2017年07月31日

『種を蒔く』4号よりC −それでも希望を失わず ―東日本大震災6年目に思うこと―−  

それでも希望を失わず

     ―東日本大震災6年目に思うこと―         

      藤本 優子


「イェッしゃま(イエスさま)、きのうじしんがおこりました。もうおきないようにしてください。かじになって、いえもたおれて、みんな、ながれていきました。たすけてください」。

当時3歳9ヶ月だった孫は、東日本大震災後しばらくのあいだ同じ祈りを捧げていた。あれから6年過ぎて絶望感は深まるばかりである。原発事故で破局的事態になっても、為政者たちは方向転換せずに原発を再稼働させた。彼らはもう一度経験しないとわからないのだろうか。

015年にノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチは、昨年11月末に福島県を視察して言った。「チェルノブイリと同じく、国は人の命に全責任を負わない」と。

しかし、日本は旧ソ連よりももっと冷酷で恐ろしい。当初チェルノブイリでは、住むことも生産することも禁止されていた(年間)5ミリシーベルト以上の汚染レベルに、日本政府は百万人規模の住民を居住させており、国民の命を最優先しない。

あの時、政府は真実を隠し、「直ちに健康被害が出ることはない」と当時の内閣官房長官・枝野氏は録音テープのように繰り返した。一体いつの時代の知識であのようなことを言ったのであろうか。この時から始まった政府への不信感は募るばかりで、6年経った今も混迷を深め続けている。

農業や漁業に従事する人々の努力にも関わらず福島産の需要は伸びないというが、これは風評被害ではなく放射能なのだ。もっと正確に言えば、「政府の言論統制と嘘による知られざる核戦争」であると物理学者・矢ヶ崎克馬氏が訴えている。

この非常事態ゆえに、今からでも政府は方向転換して、人権を第一にして再建していくべきだ。私たちは何を第一とすべきか、全ての人に価値観が問われているのである。

放射能汚染時代にあっては自分さえよければよい、自分の家族さえ安全な食ベ物ならばよいということはあり得ない。平和や異常気象の問題もそうだ。全てが世界的規模で関連しているのであり、ブルンナーが言うとおり、今や「安全な場所などどこにもなく、私たちは隠れ場のない野原の中を行くように、どんなことが起ころうとも、それに身をさらさねばならない」時代である。

また、アレクシエービッチが、「日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がない」と言ったことも心に刺さった。私自身の中にも同じものがあると常々感じているからだ。

例えば原発再稼働や改憲に多くの人々が反対の声を上げ、私も小さい声ながら反対を叫び署名を集めつつも、傲慢で権力をふるう政治家たちを見ていると、「反対してもしょうがない」と何度も諦めそうになり、そんな自分を嫌悪することしきりだった。

被災者たちが世界の人々に感銘を与えた規律正しさや辛抱強さは、日本人の誇るべきことだ。しかしまた、私たちはあまりにも主体性に欠けてはいないだろうか。

然界も傷み続けている。ミサイルが落ちた海の中も大きく破壊されていることを思うと我慢ならない。空の鳥や海の生物は苦痛を訴えることもできずに苦しみ死んでいく。世界は深い闇に覆われ、視界ゼロメートルの常態になってしまった。

私は年を取れば取るほど自分のどうしようもない弱さや人間の罪深さがわかるようになった。それゆえに誰に祈ればよいかを知らされていることがありがたくて、そのことの感謝から祈り始めるようになった。

万物を創り全てを支配されているまことの神を知り、そのお方と交わる術を与えられて、日々刻々感謝し、また悔い改めることができるとは何たる恵みであろう。

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせてくださった」。

(ペテロの第1の手紙1章3節)


これこそがイースターの使信であり、私はこの言葉を心から神の応答として受け止めることができるようになった。これはこんな時代でも生きていけるように、神さまが全ての人々に与えてくださっている希望である。だから絶望しそうになっても絶望しない。

あの悲惨な被災地で、多くの被災者がイエス・キリストへの信仰を持ち、受洗の恵みに与られていることが報告されている。どうか一人でも多くの人が復活のキリストに希望をつないで生きていくことができますように。

春の風はやさしく肌を撫で、小鳥のさえずりが心を癒す。花々や小さな生き物たち、そして、子どもたちの未来を奪ってはならない。
posted by 優子 at 11:53| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年07月14日

森鷗外 『鎚一下』 −日本クリスチャンペンクラブ・関西ブロック例会−

IMG_6369.jpg明日でJCPの6月例会が終わって1か月になる。書記を仰せつかってから10年ほどになるが、これまでどんなに遅くなっても1週間以内に報告書を作成していたのに、このたびは今頃になってようやく先月の「学び」を復習することになった。

というのは例会の1週間後に東牧師が召天されたことや、井置利男牧師に恵贈していただいた本を読んでいたので、学びの内容を省略した報告書を作成して提出していたが、ようやく今、森鷗外の『鎚一下』を資料共に読み直したところである。

私はこれまで『鎚一下』(ついいっか)という作品名さえ知らなかったが、講演の冒頭で大田正紀先生が語られたことが興味を感じさせる導入となった。

「森鷗外は日本の中ではキリスト教会から一番遠い人だと聞いていたが変わってきた。
鷗外の三男の類(るい)は受洗していないがクリスチャンとして認めてはいいのではないか。杏奴(あんぬ:後妻・志げの間に生まれた次女)はカトリックの洗礼を受けている。

鴎外が晩年にキリスト教に近いものを書いた。それが『鎚一下』で、モデルが本間先生という日本人であることと、ヨーロッパで出会ったキリスト教を軸にして書かれた珍しい本である」。

その時代背景は幸徳秋水に代表される大逆事件が起こり、国家権力を握った人間は秩序を少しでも乱そうとする者は全て検挙していき、勝手に人を死刑にし、考えられぬ残虐な汚名を着せられて殺されていった。

『鎚一下』は、鷗外が明治の末年に「かのやうに」「吃逆(しゃっくり)」「藤棚」「鎚一下」の4作の短編を『かのように』にまとめて出版したものであるが、「 鎚一下」は他の3作品と趣が違っている。

鷗外はこの作品で、「無信仰だが宗教の必要性だけは認める」という穏健な思想の持ち主たちのおかげでドイツは治まっているということを、主人公・秀麿の口を通して語っている。

深井智朗は著書『19世紀のドイツ・プロテスタンティズム −ヴィルヘルム帝政期における神学の社会的機能についての研究−』で、「鷗外は今まで誰もが気がつかなかったような視点でキリスト教を見ていたのであり、日本の神学者でも気づいていないことを知っていた人物である」と述べている。

ドイツの強みはとりわけルター派神学(新教神学)、すなわち「リベラル・ナショナリズム」であり「プロテスタンティズムの神学」に基づいているという結論を鴎外は導き出した。

そして日本の世情が非常に不穏になってきた若者たちに、ドイツには政府だけではなく教会もあるのだと、「社会における宗教の役割を肯定できる人が重要なのであり、それが近代人であり、実はそこにこそドイツの強みがある」と訴えている。

鷗外は、近代ドイツの教養ある人々はすでに信仰は失っているが、制度としての宗教が政治的な役割を果たしているという矛盾も見落としていなかった。

さらに日本においては、果たしてこのような立場は可能かと問題提起し、今から100年以上も前の1912年に小説の手法で論じていたことは驚くべきことだと思った。

以上、貧しい理解力と稚拙なまとめではあるが、これを下知識として『鎚一下』を読んでいただくと鷗外の熱いものを感じていただけると思う。
分かりやすい短編なので是非お読みください!

📖 ブログの書き方がリニューアルされてリンクの埋め込み法がわからないので、ここhttp://books.salterrae.net/tuyuzora/html/OUGAI025.htmlをクリックしてください。

IMG_6373.jpg附記:今朝早く、知子とユキは一泊二日の旅行に出た。かけがえのない我が子とのプレシャスな時を過ごすために。
担任の先生もよく理解してくださり快諾してくださった。今日予定していた算数のテストも、「小数点は得意やから5分でできた!」と昨日一人だけ済ませてきたが「ほんまかいな」😃 
帰宅は明日の夜。
私たちもまた明日はプレシャスな時、『ブルンナー読書会』である。感謝!
posted by 優子 at 08:24| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年07月12日

『自分史 予科練から牧師へ −わが生涯(90年)の証し―』(後編)

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これが私たちがお出会いした頃の井置牧師だ。

2005年(79歳)〜2010年(84歳)の単身赴任の東大阪キリスト教会時代である。このご奉仕を最後に84歳で牧師を引退されて埼玉県のご自宅へ戻られ、再び「日本バプテスト浦和キリスト教会」へ教籍を置かれた。

IMG_6305.jpg御本には私に洗礼を授けてくださった小山恒雄牧師のことにも触れておられ、私は実父のことのように懐かしく胸を熱くして読んだ。小山先生は井置先生より3歳年下で、1929年に福島県会津若松市に誕生され、2008年5月に召天された。
神学校の級先輩お手紙に2級先輩と書いておられるとおり、両者の年譜から2年が正しいに小山恒雄という友人がいた。東北人特有の粘り強さとその真摯な人柄は誰からも尊敬され、成績も優秀な人だった。

卒業後は兵庫県の山奥にある丹波地方の小さな教会に赴任し、苦労していると聞いていたが、その小山先輩が、あるひヒョッコリとぼくを訪ねてきてくれたことがあった。
         (略)

小川に沿って歩きながら、ぼくは教会のこと、牧師のこと、神学校の舎監のことなどを、小山先輩に打ち明けた。まるで溜まりに溜まったものを吐き出すように喋った。

小山さんは、度の強いメガネをときどき指先であげながら、じっとぼくの話を聞きつづけてくれた。そんなぼくたちは、いつしか、先の大戦で戦死した人たちを記念する碑の側に座っていた。

そして、どちらからともなく、2人で讃美して歌った。(讃美歌213番)・・・ぼくのために祈ってくれている小山先輩の声を聞いているうちに、やがて涙も乾き、晩秋の風が心地よかった。

※ 今週からブログの編集方法が大々的にリニューアルされたためにやり方がわからなくて、次の引用詩も二つの囲みになってしまっていますが一連の詩としてお読みください。
いろいろ試行錯誤してもわからなくて現在シーサーサポートさんに問い合わせ、やり取り中です。

キキョウまもなく開く.jpgとても印象的だったのは井置牧師のご家族への情愛だ。
「いとしい妻」に見る夫像、またお子達への詩(下記)に溢れている優しい父親像。円満な家庭をも実現され、子から孫へ、そして2015年には「ヒジジ」になって曾孫さんにも愛を注いでおられる。

「生後25日」 御長女・路(みち)さんへの詩:
路よ/お前に「路」と名付けしは/ゆえなきことにあらず/お前の父と母が/ひたすらに歩んできた/イエスへの路を/お前も歩んでくれることを/ひとえに願いしゆえなり/
路ちゃんの/顔/まあるい顔/路ちゃんの/目/まあるい目/路ちゃんの/口/まあるい口/
親バカの父は/みんなに/笑われても/まあるい/心で/まあるい/路ちゃんを/ニコニコ/だっこしています
路ちゃんが/泣いている/どうしたんだろう/路ちゃんが/くしゃみした/どうしたんだろう/路ちゃんが/ウンチ出ない/どうしたんだろう/わかい父と母は/額を集めては/ただ/オロオロするばかり

「ゆう」ちゃん 御長男・豊さんへの詩:

いつの頃からか/あなたは/「ゆう」ちゃんと/呼んで/「ゆう」ちゃんは/みんなから/「お父さんに似ている」と言われます/そうかも知れません 

もしかしたら/顔だけではなく/性質も/似ているのかもしれません/小心なところや/涙もろいところは/ウリ二つです/だから「ゆう」ちゃんにも/イエスさまへの/信仰が必要なのです

ある日/あなたは/「お父さんはぼくに/牧師になって/ほしかったのでしょう」/と言いました / でも/そんなことはありません

神さまは/それぞれを/良く知っておられて/それぞれが/もっとも活かされる/そんな道を/歩いてくれることを/望んでおられるからです
それに/牧師というのは/神さまからの/「お召し」が必要なのです

2度の聖地旅行ではイランとイラクが交戦状態に入る前だったため、旧約聖書の宝庫であるウルや旧コリントなど多くの遺跡を訪ねておられ、近年の状況を想うと今後も2度と企画されることのない旅行だと思った。何よりも多くの遺跡は破壊されてしまって存在しない。

井置牧師は「この超後期高齢者となったぼくに、どんな奉仕を献げることが出来るだろうか。ただ『お客さま』のように無為に過ごしているだけでは不本意なのである」と、周囲からのご依頼に応えてご奉仕されている。

IMG_6330.jpg不思議なる御手による井置牧師との出会い。
2006年7月の井置牧師からの問い合わせと同年10月の読書交歓会は、翌2007年7月の驚愕すべき憤りと悲しみの出来事に悶える私のために、神さまが打たれた布石であり神の先回りの恩寵であった。

このことは、神を求める人には常に神のまなざしが注がれていることのお証しである。そのことを忘れないで希みをもって最期まで励まねばならないと思う。



posted by 優子 at 17:42| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年07月08日

『自分史 予科練から牧師へ −わが生涯(90年)の証し―』(前編)

IMG_6178.jpg7月1日に井置利男牧師からご恵贈にあずかった『自分史 予科練から牧師へ −わが生涯(90年)の証し―』は、312ページから成る人間味あふれる自分史で、昨2016年のクリスマスに発刊された。私は読みかけている本を中断して一気呵成に拝読した。

表紙画はガリラヤ湖とペトロ召命教会で、「使徒ペトロ(ペテロ)がイエスに声をかけられて弟子となった所と伝えられている。ガリラヤ湖畔に接して建てられた小さな会堂だが、純朴なペトロを偲ばせる教会である」。

今日の午後、食料の買い出しに出かけている時に井置先生からお電話をいただき、知子がしばらくお話し、お写真のブログ掲載許可をお伝えくださった。

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表紙を開いて現在の井置牧師と再会。

IMG_6180.jpg幼少年時代、後期少年時代、そして、1943年〜45年の17歳から19歳の海軍時代と続く。

「地上での作業中に敵グラマンF6戦闘機の機銃掃射をうけ、ハッキリと敵搭乗員の顔を見た」ことや、予科練特攻要因からの挫折と敗戦による魂の流浪時代。

そしてその4年後、仕事帰りに「わたしは日本の捕虜だった」と大きく書かれたキリスト教講演会のポスターに目が留まった。
「1942年4月18日に、東京を始めとする、日本の五大都市を爆撃したアメリカのドウーリットル戦略爆撃隊の一員」と紹介されていた。
井置青年は講師が敵国人だったことに驚き講演会会場へ行かれた。

かつての敵国人は「この戦争が終わったら、自分の抱いていたこの復讐心を、愛の心へと変えていったこの聖書を、日本人たちにも伝えたい」と。

しかし、戦地から復員して3年の井置青年は、「わたしは日本の元海軍パイロットだった。しかし、敗戦となってわたしは生きる意味と目的を見失っています・・・・」と、「自分の課題」を講師の通訳氏に吐き出して喋った。

その後、日本基督教団・西脇教会へ導かれて同年のクリスマスに受洗、翌年元旦礼拝で「献身への召命」を受けるが、クリスチャンになった「おおかたの人たちが経験するように、ぼくは努力すればするほど実行できない自分。・・偽善的な自分の姿に目覚めはじめ」、私たちの家庭集会でお話しくださった苦悶。

「ところが、その主イエスの愛と赦しを伝えるそのお言葉が、自己嫌悪に陥っていた自分にも注がれていることに」気づかれて、「滂沱として流れてくる頬の涙を押さえきれず、教会の祈祷室で書き綴ったのが現在の『ああ主の瞳』の第2節の歌詞だった。

1節と3節はあとで全体の体裁を整えるために書き加えた」。
 
その後、新作讃美歌募集を知り梅田神学生に見せて推敲して応募された。4節は当時の讃美歌学会の第一人者で詩人、作詞や外国の讃美歌翻訳者の由木康氏が書き加えられたものである。

それが1950年11月末のことで、その翌年に神戸の塩屋にある関西聖書神学校に進学されたのである。


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共に1926年生まれの同年齢のお二人。

「ああ主の瞳」が発表された1952年頃、作曲者・高田早穂美先生は「自分の罪意識に苦しんで、絶望感に襲われていた」時にこの作品に出会って、「ああこれは、わたしの為の詩だ・・・」と深く感動されて作曲されたという。
(讃美歌・243番、新生讃美歌・486番、讃美歌21・197番に収録されている。)

人さまから、「井置さんの”ああ主の瞳”と言われることがある。しかし、この「ああ主の瞳」は、すでに神に献げられた神の所有であって、梅田のものでも、由木のものでも高田のものでもないのである。ましてや井置のものではない。「神さまのもの」である。
だから「井置さんの・・・」と褒められたら、「いいえ、神さまのものです!」と言い切って、一切の栄光を神に帰すべきである。まさに「誇る者は主を誇る」べきなのである。

附記 著書より:
「予科練」とは「海軍飛行予科練習生」の略称で、太平洋戦争以前に旧日本海軍が戦闘機搭乗員を養成する目的でつくった制度で、志願してきた14歳から17歳までの優秀な少年達を戦場に送り出し、凡そ2万人が戦死し、そのうち特攻隊員として2800余人が散華した。

posted by 優子 at 21:51| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年07月06日

「ああ主のひとみ」作詞者・井置利男牧師との出会い −私の「信仰の母」T姉のお手紙より―

キキョウ.jpg『種を蒔く』4号をお読みくださった「信仰の母」と敬愛しているT姉がお手紙をくださった。

そのお言葉を通して今までもそうであったように信仰から信仰へと導かれる思いである。


「こんな立派な深い証し集、−(略)−どなたの文章も奥が深く、私には学ばせて頂くことばかりで、まったく感動し、敬服いたしております。

        (略)

久保田先生の『人間味溢るる生涯』に心打たれました。皆さんが『わたしの久保田先生』『わたしの久保田先生』と自然に滲み出た文から、それだけ先生が一人一人の方と誠心誠意、心温かく向きあって下さっていたんだなあと、感うたれましたです」。


そして、久保田先生の愛誦句が「私の霊に響いた」と書いてくださっている。


「わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」。

                 (第2テモテ 4章6節〜7節)


「私も来月(即ち7月)で91歳になります。外なるものは誰でも確実に衰えていきますが、内なる霊はいよいよ、ますます永遠なるものを思慕してやみません。


私も久保田先生のように、自分に与えられた『はせば』を立派に走り抜いて、栄光の聖前(みまえ)に帰らせて頂きたく希ってやみません。ほんとうに『生かされて生きる命』であるとあらためて拝受させて頂きましたです」。


また、

「大田正紀氏の『信仰の継承』は系統立てて奥が深く、その中で『ぼくは子ども達に何を伝えたかときかれたら『聖書に聞き続ける人間でありたい』という姿勢ぐらいしかありません。』と、この謙虚な父親像に心うたれました」。(後略)


今も私たち家族のことを祈ってくださっているT先生は、私の証しを読まれて我が子の成長を喜ぶ母親のように次のように書いてくださっている。


優子さんの「ああ主のひとみ」井置先生との出会いが一番、私の霊に響きましたです。
          (略)
神ご自身でいまし給う救い主イエス様が、ああ、こんなどうしようもない私のような者とでも、いつでも共にいて下さるのだとの貴重な信仰体験、臨在体験、聖霊体験をなされましたこと、ほんとうにほんとうに貴重なことでした。

主キリスト様が優子さんと共にいて下さるのだから、もう大丈夫だと。辛い辛い所を通られましたけれども、知子ちゃんのことも、ぼくのこともお委ねして祈っておればいいのだと私も再出発させて頂きました。

「ああ主のひとみ」 神様が優子さんに見せて下さった愛の証しですが、一番私が恵まれた人だと感涙にむせびましたです。優子さん、ほんとうに有難うございました。

優子さん、貴重な証し文集、密度の濃い貴重な御本をゆっくり拝読させて頂いて、ほんとうに有難うございました。私にとりまして、貴重な再出発の時となりました。

『汝 年進みて老いたれど、とるべき地の残れるもの、はなはだ多し』。(ヨシュア記13章1節)

私も「種を蒔く」で、年寄り面(づら)するな、とイエス様に言われて再出発させて頂きました。ほんとうに有難うございました。

「一番私が恵まれた人だと感涙にむせびましたです」。

私もそこまで深く感じ入りたいのに感じ入ることができないもどかしさ。


実は6月20日の夜9時38分頃だったと思う、この喜びでお電話をかけてきてくださった。私は入浴中で知子がしばらくお話していたが、こんなに遅い電話に驚いたことだった。そして翌21日に手紙を書いて投函してくださった。


IMG_6248.jpg「幸悠」の「幸」は、知子がT先生のお名前(幸子)の一字をいただいて命名したのである。

集合写真を撮る時、T先生は私の手をとって手をつないでくださった。


主よ、どうかT先生の信仰を私たちを通してユキに継承させてくださいますように、これからも多くの方々の助けにより私たちの信仰生涯をお導きください。


特別集会に来てくださったY姉(7月4日掲載写真の前列右から2人目)は昨年12月に主のもとに召天されたと記されていた。


もう一度お目にかかりたかった。Y姉もまた敬愛する大好きなおひとりだった。T先生と同じく砕かれた魂の祈りをされ、プログラムにあるように集会でもお二人に祈りを捧げていただいた。

受洗後は牧師の説教と皆さんのお祈りにより(お祈りを聴かせていただくことにおいても)豊かに養われてきた。


Y姉が讃美歌を歌う時はいつも讃美歌を目の前に掲げて歌っておられ、いつもそのお姿を見るのが好きだった。私もまったく同じ姿勢で歌っているのはY姉の影響があるのかもしれない。


そして今ようやく気づかされたのは、一生に1冊の書を書きたいならば、もう一度神の御前で静まって、神さまがこれまでしてきてくださった数え切れない恵みを思い起こして、「一番私が恵まれたと感涙する」ほどに魂を整えられなければ書けるわけがない。


こうして具体的なチャレンジが示され、私もまた今より再出発させていただこう。

2017.7.5 朝.jpg
昨朝の二上山(雄岳)。山がいくつもあるように見える。

当地では大した雨も降らず今朝から晴れているが、福岡県と大分県が記録的な豪雨に見舞われ大雨特別警報が続いており、安否不明が22名に達している。

風と風がぶつかって線状降水帯が現われて強雨をもたらしたという。心が痛む。ただただ祈らせていただくしかない。

                   (つづく)

posted by 優子 at 16:50| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年07月05日

「ああ主のひとみ」作詞者・井置利男牧師との出会い −家庭集会の記録―

IMG_6258.jpg私は何事も新しいことに着手するのが苦手ゆえに、デジカメを使い始めたのは2009年4月からだったので集合写真は知子に撮ってもらったのみ。

井置牧師をお招きした特別集会のプログラムを今ここに記録しておきたい。


IMG_6262.jpgこれはO姉が作って下さったものである。

12月はクリスチャンにとっては特に多忙な月であり過去ログにも次のように記録している。

「Huさんは前夜も帰宅されてからプログラムの訂正がないかを電話で聞いて下さって、それから印刷にかかって下さった」。

奏楽(知子)と司会者(優子)を入れるのを忘れていた。この右のページには聖句が印刷されている。

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これが表紙の裏。
IMG_6266.jpg

このほか私は4曲の讃美歌と聖句を印刷し全6ページ。当日、Hu姉がカウンターで表紙に挟んでセットしてくださっていた光景を昨日のことのように思い出す。


そして、千里さんは交わりの時のケーキを焼いてきてくださった。

「ケーキは一口大のオレンジケーキですが12時頃(多忙な千里さんは夜に作って下さった)に焼き上がりましたよ。

お皿を使わなくてもいいように考えて持って行きます。一口なのでフォークもいらないかな。

録音機も忘れないようにしなくっちゃ。主に感謝しつつ。

知子ちゃんとユキ君に会えるのを楽しみにしています」。


今更ながらお二人の存在なくしては成らなかったことであり、神さまが家庭集会「オリーブの会」をこんなにも祝福してくださり、井置牧師のメッセージを直にお聴きできたことは神の御臨在を物語っている。


A5AAA5EAA1BCA5D6A4CEB2F1-af3c0-thumbnail2.jpgこの写真には写っておられないが、愛餐会(昼食)の前に退席されたHa姉(しまい)から今日感謝のお電話をいただいた。


実はお返事がなかったので寝込んでおられるのだろうかと心配していたら、何と2か月間もお嬢様がおられるベルギーへ行っておられ、7月に入って帰国されたばかりだという。


留守中の郵送物の中から一番先に開いてくださり、読み終えたが「お手紙を書いていたらまた遅くなるので」とお電話くださった。今も変わらず勢いある明るいお話しぶりは梅雨空を押しのけてしまうほどのエネルギーだ。

「本当に送ってくださりありがとうございました」と、Ha姉のお声が今も耳に残っている。感謝!

                           (つづく)

posted by 優子 at 16:24| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年07月04日

『種を蒔く』4号よりB −「ああ主のひとみ」作詞者・井置利男牧師との出会い― (井置牧師と初めて出会った読書会の写真初公開)

文末の写真は本誌にも掲載したが、他の1枚はブログ掲載時に挿入したものである。


     「ああ主のひとみ」
       作詞者・井置利男牧師との出会い                          
                    藤本 優子

2007年9月のある日、私は「コリント人への手紙13章」を一字一句心に刻みながらブログに打ち込んでいた。打ち終えた時、目の前にある言葉が目に入った。「愛すること 赦すこと―平和を求めて―」。日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の2007年度の執筆テーマだった。
締め切りが迫っているのに全く書けなかった。人を赦すことができない私が書けるわけがない。ひと月前の出来事で打ちのめされていたからだ。

しかし主は私を伴われた。
私は本棚から何気なく『愛について』を取り出した。1993年にJCPから発行された『あかし新書 第18篇』である。たまたま開いた所が高橋和子さんの「愛の眼ざし」だった。

「讃美歌『ああ主のひとみ』243番。私は此の讃美歌を歌う時、イエスの深い愛の痛みに咽(むせ)び、終(しま)いまで歌う事ができなくなる。作詞者、井置利男氏は、昭和26年神学生であった」。

井置? 
ここまで読んだ時、珍しい名前、聞き覚えのある名前だと思った。と同時に去年お知り合いになった井置牧師のことを思い出した。確か下の名前も「利男」だったのではと頂戴した名刺を確かめた。やはり字も同じ井置利男だった。

井置牧師のお歳は知らないが、昭和二十六年に神学生だったとすれば、年恰好も一致する。次に讃美歌を開いて見た。確かに作詩は "Toshio Ioki" になっている。まさか!

その前年の2006年7月13日、東大阪市花園図書館の館長さんから電話が入った。「今年の読書会機関紙『かわちの』を読まれた方が、藤本優子さんに連絡を取ってほしい」とのことだった。
「東大阪読書友の会」の事務局は花園図書館とし、会報には役員名しか記載されていないため図書館経由で連絡が入ることになっている。

その夕方、民生委員の用事を終えて帰宅後すぐに電話した。井置牧師はその年の春、埼玉から移って来られたばかりで、読書会会場である大阪商業大学が何処にあるかもご存じなかった。

そんな馴染のない時から地域に働きかけて、教会を「こども文庫」や書道教室に場所を提供され、「明日がその第1日目です」と意欲的に活動されていた。そのお世話をしてくださる方が読書会メンバーで、「朝日ピープル」記者のNさんだというのも驚きだった。

IMG_6231.jpgその年の10月、花園図書館で開催した豊中の「とよ読書会」との読書交歓会に井置牧師をお誘いした。折しもその時のテキストは山本周五郎の『日本婦道記』で、大田正紀先生を講師にお迎えしていた。
(井置利男牧師は後ろの男性、前列左は大田正紀先生、右は筆者)

さっそく大田先生に牧師をご紹介させていただいたが、そのとき私は井置牧師が讃美歌『ああ主のひとみ』の作詞者だったとは知る由もなかった。

2007年9月、井置牧師が讃美歌の作詞者であるのかどうか、私は居ても立ってもおられず直ぐに日本バプテスト連盟・東大阪キリスト教会へ電話した。

やっぱりそうだった! 
作詞された井置利男牧師その人だった! 

井置牧師は私に洗礼を授けて下さった故小山恒雄牧師と関西聖書神学校で同窓だっただけではなく、かつてJCPに入っておられた時に湯河原での夏期学校に参加されたこと、『あかし新書』の第3篇に寄稿されていることをお話しくださった。

私は18篇に収録されている高橋和子さんのお証しを朗読した。牧師は静かに聴いておられた。読み終えた後も黙しておられた。

「先生、私は今もまだ相も変わらずの愚かな者です。特にこのたびはどうしても立ち上がれなくて・・・」と、自然に口に出ていた。
すると、先生はなんと仰ったか! 
「素晴しいですね。そのように生きておられるのですから」。

「いえ、30代ならばともかく、私はもう55歳なんです。先生は、あんなにお若い時に変えられて、私は相変わらず全く神さまがわかっていないのです。だから何度も愚行を繰り返してしまうのです」。

私はどうしても神さまのことがわかりたいという一念で、師に食いさがってお聞きした。すると、「みんな一緒ですよ。大丈夫ですよ。私たちは罪赦された罪人なんですから。どうぞ、あまりご自分をお責めになりませんように。どんなクリスチャンもみんな完成に向かう『工事中』の人間ですから」。

実に穏やかな口調で言われ、師の表情まで伝わってくるようであった。その時、「優子、さあ、立ち上がりなさい」と、井置牧師の唇をとおしてイエスさまが語ってくださったように感じ、私は差し伸べられたイエスさまの手を握りしめた。

その時の私は最も身近な者に言葉を尽くしても伝わらない悲しみや悔しさがあったが、それら全てのことをイエス・キリストが知ってくださっているのだからもういい。私はイエスの御手にすがって導かれることを選んだ。

そして、「ああ主のひとみ」誕生のいきさつをお話ししていただきたいと申し出ると、「証しさせてください」と、当時我が家で開いていた家庭集会でお話しくださることになった。

神さまはこんなにも有名な讃美歌を作詞された牧師と出会わせてくださった。いやそのこと以上に、ここに至るまでの一切の出来事の絶妙さに神さまの見えざる御手を感じ、イエスさまの眼差しはずっと私にも向けられていたことをわからせてくださったのである。

讃美歌243番は、同志社女子中学校に入学して以来直ぐに覚えた愛唱歌の一曲であり、大人になってから何度も慰められ力づけられてきた讃美歌だ。

   1 ああ主のひとみ、まなざしよ。
     きよきみまえを 去りゆきし
     富める若人(わこうど) 見つめつつ、
     嘆くはたれぞ 主ならずや。

   2 ああ主のひとみ、まなざしよ、
     三たびわが主を いなみたる
     よわきペテロを かえりみて、
     ゆるすはたれぞ、主ならずや。

   3 ああ主のひとみ、まなざしよ、
     うたがいまどう トマスにも、
     み傷しめして  「信ぜよ」と、
     宣(の)らすはたれぞ、主ならずや。

   4 きのうもきょうも かわりなく、
     血しおしたたる み手をのべ、
     「友よ、かえれ」と まねきつつ
     待てるはたれぞ、主ならずや。
                 アーメン

井置牧師は第二次世界大戦で海軍のパイロットとして、国家存亡の為という目的で尽くされたが、敗戦の虚脱状態で生きる目的を失い、心も荒れ果てて教会へと導かれた。1949(昭和24)年22歳のことであった。

以下は、2007年12月15日の家庭集会で語ってくださった井置牧師のお証しであり、今から66年前に「ああ主のひとみ」が生まれたいきさつである。ここに感謝してお分かちさせていただきたい。

【井置牧師のメッセージ】
その敗戦の虚脱状態にあって自分は誰からも必要とされていないと思いました。人間にとってこれ以上の不幸はありません。
「こころよく 我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて 死なむと思ふ」
石川啄木がこの短歌に詠っているのがあの頃の心境でした。

そんな22歳の春のこと、ポスターを見て教会へ行きました。讃美歌312番を聞いた夜の感動を今も忘れずにいます。その集会後に、「人生の目的はなにか、人は何のために生きているのか」を矢継ぎ早に牧師に聞きました。

すると、「聖書を読みなさい。そして、教会に行くように」と、この二つのことを奨められました。その日から聖書を読み教会へ行く生活が始まりました。

そして、最初に私の心を捉えたのが「コリント人への第1の手紙13章」の言葉でした。ここは「愛の讃歌」と呼ばれる有名な箇所です。私が長い間求めていたのは「これだ!」と思いました。このように生きることこそ人間が本当に幸せになる道だと思いました。

「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」。

さて皆さんにお伺いしますが、このような本当の愛を持っておられる方がどのくらい居られるでしょうか。自分に本当の愛があるかないのかテストしてみる方法があります。

13章4節から7節のところは、本当の愛の性質が書かれているところですが、この「愛」のところに自分の名前を入れ替えて読んでみると、自分に愛があるかないかわかります。

「恨みをいだかない」の「いだかない」とはメモをしない、心のノートに記録しないということです。この本当の愛が無いということが聖書の言う「罪」ということです。私は本当の愛に生きることこそが人間の本当の幸せになる生き方だと思って、それに向かって歩き始めました。

しかし、「言うは易く行うは難し」です。頑張リズムの生活はいつまでも続けられません。やろうと思えば思うほどやれない自分、偽善的な自分に気づき(目覚め)始めていき、心の深い所で悩み始めていきました。

そして、聖書の期待を裏切るばかりの自分はクリスチャンになる資格はない、キリストの教会の恥さらしだと自分を責めるようになっていきました。

「罪を知っていながらキリストの赦しを信じられないのなら、それは絶望でしかない」と言ったキルケゴールの言葉そのままが当時の私の心境でした。神が招いて下さっているのに、教会へ行くということは苦しみを増幅することでしかありませんでした。

自分を責め続けていた年の秋の夕暮れのこと、頑張リズムの心で教会の祈祷会に出席するために道を急いでいました。

私の心は重く、あたかも屠所に引かれる羊のような気持ちでした。教会の庭にあった柿の実が夕日に映えて真っ赤に光っていたことをはっきり覚えています。遠くで鉄を打つ音が聞こえていました。

その時、ルカ伝22章の61節の言葉、「主は振り向いてペテロを見つめられた。」という言葉を不意打ちのように思い出しました。

自分の弱さのために一度ならず二度三度もイエスを裏切ったペテロ、このペテロの全ての罪を赦しておられるイエスさま。主の愛と赦しが告げられている言葉が私の心に蘇ってきたのであります。その時のイエスさまの眼差しは自分にも向けられていることを感じたのであります。

自己嫌悪の中でのた打ち回っている自分、もう自分を責めるのはやめろ! 全部赦されている、解放されているんだ! 赦されている者として、解放されている者として生きるんだというイエスの眼差しを感じました。そのことに感動して作詞したのが讃美歌243番でした。

その2節を見て下さい。私は勘違いしていました。私たちが信仰していく前に、神が私たちを愛されているということを告げられているということであります。

こんな者を寛容の愛で、情け深い愛で、どこまでも耐えて希望を持ち続けて下さる愛で愛して下さっている。キリストから愛されているということが告げられているところなのです。私たちはこの愛で誰も漏れなくキリストから愛されているというお互いであります。

先ほどの「愛」のところに「イエス・キリスト」を入れて読んで下さい。「イエス・キリストは寛容であり、イエス・キリストは情け深い。また、イエス・キリストは妬むことをしない・・・」。私たちはこの愛で愛されているお互いなのです。

キリスト教の信仰生活は、神の存在を云々することではありません。神の愛と背くらべをする生活でもありません。その愛に気づいていく生活、その愛に喜んでいく生活です。

「いつも喜んでいなさい、全てのことに感謝しなさい。」とありますように、神の愛に気づいていく時、喜ばざるをえない、感謝せざるをえないようになっていくのです。その生活の中で、私たちの中にも奇跡を起こしてくださるのです。そうです。自分を愛し、隣人を愛していく人に変えられていくのであります。

皆様の上に神さまの導きが豊かにありますように。
                       (完)

現在、井置牧師は日本バプテスト・浦和キリスト教会に出席されており、壮年会で活躍されている。

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前列中央・井置牧師、左端・筆者

この日、遠方からもうお一人(関西外大の助教授)お出でくださっていたが、同志社大学で学会があるからと愛餐会(昼食)の前に退席された。

抱かれている赤ん坊は、生後3ヶ月のユキだ。


この写真は、2006年10月、「とよ読書会」と読書交歓会の様子。内容は過去ログに記録している。


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井置先生の御姿が残っていないのは残念。この時、近隣の知人も参加してくださっていたが、この日は図書館の方に「何枚か撮っていただきたい」とだけお願いしたので、全体を撮っていただけなかった。


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読書会後、花園図書館屋上にて。
背後の山は生駒山。
前列右端は祈りの友・千里さん。Dさんと文中登場の「あさひピープル」記者のNさんもおられる。

                     (つづく)

       
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2017年06月29日

東 道男牧師 説教「心を満たす生き方」 −遺稿 『種を蒔く』4号より― 

   説教「心を満たす生き方」

聖書 マタイによる福音書6章25〜34節
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。

まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。

あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」


今日のメッセージの主題は「心を満たす生き方」ですが、先週説教準備にかかっている時にクリスチャン・ペンクラブの方から、立教大学の田中良彦先生の「太宰治と『聖書知識』という本を送って戴きました。

太宰は欝に苦しんでいたと思いますが、昭和11年10月、11月と強制的に脳病院に入れられ、自分を被害者の立場において、妻や自分を入院させた人たちを攻撃しています。

一種の自暴自棄状態に陥って、「一面の焼野原」をさすらう思いで悩んでいましたが、入院中は苦悩と孤独の中でバイブルだけを読んでいました。そして、キリストの苦悩と孤独に共感し、孤独な自分の姿をキリストに託して慰められたということです。

マタイ6章25節以下に――
「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」
とあります。

愛に満ちた神への信頼、命という尊いものを与えて下さったお方は、命の維持に必要な衣類も食糧もちゃんと用意して下さいます。

自然界に営まれる生命現象を思い浮かべて、神信頼に心を満たし摂理に身を委ねて、取り越し苦労も思い煩いも心配も要らない、天の父が深い愛をもって総てを備えて下さっている――こういう教えに太宰はストレスや自分の生き方への不安、絶望から、生きる力を与えられ、希望、明るさ、新しい身の処し方を示されたのでした。
 
詩編147編3節に――
「ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく
神への賛美はいかに美しく快いことか。
主はエルサレムを再建し、
イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。
打ち砕かれた心の人々を癒し
その傷を包んでくださる。」

とあります。

詩編55編23節には――
「あなたの重荷を主にゆだねよ
主はあなたを支えてくださる。」

重荷と訳されたのは、ヘブル語で「ヤーハグ」といい、心の重荷、運命、苦情、ため息、ストレス等を意味します。ストレスは万病のもとです。

「主はあなたを支えてくださる。」

17節には
「わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。」
とあります。
これが文法上、未完了形で今も後も、生きる限り――という神の約束です。「神を呼ぶ」というのは、本来大声で叫ぶ、神に向かって呼びかけるという意味です。大声で神様におすがりするのです。

19節に、すると「わたしの魂を(キリストの憐れみにより)贖い出して(自分で自分を束縛している所の自縄自縛で身動きのとれない状態から解放して)平和に守ってくださる」というのです。本当に心を満たす生き方ができるのですね。

詩編107編6節及び8〜9節を見てみましょう。
6節「苦難の中から(諦めないで)主に助けを求めて叫ぶと(祈ると)主は彼らを苦しみから救ってくださった。」(これも未完了形です)――

8〜9節「主に感謝せよ。主は慈しみ深く
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
主は渇いた魂を飽かせ
飢えた魂を良いもので満たしてくださった」
とあります。
6節は人生の障害、精神不安定からの救いを意味します。

ルカ福音書4章38〜39節にはガリラヤのカファルナウムの海沿いの町で弟子のペテロの姑の熱病を癒やされたイエス様の慈愛に富む奇蹟のあとに、40節には「いろいろな病気で苦しむ者」、ストレスに悩むもの、太宰のように自分の生きていくことに対する不安や絶望に悩む者たちの「一人ひとりに手を置いて癒やし」、慰め、立ち直らせ、キリストの慰めが一人ひとりに「生きる力」をお与えになったことが記されています。

詩編107編9節の「渇いた魂を飽かせ」というのは、文法上完了形で、本人の願望やその実現を意味します。

飢える魂、狂わんばかりの精神不安定の者のこと、渇いた魂をヘブル語で「シャーカク」と言っております。それから心の飢えた人――太宰の言う「焼け野原」を希望を失ってさ迷う人の心に「良いもの」、ヘブル語で「トーグ」、つまり心の平安、落ち着き、安心感、喜び、生き甲斐で満たしてくださる、と言っています。

聖書のみ言葉を読んで、疲れた自分と慈愛に満ちた雄々しいキリストを重ね合わせるのです。すると気持ちが落ち着いてきて、やる気を起こせるようになります。

マタイによる福音書11章28〜30節を読んでください。まず――
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とイエス様が仰います。

イエス様はどのようなときに、こう言われたのでしょう。伝道開始の初期の人気絶頂の時ではありません。そのような時期が過ぎ、今や反対者やメシヤとしてのイエス様を拒絶している人々に当面しておられます。

太宰治は身近な人たちとの信頼関係の破れた悲しみや淋しさと、イエス様の周りの人びとに裏切られたお気持ちを重ね併せて孤独な己の姿をキリストとの同一化によって慰められたのですが、わたしたちも「わたしの許に来なさい」とお呼びくださるこの声をあたたかく間近に感じます。

それから、当時の学者、ファリサイ人らの律法主義の戒律にあえぐ人たちに呼びかけられたこのお声に、罪の重荷に苦しむわたしたちや人生の思い煩い、苦しみ、ストレスに悩むわたしたちへのお優しさと力強い御呼びかけを感じ心がわくわくします。

そして父なる神様に連れ戻してくださる仲保者キリストの御贖いの恵みを深く感じます。イエス様は律法主義や心の重荷を身をもって取り除いて、わたしたちの重圧を感じている精神状態を解放してくださいます。文字通り、「休ませて」くださいます。

29、30節では、
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
と言っておられます。

「休ませる」というのは、ギリシア語の「アナパウオー」です。もともと竪琴の弦をゆるめるという意味で、不安、罪悪感、欲求不満、ストレスなどの緊張感や焦燥からイエス様はわたしたちを解放してくださいます。

くびきは農耕や草引きのために、ロバや牛の首にかける木の棒で、ここではイエス様に教えを乞うことを意味します。イエス様のくびきはマタイ7章の12節の「人にしてもらいたいと思うことはあなたも人にしなさい」という黄金律のような慈愛に満ちたおきてです
 

雨上がりに.jpg東牧師の遺稿となった説教は、大田正紀先生が打ち込んでくださったものである。
私にできることは、このメッセージを一人でも多くの人にお伝えし主の祝福を流していくことである。

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2017年06月28日

東牧師を偲ぶ A −東牧師を神に感謝して―

私が東先生を強く意識し始めたのは2010年2月の例会の時からだった。その時の例会記録の「C」では「東(あずま)道男牧師の『ヨブ記』論」が、「D」では我が拙い文章「赦しは神が成就される」を発表した時の様子を記録している。


その頃、私は長女の離婚で苦悩の底にあり主イエスに目を上げて書いたものである。


ちょうど1か月前の5月27日に東先生をお見舞いして以来、これまでのお交わりを振り返ると7年前の例会のことが懐かしく思い出された。


深い霊性を感じ、「牧師の牧師」の如くに尊敬している東先生にも、真情を吐露しながら牧師や信仰について質問をぶつけた。何度か会話を交わしながら私は最後に次のように申し上げた。

「先生が仰ったとおり、悔い改めて立ち直るたびに信仰を強くされていますし、『試練』については今日のお話をお聞きして、信仰を強くされるためという意味において、(全ての困難を)『試練』として受け止めることができるという答えを頂きました。」とお話したのだった。

師は只一言、「尊い経験をされています」と一句一句噛み締めるように語られた。私はお言葉どおり受け取ったのである。

この時の私はさぞや厳しい表情をしていたのであろうと自らの顔まで見えるほどだ。そんな私に東先生はじめ主にある兄弟姉妹が愛の包帯を巻いてくださったのだと、今これを書きながら感謝の涙が溢れる。


当時の例会会場は吹田市民会館が耐震工事のために使えなくなって、2009年頃(?)から内本町コミュニティセンター(和室)で開催していた。その後、千里ニュータウン教会が会場に与えられて我が家を得たような心地がした。


そして、私が東牧師との個人的出会いへと導かれたのは、2013年11月の例会で発表した「老いてなお実を結ぶ生涯」に対して、「詩篇92篇12節から15節の御言葉をお入れになったら素晴らしいと思います。神に従う人はレバノンの杉やなつめやしのように茂るというところです」と御高評いただいたことに始まる。


その例会後すぐにお手紙をくださって以来、3年3ヶ月間に拝受したお手紙は30通余りを数える。封筒を失くしてしまったのもあり申し訳なく惜しまれる。


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そして、今年2月初めのお手紙が最後だった。そのお手紙に対してお返事を差し上げなかったことが悔やまれてならない。

『4号』の編集が始まっていたことは言い訳でしかない。4月には例会報告方々、必ずお手紙をと思いつつもそれさえも日が過ぎてしまい、毎日のように呵責の念を感じながら6月の例会でお詫びしようと思っていた。


かように私はいつも不誠実で愛に応えられない人間ゆえに、主イエス・キリストの存在なくば永遠の滅びに至る人間である。


これは絶筆となった最後のお手紙の冒頭と最後の5枚目である。

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これが私の師と仰ぐ牧師、牧師の牧師、東先生の最後のお言葉となった。

ここに2016年2月4日、『種を蒔く』3号の校正箇所を送ってくださった時のお手紙に記されていたお言葉を刻む。


25G.jpg「イエスさまに救われて、本当によい人生を送ることができました。この神さまの愛を伝えたいという思いが、自然におき 書くことができました。

老齢となった今は、信仰とみことばによって生かされていることを感謝しています」。



私は讃美歌第2編136番 「われ聞けり彼方には」を口ずさみ続けている。


1.われ聞けり「かなたには うるわしき都あり」

  輝ける かの岸に われはまもなく着かん

  「ハレルヤ」と歌いつつ 歌いつつ進みゆかん

  わが足は弱けれど 導きたまえ 主よ


2.われ聞けり「かしこには 争いもわずらいも

  明日の憂いもなし」と われはまもなく着かん

 「ハレルヤ」と 歌いなば 悲しみも幸とならん

  われは はや さ迷わじ 神ともにいませば


3.われ聞けり「みかむりと ましろき衣をつけ

  主をほむる民あり」と われも共に歌わん

 「ハレルヤ」と 叫びつつ み声聞きてよろこび

 み国へとのぼりゆかん わが旅路終わらば


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2017年06月27日

東牧師を偲ぶ @ −われ聞けり「かなたには うるわしき都あり」−

昨年の6月に久保田暁一先生を天に送り、今年もまた東道男先生が天に帰られた。あとに残った者は寂しさだけではなく取り残されたような気持になる。

東牧師が入院されたとお聞きして居ても経っても居られず、5月27日(土)午後に病床を訪ねた。おそばにいたのは13時20分から34分とつかの間だったが、お会いできてよかった。その時に入院された日が5月6日だとわかった。

「もう5日前から何も食べていません。肺炎の心配がある(ようです)」。
最後の言葉はよく聞き取れなかったがはっきりとお話してくださっていた。

大田先生が5月24日(3日前)にお見舞いに来られたことをご存じなかったので、先生の置き手紙をお読みした。その日、「よく寝ておられたので、1時間ほどいて、お手紙だけ残して帰ってきました。」とご連絡くださっていた。

そのご報告を受けて、子どもさんがおられなかった東先生ゆえに、大田先生が傍にいてくださっている光景を思い浮かべて、「東先生よかったですね」と目頭を熱くした。年齢から言っても父と子の年齢差だから。

この日、「ティッシュペーパーを」と言われたので新しい箱を開けている時、「箱ごと置いて下さい」と言われ、その都度「ありがとうございます」と仰ってくださった。

「『種を蒔く』はもうできましたか? 楽しみにしています」。

「できあがったらお持ちします。先生の御説教で多くの方々から励ましを受けておられるとの声をいただいています」。

「例会は今からですか?」

「いえ、今日ではありませんが、教会のKさんと連絡を取っています」と申し上げると、安心されたように深く頷かれた。

体位交換でやや左側に体を倒されて、右手でベッドの柵をしっかり握っておられた。その手や腕は血管だけでけではなく骨までも透けて見えるかと思うほど、いつもよりももっと痩せておられた。

手も腕も冷たくて「寒くないですか?」とお聞きすると頷かれたので安心したが、ずっと先生の手を温めるようにして握っていた。入室する前に手はきれいに洗っておいた。


「東先生からいただいたたくさんのお手紙を何度も読み返させていただいています。聖書のようにして」。
ジッと私を見つめておられた。

「体に力が入らず、気力を失っております」。

このようになられたらそれは当然のことながらも、胸が潰れそうなほど悲しかった。誰よりも常に神さまから気力をいただいて励んでおられた先生だっただけに心が痛み、祈りへと導かれてお祈りした。

お祈りが終わって目を開けると先生も目を閉じて共に祈っておられた。

「今、何かしてほしいことはありませんか? 困っておられることはありませんか?」
「今度来るときは何をお持ちしましょうか? 何か召し上がりたいものはないですか?」

お返事はなく、ただお礼を言われるのでお疲れになってはいけないと思って退室することにした。

「先生、お休みになってください。帰り辛いので先生が目を閉じられたら帰ります」と、母や父に言っていたことと同じことを言っていた。

そして、重ねていた手を放して主のお守りを祈りつつ部屋を出た。後ろ髪を引かれる思いだった。

「気力を失っております」
悲観的に考えてしまう私は先生が急激に衰えていかれるかもしれないと思った。

悲しくて、心が沈んだ。
もう遠い日のことなのに母や父の病床に通っていた時と同じ感情だった。そして千里丘の駅に着いた時、私は讃美歌の歌詞を小さな声で口ずさんでいた。

  「われ聞けり『かなたには うるわしき都あり』
  輝ける かの岸に われはまもなく着かん
  『ハレルヤ』と歌いつつ 歌いつつ進みゆかん
  わが足は弱けれど 導きたまえ 主よ」


そして思った。
使命を終えて神に召されていくときは、地上生涯の気力を脱力させて一切の重荷から解放してくださるのだと。だからそれでいいんだ、主が最善を成してくださっているのだからと。

その日から朝に夕に、その合間にもたびたび思い出しては主の平安とお守りを祈り続けていた。

東牧師を見舞う@.jpgその3週間後にもういちどお会いできてよかった。
大田先生が『種を蒔く』4号をご覧に入れられ、東先生は確かに見届けてくださって逝かれた。

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2017年06月26日

東 道男牧師の告別式に 

千里ニュータウン教会近くで.jpg私たちの敬愛する東(あずま)道男牧師が24日午前4時28分に召天された。享年96歳、9月には97歳になられるところだった。

千里ニュータウン教会近くに咲いていたアベリア。

24日のうちにクリスチャン・ペンクラブ関西ブロック事務局長に訃報が届いていたが、旅行中の出先だったからと、こちらに一報が届いたのは昨日の15時。私は指示通りすぐに動いた。


その後まもなく教会へ問い合わせて奥野先生から詳細をお聞きし、関係者への連絡が終わったのは2時間後に前夜式が始まる16時になっていた。その直後事務局からも一斉メールが発信された。


IMG_6125.jpgそして今日6月26日(月)12時30分より、千里ニュータウン教会で告別式が執り行われた。

関西ブロックからは3名が参列した。遠くからは鎌倉市の雪ノ下教会からも来ておられたようだ。


司式は奥野彦蔵牧師(日本基督教団・関西農村教化研究所所長)、東牧師の代わりの説教者として講壇に立ってくださっていた方で、私たちの例会にも2度参加してくださっており、17日の例会では「東先生からのおもてなしですからどうぞ」とケーキを買って用意してくださっていた。


東牧師は、我が国の現役牧師の最長老だった。

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東先生は5月に入って体調を壊して6日に入院された。その翌日の説教も準備されて、教会で療養をと思っておられたが説得されて、「はい、わかりました」と入院に同意された。


5月末には一時危篤状態になられて、その後もち直されたものの、6月に入ってから声が全く出なくなっておられた。不思議なことに17日に私たち(4名)でお見舞いに伺った時は、微かにではあるが「ありがとう」と仰ってくださった。

いつものように「ございます」までは仰ることはできなかった。私は待っていたが息を継がれたあとも無理だった。


その後一週間小康を保たれ、息をひきとられる前夜も看護師さんに「ありがとうござます」とお答えになって、主の平安の内に天に召されなさったと御報告された。


告別式での朗読聖書個所は次の2か所。


イエスは言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
     (ヨハネによる福音書11章25〜26節)

またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。
     (ヨハネの黙示録 14章13節)

讃美歌 496番 「うるわしの白百合」


説教箇所は、マタイによる福音書11章25節〜30節:

そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

【説教要旨】神のみこころに従うためには、この「重荷」をどのように受け止めるかである。


讃美歌第2編 167番 「われをも救いし」


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IMG_6129.jpg遺影は「70代のお若い頃の写真」だった。師のお元気盛んな時のお写真を拝見して、しみじみ師のご生涯の歩みを思わせられた。


東 道男牧師.jpg


この写真(→)が私たちが存じ上げている東先生だ。これは2016年2月20日、これ以後の写真は撮っていない。東先生を囲んでの例会は2016年11月19日が最後で、このときは奥様を天に送られて1か月後だった。


参列者は会堂から溢れ玄関ホールも埋め尽くしていた。東先生の妹さんが心打つご挨拶をされた。


教会役員のK姉に声をかけられてユキ(孫)のことが気になったが、私たちも火葬場まで同行した。そこで読まれた聖書個所は:


「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。

わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。

わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。

すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。

その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい」。
  (テサロニケ人への第一の手紙4章13節〜17節)

ユキのことがなければ先生のお骨を拾わせていただきたかった。


IMG_6142.jpg

IMG_6132.jpg式次第の最後のページに記された奥野牧師の哀悼の辞である。


今は疲れ切っていて私は涙すら出ない。

2日前から左胸に強い肋間神経痛が出ており、昨夜は痛みで目が覚めて、その後痛くて眠られず3時間余りの睡眠時間で赴いた。帰りの環状線(JR)に乗った時から再び痛みに喘ぎながら、感情が伴わないまま記録した。


しかし、今夜からは心痛めずに眠られる。先生はもう一切を解放されて天の御国へ凱旋されたのだから。だからもう辛くない。 


昨年の6月に久保田先生を天に送り、今年は東先生が帰還され、これまで以上に自らの死に焦点が当てられている。真剣に生きねばと思う。


posted by 優子 at 22:11| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年06月23日

『種を蒔く』4号よりA −久保田先生の御愛―

私の久保田先生の追悼文です。
     久保田先生の御愛
                
久保田先生との忘れられない思い出がある。それは2010年1月30日、大阪駅で待ち合わせて関西(かんせい)学院大学で開催された日本キリスト教文学会に同行した時のことだ。

先生はパーキンソン病の歩行困難に加えて、両膝関節の痛みのために5センチほどの歩幅でしか歩行できなかった。そんなお体で近江高島から出てこられた。

私は先生と腕を組み、組んだ手の指と指をしっかり絡めて歩いた。帰りは行きの時より一段と歩行力が落ちておられるのがわかった。

IMG_5903.jpg阪急側からJR大阪駅側に渡る混雑する横断歩道では、信号が青になった時にすぐにスタートできるように右端の一番前に立った。息遣いもしんどそうで呼吸を整えねばならなかった。
そして、二度目の青になって渡り始めた。先生は何度も手を強く握られ、私も強く握り返して手でも会話していた。

「大丈夫! ゆっくり 慌てないで。
 1、2、1、2、もう少しです」。

もはや渡り終えていないのは私たちだけで、今にも自動車が飛び出してきそうだった。そして、「渡れました!」と叫び、顔を見合わせて笑った。

実はこの5日前、長女が調停離婚したところだった。日も暮れて冷たい風が吹く関学のキャンパスで、先生は優しく、しかし、力強く仰った。

「藤本さんに元気で楽しく生きてほしいんや。聖書を読んでクヨクヨするのは読み方が間違っている。聖書は私達が幸せに生きるようにとくださったものだ。苦しむためにくださったのではない。力になれることがあれば何でも言うておいで、相談にのるから。

失礼だろうけれど藤本さんのことを娘のように思っている。優子さんは明るいからいい。優子さんが家族の要やからな、お嬢さんを励ましてやりなさい」。


私は迂闊にも帰りの大阪駅構内の店でコーヒーをいただいていた時に気がついた。

「ひょっとして、先生は私のことを心配して出て来てくださったのですか」。

やっぱりそうだった。

あの不自由なお体で私のために出て来てくださったのだ。それなのに、「ありがとう」、「悪いなあ」、「嬉しいなあ」と何回言ってくださったことか! 

久保田先生はいつも周囲の人々に優しい励ましの言葉をかけておられた。あの日の日本キリスト教文学会でも、研究発表していた若い研究者の「後方支援のために」質問しようとされていた。

初めて連れて行ってくださった2年前、遠藤周作や椎名麟三学会の代表者たちが集う懇親会で、小川惠子さんと私のことを紹介して深々と頭を下げてくださった。そのお姿に感極まり、我が魂に焼き付いた。

私の文筆活動においてもお会いするたびに励ましてくださった。

「藤本さんは突込んで書くからいい。今まで書いた論文や新しく書いて是非一冊出そう。慌てなくてもいいから。私でよければ序文を書かせてもらう。できることがあれば何でもするから」と、10年もの時間があったのに努力しないまま終わってしまったとは怠惰極まりない大馬鹿者だ。

もはや久保田先生の御序言はいただけずとも、やらないままでは再会できない。これは先生からの宿題となった。

いつか先生は仰った。
「本当の出会いとは、その人に出会うことにより自分の生き方や思想に影響を与え、自分が変えられていくことである」と。

先生は地上を去られたが、真剣に本当の出会いへと深めていき、久保田先生の御愛を無駄にはすまい。
久保田先生と出会わせてくださった神さまに心から感謝します。

最後に、生涯励まされ続ける久保田先生のお言葉をここに刻んでおきたい。

「文学作品を自由に読んで自分の納得のいくやり方で追求していきなさい。私の文学活動も一切党派を持たない。なぜならば客観的に見られなくなるからだ。自由に読んで自分の納得のいくやり方で追求していくために、党派性をもたないでやってきた。

イエスを追求するにも自己を持たないかん。人の物まね、受け売りはいかん。遠藤周作にしろ椎名麟三にしろ独自の文学論をもってやっている」。

「同じ事実であってもいろんな見方や解釈があり、その真実の汲み取り方の深さによって違ってくる。人まねをする必要はない。人にどう思われるだろうかなど、よく見せようと思わないで、自分をごまかさずに書いていくこと。
ドロドロしたものを書けるのは信仰しているからであり、闇を書けなかったら光を書けない。『闇は光に勝たなかった』のである。苦しみの道中を見ているがこそ書けるのであり、全身全霊をかけて書く。人の書けないものを書くのはたいしたものだ」。 

以上、2ページにまとめた。
あの時のことを振り返り、危なっかしいご不自由なお体で近江高島から大阪まで来られた勇気を今更ながら驚く。怖がりの私は師を見習わなくてはと何度も思うばかりである。

奥様もどんなにか心配されたことであろう。奥様が高島駅へ送迎され、帰りも駅へお迎えに来てくださっているとお聞きして安心したが、せめて京都まで乗って行こうかと躊躇していたらドアが閉まってしまった。「どうぞお守りください」と祈った。

電車のドアが閉まってからも目と目を交わしていた師のお姿が今も鮮明によみがえってくる。
その後まもなくお礼状が届いて私こそ手を合わせた。

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パーキンソン病のために自由にお書きになれないのに時間をかけて書いてくださった愛の遺産だ。

2014.3 書斎にて.jpgこの写真は大田正紀先生が師のアルバムより編集掲載してくださったものである。ウィキペディアには師の多くの著作が掲載されている。

このたび校正している時に、皆さんから寄せられた追悼文や大田先生が編集してくださった師の著作を読みながら何度も目頭が熱くなり、神のみもとに帰られたことを改めて知った。

2008.8久保田先生と.jpgこれは2008年8月、京都にある日本クリスチャンアカデミー・関西セミナーハウスで開催された関西・中部合同夏期研修会の時のものだから、追悼文に記したエピソードはこの2年半後のことになる。

この時の研修会を締めくくられた久保田先生の言葉が、師の声で今も重く耳に響く。

「私たちは神に守られて生かされている。
大切なことは、力強く生き抜いていくということだと思います」。


IMG_6021.jpg私たちも最後まで精いっぱい生きようではありませんか!
悔いのない人生を、
神の恵みの中で。
今日も良い一日を重ねて生きましょう!

posted by 優子 at 07:44| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年06月21日

『種を蒔く』4号より@ −拙文「あとがき」−

IMG_5708.jpgこれが今月初めに日本クリスチャンペンクラブ関西ブロックから刊行された『種を蒔く』4号で、表紙の写真は日本キリスト教団・大津東教会だ。
創刊号より「ISBN」(アイエスビーエヌ、International Standard Book Number 、国際標準図書番号)を表示している。今号は500冊作製(A4版161ページ)、残り10数冊になっている。

4号は久保田暁一先生の追悼号で関西ブロック会員はもとより、関東ブロックの方々、JCP旧会員の方、久保田先生と同じ教会の方など18名から追悼文が寄せられ、後半に「証し」が掲載されている。また、毎号同様に最初に東道男牧師の2作の説教が収められている。

雨上がりの散歩で.jpg私は3作と「あとがき」を書かせていただいたので、ここに「あとがき」を刻んでおきたい。

    あとがき
        藤本 優子

昨年に続いて『種を蒔く』第四号を発行できますことを感謝いたします。表紙の写真は日本キリスト教団・大津東教会(大津市大江5丁目31―8)です。1925(大正14)年に膳所(ぜぜ)にて創立され、1970(昭和45)年に現在の瀬田大江の地に移転されました。

今号は2016年6月に召天された久保田暁一先生を偲びつつ編みました。長年の間、日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の理事として労してくださった久保田先生は、関西の地に杭を打ち込む思いで関西ブロックを起ち上げてくださいました。寄せていただいた追悼文に惜別の想いが溢れています。

また昨秋10月に72年間を共に過ごされた東道男先生の御伴侶が召天されました。東先生の上に神さまの豊かなお慰めがありますようにお祈りします。

今秋、JCP創立65周年記念会が予定されています。先人たちのことを憶え、これからも各ブロックが心を一つにして福音宣教のためにペンの業に励みたいと思います。

私たちの例会は年に5回開催し、3回は大津教会で、あとの2回は大阪府吹田市の千里ニュータウン教会で文書伝道の研鑽を重ねています。千里の会場での開会説教は東道男牧師に導いていただいております。例会案内はJCPのホームページ(http://jcp.daa.jp/)に掲載されますので、文書伝道にご関心のある方は是非事務局にお尋ねください。

今号の編集も大田正紀兄(文芸評論家)の多大なる御愛労のもとで、事務局委員の原田潔兄、小川惠子姉、藤本優子が行いました。また、創刊号よりお世話になっております有限会社木下印刷様には心から感謝申し上げます。

この小さな書を神さまが祝福してくださり、豊かに用いてくださいますように祈ります。ご愛読くださりご感想を事務局宛にお聞かせくだされば幸いです。

「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。
夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」。

     (マルコによる福音書4章26・27節)

雨上がりに.jpg
雨上がりに

posted by 優子 at 21:30| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年06月19日

東牧師不在の教会で −日本クリスチャンペンクラブ・関西ブロック例会− 

IMG_5948.jpg今週の「家の教会」は守ることができなかった。
知子は17日朝早くから1泊二日で遠方へでかけて不在、ユキは土曜日に続いて連日のサッカーで、その午後は実が入らないので取りやめた。私もまた2時間も眠ってしまうほど疲れていた。

17日のJCP例会は知子が不在のため出席できないと思っていた。数週間前には「休んでもらえないか」と知子に頼まれもした。確かにユキを夫(ユキの祖父)に託すのは心配だったから。

そこで例会へはギリギリに行くことにして、一緒に買い物に行き例会のお茶菓子はスーパーで買うつもりだった。しかし、例会前に東(あずま)牧師のお見舞いに行かれるという。

一度はお断りしたものの、その後ずいぶん逡巡し、やっぱり同行させていただくことにした。

そこで金曜日の会社帰りに知子にお菓子を買ってきてもらうことにした。知子が上本町のデパートに着いた時は閉店時間で大急ぎで頼みこんで買ってくれたそうだ。

当日、もう一度夫とユキに喧嘩状態にならないように何度も話していつもより早く家を出た。ユキは珍しく利発でいい子だった。
母親を見送った時だけではなく、私が行く時も寂しそうにしていた。玄関で抱きしめて門を出た時、2階の窓から「行ってらっしゃい」とユキの声、いつまでも見送ってくれていた。

※ 事故やトラブルもなく一日を終えて夫に感謝!

この日、4名でお見舞いに行った。私は5月27日にも一人でお見舞いに行ったが、病室が別の部屋に変わっていた。

少し痩せられたように思う。大田先生がご覧に入れていた『種を蒔く』4号をジッと見つめておられた。私も最後におそばに行った。

「東先生、出エジプト記の神は『パロを頑なにされた』という意味がわからなくて、ヘブル語から解き明かして教えていただきたいです。」と話し始めると、先生は目を大きく開かれて私の目をジッと見つめておられた。

「ご回復を待って教えていただくのを楽しみにしています」。

私は牧師の眼がしらに溢れていた涙をそっとティッシュで吸い取った。
帰るのが辛かった。いつまでも見つめておられるので尚更だった。「イエスさま、共に居てください。お願いします」。

そのあと病院内のカフェで昼食を摂って東牧師不在の教会へ向かった。

IMG_5962.jpg東先生からの預かり物を代務のO牧師より頂戴した。

4月中旬に皆さんに送付した執筆者による校正原稿と出版協力費のお願いに対しても、すぐに用意してくださっていたのがわかった。

協力金は「6月の例会時に頂戴しますので・・・」と記しておいた。

東牧師から「みなさんにケーキを用意するように」お願いされてと、O牧師がケーキ皿にフォークまでセットして用意してくださっていた。
東先生・・・

この日の例会では最初に『種を蒔く』4号の会計収支報告書を配布して説明した。表紙を開いた1ページ「扉」の誤植については、早急に印刷屋さんがお詫びの手紙と訂正シールを作成して各自に郵送してくださったので感謝している。

また、久保田先生の息子さん、旧JCP会員の方、大溝教会の方々から届いた感謝メールの言葉をお伝えした。

この日の学びは大田先生が森鴎外の『鎚一下(ついいっか)』をご講演してくださったが、出版の役目をほぼ終えてホッとしたこともあり集中力がなかった。何よりも最近ますます理解力までなくて当惑している。

例会報告作成のためにも復習してからごくごく短く記録したいとは思っているが。
なお本文はここで読むことができる。

早一年、昨年6月の例会は久保田暁一先生の御葬儀で休会だった。

posted by 優子 at 17:18| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年05月23日

野の花のごとく強くありたい

大津教会・愛光幼稚園.jpg
これは今春の夕暮れ、大津教会・愛光幼稚園の園庭だ。
かなりタイムリーさを失った風景ではあるがやはり美しい。

4月15日、クリスチャン・ペンクラブの例会が終わって大津駅へ向かう時、あまりに美しいのでペン友・長原さんに撮っていただいた。この日は総会での会計報告や『種を蒔く』4号のことで頭がいっぱいだったのでカメラを持参しなかったからだ。

この風景もまた毎年見ていたであろうのに立ち止まって見ることもなく、ただおしゃべりしながら歩いていた。季節外れの写真だがここにとどめておきたい。

『種を蒔く』4号は昨年6月に召天された久保田暁一先生の追悼号である。まもなく1年になるなんて、時はかくも早く過ぎ行くのか。

発行日を師のお誕生日「5月22日」と記したが、4月の例会時にも追加原稿が出たり、その後も原稿待ちやいろいろで、印刷・製本されるのは5月末の予定は難しく6月に入るとのこと。

再度ご指示くださった大田先生の編集のおかげで、一つひとつに思いが込められ重厚な一冊になった。3校で校了とし、印刷屋さんからようやく13日に「印刷にかかります」の連絡を受けて一息ついた。

今は振り込み通知が届くたびに収支報告書を更新させ、まだ振り込んでくださっていない方々に今日再び連絡した。パソコンを使わない方は数名なのでありがたい。

6月の例会会場は千里ニュータウン教会だが、東牧師は体調を壊して入院されていることがわかった。ご高齢なだけに心配でならず気持ちが沈む。
祈り、聖書を読み、祈る・・・

5.23.jpg5月の美しい季節を東先生に届けたい。常に神と共にあられる牧師に。

「私たちが生きているのは、素晴らしい世界です。
しかし、それが美しく本当に我が家のようであるのは、ただ神がいつも近くにいると感じる時、そして神に依り頼み、神の愛に信頼する時のみです」。

       (マックス・ミュラー)

ドクダミの花が咲き始めた。
                    −星野富弘さんの詩−
どくだみ.jpg「おまえを大切に 摘んでゆく人がいた
臭いといわれ
きらわれ者の おまえだったけれど
道の隅で歩く人の足元を見上げ
ひっそりと生きていた
いつかおまえを 必要とする人が
現れるのを待っていたかのように

おまえの花
白い十字架ににていた」


この辺りはドクダミがたくさん自生しており、ここに住むまでドクダミのにおいも知らなかった。あるとき義母が「ドクダミはにおいが強いのでトイレに置くといい」と教えてくれた。

チャッピー(柴犬)を飼い始めた時、私はドクダミをさわった手でチャッピーをさわったのだろう。「チャッピー、くさいなぁ」と、ドクダミの臭いを犬のにおいだと思っていた。

ここに移ってきた頃は父の病床に通う日々、その1年4ヵ月後に父が亡くなるまで何度も危篤状態になり、ホッとする時がなかったので、気がつかないままチャッピーのにおいだと思っていたようだ。

そんな期間もドクダミの花を見るたびに「十字架の花」と心の中で言っていた。主イエスを思い出すたびに力を得ていたのかもしれない。


5.23B.jpg

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野原や道端に咲く花こそ美しい。
私も野の花のごとく強くありたい。

5月24日夜追記:
― 関東のY兄(きょうだい:クリスチャン男性の呼称)よりコメント―
「十字架の花」いい名前ですね、わたしもこの花が好きです。

ドクダミには十薬(ジュウヤク)という別名があって、昔から重宝がられてきた薬草だそうですが、どうして「ドク」と「薬」などと言う対照的名前がつけられたのでしょうね、不思議な名前ですね。
                                      
posted by 優子 at 17:46| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年01月19日

大空を舞うコハクチョウ 

コハクチョウ.jpg

今も欠かさずブログを愛読してくださっているペン友の長原武夫さんが、「湖北の野鳥カレンダー2017」を送ってきてくださった。ユキと私が野鳥にも興味が広がっていることをお知りになったからだ。

短信には「幸悠君の笑顔 見えますかね」と書かれていた。その一言に込められた愛が洪水のように私の心をも満たし、ひび割れた心のすみずみにまで滲みとおっていった。

IMG_1947.jpg先週はご自身が撮られた写真を送ってきてくださった。
これは350ミリレンズで写されたもので、500ミリでないと良く撮れないそうだ。ましてや私たちのカメラでは 、でもいいよね、行きたい!!! 

琵琶湖周辺の人々は琵琶湖を「うみ」と呼ぶことや、今年はコハクチョウは少ないが、それでも200〜300羽いるとのこと。

ユキに地球儀でシベリヤを示し、あんなに遠くから飛んでくるコハクチョウに大いに励まされた。感動したユキはお礼のFAXを送信した。

もう少し暖かくなってからなんて言ってたら白鳥はシベリヤへ帰ってしまう。私は是非見に行きたいとユキに声をかけると知子も大乗り気。行こう、行こう!
せめて遠くからでもいい、自然界の鳥を見たい。コハクチョウを直に見たい。

コハクチョウ.jpg

イエスは言われた、「空の鳥を見よ」と。

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IMG_1948.jpg新年になって明日はもう20日になるのに、トイレに掛けている聖句が12月のままだった。やっぱりこの聖句が私の一番の愛称句だと思う。

これは母の介護に通っていた頃に買ったから、もう24〜5年も前から使っているのでボロボロだ。
今から10年ほど前のこと、「かなりくたびれているからもう使えないね」と家庭集会に来られていた友に言われたことがあるが、だからいいのだ。

私は実家のトイレにも同じものを掛けた。父が毎月めくってくれていた。両親も何度も目にしてくれていた聖句集だから、テープで補強していつまでも使いたい。

私はこの聖句に何度励まされてきたことか!
そしてこれからも!


posted by 優子 at 18:14| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年11月28日

キリスト教信仰の関わりで窪田空穂の短歌をよむ ―日本クリスチャンペンクラブ・関西ブロック例会−

昨日からアドヴェント(待降節)に入ったが、私は風邪で再びダウンし「家の教会」も持てず、心配してくれている次女とスカイプした。主を信じる家族との交わり、祈り合える神の恵みをありがたく思う。

さて、19日の例会から1週間余り経ってようやく例会報告に着手するのであるが、このようなことは10年来初めてのことである。
そもそも学びの内容を端的にまとめるのは今も苦手であり、今回は特に私の心に響いたことをとどめるのみでまとまりのないものになるであろうと思う。

現在キリスト教文藝になくなってしまった「長歌」の伝統について、「短歌」や「俳句」では息切れがしてしまう、かといって「現代詩」では散漫になってしまう。そんな当惑を覚える人は多いと思います。
 
文語訳聖書の格調をふたたび手に入れるために、万葉集の長歌の可能性を探りたいと思います。窪田空穂のうたをその視点で評価したいと考えています。

そこで、キリスト教信仰との関わりでクリスチャン歌人・窪田空穂(うつぼ)の家族の死を看取る歌を詠み味わった。思いもせず東牧師は10月初めに伴侶を天に送られて悲嘆の中に在られた。

私たちの導き手である大田正紀先生の『窪田空穂小論 −貴族のこころ、平民のみち―』(16ページ)を配布していただいての豊かな内容であった。

最初に「窪田空穂『まひる野』と植村正久」(大田正紀著)より引用して人物の輪郭をご紹介したい。

窪田空穂.jpg空穂は長寿を全うした分、多くの苦難をも賜った。その試みを静かに堪え受容している。次女と妻の死。妻の妹を後妻に迎え次男をもうけたものの離別。忘れ形見の茂二郎は中国戦線に出たまま不明となり、戦後二年経ってソビエトに抑留され強制労働所で既に死亡していたことがわかる。
      (略)
空穂は自己のうちに湧き上がる感動や生命の発露をそのままに叫ぶ、見たままを写実する、それを第一義として疑わなかったアララギ本流の近代短歌のあり方に、自己批評や内省の必要を訴えた。

また、私の歌は「無駄話」とも言う。傍らにいる友達、あるいは神に私の真実、心情を聴いてほしい、そこに歌の原点があるというのである。

空穂は父と母のことを生涯にわたって慕い、父と母はいつも私を励ましてくれる存在であると、命日には新しい歌を詠み、90歳の最期まで詠み続けた。

年を重ねた空穂は長歌「父を憶ふ」に次のように詠っている。

「父を憶ふ 悲しくもわれ、人間の相場を知りぬ。知らぬとし知るまじとせる人間の相場、明らかに胸に映り来ぬ。

偶像を求むる心と壊つ心との矛盾せる二つの心、共にわが身の内にありて、若きより今に至る久しき間を相剋しけるが、いつの日にか剋せるもの和し、和せるもの消え去りて、ここに求むべく壊つべき偶像のあらず、あるは唯高からぬ人間の相場のみ。

わが父よ、三十年前みまかりたまへる父よ。人見ば一老農に過ぎざりし父よ。若き日の眼もて親しく視、老いし日の心もて具に味はへば、高き相場をささげまつるべき存在と我が父は見ゆ。今の我が悲しき心は、ただ我が父によりて慰めらる」。


人間とはこんな程度だったのか。しかし、父の心の高さは今の自分にとって慰めであり励ましである。

「生活は一に信なり 信あらば道おのづから開けゆくべし」と、空穂は信念を持って私は私の道を生きていくことを「信」と呼んだのではないか。「一に信なり」は空穂の座右の銘であり、父がその実践者であった。父は人から譲られた大型の聖書を持っていた。

次の2首こそが、日本の短歌で最も優れた歌だと思う。

「鐘鳴らし信濃の国をゆきゆかば在りしながらの母も見ゆらむか」 

「われや母のまな子なりしと思ふにぞ倦(う)みし生命も甦り来る」

                (『まひる野』)
小さい頃に見た巡礼の人たち。あの道を歩いていたら、また「通(つう)や」(空穂の本名:通治)と言って母が出てくるような思いがする。また、私は母に愛された子だと思うと励まされて生命力が甦ると詠っている。

「子の我の胸に宿りて我が母の三十五年とならせたまへる」

「頼むぞとただ一言いはしける母が眼ざしわれを離れず」

「通につきて行くといはししわが母よここにありここにいましね」


空穂は中学時代に松山市内のキリスト教会に通い英人牧師に英語を習った。植村正久より洗礼を受け3年間通ったが、植村が別の教会へ移ったのを機に教会から遠ざかった。

しかし、自分というものを見つめる神の目を忘れず、こういうダメな私も含めて悲惨な自分を見つめてくださって、「そこから立ち上がってきなさい」という、神の思いを終生忘れなかった素晴らしい歌詠みだったと言える。

教会生活から離れている中で、復活の歓びを見失っているところに限界点があるのではないかと思う。今あるもの以上のものを希求しながら平民の心を失わずに詠った歌人である。


最後に、空穂が後年、植村正久牧師のことを記していることも興味深い。植村正久は当時、牧師の牧師と呼ばれた人である。(資料より一部引用)

植村正久.jpg「その物云い、挙動は実に安らかで・・説教は実に不器用で、同時に実に感銘的であった。内容は、朗読した聖書の説明であったが、聞かせるのは集まっていた信者ではなくて、説教している自身に対しての反省の言葉となっていた

言うことは、突っかかりつつ吐き出すようにいう短い句で、圧縮した鋭い句であった。・・・牧師自身のその週間に見聞し、体験したことを、赤裸々に披瀝して参考にしようとする説き方である。そうした話の付加的な談として、信仰というものについて語られた一節がある。それが私の胸に沁みた。

要は、信仰ということは、神に仰ぎ尊むことではない。それは憧れにすぎない。信仰は、仮に身を神の立場に立たせ、神の眼にうつる自分たちの人間の現状を反省するところから起こる。

愛を旨とする神の、その身を分けて創造された人間の現状を見て、何と思われるだろうか反省せよ。相済まぬことだ、勿体ないことだと思わずにいられるか。

それは神は限りなく忍耐して待っていられるのである。独り子基督を賜わるまでの愛をもって、待っていられるのである。実に有難いことである」。


空穂は生涯尊敬してやまなかった植村正久の逝去(大正14年)の報に接して、次の追悼の歌を詠んだ。

「教壇に立ちて祈れる先生のふと咽(むせ)び泣かす御子に及ぶに(先生幼き愛子を喪はせられき)先生を知りまえおししはこの我の生涯の上の大き事なりき」

※ 過去ログ・2014年2月20日の「母の死の悲しみの共鳴板となってくれた空穂の歌 ―私のJCP合同例会余禄―にも空穂のことを書いている。

posted by 優子 at 12:38| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年11月21日

写真とは心を写す「写心」

かなり前のことだが、『滋賀夕刊』2013年02月26日付けに掲載されていたペン友の記事を見つけた。
友への励ましを込めて、そして、長浜に在った日本開拓伝道団(Japan Inland Mission:1933年創立)の教会を記録しておきたい。

惜別、亡き妻の写心展

0226nengajyo_photo.jpg北船町のアマチュア写真家・長原武夫さん(78)の妻で昨年12月に急逝した萬壽子さん(享年78)の写真入り年賀状展が28日まで、平和堂長浜店5階で開かれている。「惜別 写心展」と題した同展はバレーボールや絵手紙など多方面で活躍した愛妻を偲ぶ作品が並んでいる。
 
長原さん夫妻はキリスト教会の縁で、1954年に結婚。萬壽子さんは10年余、伝導(伝道)に励み、その後、33年間、長浜赤十字病院に看護助手として勤務。ママさんバレーボールチーム「長浜サンクラブ」を発足し、選手、コーチ、監督として30年以上プレー。その傍ら、押し花教室「長浜ロイヤルサロン」や郵便局の絵手紙教室で指導していた。

昨年3月の受診ですい臓ガンが見つかり、摘出手術。余命半年と言われつつ、入退院を繰り返し、再起を図ったが、12月13日、惜しまれながら、この世を去った。

全日本写真連盟湖北支部の支部長を務め、ポートレートを得意としていた武夫さんは、萬壽子さんをモデルに88年以降、写真入りの年賀状を友人らに送るように。年賀状は多い時で300枚程度。毎年パターンを変え、好評だった。

作品展では四半世紀にわたる年賀状の歴史を通して、萬壽子さんの生き様を回顧しており、武夫さんは「妻は家庭人として、優しさを第一に生活していた。多くの友人、知人らに恵まれ、幸せだった」と話している。午前11時から午後5時まで。

日本開拓伝道教会.jpgこれは2012年9月29日、病床の萬壽子さんをお見舞いした帰りに訪ねた日本開拓伝道教会である。

会堂は1963(昭和38)年4月19日に献堂式が執り行われた。後年、教会の代表として長い年月長原さんご夫妻が愛して仕えてこられた教会であったが、長浜駅前再開発で2014年(?)に取り壊されて今はもうない。

それにまつわる出来事の苦渋はいかばかりか!

教会はなくなってもご夫妻にとっては「終生の教会」であり、今も長原さんが納骨堂を管理し、毎週2度、夏はもっと頻繁に献花を交換するために足を運んでおられる。

長原萬壽子さん遺作.jpg

頂戴した萬壽子さんの遺作・「ピエロの仲間たち」はブログにも記録させていただいている。


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2016年11月20日

東 道男牧師 72年間連れ添った伴侶との別れ−日本クリスチャンペンクラブ・関西ブロック例会− 

19日は千里ニュータウン教会で日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロックの例会があった。

南千里駅.jpg

阪急・南千里駅に降りると美しい景色が目に飛び込んできた。
毎年6月と2月の例会会場になっている日本キリスト教団・千里ニュータウン教会は、阪急千里(せんり)線の南千里駅から徒歩でも行ける距離にある。万博記念公園は千里線では次が最寄りの駅だ。

IMG_1152.jpg千里ニュータウン教会の東(あずま)道男牧師は96歳、現役の牧師である。
例会の2日前に、東先生の御伴侶が10月5日に召天されたことを知った。共に歩んだ年月は72年間だったという。

今年初め、『種を蒔く』の編集のことで東牧師にお電話したことがあった。東先生は耳が遠いのでファックスで送信したが届かず、急を要するのでお電話した時に奥様が取り次いでくださった。

「道男さん! 道男さーん! クリスチャンペンクラブの藤本さんからお電話ですよ」。と、明るい声で呼んでくださった。
しばらく待っていると隣室あたりから来られた気配があり、「ありがとう」とお礼を述べて受話器を取られ、その様子からこれまでのお二人の歩みの全てを凝縮して見せていただいた思いがした。

IMG_1158.jpg「皆様のご来会を心からお待ち申し上げております。楽しい実りと良き証詞の会でありますように」。

昨日も玄関に看板を立てて迎えてくださっていた。
例会が終わって別れる時、いつものように外に出て見送ってくださる師の姿に心が痛んだ。

東牧師は私が籍を置いている教会のことで心を痛め、何度も励ましを送り続けてくださっている牧師である。私は8月から3ヶ月もお手紙をお送りしていなかったことが悔やまれてならない。

posted by 優子 at 23:59| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年09月20日

太宰治『走れメロス』を読む −日本クリスチャンペンクラブ・関西ブロック例会− 

『走れメロス』は中学校の先生方の意見として、授業でやると先生ばかりのめり込んで中学生たちは白けてしまい反抗する。研究家の中では明るすぎるのではないかと意見が二つに分かれている。

太宰は『走れメロス』をギリシャの古伝説とシラー(シルレル)の『人質』をもとに書いたと言っているが、違うものを読んだのではないかというのが説得力を持って迫ってきた。

前者では主人公の名前はピチウスで親友はダモンであるが、後者では主人公がダーモンで親友の名前がピンチアースに名前が入れ替わっている。主人公を誰にするかで変わってくる。

『走れメロス』は口述筆記であり、少しアルコールも入っているとも言われている。太宰はこれを一気に語ってメモされて活字になった。従って太宰独特のくどい文章表現ではなく、しゃべり言葉で語られており、それがこの作品のいのちになっている。

太宰のことを神さまのようにいい人だったという人もいれば、悪魔のようだったという人もいる。酒を飲んだ途端に人が変わる。その時にいつも一緒にいたのが檀一雄だった。

『走れメロス』を発表したのは昭和15年で、戦後この作品のもとになった話を友人・檀一雄が『小説 太宰治』で紹介した。

その最後を引用する前に、そこに書かれている要諦は次のようである。(『太宰治―<愛>の表現の困難さ』より)

「1936(昭和11)年12月、熱海に仕事に出かけた太宰のもとに檀一雄が訪れ、2人で流連、持ち金を使い果たしただけでなく、借金を300円も抱えてしまった。取りあえず、檀を人質に井伏鱒二宅にやってきた。
ところが、いつまでたっても太宰は戻らない。しびれを切らした檀が井伏宅を訪ねると太宰が云った。『待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね』」。


檀一雄は『小説 太宰治』を次のように結んでいる。(表記は本文のママ)

「私は後日、『走れメロス』という太宰の傑れた作品を読んで、おそらく私達の熱海行が、少くもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた。

あれを読むたびに、文学に携わるはしくれの身の幸福を思うわけである。憤怒も、悔恨も、汚辱も清められ、軟らかい香気がふわりと私の醜い心の周辺を被覆するならわしだ。

『待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね』
と、太宰の声が、低く私の耳にいつまでも響いてくる」。 
         

檀は「堕落の果てに金を使い果たした男(太宰)が自分をえらい目にあわした」と、何度もこのことを話し、太宰のことを「悪魔の伝道師」と言い続けた。

この出来事の10ヶ月前(1936年2月)に、太宰はバビナール中毒で精神病院の監禁病棟(個室)に入れられて大きな衝撃を受けた。
病院から出た時に、無教会の信者より『聖書の研究』を読み、そのことにより太宰の中で祈りが出てきたというのが現代の定説になっている。

人は何のために生きるのか。
このとき、太宰は「義」のために生きると考えていた。イエスが自分の命をなげうって人のために死なれた愛のわざ。3日目によみがえるといった預言を映しているのではないか。それがメロスの大きなテーマと考えてよいのではないかと思う。

太宰はメロスを英雄にはしないで、恥ずかしい羞恥心のある人物に描いた。
ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。

       (『走れメロス』の末尾)

太宰の文学は誤解されるが、『走れメロス』は全く違う作風でキリスト教の影響がある。太宰が最も良い作品を書いたのは中期と言われている作品で、そこにはキリスト教の影響を受けて「希望」が生きていた。

太宰が最も感動した聖書の個所は「サマリヤの女」(ヨハネ伝4章)の話で語られたイエスの言葉である。


「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。


神さまが恵みとして与えてくださった水によって立ち上がったサマリヤの女。そういう可能性が人間には開かれているんだと、太宰はそのことを書き上げておきたかったという願いがあったのではないか。

太宰は聖書によって大きな影響を受けて「変わりたい」という願いを持ち続けた人ではないかと思う。何を望みながら生きていた人なのかなぁと考えていくとおもしろいのではないか。


太宰が死んだ後に出てくるのが山本周五郎だが、2人は相通じているところがある。

クリスチャン文学者・大田正紀先生の感性、信仰による洞察に感銘を受けた。
なお、青空文庫で『走れメロス』を読むことができる。

ヨハネによる福音書 4章1節〜30節:
4:1 イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、  
4:2 (しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)
4:3 ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。
4:5 そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、
4:6 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。
4:9 すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。
4:10 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。
4:11 女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。
4:12 あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。
4:13 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。

4:15 女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。
4:16 イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。
4:17 女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。
4:18 あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。
4:19 女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。
4:20 わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
4:21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
4:25 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
4:26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。

4:27 そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。
4:28 この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、
4:29 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。
4:30 人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。

IMG_0103.jpg附記:強い台風第16号の接近で、奈良県にも大雨・暴風・洪水警報が発令されて休校になったが、今は小雨も上がっている。嵐の前の静けさか。
お昼前から大雨になるというから、生協の共同購入の配達時間と重なるので気を揉む。しかも、4月から新しい配達員さんに変わったところなのに転職のため今回で最終となる。大雨だと慌ただしい「サヨナラ」になってしまう。

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2016年09月19日

いつもの席に見えぬ久保田暁一先生 −日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会−

9月17日、日本クリスチャンペンクラブ・関西ブロック例会を大津教会会議室で開催。初めに事務局長が久保田暁一先生が召天され哀悼の祈りを捧げられた。
そして、大田正紀先生はしみじみと語られた。

「あれだけ人が集まるお葬式は少なく、大人が200人以上、立ち席の人々もたくさんおられた。教職を辞めて、地域の方々に学びを進めてきたことがよくわかるお葬式だった。地域の中の教師として全うされた素晴らしい姿だった」。

長原武夫兄(きょうだい)は常々関わる人々に資料や本を郵送し、例会でも毎回興味深い記事を配布してくださり、今回も今関先生の記事などたくさん頂戴した。

そして、久保田先生が毎号郵送してくださっていた『だるま通信』の最終号より3号分をコピーして配布してくださった。
これは、2015年5月20日に発行された最終号である。

IMG_0086.jpg毎号6ページに綴られており、右側6ページの上段の囲みには「総括」として最後の心境を刻んでおられた。(後掲)
IMG_0087.jpg











IMG_0091.jpg

師を天に送ったさみしさ極まり、「関西ブロック」を起ち上げてくださった久保田先生を思い、草創期に尽力してくださった長原兄と共にJCPのために心を尽くしたいとの思いを強く感じている。 
(続く)

posted by 優子 at 13:19| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年09月16日

日本クリスチャン・ペンクラブのご紹介

IMG_0044.jpgシーズンを終えた老木に今も咲くトマトの花。
ベランダのプランターに植物を育てるのは楽しいが、最後が辛くて廃棄できなくて困る。トマトの横にはボロボロになった朝顔が今朝も6つの花を咲かせている。まだ咲こうとしている花を私は抜くことができない。

昨夜は「仲秋の名月」。
2階の出窓から薄雲にかくれんぼする月を見ていた孫が叫んだ。
「あっ、見えた! おじいちゃん、出てきた!」
透き通った声が心地よい。

明日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会だ。
6月の例会は久保田暁一先生の葬儀だった。明日はその後初めての集まりである。JCPのホームページを開くと、秋にいざなわれる一文が清涼剤のように心身に沁みとおっていった。

初秋のあいさつ

いつもJCPのHPにご好意をいただきありがとうございます。

「春・夏・秋・冬」の四つの季節のうち、人が待ち焦がれるのは「春」と「秋」ではないでしょうか。その前の季節、「春」に対する冬や「秋」の前の夏に苦闘するからでしょう。

今年もようやく待望の秋に進んできました。
秋を知り、愛でるには人それぞれの感性が活躍します。
清少納言は「秋は夕暮れ」といい、藤原敏行は「風の音にぞ驚かれぬる」と詠います。

サトウ ハチローは、モズの声や風やはぜの赤い葉に「小さい秋」をみつけます。

初秋、中秋、晩秋に分けてみても秋はつかの間ですが、創造主の絶妙な作品「秋」を楽しみたいと思います。

赤とんぼ  筑波に雲も  なかりけり  (正岡子規)


今回も諸集会の案内や会員の作品を新しく掲載しています。
ご高覧いただければ感謝です。

皆様の上に、秋の恵みが豊かに与えられますようにと、イエス・キリストの御名によって祈ります。


お知らせ
 
*新しく作品集「春夏秋冬」から『私と食べ物』2作品、「夏」6作品を掲載しました。(9/10)

*下記に集会案内をしています。お近くの方は参加ください。

関西ブロック例会

とき   2016年9月17日(土)13時から17時
ところ  日本キリスト教団 大津教会 愛光センター
     〒520-0056 大津市末広町6-6
     077-522-3634  

第1部   開会祈祷
     講演「太宰治『走れメロスを読む』」大田正紀

第2部  あかし文章発表と相互講評
テーマ:信仰の証しについてのもの。『今伝えたいこと』などまたは自由課題。本文2000字以内(文集にしたとき2ページ分に相当します)のものをご用意ください。後日文集にします。(当日ご用意いただく場合は、各自で10部コピーして来てください。)

第3部 今後の歩みについて 報告、連絡など

参加費 500円
持参品 讃美歌225番(すべての人に)讃美歌21 57番(ガリラヤの風かおる丘で)の楽譜

出欠は9月11日までに、下記原田までご連絡ください。
連絡先  原田 潔
 〒520-0822 大津市秋葉台17-23
 TEL 077-522-6171 Fax077-522-6178

関東ブロック例会
            
とき  2016年10月1日(土)13時半から15時半
ところ 御茶ノ水クリスチャンセンター4階416室
賛美・みことば・祈りの時 賛美:讃美歌301番『山べに向かいてわれ』
聖書:ペテロの手紙第一 1章1節〜4節
  『朽ちない財産』山本悦子牧師
学びと分かち合い オカリナ演奏 佐藤晶子
『あかし文章の原点』三浦喜代子
『山川草木・信望愛を書き終えて』有志
グループ合評(これまで書いた《山・川・草・木・信・望・愛》の作品の中から1篇を数枚コピーして持参)  
参加費 1000円
この続きはJCPのHPをご覧ください。

今先ほど、名古屋から例会出席の電話が入った。
「名古屋から京都まで45分だから行きます!」と元気な声。
聖霊は私たちの気づかぬところで働いておられる。明日の例会を祝してくださるように。

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2016年07月26日

地図から消された島 ー『大久野島からのバトン』講演とサイン会に参加して U−

毒ガスづくりに利用された人たちは、加害者であったかもしれないが完全な被害者でもあった。加害と被害の両方を背負って生きていくとはどんなことか。

(ここで語られたエピソードを正確に記すことができないのが残念だが、私のライフワークと重なることと、ここから作者の強いメッセージが込められたところなので唐突ながら記録しておきたい。)

人間としてちょっと得するためには何かが動いてしまうという人間の実相。戦争がなければ、こんな人間の暗い部分を引っ張り出さなくて済んだのに。

私は光に向く力もある。光の中に生まれ、光に向いているというのを知っている。だから闇の中に引きずり込まれない。


私は児童文学作家をやっているので子どもを信じる。子どもたちの目で見て考える物語にしようと思った。

ちょっとの差、違いからいじめが始まり、それがどのようにエスカレートしていくかも子どもにはわかる。ニュース報道は「誰が死んだ」「どこで死んだ」だけで、大切なことを伝えない。

子どもたちが困ってうずくまっている時はジーっと待つ。子どもは信じられる。

一番深いあそこに目を向けたら助けは来る。

戦争で幸いにも生き残った人を「幸存者」と言い、中国の人は「本当の事実」を「鉄の事実」と言う。「それは鉄の事実だ。しかし、あんたたちは政府の人の言うなりにやっただけだから悪くない」と言ってくれている。

しかし、もしそこに私(今関さん)が居たらもっと責任重大であり、ゆるされないなと思った。

(作品の)子どもたちのやり取りがどんなふうに終わっていくのかも見てほしい。

進一さんは戦後も生きている。吉成は戦後も襖(ふすま)の向こうにジッとしている。自分はゆるされたいんだと、自分をゆるさない者として描いている。もっときつかった(厳しかった)と思うが、そのように感じて書いている。

「戦争は私たちにバトンを渡されてこれから」ということで書いているので、これからは読者にゆだねていますから、それぞれが答えを出してくださればいいなと思った。

語り合いより:
▼ ちょうど今日7月24日は、東洋レーヨン大津工場 (現・東レ)に原爆の模擬爆弾が落とされた日。死者16名・負傷者104名を出した日で、私の父親(98歳)も負傷して腕を失くした。
今後は加害の側面もあることを考えながら伝えていきたい。(大学講師)

▼ 戦争を話す時は被害、加害の体験を話すべき。教育は怖い。(空襲で)敵機が来ると相手の顔が見えた。(彦根の近江工場でゼロ戦の部分品を作っていた老婦人)

今関信子さんと.jpgこのあと大津駅前のベンチでクリスチャン・ペンクラブの私たち3人(中央が今関先生)は、時間を忘れて2時間もいろんなことを熱く語り合った。

若い頃から人と人をつなぐことをされており、今日は共産党を母体とする文化のところで開催されたものである。

今関先生が最も語りたかったことを話しておられた時、会衆は「うん、うん」と深く頷きながら聴いておられたこともお伝えした。

「いつも人間の怖さ、光と闇をしゃべりたいと思っている」。 

作家としての手の内も見せてくださり、取材や複眼的視点で物事を見ること、また想像力と構想など、創作する人の思考回路を垣間見た。

そして、神さまから与えられたタラントを生かして懸命に励んでおられる姿に触れ、クリスチャンはこの世に埋没してしまってはいないか。教会のことで汲々とするだけで世に出て行かない者が多すぎはしないかと自らにも問うていた。

我が国においても悲惨な事件があとを絶たない今、「またか」と我々は不感症にならないように真剣に警戒しなければならない。

例えば過日自民都連が今繰り広げられている都知事選で、自民党員が小池ゆり子さんを親族が応援しても除名処分になるとの奇怪さにも気づかねばならない。

これでは「思想・良心の自由」を保障している「憲法19条」を完全に無視し、堂々と報道までする不気味さこそが、日本が重要な岐路に立っている現れだ。

この異常さにも不感症になっているから、「ポケモン・ゴー」とやらの仮想現実ゲームに大人までが興じているのではないだろうか。

『大久野島からのバトン』を読んだ者は、確かに「考える種」を受け取るはずだ。無関心な子どもや大人たちが痛みを感じることができますように!

みんなの力で日本の軌道修正をしていかないと、地獄への分かれ道がすぐそこに迫っている。私はこのたびのバトンをしっかり受け取って子や孫に渡す。そして、ささやかながらもこのブログを通して世に発信したい。
 

附記:
次女夫婦は25日12:20PM(日本時間の26日午前1時20分)ワシントンダレス空港を離陸した。午後3時半頃に東京成田空港に到着予定。
1年ぶりの再会。野口シカさんのように再会を楽しみに待つ。

posted by 優子 at 07:26| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年07月25日

地図から消された島 ー『大久野島からのバトン』講演とサイン会に参加して T−

あなたは地図から消された島・大久野島をご存じだろうか。私はこの年になるまで知らなかった。

「大久野島は広島県竹原市忠海町の沖合い3キロメートルに位置し、数戸の農家が耕作を続ける島」だったが、太平洋戦争が始まる14年前の昭和2(1927)年、島全体が陸軍の毒ガス製造を目的として管理下となった。

そして、毒ガス兵器という国際的に禁止された兵器をつくっていたため、戦争中はこの島は地図からも消されていたのである。

児童文学作家の今関信子さんは、今から13年前に初めて大久野島へ行かれ、中国の北坦(ほくたん)村も取材されて、このたび『大久野島からのバトン』を世に出された。

本書は日本児童文学者協会創立70周年で記念出版されたものであり、作者が瀬戸内海に浮かぶ大久野島の「消された歴史」と向き合い、自分は何を感じ何を考えるのかと自己に問いかける大事業だと深い感慨を覚えた。

tn.jpg昨日、大津の「滋賀民報社内ギャラリーQ」で作者の講演とサイン会が開催されて出席した。多くの方々にお読みいただくことを願いつつ以下に講演内容をお分かちしたい。

そして次の「U」で講演の残りを刻み、その最後に私の思いを述べて、私なりに次世代の人々にバトンを渡す責務を果たしていきたいと願う。

1937年頃、大久野島に「陸軍技能者養成所」、正式名は「東京第二陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)技能者養成所忠海(ただのうみ)分所」が創設され、この学校に試験を受けて入学すればお金をもらって勉強できる。大久野島で働くことを「おまえは運のいい子だね」と言われた。

その入所式では「これから作る兵器は平和のための兵器です。人道的兵器なのです」と、兵器がなぜ人道的なのか意味不明の説明を受け、すべて軍事機密に関することゆえに秘密を守る約束から始まった。

(著者は)毒ガス造りに巻き込まれた少年の一人、大久野島毒ガス資料館初代館長だった村上初一さんが館長を終えてから出会い、彼の人生を聞き、彼の死までつき合った。

一人の少年が戦争でどのように引き受けていったのかということを書かないと、私の戦争につながらないと思った。

聞き書きならば、そこでピリオドが打たれて終わってしまう。だから私は彼の話を聞いて、私が刺激を受けるのか、受けないのか。それを書きたかった

村上初一という中心になっていく進一と、敏夫、吉成を選び出して三者三様に描いた。

それぞれの立場で呟(つぶやき)にも近い多くの人々の証言も読み、想像力を働かせて、どうやってその人を立ち上げていくか・・・

子どもは小学2年生になると世の中の動きや家族の動きを大づかみにつかみとってくる。理路整然としゃべれなくても今の社会が何を大事にしているのか、何を良くないとしているのかを感じている

従って登場人物の3人の少年は、もう大人に近い考えで日本のために何をすれば一番いいのかを考えていたんだと思う。

そこで働き続けた人、戦地に行って戦死した人、再起不能の体になり病院でも見放され家へ帰されて悲惨な状態になった吉成(よしなり)は、家に引きこもり自分の経験を一切言わなかった。

この子が社会をどのように見たのか追い込んでいった。
皆さん、吉成を読んでもらいたい!
吉成に会ってもらいたい!


戦後、戦時中にやっていたことを無くすために順々に壊し、土佐沖に棄てた。大久野島へ戦後処理に駆り出された帝人の人の水ぶくれが一番ひどかった。人の目に見えないところは壊さなかったので今も残骸が残っている。それらは70年経っても風化しない。

戦後、生活にゆとりが出てきた時、休暇村構想が出てきて国民休暇村に変化し大久野島が第一号になる。

毒ガスがあれば小さな生き物が死ぬ。ちょっと何かがあれば煙が出る前に小鳥が騒ぐので、即座に人々が逃げる。

大久野島は今「ウサギの島」と呼ばれるようになり、桟橋を降りるとウサギが寄ってくる。どこへ行ってもウサギがいる。毒ガスの実験用にされたウサギは一匹残らず殺されたので、今いるウサギはその子孫ではなく、「平和の使者」として生きている。

今は広島と安芸の宮島が修学旅行のセットになっており大久野島には来ない。大久野島にいる人は環境学習のために来る。今は美しいウミホタル。
社会の風は、広島の悲劇を学び、「今は排水も出ないこんなに美しい島です」と変わってしまった。


14歳の3人の男の子を描くと同じように3人(3パターン)の女の子を登場させ、物語は広島のYMCAの女の子たちが大久野島にやってくる所から始まる。

作家としての手の内も見せてくださり、一番気を使ったのは桜ちゃんのグループで、「私には関係がない」と奥を探検する桜ちゃん。

どこにでも好奇心旺盛の子がいて、その子は何にでも引っかかっていくが、遊びに専念する子たちは(心に)何も引っかからない。しかし、学校に帰ってから初一さんの話が自分に迫ってくるかどうか・・・

                  (つづく)

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2016年06月22日

久保田暁一先生 追憶

2008.8.jpg
2010年8月のJCP全国合同夏期研修会、
日本クリスチャンアカデミー・関西セミナーハウスにて

2008_8.jpgこれは2008年8月、関西・中部ブロック夏期研修会での写真だが、先週から探し続けているのに見つからない。

katatu.gif

久保田先生との思い出を一つ選ぶならば、2010年1月30日、関西(かんせい)学院大学(通称:関学)で開催された日本キリスト教文学会の日に10時間半を共に過ごしたことだ。

先生はあの時すでにパーキンソン病で歩行が危ないだけではなく、両膝関節の痛みのため5センチほどの歩幅でしか歩行できなかったのに、遠く近江高島からお一人で兵庫県西宮市の奥へ出向かれた。

その勇気だけではなく膝の苦痛は相当なものであり、本当にお疲れになったことであろう。

午前10時半に大阪駅中央改札口でお出会いして、関学のキャンパスに着いたのが12時45分であるから、いかに困難な足取りであったか想像して頂けるだろう。仮に阪急電車との連絡が悪かったとしても、梅田から1時間少しあれば十分に関学に到着するのだから。

関学の門をくぐった時は昼食を摂る時間もなく、私は先生にキャンパス内のベンチで待っていただいてパンを求めて走った。真冬のベンチである。必死で食堂、売店と走って調達したが、それでも10分近く待っていただいたと思う。

この半年ほど前から関西ブロックの会計(だったと思う)も引き受けてくれないかと薦められていたが、私は2009年春以来長女のことで苦悩の中にあり、心身共にズタズタだった娘のことに神経を使い、孫との生活に明け暮れしていることを話して辞退していた。

ところがこの日も仰ったので、「5日前に長女の調停離婚が成立したのでお受けできる」と良いお返事をしたものの、現実はまだまだ大変でうやむやにしてしまった。

この日、道中で、また、暗くなった寒いキャンパスで励ましてくださったことが今も強烈な印象として残っている。

「藤本さんに元気で楽しく生きてほしいんや。
聖書を読んでクヨクヨするのは読み方が間違っている。聖書は私達が幸せに生きるようにと(神さまが)下さったものだ。苦しむために下さったのではない」。


師は柔らかい口調で、しかし、単純明快に言われた。そして、
「力になれることがあれば何でも言うておいで、相談にのるから。失礼だろうけれど藤本さんのことを娘のように思っている。・・・

藤本さん(何度も「優子さん」とも呼んで下さった)は突込んで書くからいい。今まで書いた論文や新しく書いて是非一冊出そう。慌てなくてもいいから。私でよければ出来る限りのことをする」。


久保田先生は誰に対しても優しく愛に満ちた方であった。
日本キリスト教文学会でも重鎮だ。初めて行った時は、関学の副学長(日本キリスト教文学会支部長)や遠藤文学の長である笠井先生など多くの方に紹介してくださり、この日も研究発表していた若い研究者の後方支援のためにと質問しようとされていた。
師はいつも周囲の人々に優しく励ましの言葉をかけておられた。

「私でよければ序文を書かせてもらうから」。

「『パンドラの匣』の執筆依頼にしても評価されているから声をかけて下さったんやからな。志を持ち続けていれば必ず道は開かれていくから」。


お別れする前に大阪駅構内の店でコーヒーをいただいていた時、この日、久保田先生は私のことを心配して出て来て下さったことを知った。やっぱりそうだったのか・・・涙が滲んだ。
それなのに、「ありがとう」、「悪いなあ」、「嬉しいなあ」と何十回言って下さっただろうか!


私は先生と腕を組み、指と指をしっかり絡めて手をつないで歩いた。先生は何度も手を強く握られ、私も強く握り返して手でも会話していた。

阪急側からJR大阪駅側に渡る混雑する横断歩道では、信号が青になった時にすぐにスタートできるように右端の一番前に立った。

歩行力が行きの時よりますます落ちておられるのがわかった。息遣いもしんどくて呼吸が整うまで待った。そして、2度目の青になって渡り始めた。時間内に渡り切るのは必至だった。

「大丈夫! ゆっくり 慌てないで、1、2、1、2、もう少しです」。もはや渡り終えていないのは私たちだけで、今にも自動車が出てきそうだった。

そして、「渡れましたー!」と2人で笑った。母が完全に歩けなくなるまで母と同じようにして歩いていたことも脳裏をよぎった。

行き帰りの5時間、先生に寄り添いながら歩かせて頂いたことは生涯の宝。その背後にずっと神の愛を強く感じていた。


20時53分の敦賀行き快速を見送って環状線のホームに向かった。先生の無事を祈り、後ろ髪を引かれる思いでお別れした。

私が自宅の最寄り駅に着いたのはちょうど10時だった。その1時間も前から長女が駅で待ってくれていたとは思いもよらず、申し訳なくもありがたく自動車に乗り込んだ。

今も先生の声が耳に残っている。
「優子さんは明るいからいい。優子さんが家族の要(かなめ)やからな、お嬢さんを励ましてやりなさい」。

「2歳半の孫が、『おじいちゃんが無事に帰ってきたことを感謝します』とお祈りするんですよ」と話すとビックリされて、「強制せんでも(しなくても)か?」 「はい」
「お孫さんも(神に)守られているんや。(これからのことは)心配ない!」と喜んで下さった。

早速この日のお礼状も届いた。

久保田先生より.jpg

その4ヶ月後、両膝の手術後のお見舞いに上がった時、術後の痛みも楽になられ、血色もすこぶる良くお元気だった。

O姉とのおしゃべりに花が咲いて、遥か遠くまで乗り越してしまった話をすると先生は爆笑されて、「藤本さんが元気になってよかった!」と喜んで下さった。奥様は終始おそばで静かに微笑んでおられた。

大きな悔いは、先生が「私でよかったら序文を書かせてもらうから」と、お会いするたびに何度も何度も声をかけてくださっていたのに努力しないで終わったことだ。やり始めたもののいつしか諦めてしまい、ほぼ手つかずのままだ。

師は80歳からパソコンに着手し始めて時間がかかりながらも『だるま通信』を書かれ、2015年5月20日に「これを最終号とします」と275号を発行された。

それだけではなく、周囲の手助けを受けながらもこれまでに書かれたものを何冊かの本にまとめられたのに、その間でさえ私はどれだけやったというのか! 
親子の年齢差があり、体も自由に動き、ましてや自らが最もやり遂げたいことであるのに!

もはや久保田先生の序言をいただくことはできなくとも、怠惰な己に鞭打ってやり遂げないではすまされない。久保田先生と出会わせてくださった神さまに感謝し、残りの時間はそのことに集中して必ずやり上げたい。

久保田先生の講演より:
私の文学活動も一切党派を持たない。なぜならば、客観的に見られなくなるからだ。自由に読んで自分の納得のいくやり方で追求していくために、党派性をもたないでやってきた。

イエスを追求するにも自己を持たないかん。人の物まね、受け売りはいかん。遠藤(周作)にしろ椎名(麟三)にしろ独自の文学論をもってやっている。

「おおいなるもの」を宗教と言う。
そのおおいなるものに支えられていることがとても大切だ。おおいなるものに支えられていると傲慢にならずに生きていくことができる。


過去ログ・2008年11月16日の例会、三浦綾子の『母』と小林多喜二の『蟹工船』より。

「自分が信じるのではない。イエス・キリストに支えられて書かざるをえないということであり、そのためには裸(正直に)になる必要がある。
意欲をもって前向きに続けて行くと必ず自分なりにモノになる。心ある人を神が放ってはおかない」。


久保田先生の御愛を無駄にはしない。


posted by 優子 at 18:13| JCP関係 | 更新情報をチェックする