2017年11月19日

家の教会2017㊶ ―金持ちの青年―

IMG_9083.jpg2017年11月19日(日) 

  (2017第41回 家の教会)

                10時〜45分

 出席者 3名(with ユキ&良輔)


@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌  82番「雄々しくあれ」

           90番「主イェスと共に」

C 聖書       ルカによる福音書 

            18章18節〜30節

D お話       優子

E お祈り      1人ずつ

F 讃美歌      355番「主を仰ぎ見れば」

           344番「かいぬしわが主よ」


ルカによる福音書 18章18節〜30節:
18:18 また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
18:19 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
18:20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。
18:21 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。
18:22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
18:23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。
18:24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。
18:25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
18:26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、
18:27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。
18:28 ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。
8:29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、
18:30 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。
お話:

救いを求めてイエスさまのところに来て救われなかったのはこの人だけだったのではないかと思うのですが、彼は品行方正でユダヤ教の戒律を守っている青年であり、若くしてサンヘドリンという最高法院の議員に選ばれていました。


それだけではなく人生についても考える人だったのだと思います。それゆえにイエスさまに純粋な気持ちで問うたのです。


しかし、青年は唯一絶対なる神さまのことがわかっていなかったゆえに「よき師よ」と、人間に対する形式的な敬称を用いて呼びかけました。イエスさまはそんな青年の心を直截に神に向けるために十戒を示されました。


その問答の次にまだ一つ欠けている(やり残している)ことがあり、それは大金持ちの青年に全ての資産を売却して貧しい人に分けるということでした。


ここで誤解してはいけないのは、施しをすれば永遠のいのちが与えられるという意味ではありません。持ち物を売り払って施すという善い行いによって救いを獲得するのではありません。


彼は自分中心の生き方でした。言葉を変えて言えば、自分のために生きていたゆえに財産を手放すことができなかったのです。しかし、これは大金持ちだった彼だけの問題ではありません。金持ちではない私たちにもできません。


それに財産だけが問題ではありません。富だけではなく、地位、名誉、習慣、伝統、あるいは、頑なな自我もそうです。いずれにしてもそれらを棄てられないがゆえに、それらを自分の神とし神を求めることもないのです


永遠の生命を確保したいと思わない人はいないでしょう。この大金持ちの青年は「永遠のいのち」を求めることのできる心を持っていたのに財産が大きな妨げになってしまったのです。


全財産を投げ出すなど誰もできないと思います。それどころか時には僅かな額でも出し惜しみしてしまうのが人間の本性ではないでしょうか。イエスさまは「人にはできない事も、神にはできる」と言われました。ここが大切で、ここに心を傾けるのです。


私たちはイエスさまの仰る通りに従えなくて、迷い、惜しんだり、間違いを侵してしまうお互いですが、そんな自分を嫌悪しながらもやっぱりイエス・キリストと共に生きていきたいと願います。


感謝なことに、そのように命の道に踏みとどまらせてくださっているのも神の力、神の恵みです


主イエスはいつか言われました。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と。即ち、富をどこに積むかは心をどこに置くかということであり、何を一番大切なこととして生きるかということです。


地上の富や善行や奉仕に生きることが一番大切なことではなくて、神さまとの関係を一番大切なこととして生きる。それが富を天に積むことであり、「天に宝を積む」生き方なのです。そして、神さまとの関係の中で神さまに喜ばれる生き方に励みたいと思います。


主イエスに従って行くとき、私たちは徐々に握りしめているものから手を放して、隣人や貧しい人々のために用いていく者と変えられていくことでしょう。神の力が働いて必ず変えてくださることを信じます。


IMG_9060.jpg自分の努力によって神さまの救いを手に入れようとするのではなく、ただ神さまの恵みに依り頼んで信頼して生きる。そのためには持っているものを貧しい人々に分けてやりなさい。イエスさまは今日も私たち一人ひとりに語っておられます。

posted by 優子 at 17:15| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月12日

家の教会2017㊵ ―イエスを仰ぎ見る―

12-1.jpg昨日良輔はゴルフで不在、知子は勉強会で全日外出、私はユキと二人で本当に楽しい一日を過ごしました。家庭でこんなに心安らいだのは少なくとも今年初めてだったと思います。

そして今朝、ユキはサッカー教室に。昨夜のうちに「お昼ご飯のあと礼拝が終わってから遊ぶ約束するね」と、驚くべき喜ばしいことを言いました。私たちは9時から自治会の草引き清掃に。

12-4.jpgサッカーから帰宅したユキは、お友達から誘われて他自治会のイベントには勝てず「夕拝しよね!」と言って遊びに行きました。勿論快く見送りました。😖

2017年11月12日(日) (2017第40回 

                     家の教会)

3時30分〜4時15分
出席者2名(with 良輔)
@ 初めのお祈り    優子
A 主の祈り
B 讃美歌        285番「主よ御手もて」
C 聖書輪読       ローマ人への手紙 7章14節〜25節
D お話          優子
E お祈り         1人ずつ
ローマ人への手紙 7章14節〜25節:
7:14 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。

7:15 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

7:16 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。

7:17 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

7:18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

7:19 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。

7:20 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

7:21 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

7:22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、

7:23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

7:24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

7:25 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

お話:

「いずれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)のすみかぞかし。」(わたしのような罪深い者は地獄以外に行き場がない存在だ)とは、親鸞の有名な言葉です。9歳で出家し、20年間もの年月を比叡山にこもって天台宗の厳しい修行を徹底的にした親鸞が最後に行き着いた境地でした。


親鸞の胸中はパウロの苦悩、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(24節)と重なります。


今日輪読した箇所にあります「内なる人」とは、「心」と呼んでいる人間の良心が備わっているところの意味であり、人間は生まれながらに良心が備えられていることをパウロは知っています。ところが善い行いができない、実践できないという自己矛盾、これが人間の本質なのです。


24節の言葉は、心が窒息するほどの絶望であり苦悩の究極の叫びです。ところが次に一転して「感謝」するのです。主イエスによる救いによって解放されるからです。


主イエスを仰ぎ見ることにより即刻即座に解放されます。これは知識によってわかるというものではなく聖霊体験です。私は信仰生活の初めのころはわかりませんでしたが、今はよくわかります。


主イエスに繋がっていることがいかに大事であるか、主イエスを離れては再び深い苦闘に入ってしまいます。信仰者といえども生きている限りこの人間の本質は変わりません。主イエスをそっちのけで生きているならば、罪の存在にも気がつきませんし罪の力に悩まされることもないでしょうが。


ルターでさえ状況に動揺し落胆することがありました。(そのエピソードはここをご覧ください)。エリヤもそうでした(列王記第一の18章)。耐えられないほどの圧迫を受けていたと告白しています。


私たちも生きている限り葛藤から解放されることはなく、揺れ動き、悩み苦しむのですが、自分の弱さ、醜さに絶望するのは素晴らしいことであり、それは信仰を授かった者ゆえに感知できることです。神さまの光に照らされて自分の罪深さがわかるのですから、絶望は神の祝福なのです!


ここで大切なことは、そうした情態に長くとどまっていてはいけないということです。その絶望の苦闘からイエス・キリストを仰ぎ見るのです。主に在って自らの欠けを知った人だけが、そのことを告白することができるのです。


パウロは「わたしは罪人のかしらです」と言っています。私など時にはそのように言えない、言いたくない時があります。そんな時は、自分を悩ます人、悪意を向ける人に縛られているのであり、神さまに対しても素直になれず、悔い改めていないというのもよくわかっています。砕かれていないのです。


パウロは主に在って歩むほどに砕かれて低くされていきました。最初の頃は自らのことを「使徒の中では最も小さい者」、次に「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」と呼び、最後には「私はその罪人のかしらです」(Tテモテ1:15)と。


律法でいつも責められているというのが私たちの現実であり、クリスチャンになるとより一層に自分を責めるものがあるのですが、キリスト者とされた人には聖霊が授けられています。主イエスはその現実を越えて常に私と共にいてくださいますから、主の御名を呼んで即刻解放していただきましょう!


祈ったり聖書を開く気持ちにもなれない時は、「主よ」、「イエスさま」と御名(みな)をお呼びするだけでもいい。讃美できない時は讃美歌を聞くだけでいい。きっとまもなく自らも口ずさんでいることでしょう。本当に「主を喜ぶことはあなたの力になるのです」は真実です。


「もし、祈ることをやめさせ、私たちを気落ちさせるなら、すでに悪魔の餌食になっている。自己吟味せよ」。


「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。

         (ガラテヤ人への手紙 5章1節)


最後に「奴隷」という言葉からミケランジェロの未完成の彫刻を思い出しました。アカデミア美術館の「プリジョーニの回廊」にある4つの奴隷の彫刻は、敢えて未完成に造られたと言われています。

    atlante.jpg 若い奴隷.jpg      

      「奴隷アトランテ」    「若い奴隷」

  

     髭の奴隷.jpg 目覚めた奴隷.jpg

     「髭の奴隷」     「目覚めた奴隷」


これらの彫刻に共感した人が、「奴隷の像は鎖につながれていないけれど大理石の中に閉じ込められていて、それが石の穴から解放されることは決してない」と感想を述べ、「彼らの姿は、罪と苦闘する私にどこか似ています」に始まる鋭い聖書のメッセージがあります。

それが掲載されている『デイリーブレッド』の電子版では文字だけではなく音声でも聴くことができ、ワンメッセージが数分間の短いものですので是非ここを開いてお聴きください。

附記:

大学卒業した頃に読んだロマン・ロランの『ミケランジェロの生涯』で、ありあまる天才を発揮するも意志の欠如や性格の弱さ、病的なほどの小心者ゆえに惨めすぎるほどに繊細な神経の持ちであると知りました。ミケランジェロほど純粋な心を持った人はいなかったと。


「もう時の移り変わらぬ魂は幸いである」。(ミケランジェロ)

「気を狂わせるような奴隷状態から」解放されたいと死を渇望したミケランジェロ。90年の生涯は「聖なる苦悩に満ちた」ものでしたが、「キリストにおいて生き、キリストにおいて死んだことも真実である」。(ロラン)

ミケランジェロの晩年は何も完成させることができなかったとありますから、これらの彫刻は敢えて完成させなかったのではないと思うのですが、調べて自分なりの結論を得たいと思います。

『ミケランジェロの生涯』の裏表紙の内側に、「2000年10月8日、真智読了」と私の字で書いてありました。マチも読んでいたとは嬉しいです。


20時10分追記:ユキは宿題(今日のことを作文に書く)をしなければならなかったので夕拝もできず、お風呂から上がった今5分間ほど聖書のお話をしました。


posted by 優子 at 17:11| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月05日

家の教会2017㊴ ―サウロの回心―

2017年11月5日(日) (2017第39回 家の教会) 

9時〜9時45分
出席者 3名(with ユキ&良輔)
@ 最初のお祈り  優子
A 主の祈り
B 子ども讃美歌   74番「神のお子のイエスさま」
C 聖書輪読 
D お話      優子
E お祈り     1人ずつ
F 讃美歌199番 「わがきみイエスよ罪の身は」
使徒行伝 9章1節〜19節:

9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、

9:2 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。

9:3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。

9:4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

9:5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

9:6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。

9:7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。

9:8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。

9:9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。


9:10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。

9:11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。

9:12 彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。

9:13 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。

9:14 そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。

9:15 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。

9:16 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。

9:17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。

9:18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、

9:19 また食事をとって元気を取りもどした。

お話:

サウロとは後にパウロと呼ばれる人のことです。サウロはヘブライ名で、パウロはローマ名で、生まれた時からローマの市民権を持っているユダヤ人です。使徒になってから伝道のためにローマ名を用いたようです。


サウロはステパノが石で撃ち殺された場所に居ました。石を投げませんでしたが、律法を守ることが神さまの教えであると信じていましたから、ステパノを殺すことに負い目は感じていませんでした。


イエス・キリストを信じる人々への迫害はエルサレムだけではなく、遠くへ逃げて行った人々も捕まえようとシリアに向かいました。今日のお話しはその途上のダマスコでの出来事で、イエスさまが地上を去られた2〜3年後のことです。


ダマスコ.jpgこれはイスラエルの地図です。左側の青い部分は地中海で、右側にある青い所は上がガリラヤ湖で、そこからヨルダン川が流れて死海(下方の青い所)に行きつきます。


ダマスコはパレスチナからメソポタミヤに通じる世界最古の都市の一つでした。迫害するためにダマスコに向かっていたサウロの上に、突然天から光が射して倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きました。


サウロは「主よ、あなたは、どなたですか」と「主よ」と呼んでいますが、この時は主と認めたからではなく、ただただ恐れおののいて呼んだのだと思います。


主はサウロに「なぜ教会を迫害するのか」ではなく「なぜキリスト信者を迫害するのか」でもなく、「なぜわたしを迫害するのか」と言われました。「わたし」という言葉に強い意味を感じます。


ダマスコでのサウロ.pngそして、「町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」と言われ、この時サウロは目が見えなくなっていました。


これまでのサウロはユダヤ教徒(パリサイ派)として他の追随を許さないほど熱心に神の律法を守っていました。しかしそれは自分の目で見、自分で考えて生きてきたのであり、その結果神に敵対し致命的な罪に陥っていました。


そこにいた人々は主イエスが言われたとおりサウロの手を引いてダマスコへ連れて行きました。私はここにも注目します。


ヨハネ伝9章に出てくる生まれつきの盲人の目を開けられた時、イエスさまがつばきで作られた泥を盲人の目に塗って、「シロアム(「遣わされた者」の意味)の池で洗いなさい」と言われたとおりにしたことを思い出し、主の導きに従うことの大切さに気づかされます。


今まで人を導いてきたサウロが手を引かれて連れて行ってもらった姿も印象的です。サウロの目は見えていたけれど大切なことは見えていなかったのです。


アナニヤ.png主イエスによって一時目が見えなくなり、言われたとおりダマスコへ行き、アナニヤがサウロに洗礼を授けると「目から、うろこのようなものが落ちて」、主イエスによって霊的な目も開かれて大切なことが見えるようになったのです。


ウロコ.jpg

ところでこれが魚のウロコです。昨日、生協のお店の魚コーナーで見つけました。「鱗(うろこ)のない魚もあるよ」と、魚をさばいている人が声をかけてくださいました。

こんなものが目についていたらよく見えません。こんな感じです。

IMG_8756.jpg


IMG_8758.jpgサウロは「目から、うろこのようなもの」が落ちたと言っています。取り除くとこんなにハッキリ見えますね。

「目からウロコが落ちる」という言い回しは聖書のこの箇所から来ています。その意味は、単に目が見えるようになったということだけではなく、今までわからなかったことが突然わかるようになったという意味です。


サウロはこれまで迫害していたことに疑問を感じたり悩んでいたとは書いていませんが、どうだったんでしょうか。この時からサウロの人生が180度転換したのです。神に背を向けていた生き方から正反対の生き方に変わったのです。


「わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」という主イエスのお言葉は強烈です。これに関して黒崎幸吉は次のように書いています。


「『選びの器』、即ち神が特に選び用い給う目的に叶える素質を持って居る事を神は認め給うたのであろう。サウロは是までその誤れる熱心のために基督者を苦しめて居った。今より後は正しき信仰のために自ら苦しまなければならない


主がサウロを選びて、その証人たらしめんとて彼に現れたまえる事を示されし事、彼に視力と聖霊とを与え給う事とであった。要するにサウロの回心を来らしめし主要の事実は栄光の中における主イエスの顕現であった。


いわゆるパウロの神学と称せられる如きものはその片鱗だもここに示されなかった。これを見てもパウロの回心の事実は理論によったのではなく、直接に主イエスに接した事による事が判明る」。


不思議ですね。サウロは教会を迫害するために来たダマスコで伝道を始め、初代教会の最大の伝道者になりました。そして、キリスト教が世界的宗教になる基礎となり、そのおかげで極東の地、日本にも伝えられたのです。


この箇所を読んで思ったのは、クリスチャンになっても見えなくなることもあるのではないかということです。クリスチャンとは「キリストに生かされている者」という意味であり、キリストの十字架によって赦され愛されていると信じている人々です。


ところが立派なクリスチャンになろうとしたり、あるいはまた、静まって神さまとの密な時間を取らなかったり、悔い改めだけではなく悔しさや悲しみを神さまに委ねずに放置したままにしていると、いつしか感謝する心も失われて大切なことが見えなくなってしまいます。


ですから私たちの目にもいつのまにか分厚いウロコに覆われてしまわないように、イエスさまによって神さまに赦され愛されていることを信じて生きる。それが確かな歩き方であり最高の人生であると再確認させられました。


祈ることさえできない時は「イエスさま」と主の御名(みな)をお呼びするだけでいいのです。どんな時も御名を唱えながらこの世の旅路を歩んで行きたいと思います。


主の平安と尽きない希望と喜びは、み言葉(聖書)と祈りをとおして満たされ、主にある交わり(分かち合い)の中で癒され豊かにされていくのだと思います。お互いに教え励まし合って、心の目に鱗がこびりつかない日々を重ねていきたいと思います。


病床にあるかた、病者に寄り添っておられるかた、悲しんでおられる多くの方々に神の慰めと励ましが豊かにあらんことを切に祈ります。

附記:礼拝のあとまもなく、昨夕のニュースで見た堺中央綜合卸売市場で開催されている「第一回あなごサミット」に4人で行ってきました。わずか20分で着いたのに会場近くになると渋滞していて入るまでに同じぐらいかかりました。


ユキはアナゴをつかみ、お目当てのアナゴの天ぷらを食べて大満足。私は買い物をするにも人が多すぎて疲れました。結局アナゴやマグロは会場内にある回転ずし屋さんで食べて13時半頃に帰宅しました。

IMG_8773.jpgユキは今、宿題の作文を書き終わり、おじいちゃんとアケビを採りに「ナルニアの森」へ出かけていきました。食べたこともないのに。

追記:この実を木に登って採って来ましたが、時期遅れの実はブヨブヨになって腐り始めていました。


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2017年10月29日

家の教会2017㊳ ―宗教改革から500年 「主に在って一つ」―

2017年10月29日(日) (2017第38回 家の教会) 
10時30分〜11時
出席者 2名(With ユキ)
@ 最初のお祈り   優子
IMG_8618.jpgA 主の祈り
B 子どもの讃美歌  48番「こどもをまねく」
C 聖書拝読(ユキ) ガラテヤ人への手紙2章16節    
D お話       優子
E 聖書輪読     エペソ人への手紙4章1節〜6節
F お祈り      1人ずつ
ガラテヤ人への手紙 2章16節:
2:16 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
エペソ人への手紙 4章1節〜6節:
4:1 さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、
4:2 できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、
4:3 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
4:4 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。
お話:
「キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は、すべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」。

これはルターの有名な言葉です。(「キリスト者の自由」)
今からちょうど500年前の1517年10月31日、ドイツの神学者であり聖職者だったマルティン・ルターが95ヶ条の論題をヴィッテンベルク城教会の門に貼って討論を呼びかけました。

ルターは聖書こそが拠りどころであり、救済は神と人との直接的に成されるものであり教会を介してではなく、信仰によってのみ救われると訴えたのです。

当時ルネサンス文化最盛期、教会は不正にまみれローマ法王(教皇レオ10世)がサン・ピエトロ大聖堂建設中で、その資金不足から贖宥状(免罪符)を販売したのです。

" So bald der Gülden im Becken klingt, Im huy die Seel im Himel springt."「グルデン金貨がチリンと鳴れば、魂はポンと天国へ飛び上がる」。
この謳い文句で贖宥状を売りさばいていたのです。諸侯は金貨25枚 、貴族は金貨10枚、市民は金貨1枚などと価格が設定されていたのです。

といっても贖宥状はこの時に始まったものではなく、第1回十字軍の時には大々的に出回っており、15世紀に贖宥状を批判したボヘミアのヤン・フスが火あぶりに処せられています。

ルターは神学的議論をしようとしたのですが、最高の権威である教会(カトリック)批判は宗教改革に発展しました。
これを機に新派に分裂してカトリック(「普遍的」の意味)は新派を異端とし、新派はカトリック教会に抗議したことから自らを「プロテスタント」(ラテン語で "prōtestārī"・ プローテスターリー)と呼びました。

ヨーロッパは分裂し、その最終戦争が17世紀半ばの30年戦争と言われています。同じ神を信じている者同志であるのに、あまりにも残虐な戦争に恐れをなしてウェストファリア条約やピューリタン革命によって終結させたのです。

宗教改革とは教会改革のことであり、これがごく大まかなアウトラインです。人間の実相に唖然としてしまいます。

私たちプロテスタント信仰は、魂の救いは「信仰義認」であり、善い行いにより救われるのではなく、教会を介してでもなく自ら十字架の死と復活によるイエス・キリストを信じる信仰です。

また、信仰者はすべて神の御前に祭司であるという「万人司祭」の考え方です。そして、カトリックのようにマリア崇拝や偉業を成した人を聖人として崇めることもしません。

しかし今それらの違いを超えて、ようやく50年前からルーテル教会とカトリック教会の対話が始まり、分裂から和解、一致へと歩み寄り、カトリックとプロテスタントの歴史的な和解が進んでいます。

その一例がカトリックとプロテスタントの両教派で使えるようにと、共同で翻訳した新共同訳聖書が1987年に刊行され多くの教会で用いられています。(『メメントドミニ』では、1955年に刊行された口語訳聖書を用いています。)

最も平和を希求していたプロテスタンティズムの歴史に悲惨な戦いがあったこと、それが私たちの現実であり人間の姿です。しかし、プロテスタンティズムが中世の暗黒時代から近代をもたらし、現代社会にも大きな示唆を与え貢献しています。

大切なことは、これからもあらゆる領域で個人の多様性を重んじ、異なる信仰や価値観といかに共存していけばよいか改革し続けて行かねばならないのです。より良きをめざして!

信仰者は自分たちの教会だけが正統なものであり、自分たちだけが聖書的であると自負するとすれば道を踏み外すことになるでしょう。

ただし「神が間違いを犯す」と公言する牧師など論外であり、牧師だけではなく唯々諾々と追従する信徒たちに忠告しなければなりません。関係する教職者たちの在り方にも大きな問題を感じていますが、今はただただ教会の上に主の導きを祈るばかりです。

IMG_8624.jpgエルンスト・トレルチは次のように言っています。
「神的な生は私たちの現世での経験においては一ではなく多なのです。そしてこの多の中に存在する一を思うことこそが愛の本質なのです」。

私はこれからも超教派のスタンスで「主に在って一つ」を信条に歩んでいきたいと思います。
折り紙の「くじゃく」はユキがユウチューブを見て折りました。

附記:選挙結果に愕然としブログに取り上げることもしませんでしたが、多くのことを考えさせられています。

先週26日(木)は2週間ぶりの晴天、翌27日と連日の晴天で気温も23、3度になり、2日間はTシャツ一枚で大忙しだった。ユキと知子の寝具も冬用に交換、電気毛布も敷いた。

タオルケットや夏蒲団カバーなど洗濯機を何度も回して気持ちよく乾いた。これで寒くなっても大丈夫! 
しかし、しんどかった。本当にしんどかった。持ち上げる力も落ち、命の勢いが弱くなっているのがわかる。26日の夕方から頭痛が続いている。

冬支度は終わったが昨日から再び雨。そしてまたしても季節外れの台風で只今22号が接近中、今日もまた、雨、雨、雨。
夫は一昨日のゴルフ後、別の集まりの宿泊先に向かい、昨日は雨の中での連日のゴルフ。しかも2日間で400キロも走行したという。無事に帰宅したことを感謝し胸をなでおろす。

IMG_8596.jpg先月72歳になった夫、私は明日66歳になる。体力の差が大きすぎる。早く本の編集を始めないと時間が尽きてしまう。

今年もシュウメイギクの季節が終わった。
Farewell,
until the next year.


posted by 優子 at 12:08| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年10月15日

家の教会2017㊲ −「あなたのパンを水に投げよ」−

2017年10月15日(日) (2017第37回 家の教会)
9時55分〜10時35分
出席者 2名(With R)

@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 讃美歌     368番「つとめいそしめ」
C 聖書輪読    伝道の書11章1節〜6節
D お話      優子
E お祈り     1人ずつ

伝道の書 11章1節〜6節:

11:1 あなたのパンを水の上に投げよ、

多くの日の後、あなたはそれを得るからである。

11:2 あなたは一つの分を七つまた八つに分けよ、

あなたは、どんな災が地に起るかを知らないからだ。

11:3 雲がもし雨で満ちるならば、地にそれを注ぐ、

また木がもし南か北に倒れるならば、

その木は倒れた所に横たわる。

11:4 風を警戒する者は種をまかない、

雲を観測する者は刈ることをしない。

11:5 あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。

11:6 朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。


お話:

「伝道の書」は冒頭から「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」と、人間は何をやっても益がなく、その意味で人生の一切は空しいと書き始めています。


神の創造も認めていませんから、時間は循環的で永遠の繰り返しだから新しいものは何もなく、偶然や運命という言葉が何度も出てきます。


このような書がどうして聖書に編纂されたのだろうかと思うのですが、しかし、大切なことはちゃんと言っているのです。

人生は空の空であるから「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」と。


ところで、私は「あなたのパンを水の上に投げよ」という言葉を初めて聞いた時は意味が解りませんでした。そして大人になってからは、この箇所を読むたびにアンデルセンの童話「パンを踏んだ娘」を思い出すのです。


インゲルという娘が大きなぬかるみを前にして、きれいな靴を汚さないように持っていたパンを泥の中に投げて渡ろうとした話です。


内容は全く違うのですが「パンを水に投げる」という言葉から、私はやっぱり今も連想してしまうほど強烈な印象を与えた童話でした。


さて、「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」というのはどういうことであるかを考えるに、まず「パン」とは何か、また「水」は何を意味するのかを考えたいと思うのです。


その時に注目すべきは「あなたはそれを得るからである」という言葉です。空しくは終わらず、神さまの約束だというわけですから、「パン」も「水」も共に幸いな意味を指していることがわかります。


「あなたのパン」とは「あなたの生きる上で必要な糧」、それは食べ物だけではなく、無くてはならぬ絶対に必要なものです。イエスさまが言われた、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである。」(マタイ4章4節)というみことばを想起します。


ということは、それは自分の能力や努力によって得るのではなく、また得られるものではないということでしょうか。


「水を意味するヘブル語の『マイム』(מַיִם)は、神の真理の象徴」ということですから、「あなたの大切な糧を得られるように神さまに投げよ」ということになります。


そうするならば「多くの日の後、あなたはそれを得るからである」と言うのです。それはいつなのかはわかりませんが「神の時」であり、神さまがご計画を成就される絶妙な時に与えられるというのです。


この地上に在る時とは限らず、御国(天の国)が成就される時であるかもわかりません。しかし、必ず与えてくださるという約束なのですから、その約束を信じて歩み続けていきたいと思います。


今朝のみことばからこのように神さまのメッセージを受け取りましたので、歩み方においてはこれまでと変わらずに、ただし今朝もう一度姿勢を正して、自分なりの精一杯を務めつつ水の上に投げて(向けて)神の御手に委ねます。


神さまの約束は絶対です。確約です。今、私が深い悩みの中にあっても喜びに変えられるという約束を握りしめて進んで行こうと力をいただきました。

私にも与えて下さっている大切な賜物や時を活かして神さまのために使っていきたいと思います。今も神さまが私の思いもしないところで用いてくださっているかもしれません。


「実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである」。


お読みくださった方々の上に、神さまのお導きとお守りがありますようにお祈りします。


posted by 優子 at 15:54| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年10月08日

家の教会2017㊱ −みことばを宣べ伝える者―

2017年10月8日(日) (2017第36回 家の教会)
10時20分〜11時5分
出席者 2名(With R)
IMG_8269.jpg@ 初めのお祈り 優子
A 主の祈り
B 讃美歌    294番「みめぐみ豊けき」
C 聖書輪読   ローマ人への手紙 
             10章9節〜21節
D お話     優子
E お祈り    1人ずつ
F 讃美歌    405番「神とともにいまして」         

ローマ人への手紙 10章9節〜21節:
10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。
10:13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
10:14 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
10:18 しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ
「その声は全地にひびきわたり、
その言葉は世界のはてにまで及んだ」。
10:19 なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、
「わたしはあなたがたに、
国民でない者に対してねたみを起させ、
無知な国民に対して、
怒りをいだかせるであろう」。
10:20 イザヤも大胆に言っている、
「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、
わたしを尋ねない者に、自分を現した」。
10:21 そして、イスラエルについては、
「わたしは服従せずに反抗する民に、
終日わたしの手をさし伸べていた」
と言っている。
お話:
今月22日の衆議院選挙に向けて政界はめまぐるしく変動していますが、有権者である私たちは真剣に各党各候補者が語る真偽を見分けながら耳を傾けねばなりません。

特に憲法問題は喫緊の課題になっていますので、それに関連して戦争や平和について多くの時間を割いて考えさせられています。

10月4日の記事にも少し触れましたように、選挙に関連して政党や政治について話題になる機会が多いので、私はあくまでも政治改革ではなく聖書の言葉を伝えることに時間を労していきたいという思いを強くしています。

IMG_8249.jpg何よりも私たちクリスチャンは、人間の努力では全き平和を実現することはできないことと、真の平和はキリストが再び来られた時に世界を新しくされてもたらされることを知っています。

だからといって私たちは何もしなくてよいのではありません。パウロが「すべての人との平和を追い求めよ」と教えているように、憎しみや武力ではなく、祈りによって神さまが働かれることを待ちつつ「地の塩、世の光」として歩んでいくことが肝要です

その中で最も大切なことは、私たちがキリストを通して神さまとの平和を与えられたように、周囲の人々に機会を見つけてはイエス・キリストを伝えていくことであり、これが世界平和を推進していくことだと信じるのです。

そこでもう一度深く味わいたいと思ったみことばが今日の箇所です。
13節の「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」というのは、ユダヤ人ばかりではなく、すべての異邦人にも伝えられて、信じる者には誰でも救いが約束されているという意味ですが、そのための大前提として「呼び求めるべき主」であるお方を知っていなければなりません。

そのことを受けてパウロは(14節で)、キリストを信じないユダヤ人の思い(反論)を代弁しているのです。

信じたことのない人をどうして呼び求めるのだろう、聞いたことのない人をどうして信じることができるだろうか、そんなことはあり得ないし、イスラエルがイエスをキリスト(救い主)として受け入れないとしてもイスラエルの責任ではなく、聞かされなかったことに原因があるんだと言うのですが、この気持ちはイスラエルの立場ならば誰でも頷けますよね。きっとパウロ自身の思いでもあったのでしょう。

使徒たちは遣わされて確かに福音を宣べ伝えたのであり、ユダヤ人たちは福音を聞いたのです。でも、聞いた者が皆信じたのかというとそうではなく、皆が受け入れたわけではありませんでした。

しかし、「イスラエルは聞いたのだ!」と、パウロはなおも(18節で)強調しています。しかも更に(19節以下で)「聞いただけで意味を理解できなかったのではない」とダメ押しし、福音に耳を傾けずキリストを拒絶した責任は、不従順なイスラエル自身にあり弁解の余地はないと訴えているのです。

しかしまた、そんなイスラエルに対しても(21節で)、神さまの憐れみと寛容を示しておられるのだとイザヤの言葉を用いてパウロは語るのです。

神さまはイエス・キリスト(福音)を拒んだからとすぐに滅ぼしてしまわれるわけではありません。その人の一生をかけて忍耐強く関わってくださいます。

私に洗礼を授けてくださった小山恒雄牧師は、「私たちは人を救わんがために救われた」と何度も説教で語られました。勿論救い出されるのは神さまの御業ですが、神さまは先に救い出された私たちを通して周囲の人々に福音を宣べ伝えていかれるのです。

そこでテモテへの第2の手紙 4章2節〜5節を読んで自らを励ますのです。

4:2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。

私たちがキリストのメッセージをお伝えした時に共感されなくても、それどころか無関心であったとしても、悩みの時に思い出して求めていかれるかも知れません。

IMG_8248.jpgあとのことは神さまに委ねて(お任せして)、私たちも謙遜に忍耐と寛容をもって機会があるたびに福音を宣べ伝えていきたいと思います。

クリスチャンの使命は政治改革によって国家を変えていくことではなく、神のみことばによって人の心を変えていくことだからです。

ついでながら来る投票日には、自分自身の見解に最も近い人に投票し、有権者の権利と義務を果たしましょう。
IMG_8274.jpg附記:ユキはサッカー教室、午後はお友達からバーベキューのお誘いを受けて、2部礼拝はならず。
今日の最高気温は28.4度、薄くなった着古しのTシャツ1枚でも汗ばんだ。ワシントンも今日(7日)は夏みたいに暑かったそうだ。

posted by 優子 at 12:44| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年10月01日

家の教会2017㉟ −ステパノの殉教―

2017年10月1日(日) (2017第35回 家の教会)
9時15分〜9時55分
出席者 3名(With R&ユキ)
@ お祈り  優子
A 子どもの讃美歌  「神さまがわかるでしょ」
B 主の祈り   
IMG_8176.jpgC 聖書輪読   使徒行伝 
    7章44節〜60節
D お話     優子
E お祈り    一人ずつ
F 讃美歌   354番

使徒行伝7章44節〜60節:
7:44 わたしたちの先祖には、荒野にあかしの幕屋があった。それは、見たままの型にしたがって造るようにと、モーセに語ったかたのご命令どおりに造ったものである。
7:45 この幕屋は、わたしたちの先祖が、ヨシュアに率いられ、神によって諸民族を彼らの前から追い払い、その所領をのり取ったときに、そこに持ち込まれ、次々に受け継がれて、ダビデの時代に及んだものである。
7:46 ダビデは、神の恵みをこうむり、そして、ヤコブの神のために宮を造営したいと願った。
7:47 けれども、じっさいにその宮を建てたのは、ソロモンであった。
7:48 しかし、いと高き者は、手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているとおりである、
7:49 『主が仰せられる、
どんな家をわたしのために建てるのか。
わたしのいこいの場所は、どれか。
天はわたしの王座、
地はわたしの足台である。
7:50 これは皆わたしの手が造ったものではないか』。
7:51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。
7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。
7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。
7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、
7:58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。
7:59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
7:60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。
お話:
今朝はステパノのお話です。聖書にステパノが登場するのは初代エルサレム教会時代のこの時だけですが、キリスト教会最初の殉教者であり教会史においてとても大きな存在です。

なぜならばステパノこそが、キリスト教を迫害する側にいたパウロの信仰上と思想上の先駆者であり、ステパノによって明確なキリスト教会の第一歩が踏み出されたからです。

ステパノはモーセの律法と神殿を汚したという嫌疑で捕らえられてユダヤ議会の最高法院で裁かれ、その裁判で語った主張(説教)が7章に記録されています。今朝輪読した個所は裁判の最後の部分でエルサレム神殿について語っているところです。

ステパノを裁いているイスラエルの人々の言い分はこうです。
神さまはエルサレム神殿におられて、そこに行けば神さまにお会いでき、エルサレム神殿がここにあるのも自分たちは神に選ばれた民(選民)の印であるというのです。その神の住まいである神殿を冒涜したと激怒しているのです。

ステパノが語った「いと高き者は、手で造った家の宮にはお住みにならない」は象徴的な言葉です。私はこの言葉からエレミヤの言葉(エレミヤ書10章3節〜5節)を思い出します。

10:3 異邦の民のならわしはむなしいからだ。
彼らの崇拝するものは、林から切りだした木で、
木工の手で、おのをもって造ったものだ。
10:4 人々は銀や金をもって、それを飾り、
くぎと鎚をもって動かないようにそれをとめる。
10:5 その偶像は、きゅうり畑のかかしのようで、
ものを言うことができない。
歩くこともできないから、
人に運んでもらわなければならない。
それを恐れるに及ばない。
それは災いをくだすことができず、
また幸いをくだす力もないからだ」。

目に見える偶像や建物に手を合わす虚しさを見事に表していますね。私たちの信仰は、神さまはどこか決められた建物に居られて、そこに行かないとお会いできないというものではありません。プロテスタントの教会で見るのは十字架だけで、勿論十字架を拝んだりはしません。

先ほど輪読した46・47節にありますように、エルサレム神殿はダビデとソロモンの時代に建てられましたが、これは荒野における幕屋の真髄を象徴したものであり、神は人の手で造られた所におられるのではないと主張しているのであり、ダビデやソロモンの思想を否定したわけではありません。

かつてイスラエルの民が荒野で礼拝していた幕屋の精神を失って迷妄していることを非難し、「イエスは宮より大なる者であり真の神の宮」であり、イエスを信ずべきと主張したのです。

55・56節のステパノの心は聖霊に満たされて恐怖もなく主イエスのみを見ていたのでしょう。まさに命をかけた信仰です。命をかけるとは自分の力で頑張るのではなく、神さまに全てをゆだねる信仰です。いかに精神力の強い人でもこのような恐怖を平安の内に耐えられる人は一人もいません。

後藤健二さんの衝撃的な死以来、私はこのような個所を読むときもあの生々しい記憶がよみがえって心痛に耐えねばならないのですが、と同時に後藤さんもまた聖霊に満たされておられたと信じることができるのです。そしてまた、私は命がけで信仰しているだろうかと自らに問いかけないではいられません。

「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」。
ステパノの臨終の言葉は、敵を愛せと教えられたイエスさまへの真実の信仰を証ししていますね。この衝撃的なステパノの死が人々に多大なる影響を与え、サウロ(パウロ)の回心にも及んだのです。

「多くの殉教の死の中に於て、ステパノの死が殊に偉大なる影響を与えし所以は、彼が徹頭徹尾愛の心を失わなかった事であった。如何なる場合に於ても人を真に感動せしむるものはその雄弁でもなく、豪勇でもなく、又その泰然たる死でもなく、その愛である」とは黒崎幸吉の言葉です。

「ああ、天が開けて、人の子が立っておいでになるのが見える」。
この言葉から、主イエス・キリストはステパノの臨終の折にご自身を鮮明に現されたことがよくわかります。神の右に座っておられる主イエスが立ち上がっておられたとは、ステパノに御手をさし伸べて霊を抱き上げようとしておられたのでしょう。

エルサレムの旧市街地を囲む城壁に「ステパノ門」があるそうです。ステパノはこの門の前で怒り狂った人々に石打ちの刑で生涯を閉じましたが、ステパノが神殿と律法に関する見解を明確に宣言したことにより、それまでユダヤ教の一派と見なされていたものがキリスト教として明確に位置づけられました。

IMG_8175.jpgキリスト教会の礼拝は主イエス・キリストがそこにいてくださり(臨在)、聖霊のお働きによって神さまを実感できる恵みです。聖霊のお働きがなければ、例えば牧師の説教も単なる良いお話で終わるでしょう。

私たちの礼拝も聖霊のお働きにより、それぞれが神さまと出会う恵みの時でありますようにと祈るばかりです。

そして私たちもまた罪や過ちを犯した人を赦すことができますように。主イエスを救い主と信じて贖われた私たちも天の御国に迎え入れてくださるのですから、日々聖霊なる神さまに守り導かれながら明るく生きていきましょう。

紫蘇の花.jpg感謝録:
敬虔な祈りを捧げた夫を主イエスが祝福してお導きくださるように祈ります。

青じその花。
IMG_8177.jpg



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2017年09月24日

家の教会2017㉞ ―パウロとバルナバ―

2017年9月24日(日) (2017第34回 家の教会)
9時55分〜10時30分
出席者 2名(With R)

@ 主の祈り
IMG_7992.jpgA 聖歌   462番「わが生涯は」
B 聖書輪読  使徒行伝
      15章36節〜16章5節
C お話    優子
D お祈り   一人ずつ
E 讃美歌  312番「いつくしみ深き」
※ 昨朝に続いて今朝もサッカー教室のためユキ不在。

使徒行伝 15章36節〜16章5節:
15:36 幾日かの後、パウロはバルナバに言った、「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」。
15:37 そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。
15:38 しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。
15:39 こうして激論が起り、その結果ふたりは互いに別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、
15:40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。
15:41 そしてパウロは、シリヤ、キリキヤの地方をとおって、諸教会を力づけた。

16:1 それから、彼はデルベに行き、次にルステラに行った。そこにテモテという名の弟子がいた。信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシヤ人を父としており、
16:2 ルステラとイコニオムの兄弟たちの間で、評判のよい人物であった。
16:3 パウロはこのテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、まず彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることは、みんな知っていたからである。
16:4 それから彼らは通る町々で、エルサレムの使徒たちや長老たちの取り決めた事項を守るようにと、人々にそれを渡した。
16:5 こうして、諸教会はその信仰を強められ、日ごとに数を増していった。

お話:
IMG_7984.jpg今朝はパウロとバルナバのことを考えたくてこの箇所をえらびました。

ペンテコステの出来事に続いてキリスト教会が名実ともに誕生した出来事がエルサレム会議であったと言ってよいと思うのですが、エルサレム会議は紀元48〜9年頃に開催された初代教会の大きな会議です。

ここで問題になったのは、異邦人が救われるためには割礼が必要か否かでした。激論の末に最後に出された見解は、自らの罪を悔い改め主イエス・キリストを我が救い主と信じる者はすべて神の恵みによって救われるのであり、ユダヤ人が守っている割礼は必要なしというものでした。

「私たちがあなたがたに伝えていたとおりだから」と、パウロは第一回伝道旅行で語っていた異邦人たちに伝えようとバルナバに言いました。ところがここでマルコを同行させるさせないで二人の間で激論になりました。

37節の「マルコというヨハネ」とは「マルコ」はギリシャ名で、ヘブル名では「ヨハネ」といいで同一人物です。マルコは第1回目の伝道旅行の途中でエルサレムへ帰ってしまったので、そんな者は連れて行かないとパウロが反対したのです。

かつてイエスの迫害者だったパウロ(その時はサウロと呼ばれていた)が回心し、パウロをクリスチャンの仲間にとりなしたのがバルナバです。当初は誰もパウロの回心を信用しなかったところを、エルサレム教会から信頼されているバルナバの紹介があったから皆は信用したのでした。

バルナバは「慰めの子」を意味する名前のとおり、弱い人たちや苦境にある人を放っておけない人でした。かつてのパウロの苦境を助けたようにマルコにも同じように愛の執り成し、配慮に満ちた関わりをしました。このあたりは私たちにも現実感のある出来事ですね。

パウロとバルナバは激論し、ついに袂をわかってバルナバはクプロ(キプロスのこと)へ、パウロはシリヤ、キリキヤ地方へ赴いたと15章の最後に記されています。

互いに偉大な使途たちです。彼らの激論から感じましたことは、信じるものがある人にとって引けぬ時は激論になることもあるということです。いや、そのような時にさえ議論を避けるのを良しとするならば「日本的キリスト教」なのかもしれません。

その激論の結果、一致を見ずに互いに別れ別れになってしまったことについては残念に思いましたが、特にこの場合はどちらが正しいというものではないと思います。

これについて黒崎幸吉は次のように容義しています。

「この一事実に対してパウロの峻厳なる性格とバルナバの寛大なる性格との間に判断の差異を生じたのであった。自己の利害に関する限り寛容は美徳である、併し乍ら公の問題に関する場合善悪邪正は明確になされなければならない。この点に於てパウロのバルナバに優れる所以が明かになった。

然のみならずこの争論は従来世話になったバルナバに対する争であり、また一度は彼らを離れたけれども再び帰り来れるマルコに関する事であり、またマルコの母は使徒たちの庇護者であった点(12:12)等より考えてパウロがあまりに厳に過ぐとの批難を為す者があるけれども、私情と公職との区別を正しく保持した事はパウロの方が正しかった。この時以後パウロの伝道が栄え、バルナバの働きが鈍った事がこの事を証拠立てる」。

私は聖書の読みが浅いのですが、バルナバは私情で言っていたとは思わないのです。

パウロのような厳しさを持ったリーダーと、バルナバのように忍耐強いリーダーという賜物の違いと受け止めるのであるならば、それらはどちらのほうが優れているというものでもなく両者が必要なのです。

何よりもこのマイナスと見える対立を通しても、神さまのご計画は進められていったことに注目するからです。

後年、獄中のパウロはテモテにこう言っています。
「マルコを連れて、一緒にきなさい。彼はわたしの務のために役に立つから」(テモテへの第2の手紙4章11節)と、マルコの成長を認め、パウロにとっても大切な協力者になっていたことがわかります。それはバルナバの存在、関りがあったゆえのことだと思うからです。

私たちは皆それぞれに欠けがあり、かくも弱いお互いです。「どうしてこんなことで?!」と意見の違いに落ち込むこともあります。

しかし大切なことは、その時にも対立する双方が神に委ね、主イエスから目を離さずに歩んでいくならば、私たちの弱さや失敗をも用いてくださり、私たちの思いや力を超えて神のご計画が成就されていくことを忘れてはなりません。今朝はもう一度そのことを深く心に刻みたいと思います。

キプロス.png

イエス・キリストが昇天されて後、パウロとバルナバが伝道旅行で行ったキプロス島には、バルナバの墓の上に建てられたと言われる小さな美しい教会堂があるそうです。現在は人口の8割近くがキリスト教徒(ギリシャ正教)だということです。

折しも先週から次女の伴侶がミッション(出張)でキプロスに行っており、政府関係者とミーティングを重ねています。今回の派遣先を知った時、シリアやトルコがすぐ近くにある中東なので心配しましたが治安は比較的良好と聞き安心しました。

ウィキペディアによれば「キプロスは、中東やイスラム諸国とも友好関係にありテロの可能性が極めて低い稀有な国である。現在、ロンドンでテロが多発する中、多くの企業がキプロスに拠点を移している」とのことです。

IMG_8048.jpg婿からの無事到着の知らせには「建物や道路が美しい」とありました。キプロスは2000年前にパウロとバルナバが踏んだ地です。娘婿の無事と良き働きを祈ります。

附記:今日のユキ。

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昨日のユキ。

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9月3日のユキ。
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2017年09月17日

家の教会2017㉝ ―何が人を汚すのか―

嵐の前.jpg
嵐の前の二上山(雄岳)
台風18号で気を揉んでいるが晴れ間さえあり、既に洗濯物も乾いた。
そして14時16分大阪府東部に大雨洪水警報が出た。

2017年9月17日(日) (201733回 家の教会)
9時40分〜10時30分
出席者 2名(With R)
@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 讃美歌  187番「主よ、いのちの言葉を」
C 聖書輪読 マルコによる福音書 7章1節〜23節
D お話   優子
E お祈り  1人ずつ
 ※サッカー教室は中止でユキは在宅していたが欠席。

マルコによる福音書 7章1節〜23節: 
7:1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。
7:2 そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。
7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。

7:4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。
7:5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。
7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、
『この民は、口さきではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間のいましめを教として教え、
無意味にわたしを拝んでいる』。
7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。
7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。 7:10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
7:11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、
7:12 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。
7:13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。
7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。
7:15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである
7:16 聞く耳のある者は聞くがよい〕」。
7:17 イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。
7:18 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。
7:19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた
7:20 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。
7:21 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。
7:23 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。
お話:
エルサレムの律法学者は 人々にとても尊敬されていた人たちでした。しかし、パリサイ人や律法学者たちがイエスさまのもとに来るのはいつもイエスさまを非難する材料を見つけるためでした。

ここでは手を洗わないでパンを食べている弟子を見て非難してきました。言うまでもなく食事の前に手を洗う習慣は衛生的であり、とても良い習慣です。

しかし彼らは形式的な事柄を問題にし、衛生的な汚れと良心や善悪など宗教的な汚れと混同して取り上げていることを反対されました。彼らの弟子たちへの非難はとりもなおさずイエスさまへの非難です。

イスラム教徒の知人からお聞きしたのですが、ムスリムの方々は毎日5回メッカに向かって祈り、祈りの前には体を清めるそうです。
手を洗うだけではなく、口や足まで洗うのです。しかも手や足などは全て右側から洗うことに決まっているそうです。

日本でも神社や寺院に手水舎(てみずしゃ・ちょうずや)があり、参拝前に体を清める意味で手を洗い口を漱(すす)ぎますね。

そのやり方にも決まりがあり、まず右手で柄杓(ひしゃく)を持って左手を洗って、柄杓を持ち替えて右手を洗い、口を漱ぐときは左手で口元を見えないようにし、最後は柄杓の柄を洗うために柄杓を立てて水を柄につたわせて置くなど、まるで茶道の作法のようで抹茶を点てる時の茶杓の扱いを思い出させます。

共通しているのは、汚れたままでは神さまの前に出ることができないという思いであり、パリサイ人や律法学者たちが訴えていることも容易に想像できます。

この場面で彼らが主張していることは口先だけの形式的な信仰であり、神の言葉ではなく人の言い伝えを重視しているとイエスさまは叱責されたのです。

十戒の第5戒に記されている「あなたの父と母を敬え」についても例に出されました。

彼らには食べ物についても細かい決まりがありました。
旧約聖書(レビ記、申命記)には宗教的汚れの問題から食べてよいものといけないもの、また、汚れてしまった者が神の前に出るための供え物や清めの儀式について細かく記されています。

例えば「食べてよい動物」は、牛、羊、ヤギなど反芻するもので、ひずめが分かれているもの。魚類はヒレと鱗(うろこ)のあるもの(レビ記11章9節)、鳥類は七面鳥、昆虫はイナゴです。

しかし、イエスさまは食物に汚れたものと清いものとの区別はないと明確に仰いました。聖書にも「手を洗わないで食事してはいけない」ということは書いていなくて、それは人の言い伝えであり、慣習やしきたりとして守っていたことなのです。

人を本当に汚すものは何でしょうか。それは水で洗えば落とせるものなのでしょうか。そうではなくて、汚すものは外から入ってくるものではなくて人間の中から出て来るものであると言われました。私たちの心から出てくるものなのだと。

例えば悪口を聞いていると不愉快になるでしょ?! 
それが人を汚すという意味です。
「汚れ」は自分の外側にあるのではありませんから洗ってもきれいになりません。人間の心こそが汚れの源でありますから、外側ではなく自らの内側こそが大切なのです。

修行や苦行を積むのではなく、悟りを開くのでもなく、自らに目を向けてこそ「汚れ」(罪)に気づかされ、それに気がついた人は汚れからの解放と救いを求めるわけです。

イエスさまは、私たちのどうしようもない汚れ(罪)を赦して解放するために、私たちの汚れ(罪)を全部ご自分の身に背負って、十字架にかかって死んでくださいました。そのために私たちと同じ人間になって地上に来てくださいました。

主イエス・キリストによる罪の赦しを与えられると、「妬み」という「悪い目で人を見る」ことからも解放されていきます。私は実に遅々たる歩みですが少しずつ変えられているのがわかるのです。
黒崎幸吉はこの箇所を「内と外」として次のように書いています。
「外側の行為を潔くすることは困難のようであって実は容易であり、内側の心を潔くすることはその反対に容易のようであって困難である。人間の心の中を見得るものは自己と神とのみである故、人はその心の汚穢を他人の前に偽り隠し、これによって外側の行為を聖者のごとくならしむることができる
しかしながら人は神によらざれば自己の内心を潔めることができない。それ故に人は難行を忌避して易行に移り行き、従って宗教は常に外側の行為を喧(やかま)しく言う律法主義に陥る。イエスの粉砕せんとし給えるはこの外側のみを飾る律法主義であった」。

日本にも多くの慣習や因習があり、日本人は多くの恐れに縛られています。私たちがそれらの恐れに縛られていないのは、主イエスの教えにより解放されたからです。

主イエスは、パリサイ人や律法学者たちが神のみことばよりも言い伝えや慣習という、人間の思いを大事にしていることを叱責されました。

勿論他者の発言を無視してはなりません。と同様に大切なことは、唯々諾々と無批判に他者の意見に迎合するのは自己を持たないことであり無責任でもあるのです。

改めると言うのは勇気がいるでしょう。例えば長年やってきた事業や家事を若い人に世代交代していく時もさみしさや葛藤があることでしょう。特に時代に応じてやり方を変えていかねばならない時、それまで自分がやってきたことを否定されたと感じるかもしれません。

しかし、神のことばは私たちを常に新しく造り変えていくものであり、みことばに聞き従うとは自分が変えられることを選ぶことなのです。

人生は選択の連続です。自分はいかに生きるのか。
刻々と変わっていく状況や環境に在って、自分はいかに生きるかということが常に問われています。そして何を選び取っていくのかは一人ひとりに任されています。

主イエスの御愛の中で賢い選択ができるように祈りつつ進んで行きたいと思います。
1.主よ、いのちのことばを
  あたえたまえ わが身に
   われはもとむ ひたすら
  主よりたまう  みかてを。

2.ガリラヤにて みかてを
  わけたまいし わが主よ
  いまも活ける ことばを
  あたえたまえ ゆたかに。
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2017年09月10日

家の教会2017㉜ ―神の恵みが与えられるのはあなたが正しいからではない―

2017年9月10日(日)  (2017第32回 家の教会)
IMG_7708.jpg10時〜10時30分
出席者 2名(With R)
@ 主の祈り
A お祈り    優子
B 聖歌     229番「驚くばかりの恵み」
C 聖書輪読   申命記9章1節〜5節
D お話     優子
E お祈り    1人ずつ
申命記 9章1節〜5節:
9:1 イスラエルよ、聞きなさい。あなたは、きょう、ヨルダンを渡って行って、あなたよりも大きく、かつ強い国々を取ろうとしている。その町々は大きく、石がきは天に達している。
9:2 その民は、あなたの知っているアナクびとの子孫であって、大きく、また背が高い。あなたはまた『アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか』と人の言うのを聞いた。
9:3 それゆえ、あなたは、きょう、あなたの神、主は焼きつくす火であって、あなたの前に進まれることを知らなければならない。主は彼らを滅ぼし、彼らをあなたの前に屈伏させられるであろう。主があなたに言われたように、彼らを追い払い、すみやかに滅ぼさなければならない。
9:4 あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。
9:5 あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。
お話:
IMG_7762.jpgこの箇所はモーセに率いられてイスラエルの民がエジプトから脱出し、その後40年間の荒ら野を旅して、いよいよ約束の地カナンに入って行こうとしている時に、モーセが「イスラエルよ、聞きなさい」と呼びかけて神の御心を語るところです。

4〜5節にありますように、モーセは民に思い違いをしてはならないことを繰り返し告げて、約束の地に入れと勇気づけます。モーセは約束の地に入る前に生涯を終えるので、申命記はモーセの遺言でもあるのです。  

モーセの言葉は、まさに私たちへの戒めであり励ましでもあります。「ヨルダン」とは「死の世界を超える」ということであり、ヨルダン川を渡って約束の地に入るということなのです。

ついでながら、モーセとアロンが約束の地に入れなかった理由については諸説あり、岩を2度打つことは神の真理を疑うことであるというのが主流になっているようです。

私たちも常に私たちの一歩先を歩いてくださる主なる神さまのあとに続いて、勇気をもってヨルダンを渡っていくのです。

しかし、向こう岸は天国ではなく、かえってこちら側にいた時以上の闘いがあるのだと思います。神に導かれる者にとっては、信仰を授からなかった時よりもはるかに多くの試練や闘いを経験すると思うからです。

しかし私たちは一人で闘うのではありません。神が先頭に立って戦ってくださるのです。そのあとを私たちは勇気を奮い起こしてついて行くのです。その時に私たち誰もが陥る思い上がりや勘違いを警告しているのです。

IMG_7773.jpg神さまが約束の地を与えてくださるのは、イスラエルが正しいからではありません。
私たちが正しいからではなくて、この地に住んでいた国々の民が悪いから(神に逆らっているから)、彼らを追い払ってお与えになったのです。

私たちもこのような錯覚をしがちです。神さまから祝福が与えられた時、自分が正しいからと勘違いしてしまうと神さまの祝福が祝福ではなくなり、心の自由を失ってしまうことでしょう。

私は物事が順調に運んだとき、「努力を報いてくださってありがとうございます」と感謝し、試練の時は「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と口ずさんで励むのですが、どんな時も「自分の罪、頑なさを忘れるな」と口ずさんでいたいと思います

(下線部分の詩篇103篇2節は新改訳です。口語訳のそのすべてのめぐみを心にとめよ」より直截的でわかりやすいので新改訳で記憶しています。)

自分の罪、自分の弱さを深刻に受け止めて生きる、そのことが信仰生涯の要諦だと思います。

ついでながら健康であることが祝福ではありません。物事がうまくいくことも、社会的地位や財を得ることも、優秀であることも祝福の証しではありません。もしもそれらを祝福とするならば、人間の価値観を基準にした「ハレルヤ信仰」に陥っているのです。

人間は実に頑なで強情です。9章6・7節にあるように、どんなに良くしてもらっても感謝を忘れて文句を言うのです。

9:6 それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。
9:7 あなたは荒野であなたの神、主を怒らせたことを覚え、それを忘れてはならない。あなたがたはエジプトの地を出た日からこの所に来るまで、いつも主にそむいた。

文語訳では「汝は項(うなじ)の強(こわ)き民なればなり」と訳されています。旧約聖書に何度も出てくる有名な言葉です。

彼らがエジプトから脱出する時、目の前は海、すぐ後ろにはエジプト軍が迫る危機一髪の時に、神さまが海を分けて向こう岸に渡らせてくださったという奇跡を体験しました。それでも荒ら野での日々に不満を言ったのです。

「エジプトで奴隷でいたほうがましだった」と!

神さまは人間が強情であることは百も承知の上で私たちを救い出してくださいました。主イエスを信じる者には、一切の罪ゆるされて永遠の命まで与えてくださったというのに、私たちは試練の時に不満を言うのです。これが人間の実相でありどうしようもないお互いなのです。

これでは主なる神に従っているのではなくて、神を自分のために利用しようしているのと同じではないでしょうか。イスラエルの民も繰り返し主に背き、裏切り、罪を犯しました。まったく私たちの姿そのものです。

神さまはこれまで多くの善きことをしてくださいました。そのことを忘れないで、自分の力でするのではなく、主イエスに依り頼んで導かれる者でありますようにと切に祈ります。

イスラエルの民はモーセの執り成しによって約束の地に前進して行ったように、 私たちは主イエスの十字架の死と復活によって、いつもいつもイエスさまが執り成してくださっています。

IMG_7710.jpg私たちが何度も限りなく弱さを露呈してしまっても、勇気を出して主イエスに助けを求め、イエスさまとの関係を持ち続けることです。
頑なにならずに刻々に悔い改める素直な心を失わないで歩み続けていくとき、少しずつ主イエスに似た者に変えられていくのです。

この1週間もさまざまのことがあるでしょうが、主に在って打ち克とうと新たな気持ちで励みたいと思います。

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ひとり生えの芙蓉。

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山桜に見つけた小さな秋

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今が新緑の常緑樹クスノキ。

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2017年09月03日

家の教会2017㉛ −破れを繕い平和を実現する者―

IMG_7617.jpg朝の10時過ぎ、夫を誘ってドライブに出た。
葛城山麓を走り、御所(ごせ)市、五條市、吉野方面、そして、ユウターンして吉野熊野の玄関口「吉野路大淀町の道の駅」へ。
御所市で昼食を摂り14時半頃に帰宅。(写真は二上山:右側が雄岳、左が雌岳)。ユキはサッカー教室のあと、午後は友達と野球で不在だった。

今日の礼拝は夫にも声をかけず、夜に私だけで守ることにし、疲れていたがリビングの棚を整理し3時間半も体を動かし続けた。

2017年9月3日(日)  (2017第31回 家の教会)
20時50分〜21時40分
出席者 優子
聖書  マタイによる福音書 5章9節
      イザヤ書 58章11・12節

マタイによる福音書 5章9節:
「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう」。
イザヤ書 58章11〜12節:
58:11 主は常にあなたを導き、
良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、
あなたの骨を強くされる。
あなたは潤った園のように、
水の絶えない泉のようになる。
58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興(おこ)し、
あなたは代々やぶれた基を立て、
人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、
『市街を繕って住むべき所となす者』と
呼ぶようになる。
考え導かれたこと:
毎年8月は特に過去の戦争を思い起こして、2度とあやまちを犯さないために考えを深めるのですが、その間も北朝鮮と米国との関係が一触即発状態の緊張が続いています。

米朝だけではなく韓国、日本など周辺国も緊迫している中、今日またしても北朝鮮が核実験したことを夕方に知りました。 

国連は人類の英知を結集させて努力を重ねていますが、北朝鮮のように挑発や攻撃をし続ける相手にはどのように対処すればよいのかわかりません。

これを国家間のことだけではなく、自分の人生において思い描きながら考えてみたいと思います。一方的に挑発や攻撃される場合だけではなく、自分を傷つける相手を想像して、今一度「平和をつくり出す人たちは幸いである」と仰ったイエスさまの言葉を考えたいと思います。

まず注目したいのは、主イエスは「平和を愛する人は幸いである」と言われたのではなく、平和をつくり出す人は幸いである」と仰ったということです。

ということは、ただ口先で「平和は素晴らしい」と思っているのではなく、実際に争い合っている相手、あるいは人々や国と向き合わないとなりません。思い願っているだけならば何と容易なことでしょう。

国と国の場合、まさに国家間のことになると最終的には軍事力によって平和を実現しようとします。それは現代だけではなく、どの時代においても同じでした。常に力のある国により征服という形で治められていったのです。

これでは争いは治まっても本当の平和を実現したことにはなりません。例えば第2次世界大戦が終結したあとも、戦争中の報復としてナチスと関係なかった一般ドイツ人がたくさん殺されるなど、東ヨーロッパの各地で血が流されました。

権力のある者(国)が仲裁に入ってさえ、本当の平和を来たらせることはできないのです。しかも、主イエスは権力者ではなく貧しい人々に「平和をつくり出す人たちは幸いである」と言われました。

神の御ひとり子であるイエスさまは人間の姿になって、しかも王としてではなく最も弱い者になって地上に来てくださいました。

それは人々の一切の罪をその身に背負って、私たちの身代わりになって死んでくださるためでした。神さまはイエスさまの受難を通して、神を必要としないで生きている私たちの罪を赦してくださり、神さまと和解させてくださったのです。

そのことがわかって感謝が溢れて悔い改めた人がクリスチャンですから、自分の苦手な人に怒りや恨みをぶつけることは、その攻撃をイエスさまにしていることにもなるのです。

クリスチャンはピースメーカー「和解の使者」として生かされる民であり、先ほど読んだイザヤ書に「破れを繕う者」とあるとおりです。

このことは自分の力でするのではありません。実際人間の努力だけでは絶対にできません。真に主イエスを慕い、主イエスを信じて委ねていくときに可能になるのです。

私たちは神さまから赦しを受けたお互いが、和解の使者として主から遣わされているのです。そして「彼らは神の子と呼ばれる」のです。

「繕う」には「管理する」「整理する」という意味があり、主イエスは私たちを破れを繕う者、建設者のような人、基を据える人として用いようとされるのです。

かつて私も非道で不当な攻撃を集団から受けたことがあり、私の人権を侵害し、母のいのちの尊厳をも犯されました。しかし、その真っ只中にあっても心は平安でした。

彼らが暴言を吐き続けている時も、「イエスさま、彼らはあのようなことを言っています。どのように答えればいいですか?」と祈っていました。その時も、その後も、一度も言い争いをしたことはありません。神さまがそのようにさせてくださっているのです。

時に憤りと悲しみが突き上げてきて苦しむ時がありますが、その時は「イエスさま、助けて!」と小さな声で御名を呼び祈るのです。何度も何度も。

今振り返るとこのような生き方を、主イエスは平和をつくり出す大きな業であると喜んでくださっているのだと思いました。尊い経験をさせていただいたことを感謝し、あの頃の真剣さに立ち返りたいと思います。

対立や争いは国家間のことだけではなく、職場や学校、また家庭でも絶えません。しかし主イエスはそれぞれの所で、私たちが向き合う相手の間に立ってくださって、破れを修復してくださることを信じることができるのは本当に恵みです

いつまでも挑発し攻撃をやめない北朝鮮のために、もっと真剣に祈り求めねばなりません。戦いが治まるだけではなく、真の平和の実現へと主イエス・キリストに祈り努力を続けることができますように。

米日韓が北朝鮮の挑発に乗らないように。
為政者たちが謙虚になって全能の神に助けを求めることができますように。そして、神さまが為政者たちに神さまの知恵を授けてくださって、この危機を回避できますように切に祈ります。
posted by 優子 at 22:22| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年08月27日

家の教会2017㉚ −「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。−


IMG_7279.jpg「おはよう!」と声をかけてくれているような朝顔。
先週は暑くて寝苦しかったのに、昨夜は窓を閉めないと肌寒いほどの涼しさ、おかげで熟睡できました。
夜になると鈴虫の声を聞き、今朝は「秋の空に変わったなあ」と夫の一言。蝉の声もほとんど聞こえず、爽やかな風が部屋を通り抜けていきます。礼拝後はしばらくの間、3人で俳句を練って楽しみました。

2017年8月27日(日)  (2017第30回 家の教会)
8時30分〜9時
出席者 3名(R&Y)
@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 子どもの讃美歌 讃美歌21・60番「どんなに小さい小鳥でも」
C 聖書輪読         マルコによる福音書 9章14節〜29節
D お話               優子
E お祈り
F 讃美歌   312番「いつくしみ深き」

よう開けなかった朝顔.jpg(→)8月14日、こんなに大きな蕾だったのに開かずに終わった朝顔の花ふたつ。

マルコによる福音書 9章14節〜29節:
9:14 さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。
9:15 群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。
9:16 イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、
9:17 群衆のひとりが答えた、「先生、口をきけなくする霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。
9:18 霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。
9:19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。
9:20 そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。
9:21 そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。
9:22 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。
9:23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
9:25 イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。
9:26 すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。
9:28 家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
9:29 すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできない」。
お話:
今日は主イエスが汚れた霊に憑りつかれた子を癒された時のお話です。このところから私は3つのことを考えさせられました。

特に注目させられたのは、「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできない。」と言われたイエスさまのお言葉ですが、これは弟子たちの問いに対する答えとして語られたものであるという点です。

私たちも何かをするときには祈ります。例えば『種を蒔く』を差し上げるときも「神さま、この本を祝して用いてください」と祈ります。ましてや、弟子たちが悪霊を追い出す時にも祈ったに違いありません。

しかも6章7節〜12節に、「また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、(略) 悔改めを宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした」とありますように、弟子たちは癒した体験もしているのです。

しかしこのたびは癒すことができなかったのであのように尋ねたのですが、イエスさまは何を教えようとされたのでしょうか。今まで読み流していたのですが、そのことこそを示されたのだと思います。

即ち、主イエスは「あなたがたの祈る姿勢に問題がある」と言われたのではないでしょうか。弟子たちが癒すことができるのは、弟子たちに力があるのではなく、そこに働いているのは主イエスの大能の力であり、弟子たち(私たち)を用いて聖霊の働きによってみわざをなされるということ。

この本質、神さまとの正しい関係がおざなりになっていたのではないかと受け止めました。だからこそ、時には神の助けを祈り求めながらも、実は自分の努力だけで必死になって思い煩ってしまうのだと思います。
この時の弟子たちの祈りの姿勢は、まさに私のことでした。時に惰性的になっていた自らを探られました。

そのような彼らにイエスさまは悲しみと憤りを感じられましたが、見捨てず最後まで共に居て面倒見てくださいます。

注目した2点目は、汚れた霊に憑かれている子の父親です。
「しかしできますれば、わたしどもを憐れんでお助けください」と願ったこの言動は、相手が人間である他者に対してならば礼儀正しく謙遜な心を表しているでしょうが、神さまに対して無礼千万であり何もわかってはいません。。

しかし、神さまに対してならばどうでしょうか。神さまとの関係においては決定的に間違っています。神への全幅の信頼がなく、「癒されなかったら別の方法を考えよう」という思いさえあったのではないでしょうか。

もしもそうであるならば(それが人間の常なのですが)、父親は主イエスの力を借りて自分の願っていることを実現しようとしたのであり、それは正しい信仰ではありません。だからこそ主イエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と言われたのです。

しかも注視すべきは、イエスさまは「わたしには何でもできる」と言われたのではなく「信じる者には何でもできる」と言われたことです。

ここで主イエスは父親に神さまとの正しい関係を教えられました。父親が中心で主イエス(神)が父親の計画に協力するのではないのです。何にも先立って神の存在があり、主従を転倒させてはいけません。

人間が考え出した「カミ」や新興宗教の教祖のように、人間の下に祈る対象である「カミ」を位置づけているのと同じです。

時に私たちも気がつかないうちにこのような誤謬に陥ってしまうことはないでしょうか。あくまでも神が主で、私たちは神さまのみわざのために用いられていくのです。

これこそがまことの神への信仰であり、この真の信仰に立つ時に初めて、不可能を可能にされる神の全能の力と恵みを体験するのだと主イエスは教えておられるのだと思いました。

「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
"`If you can'?" said Jesus. "Everything is possible for him who believes."

「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
"I do believe; help me overcome my unbelief!"
何という素晴らしい叫びでしょう。父親は聡明でした! 

否、父親はイエスのみことばによって心が開かれたのです。
しかしまた不思議な言葉ですね。「信じます」と断固たる心で主イエスを信じて信仰告白しながら「不信仰なわたし」と言っています。でもこのことも私はよくわかります。これが考えさせられた3つ目のことです。

父親は神と人間が転倒していることに気づかされて正しい信仰への転換を経験して「信じます」と叫んだと同時に、弱くてどうしようもない自分ゆえに「不信仰なわたしを、お助けください」。「不信仰であっても我が子を癒してください!」と願ったのです。

黒崎幸吉は言っています。
「真実なる要求なき者にとりてイエスは用なき他人である。祈りは神との霊の交通であるり、人は祈りによりて神の力を受け、この力によりて悪の霊に打勝つことができる」と。

そして、「悪霊に憑かれて苦しめられし少年の姿は、サタンに捕われて苦悩する罪人に似ている。罪の苦悩を経験してここに至らざる者は未だ真に罪の力を知っているものということができない。
而してかくのごとくに死にたるものとなるに及べばイエスは御手を伸べて彼を立上がらしめ給う。悪霊より救われし者の姿も全くかくのごとくであるということができる」と。

信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。

まさにこれこそが私たちの祈りであり、心底から願い求めるものでないならば祈る必要はないのです。もしも助けが必要なのに求めないならば堕落であり「この世ながらの地獄」です。

かつて神なく生きていた私たちは、主イエスの十字架の死によって罪赦されて救いの恵みをいただきました。そして、神の子とされて歩みながら、聖霊の働きを通して救いの恵みを周囲の人々にお伝えする者として用いてくださるのです。

IMG_7285.jpg神に祈ることができることこそが最高の恵みであり、主イエスを信じる者に与えられた神の特権です。ですから私たちも神の全能の力と聖霊の働きを信じて主イエスに助けを祈りましょう。

物事がうまくいかない時も、私の思いではなく、神さまが最も善いようにしてくださるということを信じて前進していくのです。

附記:礼拝後コーヒーブレイクして、ユキはおじいさん(良輔)と自転車で「○○台」へサイクリングに出かけた。何度か行っているそうだ。

E291A3E382B5E383B3E382BFE38195E38293E38288E3828A.jpg坂道は歩いて上がり、下り坂が何とも涼しく最高とのこと。
夫の自転車は、昨年のクリスマスにユキがサンタさんからもらった白い自転車だ。
午後3時半からサッカー教室がある。
posted by 優子 at 11:06| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年08月20日

家の教会2017㉙ −マチ・クマに導かれて―

IMG_7137.jpgこれは先週の礼拝記録である。次女夫婦は帰米後すぐから出勤している。いつものように今も時差ボケで慣れるまでしんどそう。

今朝はユキの全校登校日で午後はサッカーのため礼拝は休んだ。大人たちは午後に読書しー夫は次女に手渡された三浦綾子さんの『光あるうちに』をまもなく読了―私は知子と分かち合いに導かれた。

2017年8月13日(日) (2017第29回 家の教会) 
13時30分〜15時30分
出席者 オールメンバー6名
@ 奏楽       知子
A お祈り      太志
B 主の祈り     一同
C 讃美歌      298番「安かれわが心よ」
D 子ども讃美歌   10番「小鳥たちは」
E お話       真智子&太志
  お祈り      一人ずつ
F 讃美歌      405番「神ともにいまして」


2人は出発前も仕事に追われ、帰国してからも多忙を極めたが、私の霊性がスローダウンしているのでマチ・クマがリードし、「まとまりがないながらも」と聖書から数か所引用しながら折に触れて思うことをシェアしてくれた。

真智子:
ヨブ記 2章7節〜10節:
2:7  サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
2:8 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。
2:9 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。
2:10 しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。

ほか13章23節、19章14節〜18節、38章1節〜2節。

人間は、よくないことが起こると、神にこらしめられているように感じるけれど、そうではないと思った

ルカによる福音書 6章22節〜26節:
6:22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
6:23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
6:24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
6:25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
6:26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。

人間はふとすると、地上で起こること(人の評価など)から自分が正しく生きているかを推し量ってしまうけれど、地上のことと御国のことが一致しない、むしろ逆相関するぐらいであることを思った。

主は人間に「正しさ」よりも、「くだかれた心、素直な心」を求めておられるのではないか、と思う。

自分で自分の価値を作ったり守ったりすることをしなくていいのは恵みだと思う。主が愛し、主がここに置いてくださったから生きる。どんな状況でも、逆境の中でも、主は私と共にいてくださることを信じて、主を想って歩みたい。

ヨハネによる福音書 16章31節〜33節:
16:31 イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。
16:32 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。
16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
マチ.jpg

主を知って弱さを生きる。そのことを生きることこそが大きなチャレンジだと思う。それによって信仰と人格が練られていくのだと思う。神さまが居られるから私は今日も生きよう、明日も生きようと思う。

太志:
創世記 39章9節:
39:9 この家にはわたしよりも大いなる者はありません。また御主人はあなたを除いては、何をもわたしに禁じられませんでした。あなたが御主人の妻であるからです。どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」。

サムエル記下 12章13節:
12:13 ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。

自分の罪を考える時に、誰に何をしてしまったかだけではなく、神を思い、神に対する罪として考えることを思った。

ヨハネによる福音書 9章41節:
9:41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。

この聖句は、私自身の罪の在り方をよく捉えていると思う。人間的な思いや恐れによって、自分を良く見せようとしたり、自分で何とかしようとしてしまいがちだと思う。

マタイによる福音書 6章33節:
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

むしろ主を恐れて、神の国と神の義を求めて、生きたいと思う。

ヨハネによる福音書 16章33節:
16:33 「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。クマ.jpgしかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

この聖句には、読むたびに励まされ支えられている。世のなやみに対して主は勝利されているのだから、勇気を出して悔い改めて、主を想って生きて行きたい。
posted by 優子 at 18:50| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年07月30日

家の教会2017㉘ −サウル王の弱さ−

2017年7月30日(日) (2017第28回 家の教会)

IMG_6744.jpg9時20分〜10時15分

出席者 3名(with R &Y)
@ 初めのお祈り   優子
A 主の祈り
B 子どもの讃美歌  10番
        「ことりたちは」
C 聖書輪読     サムエル記
        13章1節〜15節
D お話       優子
E 聖歌       623番「いつかは知らねど」
F お祈り      一人ずつ

サムエル記13章1節〜15節:

13:1 サウルは三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた。

13:2 さてサウルはイスラエルびと三千を選んだ。二千はサウルと共にミクマシ、およびベテルの山地におり、一千はヨナタンと共にベニヤミンのギベアにいた。サウルはその他の民を、おのおの、その天幕に帰らせた。

13:3 ヨナタンは、ゲバにあるペリシテびとの守備兵を敗った。ペリシテびとはそのことを聞いた。そこで、サウルは国中に、あまねく角笛を吹きならして言わせた、「ヘブルびとよ、聞け」。

13:4 イスラエルの人は皆、サウルがペリシテびとの守備兵を敗ったこと、そしてイスラエルがペリシテびとに憎まれるようになったことを聞いた。こうして民は召されて、ギルガルのサウルのもとに集まった。

13:5 ペリシテびとはイスラエルと戦うために集まった。戦車三千、騎兵六千、民は浜べの砂のように多かった。彼らは上ってきて、ベテアベンの東のミクマシに陣を張った。

13:6 イスラエルびとは、ひどく圧迫され、味方が危くなったのを見て、ほら穴に、縦穴に、岩に、墓に、ため池に身を隠した。

13:7 また、あるヘブルびとはヨルダンを渡って、ガドとギレアデの地へ行った。しかしサウルはなおギルガルにいて、民はみな、ふるえながら彼に従った。

13:8 サウルは、サムエルが定めたように、七日のあいだ待ったが、サムエルがギルガルにこなかったので、民は彼を離れて散って行った。

13:9 そこでサウルは言った、「燔祭と酬恩祭をわたしの所に持ってきなさい」。こうして彼は燔祭をささげた。

13:10 その燔祭をささげ終ると、サムエルがきた。サウルはあいさつをしようと、彼を迎えに出た。

13:11 その時サムエルは言った、「あなたは何をしたのですか」。サウルは言った、「民はわたしを離れて散って行き、あなたは定まった日のうちにこられないのに、ペリシテびとがミクマシに集まったのを見たので、

13:12 わたしは、ペリシテびとが今にも、ギルガルに下ってきて、わたしを襲うかも知れないのに、わたしはまだ主の恵みを求めることをしていないと思い、やむを得ず燔祭をささげました」。

13:13 サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。

13:14 しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。

13:15 こうしてサムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギベアに上っていった。サウルは共にいる民を数えてみたが、おおよそ六百人あった。

お話:

今日はイスラエル王国の最初の王だったサウルについて考えたいと思います。紀元前10世紀といいますから、今から3000年前のお話です。サウルはベニヤミン族の出身で、背が高く美しい若者でした。神さまがサウルをイスラエルの王に立てたのはサウルが30歳の時でした。


僅かな武器しか持っていないイスラエル兵は、強い軍隊と武器を持っているペリシテ人と戦わねばなりません。サウルは3000人の兵を集めて戦いますが、サムエルに7日間待つように言われていたのに最後まで待つことができなかったのです。



ペリシテ人との戦いではイスラエルの民が勝ち目のないことを悟り、兵が次々と逃げていき、サムエルの到着が遅れ、いよいよ八方塞がりになり、怖くなって窮地に追い込まれてしまったサウルの心境は私たちにもよく分かります。 


でもこの時にこそ、神さまへの信仰を働かせねばならなかったのです。私は今もまた自らに言い聞かせる思いで話しています。希望が感じられなくなった時こそ、その人の信仰が本物であるかどうか試される時であり、信仰を奮い立たせる時なのです。


神さまは私たちの思いと願いを超えて、常に最善に成さるということを本当に知っていて信じているのであれば祈って待てたのです。


サウルはなぜ待つことができなかったのでしょうか。サムエルの言葉が信じられなかったからです。サウルは不安と恐怖にたまりかねて、そして、民や兵の心をつなぎとめようとの思いから、自分の考えで自分の力で打開しようしたのです。そのことをサムエルが「愚かなことをした」と言ったのです。


神を恐れず人の気持ちを恐れたのです。「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである」(箴言29章25節)のとおりです。


最後の一人になってしまっても、いえ、だからこそ神の言葉を信じて待たねばならなかったのです。「もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。」と、それがイスラエルの王であるサウルに求められていたことだったのです。


サムエルがサウルに王として選ばれていることを告げたとき、サウルは「わたしはイスラエルのうちの最も小さい部族のベニヤミンびとであって、わたしの一族はまたベニヤミンのどの一族よりも卑しいものではありませんか。どうしてあなたは、そのようなことをわたしに言われるのですか。」(9章21節)と謙虚な人でした。


ところが王になって最初のアモン人との戦いでの大勝利が躓きとなり、自分の力量によるものと己惚れて高慢になってしまいました。この変化は誰にも起こり得る人間の弱さであるゆえに、笑うに笑えないお互いの姿ですからよく理解して心に留めておかねばなりません。


余談になりますが昨今の政治界の出来事は、自分もまた同じ立場になれば犯しうる過ちであるのだろうなぁと自らを見つめながら見ていますが、延々と続く「言った言わない」状態では誰が嘘を言っているか断言することはできないとの思いを持ちながらも、人はどこまでも嘘をつき続けることができるのだなぁと人間の実相を興味深く見つめています。

彼らはどこまでも問題を複雑にするばかりです。もっと最悪はあるのです。今からでも、今こそ心を正して真実を語ることです。そのような人を神さまは赦し道を拓いて行ってくださるでしょう。


彼らは悔い改めのチャンスがあるのに機会を逃し続け、自分から逃げ続けています。その点、民進党の蓮舫さんは勇敢です。自らの足りなさを認め、何よりも自分を見つめたいとは何と素晴らしく、これからを注目したいと人物だと思いました。


さて、サウル王は自分の考えや感情で事をなしていったために神さまに見捨てられ、それ以後は何をしても祝福されませんでした。そのような時にこそ自分自身を見つめ直さなくてはいけないのに、その怒りをダビデに向けたのです。


そんなサウルにも神さまは悔改める機会を2度も備えてくださいました。しかし、相変わらず気がつかず、自分を変えることなく人生を終えました。王として在任したのは僅か2年間でした。


時には「あなたはわたしよりも正しい。わたしがあなたに悪を報いたのに、あなたはわたしに善を報いる。きょう、あなたはいかに良くわたしをあつかったか・・・」(24章)とか、「わたしは罪を犯した。わが子ダビデよ、帰ってきてください。・・・わたしは愚かなことをして、非常なまちがいをした。」(26章)と言うのですが、後悔はしても悔改めることはありませんでした。


口先だけの言葉にさえ聞こえますが、サウルの本心だったのだと思います。要は後悔と悔い改めるということは全く違い、神の導きがなくては悔い改めることはできないということであり、そしてまた私たちも同様に軽薄になってはいないかと自らを鋭く振り返らされました。


サウルやイエスさまを裏切り銀貨30枚で売ったユダの人生でさえ、神さまの御手の中にありました。ましてやユダはサウルが知らなかった神さまの「新しい約束」をも知っていました。


ユダはイエスさまと共に居たので何度も奇跡を見、教えを聴いていました。あとで後悔して銀貨を返しましたが、首を吊って死んでしまいました。そうではなくて、その時にこそ悔い改めることができたらよかったのです!


ユダの最期から遠藤周作の『悲しみの歌』と『海と毒薬』の主人公・勝呂のことを想起します。勝呂は戦時中に米軍捕虜の生体実験をした後ろめたさを感じ、戦後、戦犯の刑を終えてから人知れずに善良な開業医として生きましたが、最後は自ら首を吊って果てました。


悔い改めずして善行を積んでも罪から解放されることはないのです。そのままでは永遠の滅びであり天国へは行けないのです。それゆえに遠藤は死なせたのです。


私たちもサウルのように口先だけの後悔で終わってはいないでしょうか。日々神さまに探っていただいて悔い改めさせてくださいますように切に願います。


神さまは常に私たち誰にも悔い改めの機会を与えてくださっているのですから、悔い改めを拒んではなりません。多くの人がしているように先送りばかりしていると、多くの人のように命の終わりに間に合わなくなって悔い改めないまま死んでしまいます。


サウルの弱さは私たちの弱さゆえに今朝もう一度心に刻みたいと思います。私は今朝もう一度神さまのメッセージをしっかり受け取ります。


それは、どんなに心細くても、いつまでたっても希望が見えなくても、失望しないで神さまを信じ続けること。御心に叶う祈りであれば必ず成就してくださることを信じることをです。


もしも自分の罪に気がついているのに悔い改めの機会を逃していると、政治界の一部の人々のように、そのうち自分の罪に気づかなくなってしまいます。朝に夕に神さまとの交わりの時を大切にしようと思いました


附記:
15章には4回も「悔いた」と訳されている動詞があり、その「原語は『ナーハム』נָחַםで、本来は『慰める』という意味」の動詞を「悔いた、悔まれた」という意味で使われており、「神が『悔やまれた』とは異常なことである」との解説を読んで腑に落ちた一件があった。

「期待していたことが裏切られたという思いが全面に表されています。同じ動詞で『慰める』と訳される場合は、期待していた以上に力づけられたり、励まされたりした場合の表明です。『慰める』のも『悔やまれる』のも同じ感情の裏表ということがてきます」。
これはヘブル語に詳しくヘブル的視点で聖書を読んでおられる銘形(めいがた)秀則牧師(空知太栄光キリスト教会)の『牧師の書斎』より引用させていただきましたが、某牧師の驚くべき誤釈を思い起こさせました。

ノアの洪水、創世記6章6〜7節の「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる』と言われた。」を例に出して、「神は間違いをおかす」と無知蒙昧なことを説教として語った牧師(?)のことです。

このことを当人にお伝えすべきかどうかは未だ保留にしていますが、一度お目にかかるべきかどうかも自らを整えられながら祈って導きを待っているところです。

ヘブライズムの視点で読み解いてくださっていた東道男牧師が召天されてのち、銘形秀則牧師と出会えたことも不思議でなりません。求める者を決して捨て置かれない神の御手を感じずにはいられません。

「ヘブライズムは、神の視点からものごとを考えることです。つまり、神本位の思想です。人間中心的な視点を持つヘレニズムでは理解できないことが多々あると思います。主の祝福がありますように」。

銘形牧師より、ブログへの転載についても「どうぞ自由に転載してください。」と、6月初めにお許しをいただいています。

なお、話の中で触れた遠藤周作の『海と毒薬』『悲しみの歌』は、下記で取り上げていますので字の上をクリックしてください。
バッタの赤ちゃん.jpg
         この時期はバッタの赤ちゃんがいっぱい!
葉っぱをさわるとパラパラと音がしてあちこちでバッタが跳ねる。
ここにも4匹いる。大きさは1p〜1.5p。
礼拝のあとまもなく、ユキはおじいさんと京セラドーム大阪(試合は楽天vsオリックス)へ出かけた。

posted by 優子 at 12:30| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年07月23日

家の教会2017㉗ −幸いな人たち(山上の垂訓)−

2017年7月23日(日) (2017第27回 家の教会)

IMG_6649.jpg9時30分〜10時00分
出席者 4名
@ 初めのお祈り  優子
A 子どもの讃美歌  
19番
「天にいますわたしたちの父」
B 聖書輪読    
マタイによる福音書 
5章1節〜12節
C お話       優子
D お祈り      優子
E 讃美歌      354番「かいぬし我が主よ」
F 後奏       知子
マタイによる福音書 5章1節〜12節:
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。

5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8 心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10 義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。

5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

お話:

最初に今輪読した箇所に入る前の4章の終わりのところを読みます。

4:23 イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。

4:24 そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。

4:25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。

山上の垂訓 .jpgそして5章に入るわけですが、5章から7章は「山上の説教」と呼ばれている有名なイエスさまの教えです。真の幸福とはこの世的な人間的価値観の「幸福」とは対極にあり、神の視点で解かれています。

先ほど輪読した1節から12節に書いてあるのは「私たちの心の在り方」で、5章13節から48節は「対人関係としての新しい律法」を、6章1節から18節には「宗教生活」を、6章19節から34節には「経済生活」について、そして7章には「雑多の問題」について教えておられます。

「心の貧しい人たち」とは、新約聖書の原典であるギリシャ語を直訳すると「霊において貧しい人々」という意味ということですから、神との関係において貧しいということです。

即ち、「心が狭い」とか「卑しい」というようなものではなく、自分の正しさや能力でしようとしないで神に依り頼んで生きる人のことです。神さまからその時々に必要な心の糧を与えていただいて生きている謙虚な人のことです。

「天国」とは死んでから行くところではなく、神が支配されている「神の御国」の意味です。従いまして神の教えに従って生きる人には地上で生かされている時から天の国に在るのです。

「悲しんでいる人たち」とは、生老病死はもとより人生途上で経験する不条理な悲しみ、また自己と対峙し自己洞察できる人間のみが知る自己の罪を知り、それらの悲しみを悲しむ人のことです。

この世(世界)で成功者になろうとするならば、他者を押しのけてでも先を行かねばなりません。弱肉強食の世界を勝者として生き抜くには、他者を排除し圧力をかけ、策を弄し神経をすり減らしての日々を生きていかねばなりません。

彼らはこの世の権力や富を誇り、力で支配しようとする者たちであり、その対極にあるのが「柔和な人」と言えるかと思います。少なくとも柔和な人は成功者にはなれないでしょう。しかし神さまは「彼らは地を受け継ぐ」と、最後に勝利を与えてくださるのです。

「義に飢え渇わいている人」とは、神の前に正しく生きたいと励んでいる人のことです。しかしながら、この世は不正や欺瞞などあらゆる悪があふれています。

日本の故事に「清濁併せ呑む」という言葉がありますが、これは善でも悪でも分け隔てなく受け入れることが度量の大きいことであり、それを「良し」とする考え方を比喩したものです。

では私たちはいかに生きるべきでしょうか。正義の基準を曲げることはしません。しかし、理解し合えそうにないとわかったら、必要以上の争いをしないように聡明に境界線を引くのが幸いです。

「憐れみ」とは「他者への同情の念。人間に対する神の真実な愛の感情」の意味です。人は自分の蒔いたものを刈りとります。悪意の人にも悪を返さないで憐み深くありたいと思います。

「未来の報いを信じて相手から報いを求めない高尚な心で生きる。しかし、『正当なる報いは神必ずこれを与え給うのであって、人はまた当然にこれを期待することができる』とある」からです。

 「心の清い人たち」とは心の純粋な人のことです。自己中心に陥りやすい私たちお互いは、行為に先立つ動機に不純なものが混じっていないかと常に吟味すべきと思います。心が平安であるかどうかで示してくださいます。

年を取ると「平和」という言葉の重さをしみじみ考えさせられます。自己の立場を少しでも主張すれば衝突します。私たちの生活においても国家間においても同じで、主張し合うならば共に破滅するしかないのです。

「平和をつくり出す人たち」とは、平和な関係を作ろうと励む人のことです。「人類みな兄弟」と、私の知らない人、どこか遠くの誰かを愛したりゆるすのは容易なことですが、職場の人、あるいは近所の人や親族だったらどうでしょう。

自分を害する日々関わる困った人をゆるすのは至難です。しかし、私たちは平和を作り出していかなければならないのです。

神さまは常に正しく評価してくださることを思い出して一線を画するのです。神の心を自分の心とする時、自己主張や自己弁護から解放され神に委ねることができるのです。

「義のために迫害されてきた人たち」とは、神の正義を求めたために悪く言われたり攻撃されたりすることです。これまで数え切れない多くの人々が迫害を受け殉教しましたが、天国において大いなる報いがあるのです。

正しく生きようとする人々が受ける「迫害は一時であって天国は永遠」であり、「義のために責められるものの幸福はこの点に有している」と黒崎幸吉は語っています。

最後に文語訳聖書では、全て「幸いなるかな」で始まっており、この翻訳の方が原文に近いといいます。

神が天から「幸いなるかな」と呼び掛けてくださっています。これこそが地上のどんな災害や苦難からも決して奪い取られることのない幸いなのです!

「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。 
幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。 
幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。 
幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。 
幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。 
幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。 
幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。 
幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり」。


IMG_6655.jpgユキは来る日も来る日も朝から蝉を追いかけている。今年からおじいさんが居なくても、一人で飽きずに遊んでいる。
今日は礼拝の後、ユキと二人で蝉とりに出かけた。珍しく曇っていたので暑くなかったが、帰宅したらすぐにシャワーでさっぱりしないではいられなかった。IMG_6657.jpgこの木には10個以上の抜け殻があった。自然の神秘!

IMG_6658.jpg
この穴は何だろうと思っていたら
蝉が出てきたあとだと教えてくれた。

IMG_6661.jpg
捕まえてはしばらくして逃がしてやる優しいユキ。
「ありがとう、ユキちゃん!」って
蝉は元気に飛んで行った。

IMG_6664.jpg
私にも何度も捕らせてくれた。
ニイニイゼミとクマゼミを捕ったよ!
2015年3月の右肩腱板断裂の痛みも殆ど感じない。
感謝!

IMG_6665.jpg
数年ぶりにお目にかかったMさんは、
ユキを一目見て思い出してくださった。
「私はわからなかった」とお連れ合い。
お連れ合いは腰を破裂骨折して入院されていたという。
「大きくなったねー」「大きくなったねー」
何度も驚いてくださった。
これからはお健やかな日々でありますように。

IMG_6674.jpg
「あっ、結婚してる! 早く帰ろ!」
クマゼミの雌を捕り、そこへ雄を入れたら
ひっついていた。

IMG_6679.jpg
「オスが産卵を促している」とユキ。
(ほんまかいな)
「難しい言葉を知っているんやね」。
このあとしばらくするといなくなっていた。


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2017年07月16日

家の教会2017㉖ −失望せずに祈れ(やもめと裁判官)―

IMG_6459.jpg2017年7月16日(日) 
     (2017第26回 家の教会)
8時〜8時30分
出席者 2名(With R)
@ 聖書輪読   
   ルカによる福音書 
                     18章1節〜8節
                     11章5節〜13節
A お話     優子
B お祈り    一人ずつ

ルカによる福音書 18章1節〜8節:
18:1 また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。
18:3 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。
18:4 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、
18:5 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そうしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。
18:6 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。
18:7 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。
18:8 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。

お話:
今朝の主題は「祈り」であり「失望しないで祈れ」です。
「神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官」とは、一言で言えば「不正な裁判官」で、お金持ちや社会的地位のある人のためには喜んで裁判するけれど、ここに出て来る「やもめ」のように貧しく立場の弱い人のためには何もしない裁判官のことです。

そんな裁判人がようやく裁判してやろうという気持ちになったのは、「これではいけない」と反省したからでも、正義感や義務感からではなく、お金のためでもありませんでした。やもめの女性がしつこくて面倒をかけるからでした。

この譬えを話されたイエスさまが、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。」 と肯定的に言われ、「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。」と、神さまを不正な裁判官と重ねて見ておられるのは少々驚きですね。

しかし、このお話の要点は1節の「失望せずに」というところです。新共同訳聖書では「気を落とさずに」と訳されています。

私たちも「危険から守ってください」とか、「健康を支えてください」と祈りますが、私たちの祈りは人間的な幸せを求めるのではありません。何よりも神の最善が成るようにと神の導きを願います。

しかしながら長いあいだ祈りつつ主に在って励み続けても、あまりにも状況が変わらない時は気を落としてしまうことがあります。時には形式的な祈りになり、気持ちが入らない時もありますね。

それでもやはり神さまを無視して生きることができず、私たちが祈り続けるのは全てのことを神が支配されていることを信じているからです

現実世界は「神を恐れず人を人とも思わないような」悪の力が支配しているのですが、気を落とさずに絶えず祈ることが大切なのです。そして祈りながら自らの内面が変えられていくのです。

こんな悪い裁判官でさえ、やもめがうるさいからと裁判したのです。「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。神はすみやかにさばいてくださるであろう。と主イエスは言われるのです。

「人の子が来るとき」とは神が裁いてくださり神の国が成就される時です。だからその時まで悪が支配する世の中にあっても失望しないで絶えず祈り続けなさいと教えられたのです。その模範がこのやもめの姿なのです

この内容は「友にパンを3つ貸してください」という話を思い出させます。聖書を読んだことのない人でも耳にしたことがある「求めよ、さらば与えられん」という有名な箇所です。

ルカによる福音書:11章5節〜13節を読んでみます。

11:5 そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、
11:7 彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。
11:8 しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう
11:9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであ
ろう
11:10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである
11:11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。
11:12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。

「求めよ! 捜せ! 門を叩け!」と、ますます熱心に諦めないで求め続けること、神に祈り求めることがいかに大切であるかということです。

私たちは失望してしまいそうな悩み苦しむ現実の中に在っても、いえ、そのような時だからこそ、神さまは時々ご自身の存在をチラッと見せてくださいます。

例えば拙著『メメントドミニ』最近の記事では、もう10年も前のことですが井置牧師との不思議な出会いでした。

あるいはまた、国連事務次長の中満泉さんのご家族は、私たちが10年来通わせていただいていた家庭集会でご一緒だった方の娘さんであり、泉さんが良き働きをされていることを、神のご支配を垣間見せてくださるのです。

それらのことを通して「わたし(主イエス)だ、元気を出しなさい」と励ましてくださり、気を落とさずに絶えず祈る者に示してくださるのです。

私たちは弱いですから気持ちが沈みもします。だからこそ互いに人生や経験を分かち合える家族や友との交わりは本当に大切なのです。

昨日は「ブルンナー読書会」を通して下村さんと実に良き交わりの時をもちました。まさに地上のオアシスでした。

インターネット時代になって私たちはますます忙しくなってしまいましたが、「忙」の字が示すように忙しくしていると心を亡ぼしてしまいます。
しかし、その文明の利器を上手に使って、月に一度メールやスカイプで交信し合うのは非常に大切なことだと気づかされました。

「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。
これについて黒崎幸吉はこう述べています。

「人間の世界における信仰の将来は決して楽観することができない。イエスも常に信仰の前途につき消極的思想を持ち給うた」。

IMG_6460.jpg昨日学んだブルンナーの説教からもこのことを強く感じています。自らの信仰を強めてくださるように祈りたいと思います。
祈りの中で導かれて、まもなく葬儀に参列する良輔に「伝道の書」7章2節のみことばを贈りました。
「悲しみの家にはいるのは、
 宴会の家にはいるのにまさる。
 死はすべての人の終りだからである。
 生きている者は、これを心にとめる」。

今朝は主の御臨在を豊かに感じるひと時でした。神さまが祝してくださったことがわかります。感謝します。

今日のユキのサッカー教室は15時半からですが夕方追記:知子が間違って思い込んでいたとのこと。中学校まで一人で行って、誰も居ないので帰って来ました)、礼拝は無理強いして出席させるものではありません。私はもう家族への気遣いをしずぎないで、「神第一」の生活を選び取っていきたいと思います。
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2017年07月09日

家の教会2017㉕ ダビデの告白 −罪の赦しと罪の刈り取り―

IMG_6299.jpg今朝はサッカー教室までに早朝礼拝を捧げ、そのあと、ようやく、初めて、ユキは克己した。
明日の漢字テストに備えて1学期の新漢字を復習。しかし、たった7分間で家庭学習は終わった。


IMG_6273.jpg2017年7月9日(日)
(2017第25回 
家の教会)

7時5分〜7時35分
出席者3名(ユキと良輔) 

@ 初めの祈り  優子
A 聖書輪読   サムエル記下 12章1節〜25節
B お話     優子
C 讃美歌    243番 「ああ主のひとみ」
D お祈り    1人ずつ

サムエル記下 12章1節〜25節:

12:1 主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。
12:2 富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、
12:3 貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。
12:4 時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」。
12:5 ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。
12:6 かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。

12:7 ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、
12:8 あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。
12:9 どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。
12:10 あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。
12:11 主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう
12:12 あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。
12:13 ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。
12:14 しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。
12:15 こうしてナタンは家に帰った。

さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。
12:16 ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食して、へやにはいり終夜地に伏した。
12:17 ダビデの家の長老たちは、彼のかたわらに立って彼を地から起そうとしたが、彼は起きようとはせず、また彼らと一緒に食事をしなかった。
12:18 七日目にその子は死んだ。ダビデの家来たちはその子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。それは彼らが、「見よ、子のなお生きている間に、われわれが彼に語ったのに彼はその言葉を聞きいれなかった。どうして彼にその子の死んだことを告げることができようか。彼は自らを害するかも知れない」と思ったからである。
12:19 しかしダビデは、家来たちが互にささやき合うのを見て、その子の死んだのを悟り、家来たちに言った、「子は死んだのか」。彼らは言った、「死なれました」。
12:20 そこで、ダビデは地から起き上がり、身を洗い、油をぬり、その着物を替えて、主の家にはいって拝した。そののち自分の家に行き、求めて自分のために食物を備えさせて食べた。
12:21 家来たちは彼に言った、「あなたのなさったこの事はなんでしょうか。あなたは子の生きている間はその子のために断食して泣かれました。しかし子が死ぬと、あなたは起きて食事をなさいました」。
12:22 ダビデは言った、「子の生きている間に、わたしが断食して泣いたのは、『主がわたしをあわれんで、この子を生かしてくださるかも知れない』と思ったからです。
12:23 しかし今は死んだので、わたしはどうして断食しなければならないでしょうか。わたしは再び彼をかえらせることができますか。わたしは彼の所に行くでしょうが、彼はわたしの所に帰ってこないでしょう」。

12:24 ダビデは妻バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。
12:25 そして預言者ナタンをつかわし、命じてその名をエデデアと呼ばせられた。

お話:

先週は詩篇51篇からダビデの悔い改めについて考え、ナタンにより罪に気づいて悔い改めたダビデに注目しました。ナタンの話はダビデ自身の話であるにもかかわらず、ダビデは全く気づいていませんでした。このところに焦点を当ててもっと考えてみたいと思います。

「罪を放置しておくと、私たちの良心は麻痺していき、やがて悔い改めることさえできなくなっていく」 というのはどういうことなのでしょうか。

社会の出来事に対して正しく批評できるのに自分のことになると全く見えない人がいます。これが私の目下の疑問であり関心事でもありますので、この問題意識をもって聖書に聞きたいと思います。

これについて考えるにあたり、もしも自らを除外しているのであれば滑稽なほど迷妄な愚者であります。
私自身もそうなってはいないだろうかと常に祈りつつ神に探っていただき、祈りの友の言葉に耳を傾けながら吟味しているつもりですが、自己欺瞞に陥りかけた時にはどうか忠告していただきたいと思います。

さて、かつて古代イスラエルは一夫多妻制が許されていましたから、王であるダビデには700人(側女を入れると1000人)もの多くの妻がいたといわれています。そのダビデがバテシバというたった一人の妻しかもたないウリヤからその妻を取り上げたのです。まさにナタンの譬え話はこのことでありました。

最初にそのあたりをもう少し深めたいと思います。
ダビデはナタンの話は自分のことであるとは全く気がついていなくて、「その人は死ぬべきだ」とまで激怒したのです。「実はこれこそが霊的に破たんした者の姿である」と。

ザアカイのところでもお話ししましたように、律法的には4倍の償いをすればよいのであり死刑にまでする必要はないのです。

ところが、ダビデが「死刑だ!」とまで叫びました。この激怒ぶりはダビデは無意識であっても良心の咎めを自分の心の中に持っていた、良心の叫びであると理解できるかもしれません。不可思議なる人間の実相でありましょう。
それはまた自分のことになると全く見えないのに、その自覚もないから恥ずかしくもなく容赦なく他者を責めるのと同じ姿であることがわかります。

そして今朝はその続きを考えてみたいと思います。即ち、悔い改めたあとのダビデのことです。
先週取り上げたサムエル記12章15節は段落の関係で「こうしてナタンは家に帰った」までとしましたが、15節はその言葉の後に、「さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。」と続きます。

その前の13〜14節を読んでみますと、
「ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪をおかしました』。ナタンはダビデに言った、『主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう。』」とあります。

こんなことを言われたら「ええ? どうして?!」と驚かないでしょうか。私は驚くのですね。憐れみ深い神さまなのにどうしてと。

確かに神さまは悔い改める者を即刻即座、そこに居ながらにして赦してくださり、罪については完全に処理してくださって死後も天国に入れてくださいます。

しかし、パウロがガラテヤ人への手紙(6章7節)にも書いているように、「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」と、罪の結果としての刈り取りをしなくてはなりません。

分かりやすく言えば、例えば犯罪を犯した者は刑罰を受けねばならないのと同じです。ただ大きく違っている絶対者である神さまの赦しというのは、罪の痕跡も残さずに完全に忘れてくださるということです。

ダビデはバテシバとウリヤに大きな罪を犯しました。そのことは即ち神の主権を侵したのです。ゆえに「わたしは主に罪をおかしました」と、深く悔い改めたのです。

そしてその後のダビデはバテシバとの結婚生活を大切にしました。しかし、姦淫した時の子は、「さて主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になっ」て、死んでしまいました。

主が子どもを打たれたから死んでしまったというのですが、その子に何の関わりがあるのかと拘りたくなります。事実若い頃の私は神義論が最大のテーマでした。

しかし、このような深淵なる一切の出来事は神の領域のことであり、詩篇131篇の「及びもつかない大きなことや、奇(くす)しいことに、私は深入りしません。まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。」のみことばを受容するに至りました。12年間の苦悩を経てです。
              
子が死んでしまったのはダビデにとっては罪の刈り取りですが、深く悔い改めたダビデは自然体で受け入れることができたのです。これは神の御心であると平安の内に受容できたので断食を解いて一歩を踏み出せたのです。

そんなダビデの罪の刈り取りの中にあっても神さまは善いことをなさるお方です。その次に男の子が生まれました。「主はこれを愛され」て祝福されました。

ダビデはその子を「ソロモン」と名付けました。「ソロモン」という名前の由来は「シャローム(平和)」で、「エデデア」というのは「ソロモン」の別名で「主に愛されている」という意味です。

ソロモンといえば「栄華を誇ったソロモンでさえ」と言われるように、サウル、ダビデに続く古代イスラエル王国の第3代目(在位は紀元前971年 〜 紀元前931年頃)の王になり、イスラエルの最盛期を築いて、エルサレム神殿を築きました。

かつては姦淫の関係だったバテシバとの間に生まれた子どもを、神さまが祝福してくださりダビデの後継者とされたのです。

マタイ伝1章のイエス・キリストの系図の中に、「エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、」(マタイ伝1章6節)と、バテシバの名前があるというのは考えられないことではないでしょうか!

ここに神さまは憐み豊かな方であるということが如実に表れています。ダビデは罪の刈り取り、懲らしめを受けましたが、その中にも神の恵みがあったということを忘れないでいましょう! ダビデの過ちは私たちも犯しうるのです。


先週読みました詩篇51篇5節に、「見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。」とあるのは、ダビデの母がどうのこうの言っているのではなく人間の罪を言っているのです。

神が創造された人間は神の栄光のために生きるはずだったのに、人類最初の人間であったアダムが誘惑に負けて罪を犯したために人間は罪の力に支配され、神から離れて自分勝手に生きるようになってしまいました。これが聖書のいう「罪」です。

罪の刈り取りについては、10節に、「あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう」と預言されたことも実現されていきます。

ダビデはウリヤを剣で殺したから、剣がダビデの家から離れなくなるというのです。事実、ダビデの長子アムノンが三男アブシャロムによって殺され、後にアブシャロムも後に殺されます。

12章11〜12節の、「わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。 あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである」という予言も実現します。

ダビデの子アブシャロムが王宮の屋上で、ダビデがエルサレムに残していった側妻(そばめ)10人と全イスラエルの目の前で寝ました。

このように13章以降には、ダビデが犯した罪の影響が自分の息子たちに及んでいくのがに記されています。罪の結果は伴うのです。

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」。(ガラテヤ人への手紙 6章7節)

ダビデは深く悔い改めて再び神の主権の中で生きていきます。真に悔い改めたならば、罪の刈り取りの時も主の平安がある。必ず平安のうちに通らせてくださることを確信します。

私たちもダビデのように罪を指摘されたら素直に神さまに悔い改めたいです。その生き方こそが最高の人生です。

イエスさまは言われました。
「おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう」。
            (ルカによる福音書 12章2〜3節)

腐りきった現政治界にも神の導きを祈るばかりです。
今社会問題になっている彼らの言動を思うと、最大の権力者だったダビデゆえに、ダビデの悔い改めは見上げたものだと思わないではいられません。

16時30分追記:

P_20170709_102049.jpgユキはサッカーのあと昼食を終えて再び外出した。

2時半ごろ遠雷が聞こえ、まもなく土砂降りの雷雨、一時停電もした。ユキは遠雷を聞いていたのにA君といつまでも遊んでいたために、帰り始めた矢先に雷雨になって駅前のお店で雨宿りをさせてもらっていた。


P_20170709_111750.jpg

しばらくしてA君のお父さんが迎えに来てくださり、自転車共に乗せてもらって送ってきてくださった。

そして今、ユキは夢の中。

シャワーでさっぱりしたら眠り始めた。


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2017年07月02日

家の教会2017㉔ ダビデの告白 −悔い改めの恵み―

ユキのサッカー教室中に夫婦で神の前に静まって礼拝をささげた。今朝は小学生のユキのことを気遣うことなく、長くなるが詩篇51篇に関係する聖書箇所を読み合った。

ユキは昼食後も遊ぶと言ってきかなかったが食欲も落ちているほど疲労困憊しており、ようやく私たちの助言を聞き分けてシャワーに入って1時間昼寝するも、母親との約束を守らずに再び遊びに行ってしまった。
ユキとは17時45分から夕拝することを約束した。(追記:ユキとは20時5分〜25分)

2017年6月25日(日)(2017第24回 家の教会)
9時55分〜10時50分
出席者2名(With 良輔)
@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 聖書輪読    サムエル記下11章1節〜
                   12章15節
            詩篇51篇
C お祈り     一人ずつ
D 讃美歌     404番(良輔愛唱歌) 
              「山路こえて」
            517番 「われに来よと主はいま」

詩篇 第51篇:
聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの

51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、
わたしをあわれみ、
あなたの豊かなあわれみによって、
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、
わたしの罪からわたしを清めてください。
51:3 わたしは自分のとがを知っています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
あなたの前に悪い事を行いました。
それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。
わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。
それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、
わたしは清くなるでしょう。
わたしを洗ってください、
わたしは雪よりも白くなるでしょう。
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、
あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、
わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり、
わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
51:11 わたしをみ前から捨てないでください。
あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
51:12 あなたの救の喜びをわたしに返し、
自由の霊をもって、わたしをささえてください。
51:13 そうすればわたしは、とがを犯した者に
あなたの道を教え、
罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。
51:14 神よ、わが救の神よ、
血を流した罪からわたしを助け出してください。
わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。
51:15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。
わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。
51:16 あなたはいけにえを好まれません。
たといわたしが燔祭をささげても
あなたは喜ばれないでしょう。
51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません

51:18 あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、
エルサレムの城壁を築きなおしてください。
51:19 その時あなたは義のいけにえと燔祭と、
全き燔祭とを喜ばれるでしょう。
その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。

お話:
ダビデは30歳でイスラエルの王となり40年間神の言葉に従った、イスラエル史上最高の王でした。自分の命を狙っているサウル王を殺す機会があった時も、神が立てられた権威だからと殺さなかったのです。

そんなダビデでしたが姦淫と殺人を犯しました。ウリヤ将軍のバテシバという美しい妻が水浴びをしている姿を見て情欲に負けて姦淫の罪を犯し、バテシバが身ごもったために王の権威を悪用して、バテシバの夫ウリヤを戦場の最前線に送って戦死させるように仕向けて死なせてしまいました。何という大罪でしょうか。

そのことが「サムエル記下11章」に記されており、「ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた」とあります。

そして12章では、主が預言者ナタンをダビデのところに遣わされて罪を指摘されて罪を告白し悔い改めに導かれるのです。赦しと罪の刈り取りが記されています。

昨今の政治界の出来事を見ていますと、自らを省みず嘘に嘘を重ね、罪に罪を重ねていく姿に驚愕し強い憤りを感じます。悪を繰り返していると良心が麻痺していくのも人間の実相です。

そこで「悔い改め」について考えたくて、今週はダビデを取り上げました。 
私たちは何か悪いことをした時、「環境や状況も悪かった」と半分は他者や社会状況にも責任があると他責化する誘惑に駆られますが、ダビデは自らを見つめて神に罪を犯したと告白しました。

「悔い改め」は反省することでも後悔することでも懺悔とも違います。懺悔は罪を悲しんで罪から離れ、自分の罪を取り除くために苦行したりお金を奉納したりすることです。

しかし「悔い改め」とは何かをすることではありません。「相手が先にあんなことをしたから」とか「相手の方がはるかに罪が大きい」とかいうのではなく、「悔い改め」においても徹底的に「神と私」の問題です。それゆえに結果として考え方や行いが変わって行くのです。


ダビデの犯したことは、実は古代においては王は罪で裁かれることはなかったのです。部下の命や財産は王の自由だったからです。

しかし、自らが王だからやっていいことでも、あるいはまた相手がどんなに非道であったとしても、自らの過ちを認めるというのでなければ悔い改めには至らないのです。

神がダビデに遣わされた預言者ナタンが「金持ちと貧しい人のたとえ話」をした時、ダビデは「そんなことをした男は死刑だ」と激怒しました。

サムエル記下 12章1節〜6節を読んでみますと、
12:1 主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。
12:2 富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、
12:3 貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。
12:4 時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」。
12:5 ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである
12:6 かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。
12:7 ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。(略)

これについて、「実はこれこそが霊的に破たんした者の姿であり、死人に感覚がないのと同様に、罪を放置しておくと、私たちの良心は麻痺していき、やがて悔い改めることさえできなくなっていくのです」。
という言葉に深く頷かされました。全くその通りだと思います。

しかし、ダビデは自らの罪に気づき、悔い改めました。それが今日輪読した詩篇51篇です。この詩は「人間の罪を抉り出している」と北森嘉蔵が言っていますが、私は深く感じ入ることができませんでした。

(それゆえに今朝の礼拝中に、私の信仰の父である小山恒雄牧師の説教が聴きたいと涙しました。
「家の教会」を始めて1年4ヶ月に入りましたが、今ほど練られた牧師の解き明かしを聴きたいと思ったことはありません。)


ダビデはバテシバとの姦淫、そして、ウリヤを殺してしまった罪を自覚しているからこそ、「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」と、主に赦しを乞うているのです。これが真の悔い改めです!

罪を認め、罪を悲しみ、罪を告白する。
罪の告白は他者から言われてすることではなく、自分の罪を深く悔いるに至った者の自発的な真情の発露です。実はそこにも神さまが働いておられるのです。神さま助けがなければ悔い改めることはできないことも再確認させられました。

私たちクリスチャンの祈りとは単に願いごとではありません。まず讃美と感謝を捧げ、悔い改めや執り成しの祈り、また、願いごとを申し上げるのです。日々刻々に悔い改めることができるのは何という恵みでしょうか。

悔い改めた瞬間に失われていた平安と喜び、気力が甦ってきます。主イエス・キリストが愛と忍耐をもって一人ひとりの告白を待ってくださっています。自己正当化しないで、常に悔い改める者でありたいと願っています。
私もまたダビデの深い悔い改めと赦しを求める祈りを自らにも深めていきたいと思います。


過ぐる1週間を振り返って自らを神さまに探られながら悔い改め、心から砕かれた魂と感謝を捧げて新しい意欲と力をいただいて、今週も自分の置かれた所で精いっぱい生きていきたいと思います。


「わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください」。
         (詩篇25篇2節)
主に信頼する者は、敵と同じ土俵では戦いません。悪口には悪口、嘘には嘘で対抗するなら、世と同じです。それで相手を負かしても、主は喜ばれません。しかし、悪口には沈黙、嘘には真実、怒りには柔和で対応するなら、主が勝利をもたらしてくださいます。
      川端牧師の「今日のみことば」より


サムエル記下 12章1節〜15節:
12:1 主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。
12:2 富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、
12:3 貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。
12:4 時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」。
12:5 ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである
12:6 かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。

12:7 ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、
12:8 あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。
12:9 どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。
12:10 あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。
12:11 主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。
12:12 あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。
12:13 ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。
12:14 しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。
12:15 こうしてナタンは家に帰った。

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2017年06月25日

家の教会2017㉓ −「ザアカイよ、急いで下りてきなさい」−

今日は雨でサッカー教室はお休み。最初に独りで神さまとの密な時(10時〜10時45分)を過ごしてからユキと2人の礼拝を捧げた。
IMG_6044.jpg2017年6月25日(日)
   (2017第23回 家の教会)


10時45分〜11時10分
出席者 2名(With Yuki)

@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 子ども讃美歌  38番(讃美歌21・60番) 
           「どんなにちいさい小鳥でも」 
C 聖書輪読  ルカによる福音書19章1節〜10節
D お話     優子
E お祈り    一人ずつ
F 讃美歌122番  「みどりも深き」

ルカによる福音書19章1節〜10節:
19:1 さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。
19:2 ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。
19:4 それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。
19:5 イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。
19:6 そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。
19:7 人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。
19:8 ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを4倍にして返します」。
19:9 イエスは彼に言われた、「きょう、救いがこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。

お話:
ザアカイのお話はエリコの西側での出来事です。「エリコは香料の産地でその税額も多いので大きい収税署があり、取税長も置かれて」いました。ですから取税人のザアカイもお金持ちだったのだろうと思います。

「ザアカイ」とは ヘブル語で「罪無き」「正しき」などの意味です。 ザアカイはイエスさまのことを聞いて知っていたのでしょうね。

イエスさまが来られるというので多くの人がイエスさまの周りを取り囲んでいました。ところがザアカイは背が低いので見えないのです。

ザアカイが登ったと言われるいちじく桑の木.jpgこれがエリコにあるザアカイが登ったと言われているいちじく桑の木だそうです。
ザアカイはイエスがどんな人か見たいと思って、「前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。」とあります。ここに私は強く惹かれます。

ザアカイは単にイエスさまがどんな顔をして、どんなお姿か見たいと思ったのではなく、深い心の思いがあって見たかったに違いありません。本人は気づいていなかったかも知れないけれど、お金持ちでも満たされない思いがあったのでしょう。


ザアカイもユダヤ人であるのにユダヤ人たちから嫌われていたことや、当時の取税人は皆から嫌がられていたので孤独だったでしょうし、人々から決められていた以上の税金を取っていたという罪意識もあったでしょうし、背が低いことも悩んでいたかも知れないし、とにかくザアカイの心は満たされてはいなかったのです。

だからイエスさまを見たい。それだけではなくこの飢え渇きを解決してくださるかもしれないと思っての行動だったと思います。

そんな時に、イエスさまの方から声をかけてくださったのです。上を見上げて「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と! 
これ以上の喜びがあるでしょうか! 
このお言葉は何度読んでも涙ぐんでしまいます。私はイエスさまのお声が本当に聞こえるようです。


イエスさまがザアカイを知っておられたかは不明だそうですが、そのようなことは問題ではありません。イエスさまは神の子であり、神ご自身であられるのですから、ザアカイ本人すら気づいていないかもしれない心の深い思いを知ってくださっているのです。

ザアカイの喜びはそこにいた群衆の同じユダヤ人であってもわかりません。それどころか彼らは罪人の家に行くイエスさまを非難しました。彼らはパリサイ人と同じなのです。古い慣習に支配されているのです。

イエスさまを招き入れたザアカイは自ら、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを4倍にして返します」と申し出ました。

イエスさまは何も要求されていないのに自らの罪を感じたのでしょう。いや、それより先にイエスさまは悔い改める者は赦してくださるという確信、愛を直観したのだと思います。
そのように感じること自体に神さまが働いておられるのであり、神に導かれて行く人は全てこの通りなのです。これを「神の恩寵」と言うのです。


「4倍にして返す」というのは、窃盗の場合の規定になっている(出エジプト記22章1節)からですが、ここで大切なことは悔い改めた心です。多くのお金を差し出せばよいということではないのです。

「きょう、救いがこの家にきた。」というのは、救いはあくまで個人の問題ですが、その家の主人の信仰は一家に及ぶことを仰ったのでしょう。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」というパウロとシラスの言葉を思い浮かべます。

そして、「アブラハムの子」というのは「ユダヤ人」を指すのであり、ザアカイも救わるべき人であるという意味です。

かの有名なパスカルは著書『パンセ』で、「人間には神によってしか埋められない空洞がある」と表現しているとおり、ザアカイの心にも大きな穴があったのです。

その穴はどんなものを持ってきても埋まらなくて、ジグソーパズルのピースのようにピタッと埋めることができるのは神さまだと言うのです。神を知り受け入れた時に空洞が埋められて平安を得るというのです。

それはザアカイだけではなく全ての人間がそうなのです。その空しさの穴に気がつく人は幸いです。

あの瞬間、ザアカイはその穴があることを直観したのでしょう。そこでなりふり構わずに桑の木に登った行動に感動します。求める者は厚かましく恵み御座の最前列に進み出るのです!


そしてイエス・キリストと出会って、今まで神に背を向けてきた生き方から180度向きを変えて神と共に生きるのです。その時、価値観や生き方が正されて「コペルニクス的転換」を経験するのです。

「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。このお言葉からイエスさまはザアカイのことを本当にお喜びになったことがわかります。

これまでザアカイは「失われた者」だったのです。神さまを離れては神の祝福を受けることができません。イエスさまが地上に来てくださったのは、ザアカイのように望みなく生きている人を捜し出して救うためなのです。

イエスさまに救い出された者は迷い出ないようにキリストから目を離さないように、そして、今もイエスさまを知らない人たちにイエスさまの福音、グッド・ニュースを届けたいと思います。

25F.jpg先日の川端牧師の「今日のみことば」にあるとおりです。ザアカイのお話からもよくご理解いただけると思います。
「あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました」。
            (詩篇26篇3節)

恵みとは、神からの無償の贈り物です。イエスをキリストと信じるだけで受け取れます。それは罪の赦しであり、永遠のいのちであり、聖霊の力であり、人生の癒しであり、神の国のあらゆる祝福です。真理に歩み続けたから、恵みが注がれるのではありません。恵みに生きるから、真理に歩むことが喜びになるのです

最後に黒崎幸吉の「要義」をご紹介して終わります。
[富める青年とザアカイ]18:18以下の富める青年の場合は、イエスはその全財産を売って貧者に施すことがその救いに必要であることを教えられ、ザアカイの場合はその幾分を施す決心をしただけで、救いがその家に起ったことを喜ばれた。

この二つの事実を見ても知り得る通り、人の霊魂の救いは、それが神のみに依り頼むか如何かに懸かっているのであって、資産の処分の方法または程度の問題ではない。

もしイエスが富める青年にその資産の半分を売って貧者に施せと命じ給い、もし青年がこれに従ったとしても、もし彼の心が他の半分に依り頼んでいたならば、彼は永遠の生命を得ることができなかったであろう

富の分配問題は社会問題、経済問題としては重要な問題であるけれども信仰問題の中心課題ではない。


附記:富める青年(ルカ18章18節〜25節)
18:18 また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
18:19 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
18:20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。
18:21 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。
18:22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
18:23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。
18:24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。
18:25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。

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2017年06月11日

家の教会2017㉒ ―ヨナ書を読むU 「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。―

夾竹桃.jpg2017年6月11日(日) (2017第22回 家の教会)
12時30分〜13時15分
出席者 3名(Except R)
@ 主の祈り
A 子ども讃美歌  88番 
「神さまがわかるでしょ」
B 聖書輪読    ヨナ書3・4章
C お話       優子
D 分かち合い&お祈り  一人ずつ

ヨナ書3章・4章:
3:1 時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、
3:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。
3:3 そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。
3:4 ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。
3:5 そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。

3:6 このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。
3:7 また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。
3:8 人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。
3:9 あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。

3:10 神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災いを思いかえして、これをおやめになった。

4:1 ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、
4:2 主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災いを思いかえされることを、知っていたからです。
4:3 それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。
4:4 主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。
4:5 そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。

4:6 時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
4:7 ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。
4:8 やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。
4:9 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。
4:10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
4:11 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

挿絵.jpgお話:
最初に『ヨナ書』のあらすじをお話しします。
神さまが預言者であるアミッタイの子・ヨナに、ニネベという町が悪に満ちているから悔い改めるように伝えなさいと言われました。

ところがヨナは神さまの言葉に従わないで船に乗り込み、ニネベとは反対のタルシシへ逃れようとしましたら嵐に遭って舟は今にも沈みそうになりました。

ヨナは舟底で熟睡していた時、他の人たちは自分の神に向かって助けを求め、舟が沈まないように積み荷を海に捨てましたが嵐は止みません。

ヨナが「わたしはヘブルびとです。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です」と言ったことから、嵐の原因がヨナであったことが判ったのでした。ヨナが主の御顔を避けて逃れようとしていたことを知っていたからです。

そこでヨナに言われたとおりヨナを海に投げ込むと海は静かになりました。このことで人々はまことの神さまを知り主に立ち返りました。 

一方ヨナは「大いなる魚」に呑み込まれて3日3晩、魚のおなかの中で祈り悔い改め、ヨナの祈りを聞かれた主はヨナを魚の中から救い出されたということが前回読んだ1〜2章のお話でした。

そして今日輪読した3〜4章では、主がもう一度ヨナに使命を与えられてニネベの町へ行って、「40日するとニネベは滅ぼされるから悔い改めさない」と神さまの言葉を伝えました。

すると、ニネベの人々だけではなく王まで皆が神を信じて真剣な悔い改めをしたのです。そこで神さまは彼らを赦し滅ぼすのをやめました。神さまは実に情け深くあわれみ深いお方なのです。

ところがヨナはそれが気に入らないのです。ニネベの人々が悔い改めたことを喜ぶことができなかったのです。今日はこのところを自らを探りながら考えたいと思います。

ヨナはへブル人(イスラエル人)ですから神に選ばれたという選民意識ゆえの優越感があったと思います。また、ニネベはヘブル人たちを苦しめた敵国であり、偶像崇拝していた彼らを救済されたことが我慢できなかったのです。

その怒りは増すばかりで「主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです。」とまで言うほどでした。すごいですね。どう思いますか?

私はヨナの気持ちがよくわかります。同じような気持ちになったことがあるのです。人生の不条理に苦悩し、その「針の穴」を通り抜けて何年も経ってからでした。

私たちに非道なことをし続ける人々がいつの日か悔い改めて天国に入れられると想った時、それは絶対にゆるせない気持ちになりました。

そんなことになるならば私が地獄に落ちてもいい、父や母と再会できなくてもいい、将来娘たちとも再会できなくてもいいと、永遠のいのちを放棄してさえよいと思うほど情動が動いたことがありました。苦しかったです。

ですからヨナがそのあともニネベの人々がどうなるのか見ていたという気持ちもよくわかりるのです。


トウゴマ.jpgこれがトウゴマの木です。トウゴマの別名を「ヒマ(蓖麻)」といい、その種からとったものが「蓖麻子油(ひましゆ)」です。

ひまし油といえば、今から50年あまり前くらいに見ていたアメリカのホームドラマでよく耳にしました。子供がいたずらすると罰として「ひまし油を飲ませるぞ」というのですが、『トム・ソーヤの冒険』や『若草物語』などアメリカの児童文学にも出てくるそうです。

神さまはヨナが暑さにやられないようにトウゴマの日陰を作ってくださいましたが、次の朝は枯れさせてしまわれて、ヨナは暑さで弱り果ててしまって「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ。」と言いました。
4章10節の「惜しんでいる」というのは「可哀想に思う」という言葉だということです。

ヨナはまるで幼児のようですね。
しかし、これは笑うに笑えない私たちお互いの姿ではないでしょうか。神さまは私たちにも問うておられます。

「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。

偶像を拝み、悪に満ちたニネベの人々を滅ぼさない神。そんな恵みと憐れみの神さまだからこそヨナもまた生かされているのであり、私やあなたも生かされているということを思い出さねばならないのです。

私たちは皆、試練や苦悩を通して砕かれていきます。中には嫌な苦しい中を通されてもいつまでたっても自らを省みることのない人もいるのですが、苦悩できる者は幸いであり神の恩寵なのです。

そして、私はこう思います。
信仰を与えられても私たちは何度も失敗し、そしてまた不平を言って嘆きます。しかしまたそのたびに神さまの恵みによって立ち返らされます。そのたびに悔い改めて頑な自我を打ち砕かれて本心に立ち返る。この歩みこそが神と共に歩む生き方でなのです。

人は皆ドングリの背比べ、五十歩百歩です。大切なことは嘆いても悔い改めて勇気を出して立ち上がることです。何度も何度も起き上がることです。

そして、信仰生涯を全うするためには主に在る者との交わりと励ましがいかに大切かと思います。互いに励まし合って「あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものと」させていただきたいと思います。

分かち合いでは、私たちもまたヨナのように「自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと」してしまうのですが、そのような苦しみを耐えねばならない時こそ主を仰ぎ見ることだと語り合いました。

小屋を取り払うことができたことは神さまが勝利を与えてくださったのであり、詩篇の一句を受容できた証しです。

「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、
わたしはわが力の及ばない大いなる事と
くすしきわざとに関係いたしません」。
                (詩篇131篇1節)

附記:ユキは午前中はサッカー教室だった。そして、1時半にお友だちと公園で待ち合わせているというので昼食後すぐの礼拝となった。

夕方、知子と歩く。
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栗の木

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2017年06月04日

家の教会2017㉑ ― ペンテコステ礼拝 「無くてはならぬものは」−

時計草.jpg6月2日未明に強烈な胃痙攣と嘔吐に見舞われた孫は流行中の胃腸炎だったようで、3日夜から私も嘔吐し、胃のむかつき、寒気や微熱があって眠ることができなかった。
数時間後から知子もまた同じ症状で苦しんでいたことを朝になって知る。知子はもっと重症。私は1度だけの嘔吐で終わったが、何とか食料品の買い物に行ったあとはしんどくて臥せっていた。夕刻になって初めて食べ物を口に入れたが。

そんなわけで私一人だけでも礼拝を捧げることができなかったが、準備していたのを掲げておきたい。
今朝9時半過ぎから真智子からスカイプあり。良輔と私の3人で話し帰国日程も決定した。

2017年6月4日(日) (2017第21回 家の教会)
聖書  使徒行伝2章1節〜15節
       ヨハネによる福音書14章16・17節 

使徒行伝2章1節〜15節
ヨハネによる福音書14章16・17節:
2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
2:3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

2:5 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
2:6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
2:7 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。
2:8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。
2:9 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
2:11 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。
2:12 みんなの者は驚き惑って、互いに言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。
2:13 しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。

2:14 そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。

「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。

2:15 今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない」。 


ヨハネによる福音書14章16・17節:
14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」。

お話:
今日はペンテコステ礼拝です。クリスマス、イースターと共に教会の大切な記念日です。 
イエス・キリストは十字架に架かられて死んで葬られ、三日目に甦られました。その後40日間弟子たちや多くの人々に現れ、人々の見ている中で昇天されました。それから10日後、即ち復活されて50日目に起きた出来事です。

集まって祈っていた120人の信徒たちの上に聖霊が降ったのです。彼らは皆ガリラヤ人なのに、大きな音を聞いて集まって来たいろんな国の人々の言葉で話し始めました。

英語で「舌」は ”tongue”(タン)と言いますが、「舌」には「言葉」をも意味し、英語で「自国語、母語」を ”mother tongue”(マザー・タン)と言われるのも3・4節のことと結びつきますね。

イエスさまが昇天される時に「わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16:7)とイエスさまが仰ったことが成就されたのです。

「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
             (使徒行伝1章8節)

3度も主を知らないと拒んだペテロにも劇的な変化が起こりました。あんなに弱く3度も(拒否)失敗したペテロが徹底的に砕かれて造りかえられました。

これは人間の努力では成し遂げられないことであり、聖霊によって初めて可能にするのです。私もペテロのように本当に変えられたいと思います。

弟子たちは修行のように人間側の努力によって聖霊を得たのではなく、ただ心を合わせて、ひたすら祈っていた時に上から聖霊が降ったのです


そしてペテロは立ち上がって力強く語りました。これがペテロの初めての説教です。
使徒行伝2章22節〜24節、38・39節:
2:22 イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。
2:23 このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。
2:24 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。

2:38 「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
2:39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。

このペテロの説教を聴いて3千人が信仰へと導かれました。これが教会の誕生であり、ここから福音が全世界に広がって行ったのです。そのことから「ペンテコステ」は教会が産声を上げた誕生日と呼ばれる所以です。

聖霊の導きに耳を傾けて従うかどうかは私たちに委ねられています。神さまはどんな時も決して強引にされません。全ては一人ひとりの自由意思に委ねられています。

ですからクリスチャンであっても神の恵みの外に迷い出て人生をダメにしてしまうことがありますから、お互いに聖霊の導きに従って祝福された人生を歩ませていただきたく思います。

大切なことは神さまの前に正直であることです。自己正当化の嘘だけではなく、昨今の政治家や官僚たちの出来事に見る自己防衛のために真実を隠すのも罪です。私たちの内に虚偽があると聖霊は助けてはくださいません。

クリスチャンは聖霊に従い、人は皆、自らの良心に従って生きることが最も大切なことなのです。


「ペンテコステ」とは「50」を意味しますが、因みにアメリカ国防省の「ペンタゴン」と呼ばれている5角形の建物の名前は、古代ギリシャ語で「5」を意味する「ペンテ」に由来しているということです。

「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」(ルカ10章42節)
ペンテコステについて思いめぐらせている時、イエスさまがマルタに言われたこの言葉が私の心に強く迫ってきて、「無くてはならぬもの」とは「聖霊」だと強く思いました。

私たちの中に内住してくださっている聖霊のおかげで、みことばを思い出させてくださり慰められ励まされて何度も立ち上がって来られれたことを思いますと、何よりも私たち一人ひとりに豊かに聖霊を注いでくださることを祈りたいです。


私たちは生きている限り多くの困難に出くわし試練を通らされます。その中には自らが招き入れた苦悩もあるでしょう。
しかしその只中で聖霊(主イエス)が共にいてくださり、常に私たちよりも一歩先に歩いてくださっているのです。

私たちは聖霊を受けることによってのみ本当にキリストに出会うことができるのであり、常に聖霊の導きに従っていくことがとても大切です。聖霊が内住してくださっている私たちはキリストの体である教会です!

「主イエスは我が救い主」と信じる者の内には聖霊が与えられるているという約束を信じることです。
聖霊こそが信じる者の保証であり、信じる者の救いは必ず完成されるのであり、それを信じさせてくれるのもまた聖霊なのです。


そのことを感謝して雄々しく生き抜きたいと思います。

エペソ人への手紙1章13・14節:
「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである」。

附記:
C0F6CEE9BCB0.jpg1987年6月7日、今からちょうど30年前のペンテコステ礼拝で受洗の恵みに与りました。私は35歳でした。
講壇横の床下に作られていた洗礼槽の周りで教会の方々に見守られ、この場に私の両親と妹も来てくれていました。


このあと牧師館の浴室で温かいお湯につかって礼拝堂へ戻りました。この日、私に続いてもう一人女性が受洗されました。
IMG_5575.jpg

そして、洗礼を授けてくださった小山恒雄牧師からそれぞれにみ言葉が書かれた記念の色紙と『聖歌』をいただきました。生涯の終わりまで主と共に歩みたいと願っています。

ヨハネによる福音書14章1節(リビングバイブル訳):
「どんなことがあっても、心配したりあわてたりしてはいけません。神さまを信じ、何もかも、わたし(イエス・キリスト)に任せなさい」。 

" The Living Bible" John 14:1:
"Let not your heart be troubled. You are trusting God, now trust in me."
 
       
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2017年05月28日

家の教会2017S ―ヨナ書を読むT 『ピノキオ』の真髄―

IMG_5295.jpg2017年5月28日(日) 
   (2017第20回 家の教会)

8時30分〜9時30分
出席者 3名(Except R)

@ 前奏       知子
A お祈り      優子
B 子どもの讃美歌  
「おおしくあれ」 ユキ独唱
C 聖書輪読     ヨナ書1・2章
D お話       優子
E お祈り      一人ずつ
F 讃美歌      第2編136番 
              「われ聞けりかなたには」
G 後奏       知子
楓の種.jpg
楓の種
ヨナ書1章1節〜2章10節:
1:1 主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、
1:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。
1:3 しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。

1:4 時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあった。
1:5 それで水夫たちは恐れて、めいめい自分の神を呼び求め、また船を軽くするため、その中の積み荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船の奥に下り、伏して熟睡していた。
1:6 そこで船長は来て、彼に言った、「あなたはどうして眠っているのか。起きて、あなたの神に呼ばわりなさい。神があるいは、われわれを顧みて、助けてくださるだろう」。

1:7 やがて人々は互いに言った、「この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう」。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。
1:8 そこで人々はヨナに言った、「この災いがだれのせいで、われわれに臨んだのか、われわれに告げなさい。あなたの職業は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。あなたはどこの民か」。
1:9 ヨナは彼らに言った、「わたしはヘブルびとです。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です」。
1:10 そこで人々ははなはだしく恐れて、彼に言った、「あなたはなんたる事をしてくれたのか」。人々は彼がさきに彼らに告げた事によって、彼が主の前を離れて、のがれようとしていた事を知っていたからである。

1:11 人々は彼に言った、「われわれのために海が静まるには、あなたをどうしたらよかろうか」。それは海がますます荒れてきたからである。
1:12 ヨナは彼らに言った、「わたしを取って海に投げ入れなさい。そうしたら海は、あなたがたのために静まるでしょう。わたしにはよくわかっています。この激しい暴風があなたがたに臨んだのは、わたしのせいです」。
1:13 しかし人々は船を陸にこぎもどそうとつとめたが、成功しなかった。それは海が彼らに逆らって、いよいよ荒れたからである。
1:14 そこで人々は主に呼ばわって言った、「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。また罪なき血を、われわれに帰しないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」。
1:15 そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。
1:16 そこで人々は大いに主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。

ヨナと鯨:ピーテル・ラストマン(1621).jpg1:17 主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。

(絵はピーテル・ラストマン、レンブラントの師)
2:1 ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、
2:2 言った、
「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、
主はわたしに答えられた。
わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、
あなたはわたしの声を聞かれた。
2:3 あなたはわたしを淵の中、
海のまん中に投げ入れられた。
大水はわたしをめぐり、
あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。
2:4 わたしは言った、
『わたしはあなたの前から追われてしまった、
どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか』。
2:5 水がわたしをめぐって魂にまでおよび、
淵はわたしを取り囲み、
海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。
2:6 わたしは地に下り、
地の貫(かん)の木はいつもわたしの上にあった。
しかしわが神、主よ、
あなたはわが命を穴から救いあげられた。
2:7 わが魂がわたしのうちに弱っているとき、
わたしは主をおぼえ、
わたしの祈りはあなたに至り、
あなたの聖なる宮に達した。
2:8 むなしい偶像に心を寄せる者は、
そのまことの忠節を捨てる。
2:9 しかしわたしは感謝の声をもって、
あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。
Jan Bruegel1600)..jpg救いは主にある」。
2:10 主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。

絵はヤン・ブリューゲル(父)

お話:
先週は礼拝をお休みしたので来週のペンテコステ礼拝を挟んで、今週と再来週の2部構成で『ヨナ書』を読みたいと思います。

ヨナについては昨春「家の教会」を始めてすぐの4回目の礼拝でお話しました。その時は「あらすじ」をお話ししてから4章だけを輪読しましたが、今回は全章読みましょう。

今日輪読した1・2章は「ヨナの悔い改め」が書かれてあり、3章はヨナの宣教によりニネベの人々が悔い改めたことを、4章ではその後のヨナの怒りと神の教訓が書いてあります。

『ヨナ書』は分厚い聖書の中のたった3ページです(新改訳・新共同訳聖書では4ページ)。「ヨナ」の名前は「鳩」という意味で、ヨナは預言者であり政治家でした。イスラム教では「ヨナ」を「ユーヌス」と呼びコーランにも出ているとのことです。

ヨナの出来事は紀元前8世紀、ヤロブアム二の治世の頃の話だということです。その頃のアッシリアは東方世界を支配していた超大国でその首都がニネベでした。

そして、『ヨナ書』が書かれたのはアッシリア(ニネベ)陥落前の紀元前612年以前であり、紀元前5世紀ごろに現在の形に編集されました。

ヨナは列王記下にも出てくる歴史上の人物であり、イエスさまが数か所でヨナのことを話されていることからもヨナの不思議な話も真実であることがわかります。

「彼はハマテの入口からアラバの海まで、イスラエルの領域を回復した。イスラエルの神、主がガテヘペルのアミッタイの子である、そのしもべ預言者ヨナによって言われた言葉のとおりである」。(列王記下14章25節)

「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。
すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。
ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである」。

              (マタイ12章39節〜41節)

近年、過激派組織「イスラム国」(IS)がイラク北部の主要都市モスルにあった墓や像、モスク(約1800年前の建造物)、聖廟など人類の文化遺産をたくさん破壊しました。

その中には預言者ヨナの墓や、アダムとイブの三男と考えられている預言者セトの聖廟も数年前に(2014年7月?)に爆破されて壊滅したと報じられました。

まもなくモスルをISから奪還するそうですが、そこに20万人もの市民がいると報じています。武力を用いないで残虐悲惨な歴史に終止符を打つことはできないのでしょうか。今はヨナのような人物は立てられていないのでしょうか。

ヨナの話、ニネベとはまさにこのモスルの地なのです。では、今日の本筋に入っていきましょう。

ユキはヨナのお話しを良く知っているので、『ピノキオ』の原作が『ヨナ書』であることを興味深く聴いてくれると思います。そういえば、ピノキオとヨナの話は似ている所があると思わない? 
実は『ピノキオ』は『ヨナ書』をもとにして書かれたもの、その中にはキリスト教神学が織り込まれているのです。

ピノキオ.jpgこの絵本はユキのママが小さい時に買って真智にも、そして、ユキにも何度も読んだのでボロボロになってしまったけれど、ピノキオのお話は今も覚えていると思います。

その内容を追って行くとまず目に留まるのは、ピノキオが学校に行く時にゼベットじいさんがりんごを持たせるところ、作者はここにも意味を込めていると思います。

これは創世記にでてくる「知恵の実」を思わせます。
創世記3章2〜3節:「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。

このリンゴは誘惑を意味し、作者は誘惑に負けて堕落していくピノキオを暗示させているのでしょう。

ピノキオは不良少年に誘われるままに悪い子になっていきました。女神に「キツネと猫がむりやり連れてきたから」と嘘をつくと鼻が伸び、「ごめんなさい」と謝ればゆるされて鼻はもとにもどりました。

しかしそのあとも勉強しない、本を破り、お酒を飲み、煙草を吸ったり、本当に悪い子になってしまったピノキオはジミニーに叱られてやめました。

ところで私たちにはロバはかわいい動物であり、ロバと言えばイエスさまがエルサレムに入城される時にロバを用いられたことを思い出します。

イエスさまはロバに最も大切な時に御用をさせてくださったのですが、欧米ではロバは「まぬけ、バカ、頑固者」と比喩されます。

それで『ピノキオ』のお話にも、「勉強をする子は追い出される」という村で遊んでばかりいると、馬鹿になり、ロバになって売られてしまうと書いてありますね。

とうとうピノキオにもロバの耳とシッポが生えてしまいました。ロバに変身させられたのです。ロバの耳とシッポは「罪」を表しています。ようやくピノキオは悪いことをしたと気がついて家へ帰りましたがおじいさんがいません。

そこへ1羽の鳩が来て、ゼペットさんは大切なピノキオを捜しに行って海の怪物にボートごと呑み込まれたことを教えてくれました。

おじいさんは年を取っているから「おじいさん」と呼んでいますが、ピノキオにとってはお父さんの存在です。

ピノキオはジミニーとお父さんを捜しに行きますが、ピノキオとジミニーも大きな鯨に呑み込まれてしまいました。しかしこうして鯨のお腹の中でお父さんと再会し、お父さんにこれまでのことを話して心から謝りました。

鯨のお腹の中で焚火して、その煙で鯨が大きなクシャミをした時に海へ吐き出されて逃げることができました。

でも大きな波でいかだはひっくり返り、何とか岸に打ち上げられたけれどピノキオは死んでしまいました。罪(ロバの耳とシッポ)を持ったまま。 

しかし、ゼペットさんのお祈りで起き上がり、その時ピノキオは木ではなく本当の子どもになっていました。

これは「罪に死に、キリストに生きる」ということであり、それは洗礼の意味とも重なります。一度死んで、新しい命をいただいて「神の子」として永遠の命に生きられるようにしてくださるからです。

私はこのみ言葉が脳裏に浮かびました。
「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ」。(イザヤ書1章18節)

そしてまたここにイエスさまの贖罪と復活という意味も重ねて読み取ることができます。イエスさまが私たちの罪のために、(ロバの耳やシッポ)罪を負って身代わりになって死んでくださりよみがえってくださったことを!

『ピノキオ』の作者の信仰が読む者に伝わってきます。
ゼベットじいさんは木を削って人形を作り(創造)、悪い子になったピノキオを捜しに行き、海の底まで捜しに行きました。
その姿は「迷える子羊」を捜し続けるイエスさまであり、即ち、放蕩息子の帰りを待ち続けると重なります。まさに私たちの「天の父」を象徴しているのです。

女神はピノキオが嘘をつくと鼻を伸ばしたり元に戻したりと、奇跡を行うということで神の子イエス・キリストを重ねているのでしょうか。
コオロギのジミニー・クリケットはピノキオの良心であり聖霊を表しているのでしょう。

つまりこのお話に聖書の一番の要点、「三位一体」というキリスト教神学が柱になっているのがわかります。

ピノキオはまさに私たちのことですね。私たちは一人ひとり神さまによって素晴らしいものとして創られ愛されているのに、神さまから離れて自己中心に生き(それが聖書の言う「罪」です)大変な目にあいます。しかし、聖霊の導きにより悔い改めて罪赦される。


ピノキオは罪に死んで、キリストに生きる(新生)のです。そこに導かれて、これまで神さまに背を向けて神さま無しの生き方を悔い改めて、神と共に生きたいと信仰告白することが洗礼です。

神の子とされた私たちも自分の弱さから何度も何度も悪い子になるのですが、そのたびに神さまに「ごめんなさい」と謝り、そのたびに新たなる力を与えて立ち上がらせてくださるのは何という感謝でしょうか!!!

IMG_5375.jpgさあ、今週も良き日々を創り上げていきましょう。良き日々を願って神と共に出発しましょう!

花の名は「ニゲラ」

IMG_5339.jpg今朝の讃美歌は、昨日の午後、ある方のお見舞いに伺った帰り、病院を後にして駅に向かう時に唇に出てきた讃美歌です。


讃美歌第2編136番 「われ聞けり彼方には」

1.われ聞けり「かなたには うるわしき都あり」
  輝ける かの岸に われはまもなく着かん
  「ハレルヤ」と歌いつつ 歌いつつ進みゆかん
  わが足は弱けれど 導きたまえ 主よ

2.われ聞けり「かしこには 争いもわずらいも
  明日の憂いもなし」と われはまもなく着かん
 「ハレルヤ」と 歌いなば 悲しみも幸とならん
  われは はや さ迷わじ 神ともにいませば

3.われ聞けり「みかむりと ましろき衣をつけ
  主をほむる民あり」と われも共に歌わん
 「ハレルヤ」と 叫びつつ み声聞きてよろこび
 み国へとのぼりゆかん わが旅路終わらば



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2017年05月14日

家の教会2017R ―「母の日」の今日的意味―

IMG_4889.jpg今朝は町内会の草引きで、夫も珍しく10年ぶり(?)に参加した。知子は講演会のために外出。
今回ユキは手伝わないでボールを壁当てして遊んでいたら蛙を見つけた。この近辺に池など水辺はないのにね。

2017年5月14日(日) (2017第19回 家の教会)
16時〜16時45分
出席者 4名
@ 奏楽    知子
A 主の祈り   
B 聖歌    402番「丘に立てる荒削りの」
C 聖書輪読  列王記上3章16節〜28節
D お話    優子
E お祈り   優子、ユキ
F 讃美歌   510番 「まぼろしの影を追いて」
G 後奏    知子

列王記上 3章16節〜28節:
3:16 さて、ふたりの遊女が王のところにきて、王の前に立った。
3:17 ひとりの女は言った、「ああ、わが主よ、この女とわたしとはひとつの家に住んでいますが、わたしはこの女と一緒に家にいる時、子を産みました。
3:18 ところがわたしの産んだ後、三日目にこの女もまた子を産みました。そしてわたしたちは一緒にいましたが、家にはほかにだれもわたしたちと共にいた者はなく、ただわたしたちふたりだけでした。
3:19 ところがこの女は自分の子の上に伏したので、夜のうちにその子は死にました。
3:20 彼女は夜中に起きて、はしための眠っている間に、わたしの子をわたしのかたわらから取って、自分のふところに寝かせ、自分の死んだ子をわたしのふところに寝かせました。
3:21 わたしは朝、子に乳を飲ませようとして起きて見ると死んでいました。しかし朝になってよく見ると、それはわたしが産んだ子ではありませんでした」。
3:22 ほかの女は言った、「いいえ、生きているのがわたしの子です。死んだのはあなたの子です」。初めの女は言った、「いいえ、死んだのがあなたの子です。生きているのはわたしの子です」。彼らはこのように王の前に言い合った。

3:23 この時、王は言った、「ひとりは『この生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、またひとりは『いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのはわたしの子だ』と言う」。
3:24 そこで王は「刀を持ってきなさい」と言ったので、刀を王の前に持ってきた。
3:25 王は言った、「生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよ」。
3:26 すると生きている子の母である女は、その子のために心がやけるようになって、王に言った、「ああ、わが主よ、生きている子を彼女に与えてください。決してそれを殺さないでください」。しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。
3:27 すると王は答えて言った、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ」。
3:28 イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。

お話:
このお話は今から3000年ほど前のイスラエルのソロモン王のお話です。生きている赤ちゃんを巡って2人の母親が「これは自分の赤ちゃんだ」と主張するのでソロモン王に正しく裁いてもらおうとやってきました。

すると王は、「この生きている赤ちゃんを二つに裂きなさい。そして、半分をこの女に、もう半分をもう一人の女に分け与えよ」と言いました。

すると一人の母親が、「王様、お願いです。この子を生かしたまま、この女の人にあげてください。この子を絶対に殺さないで下さい」と言い、もう一人の母親は「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、どうぞ、裂いて分けてください。」と言いました。

この二人のお母さんの言葉を聞いたソロモン王は、どちらの女性が本当の母親であるかわかったので、「この子を生かしたまま、さっきの女に与えよ。この子を殺してはならない。さっきの女が本当の母親だ」と言って、赤ちゃんを本当のお母さんに戻しました。

ソロモン王の中に神さまの知恵が働いているとイスラエルの人々が王を讃えたというお話です。

本当のお母さんは、「絶対に殺さないでください!」と訴え、この子さえ生きているならば我が子がこのようなひどい女性のものになってもいいと、我が子の命を最も大切に守ったのです。

母の愛はこの世で一番神の愛に近いと言われます。例えば、ポンペイ遺跡(イタリア)の発掘調査で我が子を抱いたまま火砕流にのまれた母と子があったというお話は昨年の母の日礼拝でしました。

ユキもよく知っているように、動物がどんなに一生懸命ヒナを育てているか。親は働きづめで一日中魚や虫を捕り続けて雛に与える姿は、いつも『ワイルドライフ』で観ているよね。

中には例外もあると思うのがカッコウだけれど、カッコウは自分で卵を温めないでオオヨシキリやモズの巣に卵を産んで、その巣の鳥に温めてもらって孵化させて餌まで与えてもらうので、我が子を愛さない生き物もいるんだと思いました。

でもカッコウにも理由があるらしく、カッコウは体温保持能力が低いので、例えば外気温によって体温が大きく変動するので雛にかえるまで温められないからだろうということです。それでも自分勝手だなあと思うのですが、このこともまた我が子を大切に思えばこその本能ですね。

どんな動物でも親は命がけで子どもを守り育てます。特にお母さんと子どもは父親以上に深い愛情で結ばれているようです。子どもを育てられるようにと神さまが備えてくださったのだと思います。

でも今は幸せな母子ばかりではなく大きな社会問題にもなっている、親の愛を受けなかった子どもや虐待された子どもがたくさんいます。

モーセの十戒には「あなたの父と母を敬え。」とありますが、幸いな親を持った人は簡単に「お母さん、ありがとう」と言うことができますが、そうではない親の子はできるでしょうか。

そのようなことを思うと「母の日」はお母さんを亡くした人だけではなく、親によって心が深く傷ついている子どもにとっても辛い日になっていることでしょう。でも神さまはそのような思いをよくわかってくださいます。誰よりもわかってくださるお方です。

その思いを神さまに知ってもらうのです。祈りの中で全部お話しするのです。神さまは必ずや心の傷をいやしてくださいます。そしていつか心の傷や痛みが消えていき、気持ちが変えられていくということが聖書に記されている約束です。

長い時間がかかってもいい、いや、それが私に賜った人生だと受け止めて生涯かけて神さまに求め続けるのです。

ピリピ人への手紙4章6〜7節にこのように書いてあります。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。
                   
祈ることができる人は幸いです。試練や不条理に向き合うことは人生の大きなチャレンジです。自分に向き合うことせずして人生へのチャレンジはありません。

神さまに正直に自らの悲しみや苦しみ、怒りもすべて告白して求めていくならば、いつか必ず親の弱さを理解しゆるせるようになるとありますから、生涯かけての課題として向き合ってほしいです。


世の中には不平を糧に生きている人、人に求めるばかりで全く感謝を知らない人がいますが、そのような生き方は人生を台無しにしているのです。どんなに健康やお金に恵まれていようとも「感謝」を知らずにいる人は生かされている喜びを知らないのです。

近年、公立幼稚園・小学校では「母の日」や「父の日」を全く言わなくなり、そのこともまた画一的ゆえに異様に感じますが、私は「母の日」の今日的意味をこう考えます。

「母の日」は母を亡くした人にとっては母を偲ぶ日であり、母が健在な人は母との時を大切に思い、母への感謝を伝える日であり、虐待や放任により心に深い傷を受けている子どもは神と出会って幸せな人生を選び取る日であってほしいと思います。

そして子育て中の現役の母親は、養育の大任を果たせるようにと姿勢を正し、親と子との限られた幸せな時を味わいながら過ごしてほしいと願います。


「母の日」は1908年5月にアメリカのアンナ・ジャービスという女性が、教会学校で長く教えていた母親を記念して追悼会を行ったことから始まりました。

その日アンナは、母への感謝を表すために母の大好きだった白いカーネーションを礼拝堂に飾り、追悼会の終わりに参加者に配りました。

その後20年ほどの間に全世界に広まり、1952年ウィルソン大統領の時に「母の日」が制定され、やがて赤いカーネーションは生きているお母さんを、白は亡くなったお母さんを表すようになりました。

アメリカの第16代大統領リンカーンは常に聖書を読み、祈り、神と共に生きた人、奴隷解放宣言をしたりっぱな人でした。リンカーンはお母さんのことをこのように言っています。

「神よ、私の母を祝福して下さい。・・私の全ては彼女のおかげです」。

リンカーンの母の祈りは我が子を通して歴史を変え、世界の秩序を牽引していったのです。

IMG_4870.jpg昨日、独りデパートに出向き、母への贈り物を思いながら歩き回った。

そう、私の母はとっくに亡くなって21年になる。でも母が懐かしくて、もう一度だけ贈り物をしたくて歩いた。母が今も健在ならば91歳だが、私は60歳頃の母を想っていた。

ほぼ全てを見て回ったけれど、結局、何かおいしいものを食べに行き、ケーキとカーネーションかな・・・

母に話しかけながら楽しい夢のような時だった。

私は体調が悪いので口の中が苦くて何もほしくなくて、カーネーションだけ買おうとした時、現実に気がつき、手を放した。自らの白髪姿を思い出したのだ。

カーネーションを贈られる側の年齢なのに、買うなんて惨めで恥ずかしいと思ったのだ。しかし、あとで考えると不思議なことでもなかった。今は元気な90代も珍しくはないから。

E3808CE6AF8DE381AEE697A5E3808D1994.jpg私は今も、
こよなく母に感謝している。
懐かしいお母さん、
懐かしいお父さん、
また会おうね。
もうすぐやね。


1994年の「母の日」に讃美歌510番を歌っているところ。
嚥下力がかなり落ちていたので、メロンを持って行ったが・・・

讃美歌510番 歌詞
1 まぼろしの影を追いて
  うき世にさまよい、
  うつろう花にさそわれゆく
  汝(な)が身のはかなさ。
(折り返し)
 春は軒の雨、秋は庭の露、
 母はなみだ乾くまなく、祈ると知らずや。

2 幼くて罪を知らず、胸に枕して、
  むずかりては手に揺られし むかし忘れしか。

3 汝が母のたのむ神の みもとには来ずや、
 小鳥の巣にかえるごとく、こころ安らかに。

4 汝がために祈る母の いつまで世にあらん、
  とわに悔ゆる日の来ぬまに、とく神にかえれ。
                  アーメン
posted by 優子 at 21:28| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年05月07日

家の教会2017Q ―真の信仰に立って聖霊を受ける 「十人のおとめの譬え」より―

2017年5月7日(日) (2017第18回 家の教会)
16時〜16時20分
出席者 3名(With Y&R)
@ お祈り   優子
A 聖書輪読  マタイによる福音書25章1節〜13節
B お祈り   一人ずつ

マタイによる福音書25章1節〜13節:
25:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
25:2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
25:3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
25:4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
25:5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
25:6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
25:7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
25:8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
25:9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
25:10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
25:12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。

お話:
先週はイエスご自身が語られた終末についての説教を読みましたが、今日輪読した「十人のおとめの譬え」もまた終末に重なるキリスト再臨の話です。

聖書では婚姻の譬えをとおして教会をキリストの花嫁として迎えることが記されていますが、「十人のおとめの譬え」では花婿であるキリストを待つ十人のおとめとして語られています。

油は聖霊の表徴であり、十人のおとめ(処女)は皆キリスト者の名称を持っている人々です。

前者は信仰によってキリストに連り聖霊を豊かに受けた人々であり、後者はキリストの教えを知的に感動した人たちなのでしょうか聖霊を受けてはいませんでした。

また反対にいくら熱心であっても真の信仰でなければ聖霊は内住されず、即ち洗礼を受けて「キリスト者(クリスチャン)」という名称を持っていてもダメであることが明言されています。

聖霊(油)は分け合うことができず、各自がキリストよりいただいて準備しなければならないのです。そのことを私は次のように考えます。

御言葉を読むことも祈ることの必要を感じることなく生きている人は聖霊を受けていないのであり、また、「祈ってくださっているから」と、祈ることもできないほどの情況でもないのに執り成しの祈りをあてにしている人も論外でしょう。

思慮の深い賢い人であるか思慮の浅い愚かな人であるかは再臨の時に一瞬にして明らかにされ、各自の信仰がいかなるものであるかが明確にされるのです。
その時、一人ひとりの信仰が問われ、自己の信仰によって神の前に立たねばならないのです。

注目すべきことは、眠ってしまうという肉の弱さはすべての信者に共通しており、思慮の浅い5人だけではなく、思慮深い5人も寝てしまったことです。

イエスさまが「心を熱しているが肉体が弱いのである」(マタイ26章40・41節)と弟子たちに仰ったお言葉を思い出します。

イエスさまは私たち人間の弱さを理解してくださっています。その上で警告してくださっているのです。大切なことは眠らないことではなく、私たちの信仰の火を再び燃やす予備の油を持っているかどうかであると!

私たちは神さまの恵みから迷い出てしまう弱い人間です。何度決心しても意志の弱い心身(肉)をもって生きています。

しかし、だからこそ自分の弱さを思い知らされて、何度でも悔い改めるのです。自分の愚かさや醜さを知って生きる人は幸いです。イエスさまの警告はそこにこそあるのです! 


「思慮の浅いおとめたち」は自分の弱さや愚かさを知らず、自分が強くて賢い人間だと思っている人たちであり、自分に自信があるから予備の油の用意をしなくても大丈夫と考えてしまいます。

それに対して「思慮の深いおとめたち」は、自分が愚かで弱い人間であることを知っていますから、用心深く予備の油を用意していました。

イエスさまは言われます。
洗礼を受けて「キリスト者(クリスチャン)」という名称を持っていてもむなしく、また反対にいくら熱心であっても真の信仰でなければ聖霊は内住されず、その時「わたしはあなたを知らない」と言うと。

私たちは主の贖いによって赦されて主の恵みの中で生きる者とされました。にも関わらず私たちは主を失望させるのですが、神さまはそのこともご承知なのです。

だからこそ常にそのような打ち砕かれた心を失わないで主の導きを求め続けて生きていくのです。日々イエスさまと共に生きることによって聖霊は豊かに注がれ、そのことがとりもなおさず「主の再臨に備える」ことなのです。

附記:ゴールデンウィークの4・5日、紀伊勝浦、熊野、新宮へ小旅行に出た。
その前日3日正午前に『種を蒔く』4号の2校が届きチェック。
昨日、大田先生より送られてきた2校と合体させて1冊に。数名に不明点を問い合わせながら、その後も23時過ぎまで必死の作業が続く。
今日も3時間ほど作業したがキリがないので手を放して印刷屋さんに送った。

posted by 優子 at 19:55| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年04月30日

家の教会2017P ―イエスの「終末についての説教」−

2017年4月30日(日) (2017第17回 家の教会)
9時30分〜11時
出席者 2名(With T)
@ 聖書輪読  マルコによる福音書13章全章
A 分かち合いと祈り
B 聖歌 582番(新聖歌397番) 「神の御子にますイエス」

※ ユキは久々のサッカー教室のため不在。
昼食後、ユキと二人で聖書を読み、短く話して祈り合う(午後12時50分〜1時10分)。その後まもなく遊びに出かけた。


マルコによる福音書13章全章(1節〜37節):
13:1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。
13:2 イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
13:3 またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。
13:4 「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。
13:5 そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。
13:7 また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。

13:9 あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。
13:10 こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。
13:12 また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。
13:13 また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

13:14 荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
13:15 屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。
13:16 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。
13:17 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
13:18 この事が冬おこらぬように祈れ。
13:19 その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。
13:20 もし主がその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めてくださったのである。
13:21 そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
13:22 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
13:23 だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。

13:24 その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、
13:25 星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
13:26 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
13:27 そのとき、彼は御使いたちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
13:28 いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
13:29 そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
13:30 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。
13:31 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
13:32 その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
13:33 気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。
13:34 それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。
13:35 だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。
13:36 あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。
13:37 目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。

お話:
北朝鮮の止まらない軍事的挑発に一触即発の状態が続いています。こんなに緊迫した状況になってもこれまで同様に笑いながら話している司会者やコメンテーターには強い憤りを感じます。

戦争への不安や恐れを現実的に感じる今、この箇所からイエスさまに導きを求めて読みたいと思います。

弟子のひとりが言った「立派な建物」とはエルサレム神殿のことです。当時の人々は「エルサレムの宮の建築を見ないものは建築美について語る資格がない」と言っていたほどの建物でした。

しかし、イエスさまはそのような物は永遠性もなく滅び去るものだと言われました。事実このあと40年足らずのち(紀元70年)にローマ帝国によって破壊されてしまうのですが、この時弟子たちは「いつ、そんなことは起こるのですか」と尋ねました。

これはエルサレムの破壊のことだけを指しているのではなく、世の終りにおいても起きるという預言として受け取るべき内容であることから、イエスさまの「終末についての説教」と呼ばれているところです。

「終末の徴」というのは、偽キリストや偽預言者が現われて、戦争、地震、飢饉が起こり、家族同士でも憎しみ合い、殺し合うというのです。
殺されるのは勿論キリスト者で、世の終わりに近づくに従ってキリスト者はますます憎まれて迫害の苦難がくると言われました。何と恐ろしいことでしょうか、そんな覚悟が私たちにあるでしょうか。


黒崎幸吉は次のように語っています。
「キリスト者はこの世の悪のためにもまたその益のためにも苦しまなければならない。この世の人々を愛しこれがために苦しむことは主イエスの道であった。これがまたキリスト者の踏むべき道程である」と。

戦争は世の終りの前兆として必ず起るけれども、しかしこれまでもどの時代にも戦争は起きてきました。私は今まで想像力もなく歴史を淡々と読み流してきましたが、聖書においても、日本史、世界史に残されている事実は何と残虐であったか。今ほどリアルに感じることはありませんでした。

円周と円の面積との相関関係に例えて文明の進歩を円周とするならば、結果である面積も大きくなっていきます。
しかし、文明の進歩は決して理想に向かっているのではなく、文明が進むほど悪や戦争が頻発して世界は混沌さを増すばかりで聖書が記している通りです。


キリストの再臨前には空前絶後の大患難が世界に臨み、宇宙的大変動が起こるとのこと。それはいつかわかりませんが、大切なことは怠惰な信仰生活を戒めて常に「目を覚ましていなさい」と仰いました。

そして「惑わされるな、慌てるな、前もって取り越し苦労するな」と言われ、何度も「気をつけなさい」と繰り返し警告しておられます。

14節の「立ってはならぬ所」とはエルサレム(神殿)に起こった時が世の終末に近づいた証拠であるというのです。

聖書の言葉を神の言葉と信じる私たちは知っています。いつか天地は滅びるということを。「しかしわたし(イエス・キリスト)の言葉は滅びることがない」と主は言われます。

即ち死ねば終わりではないから救いの希望を握って堅く立ち、最期まで困難や試練を耐え抜けというのです。それは我慢ではなく希望の忍耐です。

そして、憎むべき破壊者に巻き込まれないようにひたすら逃げよ。地上のものに執着しないで早く逃げよと忠告されています。実際この世の終わりの時はそれら一切は滅びゆくものです。

ただ迫害への恐怖が常に私の脳裏にあります。迫害にはすぐに転んでしまうような恐れがあります。いや、その時は転ぶことさえできない問答無用の大迫害でしょう。

しかしそのことも一切神に委ねて平安をいただきます。そして今は北朝鮮の危機を回避して最悪の進路に進まないように祈るばかりです。

聖歌 582番(新聖歌397番) 「神の御子にますイエス」 
メロディは「アニー・ローリー」です。
@ 神の御子にますイエスのために
   罪を敵として立つは誰ぞ
   (くり返し)全てを捨てて従いまつらん
         わが全てにます王なる主イエスよ

A 富の楽しみと地の位に
  目もくれずイエスに付くは誰ぞ

IMG_4531.jpgB 罪にとらわれし魂をば
  イエスに連れきたる勇士は誰ぞ


C わが持てる物は主よ汝(な)が物
  きよきみいくさに 用い給え
 

posted by 優子 at 13:30| 家の教会 | 更新情報をチェックする