさまはダビデの末裔として生まれてきましたが、神の御一人子が人間の姿になって地上に生まれて来てくださったのですから、イエスは実はダビデ以上でありダビデの子孫以上でした。

その時に群衆たちに彼らの偽善行為を非難されて教えられました。
彼らが長い衣をまとって歩き回っていること、たくさんの人が行き来する広場で挨拶されること、そして上座に座りたがっていることも、それらを好むのは自分は立派な人間であると誇りたいための見せかけであると言われたのです。

特に東洋の文化圏においてはそのようで、現代の日本でも席については敏感です。集まりを主催する時は神経を使います。しかし、イエスさまの教えによって生かされている人は上座も下座もありません。

また、弱者の信用を利用する罪はさらに重いことでしょう。出エジプト記22章22・23節にはこうあります。
「あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましてはならない。もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたし(神)は必ずその叫びを聞くであろう」。

そして、心にもない形式的で長い祈りをすることも敬虔の姿を装った見せかけです。イエスさまはそういう偽善者に注意しなさいと教えられたのです。

偽善者に惑わされないだけではなく、自らの内にもないかを常に神さまに探られながら自己洞察を忘れてはなりません。


黒崎幸吉は、「善人を装い、殊に信仰の深さを装いつつ悪を行う者は、露骨に悪を行って隠すことなきものに比してその罪さらに重く、その罰は一層厳しい。」と言い、
「人はむしろ正直に自己の正体を神の前、人の前に露出すべきである。これによって人の前に自分を修飾するの必要もなく、神の前に罪を重ぬるの虞(おそれ)もない。」と要義しています。

人間は過ちを犯します。失敗しない人なんてどこにもいません。私たちは何度も間違います。そこで大切なことは、自分の間違いを正直に認めて「ごめんなさい」と心から悔い改めることです。

相手(人間)に謝ることができくても、まずは神さまに正直に申し上げることです。神さまの前で正直に生きていくならば、自己と葛藤しながらも、必ず「ごめんなさい」と言える人に変えられていきます。正直さは生涯の終わりまで中断してはならない大切なことです。

この時イエスさまは人々が賽銭箱にお金を投げ入れる様子を見ておられました。賽銭箱は真鍮製のラッパ形の入口が13ある形だったそうです。

お金持ちたちはたくさんのお金を入れていたのでしょうか。しかし、お金持ちだからたくさん入れるわけではなく、そのこともまた「相当の克己と信仰とを要する」ものです。

そこへ一人の貧しいやめもがやってきてレプタ2枚入れました。レプタは貨幣の中でいちばん小さな単位でした。この写真がそうです。

sirakawa-coinE10A2.gif「聖書の度量衡と通貨」によれば、これは「『ハスモン朝のレプトン銅貨』で、ユダヤ王国(ハスモン朝)の王ヤンナイオス(在位BC103-76)が発行したもので、表は星、裏は錨(いかり)の模様。10-12mm 0.6g」という形状も小さな銅貨です。

コドラントはギリシアの貨幣で、1コドラントはローマの貨幣「1デナリオンの128分の一」ということですから、貧しいやもめは当時の日当の64分の1の金額を入れたことになります。

それはとても小額ですが、やもめの女性の全財産であったとイエス様は言われました。有り余る中から献金したのではなく、それを使って空腹を満たすにも十分ではないであろうのに、それさえも神さまに捧げたのでした。

そんなことできるでしょうか。とても大きな犠牲です。イエスさまはやもめの女の心からの捧げものを喜ばれたのです。それは誰にも勝る多額の献金でした。

それともう一つ大切なことは、富の貧富があるように人間の能力にも多少があります。しかし、自己の能力が小さなものであっても卑下することではなく、有能な人は誇ってはならないのです。能力は神さまからの賜物であり、心を込めて神さまと人のために用いるように託されているのです。

なお、献金についてはパウロが次のように言っています。
「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである」。 (コリント人への第2の手紙 9章6・7節)

イギリス人の知人から聞いた話ですが、イギリスでは(一般化していいかどうかわかりませんが)、毎月の月定献金は銀行から自動引き落としになっているとのことに驚きました。

義務感や機械的に捧げるのではなく、毎月心して捧げたいものです。そして、教会は神さまの御用のために正しく適切に用いることと、会計報告の責任があるのは言うまでもありません。

やもめの女性は決して無理して捧げたのではなく、全てを神に委ね、本物の信仰で生かされていたのですね。富める人は自らを誇り、貧しい寡婦を蔑んで見ていたことでしょうが、女性は恥ずかしいとも感じていません。そんな信仰者になりたいものです。

附記:今朝のサッカー教室に1年生のお友だちがたくさん見学にきてくれたそうです。「継続は力なり」、ユキは体育の授業でドリブルの見本に指名されると誇らしげに話してくれました。
これは今日の『サッカー教室ブログ』より拝借しました。4年生と走っています。写真からも春の空気を感じます。

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posted by 優子 at 15:10| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年02月26日

家の教会2017G ―金持ちと貧しいラザロ―

2017年2月26日(日) (2017第8回 家の教会)
13時15分〜13時50分
出席者 3名(Except T)
@ 主の祈り
A 子供の讃美歌 88番 「天にいます私たちの父」
B 聖書輪読   ルカによる福音書 
            16章19節〜31節
C お話     優子
D お祈り    一人ずつ
E 讃美歌    285番 「主よ御手もて引かせ給え」
ジョウビタキのオス.jpg
ルカによる福音書 16章19節〜31節:
16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。
16:20 ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、
16:21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
16:22 この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。
16:23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。
16:24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
16:25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
16:26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
16:27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
16:28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

お話:
今日は金持ちと貧しいラザロの話です。金持ちは、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らして」いました。紫の衣は王様や貴族だけが着るとても高価な服です。

貧しいラザロは貧しい家に生まれて全身ができ物で覆われていました。ただそれだけしか書いていません。金持ちの男は何か悪いことをしたとか、貧しいラザロが何か善いことをしたとも書いていません。

20節の「前にすわり」という言葉の原文は「置かれていた」という意味だということです。いつも玄関の前に座っていたということは、金持ちの男はラザロを追い払わずに居らせてあげて、残飯ではあってもあげていたのでしょう。そうでなかったらいつもここに居ないと思います。

金持ちはラザロを全く助けようとしなかったわけではないと思うのですが、その程度でした。2人が死んでからは大きく違いました。

アブラハムは神さまの民であるイスラエルの最初の人です。ラザロはアブラハムのすぐそばに連れて行かれて大いに祝福されたのです。でも、金持ちの男は燃え上がる火の中で苦しんでいました。

その理由は、金持ちは生きている間に良いものをもらっていたからであり、ラザロは悪い方を受けたからと立場が逆転したというのです。これはどう考えればいいのでしょうか。

有り余るほどの富に恵まれた環境に生まれたのは、彼が選び取ったものではありません。貧しい家に生まれたラザロもそうです。生まれながらの貧富の問題は運命ともいうべきものです。


金持ちに生まれたから死んでから永遠の苦しみを受けるならば、貧しさの中に生まれたほうが良いと思うのではないでしょうか。貧しい者は神の慰めと祝福を受けるからです。

しかしまた、貧しい人が天国へ行くとは限りません。ラザロは貧しいからと言って悪行をしないで、「ラザロ」という名前が示す通り神さまにすがって生きていたからでしょう。

私たちは空気と水がなければ生きていくことができません。それらは人間の力では創ることができない神さまからの恵みです。

それと同じように私たちに与えられている富も神さまからの恵みなのです。健康も能力も時間も努力して得た富も全てです。それらは神さまから私たちに預けられているものですから、正しく管理して有意義に用いねばならないのです。

この金持ちが炎の中でもだえ苦しんでいるのは、モーセと預言者によって書かれた聖書があるのに読んでいなかったのでしょうか、悔い改めなかったからだというのです。

では「悔い改める」とはどういうことでしょうか。それは放蕩息子が父のもとへ帰って来たように本心に立ち返ることです。

聖書を読み、祈ったら悔い改められるということではありません。奇跡を見ても悔い改めることはできません。

聖書は「祈りつつ読め、読みつつ祈れ」と言われているように、聖書を読むにも神さまが私たちに語りかけておられるみ言葉を、本当に聞こうとする思いがなければ悔い改めに至らないのです。

そして、本当に神さまの恵みがわかったならば時間や富も能力も自分の楽しみだけに使わずに、用い方が変わっていくのです。私は遅々たる歩みですが、これからも変えられていくことを信じています。


私たちの玄関先(周囲)に貧しいラザロはいないでしょうか。それは経済的貧しさだけではなく、悲しんでいる人、大きな悩みを抱えてうなだれている人かもしれません。共に生きるとは愛をこめて関わることです。

人は死んでからでは遅いのです。死んでから死後の運命を変更することはできません。この世における生き方がその人の永遠の運命を決定するのです。

箴言22章2節に「富める者と貧しい者とは共に世におる、すべてこれを造られたのは主である。」とあります。

しかし、神さまは完全なお方だから不公平なことはなさらない。地上の生涯で終わりではない、それはいのちの第1幕であり第2幕があるのです。その人にふさわしく公平に報いてくださり納得させてくださいます。私は信じています。

「汝の運命の星は汝の胸中に在り!」、運命を運命として諦めるのではなく、私たちが神さまの存在を知って主イエスと共に生きていく時、運命は神の摂理に変わるのです。「摂理」には神の目的とご計画があり、神が最善に導いてくださるということです。

人生が順風満帆の時は傲慢になりやすく神の恵みを忘れがちになることがありますが、逆境の時こそ神の愛を感じます。心が低くされているからです。貧しさや苦悩の中にある人にこそ神は祝福され、その人は神の恵みを深く感じるのです。

春ですよ!.jpgそして、豊かな者は苦しむ者と共に生きる。そうであれば神さまはどんなに喜んでくださることでしょう。今朝の御言葉からそんなことを思いました。

posted by 優子 at 22:35| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年02月19日

家の教会2017F −迷える子羊を捜し出される神―

2017年2月19日(日) (2017第7回 家の教会)
10時15分〜11時00分
出席者 3名(致し方なくExcept R)
@ 前奏 
A 主の祈り
B 子供の讃美歌 88番 「神さまがわかるでしょ」
C 聖書輪読   ルカによる福音書 15章1節〜7節
D お話     優子
E お祈り    一人ずつ
F 讃美歌    517番 「われに来よと主は今」
G 後奏

ルカによる福音書 15章1節〜7節:
15:1さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。
15:2するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
15:3そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、
15:4「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
15:5そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、
15:6家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
15:7よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。

お話:
このお話をする機会に羊の習性を調べてみました。
羊が食べるのは草だけで、食べるのが大好きです。お腹が空いていたら眠られないというのを聞いたこともあります。
聴力も視力も良いんだって。
羊の目.pngユキは1月の終わりに六甲山牧場で羊を見てきたからよく知っていると思うけれど、羊の目は水平に細長い瞳孔があるでしょ。

瞳孔と言うのは角膜と水晶体の間にある薄い膜で、カメラの絞り(光の調整)の役目をします。だから270度から320度も見渡せるので、頭を動かさなくても自分の後ろが見えるんだって。

でも奥行きはあまりわからなくて、影や地面のくぼみの前に来ると怖がって先に進まなくなることがあるそうで、先導者に従う傾向がとても強いそうです。

明るいところが好きで群れでいると安心だけれど、群れから引き離されると強いストレスになり、ストレスに直面するとすぐに逃げ出してパニックに陥ります。

頭も牛と同じくらい良いんだって。豚はもっと賢いそうだけれど、羊は人や他の羊の顔を何年も記憶できて、顔の表情から心理状態もわかるんだって。すごいね。

ところで、聖書で「羊」というのは「神のこども」を意味します。そして、「羊飼い」は神の子どもたちを養い育ててくださるイエスさまのことです。

今日のお話は100匹いた羊の1匹が迷い出てしまって、羊飼いであるイエスさまが見つけ出してくださったというお話です。

このお話は「迷える羊」や「見失った羊」などいろんな呼び方がありますが、以前取り上げた「放蕩息子」の話を思い出しませんか?

また、この箇所に続いて記されている「無くした銀貨」と共に共通する3つの譬え話は、失われたものが見つかった神さまの喜びが主題になっています。

この譬え話をされたのは1節2節にあるように、取税人や罪人たちがイエスの話を聞こうとして近寄ってきた時、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」とつぶやいたパリサイ人や律法学者たちに教えるためでした。

「取税人」と言うのは、ローマ人の手先になって自分と同じユダヤ人から税金を取り立てていた人たちです。しかも自分のふところにも入れるために不当に高い金額を取っていました。

「罪人」と言うのは宗教的に見捨てられた人のことで、警察に連れていかれるような悪いことをした人のことではありません。
ユダヤ教の戒律を熱心に守っているパリサイ人や律法学者が、律法を厳格に守らない一般の人々をこのように呼んで差別していました。

ところがイエスさまはそのような人々と仲よくされているので、それを見て忌まわしく思ったパリサイ人と律法学者に迷い出た一匹の羊の話をされたのです。

最初にお話ししたように羊は群れの中でしか生きられません。その羊が1匹いなくなったので「99匹を野原に残して」捜しに行ったのです。

でも、捜しに行っている間に99匹にも危険なことが起こらないだろうかと心配ですね。たとえば狼が来たら大変です。そんなことを思うと、迷い出た1匹は諦めて99匹を守っておくほうが合理的であると思います。

ところが99匹を置いてでも捜しに行くのは、迷い出た1匹は特に素晴らしい羊だったからでしょうか。そうではない、どの羊もみな同等に1匹1匹がかけがえのない羊なのです。

例えば私に3人の子どもがいるならば3人とも大切なように、どの子が居なくなっても地の果てまでも捜し続けます。「あと2人居るから諦めよう」とは思いません。それが親の愛であり真実の愛です。

1匹を見出したもうイエス.jpg母親がそうであるならば神さまの愛はいかばかりでしょうか!
神さまは切なる愛をもって熱心に捜し続け、1匹を見つけるまで捜しまわって「恵みの中で生きよ」と連れ戻してくださるのです。それがイエスさまです。

見つけ出した羊.jpgこのお話からヒシヒシと感じるのは、私たちがイエスさまと出会ったのは私たちが熱心に探し求めたからではなく、私たちが神さまを捜し求めていた以上に神さまが私たちを捜し求めてくださったということです。

神さまは常に私たちが本心に立ち返るのを待ち続けている父であり、その願いはただ一つ、私たちに祝福を与えることなのです。

神さまは書物や人を通して、あるいはまた出来事を通して気づきを与えてくださって、善き道へ導いてくださるのです。忍耐強く、決して諦めることなく。


聖書には「神は自分のかたちに人を創造された。」とあります。ということは、どの人の生命も神さまと繋がっており、人格をもって生かされているということです。

既にイエスさまに見出された者は迷い出ないように、主に在るお互いは祈り合い、教え励まし合って信仰生涯を全うさせていただきたく祈ります。

なお、この「迷える子羊」に続いて「無くした銀貨」が記されており、これらは「放蕩息子」の話と共に見失われた者の帰還を喜ばれるというのが主題です。

15:8また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。
15:9そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。
15:10よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。

イソヒヨドリ.jpgこれは先週の日曜日(2月12日)にユキが初めて撮ったイソヒヨドリ。

今朝、「いつかまた4人で礼拝できますように」と祈ったユキ。
このような素晴らしい祈りをイエスさまが叶えてくださらないわけがない。


附記:昨日、クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会を大津教会でもった。
『種を蒔く』4号(久保田暁一先生追悼号)に寄稿してくださった関東・中部・関西メンバーの追悼文を朗読し、全員の目を通して校正。
3月に再度大津教会にて編集者4名で編集会議、その後同日に印刷屋さんへ入稿予定。次回例会は4月15日(土)、総会も開催される。

posted by 優子 at 12:32| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年02月12日

家の教会2017E −嵐を静めたもうイエス―

IMG_2419.jpg2017年2月12日(日) (2017第6回 家の教会)

10時30分〜11時10分
出席者 3名(Except T)

@ 主の祈り  
A 讃美歌     461番 「主われを愛す」
B 聖書輪読    マタイによる福音書 8章23節〜
                       27節
C お話      優子
D お祈り     一人ずつ
E 聖歌472番 「人生の海の嵐に」

マタイによる福音書 8章23節〜27節:
8:23それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
8:24すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。
8:25そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。
8:26するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。
8:27彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。

お話:
先週は悪霊にとり憑かれてどうしようもなくなっていた人を静められたお話しでしたが、今日は自然界の暴風や海を静められたお話です。この奇跡をマルコ(4章35節〜41節)とルカ(8章22節〜29節)も書いています。

ある日、イエスさまは弟子たちに「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と仰って沖に向かいました。ところが、突然激しい暴風が吹いてきて舟が転覆しそうになりました。

ガリラヤ湖の水面は地中海よりも低くて、周りを高い山に囲まれてるので、時に冷たい空気が山から吹き降ろしてきて暴風が起こることがあるのです。

ところがイエスさまは眠っておられる。イエスさまの眠りは神と共にある平安の象徴です。弟子たちはイエスさまを起こして「助けてください、わたしたちは死にそうです」と叫びました。

イエスさまは、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」と言われ、荒れ狂う風と波を叱りつけられて、風も静まり穏やかな波のない湖になったというのです。

マルコ伝の4章39節には、「イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。」と記されています。

「なぜこわがるのか」というのは、イエスさまが共に居られるのに「なぜ怖がるのか」ということであり、私たちが信じる神さまは唯一絶対なる全能の神であり、私たちの命をも一切のことを握っておられる神です。にもかかわらず現実の出来事を恐れてしまうのですね。

主イエスはいつも信じる者と共にいてくださることを知っているならば「恐れるな!」ということであります。このような自然界の嵐だけではなく、人生の嵐の時も「恐れるな」と仰っているのです。

ここで「湖」と訳されている原語ですが、他の箇所では「海」と訳され、その意味は「この世」の意味であるということです。

即ちそれは「暴風」や「波」は深刻な病気や事故であり、子育ての悩みであったり、老後のこと、また、職場や家庭などあらゆるところで経験する人間関係の悩みであり、単純ではない人生の途上で経験することを意味するのです。

私たちは生きている限り新たな問題に出くわして動揺し混乱するのですが、それが人生でありそれらを避けることはできません。


幸いにして私たちは信教の自由を保障される時代に生かされていますが、中東ではキリスト者や教会への迫害が日常化しています。日本もまた過去の時代に大きく向きを変えつつありますから、どんな艱難があるやもしれません。

それら一切のことが「この世」のことであり、しかし、そんな嵐の時にこそ信仰が試されているのであり、キリストは「わたし(イエス)が共におるぞ!」と仰ってくださっているのです。

私たちは神に祈りますが、本当に全幅の信頼をもって祈っているでしょうか。今一度確かな信仰に立ち返りたいと思います。

弟子たちは信仰はあっても薄い信仰でした。それでもイエスさまは自然の猛威を叱りつけて弟子たちを助けてくださいました。イエスさまは私たちをお見捨てにはならないのです!

神さまは決して信じる者をお見捨てにはなりません。この箇所から心に刻むべきことは、嵐の時こそ静まってイエスさまを信頼しておればよいということです。

私たちは時に喚(わめ)きたくなる自らの限界、また現状に陥(おちい)りますが、主イエスは必ず助けて導きを与えてくださいます。ですからどんな時も、素直になれない時もまた主の御名を呼ぶのです。

なぜならば素直な心、正直で砕かれた心でないと神の導きはわからないからです。これが私の信仰姿勢であり、愛する人々に伝えたいことの精髄です

イザヤ書30章15節の御言葉もたびたび握りしめるみ言葉です。
「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。

主イエスに手をとられて試練を超えさせていただいた時に、私たちは霊の目が開けられ真のキリストに出会うのです。

ひとたびそのことを体験させていただくと、刻々と状況が変わる中に在っても、平安などありえないような時にも、台風の時にも台風の目は静かなように心底は平安で守られています。

今の私のように「私は苦悩に打ちのめされながら希望をもっており」と生きることができるです。
そしてこれこそが主イエスに在るキリスト者の生き方、真の自由であり、その歩みは中断することなく常に最善へと続けさせてくださっているのです。

ジョウビタキの雌.jpg
聖歌590番 
「救い主イエスと共に」 
救い主イエスと 共に行く身は
乏しきことなく 恐れもあらじ
イエスは安きもて 心たらわせ
物事すべてを よきになしたもう
物事すべてを よきになしたもう

坂道に強き み手を差し伸べ
試みの時は 恵みをたもう
弱きわが魂の 渇くおりしも
目の前の岩は 裂けて水わく
目の前の岩は 裂けて水わく

いかに満ち満てる 恵みなるかや
約束しませる 家に帰らば
わが魂は歌わん 力の限り
君に守られて 今日まで来ぬと
君に守られて 今日まで来ぬと


ツグミ.jpg聖歌472番 「人生の海の嵐に」

人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

悲しみと罪の中より 救われしこの身に
いざないの声も魂 揺すぶること得じ
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

すさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに
死を待つは誰ぞただちに 逃げ込め港に
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

posted by 優子 at 13:35| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年02月05日

家の教会2017D −悪霊に取りつかれた男―

2017年2月5日(日) (2017第5回 家の教会)
10時35分〜11時20分
出席者 3名(Except R)
@ 主の祈り  
A こどもさんびか 33番「サント サント サント」
B 聖書輪読    マルコによる福音書5章1〜20節
C お話      優子
D お祈り     一人ずつ
E 新聖歌256  「御翼のもとに 」

kasa3.gif冷たい雨の一日
 
IMG_2317.jpg 第2部礼拝  
14時〜14時40分 
出席者 2名
@ 聖書輪読
A お話
B 分かち合いと祈り


マルコによる福音書5章1〜20節:
5:1こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5:2それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。
5:3この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。
5:4彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。
5:5そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。
5:6ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、
5:7大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。
5:8それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。
5:10そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。
5:11さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。
5:12霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。
5:13イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。
5:14豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。
5:15そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。
5:16また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。
5:17そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。
5:18イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。
5:19しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。
5:20そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。

お話:
今日の個所は、ガリラヤ湖の東南地方にあるギリシャ的な異邦人の町での出来事です。

自然は時に猛威を振るい悲惨な状況に至らしめ、地球環境の破壊が進んだ近年は世界中で異変が起きています。自然の猛威はいかに科学が発達しようとも人間にはどうしようもありません。今朝のお話はどうすることもできない自然災害ではなく、狂暴で荒れ狂った人のお話です。

当時の墓は岩に掘った横穴式の洞穴で、その中に足かせをはめられ鎖で縛りつけられていた人がいました。それでもそれらを外してしまうほど狂暴でした。

5節に「夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。」とあるように、この人自身も苦しみ続けていたことがわかります。しかも自分がなぜこんなことをしているのかわからないし、自分のことも何もわからない。その不安や恐怖はどんなものだったでしょう。

聖書にはこの人を「汚れた霊に取りつかれた人」と書いています。「汚れた霊」というのは悪霊のことで、聖書は悪霊の存在があると教えています。「悪霊」というと精神医学の発達した現代人はうさん臭く感じる人もいるでしょう。

そういえば私は長女を身ごもった時に、婚家先で「祟(たた)り」や「白蛇が憑く」からと、偶像を拝むように強要され悩まされたことがありました。いわゆる自らを「神」と名乗り人間の弱みに付け込んで高額のお金を出させるものでした。

その時は父が断ってくれました。次女を身ごもった時は自ら頑として断りました。このような話は例話にもならないことですが、そういうことに翻弄される人々に悩まされました。信仰を授かる7年前のことでした。

それはともかくも、信仰生活の初めの頃は「悪霊」や「悪魔」については全く無知でしたから、熱心なCS教師が悪魔の話をたびたびなさるので、「この教会は正統なキリスト教会なんだろうか」と心配したことがありました。

しかし、信仰が深められていくにつれて理解できるようになり、悪霊の実在を何度か感じたこともあります。この世の出来事の背後には悪霊が働いているのだと思います。

聖書に記されている悪霊にとりつかれた男は、人間の力ではどうしようもできないコントロールを超えた力に縛られていたのです。

(6・7節)「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫」び「『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。』」と、私たちの理解に苦しむことを言いました。

これは狂人となっている男の口を通して悪霊が語った言葉です。悪霊は霊的な存在ですからイエスさまがどんなお方であるかは、人間よりもはるかに敏感に認識できたのです。

イエスさまはこの男の背後に存在する悪霊に名を尋ねました。「レギオン」とは、約5000人とも6000人とも言われるローマの軍隊の名前でした。悪霊は1人ではなく軍隊のような強力な悪霊でした。

でも悪霊は神の子であるイエスに勝つことはできないのを知っていますから、「俺にかまわないでくれ」と言ったのです。悪霊にとって喜ばしい安穏とした環境は人間を支配した状況なのです。

私たちも悪霊にとり憑かれたように自分の気持ちを持て余すことはないでしょうか。私は父を亡くした1年後に経験しています。

私たちが当地に引っ越してきた時、すでに母は召され、父は重度の脳梗塞に倒れて入院しており、その後も何度も死線をさまよう状況でした。

そんな緊張した状況に加えて、身近にいる他者を省みない人々の理不尽極まりない非道な言動にも耐えねばなりませんでした。でも神に助けられて父と母の娘らしく耐え忍び、2000年8月に父を看取りました。

ところが、その1年後に彼らへの憤りの感情に支配され、祈っても平安はなく「自分のことを持て余す」と知人に話したことを覚えています。

その時の心はこの男の情況と同じだと思うのです。私たちの中にレギオンが住んでいるならば心の平安はなく、自由ではあり得ません。


私は心に憎しみが襲ってくるたびに「イエスさま、助けて!」、「イエスさま、助けて!」と主の御名を呼びました。そのたびに解放されるのですが何度も襲ってきました。数か月続いたように思います。

このことは心理学でも説明できる心情ですが、これが人間の偽らざる現実であり苦痛のプロセスを通り抜けていかねばなりません。

大切なことはこのような時こそ「イエスさま、助けて!」と主の御名を呼び、イエスさまと共にいることです。あの時、私もまたイエスさまに「走り寄って」ひれ伏していたのだと思い、イエスさまと共に在ることの大切さを改めて教えられました。

その後も何度も苦痛を経験していますが、神さまのお守りのうちに一度として言い争うこともなく、凛として、そんな人たちにも手を差し伸べる者とされてきました。こういうことを「神さまは勝利させてくださった」と言うのです。


悪霊は豚に入り込んで死に敗北しました。イエスさまは一人の霊魂を救うために2000頭の豚(財産)を犠牲にされました。豚の飼い主たちは損失や信じがたい出来事を恐れてイエスさまを拒んだのでしょう。

レギオンから解放された男は正気を取り戻し、自分の救い主としてイエスさまにお供を申し出ましたが、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」と仰いました。

いつもならば奇蹟を言い広めることを厳しく禁じておられたのに、ここでは違っていました。この人と共に苦しんでいたに違いない家族に、正気になった姿を見せて安心させてやりなさいと思われたのではないでしょうか。

悪霊に憑かれていた男の姿は、罪人の心の姿に酷似しています。私たちが憎しみの中にとどまっているならば、死にとどまっているのであり、その人はいわば墓場にいるのです。

良いことをしようと思ってもできない自分に嘆き、自己との葛藤は生きている限り続きますが、それは何と尊い葛藤でありましょう。

というのは、自分さえ良ければいい、悪いのは全て相手と、いくつになっても噛みついてくる人もあるのです。そういう人は生きているとは言えず、「愛さない者は、死のうちにとどまっている。」(第1ヨハネ・3章14節)とある通りです。 

私たちはこのままの姿でイエスさまの前へ出ましょう。神を信じて試練を受けて立てば必ず道を開いてくださいます。現実が最悪でも大丈夫! 神が働かれます! 

どんなに最悪でも、それでも道が開かれるのです! 
今、苦境にある人は主イエスにSOSを出すのです!!!

IMG_2318.jpg
(前掲の写真ともにユキが窓越しに写す)

「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、
主を尋ねよ。
近くおられるうちに呼び求めよ。
悪しき者はその道を捨て、
正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。
そうすれば、主は彼にあわれみを施される。

われわれの神に帰れ、
主は豊かにゆるしを与えられる。
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
主は言われる。

天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く、
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、
地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
種まく者に種を与え、
食べる者にかてを与える。

このように、わが口から出る言葉も、
むなしくわたしに帰らない。
わたしの喜ぶところのことをなし、
わたしが命じ送った事を果す。
あなたがたは喜びをもって出てきて、
安らかに導かれて行く」。

       (イザヤ書55章6節〜12節)

posted by 優子 at 20:30| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年01月22日

家の教会2017C −5つのパンと2匹の魚−

2017年1月22日(日) (2017第4回 家の教会)
10時30分〜11時25分
出席者 3名(Except R)
@ 前奏 知子
A 祈り  優子
B 主の祈り 
C 讃美歌21 425番 「こすずめも くじらも」
D 聖書 マルコによる福音書 6章30節〜44節
     ヨハネによる福音書 6章1節〜14節
E お話  優子
F お祈り 一人ずつ
G 讃美歌 第2編26番 「小さなかごに花を入れ」
H 後奏 知子

マルコによる福音書 6章30節〜44節:
6:30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。
6:31 するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。
6:35 ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。
6:36 みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。
6:37 イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。
6:38 するとイエスは言われた、「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。
6:39 そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。
6:40 人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった
6:41 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。
6:42 みんなの者は食べて満腹した。
6:43 そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
6:44 パンを食べた者は男五千人であった。

ヨハネによる福音書 6章1節〜14節:
6:1 そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。
6:2 すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。
6:3 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。
6:4 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。
6:5 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。
6:6 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。
6:7 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。
6:8 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、
6:9 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。
6:10 イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。
6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。
6:12 人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。
6:13 そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。
6:14 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。

お話:
今朝の聖書の箇所は「5千人の給食」と呼ばれているイエスさまの奇跡で、この奇跡だけが4つの福音書すべてに記されています。

にもかかわらず私は今までこの象徴的な奇跡を取り上げませんでした。病を癒された奇跡もそうですが、人間の論理では説明できないからです。

しかし、そのようなことは私が心配することではないので「家の礼拝」でも読みたいとの思いが与えられました。

イエスさまは群衆に霊的な糧を与えておられました。群衆は病気の癒しなど多くの奇跡を見たのでイエスさまから離れずについてきました。群衆たちの熱心さにも驚きます。

イエスさまは奇跡をおこなわれた後は必ず寂しい場所で独りになって祈られました。それは偉大な力を蓄えるためでした。私たちも霊肉ともに休養を取ることがいかに大切であるか。神さまと二人っきりにならないと霊的に命取りになります。

霊肉共に疲れ切ってしまっては神さまの息吹も感じられなくなってしまいます。イエスさまのように独りになって神と憩う。そのことでしか魂を休ませることはできません。

最多忙の人だったデパート王・メイシーは「誰ともしゃべっていない時が私の祈りの時である」と言いました。あんなに多忙な人物でも祈りの時は持っていたのです。働き盛りの人にとっては、通勤の電車の中が祈りの時かもしれません。


さて、この箇所の背景は夕暮れです。
弟子たちも疲れて空腹だったので、弟子たちは群衆もお腹を空かしていることだろうと気になっているのですが、「私たちもクタクタですから、彼らは解散させて自分たちで食べるようにさせてください」というのが本音だったと思います。

そんな時、イエスさまは「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われました。彼らに5000人もの人々のお腹を満たすことなどできないことをご存知で言われたのです。

この時の弟子たちの気持ちはすごくよくわかります。まさに私たちの姿ですね。同じようにお腹を空かしている群衆を目の前にしても、自分も疲れてお腹が空いているとイエスさまのように優しい気持ちにはなれません。

ある程度までは愛の言動ができても限界になって無力さに絶望します。そしてそれは、弟子たちが5つのパンと2匹の魚を持って「これしかありません」と立ち尽くしているのと同じではないかと思いました。

でも、そんな僅かな食べ物が余るほどになった。ということは、私たちの能力や援助金が僅かで無きに等しいものであっても、「私にはこんなことしかできませんが」と心から捧げるものは、イエスさまの御手によって豊かに用いてくださるのだと教えられます。

イエスさまは私たちの全てをご存知です。イエスさまが私たちに求められるのは、能力や持ち物の量ではなく、「こんなことしかできませんが」と心から捧げる人を喜ばれるのです。

ある時、敬愛するT姉(今年91歳になられる)に「いつもお祈りしてくださってありがとうございます」と申し上げた時、「神さまは祈らせてくださるのよね」と仰いました。

この「祈らせてくださる」という言葉から、祈りをも神さまに「させていただくこと」であると教えられました。

疲れていた弟子たちは僅かなパンと魚を、しかも自発的に差し出したものではなかったのですけれども、イエスさまの御手によって役に立たせてくださいました。

これは単にパンと魚を増やしたという奇跡ではなく、神さまが他者のことを「祈らせてくださる」のと同じように、神さまは私たちが心から捧げるものを祝福して神さまの御用に用いてくださるのだと気づかされます。


最後に黒崎幸吉もご紹介しておきます。
「無より有を創造し、少数のパンを数千のパンに増加するを得給う神に在し給いながら、少しの残品をも無駄にこれを棄て給わない。神の御旨の奇しきを見よ」。

私たちも週の初めに魂の休息をとり、今週も主イエスが私たちと共にいてくださいますように。

私に洗礼を授けてくださった小山恒夫牧師は「平日はクリスチャンの晴れ舞台である」と言われました。

聖日の朝にもう一度信仰を回復させられて、再び感謝と喜びと希望を握らせていただいて1週間の務めを果たしていきたいと思います。


posted by 優子 at 16:58| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年01月15日

家の教会2017B −新しいぶどう酒は新しい皮袋に−

2017年1月15日(日) (2017第3回 家の教会)
10時〜10時45分
出席者 3名(Except R)
@ 祈り  優子
A 主の祈り
B 讃美歌 294番 「み恵み豊けき」
C 聖書輪読 マタイによる福音書 9章10節〜17節
D お話  優子
E お祈り 一人ずつ
F こどもの讃美歌 88番「神さまがわかるでしょ」
          48番「こどもを招く」

※ 今朝も知子は共にするも奏楽なしで行った。

マタイによる福音書 9章10節〜17節:
9:10それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
9:11パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
9:12イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
9:13『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

9:14そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
9:15するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。
9:16だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。
9:17だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。

お話:
今日のお話はマタイの家で食事していた時の話です。  
律法を守っている真面目なユダヤ人にとって、道徳的な基準にも達しない取税人や罪人と一緒に食事をすることはとても汚らわしいことでした。そこで律法を厳格に守るパリサイ人らは、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」と 聞いたのです。

するとイエスさまは、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。」と言われました。

イエスさまを必要とするのは病人や罪人ですが、実はそれは全ての人が病める者であり罪人であって、イエスさまを必要としない者は一人もいないのです。

そのことを知らず、自分は正しいと思っているパリサイ人こそが、最もイエスを必要とする人なのです。


次にバプテスマのヨハネの弟子たちがイエスさまに訊ねます。私たちやパリサイ人は断食をしているのに、「あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」と訊ねました。

断食というのは一定の期間は全ての食物や特定の食物を食べない宗教的行為で、ヨハネの弟子たちもまたヨハネの導き通りに厳格に断食を守っていました。

モーセの律法には断食は年に1回だけだったのに、その後は年に28回の断食を行うようになり、主イエスの時代は、月曜日と金曜日のが断食日と定められていました。計算すると1年間に100回以上も断食することになります。

個人的にする時には悲しみや苦しみの時に断食を行ないますが、日本でも何か物事の成就のために「茶断ち」と言って、願いが叶うまでお茶を飲まないという話を聞くことがあります。

そこでイエスさまはこういわれました。
「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう」と。

イエスさまはご自身を新郎に譬えておられ、弟子(信徒)は新婦であり、これは聖書の奥義です。ですから「花婿が奪い去られる日が来る」とは、イエスさまが十字架にかかられる時の意味であるというのも自ずとわかるでしょう。

ですから新郎新婦がいるパーティに招かれた人たちは悲しんだりはしない。そんな時にも断食をするのはあまりにも形式的すぎるのであり、その本質は全く異なるものであるとイエスさまは仰ったのです。

16、17節で語られたことは、当時の当たり前の生活の知恵でした。
「真新しい布切れ」とは「織りたての布」のことで、まだ水に晒(さら)していない布のことです。布を初めて水につけると縮みます。ですから服を縫う時も、最初に布に霧吹きで水をふくませてビニール袋に入れて一晩おき、翌日にアイロンをかけてから型紙を当てて裁断します。

だから新しい布で継ぎ当てをすれば、濡れた時や洗濯した時に古い服を破ってしまい、新しい布も役に立つどころか無駄になって両方ともが駄目にしてしまうと主イエスは言われました。

新しいぶどう酒と古い皮袋の譬えも同じです。
収穫したぶどうをつぶして酵母菌と共に動物の内臓や皮で作った袋に入れて密封すると、ぶどうは勢いよく醗酵してワインになるそうですが、皮袋が古くなると弾力性がなくなって、ぶどうの醗酵に耐えられず袋が膨れて破れてしまいます。

そしたらぶどうだけではなく古い皮袋もダメになってしまいます。これも真新しい布切れの譬え話と同じで、古いものと新しいものは共存できないことを仰ったのです。

即ち、イエスさまが教えてくださった自由、「主体的に生きよ」という福音と古い律法とは相いれないのです。バプテスマのヨハネはキリストの新しい教えを知っていましたが、生活面においては古いままでした。

神の愛と恵みである主イエスの十字架の福音(新しいぶどう酒)には新しい皮袋が必要です。イエスさまの福音を受け取った私たちは主イエスの新しい皮袋に入った新しいぶどう酒であり、その中で私たちを主イエスに似た者へと醗酵させてくださるのではないでしょうか。


イエスさまの弟子たちは神さまの一方的な恵みに生かされて、律法に縛られた生活ではなく真の信仰理解(ぶどう酒)で、生活(皮袋)においても主体性をもって生きていました。

21世紀に生きる私たちはなおのこと、新しい皮袋となって生きたいと思うのであります。
それはどういうことかと言いますと、第一義的には他者との比較においてではなく神さまの絶対評価の上に立って生きることです。

特に他者と比較して自己認識するような日本の風土においては誘惑や葛藤がついて回ります。日常生活で起こる様々なことの中で、優先順位をいかにすべきかと常に考えさせられます。

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」というのはクリスチャンの誰にとっても生涯の課題です。道を間違うことのないように主に訊ねながら選び取っていきたいと思います。


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2017年01月08日

家の教会2017A −「沖に漕ぎ出そう」−

2017年1月8日(日) (2017第2回 家の教会)
10時〜10時45分
出席者 4名
@ 前奏
A 主の祈り
B 子どもの讃美歌 「天にいます私たちの父」
 
C 聖書輪読  ルカによる福音書 5章1節〜11節
D お話    優子
E お祈り   一人ずつ
F 讃美歌   445番 「み神と共に進め」
G 後奏    黙祷をもって終わる

ルカによる福音書 5章1節〜11節:
5:1さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、
5:2そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
5:3その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。
5:4話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。
5:5シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
5:6そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。
5:7そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。
5:8これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
5:9彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。
5:10シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
5:11そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。

お話:
先ほど読んだ箇所に出てきたシモンとは、後にペテロと呼ばれる人です。ペテロはイエスさまがシモンにつけられたニックネームで「岩」という意味です。

漁師であるシモンたちは魚がよくとれるのは夜だということをよく知っていて、それはプロの漁師にとっては誰もが知っている常識でした。でも、夜通し働いたのに魚は一匹も捕れなかったのです。

そこへイエスさまが、「沖に漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と仰いました。イエスさまは漁師ではありませんが彼らは言われたとおりにしました。

このとき彼らは夜の間ずっと働いていたのでクタクタです。その上に、もう網も洗っていたのです。そんな時に言われたとおりにするというのはすごいなあと思います。

イエスさまはチャレンジを与えられました。そのチャレンジを素直に受け止めたのもすごいなあと思います。この時、漁師の常識に縛られたままだったら大漁を経験することはできませんでした。


ここで私は経済学の大家・ケインズのこんな言葉を思い出しました。

「難しいのは、新しいアイディアを開発することより、古いアイディアから逃れることである」と言う言葉です。

自分を空っぽにしないと新しいものは入ってこないと思います。
「沖に漕ぎ出す」とは、「ガリラヤ湖沖の深い所へ行きなさい」と言う意味です。シモンたちは漁師ではないイエスさまが仰ったことだけれど、イエスさまへの信頼があるから従ったのです。私たちはどのくらいイエスさまを信頼しているでしょうか。

ここでシモンに大きな変化が起こっていますが気がつきましたか?
イエスさまの言われたとおりに網を下したら網が破れそうになるほど、2艘の船が沈みそうになるほどの大漁だったのです。

シモンは(5節で)イエスさまのことを「先生」とお呼びしていたのに、8節では「主よ」と呼び、「わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と奇妙なことを言いました。

ペテロはきっと、このお方は私の心の中までご存知で、自分の心が罪でいっぱいであることがわかったので恐れおののいて告白したのです。

私ならば、「主よ、私の罪深さをゆるしてください」と言うと思うのですが、そうではなくシモンは、「わたしから離れてください」と言いました。「赦してください」というよりももっと謙虚であるのようにに思います。

するとイエスさまは、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」と言われました。ユキは「人間をとる漁師」ってどういう意味かわかる?
「イエスさまの話を聞く人を集める人」。そうやね、その通り! 人々にイエスさまのことを伝え導く人のことですね。

私は今日のお話のタイトルにあるように、神さまから示されたと感じたときは臆せずに「沖に漕ぎ出そう」と思いました。

最後に、みんな一言ずつ2017年の抱負を語り合いましょう。
ユキはこの新しい年はこんなことをやってみたいと思うことがありますか?(それぞれが主に在る志や希望を語りました。)
 
私たちそれぞれの目指すべき「沖」(深み)は、それぞれに違います。そして、今は何となく漠然としたものであるかもしれませんが、具体的な思いが与えられたら、その時は「私には無理だから」とか「私はできません」ではなく、主の御業を信じて主と漕ぎ出していきましょう。

このあと昨日(540円で)買ったばかりのDVD・『クォ・ヴァディス』を観ました。私が生まれた1951年にゴールデン・グローヴを受賞した歴史スペクタクルの超大作(2時間45分)です。

IMG_1855.jpg「クォ・ヴァディス」については昨年のペンテコステ礼拝でお話し記録していますので、是非お読みください。
映画では、まさに今朝読んだ聖書個所をペテロが群衆に語っていました。見ごたえがありお薦めです!!!

ボロボロになった讃美歌.jpg高校生の時に使っていた讃美歌はボロボロ。ついに今日、表紙が取れてしまいました。



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2017年01月02日

家の教会2017@ −「今は恵みの時、救いの日」−

2017年1月1日(日) (2017第1回 家の教会)
11時〜11時40分
出席者 4名
元旦礼拝.jpg
@ 前奏   知子
A 主の祈り  一同
B 讃美歌   414番
「あらたまの年たちかえり」
C 子ども讃美歌  82番「おおしくあれ」(写真)
D 聖書輪読  コリント人への第2の手紙 
                6章1節〜10節
E お話    優子 
F お祈り   一人ずつ
G 讃美歌   448番「み恵みを身に受くれば」
H 後奏    黙祷をもって終わる

コリント人への第2の手紙 6章1節〜10節:
6:1わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。
6:2神はこう言われる、
「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、
救いの日にあなたを助けた」。
見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。
6:3この務めがそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、
6:4かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、
6:5むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、
6:6真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、
6:7真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、
6:8ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、
6:9人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、
6:10悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。

お話:
「神の恵み」とはどういう意味でしょうか。「恵みの時」は 原語で「神の御旨にかなって受納せれられる時」という意味です。
即ち、イエスさまの十字架の贖罪により神さまと和解した関係になったということであり、イエス・キリストが再臨される迄の間は、神さまが私たちの祈りをお聴きくださって助けてくださる期間であるということです。

その後は、これまでに生まれて死んでいった全ての人が神の審判の座に立たされるのです。「今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」とは、クリスチャンだけにではなく今生きている全ての人に告げられているのです。

世の終わりが百年後か千年後かは誰にもわかりませんが、そのことよりもまず、私たちが明日交通事故に遭って、あるいは地震や津波に襲われて死んでしまうかわかりません。だから今こそが誰にとっても「恵みの時」であり「救いの時」なのです。

私はよくこんな光景を想像します。ノアの箱舟の扉が閉まる直前に駆け込んだ人や、「出エジプト」で言えば、モーセが神の力を受けて紅海を割った海が元に戻るギリギリに渡り切った最後のヘブライ人の光景です。

そんな「滑り込みセーフ!」も幸いですが、今こそ自分の問題として考える時なのです。


コリントの偽信徒の中にはパウロを謗(そし)る者がいましたが、キリスト者はパウロの如く、自分に悪意を向ける人や反対者に対しても迫害や仕打ちをしない、いじわるをしないのです。

それどころか自分に敵対する人に「寛容のみならず進んで親切を尽せ」と、その愛がキリスト者の発露であるとパウロは言うのです。しかし、「進んで親切にせよ」というのは難しい時がありますね。

一方では、豊かに聖霊をいただいて(主に在って)神・キリストの義によりて悪魔の悪だくみを破り、律法による義をも破るのです。まさにこのことは知子が最近何度も経験していることです。

私たちが「主よ、信じます」、「主よ、感謝します」と言えるのは自分の意思だけによるのではなく、主の恵みの中にあるからです。 ですから恵みの中で生かされていることをしっかり心にとめて、新しい年はますます大らかに力強く生きていきましょう! 主イエスと共に!

私たちが教会を離れて家で礼拝を捧げていることについては、ページを改めて綴ります。

posted by 優子 at 11:00| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2016年12月25日

家の教会㉟ ―クリスマスは「すべての民にあたえられる喜び」−

church01.jpgクリスマス おめでとうございます!
主の御降誕を感謝し、クリスマスの御挨拶を申し上げます。


教会歴では「アドベント」から新しい年が始まります。クリスマス・カードに " Merry Cristmas and a Happy new year." と印字されているのはそのためです。
昨夜も信仰の友より、「祝御聖誕 謹賀新年 2016 クリスマス」と記されたハガキが届きました。

今日はユキがサッカー教室の帰りに自転車の鍵が無いと、コーチご夫妻と息子さんに長い時間捜していただいていたのに見つからず、連絡をいただいて知子と祖父が自転車を引き取りに行きました。その時もなお捜してくださっていたそうです。

それでクリスマス礼拝がますます遅くなりましたが、一同静まって主の御降誕を喜び感謝礼拝を捧げ、午前中に知子と用意したお料理を並べてクリスマス愛餐会を持ちました。

2016年12月25日(日) (第35回 家の教会)
12時45分〜13時30分
出席者 4名
@ 前奏
A 主の祈り
B 讃美歌  98番「天(あめ)には栄え」
C 聖書輪読  ルカによる福音書 2章1節〜20節
D お話    優子
E 分かち合い 一人ずつ
F お祈り   優子
G 讃美歌  111番「神の御子は今宵しも」 
H 後奏   バッハ「人の望みの喜びよ」

ルカによる福音書 2章1節〜20節:
2:1そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。
2:3人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
2:4ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
2:6ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。

2:8さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
2:9すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
2:10御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
2:12あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
2:13するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14「いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。

2:15御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
2:16そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。
2:17彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。
2:18人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。
2:19しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。
2:20羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。

お話:
クリスマスは「すべての民にあたえられる喜び」です。
今も涙を流し、心身の痛みを抱えて必死で生きている人、不安と苦しみのどん底で生きる意欲を失くしてしまっている人、悪から離れたいと悩んでいる人も、そのような人々こそ深い慰めと喜びを知ることができるのです。

私たちは誰も皆、人生でいつも躓きます。何度も躓きます。しかし、神さまは私たちの祈りを聞いてくださっており、神さまのシナリオは万全です。私たちにとって最も良い時に、最も良い方法で、最も良い結果になるようにしてくださることを固く信じることができます。

ですから例えば悪意に満ちた人に悩まされる日々であっても、ガラテヤ人への手紙6章9節の言葉を口ずさんで励むことができるのです。

「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」。

「地には平和、御心にかなう人にあれ」
とは、地に住む人々に平安があるように、安きがあるようにと言っているのです。それは戦争や殺戮がないという平和だけを意味しません。キリストに出会うときに心が平安に満たされることを言っているのです。
 
「いと高きところに神に栄光があるように」。
これは、神さまを讃美し(ほめたたえ)、神さまに礼拝を捧げるときに与えられる深い平安です。

信仰者ならば常に思うことでしょう。私の選択や言動は神さまの御心に叶っているだろうかと。
箴言の16章9節にこのような言葉があります。
「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」。          

主イエスを信じる人の心に内住(ないじゅう)される聖霊は、その人の人格に無関係に語られるのではありません。
  

例えば『塩狩峠』に描かれた実在の人物・長野政雄が、暴走する旅客列車の下に身を挺して暴走を食い止めて乗客の命を救ったのは、長野が真の愛の人ゆえに聖霊がそのように働かれたのだと思います。

ですから先日来のパロの心を頑なにされたことについても同様で、傲慢で神を信じないパロゆえに頑なにされたのではないかと思います。

長野政雄のような愛の人はますます愛の人になり、悔い改めない人はますます恵みから遠ざかるのです。
ヘブル書(3章7・8節)の言葉を思い出します。

「だから、聖霊が言っているように、
『きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
荒野における試錬の日に、
神にそむいた時のように、
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない』。

「今は恵みの時、今は救いの日です」。

        (コリント人への第2の手紙 6章2節)

クリスマスこそ「今は恵みの時、今は救いの日です」。
クリスマスはすべての民にあたえられる喜びです。

人間が考え出した宗教は、人間が救われるためには必ず難行、苦行という条件がつきます。難行・苦行を成就したところでその人の罪は消え去りません。かえって自負心が加わることでしょう。

まことの神は神さまの方から私たちのところに降りてきてくださったのです。そもそも「救い」の意味が全く違っていますし、私たちは素直な心で「良い知らせ(good news)」を聞いたら、このブログを読んでくださったならば、ただそのままでイエス・キリストを心にお迎えすればいいのです。

ティントレット 羊飼いの礼拝.jpg今日全世界の教会が極東から時差を置いて、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになった主イエス・キリストのご降誕を祝って礼拝を捧げます。

クリスマスは救いの業の始まりです。そして十字架につけられて死なれ、復活されて私たちの救いが全うされるのです。

クリスマスはすべての民にあたえられる喜びです。

j_je04.jpg「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」。     
         
(ルカによる福音書 
       2章11節)



「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。
       (ヨハネによる福音書 3章16節)



附記:これは公立中学校で国語の講師をしていた時に、1年生のクラスに配布したものです。

中学校講師時代に.jpg

子どもたちの教養のためにもクリスマスの意味を知ってほしくて、10分間ほど時間を割いて授業の最初に話しました。大学を卒業した1974年の12月のことでした。

posted by 優子 at 17:36| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2016年12月18日

家の教会㉞ −クリスマスの賢者たち “The Gift of the Magi”− ―

anime_tomosibi01.gif今日からアドベントの4週目に入り、いよいよ来週はクリスマスです。
アドベント期間は主イエスをに会う備えの時であり、それは即ち悔い改めの心を持つことです。イエスさまを心の中にお迎えして、クリスマスをこころからお祝いしたいと思います。

2016年12月18日(日)(第34回 家の教会)
13時5分〜13時45分
出席者4名
@ 前奏  知子
       バッハ コラール・クリスマスオラトリオ
A 主の祈り  一同   
B 讃美歌112番  「もろびとこぞりて」
           ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル作曲
C 聖書輪読  マタイによる福音書2章1節〜12節
D お話    優子
E お祈り   一人ずつ
F 讃美歌115番  「ああベツレヘムよ」
G 後奏 知子  バッハ 待降節コラール
         「来たりませ 異邦人の救い主よ」
 
マタイによる福音書 2章1節〜12節:
2:1イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
2:4そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。
2:5彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
2:6『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。

2:7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
2:9彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。

お話:
今日は最初にオー・ヘンリーが書いた『賢者の贈り物』のお話をします。これまでにユキに読んだことがあるのだけれど覚えているかな? 貧しい夫妻が互いへのクリスマスプレゼントを贈る話です。ページをめくりながら簡単にお話するね。

妻のデラは、夫のジムが大切にしている金の懐中時計に吊るす鎖を買うために、自慢の長い髪を切って売り、一方、夫のジムは祖父と父から受け継いだ貴重な懐中時計を売って、デラが欲しがっていたベッコウのくしを買ったという物語です。

賢者の贈り物最終ページ.jpgそして、オー・ヘンリーは、お話の最後をこのように結んでいます。

「贈り物をするすべての人の中で、この二人が最も賢明だったのです。
贈り物をやりとりするすべての人の中で、この二人のような人たちこそ、最も賢い人たちなのです。世界中のどこであっても、このような人たちが最高の賢者なのです。彼らこそ、本当の、東方の賢者なのです」。


妻は自慢の長い髪を売り、夫はおじいさんから受け継がれてきた懐中時計を売って、それぞれ売ったお金で贈り物を用意しました。

このような行為を「犠牲」と言います。即ち、自分が損することを厭わずに相手に大切なものをささげることです。ですから犠牲の大きさは愛の大きさを示しています。

j_je02.jpgオー・ヘンリーが最後に書いている「東方の博士(賢者)」とは、今日読んだところに出てきた3人の博士のことです。

この博士たちは星占いをしていた天文学者です。と言っても聖書が罪とする「占い」、私たちが知っている「星占い」ではなく、彼らは当時の天文学研究者で、天体の運行と地上の出来事を綿密に調べる最先端の科学者でした。

しかも、知的に優れているというだけではなく、深い知識と知恵を有し、人を導く宗教者でもありました。

その博士たちが救い主の誕生を告げる星を見つけました。遠くはるばる長い旅をして救い主イエスさまを礼拝しに来たのです。その時にお捧げした「黄金、乳香、没薬」は非常に高価な品々でした。

博士たちは贈り物の品だけではなく、長い時間をかけてしんどい旅をしてやってきたのです。それら全てが尊いものでした。

私たちも日曜日に家庭礼拝するのは、時間ができたから、暇だから礼拝するのではありません。教会へ行くのと同じ、最初に神さまのために時間を聖別して捧げるのです。
実はそのように礼拝できること自体が神さまからの祝福であり、神の恵みの中で生かされているということなのです!

ヘロデ王は、その幼子を見つけたら「わたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」と言いましたが、博士たちは夢のお告げを聞いてヘロデ王のもとを避けて、「他の道をとおって自分の国へ」帰って行きました。
 
神さまと密に生きているとこのようなことを経験しますね。
特に知子は毎日1分たりとも気の抜けない状況にありますから、それゆえに神さまから絶妙なる時に絶妙なる知恵を示されています。私はたびたびそれらの証し(神さまの不思議な出来事)を聞かせてもらっています。


クリスマスは救い主イエス・キリストを伝え、「神さまはあなたを愛されていますよ」と伝える時、クリスマスは愛を分かち合う時です。

この『メメントドミニ』が読んでくださっている方のベツレヘムになって、キリストと出会われますように祈ります。

「人を愛し思いやる心があれば、毎日がクリスマス。その愛の心を一年中持ち続けよう。でもひとりでは続けようがない」。
      (画家 アンソニー・ヴァン・ダイク)

お祈り.jpgこれは礼拝でユキがお祈りしている姿です。この時、「おばあちゃんの目の腫れているのが治りますように」と祈ってくれていました。

というのは、昨夜から急に両方の上瞼が痒くなって1時間半ほどで目の下も腫れてしまい、今はかなりましになっていますが、今朝は瞼が眼球の半分まで垂れ下がるほど腫れていました。

検索結果から症状は「クインケ浮腫」に似ているのですが痒みがあるので違うようです。昨夜は小さな箇所(まるで虫に刺されたところだけ)が痛痒く、とにかく突発性の局所性浮腫です。身体の異変が続く日々です。

今朝は久々のサッカーだったので礼拝は午後になりました。
「ナイスシュートしたよ!」と嬉しそうに帰ってきたユキ。

体力もついてきたので礼拝中も眠らなくなりました。今では自転車に乗って一人で学校まで行くようになり、ユキの成長を喜びつつも手が離れていくことに寂しさも感じます。

次の土・日もサッカーがあるので25日のクリスマス礼拝も午後になります。

その朝、ユキはサンタさんからどんなクリスマスプレゼントをいただくのでしょうか。勤務している知子にとっては初めてその瞬間の我が子の喜ぶ顔を見ることができるのです。こんなに嬉しいクリスマスはありません。

この1週間も主が共にいてくださり勝利させてくださいますように!


附記:「これで4時間分できた」と、知子は昨日も今日も仕事をしています。毎晩最終電車に乗り遅れないようにと気にするほどの遅い帰宅です。


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2016年12月11日

家の教会㉝ −地上に突入された神の御子―

IMG_1384.jpg

anime_tomosibi02.gif2016年12月11日(日)
(第33回 家の教会)
10時35分〜11時25分
出席者4名

@ 前奏
A 祈り   優子
B 讃美   讃美歌106番 「荒野の果てに」
C 聖書   ヨハネによる福音書 4か所
         8章58節、10章30節、
         11章25節、14章6節
D お話   「世界の歴史を分けたクリスマス」 
        優子
E 讃美   讃美歌114番 「天(あめ)なる神には」
F 主の祈り
G 後奏  「主の祈り」
      
今朝掲げた聖書の個所は、イエス・キリストがご自身のことを明確に語られた箇所です。
ヨハネによる福音書8章58節:
「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。

ヨハネによる福音書10章30節:
「わたしと父(神)とは一つである」。

ヨハネによる福音書11章25節:
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。

ヨハネによる福音書14章6節:
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。

讃美歌106番を讃美している時、4節の「今日しも御子は 生まれたまいぬ」の言葉に嗚咽(おえつ)し涙が溢れました。私のために、私の贖罪のために、十字架にかかるために生まれてくださったからです。イエス・キリストが救い主であることを知るときに、わたしたちは深い慰めをいただくのです。

「主のご降誕を感謝し喜びお祝いします」と、昨年のクリスマスに初めて刻んだのではないかと思うのですが、「主のご降誕を感謝する」と自らの魂からあふれ出た言葉でした。
クリスマスは感謝でしかないのです! 
全ての人にとって感謝でしかないのです!

ところで、歴史を英語で "history" と言いますが、これは "his story" (彼の物語)が一つになった言葉である言われています。つまり「イエス・キリストの物語」を意味します。

世界史はキリストの誕生を基点に「紀元前」を「BC」と呼び、「紀元後(西暦)」を「AD」と呼んでいます。「BC」とは" Before Christ" (キリスト以前)、「AD」は "Anno Domini"(ラテン語で主、キリストの年)の頭文字をとったものです。

つまり、イエス・キリストが来られたことによって歴史が二つに分かれたのです。

クリスチャンが年賀状に「主の2017年 おめでとうございます」と記しますが、イエス・キリストはユダヤ人だけにではなく全世界の歴史に大きな影響を与えました。

そして、日曜日が休日になっているのもそうです。キリストが十字架に架けられて3日後に甦られた復活を記念する日だからです。

イエス・キリストは天地を創造された全知全能の神の御一人子です。私たち全人類の罪を負い、人々を救うために、十字架の死を遂げるために人間として地上に来られたのです。まさに地上に突入してくださったのです。

キリストの救いとは、病気が治るとか、商売繁盛などご利益ではありません。人間が考え出したカミは人格的な神ではありませんから、拝む人の人格は全く問われません。いくらかのお金を投げ入れてご利益を述べているだけです。

しかし、キリストの救いとは自己中心にしか生きられない私たちの心を愛に変え、感謝に変えられることです。赦しの救いを得るために修行や善行は必要ありません。

ただイエス・キリストを救い主であることを信じる者には即刻即座、そこに居ながらにして救われます。これまでの神なしの生き方から180度転換して神に眼を向けて共に生きていくのです。神は豊かに赦しを与え、溢れる恵みをくださる方です。

しかし、高慢な心ゆえに謙遜になれない人は神の存在も救いも信じることができません。自分の姿を見ないで他者のことを批判するばかりの人には神さまはわかりません。

また、宗教を自分の修養とするならばどの宗教でも大差ないでしょう。しかし、キリスト教は決して多くある宗教の中の一つではありません。徹頭徹尾「神」と「自分」との関係なのです。


聖書は紀元前4000年も前のことから書かれています。
イエス・キリスト誕生後のことが『新約聖書』に書かれていますが、そこにはキリストの数々の奇跡が出てきます。「奇跡があるから信じられない」という人もいるでしょう。私も神さまの話をした人から何度も聞いてきました。

しかしよく考えてみると、奇跡がなければキリストは単に「立派な人」でしかなかったのです。イエス・キリストは人ではないのです。神の独り子であり、神そのものであられるゆえに、奇跡こそが神の存在証明なのです。

人類史に残る偉大な指導者の大半がイエス・キリストを「わが神、わが救い主よ」と告白して生涯を送りました。一方ではこれまで宗教戦争と呼ばれても認めざるを得ない過ちも犯してきました。これは人間の弱さ、罪です。

神さまを信じたからと言って神と同じになるのではありません。神を知らずに生きていた古き自分、自我(聖書では「肉」と呼びます)との闘いは生きている限り続くのは当然のことです。罪赦され救われても「只今工事中」と死ぬ瞬間まで現在進行形で歩んでいくのです。

神は私たちを操り人形のようにされません。意志をもった人格として、常に「より良いほうを選ぶ」自由を与えておられます。

私は生涯の終わる瞬間まで神のまなざしを忘れないで生きていきたいと思います。これからも「敵をゆるし、更に愛せよ」と求めるイエス・キリストと共に歩いて行きます。

後奏で弾いてくれた「主の祈り」でますます豊かに祝されました。讃美の演奏は素晴らしい。その後も本田ルツ子さんの「主の祈り」を何度も聞いていました。

母が亡くなった1996年の12月、本田ルツ子さんのサイン入りのCDを千里さんからいただき、CDが擦り切れるほどこの曲を聴いていました。

今朝の内容を記し終えようとする今、クリスマスを前にして地球上に生きる人々のことを想います。

イエス・キリストが誕生され、新約聖書が書かれた1世紀時代には世界の人口は3億人前後であったと推定されています。
その後、1976年に40億を突破し、紀元2000年に60億に達すると言われていた世界人口は予想よりも早く1998年に60億人に達し、2015年に70億人に達しました。今後ビリオン(10億)単位で人口が書き換えられるのも目前でしょう。

21世紀になっても精神の暗黒大陸のままの日本、クリスマスの意味も知らないで12月の風物詩のように過ごしている日本の人々にお伝えしたいことがいっぱいあります。

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今日(14時53分)の二上山(雄岳)

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2016年12月04日

家の教会㉜ −クリスマス前の心の備え―

2016年12月4日(日)(第32回 家の教会) 
10時30分〜11時すぎ
出席者3名(Except R)

@ お話      『シリアの美しい伝説』 優子
A 聖書輪読   マタイによる福音書1章18節〜
                     2章23節
B 祈り      一人ずつ
C お話     チャールズ・ディッケンズ
              『クリスマス・キャロル』

anime_tomosibi03.gif5世紀から行われていたアドヴェント(待降節)、今日から2週目に入りました。
今朝の礼拝はシリアに伝わっている美しい伝説から始めました。今も戦闘が続くシリアの古い話です。

シリアに伝わる美しい伝説があります。
クリスマスツリーに飾る金や銀の糸は、この伝説から生まれたものだと言われています。

イエスさまが誕生された時のことです。
ベツレヘムに新しい王さまが誕生したという知らせに、ヘロデ王は大変不安を覚えました。

<ユダヤの王は、この私だ。ゆるせない。打つ手は早いほうがよかろう>

王は、全軍に命令を出しました。
「ベツレヘムとその付近にいる、2歳以下の男の子をすべて殺せ!」

この時、幼い男の子がみな殺しされた大惨劇は旧約聖書の預言の成就として記録されています。
(それはエレミヤ書31章15節の言葉で、今日の聖書個所マタイ伝2章18節にも記されています。)

その大惨劇の直前に、マリアの夫ヨセフに天の使いが夢に現れてエジプトに逃げるよう告げました。ヨセフとマリアはすぐに荷物をまとめて夜の間にベツレヘムを出ました。

この伝説はエジプトに向かって旅する3人の様子を伝えています。

荒野の真ん中ですっかり日が暮れてしまいました。やっとのことで小さなほら穴を見つけた3人は、その中で一夜を明かすことにしました。

このほら穴の入り口に1匹の蜘蛛がいました。蜘蛛はこう思ったのです。

<砂漠の夜は、とても冷え込む。このままでは、赤ちゃんのイエスさまが風邪をひいて死んでしまう。なんとかしなくちゃ>

蜘蛛は大急ぎでほら穴の入り口に巣をかけはじめました。入り口全体をふさごうと一生懸命に大きな巣をかけました。何時間もかけて頑張りました。

<これでよし! こうしておけば、冷たい風はほら穴の中に入れない。もう大丈夫だ>

蜘蛛の巣で冷たい風を防げるはずはありません。
でも、蜘蛛はイエスさまを守るために自分にできることを精一杯したのです。

真夜中近くのことでした。
静寂を破って、突然遠くから馬のひずめの音が聞こえてきます。ヨセフとマリアは目を覚ましました。

<ヘロデの軍隊に違いない>

馬のひづめの音が近づいてきます。

「おい、あそこに穴が見えるぞ。ほら穴を調べて来い!」

<ああ、もうダメだ。見つかれば私たち3人とも殺されてしまう。神さま、助けてください>

ヨセフとマリアは抱き合って必死の祈りをささげました。

兵隊の靴の音がほら穴の前で止まりました。
短い時間でもヨセフとマリアには長い長い時間でした。その時、遠くから声が聞こえました。

「おい、どうしたんだ。なぜほら穴に入らないんだ!」

「隊長、入り口に大きな蜘蛛の巣があります。もうずいぶん前から張っていたのでしょう。巣は破れていないから中には居ません」

「そうだな、別の所を捜せ!」

こうしてヘロデの軍隊は荒野の彼方に消えていきました。
ほら穴の入り口には夜露をいっぱいに浴びた蜘蛛の巣が、清く美しい月光に照らし出されて、ピカピカ、キラキラと輝いていました。

この美しい蜘蛛の巣が、クリスマスツリーの金や銀の糸をあらわしていると言われています。

このような話を読むと、字を見るだけでも恐怖を感じる蜘蛛にも少しは親近感が持てるような気持になりますね。

神さまは「私など何もできない」と思っている人の愛の働きを喜んで受け入れてくださいます。弱い人、小さな人、誰が見ていなくても、心を込めてしていることを神さまは決して無駄にはなさいません。

私たちの日常もまるで日替わり定食のように、よくもまあ毎日次から次へと形を変えて困難がやってくるものだと思います。それに疲れ切ってしまうと「どうせやっても無駄だ。どうせ同じこと。もういいわ」と気力まで消え失せてしまいそうになります。

しかし、「愛は計算を超えます。時として、愛は不可能に挑戦します。とうてい勝ち目のない戦いに挑みます。愛は、時として常識を超え、理性の上に立ちます。
そして、その結果、誰もが予想だにしなかったことを実現します。愛は最高の動機です。愛こそ、創造の力です」。


私たちが愛をもって尽くすことができるのは神さまがさせてくださっているのです。神さまが力をくださってさせておられる人を勝利させてくださらないことがありましょうか!


こう話してから聖書を輪読しました。初めてのクリスマスの様子を端的に書いているマタイの記録です。

マタイによる福音書1章18節〜2章23節:
1:18イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
1:19夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
1:20彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
1:21彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
1:22すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
1:23「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。
その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。
これは、「神われらと共にいます」という意味である。
1:24ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
1:25しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。

第2章
2:1イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
2:4そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。
2:5彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
2:6『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。

2:7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
2:9彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。

2:13彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。
2:14そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、
2:15ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。

2:16さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。
2:17こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
2:18「叫び泣く大いなる悲しみの声が
ラマで聞えた。
ラケルはその子らのためになげいた。
子らがもはやいないので、
慰められることさえ願わなかった」。

2:19さて、ヘロデが死んだのち、見よ、主の使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、
2:20「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」。
2:21そこでヨセフは立って、幼な子とその母とを連れて、イスラエルの地に帰った。
2:22しかし、アケラオがその父ヘロデに代ってユダヤを治めていると聞いたので、そこへ行くことを恐れた。そして夢でみ告げを受けたので、ガリラヤの地方に退き、
2:23ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちによって、「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」と言われたことが、成就するためである。

そして祈り合ったあと、この時期になると毎年読む習慣になっているチャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』を開き、スクルージの甥の言葉を紹介して励まし合いました。

「伯父さんは、おかしな老人だよ」スクルージの甥は言った。
「そいつは本当だ。それに、愉快になれるものを、そうはしないんだ。けれども、ああいうひどいことをしてると、自分で罰を受けることになるのだから、ぼくとしては、伯父さんを何も悪く言うことはない。

ぼくは、伯父さんを気の毒と思うね。腹を立てようとしたって、伯父さんには腹が立てられないんだよ。叔父さんの意地の悪い気まぐれのために苦しむのは、誰なのだろう? いつだって、自分自身さ
」。

私たちも悪に負けないように励ましあって神の正しさを見失わないようにしましょう。結局のところ、人を認めることは自分を認めることであり、人の好意がわからず感謝もできなくて批判ばかり言う人は自分を受け入れることのできていない人なのです。

私たちも常に自らを省みながら、神さまに忍耐と愛を求め続けて自らの心まで引きずり降ろされないようにしましょう。

このあと讃美歌を歌いたかったのですがチャイムが鳴って中断。家の教会ではこのようなことが時々あります。

来客はシルバー人材センター事務局長さん。例年の庭木剪定前の見積もりと交渉で時間がとられ讃美できないで終わりましたが、讃美歌を聞きながらこれを書いている時にユキがクリスマス・ツリーを飾りました。心やすらかで幸せな時間が流れています。

私たちも今一度スクルージの生き方に気づいて神の救いを感謝して、クリスマスの歓びを喜べる者に整えられ備えられていきたいと思います。生かされている間はチャンスがあります。人は死んでからでは遅いのです。

「まだ祝いそこねてはいないな!」と喜んだスクルージ。愛こそが生きる意味を与えるのだと改めて思わされました。クリスマスの意味は、喜び、与えること、分かち合うことです。

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近隣宅のイルミネーション。
12月2日から25日の17時から22時まで、
雨の日を除いて点灯される。

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2016年11月13日

家の教会㉛ −「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。そして、私たちは本当に見えているのだろうか?−

今日は礼拝の時間が取れなくて夕食後に3人(Except R)で短いデヴォーション(devotion;神との交わりの時、静思の時)をもちました。

私が夕食中に「聖書だけでも読もうよ」と声をかけると快諾を得て、ユキまでテキパキと心弾ませて準備しました。ユキはそれぞれの聖書を出して「今日はどこ読むの?」と聞き、ママ(知子)の聖書も開いていました。孫がイエスさまの御愛の中で真実な心に満たされていることを感謝しました。

怒りや憎しみに支配されていては神を礼拝できません。いや、そのような時も、そのような時だからこそ神に助けを求めるのは素晴らしいことです。神はその人が倒れないように見守り、導きと共に大いに祝福してくださいます。

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」。
               (ペテロの第一の手紙 5章7節)

私たちは神さまと共に、しかし形式だけの礼拝至上主義に陥らないように、へりくだった心、悔いた心、真実な心で創造者である神さまとの交わりを喜びます。今日も私たちは全能の神の前に感謝をもって喜んで集いました。

2016年11月13日(日) (第31回 家の教会)
19:05〜19:30
出席者 3名
@ 聖書輪読  ヨハネによる福音書 9章全節
A お話   優子
B お祈り  一人ずつ

ユキ、聖書を読む.jpg聖書は毎週1節ずつ輪読していますが、ユキは当初から自分の読む場所を見逃さないし、読み方はこの半年間で著しく進歩しました。
今日はサッカーをしたので疲れているであろうに、一段と体力も養われて集中できました!

子ども時代の書き込み.jpg知子の聖書には子ども時代の書き込みがありました。






ヨハネによる福音書 9章1節〜41節:
9:1イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
9:2弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
9:3イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである
9:4わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。
9:5わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
9:6イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、
9:7「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
9:8近所の人々や、彼がもと、こじきであったのを見知っていた人々が言った、「この人は、すわってこじきをしていた者ではないか」。
9:9ある人々は「その人だ」と言い、他の人々は「いや、ただあの人に似ているだけだ」と言った。しかし、本人は「わたしがそれだ」と言った。
9:10そこで人々は彼に言った、「では、おまえの目はどうしてあいたのか」。
9:11彼は答えた、「イエスというかたが、どろをつくって、わたしの目に塗り、『シロアムに行って洗え』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」。
9:12人々は彼に言った、「その人はどこにいるのか」。彼は「知りません」と答えた。

9:13人々は、もと盲人であったこの人を、パリサイ人たちのところにつれて行った。
9:14イエスがどろをつくって彼の目をあけたのは、安息日であった。
9:15パリサイ人たちもまた、「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。彼は答えた、「あのかたがわたしの目にどろを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。
9:16そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。
9:17そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」と彼は言った。
9:18ユダヤ人たちは、彼がもと盲人であったが見えるようになったことを、まだ信じなかった。ついに彼らは、目が見えるようになったこの人の両親を呼んで、
9:19尋ねて言った、「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか。それではどうして、いま目が見えるのか」。
9:20両親は答えて言った、「これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人であったことは存じています。
9:21しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」。
9:22両親はユダヤ人たちを恐れていたので、こう答えたのである。それは、もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである。
9:23彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」と言ったのは、そのためであった。

9:24そこで彼らは、盲人であった人をもう一度呼んで言った、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」。
9:25すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです」。
9:26そこで彼らは言った、「その人はおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目をあけたのか」。 9:27彼は答えた、「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。
9:28そこで彼らは彼をののしって言った、「おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。
9:29モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ」。
9:30そこで彼が答えて言った、「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。
9:31わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。
9:32生れつき盲であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。
9:33もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。
9:34これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。

9:35イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。
9:36彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。
9:37イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。
9:38すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。
9:39そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。

9:40そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。
9:41イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある

半世紀前頃までの日本人も障がいをもって生まれてきた人は先祖の祟りであるなど、因習に縛られて全く根拠のないことを信じていたようです。

しかし人間がつくったカミではなく、まことの神さまは全く正反対のことを言われました。その方々は神の呪いのもとにではなく、神の祝福のもとにあると宣言されているのです。

「弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』。
イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』」。

この箇所を読むと、いつも宇野繁博さんのことを思います。

小学校の教師をされていた宇野さんは中途失明され、その後、聖書に導かれて、「この御言葉で視覚障がいの意味がわかった!」と、不条理な苦悩から解放され、神さまの御用のために働いておられます。
「お母ちゃんが生きている時にこの御言葉を伝えてやりたかった」と仰った宇野さんの言葉が、今も私の耳の底にこびりついています。

そして、そのあとに書かれていることも心に強く迫ってきました。
15節以降を読んでいきますと、盲人がパリサイ人に見えるようになったと言うと、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」と、見えるようになったことを無視して意味のわからぬことを言いました。このこともまさに人間の実相です。

パリサイ人は聖書をよく読んでいる人々です。しかし、高慢と偏見で心が歪んで事実を「見る」ことができないのです。聖書を読むときも素直な心で聖書の光に照らされて自らも省みながら読むのです。


パリサイ人たちは肉体の目は見えていても何も見えず、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」と、目の見えない人を神ののろいのもとに置いて、「彼を外へ追い出し」てしまいました。

でも、そのことを聞かれたイエスさまは、すぐに「彼を見つけ出し」てくださいました。神(イエスさま)は常に休むことなく私たち一人ひとりに眼を配っておられるのです。

この盲人は肉体の目が開かれただけではなく霊の目までも開かれてイエスさまに出会ったのです。

私たちも高慢になりやすいお互いですから、自分が高慢であることに気付かないパリサイ人たちを人ごとのように見てはいないでしょうか。その危うさが常にあることを覚えていないと何も見えなくなってしまいます。

私たちは聖書を読んでいるから「真理を知っている!」と思ってはいないでしょうか。神さまはそのほんの少しだけを知らせてくださったにすぎないのです。肉の目が明いていても霊の目が盲目にならないように、常に自らを振り返りたいと思います。

ユキにはいつも以上に短く要点を話し、たった20分あまりの短いデヴォーションでしたが、それぞれが神さまから新しい力をいただいて新しい週に踏み出せる恵みを感謝しました。


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2016年11月06日

家の教会㉚ −神さまに喜ばれる生き方−

2016年11月6日(日) (第30回 家の教会)
10:45〜11:30
出席者 3名(Except R)
@ 前奏
A 主の祈り  
B 子ども讃美歌 88番 「神さまがわかるでしょ」
C 聖書輪読  マタイによる福音書 23章1節〜13節
D お話   優子
E お祈り  一人ずつ
F 讃美歌 298番 「安かれわが心よ」

マタイによる福音書23章1節〜13節:
23:1そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、
23:2「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。
23:3だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。
23:4また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。
23:5そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、
23:6また、宴会の上座、会堂の上席を好み、
23:7広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。
23:8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。
23:9また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。
23:10また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。
23:11そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。
23:12だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。

お話:
この23章はパリサイ主義の内容を示しています。「パリサイ人」を新共同訳聖書では「ファリサイ人」と表記されています。ヘブライ語で“רושים”というのは、律法を守らぬ人間と自らを「分離する」という意味です。(英語で“Pharisee”fˈærəsì)。

ユダヤ人は律法をとても大切に守るため数え切れないほどの決まりを作りました。まず「人体の部分の数」として248の「積極的戒律」と、1年の日数365の「消極的戒律」、合わせて十戒の文字数である613の細目に区分しました。

私たちが信じるイエス・キリストは、神に対する愛と人に対する愛以外に大切な律法はないと教えてくださいました。

今日の個所で最初にイエスさまが言われたことは、律法学者たちは神の掟を教えながら「実行していなかった」ことです。このことはキリストを信じる者すべての人も心に留めなければなりません。

どのような問題も傍観的にではなく自分の問題として聴き、神さまを愛し信頼しているならば、信仰の結果としてまず自分自身が変わることを願いイエスに従っていくことでしょう。 

2番目に言われたことは、「人に注目されたい、みえをはったり褒められたいためにやってはいけない」ということです。先週読んだ箇所にあったように、「自分の義を、見られるために人の前で行わないように」という教えと同じです。

私たちは常に神さまの視線を感じていますが、このことをしっかり心にとめておかないと悪魔の罠(誘惑)に陥ります。常に注意して心を守っていなければ、いつのまにか神さまに喜んでいただくのではなく自分を喜ばせる生き方に変わってしまいます。

3番目に言われたことは「高ぶるな」ということです。8節、9節はルターが問題提起したことと多分に重なるところです。イエスさまは弟子たちと信徒たちの間に階級を禁じられました。宗教的特権階級の出現は堕落をきたします。

もちろん、このこともまた単に形式的に理解するのではなく、その精神を忘れないようにと弟子たちの虚栄心を強く戒められました。ヨハネは自分を他の信者と同じ立場で記していますし、パウロは自分を求道者と同じに置いています。

私たちもイエスさまのみことばを真剣に受け止めるならば、教会で「先生」と用いるべきではないですね。先生呼称を使っていない教会もありますが、特に日本人は「先生」と呼ばれたり呼ぶのが好きですから注意しなければなりません。

呼ばれる側は錯覚して高ぶらないように、呼ぶ側もまた自己確立した人格でなければなりません。イエスさまが「あなたがたはみな兄弟だからです。」と言われたとおり、私もまた「○○師」という書き方についても考えてみたいと思います。

余談になりますが、かつて東大阪市の読書会の代表をさせていただいていた時のこと。かの有名な讃美歌・「ああ主のひとみ」を作詞された井置利男牧師が参加してくださいました。

当時はそのような有名な牧師さんとは知りませんでしたが、私は参加者に牧師であることを述べて「井置利男さん」と紹介しました。

なぜならば、読書会においてまで「先生」と呼ばれては自分自身に戻れません。職位からも解放され、親でも妻や夫でもない一個の人間として参加したい、してほしいという私の考えからです。

そして、これらの戒めの最後にイエスさまが言われた、「あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。」ということこそが、それらの背後にある根本的なメッセージなのです。

牧者(minister)は奉仕者です。人に仕えてもらうのではなく仕える側です。この言葉から「サーバント・リーダーシップ」(Servant Leadership)という経営用語が日本においても広く用いられていますが、これはハウ・ツーの類ではなく、この言葉の真の意味を理解している人は少ないのではないかと思います。

牧者が人々に仕えられている異様な教会(牧者)も見てきましたが、それは信徒たちの問題でもあります。盲従するのではなく、何事も自分の頭で考えることをしなくてはだめです。

神の存在を知って「主体的に生きよ」、そして、「愛をもって互いに仕え合いなさい」というのがイエスのメッセージです。

2_onpu_ak.gif「あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互いのために役立てるべきである」。
           (ペテロの第一の手紙 4章10節)

讃美歌 298番 「安かれわが心よ」("Stille, mein Wille, dein Jesus hilft stiegen")

@ 安かれ わが心よ 主イエスは ともにいます
  痛みも苦しみをも おおしく 忍び耐えよ
  主イエスの ともにませば 耐ええぬ 悩みはなし

A 安かれ わが心よ なみかぜ 猛(ほえたけ)る時も
  父なる あまつ神の みむねに 委ねまつれ
  み手もて 導きたもう 望みの 岸は近し

B 安かれ わが心よ 月日の うつろいなき
  み国は やがて来たらん 憂いは 永久に消えて
  かがやく み顔仰ぐ いのちの 幸をぞ受けん
                  アーメン


  
posted by 優子 at 13:38| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2016年10月30日

家の教㉙ −主の祈り―

「母の日」1994.jpg今日、私は65歳になりました。
これは母が亡くなる1年5か月前の1994年の母の日の写真です。母を偲びつつ、65歳まで生かされたことを感謝し、今後はもっともっと大切に時間を使っていきたいと思います。


今朝、次女夫婦から「お誕生日おめでとう!!」メールが届いていました。日本との時差もあるのにタイムリーに送ってくれ、2人のメッセージに励まされて家族で礼拝をささげました。マチ・クマのメッセージは次のページに記録させていただきます。
2016年10月29日(日) (第29回 家の教会)
10:30〜11:15
@ 前奏
A 主の祈り  全員4人で
B 讃美歌21 425番 「こすずめも、くじらも」
C 聖書輪読  マタイによる福音書 6章1節〜13節
D お話   優子
E お祈り  一人ずつ
F 新聖歌330番  「幸い薄く見ゆる日に」

マタイによる福音書 6章1節〜18節:
6:1自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
6:2だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:3あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
6:4それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:5また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:6あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:7また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
6:8だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
6:9だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
6:10御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
6:11わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
6:12わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
6:13わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
 
お話:
この箇所でイエスさまが教えられたことは、私たちは何をするにも常に神にさま対してするべきであるということです。

2節の「彼らはその報いを受けてしまっている」とは、すでに人から褒められているから神の国で報いを得ることができないという意味であり、3節の「右の手のしていることを左の手に知らせるな」とは、周囲の人にわからないように、自分自身の心にも留めないほどにしなさいと仰いました。ましてや、「私はこんなに良いことをしましたよ」とばかりにするのは偽善者です。

偽善者とは自分の心や行いが正しいように見せかける人のことで、その語源は「俳優」から来ています。祈りについてもそうです。偽善者は人から良く思われたいので人の前で祈るのが好きですが、そのような祈りは神さまには届きません。

しかし、ここで大切なことは、イエスさまは祈る時の形式を仰ったのではなく、公衆の前で祈ることや、誰かと共に祈ることを禁止されたのではありません。

私たちは空気がないと生きていけません。それと同じようにクリスチャンにとって祈りがなくては生きていけません。なぜならば祈りとは神さまとの交わりであり、常に一人ひとりに呼びかけてくださっている神さまへの応答だからです。

教会で祈りを指名された時も、毎週この場でひとりずつお祈りする時も、祈りは人に聞いてもらうものではありませんから、上手下手などは全く関係ありません。

かえって自らを省みながらトツトツと出る言葉のほうが、神さまは同席する人にも用いてくださることでしょう。私は敬虔な方々の祈りによって物事の考え方をたくさん教えられました。

ですから私たちはお経のようにただ繰り返して反復するのではなく、心にある思いを正直に神さまにお話ししましょう。神さまは全てをご存知ですから一つひとつの出来事を説明する必要などないのです。

イエスさまはこのように祈りなさいと教えてくださいました。
11節の「日ごとの糧」は食物だけではなく「霊的な糧」である神さまの言葉の意味です。食物だけではなくみことばも共にいただきたくのです。

13節の「試みに合わせないで」は「誘惑が来ても落ち込むことなく打ち勝たせてください」であり、「悪しき者からお救いください」とは、悪人から守ってくださいという意味だけではなく、私自身の心の中に巣食らう悪しき心から救ってくださいという意味です。

私たちがささげる「主の祈り」は、神をたたえて栄光を神に帰する「頌栄」で終わりますが、口語訳聖書(上掲)には書いてありません。「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」という部分は後世追加されたもので、ダビデの祈り(歴代志上 29章10・11節)から取られていると言われています。

お祈りとは自らの切なる思いを申し上げることです。祈りにおいてまで自らの弱さや醜さを正直に吐露しないならば、そんな空しい行為はないでしょう。

そしてイエスさまはこうも仰っています。

「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
    (マタイによる福音書 18章19・20)

ひとりで祈る祝福と共に祈る祝福です。
「家の教会」を重ねていくことができるのも共に祈っているからです。私たちのために祈ってくださっている方々に感謝し、今週も主と共に雄々しく前進していきましょう。

新聖歌330番 「幸い薄く見ゆる日に」は、幼くして召された子どもたち、また、脳死状態のMくんのこと、そしてその親御さんたちの慰めを祈りたく讃美しました。

幸い薄く見ゆる日に 孤独に悩むときに
わが恵み汝れに足れりと 静かな声を聞きぬ
されば 我 わが目を上げて
十字架のイエスを 仰がん
主よ 汝が愛を想えば 我に乏しきことなしと

愛する者を失いて 望みの消ゆるときに
われ汝をひとりにせじと 優しき声を聞きぬ
されば 我 笑みをたたえて
友なるイエスに 応えん
主よ 汝が愛に生くれば 我に乏しきことなしと

posted by 優子 at 17:32| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2016年10月23日

家の教会㉘ −姦淫の女。これぞ罪の赦しの福音なり―

IMG_0768.jpg昨日から急に秋らしい気温になった。
今朝の礼拝は良輔欠席。知子は席を共にするも咳が止まらずに聖書輪読とお祈りはユキと二人で務めた。
昨日受診して薬も数種飲んでいるが肋骨が痛むほど咳が止まらない。

2016年10月23日(日) (第28回 家の教会)
10:00〜10:35
祈り   優子
讃美歌  聖歌651(新聖歌474番)
聖書輪読 ヨハネによる福音書 8章1節〜11節
      ユキ、知子
お話   優子
祈り    ユキ、優子

ヨハネによる福音書 8章1節〜11節:
8:1イエスはオリブ山に行かれた。
8:2朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
8:3すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
8:4「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
8:5モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
8:6彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
8:7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8:8そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
8:10そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
8:11女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕

お話:
ユダヤではどんな罪でも2人以上の証人がいなければ訴えることができなくて、姦通罪は死刑という重い罪でした。

旧約聖書によれば、石で打ち殺さるべき場合は婚約した女性が姦淫した場合(申命記の22章23・24節)で、夫がありながら姦淫した場合(レビ記20章10節)は、2人共必ず殺されなければならない(絞殺の刑)とされています。

この女性は「石打ちの刑」とあり、この女性だけが連れてこられたので許嫁(いいなずけ)であることがわかります。きっと哀れな恥ずかしい姿で恐怖に震えながら立っていたのでしょう。

「イエスをためして、訴える口実を得るためであった。」とあるのは、パリサイ人らはイエスがモーセの掟のとおりするとは思ってはいないことを知っており、イエスが「この女を赦してやれ」と仰ったならばモーセの律法に背いたと訴えて窮地に陥れようとしていたのです。

そして、モーセの律法に従って「この女を石で打ち殺せ」と仰ったならば、罪を犯した一人の女性も救うことができないではないかと、どちらに答えても彼らの罠が仕掛けられていたのです。

なんという悪だくみでしょうか。「イエスの眼にはこの女の罪にもまさりて彼らの罪が甚だ深きことを感じ給うた。」と石崎幸吉は述べています。

しかし、イエスさまは彼らの挑発に乗らないで相手にされなかったということに心打たれます。私たちも人の悪意の挑発を受けることがありますが、イエスさまのように相手の挑発に乗らないことが肝要です。

サタンは私たちの平常心を失わせて信仰を台無しにしようと、常にその機会をねらっているのですから神さまの守りの中にとどまりましょう。  

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
この一言は、モーセの律法を認め、且つ、「罪のない者」という条件をつけられた見事な一撃である!


この一言は「深く彼らの肺腑を貫き彼らの良心を射通したことであろう」(石崎幸吉)。
そして、年老いた者から出て行った光景にも感動しました。というのは、年を取っていても自らを省みず、いつまでも他人のことばかり言い続ける人々も多くいるからです。

最後に罪人とイエスだけになった。そして、唯一、罪を裁く権能をお持ちのキリストが、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
これこそが、「罪の赦しの福音の要約ともいうべき御言」です。


にもかかわらず私たちは神の前で罪を告白し、赦されて神と共に歩む生涯に入ってからも罪をおかすどうしようもない者です。しかし、そのたびに悔い改めるならば、キリストにある限り、罪に定められることはないのです。

この罪こそが私達が生きていく上でもっとも深刻な重荷であり、罪の解決がなければ死ぬに死ねないのに、なんと多くの人が己の罪について悩むことなく罪の解決もしないで死を迎えるのでしょうか。

最後に私の信仰に影響を与えた一人、クリスチャンのフランス文学者であり哲学者の森有正の言葉とドストエフスキーの臨終の言葉を御紹介します。

「人間にとって決定的に死に値するものは、人間の持っている罪なのです。(略)人間に罪というものがある以上、人間は死ぬことができない、これはいちばん重要な問題だと思うのです。(略)

人間の魂を、生きることができなくさせるものは罪です。自分が罪人だということです。(略)罪がある限り、人間は死んでも死にきれないということをつかむことです。自分の経験を深めていきますと、その問題だけが残ります。(略)

けっきょく最後に残るのは、人間の死の問題であるということ。しかも、死の棘、死の針は罪だということ、罪が死の針のようにあって、人間は死ぬこともできないでいる、人間があんなに死を避けるのは、ただ死が恐いからでなくて、やっぱりそこに罪があるからだと私は思うのです」。


そして、ドストエフスキーの遺言は、

「どんなに恐ろしい罪を犯すことがあったとしても、神の赦しを諦めてはならない。お前たちは神の子供だ。御前にへりくだり赦しを求めなさい。放蕩息子の悔い改めを父親が大喜びしたように、神もお前たちの悔い改めを喜んでくださる。失われた者よ、『父の家』 に帰ることができる」。

アーメン、ハレルヤです!!!

「主が私の手をとってくださいます」"He leadth me!"
聖歌651(新聖歌474番)
@ 主が私の手を とってくださいます
  どうして怖がったり逃げたりするでしょう
  やさしい主の手にすべてをまかせて
  旅ができるとはなんたる恵みでしょう

A ある時は雨で ある時は風で
  困難はするけれどなんとも思いません
  やさしい主の手にすべてをまかせて
  旅ができるとはなんたる恵みでしょう

B いつまで歩くか どこまで行くのか
  主がそのみむねをなしたもうままです
  やさしい主の手にすべてをまかせて
  旅ができるとはなんたる恵みでしょう

C 誰もたどりつく 大川も平気です
  主がついておれば わけなくこえましょう
  やさしい主の手にすべてをまかせて
  旅ができるとはなんたる恵みでしょう



附記:このあとユキは公園で開催されている自治会主催の祭り(模擬店、バザー・・)へ。私は夫と食料品の買物に。
生協の店でおせち料理の試食しようとしたときに懐かしい声が耳に入り、横を向くとクリスチャンJさんだった。Jさんのペースに合わせて全てのお皿を試食しながら積もり積もった話を交わす。Jさんが言われたように、夫はクリスマスケーキを3皿も食べていた。

posted by 優子 at 14:40| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2016年10月16日

家の教会㉗ −エリヤに示された次の使命―

昨日も今日もユキはサッカーのため、今日は午前中に1時間半、午後もユキには声をかけなかったので外で遊んでいたのだが、私たちにとっては昨日の「ブルンナーの読書会」に続いて、今日は全日礼拝の時を過ごしていた。

そして、今日はの礼拝は準備していた箇所ではなく、前夜より特別な促しを感じて預言者エリヤを取り上げ、優子、知子、良輔それぞれの気づきや恵みを長時間分かち合い、最後に祈り合った。
2016年10月16日(日) (第27回 家の教会)
15:30〜17:40
聖書  列王記 上 19章1節〜18節
お話   優子
分かち合い
祈り   一人ずつ

列王記 上 19章1節〜18節:
19:1アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、
19:2イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。
19:3そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、
19:4自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。
19:5彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使いが彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、
19:6起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。
19:7主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。
19:8彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。

19:9その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
19:10彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。
19:11主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
19:12地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。
19:13エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
19:14彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。
19:15主は彼に言われた、「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。
19:16またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。
19:17ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。
19:18また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。

神の預言者エリヤはバアルの預言者と対決しエリヤが勝利したが、エリヤは悪人イゼベルに命を狙われて恐れた。

あの信仰による祈りと願いを捧げ、神の力によって多くの業を行ったエリヤが、イゼベルの脅しを恐れて逃げる姿は同一人物とは信じられない光景だ。信仰が萎えると人を恐れる。

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」。      (箴言29章25節)

しかし、あのモーセやエレミヤでさえも弱音を吐いたのであり、信仰者と言えども常に強くあり続けることはできない。そんな時こそもう一度神の御前に立って主の平安をいただいて、祈り、信仰をもって踏み出すことだ。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」。
           (ローマ人への手紙 8:28)

すると次の選び取るべき道を示され、霊性を強くされて使命と共に神の力が吹き込まれる。これこそ主に在る者の恵み、主の前に立たされた者に注がれる祝福だ。

自分だけが残ったのではない。バアルに膝をかがめず口づけしない者も残されていた。私たちの周囲にも意外なところでクリスチャンとの出会いを経験するが、クリスチャンではなくとも、悪意に満ちた者たちの中に誠実に生きる人物が置かれているのは何と幸いなことだろう。その者たちと共に現実を改善させていくのである。

神より託された使命を果たす。神の力によってさせていただくことは何たる光栄なことであろうか。

Yuki by photo コスモス.jpg「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」。 
   (ロマ書 8章31節)
posted by 優子 at 22:07| 家の教会 | 更新情報をチェックする