2017年06月25日

ブルンナー読書会I ―教会の基礎と存在―

これは6月24日の『ブルンナー読書会』の記録である。
これを書き終えようとした15時、東牧師召天の連絡が入った。その後まもなく千里ニュータウン教会に電話し、代務牧師より詳細をお聞きし関係者に電話する。


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『聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」。
今月の司会役は下村さん。讃美歌354番、聖書はマタイによる福音書16章13節〜19節、18章18節〜20節を拝読され、お祈りされた。(知子は欠席)

マタイによる福音書16章13節〜19節:
16:13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
16:14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉(よみ)の力もそれに打ち勝つことはない。
16:19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

マタイによる福音書18章18節〜20節:
18:18 よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。
18:19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
18:20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

IMG_6036.jpg「黄泉(よみ)の力」とは死が支配しているところであるが、この力にも滅びないのがキリスト教会であり、その根拠は「ただ動かされることのない根底に立っているから」で、教会の存在を信じることとは、「イエス・キリストの存在の力であり根拠でありたもうお方を信じることを意味する」。

漁夫であるカペナウムのペテロに、神ご自身がイエスの秘密を開示し、彼をして最初のキリスト信者、最初のキリスト告白者とされた。そして、ペテロを教会のいしずえとして、この告白の上に教会は建てられた。

「あなたはペテロである。そして、わたし(イエス・キリスト)はこの岩の上にわたしの教会を建てよう」。

イエスがペテロを「ケファ」と呼んでいたが、それは「岩」の意味であり、ローマ教会はペテロという岩の上に立っていると直接読んだ。

ペテロが初代ローマ法王(教皇)になった。
ローマ・カトリックにおいて法王は無謬性の権威になり、ローマ教会がこの主のみことばを教皇制度と結びつけたことは、悲劇的な誤解だった。

「この誤解の上に、ローマ・カトリック教会は建てられているのであり、それはローマのカイザル的帝国主義とキリスト教会の混合体であります」。

その後の後継者にも絶対に間違うわけがないという考えを付与していったのであるが、カトリックの宗教的権力と世俗的権力と、その中にまた不遜な権力組織があり、ヨーロッパではこの3重構造で戦って来た。

しかし、聖書にはおよそそのような教えはなく、聖書の教えは正反対の「仕える」というものである。

使徒信条の「聖なる公同の教会(Kirche:キルシェ)」という言葉は、「教会を建てる」「教会に行く」というように礼拝を意味することであり、信仰の集団の意味もあり、主が用い、また主にならって使徒たちが用いたところの単純な言葉である「エクレシア」の意味から外れている。

ルターは『エクレシア』に帰るところとし、新約聖書をギリシャ語からドイツ語に翻訳した時に教会を『ゲマインデ(Gemeinde)』(交わり・共同体)とした。


その言葉を最もよく訳して定義すならば次のようになる。

@ 主イエス・キリストにある群れ(ゲマインデ)。
A 信仰によって主と結ばれている人々。
B 主と、ちょうど肢体が頭と結びつき、ぶどうの枝がその幹に連なっているような、いのちの交わり(レーベンスゲマインシャフト:Lebensgemeinschaft)における人々。
C 彼らの天的な主でいましたもうお方と結合されているゆえに、お互いに、一つ体の肢々のように、またぶどうの木の幹に連なる生ける枝々のように、結ばれ相互に依存しあうところの人々。

教会とは、建物とか法的機構、組織とか制度などのような第3人称的なもの(Etwas:エトバス?)ではなく、天的な主の人格を通して一つに結び合わされた人間の人格的結合以外の何ものでもない。

教会自身は、この信条が言うように、交わり(Gemeinschaft)であり、聖徒の交わりの群れ(Gemeinde)であり、つまり、神によってとらえられ神への奉仕へ召された人々の群れである。

信仰は決して外から与えられるものではなく彼ら自身のもの、信仰告白を心の中に得なければならない。

そして告白とは公的な責任の自覚であり、イエス・キリストについての証しが他者の中に信仰を呼び起こすところの務めを持つ存在なのであります。

誤解してはいけないのは、ペテロその人がいしずえではなくて、ペテロがイエスを何と考えるかということであり、ペテロその人がいしずえになると人間が権力を持つようになる

「あなたこそ、生けるキリストです」。
ここに初めて人間が認識し、確認し、告白したのであり、ここから教会が始まる。使徒としてのペテロの働きが教会の基礎である。

18章18節の「繋ぐ」、「解く」とは、天に入れられるか地に入れられるかの天と地の境であり、福音が宣べ伝えられた時が「鍵」である。

ゆえに和解の言葉によってイエス・キリストを救い主と信じるならば神殿に入り、キリストのゲマインデ(教会)の一枝になり、和解の言葉(福音)を押し退ける人は誰でも外に留まらねばならない。まさにここで宗教、世界観が変わる。

「あなたは自分のもつ力と知恵とを全て用いても、結局自分を破滅から救うことはできないものだということに気づくか、それともあなたはなおもあなた自身の幸福を自分で開拓していけると信じるのか」。

これは一人ひとりが神の前に立たせられているところの二者択一の決断である。

しかしまたそこから信仰は主観的なもの、内面的なものであるという傾向が出てきたが、ブルンナーは交わりの群れの中でキリスト者はあり得るのだと言っている。

「全てのものは、遅かれ早かれ過ぎ去りゆくものであります。
どのような国家も、どのような民族も、どのような文化も、文化的・芸術的作品も、それらおのおのの時を持っております。あるものは長く、あるものは短い時をもっております。私たちが、みな、もはや存在しなくなるような時があるように、それらも存在しなくなる時があるでしょう。

ところが、ただ一つのものは決して存在しなくなることはありません。それがイエス・キリストの交わりの群れ(ゲマインデ)であり、ペテロなる岩の上に建てられた教会であります。いわゆるカトリック教会とか改革派教会とかがそこで言われているのではありません

私たちはイエス・キリストに愛されており、そこから出発して交わりが始まり、イエス・キリストの愛に生かされる時、生の本来の意味が充足されるのです。

そしてこの交わりの群れ(ゲマインデ)は既に永遠のいのちの開始が与えられているのであり、永遠のいのちは、死滅することは不可能であり、完成の約束、永遠の約束を持っております」。

「神は全てを揺り動かされ、それによって私たちに何が真に存在するものであるかをお見せになる。神は、私たちの手から多くのものを奪い取り、それによって私たちを永遠に価値あるものを最後にとらえるべく、駆り立てられるのです」。

次回は7月15日(土)、ブルンナーの『使徒信条講解説教』11章の「裁きと赦し」。司会、聖書拝読、お祈りは良輔。

最終章の12章「われは復活なり」は4月に取り上げたので、このテキストは次回で終了する。そこで聖書研究会(当番制で担当者を決めて発表)がいいか、以前から希望していた『ブルンナー著作集』(教文館)の『第7巻・フラウミュンスター説教集T』を読みたいかお尋ねくださり、両方ともやりたくて決めかねたが後者をお願いした。

『ブルンナー著作集』の第7巻と8巻の『フラウミュンスター説教集T』と『U』は下村喜八さんが翻訳されたもので、下村さんから直接ご講義を拝聴できるのは望外の恵みである。

雨上がりの散歩で.jpgそしてその1回目は次女夫婦の帰国滞在中の8月12日にしていただくことになり、早速昨日のうちにワシントンに伝令したところマチ・クマ共に感謝メールが届いていた。

「ブルンナーの会、次回は帰国にあわせてくださるとのこと、嬉しいです。私も、ブルンナーの言葉に励まされることも多いので、学べるのが嬉しいです」。(真智子)

「ブルンナー読書会をまたご一緒できること、僕も嬉しいです」。(太志)
私も今から楽しみだ。

「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

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posted by 優子 at 15:30| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

2017年05月20日

ブルンナー読書会H ―我は聖霊を信ず―

5月中旬の二上山.jpg

2日前から夏日になり、今日は30度の真夏日になった。非常に強い陽ざしだが湿度が低いので爽やかである。

IMG_5127.jpg「我は聖霊を信ず」。

今日は「ブルンナー読書会」(リーダーは下村喜八さん:ドイツ文学、ブルンナー、シュナイダー、ゲーテ etc 研究者)、今月も知子は欠席した。

国際基督教大学(ICU)草創期に着任して大きな働きをしたのが、スイスのチューリッヒ大学を辞して着任したエーミル・ブルンナーである。

半年ぶりに「ブルンナー読書会」を再開した先月は、イースターにちなんで3章分を飛ばして最終章の「われは復活なり」の御講義をお願いし、今月は昨年10月の続きに戻って「9章 いかにして聖霊を受けるか」を学んだ。

今月は司会役を務めさせていただき、最初に讃美歌354番「かいぬし我が主よ」を讃美し、聖書拝読(ヨハネによる福音書14章15〜17節)、祈り、開会礼拝を捧げた。

読書会に入るといつものように、私たちが読んで分からなかったところを解説し感想に耳を傾けてくださった。
毎回思うことであるが、私たちのために講演(講義)してくださり、テーブルを囲んで拝聴できる恵みに感謝が溢れてならず、学びに入る時はいつも意識的に集中させねばならない。

テキストの『使徒信条講解説教』は、第2次世界大戦が始まった時のブルンナーの説教であり、スイス人は戦火を免れたいという祈りであった。

その祈りは正しいが、「そう祈ることによって決して救われはしない。地には戦争よりも悪いことがあり、それは国民の精神的退廃であります。・・・

神はしかし、繰り返し繰り返し事情を悪くいかせることによって、わたしたちをして何が尊いものであり、何が本当に重要であるかをはっきり教えたもうのであります。・・・

わたしたちの地上の生にとって常に最も重要であるところの祈りとは、神の聖霊を求める祈りなのです」。


コリント人への第2の手紙 3章16節〜18節(新共同訳):
「しかし、主の方に向き直れば、覆(おお)いは取り去られます。
ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて変えられていきます」。


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右の写真はブルンナーが使徒信条講解説教をしたチューリッヒのフラウミュンスター教会で、教会の中にシャガールのステンドグラスがあるという。

左の写真はブルンナーの墓で、「主の霊のあるところには自由がある」と書いてある。(ドイツ語で読んでいただき感激した)

生涯のモニュメントである墓にこの聖句が書いてあるのは、18節も含めて選んだのであろう。

ブルンナー曰く、
「祈りとは、自分の力でなしうることはことごとくやり遂げるという意志と関係をもつかぎりにおける約束なのである。・・・
           
わたしたちのなすべきことは非常に痛みに満ちたもの、抵抗を感じるもの、反発するようなものなのです。

成すべきこととは悔い改めることである。

悔い改めるとは先ず神と語ることを意味し、声を出して神と語ることです。神に心から自分自身の悲しみをうちあけること。・・・(自らの)不従順な心が暴露されるが、それをつまびらかに神に告げることであります。

悔い改めは必然的に罪の赦しと従順な心を求める祈りへと注ぎ出して行きます。

悔い改めることによってのみ神と出会うことができる。ちょうど握り拳の上には何の贈り物も置くことができないように、悔い改めない心には神もその愛を置きたもうことはできません。

悔い改める人のみが扉を見出し、扉を開ける。そして、道はそこを通って行き、この一本の道以外に山頂をきわめることはできない」。


罪の赦しこそが、神へ自由に近づくことができ、律法からの自由、罪、自己、死からの自由、そして、積極的な自由が与えられる。

ブルンナーは「聖霊における平和と喜び」こそ私たちがもたないといけないものであると述べている。「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」。(ロマ書14章17節)

この箇所は新共同訳のドイツ語訳聖書では「神の国は平和と喜び」と訳している。ルター訳聖書には「おける」であることから、ブルンナーはその関連の聖書からそのように語ったようである。

まず神との平和が回復されて人々との平和に及んでいくのである。

今日は心安く学びに集中し溢れる恵みをいただいた。それなのに感想を述べるのを忘れていたことを今思い出すとは情けない。それは次のようなことだ。

「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」という一休禅師の道歌を例にとれば、仏教では「仏」と呼び、キリスト教は「イエス・キリスト」と、それぞれ呼ぶ名前が違うだけで、人間が求めている "Something Great" は同じものという考え方がある。

また、近代になって宗教多元主義が起こり止揚(アウフヘーベン)する動きが進んでいるが、ブルンナーの説教から改めて「悔い改める人のみが扉を見出して扉を開け、道はそこを通って行き、この一本の道以外に山頂をきわめることはできない」ということを深く頷かされた。

そして、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。(ヨハネ14章6節)のみことばを味わい、道を見出し見出させてくださったことを深謝した。

IMG_5107.jpg「あなたは神にある喜びをもっておられますか。もしももっているなら、あなたは罪の赦しをもっているのです」。
アーメン(その通り)です。
私は神に罪赦されていることを再確認させていただいた。しかし「私たちは繰り返し神から離れ」る者ですから日々刻々に悔い改めて生かせてください! そして、

「神を心の中に持つ人は、他者のことを常に考える人であります。なぜなら、神を愛する人は、神の被造物と神の子たちをも愛するからです」。

今これを心に刻みながら書き終えて聞こえてくる言葉です。私の心をもっともっと広く開放していただきたいと願う。

次回は6月24日(土)、4名全員で集えますように。下村さんも祈ってくださっています。

1485064555.jpg附記:下村さんのお宅の門に植わっている大きなオガタマノキから、バナナが熟したような匂いが漂うそうだ。
日が当たると香るとお聞きして聖書に出てくるヒソプの花を思い浮かべた。ヒソプの花は折られた時に麗しい香りを発するという、傷つけられた時に・・・。
オガタマノキの英名は”Japanese Banana bush”とあった。花はコブシやモクレンよりも小さいそうだ。見たいな・・・いや、ひょっとしたら散歩中に見ているかも知れない。

posted by 優子 at 19:53| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

2017年04月22日

ブルンナー読書会G ―いかにして聖霊をうけるか―

「身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」。

IMG_4359.jpg昨秋から互いに日が合わず、今日ようやく半年ぶりに「ブルンナー読書会」を再開した。ただし知子は欠席。

お導きくださっている下村喜八さん(ドイツ文学者、京都府立大学名誉教授)は、先月京都外国語大学教授職を退官された。最終講義はゲーテを取り上げられたとのこと、タイトルもお聞きすればよかった。

「ブルンナー読書会」では『我は生ける神を信ず 使徒信条講解説教』(新教出版社)をテキストに学んでいる。使徒信条はキリスト教徒の基本信条であり教会で唱えられている。

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、
全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン」。


今回は先週迎えたイースターにちなんで3章分を飛ばして、最終章の「われは復活なり」の御講義をお願いした。
最初に讃美歌294番を讃美し、下村さんが祈り聖書を拝読された。

聖書、コロサイ人への手紙3章1節〜11節:
3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
3:6 これらのことのために、神の怒りが下るのである。
3:7 あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。
3:8 しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
3:9 互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
3:10 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
3:11 そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

IMG_4321.jpg以下は私のノートテイクゆえに正確さに欠けるかもしれないことをお断りしておきたい。

この本に収録されているのは、1939年9月、
第2次世界大戦が始まった時になされた説教で、死に取り巻かれていた時のものである。

キリスト者と言えども死に対する恐れと不安に脅かされており、正気を失ってしまっていた。「死んでも生きる」ということを信じているならば恐れや不安はないはずだ。

キリスト者の自己反省として此岸(しがん)的なこと、即ち、この世的な時代精神の影響に巻き込まれてきたからではないかとブルンナーは言う。

即ち、理性や悟性で理解することしか信じないという18世紀後半からの啓蒙主義の洗礼を受けた者には、信じたいが信じられないところがある。これが現代の此岸的な精神である。

聖書の言う「彼岸」とは、「此岸の世界へ永遠が侵入してくることを意味する」。黙示的出来事とは世界の終末の出来事であるが、今やますます自分中心、自国中心になってきた。フランスの選挙はヨーロッパが崩れる分かれ目かも知れない。

原始キリスト教団のキリスト者は、イエスは救い主であることを信じて疑わなかった。内村鑑三、矢内原忠雄、シュナイダーたちは、天に国籍を持っていたから抵抗できたのである。

「あなたはどのように生きたいか」と問えば、かつて家族制度があった時は、美田を残す、子孫繁栄させる・・・などが生きる目的であったが、今は名誉、財産、地位を求めていくのであろう。

ゲーテの人生目的は、ヒューマニズムの典型的考え方で、名誉、地位、財産を残すのではなく、持って生まれた才能を伸ばし、教養、人格形成を求めた。
ではキリスト者の目的は何かといえば、「キリストのようになる」ということである。


「かれキリストは、わたしたちすべてが沈んでいた死の虚無の中から永遠のいのちへわたしたちを呼び起こさんがために、神からわたしたちのもとに遣わされたのです」。

「永遠のいのち」というと限りがない時間的なことを考えるが、「完全な」「罪がない」「死なない」「満ち足りている」という意味を持っており、苦しみもない、死もない、「あっ、生きているな」という満ち足りた気持ちが考えられる。

聖書が語る信仰とは、キリストと出会って罪を知り、悔い改め、罪が赦されて希望が生まれた。そういうことが生起したのであり、キリストを信じるとは、キリストが約束されたものを受け取ることである。

「復活」には2つの意味がある。
「キリストと共に死に、キリストと共に甦る」。そして、「キリストと共に住む」という意味がある。

今回も深い内容だった。下村さんが「ここは重要なところです」と指摘された部分を私は読み流していたし、(P191終わり〜P192のところで)問題を提起され時間をたっぷりとってくださったのに、脳が動かず読解さえできなかった。頭が冴えている時に読み直したい。

私の心に刻まれたことは、ブルンナーがイエスの言おうとしておられることはこうだと語っているところだ。

「もしあなたが地上的ないのちを超えて、永遠に向かって目を上げないなら、わたしが誰であり、あなたがたに対して何を意味するものであり、わたしがあなたがたのためになしたこと、これからなそうとしていることを全然理解できないであろう。

キリストは決してこの世的に人間に幸福を与える存在でもなく、政治的なメシヤなる救世主でもない。

もしあなたがわたしを理解しようと欲するなら、どうしても地上的な時の次元を突き抜けて思いを高く永遠にまであげられなければならない。そうするならば、わたしがあなたがたに神の国を近づけ、あなたはわたしによって永遠のいのちに近づくことができるからである。そのことを欲しない者、その者はわたしとわたしの福音から手をひかなければならない」。


主イエスの御臨在のもとで勉強会を再開させてくださったことを感謝します。次回は主の御名によって妨げとなっている者を砕いてくださいますように。
1時間半の学びのあと同時間を割いて交わりの時をもてたことを感謝します。

IMG_4256.jpg次回は 5月20日(土)。
讃美歌 332番。
テキストは
「9章 いかにして聖霊を受けるか」。




posted by 優子 at 21:53| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

2016年10月15日

ブルンナー読書会F −生ける主―

「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」。

IMG_0631.jpg開会礼拝:讃美歌239番「さまよう人々」を一同で讃美し、司会役の下村喜八さんが聖書「コロサイ人への手紙3章1節〜11節」を拝読し、祈りを捧げられた。
3:1このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。
3:5だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
3:6これらのことのために、神の怒りが下るのである。
3:7あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。
3:8しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
3:9互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
3:10造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
3:11そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

最初に私たちがテキスト箇所の感想を述べ、続いて下村さんがお話された。以下は私のノートテイクより:

ブルンナーがこの説教を語られた1939年当時、罪もない子ども、市民、ユダヤ人が虐殺されていくナチスの時代の人々は、「神はいましたもうか」、「正義はすでに失われたか」、「全能にして愛なる神をまだ信じていることができるか」という問いを持っていた。

ラインホルト・シュナイダー.pngこれは現代も抱えている問題でもあり、ラインホルト・シュナイダー(右写真)の問題でもある。
「生命の畏敬」を著したシュヴァイツァーと対比して、シュナイダーは「苦悩への畏敬」と言った。
第一はキリストの十字架への苦悩である。私たちは苦しみの中で神に出会う、病も神と出会う場所であり神に至るパイプである。痛みに苦しみながら神に会い、上にあるものに目を向ける契機である。


下村喜八さんの著書.png我が家で開いてくださっている「ブルンナー読書会」の主宰者である下村喜八さんは、シュナイダーを日本に紹介され研究の第一人者で、エーミル・ブルンナー著作集を翻訳されたお一人でもある。

(今日の世界情勢を解釈しようとするとき、)「人類は『上にあるものに目をあげる』ことを全く忘却してきたという事実であります。
この時代のいわゆるノーマルな人間は、のものどころか、反対に徹底的にのもの、此岸のものに心を向けております。 (略)

キリスト教は貧しい者たちに彼岸のことばかり説教し、不正や此岸の悲惨から目をそらせて、搾取に由来するすべての不正に対する怒りを宗教的敬虔へと昇華させているといって、繰り返し繰り返し避難してきました」。

マルクスは「宗教は阿片だ」と言い、マルクス主義者や共産主義者は特にキリスト教を意識して言ったが、ブルンナーは、そういうことを言っている彼らこそがこの世のことに囚われていると言っている。

トマス・ホッブズは、『市民論』や『リヴァイアサン』での思考実験において、「万人の万人に対する戦い(闘い)」と言った。

「私たちは、世俗化したこの世的キリスト者なのです。・・・いったい私たちの間の幾人が、信仰と永遠のいのちの希望とが現実生活の喜びと力になっている、と主張できるかということである」。

ロマ書8章4節〜11節:
8:4これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
8:5なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
8:9しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
8:10もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
8:11もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。

「肉」とは、西洋の「心」と「体」の2分法のいうところの「体」ではなく、身も心も自分の方、この世を向いていたら「肉」であり、「この世に束縛されている事態」のことである。私たちは「肉」と「霊」の闘い。肉が滅んで霊に生かされ、上に目を上げて霊に生きるのか。

ガラテヤ人への手紙 5章16節〜23節:
5:16わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
5:19肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
5:20偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
5:21ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
5:22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 5:23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
5:24キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
5:25もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。

「私たち人間が転倒したいのちに生きるか、正しいいのちに生きるかということであります」。
ブルンナーが引用している「転倒したいのち」というのは、私の知り限りにおいてはパスカルの言葉で、シュナイダーやボンヘッファーも同じ言葉を使っている。

神は私たち人間を神の呼びかけに応える人格に創造されているのに、神が命の主になっているのではなく自分自身が命の主になっている。

知子が語った中で印象に残ったことは、「『もはや自己自身の意志によるのではなく、すべてを神から受け、神から見、神から意志し行為する』という生き方に変えられている」。

私は次のようなことを言葉足らずで語った。

現代の世界の状況は、「『まいたものは、刈りとらねばならぬ』。下にまいた人類は、下から生え出してきたものを刈りとらねばなりません。こうして私たちは、幾世紀・幾世代にわたってまいてきたものを刈りとっているのであります」ということに納得させられたこと。

私は本当にキリストと共に死んでいるのか。「私たちは、世俗化したこの世的キリスト者なの」だということを強く感じる。

これはその範疇にも入らない例であるが、「無神論者であることを公言しているカナダ合同教会(UCC)のグレタ・ボスパー牧師が」いて、牧師職にとどまることを欲している意味不明さ。

さらに驚くべきは彼女が牧会する教会の人たちが、彼女を支持する請願書の署名が1千以上に達しているという報告だ。まさにどこかの教会を彷彿させる奇怪な現象、何をか言わんやだ。

また、「死」について思いを馳せると、まともな牧師でさえ高齢になり世代交代の時にわが身の死を身近に感じて動揺するということ。否、それが人間の実相であり、その道程を経てこそ真実に至る人生の最大の仕事だと思う。

それに関連して、終末医療の先駆者で40数年にわたって終末期の何千人もの人々に寄り添い励まし、『死ぬ瞬間』を著したスイスの精神科医キューブラー・ロスは、脳梗塞に倒れて左半身麻痺になった晩年、豹変して神をののしったこと。
※ 2016.10.17追記:これについて、10/17の記事「人生、命、この重きもの」に補足。

あれだけ多くの経験があっても自らの時の助けにならなかったことを思い起こした。順境な時は神を忘れやすいお互いであるが、逆境の時にそれでは悲しすぎる。真剣に神を求め続けさせてくださるように、まずそのことを祈らねばならぬと思う。 

附記:操作ミスで書いていたものを消してしまったが、体力の限界。まとめられていないがこのまま記録しておきたい。

IMG_0632.jpg昨夜、夫は10時前に帰宅。知子は最終電車で午前12時15分頃に帰宅。

次回は、12月3日(土)。
讃美歌294番、
司会とお祈り:優子。




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2016年09月24日

ブルンナー読書会E −復活の確かさ―

今朝の二上山.jpg
今朝の二上山・雄岳
2階に上がる間に雲が広がって頂上が今にも隠れてしまいそう。

今日の読書会は夫不在(昨日は和倉温泉泊、今夜帰宅)のため3人で開催した。下村さんは「10月に2回してもいいですよ」と別の日も勧めてくださったが、良輔不在もまた「絶妙の時」と予定通り開催した。

夫は欠席だからと読まないままだったが、特にこの章は「イエスの奇跡や復活が信じられない」と言っている夫には、とても強く迫ってくる内容ゆえに、一昨日に読むように勧めて一言の感想を求めた。
しばらく2人で話し合う中で、夫は2〜3度に分けて次のように言った。

「神を信じたいのに信じられない。悔い改めたいのに悔い改められない。
今は『死んだら終わりや』とも思っていない。かつては少しは死の恐怖を持っていたが、今は元気にふつうの生活をしてるから死の恐怖ももっていない」。


「それは不思議やね、今は前よりも年を取っているのにね」と、すかさず私は言葉が突いて出た。

私は失望しないで夫の求道への目覚めを祈り、神に期待して夫の魂の道程を追っていきたいと思う。

今日は「7章 復活の確かさ」である。まず夫の感想を伝えてから私の感想を述べた。

このカテゴリでは、毎回テキストにある全ての文字を打ち込みたい衝動にかられ、理路整然と端的にまとめることができないのは私の能力によるところが大きいが、それだけではなくやはりそれほどに内容が深いのだ。

下村さんから教授されたことを簡略して文字に打ち始めたのだが、それでもブログの記事には長くなるので、私の新たなる発見や感銘を受けた箇所を打ち込むにとどめたいと思う。
ただし既に打ったものを削除するのは惜しいので、途中までだがそれだけでも文末に「附記」として添付しておくことにした。

ただ簡単に福音書の復活物語を信じるだけなら、信じるということはそれほど力にはならないでしょう。これらの人々の信仰は、ちょうど水上家屋の住民がこの国に住んでいたとか、地球とは丸いものだと信じるような信仰なのです。

このような復活信仰などはいくらあってもだめで、信仰者であっても不信仰者と同じように、生の不安に悩み、そしてまたあの出口なしの恐怖にかられ、生の場所を求めて、血なまぐさい貪欲なたたかいに巻き込まれるのです。

ここで下村さん曰く、「アウグスチヌスは『あなたはわたしたちを、 あなたに向かって創られたゆえに、 わたしたちの心はあなたのうちに憩うまで は安らぎを得ません。』と言い、パスカルも、『人の心には神によってしか満たされない空洞が空いていて、神以外の何ものをもってしてもそれを満たすことができない。神によってその空洞が満たされるとき、人は生きる』と言っている」と紹介された。

真の復活信仰とは、使徒の言葉を疑わずに信じるということから生まれるのではなく、人間がイエス・キリストをとおして神と和解するところから生まれるのです。この和解は単なる信仰ではなく、再び生まれることであり、新しいいのちなのです。

下村さんが読まれた聖句は、コリント人への第一の手紙 15章14節と17節。
「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」。

「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう」。


「この言葉が、ブルンナーの説教の根底にあるのであろうと思われる」。

あなたが信じられないというのは、神との和解がその前提として真剣に考えられていないからです。あなたは神を失っているということを、本当に真剣に悔い改めようとしているでしょうか。

神に対する確信、神との結合、イエス・キリストにおける神との平和などを確かにもってはいるが、永遠のいのちの確かさはもたない。なぜなら、わたしは、死後何があるか全然分からないし、それについて誰も確実なものを知っていないから

私(ブログ筆者)は、まさにこれと全く同じく、「天国は死んでみないとあるかないかわからない」と、堂々と礼拝の説教で発した牧師を目撃しており、この驚愕にもブルンナーは納得させてくれた。私はその方にブルンナーの言葉を続けよう。

ごらんなさい。あなたがそういうことを言っているかぎり、あなたは神と本当の和解を得てはいないのです。生けるキリストを体験していないのです。

受難日なしにイースターをもつことはできないし、イースターなしに受難日をもつことはできない。イースターなしに罪を赦すことはできない。(「ここが今日の眼目である」said 下村さん。)

イースターの確かさへ至る道は、神との和解を通っていきます。神との和解は、わたしたちと神との生ける結びつきを与えたもう復活者をとおして実現するのであります。

(その時)あなたは生の不安やそれから由来するすべてのことから解き放されます。その時、この世的な移ろい行く人生は、あなたにとって唯一絶対なものではなくなります。

本当の神との和解を持たないから、本当の平和を持っていない。つまり、本当の悔い改めを経験しなかったからであり、それとも、悔い改めと和解から脱落してしまっているからであります。
※ 8月半ばより生ける屍のように心が重く、脳と霊性が冴えないのはこのせいか・・・

そこから抜け出すためには、和解への沈潜、イエス・キリストの十字架のみもとへの帰還のみ! まさにそこにイースターの喜びと確かさとは、わたしたちすべてに備えられているのであります。 

愛する兄弟姉妹、そういうわけで、永遠のいのちが不確かなものだということは正しくないのです。
永遠のいのちを概念化することはできません(抽象的な言葉で説明することはできない)。しかし、そのことが、希望の確かさと喜びとを何らそこなうものではありません。

最後に知子が感想と共に証しした。
それをお聴きになった下村さんは次のように言われた。

「森有正は、『人間は、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っている。誰にも言えない苦しみや悩み、そこでしか神に会うことはできない』と言っています。まさに知子さんの恵みの時、カイロスの時だったのですね」。

※ 「カイロスの時」の意味はここをお読みください。

感謝!.jpgこれは下村さんの広大な庭(?)にある栗の木から落ちた栗の実。

昨日の散歩道で見た好物の栗。
今日2か所のスーパーで栗を探したが、どちらも少ししかなくて古そうだったので買わずにいたのだが、下村さんが今朝拾ったばかりの新鮮な栗を持ってきてくださったのだ! こんなにたくさん!!!

実りの秋・感謝!.jpg
photo by Yuki.
写真の撮り方、本当に上手やね。

私は根気がないので渋皮煮などやってみようとも思わないのをいいことに、いつものように栗を湯がいて半分に切ってスプーンでいただくのが我が家流。これも最高!
ありがとうございます! 明日の朝に湯がいて、朝、昼、晩と、感謝していただきます。

次回は、10月15日(土)、讃美歌は239番。
毎週でももちたい学びの時、今から楽しみです。何度も読んで新たなる気づきがあたえられますように。


附記:
この書に記されているブルンナーの説教は、1939年、第2次世界大戦が始まっており、ヨーロッパが殺戮の世界にあった。

今日の人間の精神的状況は「死に対する恐怖」と「希望喪失」であり、後者のほうがもっと暗黒だ。「もし生きることに何の意味もないなら、死にたいして恐れをもつはずは」ないのに、この矛盾する二つの感情を同居させている。

「死にたいする不安や、死によって何もかもなくなるということに対する深く秘められた絶望」は、どの時代にもあった「人間の根本感情」である。

不安とは「魂の狭隘(きょうあい:心が狭いこと)感」であり、「魂の場所喪失感」である。「ありかへの不安、出口を失うという恐怖と、そこからくる残虐さと愚かさとが人間をおそう」。

「私たちの不安は、神をもたずに生きているということから来ている。神に心を向けないこと、この神の喪失が―これこそ聖書の言う≪罪≫です―不安の根拠なのである」。

「この世界の不正だとか、科学的思惟から来る懐疑だとか、・・・いろいろの理由をあげて『わたしは信じられない』とあなたは言うのでしょう。そのとおりです。

しかしそれは、「自分自身の主であることをやめようとしないからです。・・・神に従わないという意志、つまり罪が、結局生の不安の究極の根底なのです」。

「バルトは、『信じやすさは生きた信仰ではない』と言っている。即ち、イエスを通して神と和解するという体験から出ていない。」said 下村さん。

「神と先ず和解した人間のみが、復活の使信を信じるのであり、そしてそれが生ける希望となるのです。希望喪失や死の不安は、神との関係の破れから出てきています」。

「ナチスの時代も経験しているラインホルト・シュナイダー(シュナイダーを日本に紹介したのが下村喜八さんである)も、『戦争を引き起こす根元から絶たないといけない。即ち、社会的困窮、倫理的苦悩、精神的苦痛を取り除けば平和への第一歩になる』と言っている」said 下村さん。


以上、113ページ途中まで。

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2016年08月20日

ブルンナー読書会D −絶望のキリスト―

「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり」

ひとり生えのユリA.jpg初めに知子の奏楽で讃美歌332番を讃美した。
私の心は上機嫌で「至福の時が始まった」と満面の笑みで歌った。そして、下村喜八さん(大学教授)が聖書を読み、祈りをささげられて読書会に入って行った。

ピリピ人への手紙2章6節〜8節:
「 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。

この章では、私たちの人生は死で終わるということを思い出させることから始まる。日本では死は穢れと思われており葬儀から帰ると塩で清め、また今でも死者が出た家の人は1年間神社に行ってはいけないという風習を行っている地域もある。

ところが、キリスト教世界で常に目前にもっている像が、「ほかに比類なくひとりの死者の像である」のはなぜか?!

十字架刑は「死をできる限り厳しいものとするために発明された最も残酷、最も痛苦の激しい刑」であり、「極悪の犯罪人のみに、しかも人々を恐れさせるために公衆の前で行われた」。その処刑の姿を身につけたりもする。

シュウメイギク.jpgこの章に「ゲーテが十字架像を避けた」と書いてあったのでゲーテについて質問したところ、とても興味深い話をしてくださった。

ゲーテは死を忌み嫌っていた。
ヨーロッパでは「メメントモリ」(汝の死を覚えよ)が芸術のモチーフにも用いられてきたが、ゲーテはこの言葉が嫌いで「生を覚えよ」というのがゲーテの標語であった。

親友のシラーが死んだ時も葬儀に出ず、シラーの妻・シュタイン夫人が死んだ時も出なかった。その時、ゲーテは死のショックで寝込んでしまったからだという。

日本は「自死の文化」と呼ばれてもいるが、諸行無常を感じ、輪廻転生を信じる日本人は死を自然に受け入れているのであろうか。

キリスト教では神の創造に始まり、キリストの死、復活、再臨、そして、神の国到来という直線的な歴史観があり、現世は来世への準備であると考える。

キリスト教がヨーロッパで盛んに信じられていた時は、生きることも死ぬこともキリストによって意味づけられていた。生きる目標も歴史の目標も定められていた。

ところがキリスト教を信じられなくなったヨーロッパ人は「無」に帰する人間、「無」や「死」について考えているが呻吟している状態である。

下村さんはゲーテについても深く研究されている。
「私たちは十字架の苦しみを忘れて生きているが、十字架ほど苦難にあっているものはない。歴史の中で粉々に砕かれている」。

私の感想は、イエスの絶望と絶望の死について考えさせられたこと。私はもっともっと自分に絶望したい、しなければならないと思ったこと。そして、親鸞を想起したことを話し、イエスがすべてのことを経験されたという意味が(ひょっとしたら)今回初めてわかったように思ったこと。

それゆえに、主イエスは私たちがどんなに悲惨であったとしても「愛の力で私たちをそこから引き出してくださる」ということが、初めてわかったと告白した。頭でではなく霊的に分かったので、これからは間違った悩み方はしないと思う。


人間は行を積み上げれば積み上げたで「できた」という思いに悩み、それが潜在意識の中にまで巣食っている罪であるが、親鸞は9歳で出家し、20年間もの年月を比叡山にこもり天台宗の厳しい修行を徹底的に重ねた。

しかし、「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と、自分は微塵の善もできないから地獄のほかに行き場がないと述懐した。

親鸞の真剣さとは比べようもない私だが、それでも凡人は凡人なりに自分の不徹底さに泣く。そして、クリスチャンになればクリスチャン道徳からくる欠点など、いつも自分を責めるものがあり、律法でいつも責められているというのが私たちの現実である。

しかしながら、これは完成しないところの霊と肉との闘いの中で生きているゆえに死ぬまで解放されることはなく、すべての思い煩いから解放されることも生きている間は無いのである。

「インドの宗教やユダヤ教の歴史は、驚くべき宗教的頂点達成の記録に満ちて」おり、それは例えば天台宗の千日回峰行もそうだ。

それら人間の考えだした宗教は高いところへよじ登っていく「登攀(とはん)の宗教」であり、人間は刻苦勉励し修行を積んで下から上へあがって行こうとする。

しかし「人間の魂は絶対的な高さまで登る」ことはできず、行きつくところはせいぜい自己義認である。その人間に語りかけてくださるのがキリストだ。

人間は自分の善行をもって神の御前に立つことは誰もできない。親鸞はそのことを鋭く感じて『歎異抄 』を著した。「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」も有名な言葉である。

ブルンナーは語る。
「神は恵みによって全く別の道を示したもうた。
『人間はどうしてもわたし(神)のもとまで上がってくることができないので、わたしが彼らのところにくだって行こう』と、神さまのほうから下降してくださった。

これこそ聖書の内容であり、イエス・キリストの福音であり、わたしたちへの神の道である。良い羊飼いはもはや自分から羊飼いを探し出せない失われた羊のところまで来たりたまうのです」。


以下はブルンナーの言葉を中心に私が理解した要諦を記したものである。

十字架の死がキリストの最大の苦しみではなく、神は彼を現実的に捨てたもうた。これこそが、救い主の十字架の最も根本的な苦しみであり、神から見放された状態、地獄の中で死を味わってくださった。

イエス・キリストは地獄にまで行きたもうた。地獄とは、神からもはや呼び戻しのできない底にまで落とされた状態であり、人間であって地獄を避けられるような者はひとりもない。人間の本当の終着点は地獄、つまり神からの放逐(ほうちく:追放の意)である。

あなたが罪の中にある時、道連れとして神を、あなたの罪の呪いから引き離し、罪の負い目から解放する神を必要としているのです。

そのためにこそ、イエス・キリストは地獄にまで来たりたもうた。それはわたしたちをそこから引き出すためである。

なぜなら、神のみ業の全てにおいて、その究極目的とは、わたしたちを引き出し、神に導き、神に結びつけ、神と和解させ、神の霊によって満たすことであるからです。

彼は、わたしたちの代わりに、罪の重荷を負ってくださった。それによってわたしたちは、何の重荷もない者のように、神のみもとにいくことができるのです!

救いの絶対性と確実性。
神が我らの救いの源泉であり又その創始者であり給う以上、我らの救いは磐石の如くに確実である、この神との親しき結合がある以上、如何なる反対も恐るるに足らない。我らの救いはかくも確実である。

ひとり生えのユリ@.jpg夫はキリストが十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)という言葉を発したのかわからないと疑問点を述べたが、今こうして思い出しながら書いていると、そこが最重要箇所でもあった。

下村喜八さん曰く、
「これは単に見捨てられたというのではなく、神への祈りがある。祈りながら死んでいかれたのである。これは人間が経験するところの最も深みまで経験してくださったということであり、神が人となることの極みであった。即ち、これが神に見捨てられるという神なき世界に入るということだ。

地獄は火が燃えているなど、そのような神話的な表象は排除して、本当の意味で地獄とは神のいない世界であり、人間の望みの全くないところである。『神曲』を書いたダンテも地獄は希望のないところ、絶望の場所として描いている」。


そして、夫が発した疑問にブルンナーは次のように答えている。(P102)

「もし私たちが不安に襲われ、私は地獄の中だ、絶望だ、神は全く私をお見捨てになられ、何の望みもない、すべて終わった、と思うようなとき、そのときこそ目をあげて、十字架の上から『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ぶ声を聞くべきであり、そして彼がこの地獄の中で私の傍らにいましたもうことを、そして神が私のそばにいたもうゆえに、もはや地獄は存在しないのだということを知るべきであります。神は私と共にいたもう。それゆえもはや絶望ではないのです。

このように神は全てを成し遂げたまいました。それゆえ、この世界の中には彼の経験したまわなかった何ものも、どのような暗黒も、また彼が立ち寄りたまわなかったどのような場所も存在しないのです。すべてをただ一つのこと、すなわち罪をのぞいて」


(P104)「そのさまはあたかも心痛めた妻が土曜日の夜遅く酒場に、もうけた賃金全部を飲んでしまう夫を訪ねていくのに似ています」。

「イエスさまは、夫が飲まずにはいられない辛さ、暗さにまで苦しみを共にするところまで降りてきてくだり、人間の問題性の底まで来られた。

これまでイエスを人間化する試みが続けられてきた。しかし、イエスが間違いを犯すとまですると、もはやキリスト教ではなくなる!」

次回は、9月24日(土)、司会者は優子。
@ 讃美歌 354番 A 聖書拝読 B 開会の祈り

今日も至福の時間を与えてくださったことを神に感謝します。すぐに過ぎゆく時を魂に刻み付けて。

附記:親鸞について、過去ログ・「親鸞は聖書を読んでいた!?」で佐古純一郎の説を紹介している。

夏の風景B.jpg
夏の輝き!

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2016年08月01日

ブルンナー読書会C ―ポンテオ・ピラトのもとに― 次女夫婦も共に6人で開催

「使徒信条」はプロテスタント、カトリックともにキリスト教の基本信条であり、教会では毎週の礼拝で、あるいは月一度、または特別礼拝で皆で唱える。

「ブルンナー読書会」では、エーミル・ブルンナーの「使徒信条講解説教」を通して信仰の基本を学ぶ。少人数での非常に贅沢な学びの場である。

     使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、
三日目に死人の内よりよみがえり、
天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン

ブルンナー読書会A.jpg

7月30日の第4回読書会は、その前夜に帰国した次女夫婦(右の二人)も参加した。

ブルンナー読書会@.jpg初めに真智子の奏楽で讃美歌512番を讃美し、知子のお祈りで始まった。

今回は「5.ポンテオ・ピラトのもとに」、使徒信条の中に一人だけ世俗の人物、歴史に属する名前が登場する箇所である。

ピラトはローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督であり、神の国となんの関係があるのか。イエスの敵対者であり、真理の問題を避けて傍観者として立っている。

ブルンナーはイエスとピラトの関わり、主イエスと国家との関係を考えることは重要な意味を持っていると言っている。

人々は「自分は王(神)である」と言うイエスを処刑しようとしているのだが、イエスは「世俗の王ではない」という意味を込めている。神の国はこの世のものではない。真実のものを証しするために来ているのだという立場である。

ピラトはイエスの良心をつかもうとして「真理とは何か」とイエスに尋ねるが、自分の立場やローマの法律から判断すると罪はないと判断する。

ところが、ユダヤ人の宗教的熱狂に合うと心が揺れて危うくなって保身し、イエスを鞭打たせて兵卒に渡した。王だと言っているイエスに茨の冠をかぶせ、服は王の服(ロイヤルパープル色。地中海の骨貝から作られる赤と紫の中間色は高貴な色とされている)を着せて茶化した。

★ロマ書13章1節〜7節参照

国家は自発的に正義を収めることができない。ブルンナーは不正な権力(国家)も神が摂理において用いる神の道具であると言っている。

歴史は神の支配するところの摂理であるという考え方と、ボンヘッファーのように歴史は人間がつくるものであるという考え方がある。 

★ヨハネの黙示録 13章1節〜10節参照

ルターは神の国とこの世の国の二つ(二王国論)を考え、この世のことは神の国に入るための準備であるからこの世に甘んじ、愛敵、非暴力で生きる。

ブルンナーはイエスの愛敵の教えとは別に世俗的固有の秩序を重んじ、防衛力を持つという考え方である。山上の教えは個人においてはあてはまるが、国家においては無防備のままではいけないと。

これに対してシュナイダーの平和論は「殉教の平和論」「殉教を覚悟した平和論」と呼ばれている。

ローマ帝国が神の御業の「道具」になるということ。
「キリストと共に、キリストのために生きる道は、決して喜びから喜びへ続く散歩道ではない」。


私が特に感じ入ったところはP83。
「神の愛が私たちを支配し、善意のみが私たちにあるなら、強制力をもった国家の法的秩序などは必要なかったでしょう。法的強制は、私たちの罪のゆえに必要なのです。

(この事実を傍観的に考えないでいただきたい。)

犠牲を引き受けることがどんなに困難であるかということ・・・もし国家が税金を強制的に徴収しなかったら、貧困者や失業者や小学校にたいする配慮は失われてしまうでありましょう。

私たちキリスト者さえ、国家に強制されなければ、果たすべき義務を果たさないというくせがついているのです。・・・

革命とは国家権力と同じ根拠、すなわち、人間が自発的に犠牲を払うことができないという事実から生まれてくるのです」。


今回は実に重いテーマだった。
「病気、死、失敗、不運など、あらゆる人にふりかかる苦難だけではなく、迫害や孤独などキリスト者ゆえの苦しみ。そして、他者の苦しみをおのが苦しみとして生きる」という、そのような苦しみを私は、私たちは生きているだろうか。自問自答が続く。

感謝の時.jpgコーヒータイムでは日本経済について尋ねられ、IMFのエコノミストの見解やEU離脱にも触れて会話が弾み、下村さんから戦後ドイツのことや移民の現状などを聞かせていただき、有意義で楽しい交わりを神に感謝した。

次回は8月27日。後日8月20日に変更された。
「6.絶望のキリスト」、次の学びも待ち遠しい。

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2016年06月25日

ブルンナー読書会B − 神は人となりたもうた−

「ブルンナーを読む会」は、エーミル・ブルンナーの『我は生ける神を信ず 使徒信条講解説教』をテキストに読んでいる。毎月第3土曜日に決めていたが、今月は第3土曜日がクリスチャンペンクラブの例会ということで今日の開催となった。先週の例会は久保田暁一先生の告別式になってしまったが・・・

1週間延期されただけでも下村喜八さんとの再会は何と懐かしく感じたことであろうか。信仰の友との交わりと、その時を心から神さまに感謝した。
しかも、ブルンナー、シュナイダー、ゲーテ・・・などを研究されてきた大学教授から直接教えていただくとは身に余る光栄だ。下村さんもこの時を喜んでくださっている。感謝!

今日は讃美歌312番を讃美し、ガラテヤ人への手紙3章10節〜14節を輪読。下村さんのお祈りにより学びを始めた。

今日のテキストの箇所は「4.神は人となりたもうた」で、最初に下村さんが考えられたことをお話くださり、私たちも感想や考えを述べ合った。
私がこの章でしっかり心に刻めたことは―

▼ クリスマスは受難日とイースターとペンテコステとに結合されていること。救い主が人間になりたもうたことは、十字架においてはじめて完成された。

▼ 「この神の自己犠牲の行為によって敢えて神の愛を信じ、同時にわたしたちの罪の大きさに目を注ぎ、しかしそれにもかかわらずそれによってもはや絶望しないならば、実際生起する」ということ。

この事実を私たちが信じないで忘れてしまうから
、「アバ、父よ」と呼ぶことができないで、陰気な顔をし、顔は光を失い、心は温かさを失ってしまうということ。


ブルンナーは人間の理性では理解できないことは極力避けて、理性で理解しようとする。ダーウィニズム(生物学の進化の概念、自然選択説・適者生存の考え)も受け入れ、それらも神の創造の中に含まれているという考え方だという。

信仰を賜った者はキリストに合わされ繋がされているのであるが、神の臨在を感じてそれを実感することがある。最近は「家の礼拝」中にたびたび感じ、先週は知子が祈って居る時に喜びの涙が溢れ号泣してしまった。

そのことをお話した時、それを「天国の前味(まえあじ)」や「天国の前経験」と言うことを教えていただいた。とてもわかりやすく「天国」を説明するのに良い表現だと思った。天国は死んでから行く所ではないということを!

つまり、その時すでに地上に居ながら天国に在るのであり、永遠が始まっているということなのだと共感し合った。


ヨーロッパの文学には「永遠」について出てくるが、高木久雄著『随想集』の「<諸行無常>ということ」(配布していただく)から問題提起され、我々は日本古来の世界観、「諸行無常」の人生観に深く根ざしてはいないかと話し合った。

無常とは「常が無い」ということで一瞬たりとも同じ状態を留めることは出来ないという意味だが、因みに「無常観」とは無常として世界を観るという意味であり、「無常感」は無常として人間を感じること。

知子は無常を感じないと言ったが、私は両親を天に送ってから特に強く感じるようになった。それには年齢的なものが多分にあると思われるが、日本の精神風土の影響を強く受けていると思っている。
無常感を強く感じる時は気持ちが沈み、その場に立ち尽くしているように感じる。「無常感との霊的葛藤」「続・無常感との霊的葛藤」にも記している。

これを書きながら北森嘉蔵が「無常」について書いていたことが脳裡に浮かんだ。

「人間がはかなく無常であるというのは、神の怒りによるのだと聖書では驚くべきことを書いている。即ち、神という人格と、人間という人格との関係が破れたこと」を意味すると。

「怒り」の "Zorn"(名詞:ツォルン)は "Zer"(ツェール)から出た。"Zer"とは粉々に、あるいは、ずたずたに引き裂く、分裂するなどに使う接頭語で、例えば、

コップを割る "brechen"(ブレッヘン) → 粉々に割る "zerbrechen"(ツェールブレッヘン)
紙を裂く   "reiBen" (ライセン)  → ずたずたに引き裂く "zerreiBen"(ツェールライセン)

"Zorn"「怒り」とは、人格と人格との関係が引き裂かれること、人格的な事柄の分裂することで、感情論の「怒り」ではない。

つまり、無常なものになることによって、人間の無常を解釈するというのがキリスト教の救いの考え方である。伝統的に言えば、神が人間になるということ。永遠なる神が無常な存在として人間になった。
 
         (『日本人と聖書』 教文館)

泰然自若として死を迎えた釈迦と、絶望の叫びを叫んで死んだキリスト。イエス・キリスト(神)は憂いを通ってくださり、私たちのように憂いを持ち、死ぬべき人間として暗黒の世界に突入してくださった。そして、死を克服して復活が現実となったのである。 
         
夫は「時が満ちる」とはどういうことかを尋ねていた。すごいことだと思う。互いに出会いと親しみを深めながら人生を分かち合う喜び。楽しい。嬉しい。地上にある最高の喜び。神に感謝、感謝!

来月の第4回「ブルンナー読書会」は7月30日、最終土曜日に開催予定。閉会のお祈りは知子。今日は最後に、讃美歌「神ともにいまして」1節を歌って別れた。

kasa3.gif

私たちの読書会中はユキも学習する時間に決めて廊下の机でやっていたのだが、一つ終わっては表に丸を付けに来て、徐々にお邪魔虫になりかけていた。

今日のサッカーは校区の中学校の運動場でする予定になっていたが、今朝は雨が上がっていたもののグラウンドの状態が悪いので中止になった。明日は小学校で予定されている。 

トノサマガエルだよ!.jpg
トノサマガエルを捕ってきた! 見て

そして、夕方に逃がしてあげたよ。カエル君、元気でね。
カエル君、元気でね。.jpg
去年はチャッピーも一緒に来ていたのにね。
諸行無常。
だからこそ今を思いっきり生きるんだよね!

↓ これはユキが撮ったよ。上手ね〜〜。
ユキ作.jpg 
今日は雨がパラつく肌寒い一日だった。
明日は晴れの予報。になればいいね!


posted by 優子 at 22:43| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

2016年05月21日

ブルンナー読書会A −もろもろの国びとの光−

ひまわりの二葉.jpg先月24日の初回に続いて今日第2回目の『ブルンナー読書会』を持った。
この会はキリスト教の良書を読もうと集まった4名だけの小さな読書会である。神さまが私たちの小さな集いをも用いてくださるならばとの思いで今回からお分かちしたい。

導き手になってくださっているのは京都外大のドイツ語学科教授・下村喜八氏で、遠方にも関わらず私宅へお出でくださり、私たち夫婦と長女だけの読書会である。
このような場に夫は「場違いだろう」と思うが、まじめに読んでいるし発言もする(笑)神さまに集められた大切な一員である。

下村さんは教授であられるだけに、私はつい「先生」とお呼びしたくなるが、イエスさまを介しての友ゆえに神の家族として親しくお交わりさせていただいている。

氏は「(日)ドイツ文学・思想(英)German literature and thought」を研究されているのでキリスト教についても専門領域であり、ブルンナーの『フラウミュンスター説教集』(教文館)も翻訳されている専門家である。

そのお方から直々にご講義を拝聴でき、我が家で開いてくださるとは思いもせず、この恵みを神さまに感謝するばかりである。

読書会のテキストはエーミル・ブルンナーの『我は生ける神を信ず 使徒信条講解説教』で、毎回2章ずつ読み進めていくつもりだったが、各章があまりに深い内容なので今日2回目から1章ずつ読み進めることになった。

最初に讃美歌を歌い、聖書を読み、祈ってから始める。
今日は『讃美歌21』の579番「主を仰ぎみれば」、聖書(新共同訳)はイザヤ書49章5節から9節の2行目までを輪読、祈り(優子)で始め、読書会に入って行った。

今回はテキストの「3章 もろもろの国びとの光」で、最初にイザヤ書についてプリントを配布して説明してくださった。

紀元前587年、バビロニア帝国に滅ぼされた南ユダのバビロン捕囚は約半世紀続いたが、第2イザヤは「バビロン捕囚からの解放は『新しい出エジプト』として語られ、それが第2イザヤの使信の中核になっている」ことや、世界史を俯瞰するような視座があり、「最も深い宗教的視点から、政治をはじめ人間の歴史と現実を見すえているということができる」。

また、イザヤ書53章の「苦難の僕」に代表されるイザヤ書後半に出てくる「主の僕(しもべ)の詩」について。

「主の僕」とは第2イザヤなのか、イスラエルそのものなのか、あるいはイエス・キリストの先取りなのかという3説あることや、「僕」の意味は世界を見すえていることが関わってくることを教わった。

以下は感想を分かち合った時に出た記憶しておきたいメモである。
▼ ブルンナーの「宣教の神学」

▼ 「完璧な勝利は勝利にあらず」。
 敗戦国の誇りを徹底的に打ちのめしてしまうと、敗戦国にナショナリズムが台頭し再び戦争に至るのではないか。

▼ 第2次世界大戦後のドイツは全て反ナチの人が首相になって導いた。

▼ 今、世界中にナショナリズムが台頭しているが、ラインホルト・シュナイダーはナショナリズムが起こるのは、経済的、社会的、道徳的苦悩をさせると戦争が起こると言っている。

グローバルな時代になって価値の相対化が起こると自分を支えるものを求めるため、古いものに返っていく「精神の先祖返り」を呈しナショナリズムが勃興する。

▼ ファナティック(fanatic:熱狂者、狂信者)にならないで霊的になる

▼ 「大切にすれば大切になる」(池波正太郎の言葉)

私はブルンナーを読みながら癒され、傷ついた座標軸が修復されていくような感じがしている。地震の如き大きな衝撃により傷を負った体が癒され修復されていくような。

今開く日日草.jpg冒頭の写真はひまわりのフタバで、これは今まさに花開かんとする日日草だ。
「ブルンナー読書会」のフタバが出て、この花のような小さな光が灯ったような気がする。

「光はひろがっていくという性質を持っております。キリストと共に生きる者は、単に光を持つばかりでなく、光となるのであります。たとえそれが他者に対してほんの慎ましやかなろうそくの灯のようなものであったとしましても」。
(ブルンナー) 

附記: 親しい友が5月初めにこんな励ましメールを送ってくださっている。
私も読んでみようかな?と思って調べていたらアマゾンに翻訳者の方が次のようなメッセージを添えていました。

「本書が重版されるのは、キリスト教学校で学ぶ若い世代の人々のテキストとして用いられるためであることを知らされました。

この本を手にするみなさんの中には、キリスト教についてはじめて接する人びともおられることでしょう。そしてあるいはむつかしいと感じられるかも知れません。

しかしみなさんにお願いしたいことは、努力して自分で読み、また先生や友人と話し合って、理解を深めて頂きたいということです。

というのは、この本の中で取り扱われている使徒信条は、二千年もの間人間を新しく生かし、弱い者を強くし、悲しむ者に喜びを与え、絶望していた者に希望を与えてきたものだからです…

ブルンナー先生は、人間にそれを与えようとした人です。これはチューリッヒの教会での説教ですが、説教とは人間の中にその確かなものを打ち込む行為なのです。

この確かなものは最初は何か異質なものと感じられることでしょう。たとえていえばそれは真珠貝の体内にいれられた砂粒のようであります。それを吐き出したくなるでしょうが、吐き出したらあの美しい真珠は出来ません。

そうではなくそれを体内にいだきつづけ、それと格闘していくとき、それを中心としてあのすばらしい真珠が出来ていくのです。もしそれを吐き出したら、真珠貝はやがて無価値な貝殻を残して死んでいくだけなのです。
1980年3月5日 大木英夫 」


真珠貝の例えがすばらしいですね。体内に抱き続け格闘していくときに真珠を生み出すことができる・・・
優子さんはすばらしい先生と一緒に学べて幸せですよ。
すべてを神さまが導いてくださいますように。
感謝!
posted by 優子 at 22:56| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

2016年04月27日

ブルンナー読書会開始 

2016年6月25日追記:4月24日(日)の午後、我が家で第1回目の「ブルンナーを読む会」がスタートした。追記日よりカテゴリ「ブルンナー読書会」を設置。

信仰の友であり、ブルンナーの研究者であられる京都外国語大学の教授が道案内してくださることになった。読書会のテキストはエーミル・ブルンナーの『我は生ける神を信ず 使徒信条講解説教』で、第一回目は第1章「創造者なる神」と2章の「全能の父」を学んだ。

風邪がいつまでもスッキリせずグズグズしている。その間に新緑の初夏を迎え、小学校では先週に初めての参観日があり、続いて家庭訪問期間に入ってユキも昨日終わった。

家庭訪問期間中の今週初め、早く帰宅するユキと一緒に郵便局へ行き、私たちのファミリー礼拝で集まった4月分の献金を「国境なき医師団日本」に送金した。ユキにとっては実に内容豊かな社会学習だと思う。

スイトピー@.jpg
初めて見た咲いているスイトピー。

「24日(日)、藤本ファミリーの主日の上に豊かな主のお恵みを祈るのみです。桜花散り緑の季節にファミリーの歩みを祈りて」と、祈りの友がFAXの最後に記してくださっていた。感謝!

「ふたりまたは三人が、わたし(イエス・キリスト)の名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
        (マタイによる福音書18章20節)

このたびエーミル・ブルンナーを読む機会を与えられ、ブルンナーがICU(国際基督教大学)開学当時から3年間日本に滞在したと知って、ICUの御出身である恩師の川上先生(クリスチャン・ペンクラブの副理事長)にお話しした。

ブルンナーは、バルト、ブルトマン共に当時世界三大神学者の一人といわれていた人物で、何と川上先生はブルンナーから直接学び、交わりがあられたというからブルンナーを知る人物の貴重なエピソードでもある。

「ぼくは3期生だったので、ありがたいことに先生の講義や講演を聞いたり、お宅を訪問したり、その学識とお人柄にすっかり魅せられました。ICUキャンパス内の自宅に、何回か伺いました。ICUでは、教授宅でのオ−プンハウスが毎週あったのです。

ブルンナー先生は日本に来られるちょっと前、息子さんをたしか交通事故で失いました。フィアンセの方が先生の身の回りの世話に来日。フィアンセの方は素敵な女性で、すっかり魅せられました。ここで学んだ人生への姿勢は忘れられません」。


青年期の輝かしき出会い。非常に心を打った。

書物に寄ればブルンナーの神学は学問のための神学ではなく、宣教するための神学であるという。「目に見える教会」と「隠れた教会」。ブルンナーは日本の無教会活動を高く評価し、「隠れた教会」である無教会活動にエクレシア(教会)を見たという。

今の私自身の信仰を確認させられ強められている。神へのとことんの信頼を改めて魂に刻みたい。

「神の前に自らを開いた時に私の中で神が生起され、創造が再び回復されるということ」。そして、「どのような人間の愚かさも神喪失も創造のみ業を成し遂げたもう神を妨げることはできないということ」。

文化・教育水準は高いが八百万の神を信じる民族の寛容さ(?)ゆえにか、清濁併せ呑むことが成熟の証しであるとされる日本社会は、精神的な危うさも内在させている。それがブルンナーのいう日本人の「精神的・宗教的な真空」だと思った。まずはブルンナーのシルエットをつかみたい。

ついでながら川上先生はドイツ語を小塩節(おしお・たかし)先生に学ばれた。小塩節と言えばNHKでドイツ語を教えていた著名な人だ。小塩氏がマールブルグ大学で研修中、恩師はアメリカ留学の帰りに立ちより、楽しく語られたこともあるそうだ。

私のような人間には何という憧れだろう。
何も著名な人に会ったことを言っているのではなくて、若い頃に一生懸命学ばれたことと、その主体的生き方ゆえの行動力に目を細めるのだ。
それは1963年のことであり、遠い過去のことになればなるほど、きっと御自身の中で宝石のようにキラキラ輝いていることだろう。


それにしても若い頃に一生懸命学ばなかった者は生涯の損失だ。正しく言えば、豊かな環境を与えられていながら学ばなかった者は情けない。受け身でしかなかった30歳までの自らの生き方を嘆く。

スイトピーA.jpg中年期に入ってからは神と出会ってユニークな歩みへと導かれ展開していったが、老年期に入った今はどうだろうか。体調のせいもあろうが正直のところ実に心もとない。
30代、40代のような熱心さで神と共に歩みたい。もう一度、命を燃やしたい。

posted by 優子 at 21:59| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする