2019年02月21日

腹にこたえるほどに体験してこそ聖書のメッセージが響く −忘れられぬ例会−

2-21-3.jpg私は何も書けなくてこの2年間書かずにJCP例会に参加しているが、毎回発表する方は何人もおられる。
今回の作品で深い苦悩の渦中にある方を知り、絶句した。人生とは実に不思議だ、「事実は小説より奇なり」。病気だけではなく、自分に責任のない苦悩が多くあることをもう一度思い知らされ、最近読み直していた北森嘉蔵の言葉を思い出していた。

私たちには仲保者キリストが与えられており、その状況の中で苦悩は設定されている。詩篇140篇について北森嘉蔵はこのようにみことばを取り次いでいる。

敵を愛せよということをもって本命としている聖書の中に、「燃える炭を彼らの上に落としてください」という言葉が位置をもっているのです。

だから、こういう直接性の状況というものを、腹にこたえるほどに体験していないと、敵を愛せよという本命のメッセージが空疎なものになるということなのです。

聖書は「敵を愛せよ」というのです。だから、敵の敵たるゆえんが出る幕を持っていないと、「敵を愛せよ」という本命の出る幕がつまらなくなるのです。

だから、敵は敵だということを敏感に感受するアンテナがたっていないといけないのです。そういう意味では140篇は稀有なメッセージだと思います。
例会の日の駅からの帰り道、私は声を出して祈っていた。慰めと励ましを贈りたいが言葉が見つからずメールを送ることもできない。

2-20-5.jpg「人生に一度や二度は魂の底が落ちるという経験をする時がある。
人生はジグザグコース、紆余曲折が起こらないと、神のわざというのは示されない。大波が立ち騒ぐことがないから神がいるというのではない。

春風駘蕩、春風が吹いているような、四海波穏やかな状況ではなく、ダビデが苦戦していたように敗戦に敗戦が重なるという状況。

私たちは本当に人を愛することができない。どんなに努力しても克服できず、どうしても永遠者の力によらねばならないよわい(齢)は必ず終わりが来ることを知っていても、このよわいが終ることを腹の底まで認識することは人間の力だけでは不可能であるように。

聖書は悪い訪れは無いと言っているのではない。悪い訪れを恐れない。仇にまさって強い力が人生を導いているのだと。私たちは『叩けよさらば開かれん』、『求めよさらば与えられん』ということを約束している神の前に立っているのだと!」

詩篇140篇:
140:1 主よ、悪しき人々からわたしを助け出し、
    わたしを守って、
    乱暴な人々からのがれさせてください。
140:2 彼らは心のうちに悪い事をはかり、
    絶えず戦いを起します。
140:3 彼らはへびのようにおのが舌を鋭くし、
    そのくちびるの下にはまむしの毒があります。〔セラ
140:4 主よ、わたしを保って、
    悪しき人の手からのがれさせ、
    わたしを守って、わが足をつまずかせようとする
    乱暴な人々からのがれさせてください。
140:5 高ぶる者はわたしのためにわなを伏せ、
    綱をもって網を張り、
    道のほとりにわなを設けました。〔セラ
140:6 わたしは主に言います、「あなたはわが神です。
    主よ、わが願いの声に耳を傾けてください。
140:7 わが救の力、主なる神よ、
    あなたは戦いの日に、わがこうべをおおわれました。
140:8 主よ、悪しき人の願いをゆるさないでください。
    その悪しき計画をとげさせないでください。〔セラ
140:9 わたしを囲む者がそのこうべをあげるとき、
    そのくちびるの害悪で彼らをおおってください。
140:10 燃える炭を彼らの上に落してください。
    彼らを穴に投げ入れ、
    再び上がることのできないようにしてください。
140:11 悪口を言う者を世に立たせないでください。
    乱暴な人をすみやかに災に追い捕えさせてください」。
140:12 わたしは主が苦しむ者の訴えをたすけ、
    貧しい者のために正しいさばきを
    行われることを知っています。
140:13 正しい人は必ずみ名に感謝し、
    直き人はみ前に住むでしょう。

2-21-1.jpg書き手には、「今はまだ書く時ではない。書くまでに苦しみ抜かねばならない」とアドヴァイスされた。私は深く頷いた。
ゆるすことが全てに勝利することであっても、そこに至るには何という苦悩を通って行かねばならないのだろうか。しかし、主を信じる者には苦悩にまさって強い力で導かれていることを忘れないでと励ましたい。

閉会の祈りは、児童文学者・今関信子先生が祈られた。
天のお父さま(と呼びかけられたのだろうか覚えていない)
研究を分かち与えていただき、たくさんの学びを得ています。言葉を磨いてあなたを証しする文章を書いていけますように、あなたの小さな器として十分に用いてくださいますように祈ります。

今日ここで学んだことを一人ひとりの内に蓄えられ、毎日の生活の中で耕され醗酵して、どうかよい素材とよい言葉によりあなたを証しする文章が書けるよう、今日ここを出て行くにあたり、あなたの守りを一人ひとりを捉えてくださるように切に祈ります。

一人ひとり書いてきた文章が練り上げられて用いられますように、会を閉じるにあたり主の御名によってお祈りします。アーメン。

2-20-4.jpg

▼次回例会は、4月20日(土)大津教会にて 13時〜17時。
2019年度総会、『種を蒔く』5号出版について。学びは今関先生の講演。
1987年に出版された『小犬の裁判はじめます』(童心社)は、「日本人の心のぬくもりが書かれている。中国でも伝えたい」と劉穎(りゅうえい)さんが中国語に翻訳して、昨年中国の出版社から発刊された。その背景や感じておられることを話していただきたい。

なお、新年度にあたり、年会費(5000円)をお納めください。遠隔地会員の方は、1000円を振り込んでください。(ゆうちょ銀行:口座番号 00930=2=147275   加入者名 藤本優子)

margaret1b.gif
 ホッと一息 
2-18-3.jpgこれは18日に撮ったシロハラ。
シロハラの目もジョウビタキのように優しい目をしている。


ホオジロ・ユキ部屋から.jpg


これはホオジロ。18日の朝7時20分、朝食中のユキが見つけて室内からガラス越しに撮った。

ついでにこれは昨日の朝、5〜6羽のムクドリが元気よく屋根の上を行進していた! ムクドリは気が強そう。
2-20-3.jpg

posted by 優子 at 23:59| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2019年02月19日

「森鴎外の歴史物語を読む『山椒大夫』を中心に」 ―日本クリスチャンペンクラブ例会―

2-18-1.jpgこれは2月16日(土)、大津教会で開催された日本クリスチャンペンクラブ例会の講演内容を聞き書きしたものである。演者は私たちの導き手、大田正紀先生(日本近代文学研究者)。
『山椒大夫』は青空文庫でを読むことができる。

明治天皇の御大喪の日に乃木大将が切腹して殉死した。妻も喉をついて死ぬ。鷗外はこの報を聞いて、その日の内に『興津弥五右衛門の遺書』を執筆する。漱石は2年あとに罪を悔いて『こころ』を書いた。

鷗外は人生に否定的な小説を書いていた。それが最も露骨に顕れたのが『かのように』である。日本の歴史本には普遍的な価値を感じない。ヨーロッパは教会で国家の安定を足らしめていたが、天皇制に根拠はなく、ただ社会の安定のためであると、はるかに冷めた目で天皇制の社会を見ていた。

鷗外は明治の御代に腹を切って殉死するのは驚きだったが、自分もまた殉死する人間の真心や正義を汲み取って殉死を書いていく。これが鷗外の歴史小説の始まりだった。

2-18-2.jpg鷗外は日本のクリスチャンには大変評判が悪く、鷗外の文学の本質は上手に諦めること、「諦念」の文学だと言われ、キリスト教とは違うのではないかと言われるが、鷗外記念館のノンクリスチャンの館長夫婦は、鷗外はクリスチャンではないが如何にキリスト教に関心をもって作品を書き続けていたかがわかると語っている。
カトリックに入信した鷗外の次女・小堀杏奴(あんぬ)も、父の心の中にキリスト教があったのではないかと書いている。

『鷗外の降誕祭(クリスマス)』にクラウス・クラハトは鷗外のキリスト教を肯定的に書いている。森林太郎の「大正二年日記」12月5日に、「夜樅の木に燭火を点してNoëlの祭の真似を為す。」とある。

キリストの生誕を祝う言葉は多数あり、すでに「クリスマス」が大半を占めていたのに、なぜフランス語の「ノエル」なのか。なぜ「祝う」や「行う」ではなく、「真似を為す」、即ち「かのように為す」であったのか。鷗外は日本では珍しくクリスマスを祝い、お世話になった人にクリスマスプレゼントを渡していた。

『鎚一下』では基督教信者の生涯に感銘を受けて、「多くの不遇の青年を諸方から集めて、基督教の精神を以て同胞としてママ待遇して、自分も一しよになつて労働してゐる」など、キリスト教徒の事業家夫婦の感動的な生活を描いた。キリスト教の善さを見出した鷗外は殉死の歴史を書く合間に、人生の苦難を切り拓いていった女性をキリスト教の影響下で試みるようになった。

山崎国紀は『森鷗外 −≪恨(はん)≫に生きる』に、鷗外における二つの恨、悔いを書いている。少年鷗外が津和野藩のキリシタン迫害、殉教を見たのが大きな心の傷になった。村の人々は優しかったが誰ひとり助けなかった。しかも自分の親戚が改宗の指揮を取って理不尽な迫害をしたが、その人の名前を出せない。それが一つの恨で、10歳で故郷を出て以来、小倉に左遷された時も半日で行けるのに津和野には生涯帰らなかった。

もう一つは、恋人エリーゼ・ヴィーゲルト来朝である。当時外交官は外国人と結婚してはいけないという不文律があったために、ドイツで医学を勉強すればここで医学者として生きていけるという自負もあったが、自分の可能性だけに賭けることはできないと帰国。別れた女性と文通はしていたが、鷗外は用心深い人で外国にいた時の日記はすべて清書して書き換えている。

『山椒大夫』
仏教の真理を解りやすく伝えていくのが説経である。鷗外は原作にない書き方として、母を簡単に人を信じてしまう愚かなところをもっている人物とし、人のいいにもほどがあるように簡単につかまって売り飛ばされてしまう。

最初のクライマックスは、安寿と厨子王の逃亡計画を知られて、山椒大夫の三男三郎に2人の額に「十文字」の焼き印を押されるところだ。これを半ば夢の中の話になり、地蔵尊を額に当てると焼傷は消え、地蔵尊にキリスト教のシンボル十字架が刻まれていた。身代わり地蔵のこのあたりの文体が変わり、夢のことと処理したあたりがうまい。

そして父のあとを継いで支配者になって行くとして、厨子王が乞食から高貴な身分に変わる天王寺の場面や、火あぶりや水責めなど拷問ののちに惨い殺されかたをするところも全て取り去り、安寿は運命に身を投げたという形にして永遠な毫光の中で入水する場面を象徴的に描いている。この物語の最も深いところにキリスト教の受容がある。

最も大きなテーマは、説経ではこんなにひどい下人たちを出世した厨子王が国司として赴任した時に、山椒大夫を捕まえて三郎をノコギリで引いて殺す怨念の復讐で拍手喝采となるのであるが、鷗外は主従関係を改めさせて奴婢を解放し、和解へと導く。佐渡に渡った盲の鳥追いの母とも再会を果たす。

岩崎武夫は中世の説経の肝心を欠落していると批判しているが、これは復讐譚ではなく人はどこにおいて変わるか、できるかということで書いたと言えると思う。

『最後の一句』
父の死罪の知らせを受けて、16歳の長女いちが町奉行に、自分たち子どもの命を差し出すから父親の命を助けてほしいと願い出た。奉行所は父を助けたら「お前たちはすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることは出来ぬが、それでもいいか」と恫喝されるが、「よろしゅうございます。お上のことには間違いはございますまいから」と切り返す。いちの一言が大嘗会(だいじょうえ)に遭遇して、父親は死刑ではなく所払いになったという話である。

この話は鷗外が少年の日に、切支丹迫害をただ傍観者として見守るしかなかったことが、終生鷗外の精神的外傷(トラウマ)として残っていることが影響している。即ち津和野藩が彼らに苛烈な拷問を加え、棄教しなかった子供を含む36名が死を遂げた殉教(マルチリウム)と重ねられており、そこで彼らの尊い信仰に出会っていた。

これは親孝行の話ではなく「マルチリウム (殉教)」の精神を書いたもので、いちの献身・自己犠牲が運命を切り開いたと見ることができる。鷗外は「殉教」ではなく、おだやかに「献身」と訳語し、「献身の中に潜む反抗の鉾」と言っている。

『大塩平八郎』
鷗外は明らかに幸徳秋水事件をめぐってこの作品を書いたと言われている。ひとりの人が銃を撃ったという記録はあるが、殆どの人が冤罪で、命運つきて歴史を越えていくことができなかった悲運を描いた。

ただ社会主義、共産主義、無政府主義を信奉しているというだけで政府はその人々を捕まえ、あっと言う間に処刑してしまった。裁く側は社会主義者がどうして悪いのかを知る手立てがないために、ヨーロッパで多くの本を手に入れている鷗外に訊いた。

取り締まる人間がどれほど偉いのか。大阪に火をつけた平八郎の中に悪魔的な意思はなかったのかどうか、一概に悪魔性があったとは言えないのではないか。平八郎は十字架にかかって死んだと書いている。

安寿は永遠な毫光の中で入水して運命を開き、いちは大嘗会という「時」に逢って命運を生きる。『安井夫人』や『ぢいさんばあさん』など、晩年は愛によって人の人生が変わるという話を書いている。

人生は真面目に生きていても報われないことが多く、そのことを噛みしめながら自分が命を差し出す思いで生きていくならば困難を変えていくと、目先のことではなく遠い所に希望があるのではないかと、美しい目の視線の向こうにある希望を書いた。

そして最後に自伝ものに入っていく。壮年期の鷗外の心底を領していたのは虚無主義であり絶望的な思いしかなかったが、希望も獲得しつつあったのではないか。その本質にキリスト教があったのではないかと次女・杏奴(あんぬ)が言っている。

鷗外が『最後の一句』で、皆が父親の沙汰をどうするかという時に、大嘗会と重なり恩赦になって所払いになった。
鷗外は何かおかしいと考えながらも、明治天皇の大嘗祭を無事にやっていきたいというのが、軍医のトップにいた鷗外の最後の仕事として降りたかった。

『鷗外の降誕祭(クリスマス)』の脚注に大田先生と恩師水谷昭夫先生の論文が紹介されている。「大学の紀要に書いたものなのに」と、ドイツ人がここまで調べていることに驚いておられた。この本は希望が多ければ電子図書にされるという。
(つづく)

2-18-5.jpg

posted by 優子 at 18:00| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2019年02月16日

『嵐吹くときも』の世界 −2018年11月例会の学びより―

2-13-14.jpg今日は2月の例会に出席、大津教会でペン仲間と交わり、豊かに恵まれて帰宅。今回も大田先生からA3サイズの用紙27枚の資料を拝受した。10名分余りで300枚もコピーして持参してくださり、師の御愛労に応えるべくしっかりまとめたいと思う。

さて3ヶ月も前の記録になるが、2018年11月17日に日本キリスト改革派・灘教会で開催されたJCP関西ブロック例会記録を挙げたい。この日の学びは遠藤優子姉による三浦綾子著「『嵐吹くときも』の世界」だったが、私は例会の数日前に欠席の連絡を入れた。

IMG_4897.jpg優子姉とは2017年4月25日に紀伊国屋のビッグマン前で待ち合わせて、近くのカフェで2時間近く互いの課題を分かち合い、最後に祈り合うという貴重な交わりを得ているのでどうしても行きたかったが、10月半ばの驚愕すべき出来事に打ちのめされてどうしても行くことができなかった。

例会後まもなく12月初めに話されたまとめをお送りくださり、早速読ませていただいていたが、事務局より例会報告がなされてからブログにも記録公開させていただこうと思いながらも、2週間あまり過ぎてしまった。しかし今漸く力が充満されて、読者の皆様にもお分かちさせていただきたい。

講師の遠藤優子さんご紹介:
神戸市生まれ。関西学院大学文学部日本文学科、同大学院で文芸評論家の水谷昭夫教授に師事。水谷師の三浦綾子夫妻取材で北海道に幾度か同行し、ご夫妻の人柄と生き方に衝撃を受ける。1992年4月から97年3月まで中部女子短期大学(現中部学院大学)初等教育学科専任講師。現在は創作グループ「ふらここ」所属。

近年は三浦綾子読書会の例会日と重なって長らく欠席されているが、2010年8月の夏期学校では「盲目のグーテンベルク」と題して『見はてぬ夢を―「視覚障害者」の新時代を啓いた左近允孝之進の生涯』をご講演いただいている。

では遠藤姉の「『嵐吹くときも』の世界」をお分かちしたい。

この作品は、昭和59年(1984年)1月号〜昭和61年(1986年)6月号まで「主婦の友」誌に29回にわたって連載されました。人間の罪、ゆるし、和解、新生を語る作品の系列に入ると言えます。

綾子さんの父方の祖父母の出身地佐渡の肉親を原型に登場人物を設定したという点で、三浦作品群の中で「ちょっと毛色の変わった小説である」と作者自身があとがきで語っています。

物語の舞台は、北海道の日本海岸、天売/焼尻の島が間近に見える苫幌村で始まります。佐渡から渡ってきた中津順平が開いたかねなか商店、その妻である美しく人をもてなす才能にたけたふじ乃を中心とする中津家と、夫長吉の他界後地味で働きものの女性キワが3人の男の子を育てながら営んでいた山形屋旅館という2家族が物語の中心にあります。このふじ乃は、綾子さんのお祖母さんがモデルということですが、綾子さん自身の一面を見せる人物でもあるとも思われます。

ふじのの一夜の過ちによって誕生したと周囲から見られている息子新太郎をめぐって、どろどろとした家庭小説が繰り広げられる一方、日露戦争終結後から大正末期という自由民権運動や社会主義運動が展開する時代が描かれます。

人間は本来自由で尊いものであるとし、社会をも変えようという運動が弾圧されていた時代を背景に、個人と個人の心理的葛藤、家庭の中での問題が中心に描かれます。そこから罪の本質と罪からの脱出の可能性を示し、それが社会や国家の問題にもつながってゆくという壮大な構造のある作品です。

作品は全半と後半に分けられ、テーマも明確であると言えます。
ひとつめのテーマは、「罪」の問題です。
2つ目のテーマとしては、罪と生きづらさに満ちた世界で、それでも人と人とが互いにつながりを持ち、支えあいながら生きてゆくことの意味というものが描かれています。
そして、3つ目に、人間には解決しえない「罪」を根本的に解決し、究極的な「ゆるし」を与えるものが示されます。

多くの内容が盛り込まれながら、この作品の重要な特徴をひとつ挙げるとするならば、この世で罪のゆるしを宣言されてなお、罪の結果を負って生きてゆくということにどういう意義があるのか、ということを読者に考えさせ、綾子さんの信仰に立った見解を描いた作品であるということです。

❶ 罪について

まず、この「罪」というテーマに焦点をあててみたいと思います。三浦作品の多くは、「だれもが罪を犯す存在」であるということを語ります。この作品でも、まずはヒロインふじ乃をめぐる「罪」が語られます。

ふじ乃が夫のいない間に増野六郎と罪を犯したことが暗示され、その後新太郎という長男が誕生しました。この新太郎は周りの人たちから不義の子だという疑いのまなざしを受け、父親の順平から可愛がられることなく成長してゆくことになりました。

新太郎への父親順平の愛の無い態度、順平とふじのとの冷戦的な状態が、このかねなかの家庭にはいつもありました。新太郎をめぐってふじ乃と順平は口論をしてしまい、順平は倒れてそのまま他界してしまうという事件に発展してしまいます。ふじ乃のうちには、「死にたいくらい辛い」、順平を死なせたのは、自分だという罪責感が残ります。

聖書に基づくと、キリストが十字架上で血を流して罪をあがなってくださったことによってどのような罪も赦していただけるはずです。では、キリストを主として従うことを告白し罪ゆるされれば、犯した罪の結果は消えるのかというと、残念ながらそうではありません。

ふじ乃のかたわらには常に、罪の結果を見せつけるかのように新太郎がいます。ふじ乃が犯した罪の結果は残り、それは生涯消えることはなさそうです。しかし、この世界を造り統べ治めておられる神によって赦しを宣言される、そのことによって、この世で罪の結果は負いつつも、そのことが祝福につながるということになります。

「わたしが悪うございました」という気持ちを持ち続けて生きるのは、苦しくとも自分を深く顧み、そんな自分が生かされている意味を見出して、生かされている目的を見つける道を進んでゆく機会が与えられているということだと言えます。

ふじのの罪は、このように見えやすいものなのですが、では、ほかの人たちはどうかというと、ふじのと対照的に描かれているのが、まじめで曲がったことがきらいで実直な夫の順平であり、娘の志津代です。

志津代は、小さいときから自分と同じような性格の誠実な父親順平になついていて、自分は母とは違うと思ってきました。結婚してからも、この母はいつまた何をしでかすかわからないという思いをずっと持ち続けていました。

義しい者は、誘惑に陥りやすいものを裁きたくなってしまう、一度でも罪を犯した人をそういう人だという目で見続けてしまう、許すといっても、心の底では罪を忘れず、どうしても人を罪あるものとみてしまうという傾向があります。

綾子さんの作品でしばしば出てくることですが、自分を正しい人の側に置く人と、正しくないとみなされていることを甘んじてうけている人、そういう人間同士は、たがいに尊い人格を持つ者同士といった人間関係を作り得ないという悲しい現実が示されています。

人格的に立派で働きものの順平も、志津代同様、いいかげんな人間への裁き心があったといえます。

よき夫にふじのは感謝はしていたわけですが、大元のところに自分は金で買われた人間だ、自分の意思で自由に生きることを奪われたものだという傷を持ったまま生きていたと言えます。

人の罪をさばく側の罪は、人の心に傷を残し、その人を本来の姿から離れたものにしてしまうという結果をもたらしてしまいます。目的をもって人間を造られた方に背いて離れてしまったために本来ふさわしい生き方ができず、罪の中を生きざるを得ない、ゆるしを宣言されてなお罪の結果を刈り取ることに苦しんでしまう人間の姿を現しているということになると言えます。

❷ 人をその人らしく生かすもの

人間を良い人か悪い人かどちらかに分けることはできず、伝統にのっとった古い考え方と新しい考え方も、いい点とよくない点があると言えそうです。

古いものの考え方の恐ろしさを伝えてくれるのは、三郎の詐欺、失踪事件に身の縮むほどの罪責感をもって縊死した番頭の嘉助と梅夫婦です。

嘉助は甥三郎の罪の償いのために死んで先代にもおわびをし許しをこい、主従は三世までという主従関係の中にあるので死んでなお、中津家をお守りしたいという古い精神性を示しました。

このような古い日本の精神は、日本人の大事な精神をも含んでいるのかもしれませんが、命を絶ったあと、どれほど大きな苦しみを残された人たちが負ってゆかなくてはならないか、そこを考えることをしない世界です。

当時、この国には、徴兵制や金で人を買うなどの間違った制度があり、今もかたちを変えて、残っているものがあるのではないか、ということも考えさせられます。

ふじ乃や増野は、世の中を変えるといった大きな使命に目を開かれていた人物ではなかったにしても、古いものの考え方、在り方に反旗を翻すことのできる人物として描かれていると言えそうです。

ふじ乃は増野のもとで初めて自由に生きることを認められたのを感じたのかもしれません。人は本当の自分を求める情熱をおおもとのところに持っているのではないでしょうか。

いろいろな制約や社会制度などに妨げられていて、なかなか思うようには生きられないとしても、ふじ乃には、これではだめだ、もっと自分らしく生きたいという情熱があったと言えると思います。

そのふじ乃のエネルギーに巻き込まれた人は、彼女の奔放さに憤ったり、裁いたりするわけですが、新しい世界に目を開かれてゆくということになるともいえるでしょう。

そのふじ乃の人格を受けついで、さらに行動的な人間となっていったのが新太郎だったといえます。

わがままで直情的、いったいどんな人間に育つのか、と危ぶまれた新太郎でしたが、与えられたぬくぬくとした家を出、自分探しの旅に出るといった生き方に入っていきます。

そして、キリスト者であり自由民権運動活動家であった北上宏明との出会いによって変えられ、伝統や因習といった古いものにしがみついている人たちの心をつないでの和解をもたらし、新しい関係や考え方の中で生きるようにさせる役割を果たすようになるのです。

北上は、人間、知り合った人たちはみな兄弟、まだ知り合っていない人たちはいつか兄弟になる人という考え方で、出会った人たちを愛し、その人にとって最もよいことをしようと努めました。

この作品の中で北上宏明という人物そのものが登場にしている場面はわずかですが、彼の人格、世界観、実行力、それらの原動力であると考えられる聖書信仰が多くの人たちに影響を与えていることが随所から読み取れます。

亡くなった文之助や北上が世に向けて発信していた思想は、まず、人は、それぞれ個性を与えられていて、自分らしく生きる権利があるというものでした。だから、自分らしく生きることを抑圧し、狭めるものに対して、時に対抗し打ち破って出てゆかなくはならないとします。

この作品は、この自由な新しい世界を作ってゆこうとするものと古いものを守り、そこから出ることはならぬとするものとがぶつかり合うという、そういう構成になっていることにも気づかされます。

自由民権運動家たちは、日本の近代化をどうしてゆくか、それだけでなく、人々を因習に縛られた考え方から解放し、本来あるべき人間らしく生きることができる世の中を作るということを課題に活動していました。そのために、国の中心にならなくてはならない優秀な人たちが捕らえられ、北海道で強制労働をさせられたという事実が日本の歴史の中に刻まれました。

人間を人間として尊び、自由に生きることと対立する旧態依然とした制度、伝統を固守する世界とその考え方は、人間として立派な人たちをも、深いところでゆがめてきたと言えるでしょう。

すべての人が完全に古い考え方か新しい自由な考え方のどちらかを持っているというのではなく、それぞれの内側にどちらの考え方も入っていて、社会やその時々のできごとによって、そのいずれかか両方が現れてくると言えるのではないでしょうか。

古い制度、自分の意思を通すことが許されない世界、それが人を卑屈にし、その中でしか生きられないようにし、ほかの人をもその中に連れ込もうという連鎖につながってゆくのではないでしょうか。

文治は、東京の北上のもとで勉強させてもらうことによってそういう人間をしばる世界から出て世の中を変えていくための枝となる機会が与えられました。しかし、身体を壊して故郷に戻りました。そして、家族を大切にして、二度と北上の見ているものを探し、自らをそれに投入するという方向に行くことはありませんでした。

文治の選択は、それはそれで評価できると思われます。が、堅実に自分の家族を守ってゆくことを第1とした文治は、世の中を大きく変えてゆくだけの器にはなり得なかったということにもなるでしょう。

この作品世界は、変わろうとしていた世の中と、その中で絶対的な基準というものを持ち得ず揺らぐ人たちの心の在り方を描いているとも言えます。それは自分が自分に与えられた本来の在り方を求めていいのだというところに立つことができるかもしれない、けれど、難しい・・・そういう課題を突き付けられている時代と人々のドラマでもあると言えます。

❸ ゆるしをもたらすもの

長じて新太郎は、母ふじ乃と貧しさのあまり娘を芸者に売ろうとした故郷の年老いた母親とを和解させることが必要だと自覚しました。そして、32年ぶりにふじ乃を文治と志津代夫婦を伴って佐渡に連れてゆくということを実現させました。母親と再会したふじ乃は、母に駆け寄りすぐにゆるしを表します。

日頃のふじ乃は故郷への想いなど全く見せなかったにも関わらず、故郷と生みの母を思い続けていたことがわかります。母も、実は罪責感に32年間さいなまれてきたことが明かされました。

ふじのの根本問題は、自分自身として生ききるということと、ふじのなりに解釈するとカネによって人生を狂わされたという傷の大元にある母と和解することだったと言えます。

それは、即ち自分を造られた方=創造主である神との和解ということになります。人間のひとつの課題は親に象徴される神との和解ではないでしょうか。

罪が入ってくるときに、兄弟が他人になり、争いが生まれます。けれども、ゆるしが宣言されたときに、人間本来のあるべき姿が見えてくるというのがこの作品の大切な主題であると言えるでしょう。

このゆるしというものが全世界を造り、人を造り、本来の生き方から外れた人間をも赦す道を備え、新しい生き方ができるようにしてくださる、そして送り出してくださるというお方から出るものだということが作品の最後では描かれています。

その方への想いをもって、讃美歌405番を新太郎はみんなに教えます。荒野を行くときも、嵐吹くときも。行く手を示して導いてくださる方を覚えさせ、どんな嵐が襲ってこようとこの方にゆだねて生きることができる平安の証と、嵐吹く世に遣わされてゆく人への想いを込めた祈りの讃美歌です。

新太郎は、この歌を北上から習ったと言いました。自由民権運動の闘士であった北上は、佐藤文之助らのようにいつ捕らえられるかもしれない、場合によっては殺されるかもしれないことを覚悟していたのではないでしょうか。常にいつ世を去ってもいい、自分に与えられた使命に生きるという覚悟を持って北上はこの讃美歌を新太郎に教えたのかもしれません。

その北上のいのちが新太郎のうちに流れ込み、新太郎は新しくされたと言えるでしょう。この場にいた5人は声を合わせて讃美歌を歌います。その声が稲田の上を流れてゆくのを聞きながら、志津代はしあわせを感じます。

ところが、その直後、向かってくる暴れ馬から悟を救って、新太郎はあっという間に死んでしまうという事件が起こります。みなは、悲しみの極みから、新太郎の死の意味を問いました。

ふじ乃は、新太郎の父親順平が一緒にこの島の墓に入りたくて呼んだのかもしれない、自分がいやでも毎年この島に墓参りに来たくなるように死んだんじゃないか、などとその死を故郷との和解が続くことに結びつけて考えます。

「あんちゃん、あんちゃん」と新太郎に取りすがって泣いた悟のうちには、自分のために死んだこのあんちゃんのように生きたい、という願いが芽ばえ、実際新太郎に似たものになろうと、生きたことが想像されます。新太郎の死は、自分のために死んでくださったキリストの死とかぶります。悟は20年後牧師となって北海道に渡り、人を本来の人として生かす方のことを語り伝えるものとされます。

新太郎は名前に表されているように「新しく造られたもの」となり、家族のために和解の務めを果たすために遣わされました。そして、さらにこの世に本当の自由、平和を作り出すものとして生き、世に遣わされようとしていた矢先に一人のいのちを救って、自分は世を去りました。

けれども、その新太郎のいのちは無駄に終わったのではない、遺された人たちに引き継がれてゆきます。さらに、私たちが新しく生きるものとしてこの世に遣わされるということにもつながってゆくことを告げます。

私たちは、生まれながらにして神に背く性質(=罪)を持って生まれます。そのことを悔い改めてキリストによるゆるしと和解を得る道が開かれていること、けれども、この地上でおかしてしまった罪の結果は地上にいる間残り、その責任を負ってゆかなくてはならない場合も起こってきます。

そういった罪の結果による傷を負っている私たちであっても、神は新しく生きるものとしてくだる、嵐吹く世界に遣わされていく人たちを送り出すときに、地上ではもう会うことができないとしても、「造り主であるお方の前でまた会うときまで、神の守りがあるように」と祈り宣言することができます。

この作品は、罪に覆われた世界にひと時の間生かされている者が、それでもこの世に生きる目的と希望を、届けるために遣わされてゆけるということの意義を告げてくれていると言えるでしょう。

2018年12月3日受信メール:
藤本優子さま、
ご多用の中、まとめをさっそくお読みくださり、ありがとうございました。
普段まとめをいただいています講演はどれも深い研究に基づいた学問的なものであるのに、極めて稚拙な内容で、申し訳ない想いです。今後とも、お教えください。
ご家族を支えながら、『メメントドミニ』も、貴い主のご用も、続けていらっしゃることに、本当に頭さがります。
ブログも、クリスマスの様相、ユキくんの長距離持久走での頑張りが、ご家族みなさまの努力のあり様を象徴しているように思いました。
ご家族みなさまのご健康が支えられ、よき季節をお過ごしになれますように!
優子
「永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」。
            (ヨハネ6章27節)

ありがとう クマさん.png遠藤優子姉は謙遜な方、そしていつもこうして必ず励ましの言葉を贈ってくださるのです。神の家族、パウロの言葉を思います。
「わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである」。(ロマ書15章2節)
posted by 優子 at 23:59| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2019年02月14日

キリスト者の社会運動家・長原武夫さん ―平成30年の歩みを追想し、生涯の「終勝」をめざす−

IMG_4872.jpg2月10日に発行されたばかりの『長浜革新懇』83号を落手し、ここに記録させていただきたい。その前に、誤植について執筆者の思いをも記録して起きたい。
←琵琶湖に飛来しているオオヒシクイ。
渡り鳥たちはまもなく帰北する。オオワシは今週中に飛び立つと、今週初めにラジオで湖北野鳥センターの人が語っていた。ユキだけは連れて行ってあげたいけれど、私ひとりででも見に行きたい、コハクチョウを。
タイトルは「共に産み出せ 野党共闘」と、あえて「産」と記したのですが、「生み出せ」になっています。共闘は「産」から始めなくてはならないですね。「産み出せ」と「生み出せ」は大きく異なると思っています。編集者の見解の甘さを見ています。

IMG_4871.jpg


IMG_4875.jpgかつて、JR長浜駅のすぐ近くに在った日本開拓伝道長浜教会。
長原武夫・萬壽子さんご夫妻は、宣教師がオーストラリアへ帰国されたのちも教会を守り牧してこられたが、駅前再開発を発端に苦悩の闘いの途上、伴侶を天に送られた1年後の2013年12月31日付けで教会を閉じ、その後まもなく解体された。日本のキリスト教会史の記録としてここに刻む。

IMG_4862.jpg附記:2月16日(土)の例会(午後1時〜5時)は、日本キリスト教団・大津教会(JR大津駅下車北へ徒歩5分)で開催される。
学びは、「森鴎外の歴史物語を読む『山椒大夫』を中心に」。

ご案内:
IMG_4876.jpg
モナミホールは香芝市中央公民館となり(香芝市総合体育館南隣)
@近鉄大阪線:下田駅下車→西へ徒歩約10分
@JR和歌山線:香芝駅下車→西へ徒歩約15分
@西名阪自動車道:香芝インターチェンジ→南へ約15分

posted by 優子 at 19:45| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2018年09月23日

三浦綾子『泥流地帯』 義(ただ)しい者の苦難を誰が贖ってくれるのか ―日本クリスチャンペンクラブ関西ブロック例会―

IMG_0784.jpg下記は9月15日(土)午後1時〜5時、大津教会で開催された日本クリスチャンペンクラブ関西ブロック例会で、私たちの導き手である大田正紀先生が講演された概要である。

作品の舞台、北海道・富良野(アイヌ語でフラヌイ)は、倉本聰の『北の国』から一躍有名になった。

倉本の両親は熱心なクリスチャンで、聰に洗礼を授けている。聰は自覚的な信仰ではないが背信的な物語は書かず、作品には人間の愛や夢をモチーフにキリスト教の愛と生命観が脈打っている。

富良野地方の開拓の始まりは、明治30年の三重団体とされる。三重団体は禁酒禁煙で純潔と勤労をモットーに開墾した。1926(大正15)年、十勝岳の大爆発によって発生した泥流は開拓農民たちの村をも飲みこんだ。死者・行方不明は137名。

北海道に入植し、30年かかって耕してきたものが一瞬のうちに流されてしまった。『泥流地帯』は散らされた神の民の物語である。登場人物は、石村市三郎・キワの老夫婦、その長男義平と妻佐枝の間には、富、拓一、耕作、良子がいた。

作品のモデルは三浦光世の艱難辛苦の少年期で、作品のテーマは「ヨブ記」(義人の苦しみ)であり、拓一と耕作の兄弟を中心に展開していく。市三郎は、孔子、釈迦、キリストなどに造詣深く、人間らしく生きることを真実に求め、入植前の福島にいた頃、教会に通い聖書を読んでいた。

人を身分や金のありなしで分け隔てせず、「目に見えるものが問題じゃねえ。目に見えないものが大切じゃ」や「寝ていて人を起こすなかれ」が口癖だったこと。また、「百姓」とはいわず「農民」と呼び、人権を重んじ矜持を持っていた。拓一に人間としての中心的なものを教えていた。

市三郎・キワ夫婦、良子(孫)は泥流に流された。拓一は止める耕作を振り切って「耕作、お前はかあちゃんに孝行せ!」と叫んで、救助のために泥流に身を投じたが、大木にぶつかり奇跡的に生きていた。
IMG_0735.jpg
耕作は拓一に問う。

「なあ、兄ちゃん。まじめに生きている者が、どうしてひどい目にあって死ぬんだべ」
「わからんな、おれにも」
「こんなむごたらしい死に方をするなんて……まじめに生きていても、馬鹿臭いようなもんだな」
「……そうか、馬鹿臭いか」
「おれはな耕作、あのまま泥流の中でおれが死んだとしても、馬鹿臭かったとは思わんぞ。もう一度生まれ変わったとしても、おれはやっぱりまじめに生きるつもりだぞ」

その後、石村家は敢えて最も被害の大きかった場所に留まり、林を倒して水田を復興させていく。(『続泥流地帯』)

ところが、被害を受けていないにも関わらず復興反対派が現われて金儲けをする。村の人を二分されて困難を極めるが、吉田貞次郎村長(元は近江商人)を中心に復興に尽力し、8年を要してかつてのように収穫できるようになった。
(吉田村長については、ネット上に公開されている「上富良野町郷土をさぐる会」発行の「郷土をさぐる会」に詳しい。)

三浦綾子は、人生とはこのような理不尽としか思えないこともあるんだと思って書いたのであろう。それは罰を受けての苦しみではなく、神さまはその人を善き者に変えようとして試練を与えられるのだから、負けないで生きてくださいと伝えたいのだろう。

神の御心が叶えられた世界で、摂理の中でいろいろなものが生み出されている。人生の中の試練には意味がある

IMG_0790.jpg
posted by 優子 at 21:34| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2018年09月16日

「何が人を『私』にさせるのか −独立学園から見えてくることー」 安積 力也氏の講演より

IMG_0681.jpg9月9日(日)午後、大田正紀先生が通っておられる教会で開催されたキリスト教文化講演会(第18回)に出席するために、阪急・王子公園駅近くにある日本キリスト改革派・灘教会を夫婦で訪ねた。灘教会を訪ねるのは今回が初めてである。

講師は安積 力也(あづみ りきや)氏。
演題は「何が人を『私』にさせるのか −独立学園から見えてくることー」。

安積氏は現在73歳。基督教独立学園高等学校 前校長で、恵泉女学園中学高等学校 元校長、日本聾話学校 元校長、敬和学園高等学校 元教頭を歴任され、70歳を機に教育現場から引退された。

案内のチラシにはこのような一言が書いてあった。
「待てない」時代になった。「出来るだけ早く、目に見える成果を!」。この巨大なうねりの中で、私たちは、親も教師も官僚も為政者も、「待つ力」を失ってしまった。

今、この国の子ども達が異様なほど「素直」だ。なぜ「異様」か。それは「”私”のない従順さ」だから。”私”になろうともがく若者の自死率は高止まりのままです。

子どもを『信じて待つ』ことによってしか育たない”大切なもの”がある。東北の小さな全寮制高校から見える「人間教育の事実と真実」をお話しすることで、子育てや教育で苦闘中の方々に、ささやかなエールを送れればと思います。

以下は、2時間20分の講演概要である。
IMG_0683.jpg今、一つの時代の終わり、破局がひたひたと近づいている。そのことは誰もがわかっているのに心の奥にグッと隠して日常を続けている。これが私の、私たちの現実です。

終わりの時代は本物、普遍的なもの、変わらないものしか残らない。人からの借り物や偽物は残らない。それが一つの時代の終わりの特色です。

中学3年の子が言った、「先生、なぜ生きてるの?」 生存の不安、実存の不安。人間は頭の知的理解で現実を生きられるか? 
科学は言葉で知的に教えられるが、生きることに関する真理はどうか。どうしたら人を愛せるのか。どうしたら人を思いやれるのか。勇気を持てるのか。どうしたらこんな大嫌いな自分を愛せるのか! 

私は知識を教えることはできず触媒役しかできないから、私の話は触媒だと思ってほしい。

2006年に改訂された「教育基本法」に残された文言に、「この理想を実現するために、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、」(前文)、「教育は、人格の完成を目指し、」(第1条・教育の目的)とある。

尊厳とは外からは絶対に侵されない何かが宿っているものであり、「私」という固有の人格になる教育を目指す。ところが、教育が政治問題化して固有の尊厳よりも、場合によっては国家の尊厳となる。

岩波国語辞典によれば、「人格」とは人柄(キャラクター)、個人として独立しうる資格とある。即ち、人間である限り人格をもち、固有の「私」となる存在である。

人格概念には、西欧起源のヘレニズムとヘブライズムの2つの流れがある。
@ 「生まれながらの自己の資質を、全的に調和をもって開花させることで、人格は完成する」。(古代ギリシャ・近代ルネサンスの人間観)
A 「人間は、神によって創造され、神の語りかけに応える者として創られた。人間は、神との対話のうちで、人格となる」。(聖書の人間観)

人間は神によって創造された存在というのが日本人にはわからないのだが、創られた者は創ったかたの意図があり、その人にしか果たせない役割がある。創られた者は創ったかた、即ち、神に応答する。

この2つの概念の共通項は:
@ 「人格」それ自体が「目的」。如何なる意味においても「手段」におとしめられてはならない。人間はロボットになってはいけない。

A 「人格」は、他者と出会い、交わることで、初めて目覚め、動き出す。
(参考資料;下村喜八「人格の衰退とその回復」 キリスト教雑誌『共助』2018年第2月号)

対話の相手は「他者」だけではない。内なる私、超越者。

今は自己確立が難しい時代ですが、あなたは今、ご自身の人格を生きていますか?!
私たちは今しか生きられない。今しか私たちは存在していない。この今は誰も経験していない。未来は不確実で予測できない。私はこの私を生きているのか?!

あなたの子ども時代はいつ終わったか。私は何歳のあの時に心理的に変わったのか、自分の心理を時代区分する。

私は誰にも出したことのない自分はいないだろうか。この国の子どもがこれに気づけないと自殺のみ。今、この国の子ども達が異様なほど「素直」だ。なぜ「異様」か。それは「”私”のない従順さ」だから。”私”になろうともがく若者の自死率は高止まりしている。

自己を表出できず、外側の自己を演じ続け、内側の自己を封印してきた時、墓の前にいる。私しか入れない内面の奥、その穴からもっと深い奥を見る。私がもう一人の「私」が生まれた時はいつだったか。親とは違う内面を持っている。

罪意識の奥にあるのは虚無感であり、若者が最も感じているものだ。私は教育現場に立とうと覚悟した時から、校長になった時も人格教育に徹した。生徒が訪ねてきたら(保護者も)、よほどの予定が入っていない限り時間を取って向き合った。

聖書の真理は教えることはできず、生きることによってしかわからない。(苦悩の)余裕のある人に、なぜ神がわかりますか!  
答えは自分で探す。探し方は教えます。

あなたは本当のところ、私自身何を願っている人間ですか?

思春期に入った人間が問いたかったことは、「私は親の操り人形じゃない。それは、お父さん、お母さんの問題でしょ!」 私は自分の「心の闇」(未解決問題)を我が子(生徒)に肩代わりさせていないかという「世代間伝達」の問題。

また、思秋期は、「こんな生き方をしていて、私は満足して死ねるか?」という問題。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主はあなたの心の願いをかなえられる」。(詩篇37篇4・5節)
「主に委ねる」とは全体重を預けるということ。「願い」とは、心の底の、底の、どん底で願う願いであり、その願いこそ神さまは必ず実現してくださるという約束です。

自分の中に起こってくることを言葉にする。「思想は飛ぶ鳥の如し」で、フッと何かを感じたら言葉にする。
心の中に葛藤があり、存在の欠けがある。それを本当に言えないと他者と出会えない。親の未解決の問題を言語化した時に、我が子と言うスクリーンに投影される。

1995年に乳幼児精神科の看板が挙がった。最近の5万人を対象にした調査では、本気で死のうとした人が4人に1人いる。

独立学園高校では「あなたは、本当のところ何を願っている人間なの?」と問いを課し、約束と自由を課す。監視する目を捨てて生徒を信じ抜く。信じなければ、人は待てない。

ラムネ瓶の中のビー玉のような私。多くの人が、自分で作った分厚いラムネ瓶をいつか割りたいと思っているが、人格が触れ合うような交わりがない。自分の人格の核に触れてくれる交わりを求めていく。

「とりま(とりあえずまあ)」ではなく、本当にまともに向き合ってくれる大人を求めている。「この問題を持っていいんだよ」と言ってくれる大人を求めている。私たちは何となく孤独で、何となく不安なのに、不安や孤独を明確にする他者が居ない。自分を確かにするものの感覚がない。

今の人々は自分の闇と向き合うすべを教えられていない。「闇」とは未解決の問題。この国の子どもたちは、心の闇を見る意味と勇気が教えられておらず、真向ってくれる大人がいないのが最大の悲劇だ。

放蕩息子レンブラント.jpgここで有名なレンブラントの『放蕩息子の帰還』を手にされて語られた。
放蕩を尽くした息子が父の家へ帰って来た。ひとりの他者に身を投げ出して泣く経験。
自力が尽き果たした時になお、誰ひとり例外なくできることが一つ残っている。

「私」の立ち返りどころはどこか。
何によって「私」を確かにするのか。
何が人を「私」にさせるのか。

人は自分が扱われたように人を扱います。これが教育の原理です。親や教師は子どもを信じ、存在をかけて腰を据えて待つ。そのような形で待たれている子は、自分が信じられていることを知っている。

IMG_0687.jpg


全身全霊で教育に尽くされた安積先生の話は心を強く打った。生徒の「意思をもった応答の拒否」、その心的情景が印象的だ。

資料に書かれた高1の不登校生の言葉、「結局、人間って”自分を知る量”までしか、人を理解できないんですね」は見事な洞察だ。これは「特に教師に求められる力量」の「自己吟味力」に記されている。他、「自己開示力」と「聴く力・待つ力」が挙げられている。

余談だが、講演で語られた「『人格』は、他者と出会い、交わることで、初めて目覚め、動き出す」の箇所だけ太文字、かつ、下線が引いてあり、今日はここが最も伝えたいところだ」と言われた。

IMG_0696.jpg

IMG_2376.jpg(参考資料;下村喜八「人格の衰退とその回復」 キリスト教雑誌『共助』2018年第2月号)紹介されている下村喜八さんは、私たち家族が毎月「ブルンナー読書会」でご指導いただいているかたなので驚いた。


IMG_0691.jpg教会を出ると雨が勢いを増していた。
阪急沿線からJRまで下り、六甲道駅を通り過ぎる時、引っ越したばかりの奈良県から神戸大学まで通っていた次女を想った。懐かしくも雨粒越しに見える景色は寂しさを助長した。

posted by 優子 at 19:44| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2018年08月29日

一期一会 船本弘毅氏は召天された

8-29.jpg昨年9月16日、東京・御茶ノ水クリスチャン・センターで開催されたJCP創立65周年でお目にかかった船本弘毅(ふなもと・ひろき)さんが、20日に神の御許に帰られたことを先週末に落手した長原武夫さんの資料で知った。


船本弘毅さん.jpgクリスチャン新聞によれば、亡くなられる1か月前の7月18日、JR国分寺駅近くにあるクリスチャン経営者主催による伝道集会「聖書と人生」(第260回)のゲストに招かれて、マタイによる福音書18章9節〜24節より「祈り、祈られる人生」と題して語られた。それが最後のご奉仕だったと思われる。
IMG_2120.jpg

以下は『クリスチャン・トゥディ』8月23日の記事より。

IMG_7918.jpg聖書学者として著名な船本弘毅・元東京女子大学学長が20日、召天した。83歳だった。

同大が22日、発表した。前夜式は24日午後7時から、葬儀は25日正午から、日本基督教団阿佐ケ谷教会(東京都杉並区阿佐谷北5ー18ー10)で行われる。胆管がんのため東京都狛江市の自宅で亡くなった。喪主は妻の恵(けい)さん。

1934年静岡県生まれ。関西学院大学大学院神学研究科修了。ユニオン神学大学大学院(米ニューヨーク)、セントアンドリュース大学大学院(英スコットランド)に留学し、博士号(Ph.D.)取得。サムエルラザフォード賞受賞。64年、日本基督教団正教師。関西学院大学教授・宗教総主事、東京女子大学学長、東洋英和女学院院長・大学長を歴任し、関西学院大学名誉教授。この他、日本基督教団高槻教会(大阪府高槻市)の開拓に携わり、同教会を長年にわたって牧会した。

IMG_7913.jpg

JCP創立65周年記念講演で語られた「書くこと、話すこと、伝えること」のメッセージは私たちへの遺言となった。
証し文とは聖書の言葉を現代の人に自分の言葉で書くことだと思う。牧師の説教も信仰の証しであり、話す時も書く時も自分は今こう理解しているということを常に心にとめて、聖書の言葉を私の言葉で書き、話すことが証しである。

証し文章を書き、人に伝える。厳しさがある。私たちも重大な時代に生きている。自分の言葉で、自分が本当に信じていることをいかに書き、いかに伝えるか。これが証し文学に求められていることである。

8-28.jpg私にとって船本師とはまさに一期一会の出会いであった。
私も残り少なくなった限りある時間を有益に用いなくてはならないと今一度真剣に思わされた。
posted by 優子 at 18:52| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2018年06月21日

「柴田錬三郎『眠狂四郎』と遠藤周作『沈黙』−切支丹物をめぐる二人の交流を中心として」 −日本クリスチャンペンクラブ関西ブロック例会 後編−

6-16-3.jpg
これは6月16日に梅花女子大学茨木ガーデンキャンパスの礼拝堂で講演された概要です。
この2日後の朝に大阪北部地震が起こり、茨木市や高槻市周辺で大きな被害が出ています。


お見舞いメールの返信に「メメントモリ」(死を忘れるな」の言葉を書いてくださった友がおられました。私たちもいつなんどきやってくるかもわからない死を覚え、それゆえに主を覚えて(メメントドミニ)、時を無駄にしないで歩んでいきたいと思います。

遠藤周作の作品は隠れキリシタンに関するものが非常に多い。歴史を辿っていくと明治の初めから島原の乱や細川ガラシャをテーマにしたものがあり、近代文学におけるキリシタン物ということに大きな意味がある。

『沈黙』は、刊行50年を過ぎてなお問題作として私たちに人生や信仰について問いかける作品である。

クリスチャンでなくてもキリスト教に興味を持ち聖書を読むなど、それらが作品に書いてあればキリスト教文学と呼べるのではないか。大衆文学の国民的作家である柴田錬三郎は剣豪小説の一大ブームを起こした。一方、遠藤周作は純文学であり歴史小説で、『沈黙』に関する本は380本ほどある。

6-16-4.jpg2人は慶応大学の先輩後輩で深い繋がりがある。キリシタンへの関心を見ていくともっと深い繋がりがあり、二作品の関係性を話したい。

眠狂四郎は「転び伴天連」(背教した外国宣教師)の子どもであり、ここに背教の問題がある。背教したバテレンが、自分を背教させた大目付の娘を犯し、その子どもが眠狂四郎である。転んで転んだだけではなく悪魔を崇拝し、母の敵として実の父を殺してしまうという宿命で、孤独なはぐれ狼として生涯を送る。

柴田錬三郎のキリスト関係の作品は、『他人の図』『デスマスク』『イエスの裔』『カステラ東安』『眠狂四郎無頼控』ほか多数ある。いずれもキリスト教徒を否定的に描かれているが、信仰とは何かを考えさせられる。

「私は、聖書を読んでいるが、カソリック信者ではない」。(柴田錬三郎『嘘つきが真実を語る』・中央公論・1974年8月号)

「私は、私が先輩にむかってのぞんだ如く、如何なる稚拙な原稿に対しても、それが文学に志す熱意に燃えているものならば、襟を正して拝見する」。(柴田錬三郎「編輯後記」・三田文学・1946年8月号)

柴田錬三郎と遠藤の出会いは1946(昭和21)年頃である。親交の始まりは1949年頃で、遠藤が「三田文学」の同人となり、柴田の家に足しげく通うようになる。柴田に文章作法を教わり添削をしてもらっている。遠藤は柴田を「何でも話のできる兄貴のような存在である」と述べている。

三田文学や慶応との繋がりは大きい。『沈黙』は遠藤が『眠狂四郎』に触発されたこともある。遠藤がキリシタンに関心を持つようになったのはフランス(リヨン)に留学してからである。敗戦国の人間としてフランスで苦労した。留学先でキリスト教の光の歴史と違う闇の歴史を学び関心を持った。

ヨーロッパに留学した日本人のルーツを辿って行くとキリシタンに辿りつく。1582年(天正10年)の天正遣欧少年使節のトマス荒木は棄教したために教会史からも汚点として抹殺されている。

「信徒だけではなく、宣教師や司祭のような人たちの中にも、取り調べの最中に棄教した者がいた。外人宣教師のジュゼッペ・キャラ(『沈黙』のロドリゴのモデル)やフェレイラや荒木トマスのような人物がそうである。キャラやフェレイラは、転んだあとは岡本三右衛門とか沢野忠庵という日本名をつけさせられ役人たちの手先にされている。

日本人の女を妻にもち子供まで生んだその人たちのことを教会側の研究では僅かしかふれていないが、その僅かな解説にも伝道史の汚点であり裏切者だという烈しい非難の言葉が使われていた」。
     (「留学」/「群像」、1965年3月)

『沈黙』は、1633年頃にフェレイラ神父の背教から始まっているが、そのあとは歴史資料の中から取りだして創作したフィクションである。

『切支丹屋敷役人日記』に「棄教したが信仰を持っていた」とある。『江戸切支丹屋敷の史蹟』を読むと、表向きは信仰を捨てているが信仰を諦めなかった人々の歴史が書かれている。

教会史からは消えているが、遠藤はそこから呼び起こして書いている。切支丹屋敷は重要な舞台となる。井上筑後の守の切支丹屋敷としていた。

宣教師がワインを飲んでいるのを血を飲んでいると言われたり、眼鏡をかけた宣教師は4つの目があるとされたり、切支丹に対するイメージは怖いものがあり、「八兵衛の夜泣き石」や「朝妻桜」など伝説がある。

近代文学の中に切支丹屋敷や切支丹坂が怖い場所や不思議な場所として出てくる。(夏目漱石『琴のそら音』、田山花袋『蒲団』、永井荷風『日和下駄 一名 東京散策記』)

『切支丹屋敷 / 切支丹坂』などもキリシタン文学やキリシタン物として読むことができるのではないか。

『沈黙』の最終章「切支丹屋敷役人日記」は難解さの故に読者を阻んできた感があるが、『江戸切支丹屋敷の史蹟』を間に挟む時、踏み絵を踏んだけれど信仰を捨てていなかった事実が浮かび上がり、そこで終わりではないという踏み絵後の三右衛門やキチジローの姿が見えてくる。そのドラマを遠藤は読み取ってほしかったのであろう。

柴田錬三郎が『眠狂四郎』を描いたことも遠藤に大きな影響を与え、「三田文学」が遠藤を作家にする大きな役割を果たしたと言えるだろう。伴天連や黒ミサを取り上げ、信仰とは何かを問いかけている。

※「黒ミサ」とはカトリック教会のミサと正反対のことを行う、神を冒涜することを旨とした儀式のこと。

kasa3.gif
6月22日朝追記:
サムサムさんよりコメント感謝!

受洗前の事ですが、もし踏み絵を押し付けられたとしたらどうしょう? と、真剣に考えた事があります。
そして、踏み絵の「絵」は、「仏像」と同じで、人間がつくった偶像に過ぎないのだから、「踏め」といわれたら、恐れず踏めばよい。「隠れキリシタン」と言われようが、信仰さえ失わなければよいのだと、自分自身に言い聞かせ、納得した時のことを思い出しながら「柴田錬三郎『眠狂四郎』と遠藤周作『沈黙』」を読ませていただきました。
私も全く同じ考えです。
それだけではなく踏み絵の延長線上にある究極の恐怖。10年前の過去ログでも述懐した悲劇の歴史に記録されている「白バラ運動」の人たちのことを思います。彼らの強さは聖霊によるのであり、強い信仰者を聖霊がそのように導かれるのだと思いいます。

「おおゾフィー、あなたはまだ知らないのだ、人間がどれほど臆病な家畜であるかを」。「私は時計を回転させたい、早くいっそう早く。あなたがたが苦しみのきわみをのりこえてしまうように」とゾフィーとハンスの母。

「ねえ、ゾフィー、イエスさまのことを(忘れないで)ね」。
「ええ、しかしお母さんもね」。

第2次世界大戦中のドイツで、ミュンヘンの大学生であったハンス・ショルと妹のゾフィー・ショルを中心に、非暴力主義でナチスに抵抗した彼らは、ゲシュタポにより逮捕されてギロチンで処刑されたのです。

posted by 優子 at 13:13| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2018年06月17日

梅花女子大学・澤山記念館礼拝堂にて −日本クリスチャンペンクラブ関西ブロック例会 前編−

6-16-9.jpg梅雨晴れの昨日、6月の例会会場、大阪府茨木市にある梅花女子大学を訪ねた。


ぽうろ澤山.jpg梅花は澤山保羅(ぽうろ)牧師がキリスト教主義教育の学校を創設すべく、成瀬仁蔵ほか教会信徒有志らの協力を得て、1878(明治11)年に大阪・土佐堀に開校した。梅花は大阪で最初の女学校であり今年創立140周年を迎えた。

6-16-1.jpg
右の建物が澤山記念館礼拝堂だ。

6-16-2.jpgこの礼拝堂で、長M拓磨先生(京都外国語大学教授)による「柴田錬三郎『眠狂四郎』と遠藤周作『沈黙』−切支丹物をめぐる二人の交流を中心として」の講演を拝聴した。

開会礼拝では、事務局長が聖書「ローマ人への手紙16章1節〜7節」を拝読し、クリペンの主題歌である讃美歌57番「ガリラヤの風かおる丘で」を一同で讃美した。

次に私たちの導き手である大田正紀先生(文芸評論家、梅花女子大学名誉教授)が講師を紹介された。

長濱先生はかつて梅花でも遠藤の授業をされていた。遠藤周作研究家、遠藤周作学会運営委員。現代の日本キリスト教文学のリーダーで、キリスト教の立場からだけではなく、キリスト教史という大きな流れの中で多くのことを明らかにされている。

講演内容については頂戴した資料と照らし合わせながらまとめ、後日お分かちしたい。

6-16-6.jpg講演会のあと、礼拝堂の隣室でしばし歓談の時を楽しんだ。文学はもとより、社会問題、そして、伝道のための証し文についてなど話は尽きなかったが、土曜日最終便のスクールバスに乗り遅れないように閉会のお祈りを捧げて強制終了した。

この日のために労してくださった大田先生、また、梅花の宗教部で熱心なお働きをされているペン友・OKU姉(しまい)には何もかもお世話になった。お疲れだろうに翌日(今日17日)はオープンキャンパスのため出勤されている。

6-16-5.jpg
OKU姉の手になる「梅花の梅」で作った梅ジュースのおいしかったこと! 
主に在る友との交わりで心を癒され、霊性を強められて帰宅した。

実は、私はこれまでに一度だけ梅花を訪ねたことがある。もう50年も前のことになる。1969年12月、茨木駅からスクールバスに乗って大学の入学願書を取りに行った。
結局、帝塚山学院大学へ入ったが、その時のことを振り返りいろんな思いがこみ上げていた。

今日も梅雨晴れの明るい一日だった。

6-16-8.jpg
posted by 優子 at 17:30| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2018年06月11日

2018年JCP関西ブロック講演会のご案内

日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)関西ブロックの6月例会は梅花女子大学で開催します。これまで6月と11月の例会は千里ニュータウン教会で開いていましたが、昨年6月に東 道男牧師が召天され11月を最後に新たな場に導かれました。

6-10-24.jpg今回は会員以外の方々にもご案内し、ご関心のある方は是非お出かけください。歓迎いたします。参加費は無料です。当日は「梅花の梅」で作った梅ジュースを御馳走してくださるそうです!

講 演:「柴田錬三郎『眠狂四郎』と遠藤周作『沈黙』−切支丹物をめぐる二人の交流を中心として」

講 師:長M拓磨先生(京都外国語大学教授)

講師紹介: 主な著書・論文 日本キリスト教文学の気鋭の研究者
1. 著書  遠藤周作論 「歴史小説」を視座として (単著) 2018/02
2. 著書  「太宰治ー芥川受容を中心として」 (共著) 2014/04
3. 著書  『京都近代文学事典』 (共著) 2013/05
4. 著書  『兵庫近代文学事典』 (共著) 2011/10
5. 著書  『邂逅』論ー<家族>との関係を中心としてー (共著) 2002/03

学歴:
1. 2016/01〜2016/06 関西学院大学 文学研究科 博士課程 博士(文学)

2. 1993/04〜1999/03 神戸大学 文化学研究科 日本近代文学専攻 博士課程単位取得満期退学

3. 1990/04〜1993/03 神戸大学 教育学研究科 国語教育専攻 修士課程修了 教育学修士

4. 1986/04〜1990/03 神戸大学 教育学部 中学校教員養成課程国語科 卒業 教育学士

katatu.gif

日 時:2018年6月16日(土)13:00〜16:20

場 所:梅花女子大学茨木ガーデンキャンパス澤山記念館礼拝堂・講師控え室

〜プログラム〜

13:00〜  礼拝堂 開会祈祷 

司会・奨励 原田 潔 
      讃美歌21「ガリラヤの風かおるおかで」           

13:20〜   礼拝堂 講演会

14:30〜  講師控え室 休憩

15:00〜  礼拝堂 証し文章発表 会員の作品発表を行います。講評 事務局

16:00〜  礼拝堂 閉会祈祷

16:30〜  スクールバス発車

日本クリスチャンペンクラブ関西ブロックでは上記の要領で例会を開催します。
今回は広く会員以外のかたがたの参加を呼びかけています。ぜひご参加下さい。参加費は無料です。参加される場合は準備の都合がありますので、前日までに大田正紀 電話:078(242)6989番までご連絡下さい。

〒567-8578 茨木市宿久庄2−19−5 TEL.072-643-6221(代)

交通:原則としてスクールバスをご利用ください。

スクールバスの時刻は梅花女子大学HPの交通アクセスをご覧下さい。 以上

スクールバスは、阪急宝塚線 石橋駅、北大阪急行(地下鉄御堂筋線)と大阪モノレールの千里中央駅、阪急千里線 北千里駅、阪急京都線 茨木市駅、JR 茨木駅から出ています。ここに詳しく案内されています。
posted by 優子 at 13:12| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2018年04月28日

「証しとしての文学ー三浦綾子ー」 ―日本クリスチャンペンクラブ関西ブロック例会―

4-23-9-53be8.jpgこれは4月21日(土)に大津教会で開催されたJCP関西ブロック例会で大田正紀先生(梅花女子大学名誉教授、日本近現代文学研究者)の講演内容を聞き書きしたものである。

「証しとしての文学―三浦綾子」
日本では文学か宗教かという二律背反でとらえる人が多い。明治のキリスト教文学はロマンティズムと結びついたキリスト教だったため、憑き物が落ちたように信仰が失われて行った。これがプロテスタント文学の限界ではなかったか。しかしカトリックは、人間に期待を持っていなかったところに文学が起こってきているので、人間の悪や罪を見つめるところがあった。

三浦綾子はあくまでも証しとして文学を書こうとしていた。私が出会ったイエス・キリスト、私が出会った闇と、闇を乗り越えさせてくださった光を書きたいと思った。三浦以後は力あるプロテスタント文学者は途絶えている。(三浦の生い立ちは割愛)

三浦のキリスト教との出会いは小学2年生で、2戸一住宅の隣家に越してきたクリスチャン一家の子、前川正と美喜子に誘われて旭川教会の日曜学校に通った。その後、前川家の転居と美喜子の夭逝で繋がりが途絶える。

堀田綾子は代用教員として尋常小学校や教場、国民学校で奉職。黒塗りの教科書を使い皇国主義の教育をしてきたが、戦後民主主義への転換で国家の欺瞞的な教育に加担したことに気づき、教壇に立つ勇気を失い、自責の念から教職を退いた。

このあとすぐに肺結核を患い13年の療養生活が始まった。綾子は真面目な教師ではあったが虚無的な思いにとらえられ、求愛されるまま2人の青年と二重婚約し、養生せず酒も煙草もやめていなかった。

三浦綾子のキリスト教信仰と文学創作に大きな影響を与えた青年が二人おり、一人は入信に導いた前川正である。前川は北海道医学部に進学したが肋膜炎に罹り、静養して一時全快するも結核再発。

作歌活動するが短歌の芸術を高めていくことが目的ではなく、「我いかに生くべきか」との人生論で基督教徒としての「信仰に生きる道」こそ最大の課題だったという。

前川は再会した綾子に今のままでは魂ごと死んでしまうと真摯に諫め、キリストに従って新しく生きるように勧めたが、綾子は死にものぐるいで抵抗した。前川より聖書信仰とアララギ短歌を教わり、言葉と思いを正しくすることを諭され、次第に心が開かれて行く。

4-23-2.jpg綾子は結核から脊椎カリエスになり札幌医大病院に転院。西村久蔵の訪問を受けつつ回心を果たし、小野村林蔵牧師より病床洗礼を授かる。

綾子は二重婚約していたことがどんなにひどいことか気づく。そんな中でいのちに導きキリスト教を教えてくれた前川正を病気で亡くした。ギプスに固定されたまま愛する者の死を聞くほかなかった綾子の苦悩は想像を絶するものであったろう。

 「笛の如く鳴り居る胸に汝を抱けば 吾が淋しさの極まりにけり」
 「背骨の一箇所痛む処あるをば告げずして 雨降るひるを臥し居つ」
                  『生命に刻まれし愛のかたみ』より

その後、前川正と瓜二つのクリスチャン、三浦光世と出会う。光世は前川の弟さんと間違えられたほどよく似ていた。そのとき綾子は未だ寝返り一つ打てない状態だった。光世は綾子の回復を待って4年後に旭川六条教会で結婚式を挙げる。

光世は信仰に導いてくれた前川の愛の記録を生涯大切にするように勧めた。『生命に刻まれし愛のかたみ』は、妻がかつて愛していた男性の追憶集であり、光世の存在なくしては成らなかった。あなたがあなたのままでいることを大切にしたいという「存在愛」の形を歌ったものは稀有なものである。

結核療養者同士の二人は祈りをもって結婚生活を始めた。
子どもがいるから結婚に意味があるのではなく「断念の愛」もある。子どもがあるなしに関わらず、相手が居ることを喜ぶというのが夫婦にとって第一のことだ。三浦文学は光世が口述筆記の係を引き受けることにより始まった。最初に夫婦は必ずお祈りをして書き始めると言う非常に珍しい姿勢で、最期の時まで変わることはなかった。

「許さずは許されじとキリストの言ひ給ひしを三十年許し難き一人吾にあり」
「少年吾に母を罵りし草野某忘れ得ぬは許されざることか」
神さまはゆるさないのは罪だと言われるが、僕はやっぱりゆるすことができなかったと、光世もまた素直に信じるようになったのではなく葛藤の中で信じられるようになった。従って二人の魂の合体である。

「吾のこの今日ある陰に信捨てし祖父の祈りもありしかと思ふ」
今は信仰を捨てていると言えども、いつも僕をかばってくれたおじいさんの祈りが僕を守ってくれていたのではないか。光世の信仰と歌と生涯は、綾子の中で醗酵して『塩狩峠』『泥流地帯』などに豊かに実り、作品に昇華されている。

4-23-8.jpg作家デビュー作『氷点』
『氷点』は終章の陽子の遺書から書き出されたというから、三浦さんのテーマ、モチーフだったと言っていいかと思う。

「けれども、いま陽子は思います。一途に精いっぱい生きてきた陽子の心にも、氷点があったのだということを。私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、『お前は罪人の子だ』というところにあったのです。私はもう、人の前に顔を上げることができません。どんな小さな子供の前にも。この罪ある自分であるという事実に耐えて生きて行く時にこそ、ほんとうの生き方がわかるのだという気も致します。けれども、今、『ゆるし』がほしいのです。おとうさまに、おかあさまに、世界のすべての人々に。私の血の中を流れる罪を、ハッキリと『ゆるす』と言ってくれる権威あるものがほしい」。

これが一番伝えたかったことであるが、日本古来の「継子いじめ」として伝わり失敗作だと嘆く。「私の筆が足りなくて、私が本当に言いたかった、キリスト教の原罪ということが十分にはわかってもらえなかったんですから」と。この小説の主題は、神に向かうべき人間が的をはずし、金や名誉や地位の方を向いて自分中心に考える「原罪」なのだ。

「神の痛みの神学」で有名な北森嘉蔵牧師は、三浦の原罪理解を行き届いたものとしながら、「しかし、『的をはずれる』のは罪の定義ではあっても、ただちに『原罪』の定義にはならない。

むしろ詩篇78章56〜57節の『狂った弓』、つまり矢ではなく弓、行為ではなく人間の側に歪みがある、それが原罪なのだ」という。大切な指摘である。

「そうせざるをえないこと」をして「そうしたいこと」をする、それが原罪である。アウグスティヌスは「幼児は罪がないのではなく、単に罪を犯す能力がないだけである」と言った。すべての人間のなかに罪があるというのだ。

また北森は、陽子のなかに「身代わりの苦しみ」ともいうべきものがあると興味深い指摘をしている。本来殺人者の子ではないにも拘わらず罪ある者として裁かれた陽子は、イエス・キリストを指し示す存在で、それ以上に大事なのは陽子の絶望だ。

ここには「地上で罪をゆるす権威をもっている」(マルコ2章10節)と宣言されたイエスの言葉への渇望がある。したがって、贖い主「イエス・キリストを知らなかったことが、陽子にとっての真実の『氷点』だったのである。」と結論される。

陽子は「自分の中の罪の可能性を見出した私は、生きる望みを失」ったのだと思う。その罪がなんであるか明確には描かれていないが、兄の徹とその親友北原邦雄という二人の異性の求愛の前に、かつて自分が憎しみ嫌悪してきた母夏枝と同質の自己中心的な誘惑性を自覚したことが大きいのではないか。

自分の義しさが一点でも崩れたとき、陽子は己を支えることができなくなった。それが陽子のなかにある罪の自覚と贖い主との出会いが、『続氷点』で描かれなければならなかった理由だ。

韓国で『氷点』が出版される時『原罪』として出版されたという。佐古純一郎は、クリスチャンにわかってもらえる前提で書いたらどうかと『塩狩峠』を書くことを勧めた。日本人をクリスチャンにしようとした『氷点』ではなく、『塩狩峠』が日本人に届き、イエスさまを信じて生きたい物語を届けることができた。

朝日新聞社の1千万円懸賞小説に『氷点』が入選したとき、朝日の学芸部にキリスト教を理解する門馬義久記者(現役の牧師)がいた意味は大きい。

夫・光世さんは懸賞金1千万(内450万は税金で徴収)は「わたしたちは1円も手をつけないようにしよう」と、背広一着、ネクタイ一本も買わなかった。綾子の13年間の療養生活で多額の借金を背負ったお父さんに、教会の献金、療養中物心両面でお世話になった方々への挨拶などに使い、テレビを購入したのは10年後のことだったので、テレビ放映された「氷点」のドラマは見ることができなかった。
このほか、ピューリタンの生と死『塩狩峠』、ヨブ記としての『泥流地帯』『続・泥流地帯』、昭和への遺書『銃口』なども時間の許す限り語ってくださった。

附記:
▼ この日、学びの前に2018年度の総会を開催、会計報告も承認された。担当者選出ではメンバーのやむない事情で、今年度も書記(12年目?)・会計(7年目)・例会係(4年目?)をお引き受けした。

▼ 毎年6月と11月は千里ニュータウン教会を会場にしていたが東牧師が召天されたので、今後は大阪方面や神戸方面で会場を捜したい。

▼ 次回6月16日(土)は、梅花女子大学(大阪府茨木市)で開催することが決まった。講師は京都外大の長濱拓磨先生、講演のタイトルは「柴田錬三郎『眠狂四郎』と遠藤周作『沈黙』 ー切支丹物をめぐる二人の交流を中心としてー」。
posted by 優子 at 07:00| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2018年03月22日

『後世への最大遺物』へのコメント感謝!

20日から冬に逆戻りの寒さと雨天で震えている。暖房をつけっぱなしていても暖房の20度と陽ざしの20度とは比較にならず手足が冷たい。

IMG_1606.jpg例年この桜はオカメ桜が満開になった頃に咲き始めるが、今年は先週末には満開になっていた。この冬はあんなに凍てつく寒さだったから開花が遅くなると思っていたのに、反対に最速の開花だった。

4月12日追記:4月10日に枝を短く切り落としている最中だった。先ほど地主さんに自治会費を集金に行った折に聞くと電線に障っていたからだという。これは菊間桜(金龍桜のことか?)でその隣はヒガン桜とだ教えていただいた。

CHU-RIPPU.jpg例年12月に入ってからチューリップの球根を植えるのだが、チューリップの成長も早いので驚いている。

球根は凍るような寒さを過ごさないと花を開くことができないというから、寒さと関係しているのだろうか。

紅葉は朝晩の冷え込みで美しくなる。神さまが定められた自然界の摂理も人生と似ているように思う。幾多の試練を越えてこそ人は磨かれて美しい生涯が紡がれていくのだから。


IMG_1722.jpg

IMG_1726.jpg池の周りの桜もいつのまにか蕾も大きくなって、赤く色づいていた。やっぱり春はいい。芽吹きと開花、次から次へとあらゆる植物が自分の出番に備えている。


私たちも自然界の営みのように、それぞれの冬をしっかり通っていこう。苦しみや悲しみの受け止め方を間違わないで。

【感謝録】

サムサムさんより昨日の記事へのコメント:

内村鑑三の著作中のエッセンスとわれる文章、章句、詩歌などを集め、それを365日に配列し、更に適応する聖句を配したといわれてい教文館発行の『一日一生』と、『続・一日一生』を毎日1日分ずつ読んでいますが、後世への最大遺物」にあるような、内村鑑三の生活面についてのことは書かれていませんので、大きな関心を持って読ませていただきました。そして、

22-3.jpg「信仰は自力でこれだけやったら合格させてくれるのではなく、すでに神さまの側から手が差し伸べられ、『あなたは赦されているのだ』という発想に転換しないと安らぎはない。」うところと、

「人間にとって大切なことは、その人が地上でどう生きたかと言うことではなくて、その人がその人生で何を成そうとして努力していたのかということであり、神さまはそのことを全てご存知であり、何に苦闘していたかをくみ取ってくださっているのである。」とのところで、特に大きな感銘を受けました。

22-1.jpgそれにしても、正に波乱万丈というか、たいへんな人生だったのですねたい勉強た。ありがとうございました。

そして、リビングストンの言葉を引用して、内村鑑三が死生観を書かれた一文が、『一日一生』の、今日(3月22日)のところにありましたので驚き、そして、これも聖霊によるお導きと思い、お送りさせていただきます。

「信者は神の僕(しもべ)である。主人より特殊の要務をゆだねられたる者である。ゆえに彼はこの要務を果たすまでは死すべきでない。

しかして彼はその時までは決して死なないのである。リビングストンのいいし『われらは天職をおわるまでは不滅なるがごとし』との言は信者の確信である。彼になお天職の完成せざるものがあれば、彼は死なないのである。

IMG_1741.jpgされども彼が、もしすでに果たすべきことを果たしおわりしならば、彼は死ぬのである。彼は長寿の祈求をもって神にせまりてはならない。すでに用なき者はこの世にながらえるの必要はないのである。『何ぞいたずらに地をふさがんや』である。

僕は主人の用をはたせばそれでよいのである。彼は心にいうべきである。われは長く生きんことを欲せず、われはただわが主の用をなさんと欲すと。」


posted by 優子 at 23:04| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2018年03月21日

内村鑑三『後世への最大遺物』―きみはどんな希望を持っているか― ―日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会―

22-13.jpgこれは2月17日(土)に大津教会で開催されたJCP関西ブロック例会で語られた大田正紀先生の講演内容である。


この日、私は心身ともに不調で心ならずも欠席してしまったが、先週末に事務局の方が録音データをUSBで送ってくださったので、感謝して拝聴させていただいた。20-2.jpg


参加できない方々が毎回例会報告を丁寧に読んでくださるので、要約ではなく詳しく記録させていただいているが、能力不足で誤釈があればご容赦いただきたい。


内村鑑三は高崎藩士の長男で、父は優秀で道徳的な立派な人で母も働き者だった。父は40歳で引退させられることに巻き込まれ、この環境の中で鑑三は4人の兄弟を庇護していかねばならないという負い目をおわされた。


鑑三は典型的日本人で、神々に手を合さなければ恐れを感じる文化や宗教の中で生きてきた。明治7年、東京外国語学校(のちに外大は東京大学の予備門に移る)で英語を勉強するが、明治政府が北海道の開拓と北方の守りのために札幌農学校を計画し、学生たちに入学を勧めた。


札幌農学校の教頭としてクラークが来日。クラークは会衆派(今の同志社や組合教会の流れ)のクリスチャンで、キリスト教を芯に据えた教育をしたいと申し出て開拓使の黒田清隆と対立する。


明治10年に帰米する時に「イエスを信じる者の誓約」を作り、一期生がサインする。その後入学した鑑三もサインし、回心によって創造主なるただひとりの神を信じると、こんなに世界が変わるのかと思ったぐらい自由と平安を経験した。


この誓約には十戒の規定が書かれ、自分たちの信仰はこれを基準に交わりを作っていくというもので、使徒信条さえも入れていない。十戒の全文と仲間を愛の共同体として礼拝を守って行くという誓いはあるが、イエスさまがどのような人であり、どのような存在なのかという規定のないまま信仰の共同体を築いていったため、後に鑑三がクリスチャンになる回心を必要としたということがわかる。


信仰の確信という意味では最も重要な部分を欠いていたような入信だったと思う。しかし、学問や農業の実習のあとに祈祷会を持つなど、日本では類まれな信仰の共同体ではなかったかと思う。彼らは教派から独立した、宗派に属さないキリスト教会を作ろうとした。鑑三はメソジスト教会系で洗礼を受ける。


札幌農学校を出て信仰をもったとき、家族を入信させようと努力するが、そのとき儒教の生き方を貫いている父が最も大きな問題となった。しかし何度叱られてもキリスト教を伝えようとした。悔し泣きをしても父に聖書を読んでもらえさえすればいいと思ったが、手に取ってもらえなかった。


ところが漢訳聖書のマルコ伝を渡したときに読んでくれ、父の人格が変わってくる。そして父は、「私は今まで傲慢な人間だった。今日から私は是非ともイエスの弟子になろう」と言って信仰を持ち、父のあと家族全員がクリスチャンになった。


このあと鑑三は、新島襄の紹介で群馬・安中教会の信者・浅田タケと結婚するが離縁になってしまい、この経験が大きな挫折となった。

新渡戸稲造は資金を得て留学するなど、札幌農学校の親友たちは自分の道を開いていったが、鑑三は首席で卒業したにも関わらず、自分の生涯をどのようなことで身を立てていこうかと悩んでいた。


離婚の理由はよくわからない。膨大な日記の中にも結婚の失敗については書かれていない。従って多くの評伝作家たちも推測でしかない。鑑三は生物学者ではなく、スタンフォードの医学部へ行って医者になろうかと考えたりしていたが、新島襄にアマースト大学を紹介されて留学する。


梅花で宗教主事をしていた石川先生の伝記によれば、鑑三は自分の結婚と離婚によって自分は傷ついたと思っているが、実は妻を傷つけたのは自分ではではないかと自分を責める気持ちがあったのではないかと解釈している。


その根拠は、アメリカで知的障がい児の看護師(教育)のアルバイトをし、奴隷のようになって困難な子どもたちに仕えた。まるでルターが自分の罪意識を浄化していきたいために苦行難行して、自分の罪を薄めたいと思って世話したのではないかと書いている。


鑑三はアマスト大学の学長・シーリーより深い慰めを与えられた。信仰は自力でこれだけやったら合格させてくれるというものではなく、すでに神さまの側から手が差し伸べられており、「あなたは赦されているのだ」という発想に転換しないと安らぎはないと。


鑑三は善いことをしても根本的には自分の利益になるようなことや、自分が褒められるようなことをつかみ取ろうとしていただけで、本当の喜び、即ち、イエスさまによって私たちの罪が贖い取られたんだという喜びを持っていなかった。シーリーによってこのとき初めてキリスト教の回心をした。


1888年、新潟の北越学館の仮教頭に招聘されたが、鑑三は ”Japan” “Jesus” の二つの “ J “に仕えるという「キリスト愛国」という信仰を持っていたため、成瀬仁蔵やアメリカンボード(米国伝道会社・組合教会)の宣教師らと激しく対立しわずか4カ月で辞職。


鑑三の信仰は日本人の誇りを持った信仰である。日本人は日本人でお金を貯めて学校教育すべきであり、そうでないと日本人としての正しい教育を与えられない。宣教師たちの教育のように無給でやっているのは教育の独立性を侵すものであると考え、もし教えてもらうならば給料を払えと言う。


4ヵ月で教頭職を追われ、その後東京へ戻っていくつかの学校で教職につくが乏しい待遇だった。そのころ、横浜加寿子と結婚して幸せな家庭を作る。


1891年、第一高等学校で明治天皇の教育勅語奉読式があり、最敬礼しなければいけない時に一瞬ためらった。全く礼をしなかったわけではないが、明治天皇の署名文に最敬礼しなかったと血祭りにあげられる。「一高不敬事件」である。   


鑑三が流感で寝込んでいる時にマスコミと仏教各宗派が鑑三を攻撃して学校を追われ、彼らに対応した妻が心痛と流行性感冒で急逝した。その時、新渡戸稲造や宮部金吾、本郷教会の牧師・横井時雄らが庇護者になってくれたが、殆どの教師に見捨てられた。


鑑三は按手礼も受けていないが、横井は組合教会の説教者として鑑三を用いた。その後、大阪の泰西学館(大阪商業大学の前身)に就職し、次いでいくつかの学校に赴任するが短期間で退職した。クリスマスに岡田靜子と再婚。


鑑三は理学士も取りながら、自分の天職というものをまだ見いだせない。今、神の前にどのような生涯を捧げうるかを真摯に問いかけていた。この時期の苦衷は『基督信徒の慰め』『求安録』に詳しく書いているが、彼は決して挫けていない。四方が塞がっていても上が開いている。敵に囲まれて苦しんでいても、どんな苦難にあっても希望をもって生きていけると励ます。


冒頭で(らい)山陽(さんよう)の「(じゅっ)()」を紹介し、どうすれば古人のように千年の歴史に名を刻むことができるだろうか。自分の名前を遺すために、ピラミッドや大きな墓を造るのはキリスト教的ではない。


しかし、この世界に生を受けて去るとき後世に何を遺すかを考える時、クリスチャンらしくないように思うが、天文学者のハーシェルが20歳の時に、「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより、世の中を少しなりともよくして逝こうじゃないか」と友人に言ったように、美しい希望、自分の志を果たす歩みができるのではないかと考えた。


鑑三はアメリカでマモン(富)に仕える拝金主義を見てきているが、後世に何を遺すかを考える時、金であり事業であると、金だと言い切るのはすごいことだと思う。その意味するところは、教会や国のためにお金を使う実業家、人物を望んでいる。


鑑三は名前を遺した人の中で尊敬する人が二人いるという。それはリビングストンとクロムエル。英国宣教師協会のアフリカ宣教師・リビングストンは、伝道より暗黒の内地の探検こそ急務と考え、死に至るまで37年にわたって3度大陸を従横断して内陸の地理を明らかにした。


クロムエルは神の摂理を信じて戦い、偉大な英国を築いてピューリタン革命を率いた。また、フランス革命の道筋を作ったジョン・ロック。バニヤンは人間はいかにして天国に近づいていくかという問題を書いた。バニヤンは生涯で聖書とフォックスの“Book of Martyrs”の2冊の本しか読んでいないが、イエス・キリストの恵みにあずかった喜びが文章に脈打っており読者に伝わっている。


今自分は何もできないにしても、誰にでも出来ることがある。それは勇ましい高尚なる生涯だ。自分の信じた主義を真面目に実行する精神こそ後世の最大遺物だ。


人間にとって大切なことは、その人が地上でどう生きたかと言うことではなくて、その人がその人生で何を成そうとして努力していたのかということであり、神さまはそのことを全てご存知であり、何に苦闘していたかをくみ取ってくださっているのである。


キリスト教に出会う前に生きて死んだ人たちは、その人たちなりに天を仰いで生きていたんじゃないかというのが鑑三の見方である。


神さまを信じた人たちは確かに救われて天国へ行けるのだけれども、私たちが死んで神さまの前に立たされて、おまえの生涯は本当に恥じることがなかったのかと問われる時があるのだから、その緊張感を持って生きたい。


キリスト教に多くの教派があるが、鑑三は教派に対する先入観で人を裁いてはいけないとも言っている。教会はいらないという鑑三の考えについてはもう少し勉強していきたい。

posted by 優子 at 14:25| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2018年03月03日

過去ログ「jcp関係」追記記事

これは3月1日に、「jcp関係」の過去ログ「JCP創立65周年記念感謝の集い B ー「書くこと、話すこと、伝えること」−」に追記したものである。
2018年3月1日追記:
2018年2月22日に長原兄弟より落手した写真集(全4ページ)より一部記録した。これは長原さんの手になるものである。

IMG_0758.jpg

IMG_0759.jpg

IMG_0760.jpg

IMG_7904.jpg写真記録のご奉仕は常に長原武夫さんだ。JCPに入会されて以来30年間ずっとである。かつて毎年開催されていた熱海での夏期学校、各地での研修会など、また満江巌理事長(牧師)とは聖地イスラエル旅行にも同行されている。
IMG_7908.jpg

それらのご愛労だけではなく、一切の費用も受けておられず、私たちはお言葉に甘えて拝受している。心からの感謝を込めて『メメントドミニ』に記録させていただきたい。
「ありがとう 長原さん!」 
posted by 優子 at 22:25| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年11月22日

福沢諭吉『学問のすすめ』を読む ―日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会―

IMG_9086.jpg今年6月に千里ニュータウン教会の東 道男牧師が召天され、在りし日の師のお姿を想い寂しさに胸詰まる。

「東先生、どこへ行ってしまいはったんやろね。不思議やね」と、Oku姉妹が教会の台所でしみじみ言われたことは、誰もが感じる残された者の実感であり不思議さだ。

昨年の11月は、10月に御伴侶を天に送られたまなしの例会だった。その時のことや感じたことも別の機会に書きたいと思っている。

当教会はいま無牧で大阪教区の牧師が輪番制で礼拝説教に来られているとのこと。役員会から今後も私たちの例会会場にとお許しをいただいたが、秋のイチョウ並木道を歩くのはこれが最後になるかもしれない。

では18日(土)の例会での学びを記録しお分かちしたい。講演は私たちの導き手である文芸評論家・梅花女子大学名誉教授の大田正紀先生である。

最初に言い訳を一言。いつも拙い書きとめだが、この日は特に血圧が高く睡眠導入剤を服用していたので、時に朦朧状態になって十分な聞き書きができなかった。
それでも感銘することしきりで、私にとって歴史上の人物でしかなかった福沢諭吉が目の前に現れてきたように感じ、是非励ましをお分かちしたい。

福沢諭吉と中村正直は近代日本をつくった啓蒙学者として挙げられる。2人の共通点は、最初は儒教であったがキリスト教にとても傾倒したことである。

諭吉は信仰をもっていなかったが、子どもたちには熱心にキリスト教の教えを伝えた。道徳としてではなく、より高い品性を持っていかなくてはならないということで特に「十戒」を教えた。

(どう)(もう)おしえ草 ひびのおしえ』に記している「おさだめ(7つの大切なこと)」として、うそをつかない」、「ものを拾わない」、「父母に聞かないで物をもらわない」、「強情をはらない」、「兄弟げんかをしない」、「人のうわさをしない」、「人のものをうらやまない」の7つを丁寧に教えていた。 

  

「神」といえば、日本では八百万の神を想像し、中国では人間の嘆きを決して聞いてくれない天を想像するが、諭吉は聖書の神をしっかり意識していた。

「ひびのおしえ」の10月27日の「ゴッド(神、造物(ぞうぶつ)(しゅ))の心」では、「おさだめ(六つの大切なこと)」の第一は、「天道(てんとう)さまを恐れ、これを敬い、その心にしたがいなさい。ただしここでいう天道さまとは、太陽のことではありません。西洋のことばでは『ゴッドといい、日本のことばにほんやくすれば、創造(そうぞう)(しゅ)(神)というものです。」と十戒を網羅している。


当時の男たちは皆家庭以外に妾を囲うのが当たり前だった時代であり、年端もいかない子どもにも「汝姦淫するなかれ」の教えは必要だった。諭吉は妻以外とは一切そのような関係を持たなかったし、茶屋遊びも殆どしなかった。

しかしここで大切なことは、「これを守らなければならない」とがんじがらめにするのではなく、「あなたが本当に高い品性の人間になりたいならば、神さまがあなたを幸福にならせたいために送ってくださった教えに学びなさい」と導いた。(ここはアヤフヤ)

当時、米国では保守的な人々が大学を創っていたが、キリスト教をもっと自由に信じたらよいということで、神だけを仰ぎ、救い主をもたない「ユニテリアン」がハーバードだった。

諭吉はハーバード大学の分校のようなものを創りたく、慶応大学に神学部を新設したいと思ったが許可されず失敗した。


諭吉は大阪大学の基になった適塾で学び、塾長になり緒方洪庵に大切にされて学を修めた。諭吉はよく実用の学を説くので金儲けと間違われるが、その最も深い真理に対する欲求であり無心に寸暇を惜しんで勉強した。

横浜では専ら英語が用いられており習得したオランダ語が全く役に立たず、英語を教わる所もなく独学で英語をマスターした。諭吉はチャンスを大切に活かし幕府から3度洋行する。最初は咸臨丸による渡米、次にヨーロッパの視察旅行があればそれにも潜り込み、そしてまた再渡米し、近代の外国に深い感銘を受けて帰国した。

中村正直は儒学のトップの権威を持っていた人物である。西洋の科学を支えている精神性を見分けるのが自分の仕事だといって渡欧。

イギリスの人々のモラルの高さとキリスト教の精神。子どもたちが労働だけで潰されてしまうことがないように配慮して社会を作っているなど、キリスト教がいたるところで生きていた。
帰国した時、幕府が潰れていた。尊王か攘夷かというのは過ちだ。優れた文化は取り入れるべきだ。

諭吉もまた洋学者は命を狙われる状態で教育者として立っていた。諭吉は西洋のように努力すれば国や自分自身を建て挙げるげていくことができる、血統は関係ないんだと子どもたちに説いた。

今の日本人を変えていくのに大切なことがキリスト教だとして、禁教令下で我が子をキリスト教徒にすべるべく、十戒の教えが響いている「おさだめ」を教え、アメリカの学校にも入れた。このことは諭吉の没後に息子が公にした。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」はアメリカの独立宣言の引用である。『学問のすすめ』は全ての人のために書いたものではなく、「あなたがたは一人ひとりに与えられた天賦の才能がある」と、田舎にいる不安な若者たちに書いた。役に立たない儒教ではなく、多角的、合理的に物事を考え企業を起こしていく。その励ましのために書いた。

今は貧しい人々に厳しいのではないかと言う批判があるが、福沢と中村は教育こそが子どもを真に自立させていけると考えていた。支配するための道徳ではなく、自分を向上させていく修身的な道徳があったほうがよい。

諭吉は明治維新まで32年生き、その後32年生きた。専修大学も福沢が創っている。「福沢は日本の近代の準備に半生を生き、それを完成させるために半生を生きた」と小泉信三が言っている。

附記【11月20日記事より例会の朝のこと】:
11月初旬から医師の指示通り降圧剤を2倍服用しているが効果がない。18日の冷たい雨の例会の朝は160台だったので頓服を飲み、欠席することになるかもしれない同日午後からのJCP例会関係者に連絡して諸務をお願いした。

毎年11月のクリスチャン・ペンクラブ例会は、当市の公立幼稚園や学校の公開授業(オープンスクール)と重なる。血圧は高かったが珍しくそんなにしんどくなかったので知子と学校へ向かった。

例年通り10時過ぎまで参観して学校を後にした。知子に例会を休むように勧められてしばらく立ち止まって躊躇していたものの、今の私にはかけがえのないクリスチャンの交わりゆえに行きたくて、生きることはいのちを削ることでもあると思って駅へ向かった。

知子は私の姿が見えなくなるまで雨の中見守ってくれていたという。睡眠導入剤の影響でフラフラするのでプラットホームから落ちないように真ん中を歩くように注意した。

大津から来られるHa兄(きょうだい)は朝の電話で、「(南千里)駅まで迎えに行くから電話してや!」と何度も言ってくださり、そのやさしさに目頭が熱くなった。

万が一のために私は夫の携帯電話にHaさんの電話番号をメモした紙を貼って持参したが、その優しさだけで十分だった。その時はタクシーに乗ればいい。IMG_9090.jpg

12時50分無事到着。
玄関に入るなり、私から「電話がないので欠席かと思ってた。大丈夫か?」とHaさん。教会の役員さんも心配してくださっていた。感謝!

posted by 優子 at 23:16| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年10月25日

児童文学作家・今関信子さんのお証し 「75歳節目の時にふりかえる −書くこと生きること―」 ―日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会―

大津駅前.jpg JCP(日本クリスチャン・ペンクラブ)関西ブロック9月の例会日が創立65周年行事と重なったので、10月21日に開催した。

秋に大津を訪れるのは何年ぶりだろうか。この翌日は衆院選挙投票日で、台風21号が近畿地方に最接近した。(写真正面はJR大津駅)

台風前ということもありいつもより1時間早く散会した。大津駅の背後の山に厚い雲が立ち込めて山水画を見るようだった。

例会では私たちの導き手であり著名な児童文学作家・今関信子さんがお証ししてくださった。
10月16日で後期高齢者になり、いろんな意味で節目だと思っている。久保田先生が亡くなられたので関西ブロックも今ここで考え直して新たなる出発をしたいと思っていた。

IMG_8568.jpg久保田先生がクリスチャン・ペンクラブに誘ってくださった時に薦められた満江巌氏の『あかしの文章入門』を読み返した。内村鑑三のことが何度も出て来る。例話の文章は古いが、クリスチャンがやらなければならないことを明確に発言されている。

文章はみんなに届けていくためにとてもよいものであるから文章を磨き、「若者にはそれを受け入れ易い文章に、老人にはそれにふさわしいいのちのことばを届けよう」と書いておられ、「届く」というのがとてもインパクトのある言葉として残った。私自身もこのことを心にとめて書いてきた。

教団の『こころの友』に子どものそばで感じたことを1年間書いたが不発に終わった。書いた文章に反応がこなかった。『こころの友』はたくさんの人が読んでいる媒体である。

IMG_8571.jpg公に言葉を出した時、面白ければ必ず反応が出るということを私は体験上知っている。京都新聞の小さなコラムに載っていた私の文章を学研の人が見つけて、それが1ページになり、次に38ページになり、本(『大久野島からのバトン』)になった。

心に届けば必ず反応が返って来る。「若者には若者に届くように、老人には老人に届くように」と、満江氏の言葉は一つの要素だと思っている。

文章には必ずその人が投影されていて文章に滲み出て来る。内村鑑三は「文は文字ではない思想である。思想は血である、命である」と、文は読む人の考え方を動かして思想にまで届く。

スケッチするように捉えても祈りによって確かめられて、内実を整えていくと現われてくる言葉、それが滲む文章を書かせるのだと思っている。

礼拝する人間は必ず自分の持ち場に押し出されて行って闘う。そして「必ず神より与えられる」という内村の言葉。私は「内村さん」と呼び、親しく交わりたい。牧師であれ尊敬はしているけれど神さまのように崇めたてまつらない。昔からの友達のように呼びかける、それが私の生き方だ。

この時代に生かされている自分が押し出された場所で闘い、この器で語るものは持っているだろうと自分では思う。祈りをもって言葉を紡ぎ出す。勧善懲悪のように何かを語り出さないようにというのが私の姿勢だ。

最初に結論ありきではなく、(私の)名前を憶えてくださっている神さまに感謝して、揺れながら迷いながらのものを持ちながら書いている。満江氏もそう書いておられるからすごい! 

読んでいるうちに「ああ、またか」と思われてしまう文章は書かない。満江氏は、「達観させるような匂いのする文章はうんざりさせるよ」と忠告してくださっているように思う。

内村鑑三の弟子・藤井武は、「我らはただ神の賜の何であるかを胸に思い浮かべて見るだけではついにこれを発見することができない。我らは出でて捜さなければならない。・・・十字架を仰ぎ見なければわからない」と、愛に満ちた神の業がなければ私たちは立ち上がってこないと書いている。

満江氏は藤井の文章はリズム感があり心に響いてくる、香りが違う。詩には匂いたつ言葉とリズムがあり、リズムは人の心を和らげ素直にさせると書いている。

羽仁もと子は「神さま すごい!」という書き方ではなく、「神さまは私たちをこんなに個性を持って生まれさせてくださっているんですよね」と心に迫る文章だ。

『大久野島からのバトン』はしっかりした取材があり、それを書きとればノンフィクションになるがそうはしなかった。第2次世界大戦中のことを「昔こんなことがあった」と書くと今の人に届かないので小説化した。

ミッションスクール(YMCA)の子どもを登場させ、多くの人を登場させて意見を言わせた。YMCAの顧問のクリスチャンの先生が大事な役目をしてくれるのではないかと思った。

今、滋賀県の小学校に招かれて講演に回っている。修学旅行で広島へ行く前に通過していく島のことをしっかり事前学習して毒ガス資料館につなぐ。私はこれを言うためにという気持ちで書いてきたことは一度もない。読んでくれた人が何かにひっかかってくれたらいいなあと祈りながら書いている。   

満江氏の本を読んでからやっていることがある。それは毎日一番最初に葉書を書く。その人は課題を持っているので説教臭くならないように寄り添うように書く。私の言葉を拾ってくれる人に届く言葉を書けるようにやっているのが葉書である。自己表現として書いているのではなく、そのことも久保田先生に触発された課題かもしれないと思う。

小さい版.jpg今関さんは予定通り見事に30分間で話し終えられた! そのあとの分かち合いで心に残った言葉:

★キリスト教で何かを言おうとするとき裁いてしまう。聖書を読みながら自分も問われている。正義を振り回さないで、キリスト教の光でその人の人物と真実が浮かび上がるように書きたい。

2小さい版.jpg★キャラクターを立てていくとき一面的に捉えるのではなく、豊かに考えられる人になりたいと思っている。

次回の例会は、11月18日(土)
千里ニュータウン教会にて午後1時より。

東牧師が召天されたので千里の会場は次回が最後になるかも知れない。
先ほどからようやく陽ざしが部屋に入り、自然の暖かさで心和らぐ。
posted by 優子 at 14:49| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

JCP創立65周年記念感謝の集い B ―「書くこと、話すこと、伝えること」−

花.jpg講師としてお迎えした船本弘毅師(83歳)のご尊父・船本坂男牧師は日本キリスト教団・大阪城北教会で40年間牧会された方で、JCPにおいては「東の満江、西の船本」と言われた方である。

私も1989年秋に大阪城北教会(吹田市)でJCPの集まりがあった時にお目にかかったことがある。その時は既に引退されて名誉牧師になっておられた。

満江牧師時代に毎年発行された400字の『証し新書』は「あいうえお」順に掲載されるので、いつも私の次に船本牧師のお名前があった。

以下は65周年の記念講演「書くこと、話すこと、伝えること」の聞き書きによる記録である。

IMG_7913.jpg
啄木にとってふるさとは懐かしい所だけではなかったが、「ふるさと」を詠ったうたを多く残している。

「汽車の窓 はるかに北に ふるさとの 山見え来れば 襟を正すも」

ふるさとは生まれ育った地、帰って行く地という外面的なものだけではなく、「心のふるさと」や「魂のふるさと」などと思える地でもある。

今年は病床についていたので行くことができなかったが、13年前から私の生まれ故郷・伊豆の下田教会へ毎年一回手弁当で牧会に行っている。「来年また来ます」と言うと、「来年もお会いできればいいのですがね」と何人か仰る。

そういう年なんです、我々は。
それは一期一会の会であり、まさにJCPの感謝会も一期一会の会である。

ブーバー.png20世紀の最大の思想家の一人であるマルティン・ブーバー(1878〜1965。87歳でエルサレムで没)は、著書『出会い −自伝的短編−』の「問いと答え」で次のようなことを書いている。

第一次大戦前夜(1914年5月)、友人の老牧師ヘヒラーを駅へ見送る道中で問いかけられた。
「愛する友よ、我々は重大な時期に生きています。どうか言ってください。あなたは神を信じますか」。

ブーバーは答えるまでにしばらく時間がかかったが老牧師を安心させるために、「その件については私のことを心配なさる必要は何もない」と言って見送った。

しかし、その同じ道を帰って行くとき立ち止まらざるをえなかった。「私は本当に神を信じているのだろうか」と、正しい言葉を見出すために一歩も踏み出せず長い間立っていた。

証し文章を書き、人に伝える。厳しさがある。私たちも重大な時代に生きている。自分の言葉で、自分が本当に信じていることをいかに書き、いかに伝えるか。これが証し文学に求められていることである。

私たちが神を3人称で言うのではなく、「我と汝」という関係で言われなければ本当に信じていることにならない。「そもそも神なんて」と論議している時は信仰などない。

ブーバーの有名な『我と汝』は、2人称の神は老牧師に問われた時に考え出されたものである。

私は国民学校(6年間)の一期生として入り、その最終学年として卒業し、まさに戦争を経験した人間であり、そのような時代に生きた。

その後新制中学制度になり第一期生として関学(関西〈かんせい〉学院・キリスト教主義教育)に入学した。入学式で矢内正一(まさいち)校長は「この学校には何もない。しかし、君たちがいる。君たちは希望である」と言われた。

国民学校では人間は兵隊になって国のために死ぬためにあると教えられていたから、「あなた方は希望であり、一人ひとりがこの学校を作って行くのだ」と言われたので12歳の子供は驚いた。

この一言が人の歩みを変えた。以来51年間、関学で学び関学で教えてきた。言葉は話すことによって、聞くことによって人を変える。

矢内正一師の告別式で日野原重明さんが弔辞を述べた。日野原さんの恩師だった。
「私の人生の節目とも思える時はいつも幼い時に覚えた聖書の言葉が浮かんだ」と、聖書をもって生きたのが日野原氏の人生だった。

証し文とは聖書の言葉を現代の人に自分の言葉で書くことだと思う。牧師の説教も信仰の証しであり、話す時も書く時も自分は今こう理解しているということを常に心にとめて、聖書の言葉を私の言葉で書き、話すことが証しである。

IMG_7982.jpgまさに今も重大な時代、時期に生きている。わが命も国状も明日どうなるかわからないからこそ、身を削って書いていかねばと思った。
神さまが一人ひとりのペンの力を強めてくださるように
祈ります。(完)

IMG_7990.jpg附記:私は高校2年生の聖書の時間にブーバーの「我と汝」を初めて知った。これがマルティン・ブーバーの『我と汝』の全訳本である。

この本は大学を卒業する1974年の2月に購入したもので、以来常に身近に置いている。1923年に公刊、日本語訳での出版はこれが初めてなのであろうか、創文社から昭和33年に初版発行、これは昭和48年発行の35版の本である。

2018年3月1日追記:
2018年2月22日に長原兄弟より落手した写真集(全4ページ)より一部記録した。

IMG_0758.jpg

IMG_0759.jpg

IMG_0760.jpg

IMG_7904.jpg写真記録のご奉仕は常に長原武夫さんだ。JCPに入会されて以来30年間ずっとである。かつて毎年開催されていた熱海での夏期学校、各地での研修会など、また満江巌理事長(牧師)と聖地イスラエル旅行にも同行されている。
IMG_7908.jpg

ご愛労だけではなく、一切の費用も受け取られず、私たちはお言葉に甘えて拝受している。

心からの感謝を込めて『メメントドミニ』に記録させていただきたい。
「ありがとう 長原さん!」 
続きを読む
posted by 優子 at 10:26| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年09月19日

JCP創立65周年記念感謝の集い A ―Intermission−

IMG_7931.jpg
日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)65周年を迎えるにあたり、かつての会報の中から貴重な記事を見つけたのでここに記録方々ご紹介したい。

これは満江 巌理事長の手になる会報・『香栢』100号(1989年2月発行)を記念して、JCPの前身である「キリスト教文筆家協会 会報 創刊号」から初代会長・村岡花子の一文を転載されたものである。


a.jpg


そして時を経て、現在のJCP会報である。
これまでの移り変わりを端的に記されている貴重な記事である。

IMG_7969.jpg
IMG_7972.jpg

次のページで9月16日の創立65周年記念感謝の集いで語られた、聖書学者・船本弘毅氏の講演の概要を書き記しておきたい。
続きを読む
posted by 優子 at 17:32| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年09月18日

JCP創立65周年記念感謝の集い @ −まずは到着までの珍道中―

IMG_7936.jpg
今朝7時43分、台風一過の空。

台風18号の影響で16日夜の帰宅時もかなりの強風になっていたが、その後ずっと落ちついていた。昨日の夕方、奈良県にも全ての警報が出されたものの台風の影響さえ感じなかった。ところが23時前から突然の暴風に震えあがり、下記の記事を書いていたが独りでいるのが怖くてベッドに入った。

乱気流に入った時の飛行機のような音と揺れが1時間半も続いた。日付が変わった頃から次々と周辺地域の警報解除が発表されていたので、まるで合格発表を聞くかのようにラジオのニュースに耳をそばだてながら恐怖に耐えていた。

全く被害のない地域でこの恐怖であるならば、避難されている人々の恐怖は言葉にならないだろう。体験しないと人の痛みはわからないし、想像するのも難しいのだと自戒しながら嵐が通過していくのを待っていた。
大災害になっていませんように。ニュースを見るのがこわい。

line_hosi2.gif

16nichi asa.jpg16日早朝、朝顔がこんなに咲いていた。大雨ですぐにしぼんでしまうのがかわいそうで写真を撮っていたら、予定の時刻よりも数分遅くなって大急ぎで駅に向かった。

新大阪で指定席を取らずに改札を入ってしまうというミスをして緊張加速。再度出ることができたのはいいが、混雑していて列車も予定していた「のぞみ108号」は満席。幸い次の列車に空席があったので胸をなでおろして7時40分に新大阪を出発した。

この段階で脳みそはシェーカーで思いっきり振られた感じで十分に刺激的だった。これで気を抜いてもいいかとスターバックスの分厚い卵サンドを平らげて、コーヒーを飲み始めたところで東寺が見え、はや京都に着いた。

東京駅では下車する直前にお聞きした男性が、駅構内でも迷走しかけていた私に再び声をかけてくださり1番線乗り場の方向を教えてくださり雑踏の中に見えなくなった。
それにしても東京の高層ビル群と人の多さには改めて驚いた。大阪駅も同じ込みようだけれど広いので圧倒された。

前回は順調に行けたのにとガッカリしつつも1番線のエスカレーターを元気よく上っていった。が、なかなか着かない。「まだかいな」。

ここで東京のエスカレーターは長いというのを思い出して「えらいことをした」と、途中から息を切らせてホームに到着。
誰も自力で上ってくる人はいなかったので止まってもよかったけれど、やっぱり心が弾んでいたのでジッとしていられなかった。それにこの日はすごく元気だった。

「中央線は進行方向先頭の車両に乗る」。
念のために駅員さんに御茶ノ水に行く電車か間違いないことを確かめて、結局検索した予定通りの電車に乗ることができた。

「御茶ノ水で下車したらすぐの階段、そこが駿河台口」。
御茶ノ水駅の階段は10年前に久保田先生を介助しながら上ったので鮮明に記憶していたが、事前に教えていただいたペン友の案内がありがたくメモを読み直しているうちに到着。
16.1.jpg「階段を上がると改札あり」。
ここまで来ればもうわかる。
改札を出た瞬間に早く着いておられた長原さんに声をかけられて「おおー」と歓声が出た。
「改札を出ると斜め左手に十字架が見える。OCCビル」。
ビルの上に十字架が見えた!

「どんどん入ってエレベータで4階。エレベーターの裏側に当たる416室」。無事到着!
部屋に入った瞬間、あの方この方と懐かしい友との再会、握手を交わす。しかし池田牧師も久保田先生もE兄弟のお姿もなくさみしさが突き上げてきた。

関西ブロックからは5名参加し、内2名は前日に宿泊しての参加だった。

5年後の70周年感謝会にも生かされて元気であるならば、この記事が参考になるだろうという思いもあって記録したが、高齢になると5年という年月は大きな変化をもたらす。本当に明日のことはわからないお互いである。

天に帰られた先人たちを思いさみしくもあったが40名が集い、関東ブロックの方々の心のこもった多大なるご愛労のおかげで、主の御臨在に満ちた、それはそれは豊かに祝された感謝会だった。
                        (つづく)

posted by 優子 at 08:44| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年09月15日

台風18号見据えながら東京日帰りに挑戦

ふうせんかずら.jpg今や数時間でもテレビやラジオをつけていないと何が起こっているかわからない。
今朝はゆっくり8時半を過ぎてテレビをつけると、またしても北朝鮮がミサイルを飛ばし襟裳岬付近の上空を通過したと報じていた。

(フウセンカズラ)

7時53分.jpgその映像で釧路港に群がるカモメたちを見た瞬間に目頭が熱くなった。日常の光景に心が癒され、カモメは何も知らなくていいなぁと思ったのだが、このような危機をどうすればよいのかと悲しみで目が潤んだ。
決して戦争になりませんように!!!

自然界も神の秩序が破られて世界で大災害が起きている。

明日からの3連休に非常に強い台風第18号が日本列島縦断の予報が出ているが、どうか被害が最小限に留まりますように。

既に九州南部では断続的に激しい雨が降っており、関西も今夜から雨で17日に暴風雨を伴って接近するという。

それでも明日は予定通り東京へ行くことにした。早朝5時50分に家を出て10時半に御茶ノ水到着予定である。帰阪するのも遅くなるので帰られるかどうか心配であるが、祈りつつ出発しようと思う。

IMG_7837.jpg

クリスチャンペンクラブが創設されたのは私が生まれた1951年、NHKの朝ドラで取り上げていた村岡花子が初代会長である。

私は洗礼を受けた1987年に、JCPの理事である大学の恩師のご紹介で入会した。ただし母が亡くなった1996年から2003年頃までしばらく中断していたが、次女が東京へ行くことを機にメールの必要を感じてパソコンを使い始め、まもなくJCPの活動を再開することになった。

その後5年ごとの記念会には毎回参加し今回で3度目である。それ以外にも次女が東京大学大学院で修士号を修めた2006年春に3日間ほど滞在した時に、ペン友と再会すべく御茶ノ水まで娘が住んでいた千駄木の家から一人で地下鉄に乗って行ったことがある。

IMG_7834.jpg

会場の御茶ノ水クリスチャンセンター(OCC)は
関東ブロックの方々がいつも集っておられる例会会場だ。

プログラム.jpg
 
船本氏プロフィール.jpg

関西ブロックからは5名の参加である。
60周年の記念会は、理事長・池田勇人牧師が病身の身を押してお顔を見せてくださった。その翌春、神さまのみもとに帰られた。昨日のことのように思い出される。

前回は新幹線の中で大江健三郎の『あいまいな日本の私』で天皇について読んでいて、その直後に東京駅で天皇皇后ご夫妻と1メートルにも満たない距離で目と目を合わせてお目にかかったものだから、その驚きたるやいかばかりだったか!
さて明日はどの本を入れて行こうか。

今夜は睡眠導入剤を飲んで4〜5時間なりとも眠らなくてはと、夕方から緊張状態になっている。肉体は心以上に季節に敏感で、8月の終わり頃から覿面に血圧が高くなっているのでしんどい。

8時5分.jpg13日に手術されたNさんは翌日のお昼過ぎに電話をかけてきてくださるほど順調だった。「昨日の夜もぐっすり眠れて、全然痛くない。動くと傷口が痛いだけ」と明るい声だった。麻酔の事故もなくてよかった。感謝!
これで安心して楽しんでこられる。

明日の帰宅は22時頃になるだろうか。無事に帰阪できますように。
皆さんも年を重ねておられるだろうか。いよいよ明日5年ぶりにペン友と再会する。

朝陽 8時6分.jpg

posted by 優子 at 20:32| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年07月31日

『種を蒔く』4号よりC −それでも希望を失わず ―東日本大震災6年目に思うこと―−  

それでも希望を失わず

     ―東日本大震災6年目に思うこと―         

      藤本 優子


「イェッしゃま(イエスさま)、きのうじしんがおこりました。もうおきないようにしてください。かじになって、いえもたおれて、みんな、ながれていきました。たすけてください」。

当時3歳9ヶ月だった孫は、東日本大震災後しばらくのあいだ同じ祈りを捧げていた。あれから6年過ぎて絶望感は深まるばかりである。原発事故で破局的事態になっても、為政者たちは方向転換せずに原発を再稼働させた。彼らはもう一度経験しないとわからないのだろうか。

015年にノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチは、昨年11月末に福島県を視察して言った。「チェルノブイリと同じく、国は人の命に全責任を負わない」と。

しかし、日本は旧ソ連よりももっと冷酷で恐ろしい。当初チェルノブイリでは、住むことも生産することも禁止されていた(年間)5ミリシーベルト以上の汚染レベルに、日本政府は百万人規模の住民を居住させており、国民の命を最優先しない。

あの時、政府は真実を隠し、「直ちに健康被害が出ることはない」と当時の内閣官房長官・枝野氏は録音テープのように繰り返した。一体いつの時代の知識であのようなことを言ったのであろうか。この時から始まった政府への不信感は募るばかりで、6年経った今も混迷を深め続けている。

農業や漁業に従事する人々の努力にも関わらず福島産の需要は伸びないというが、これは風評被害ではなく放射能なのだ。もっと正確に言えば、「政府の言論統制と嘘による知られざる核戦争」であると物理学者・矢ヶ崎克馬氏が訴えている。

この非常事態ゆえに、今からでも政府は方向転換して、人権を第一にして再建していくべきだ。私たちは何を第一とすべきか、全ての人に価値観が問われているのである。

放射能汚染時代にあっては自分さえよければよい、自分の家族さえ安全な食ベ物ならばよいということはあり得ない。平和や異常気象の問題もそうだ。全てが世界的規模で関連しているのであり、ブルンナーが言うとおり、今や「安全な場所などどこにもなく、私たちは隠れ場のない野原の中を行くように、どんなことが起ころうとも、それに身をさらさねばならない」時代である。

また、アレクシエービッチが、「日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がない」と言ったことも心に刺さった。私自身の中にも同じものがあると常々感じているからだ。

例えば原発再稼働や改憲に多くの人々が反対の声を上げ、私も小さい声ながら反対を叫び署名を集めつつも、傲慢で権力をふるう政治家たちを見ていると、「反対してもしょうがない」と何度も諦めそうになり、そんな自分を嫌悪することしきりだった。

被災者たちが世界の人々に感銘を与えた規律正しさや辛抱強さは、日本人の誇るべきことだ。しかしまた、私たちはあまりにも主体性に欠けてはいないだろうか。

然界も傷み続けている。ミサイルが落ちた海の中も大きく破壊されていることを思うと我慢ならない。空の鳥や海の生物は苦痛を訴えることもできずに苦しみ死んでいく。世界は深い闇に覆われ、視界ゼロメートルの常態になってしまった。

私は年を取れば取るほど自分のどうしようもない弱さや人間の罪深さがわかるようになった。それゆえに誰に祈ればよいかを知らされていることがありがたくて、そのことの感謝から祈り始めるようになった。

万物を創り全てを支配されているまことの神を知り、そのお方と交わる術を与えられて、日々刻々感謝し、また悔い改めることができるとは何たる恵みであろう。

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせてくださった」。

(ペテロの第1の手紙1章3節)


これこそがイースターの使信であり、私はこの言葉を心から神の応答として受け止めることができるようになった。これはこんな時代でも生きていけるように、神さまが全ての人々に与えてくださっている希望である。だから絶望しそうになっても絶望しない。

あの悲惨な被災地で、多くの被災者がイエス・キリストへの信仰を持ち、受洗の恵みに与られていることが報告されている。どうか一人でも多くの人が復活のキリストに希望をつないで生きていくことができますように。

春の風はやさしく肌を撫で、小鳥のさえずりが心を癒す。花々や小さな生き物たち、そして、子どもたちの未来を奪ってはならない。
posted by 優子 at 11:53| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年07月14日

森鷗外 『鎚一下』 −日本クリスチャンペンクラブ・関西ブロック例会−

IMG_6369.jpg明日でJCPの6月例会が終わって1か月になる。書記を仰せつかってから10年ほどになるが、これまでどんなに遅くなっても1週間以内に報告書を作成していたのに、このたびは今頃になってようやく先月の「学び」を復習することになった。

というのは例会の1週間後に東牧師が召天されたことや、井置利男牧師に恵贈していただいた本を読んでいたので、学びの内容を省略した報告書を作成して提出していたが、ようやく今、森鷗外の『鎚一下』を資料共に読み直したところである。

私はこれまで『鎚一下』(ついいっか)という作品名さえ知らなかったが、講演の冒頭で大田正紀先生が語られたことが興味を感じさせる導入となった。

「森鷗外は日本の中ではキリスト教会から一番遠い人だと聞いていたが変わってきた。
鷗外の三男の類(るい)は受洗していないがクリスチャンとして認めてはいいのではないか。杏奴(あんぬ:後妻・志げの間に生まれた次女)はカトリックの洗礼を受けている。

鴎外が晩年にキリスト教に近いものを書いた。それが『鎚一下』で、モデルが本間先生という日本人であることと、ヨーロッパで出会ったキリスト教を軸にして書かれた珍しい本である」。

その時代背景は幸徳秋水に代表される大逆事件が起こり、国家権力を握った人間は秩序を少しでも乱そうとする者は全て検挙していき、勝手に人を死刑にし、考えられぬ残虐な汚名を着せられて殺されていった。

『鎚一下』は、鷗外が明治の末年に「かのやうに」「吃逆(しゃっくり)」「藤棚」「鎚一下」の4作の短編を『かのように』にまとめて出版したものであるが、「 鎚一下」は他の3作品と趣が違っている。

鷗外はこの作品で、「無信仰だが宗教の必要性だけは認める」という穏健な思想の持ち主たちのおかげでドイツは治まっているということを、主人公・秀麿の口を通して語っている。

深井智朗は著書『19世紀のドイツ・プロテスタンティズム −ヴィルヘルム帝政期における神学の社会的機能についての研究−』で、「鷗外は今まで誰もが気がつかなかったような視点でキリスト教を見ていたのであり、日本の神学者でも気づいていないことを知っていた人物である」と述べている。

ドイツの強みはとりわけルター派神学(新教神学)、すなわち「リベラル・ナショナリズム」であり「プロテスタンティズムの神学」に基づいているという結論を鴎外は導き出した。

そして日本の世情が非常に不穏になってきた若者たちに、ドイツには政府だけではなく教会もあるのだと、「社会における宗教の役割を肯定できる人が重要なのであり、それが近代人であり、実はそこにこそドイツの強みがある」と訴えている。

鷗外は、近代ドイツの教養ある人々はすでに信仰は失っているが、制度としての宗教が政治的な役割を果たしているという矛盾も見落としていなかった。

さらに日本においては、果たしてこのような立場は可能かと問題提起し、今から100年以上も前の1912年に小説の手法で論じていたことは驚くべきことだと思った。

以上、貧しい理解力と稚拙なまとめではあるが、これを下知識として『鎚一下』を読んでいただくと鷗外の熱いものを感じていただけると思う。
分かりやすい短編なので是非お読みください!

📖 ブログの書き方がリニューアルされてリンクの埋め込み法がわからないので、ここhttp://books.salterrae.net/tuyuzora/html/OUGAI025.htmlをクリックしてください。

IMG_6373.jpg附記:今朝早く、知子とユキは一泊二日の旅行に出た。かけがえのない我が子とのプレシャスな時を過ごすために。
担任の先生もよく理解してくださり快諾してくださった。今日予定していた算数のテストも、「小数点は得意やから5分でできた!」と昨日一人だけ済ませてきたが「ほんまかいな」😃 
帰宅は明日の夜。
私たちもまた明日はプレシャスな時、『ブルンナー読書会』である。感謝!
posted by 優子 at 08:24| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年07月12日

『自分史 予科練から牧師へ −わが生涯(90年)の証し―』(後編)

IMG_6181.jpg
これが私たちがお出会いした頃の井置牧師だ。

2005年(79歳)〜2010年(84歳)の単身赴任の東大阪キリスト教会時代である。このご奉仕を最後に84歳で牧師を引退されて埼玉県のご自宅へ戻られ、再び「日本バプテスト浦和キリスト教会」へ教籍を置かれた。

IMG_6305.jpg御本には私に洗礼を授けてくださった小山恒雄牧師のことにも触れておられ、私は実父のことのように懐かしく胸を熱くして読んだ。小山先生は井置先生より3歳年下で、1929年に福島県会津若松市に誕生され、2008年5月に召天された。
神学校の級先輩お手紙に2級先輩と書いておられるとおり、両者の年譜から2年が正しいに小山恒雄という友人がいた。東北人特有の粘り強さとその真摯な人柄は誰からも尊敬され、成績も優秀な人だった。

卒業後は兵庫県の山奥にある丹波地方の小さな教会に赴任し、苦労していると聞いていたが、その小山先輩が、あるひヒョッコリとぼくを訪ねてきてくれたことがあった。
         (略)

小川に沿って歩きながら、ぼくは教会のこと、牧師のこと、神学校の舎監のことなどを、小山先輩に打ち明けた。まるで溜まりに溜まったものを吐き出すように喋った。

小山さんは、度の強いメガネをときどき指先であげながら、じっとぼくの話を聞きつづけてくれた。そんなぼくたちは、いつしか、先の大戦で戦死した人たちを記念する碑の側に座っていた。

そして、どちらからともなく、2人で讃美して歌った。(讃美歌213番)・・・ぼくのために祈ってくれている小山先輩の声を聞いているうちに、やがて涙も乾き、晩秋の風が心地よかった。

※ 今週からブログの編集方法が大々的にリニューアルされたためにやり方がわからなくて、次の引用詩も二つの囲みになってしまっていますが一連の詩としてお読みください。
いろいろ試行錯誤してもわからなくて現在シーサーサポートさんに問い合わせ、やり取り中です。

キキョウまもなく開く.jpgとても印象的だったのは井置牧師のご家族への情愛だ。
「いとしい妻」に見る夫像、またお子達への詩(下記)に溢れている優しい父親像。円満な家庭をも実現され、子から孫へ、そして2015年には「ヒジジ」になって曾孫さんにも愛を注いでおられる。

「生後25日」 御長女・路(みち)さんへの詩:
路よ/お前に「路」と名付けしは/ゆえなきことにあらず/お前の父と母が/ひたすらに歩んできた/イエスへの路を/お前も歩んでくれることを/ひとえに願いしゆえなり/
路ちゃんの/顔/まあるい顔/路ちゃんの/目/まあるい目/路ちゃんの/口/まあるい口/
親バカの父は/みんなに/笑われても/まあるい/心で/まあるい/路ちゃんを/ニコニコ/だっこしています
路ちゃんが/泣いている/どうしたんだろう/路ちゃんが/くしゃみした/どうしたんだろう/路ちゃんが/ウンチ出ない/どうしたんだろう/わかい父と母は/額を集めては/ただ/オロオロするばかり

「ゆう」ちゃん 御長男・豊さんへの詩:

いつの頃からか/あなたは/「ゆう」ちゃんと/呼んで/「ゆう」ちゃんは/みんなから/「お父さんに似ている」と言われます/そうかも知れません 

もしかしたら/顔だけではなく/性質も/似ているのかもしれません/小心なところや/涙もろいところは/ウリ二つです/だから「ゆう」ちゃんにも/イエスさまへの/信仰が必要なのです

ある日/あなたは/「お父さんはぼくに/牧師になって/ほしかったのでしょう」/と言いました / でも/そんなことはありません

神さまは/それぞれを/良く知っておられて/それぞれが/もっとも活かされる/そんな道を/歩いてくれることを/望んでおられるからです
それに/牧師というのは/神さまからの/「お召し」が必要なのです

2度の聖地旅行ではイランとイラクが交戦状態に入る前だったため、旧約聖書の宝庫であるウルや旧コリントなど多くの遺跡を訪ねておられ、近年の状況を想うと今後も2度と企画されることのない旅行だと思った。何よりも多くの遺跡は破壊されてしまって存在しない。

井置牧師は「この超後期高齢者となったぼくに、どんな奉仕を献げることが出来るだろうか。ただ『お客さま』のように無為に過ごしているだけでは不本意なのである」と、周囲からのご依頼に応えてご奉仕されている。

IMG_6330.jpg不思議なる御手による井置牧師との出会い。
2006年7月の井置牧師からの問い合わせと同年10月の読書交歓会は、翌2007年7月の驚愕すべき憤りと悲しみの出来事に悶える私のために、神さまが打たれた布石であり神の先回りの恩寵であった。

このことは、神を求める人には常に神のまなざしが注がれていることのお証しである。そのことを忘れないで希みをもって最期まで励まねばならないと思う。



posted by 優子 at 17:42| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年07月08日

『自分史 予科練から牧師へ −わが生涯(90年)の証し―』(前編)

IMG_6178.jpg7月1日に井置利男牧師からご恵贈にあずかった『自分史 予科練から牧師へ −わが生涯(90年)の証し―』は、312ページから成る人間味あふれる自分史で、昨2016年のクリスマスに発刊された。私は読みかけている本を中断して一気呵成に拝読した。

表紙画はガリラヤ湖とペトロ召命教会で、「使徒ペトロ(ペテロ)がイエスに声をかけられて弟子となった所と伝えられている。ガリラヤ湖畔に接して建てられた小さな会堂だが、純朴なペトロを偲ばせる教会である」。

今日の午後、食料の買い出しに出かけている時に井置先生からお電話をいただき、知子がしばらくお話し、お写真のブログ掲載許可をお伝えくださった。

IMG_6179.jpg
表紙を開いて現在の井置牧師と再会。

IMG_6180.jpg幼少年時代、後期少年時代、そして、1943年〜45年の17歳から19歳の海軍時代と続く。

「地上での作業中に敵グラマンF6戦闘機の機銃掃射をうけ、ハッキリと敵搭乗員の顔を見た」ことや、予科練特攻要因からの挫折と敗戦による魂の流浪時代。

そしてその4年後、仕事帰りに「わたしは日本の捕虜だった」と大きく書かれたキリスト教講演会のポスターに目が留まった。
「1942年4月18日に、東京を始めとする、日本の五大都市を爆撃したアメリカのドウーリットル戦略爆撃隊の一員」と紹介されていた。
井置青年は講師が敵国人だったことに驚き講演会会場へ行かれた。

かつての敵国人は「この戦争が終わったら、自分の抱いていたこの復讐心を、愛の心へと変えていったこの聖書を、日本人たちにも伝えたい」と。

しかし、戦地から復員して3年の井置青年は、「わたしは日本の元海軍パイロットだった。しかし、敗戦となってわたしは生きる意味と目的を見失っています・・・・」と、「自分の課題」を講師の通訳氏に吐き出して喋った。

その後、日本基督教団・西脇教会へ導かれて同年のクリスマスに受洗、翌年元旦礼拝で「献身への召命」を受けるが、クリスチャンになった「おおかたの人たちが経験するように、ぼくは努力すればするほど実行できない自分。・・偽善的な自分の姿に目覚めはじめ」、私たちの家庭集会でお話しくださった苦悶。

「ところが、その主イエスの愛と赦しを伝えるそのお言葉が、自己嫌悪に陥っていた自分にも注がれていることに」気づかれて、「滂沱として流れてくる頬の涙を押さえきれず、教会の祈祷室で書き綴ったのが現在の『ああ主の瞳』の第2節の歌詞だった。

1節と3節はあとで全体の体裁を整えるために書き加えた」。
 
その後、新作讃美歌募集を知り梅田神学生に見せて推敲して応募された。4節は当時の讃美歌学会の第一人者で詩人、作詞や外国の讃美歌翻訳者の由木康氏が書き加えられたものである。

それが1950年11月末のことで、その翌年に神戸の塩屋にある関西聖書神学校に進学されたのである。


IMG_6188.jpg
共に1926年生まれの同年齢のお二人。

「ああ主の瞳」が発表された1952年頃、作曲者・高田早穂美先生は「自分の罪意識に苦しんで、絶望感に襲われていた」時にこの作品に出会って、「ああこれは、わたしの為の詩だ・・・」と深く感動されて作曲されたという。
(讃美歌・243番、新生讃美歌・486番、讃美歌21・197番に収録されている。)

人さまから、「井置さんの”ああ主の瞳”と言われることがある。しかし、この「ああ主の瞳」は、すでに神に献げられた神の所有であって、梅田のものでも、由木のものでも高田のものでもないのである。ましてや井置のものではない。「神さまのもの」である。
だから「井置さんの・・・」と褒められたら、「いいえ、神さまのものです!」と言い切って、一切の栄光を神に帰すべきである。まさに「誇る者は主を誇る」べきなのである。

附記 著書より:
「予科練」とは「海軍飛行予科練習生」の略称で、太平洋戦争以前に旧日本海軍が戦闘機搭乗員を養成する目的でつくった制度で、志願してきた14歳から17歳までの優秀な少年達を戦場に送り出し、凡そ2万人が戦死し、そのうち特攻隊員として2800余人が散華した。

posted by 優子 at 21:51| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年07月06日

「ああ主のひとみ」作詞者・井置利男牧師との出会い −私の「信仰の母」T姉のお手紙より―

キキョウ.jpg『種を蒔く』4号をお読みくださった「信仰の母」と敬愛しているT姉がお手紙をくださった。

そのお言葉を通して今までもそうであったように信仰から信仰へと導かれる思いである。


「こんな立派な深い証し集、−(略)−どなたの文章も奥が深く、私には学ばせて頂くことばかりで、まったく感動し、敬服いたしております。

        (略)

久保田先生の『人間味溢るる生涯』に心打たれました。皆さんが『わたしの久保田先生』『わたしの久保田先生』と自然に滲み出た文から、それだけ先生が一人一人の方と誠心誠意、心温かく向きあって下さっていたんだなあと、感うたれましたです」。


そして、久保田先生の愛誦句が「私の霊に響いた」と書いてくださっている。


「わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」。

                 (第2テモテ 4章6節〜7節)


「私も来月(即ち2017年7月)で91歳になります。外なるものは誰でも確実に衰えていきますが、内なる霊はいよいよ、ますます永遠なるものを思慕してやみません。


私も久保田先生のように、自分に与えられた『はせば』を立派に走り抜いて、栄光の聖前(みまえ)に帰らせて頂きたく希ってやみません。ほんとうに『生かされて生きる命』であるとあらためて拝受させて頂きましたです」。


また、

「大田正紀氏の『信仰の継承』は系統立てて奥が深く、その中で『ぼくは子ども達に何を伝えたかときかれたら『聖書に聞き続ける人間でありたい』という姿勢ぐらいしかありません。』と、この謙虚な父親像に心うたれました」。(後略)


今も私たち家族のことを祈ってくださっているT先生は、私の証しを読まれて我が子の成長を喜ぶ母親のように次のように書いてくださっている。


優子さんの「ああ主のひとみ」井置先生との出会いが一番、私の霊に響きましたです。
          (略)
神ご自身でいまし給う救い主イエス様が、ああ、こんなどうしようもない私のような者とでも、いつでも共にいて下さるのだとの貴重な信仰体験、臨在体験、聖霊体験をなされましたこと、ほんとうにほんとうに貴重なことでした。

主キリスト様が優子さんと共にいて下さるのだから、もう大丈夫だと。辛い辛い所を通られましたけれども、知子ちゃんのことも、ぼくのこともお委ねして祈っておればいいのだと私も再出発させて頂きました。(T先生は知子の離婚を最後まで反対された。)

「ああ主のひとみ」 神様が優子さんに見せて下さった愛の証しですが、一番私が恵まれた人だと感涙にむせびましたです。優子さん、ほんとうに有難うございました。

優子さん、貴重な証し文集、密度の濃い貴重な御本をゆっくり拝読させて頂いて、ほんとうに有難うございました。私にとりまして、貴重な再出発の時となりました。

『汝 年進みて老いたれど、とるべき地の残れるもの、はなはだ多し』。(ヨシュア記13章1節)

私も「種を蒔く」で、年寄り面(づら)するな、とイエス様に言われて再出発させて頂きました。ほんとうに有難うございました。

「一番私が恵まれた人だと感涙にむせびましたです」。

私もそこまで深く感じ入りたいのに感じ入ることができないもどかしさ。


実は6月20日の夜9時38分頃だったと思う、この喜びでお電話をかけてきてくださった。私は入浴中で知子がしばらくお話していたが、こんなに遅い電話に驚いたことだった。そして翌21日に手紙を書いて投函してくださった。


IMG_6248.jpg「幸悠」の「幸」は、知子がT先生のお名前(幸子)の一字をいただいて命名したのである。

集合写真を撮る時、T先生は私の手をとって手をつないでくださった。


主よ、どうかT先生の信仰を私たちを通してユキに継承させてくださいますように、これからも多くの方々の助けにより私たちの信仰生涯をお導きください。


特別集会に来てくださったY姉(7月4日掲載写真の前列右から2人目)は昨年(2016年)12月に主のもとに召天されたと記されていた。


もう一度お目にかかりたかった。Y姉もまた敬愛する大好きなおひとりだった。T先生と同じく砕かれた魂の祈りをされ、プログラムにあるように集会でもお二人に祈りを捧げていただいた。

受洗後は牧師の説教と皆さんのお祈りにより(お祈りを聴かせていただくことにおいても)豊かに養われてきた。


Y姉が讃美歌を歌う時はいつも讃美歌を目の前に掲げて歌っておられ、いつもそのお姿を見るのが好きだった。私もまったく同じ姿勢で歌っているのはY姉の影響があるのかもしれない。


そして今ようやく気づかされたのは、一生に1冊の書を書きたいならば、もう一度神の御前で静まって、神さまがこれまでしてきてくださった数え切れない恵みを思い起こして、「一番私が恵まれたと感涙する」ほどに魂を整えられなければ書けるわけがないということだ。


こうして具体的なチャレンジが示され、私もまた今より再出発させていただこう。

2017.7.5 朝.jpg
昨朝の二上山(雄岳)。山がいくつもあるように見える。

当地では大した雨も降らず今朝から晴れているが、福岡県と大分県が記録的な豪雨に見舞われ大雨特別警報が続いており、安否不明が22名に達している。

風と風がぶつかって線状降水帯が現われて強雨をもたらしたという。心が痛む。ただただ祈らせていただくしかない。

                   (つづく)

posted by 優子 at 16:50| JCP関係 | 更新情報をチェックする