2017年01月19日

大空を舞うコハクチョウ 

コハクチョウ.jpg

今も欠かさずブログを愛読してくださっているペン友の長原武夫さんが、「湖北の野鳥カレンダー2017」を送ってきてくださった。ユキと私が野鳥にも興味が広がっていることをお知りになったからだ。

短信には「幸悠君の笑顔 見えますかね」と書かれていた。その一言に込められた愛が洪水のように私の心をも満たし、ひび割れた心のすみずみにまで滲みとおっていった。

IMG_1947.jpg先週はご自身が撮られた写真を送ってきてくださった。
これは350ミリレンズで写されたもので、500ミリでないと良く撮れないそうだ。ましてや私たちのカメラでは 、でもいいよね、行きたい!!! 

琵琶湖周辺の人々は琵琶湖を「うみ」と呼ぶことや、今年はコハクチョウは少ないが、それでも200〜300羽いるとのこと。

ユキに地球儀でシベリヤを示し、あんなに遠くから飛んでくるコハクチョウに大いに励まされた。感動したユキはお礼のFAXを送信した。

もう少し暖かくなってからなんて言ってたら白鳥はシベリヤへ帰ってしまう。私は是非見に行きたいとユキに声をかけると知子も大乗り気。行こう、行こう!
せめて遠くからでもいい、自然界の鳥を見たい。コハクチョウを直に見たい。

コハクチョウ.jpg

イエスは言われた、「空の鳥を見よ」と。

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IMG_1948.jpg新年になって明日はもう20日になるのに、トイレに掛けている聖句が12月のままだった。やっぱりこの聖句が私の一番の愛称句だと思う。

これは母の介護に通っていた頃に買ったから、もう24〜5年も前から使っているのでボロボロだ。
今から10年ほど前のこと、「かなりくたびれているからもう使えないね」と家庭集会に来られていた友に言われたことがあるが、だからいいのだ。

私は実家のトイレにも同じものを掛けた。父が毎月めくってくれていた。両親も何度も目にしてくれていた聖句集だから、テープで補強していつまでも使いたい。

私はこの聖句に何度励まされてきたことか!
そしてこれからも!


posted by 優子 at 18:14| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年11月28日

キリスト教信仰の関わりで窪田空穂の短歌をよむ ―日本クリスチャンペンクラブ・関西ブロック例会−

昨日からアドヴェント(待降節)に入ったが、私は風邪で再びダウンし「家の教会」も持てず、心配してくれている次女とスカイプした。主を信じる家族との交わり、祈り合える神の恵みをありがたく思う。

さて、19日の例会から1週間余り経ってようやく例会報告に着手するのであるが、このようなことは10年来初めてのことである。
そもそも学びの内容を端的にまとめるのは今も苦手であり、今回は特に私の心に響いたことをとどめるのみでまとまりのないものになるであろうと思う。

現在キリスト教文藝になくなってしまった「長歌」の伝統について、「短歌」や「俳句」では息切れがしてしまう、かといって「現代詩」では散漫になってしまう。そんな当惑を覚える人は多いと思います。
 
文語訳聖書の格調をふたたび手に入れるために、万葉集の長歌の可能性を探りたいと思います。窪田空穂のうたをその視点で評価したいと考えています。

そこで、キリスト教信仰との関わりでクリスチャン歌人・窪田空穂(うつぼ)の家族の死を看取る歌を詠み味わった。思いもせず東牧師は10月初めに伴侶を天に送られて悲嘆の中に在られた。

私たちの導き手である大田正紀先生の『窪田空穂小論 −貴族のこころ、平民のみち―』(16ページ)を配布していただいての豊かな内容であった。

最初に「窪田空穂『まひる野』と植村正久」(大田正紀著)より引用して人物の輪郭をご紹介したい。

窪田空穂.jpg空穂は長寿を全うした分、多くの苦難をも賜った。その試みを静かに堪え受容している。次女と妻の死。妻の妹を後妻に迎え次男をもうけたものの離別。忘れ形見の茂二郎は中国戦線に出たまま不明となり、戦後二年経ってソビエトに抑留され強制労働所で既に死亡していたことがわかる。
      (略)
空穂は自己のうちに湧き上がる感動や生命の発露をそのままに叫ぶ、見たままを写実する、それを第一義として疑わなかったアララギ本流の近代短歌のあり方に、自己批評や内省の必要を訴えた。

また、私の歌は「無駄話」とも言う。傍らにいる友達、あるいは神に私の真実、心情を聴いてほしい、そこに歌の原点があるというのである。

空穂は父と母のことを生涯にわたって慕い、父と母はいつも私を励ましてくれる存在であると、命日には新しい歌を詠み、90歳の最期まで詠み続けた。

年を重ねた空穂は長歌「父を憶ふ」に次のように詠っている。

「父を憶ふ 悲しくもわれ、人間の相場を知りぬ。知らぬとし知るまじとせる人間の相場、明らかに胸に映り来ぬ。

偶像を求むる心と壊つ心との矛盾せる二つの心、共にわが身の内にありて、若きより今に至る久しき間を相剋しけるが、いつの日にか剋せるもの和し、和せるもの消え去りて、ここに求むべく壊つべき偶像のあらず、あるは唯高からぬ人間の相場のみ。

わが父よ、三十年前みまかりたまへる父よ。人見ば一老農に過ぎざりし父よ。若き日の眼もて親しく視、老いし日の心もて具に味はへば、高き相場をささげまつるべき存在と我が父は見ゆ。今の我が悲しき心は、ただ我が父によりて慰めらる」。


人間とはこんな程度だったのか。しかし、父の心の高さは今の自分にとって慰めであり励ましである。

「生活は一に信なり 信あらば道おのづから開けゆくべし」と、空穂は信念を持って私は私の道を生きていくことを「信」と呼んだのではないか。「一に信なり」は空穂の座右の銘であり、父がその実践者であった。父は人から譲られた大型の聖書を持っていた。

次の2首こそが、日本の短歌で最も優れた歌だと思う。

「鐘鳴らし信濃の国をゆきゆかば在りしながらの母も見ゆらむか」 

「われや母のまな子なりしと思ふにぞ倦(う)みし生命も甦り来る」

                (『まひる野』)
小さい頃に見た巡礼の人たち。あの道を歩いていたら、また「通(つう)や」(空穂の本名:通治)と言って母が出てくるような思いがする。また、私は母に愛された子だと思うと励まされて生命力が甦ると詠っている。

「子の我の胸に宿りて我が母の三十五年とならせたまへる」

「頼むぞとただ一言いはしける母が眼ざしわれを離れず」

「通につきて行くといはししわが母よここにありここにいましね」


空穂は中学時代に松山市内のキリスト教会に通い英人牧師に英語を習った。植村正久より洗礼を受け3年間通ったが、植村が別の教会へ移ったのを機に教会から遠ざかった。

しかし、自分というものを見つめる神の目を忘れず、こういうダメな私も含めて悲惨な自分を見つめてくださって、「そこから立ち上がってきなさい」という、神の思いを終生忘れなかった素晴らしい歌詠みだったと言える。

教会生活から離れている中で、復活の歓びを見失っているところに限界点があるのではないかと思う。今あるもの以上のものを希求しながら平民の心を失わずに詠った歌人である。


最後に、空穂が後年、植村正久牧師のことを記していることも興味深い。植村正久は当時、牧師の牧師と呼ばれた人である。(資料より一部引用)

植村正久.jpg「その物云い、挙動は実に安らかで・・説教は実に不器用で、同時に実に感銘的であった。内容は、朗読した聖書の説明であったが、聞かせるのは集まっていた信者ではなくて、説教している自身に対しての反省の言葉となっていた

言うことは、突っかかりつつ吐き出すようにいう短い句で、圧縮した鋭い句であった。・・・牧師自身のその週間に見聞し、体験したことを、赤裸々に披瀝して参考にしようとする説き方である。そうした話の付加的な談として、信仰というものについて語られた一節がある。それが私の胸に沁みた。

要は、信仰ということは、神に仰ぎ尊むことではない。それは憧れにすぎない。信仰は、仮に身を神の立場に立たせ、神の眼にうつる自分たちの人間の現状を反省するところから起こる。

愛を旨とする神の、その身を分けて創造された人間の現状を見て、何と思われるだろうか反省せよ。相済まぬことだ、勿体ないことだと思わずにいられるか。

それは神は限りなく忍耐して待っていられるのである。独り子基督を賜わるまでの愛をもって、待っていられるのである。実に有難いことである」。


空穂は生涯尊敬してやまなかった植村正久の逝去(大正14年)の報に接して、次の追悼の歌を詠んだ。

「教壇に立ちて祈れる先生のふと咽(むせ)び泣かす御子に及ぶに(先生幼き愛子を喪はせられき)先生を知りまえおししはこの我の生涯の上の大き事なりき」

※ 過去ログ・2014年2月20日の「母の死の悲しみの共鳴板となってくれた空穂の歌 ―私のJCP合同例会余禄―にも空穂のことを書いている。

posted by 優子 at 12:38| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年11月21日

写真とは心を写す「写心」

かなり前のことだが、『滋賀夕刊』2013年02月26日付けに掲載されていたペン友の記事を見つけた。
友への励ましを込めて、そして、長浜に在った日本開拓伝道団(Japan Inland Mission:1933年創立)の教会を記録しておきたい。

惜別、亡き妻の写心展

0226nengajyo_photo.jpg北船町のアマチュア写真家・長原武夫さん(78)の妻で昨年12月に急逝した萬壽子さん(享年78)の写真入り年賀状展が28日まで、平和堂長浜店5階で開かれている。「惜別 写心展」と題した同展はバレーボールや絵手紙など多方面で活躍した愛妻を偲ぶ作品が並んでいる。
 
長原さん夫妻はキリスト教会の縁で、1954年に結婚。萬壽子さんは10年余、伝導(伝道)に励み、その後、33年間、長浜赤十字病院に看護助手として勤務。ママさんバレーボールチーム「長浜サンクラブ」を発足し、選手、コーチ、監督として30年以上プレー。その傍ら、押し花教室「長浜ロイヤルサロン」や郵便局の絵手紙教室で指導していた。

昨年3月の受診ですい臓ガンが見つかり、摘出手術。余命半年と言われつつ、入退院を繰り返し、再起を図ったが、12月13日、惜しまれながら、この世を去った。

全日本写真連盟湖北支部の支部長を務め、ポートレートを得意としていた武夫さんは、萬壽子さんをモデルに88年以降、写真入りの年賀状を友人らに送るように。年賀状は多い時で300枚程度。毎年パターンを変え、好評だった。

作品展では四半世紀にわたる年賀状の歴史を通して、萬壽子さんの生き様を回顧しており、武夫さんは「妻は家庭人として、優しさを第一に生活していた。多くの友人、知人らに恵まれ、幸せだった」と話している。午前11時から午後5時まで。

日本開拓伝道教会.jpgこれは2012年9月29日、病床の萬壽子さんをお見舞いした帰りに訪ねた日本開拓伝道教会である。

会堂は1963(昭和38)年4月19日に献堂式が執り行われた。後年、教会の代表として長い年月長原さんご夫妻が愛して仕えてこられた教会であったが、長浜駅前再開発で2014年(?)に取り壊されて今はもうない。

それにまつわる出来事の苦渋はいかばかりか!

教会はなくなってもご夫妻にとっては「終生の教会」であり、今も長原さんが納骨堂を管理し、毎週2度、夏はもっと頻繁に献花を交換するために足を運んでおられる。

長原萬壽子さん遺作.jpg

頂戴した萬壽子さんの遺作・「ピエロの仲間たち」はブログにも記録させていただいている。


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2016年11月20日

東 道男牧師 72年間連れ添った伴侶との別れ−日本クリスチャンペンクラブ・関西ブロック例会− 

19日は千里ニュータウン教会で日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロックの例会があった。

南千里駅.jpg

阪急・南千里駅に降りると美しい景色が目に飛び込んできた。
毎年6月と2月の例会会場になっている日本キリスト教団・千里ニュータウン教会は、阪急千里(せんり)線の南千里駅から徒歩でも行ける距離にある。万博記念公園は千里線では次が最寄りの駅だ。

IMG_1152.jpg千里ニュータウン教会の東(あずま)道男牧師は96歳、現役の牧師である。
例会の2日前に、東先生の御伴侶が10月5日に召天されたことを知った。共に歩んだ年月は72年間だったという。

今年初め、『種を蒔く』の編集のことで東牧師にお電話したことがあった。東先生は耳が遠いのでファックスで送信したが届かず、急を要するのでお電話した時に奥様が取り次いでくださった。

「道男さん! 道男さーん! クリスチャンペンクラブの藤本さんからお電話ですよ」。と、明るい声で呼んでくださった。
しばらく待っていると隣室あたりから来られた気配があり、「ありがとう」とお礼を述べて受話器を取られ、その様子からこれまでのお二人の歩みの全てを凝縮して見せていただいた思いがした。

IMG_1158.jpg「皆様のご来会を心からお待ち申し上げております。楽しい実りと良き証詞の会でありますように」。

昨日も玄関に看板を立てて迎えてくださっていた。
例会が終わって別れる時、いつものように外に出て見送ってくださる師の姿に心が痛んだ。

東牧師は私が籍を置いている教会のことで心を痛め、何度も励ましを送り続けてくださっている牧師である。私は8月から3ヶ月もお手紙をお送りしていなかったことが悔やまれてならない。

posted by 優子 at 23:59| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年09月20日

太宰治『走れメロス』を読む −日本クリスチャンペンクラブ・関西ブロック例会− 

『走れメロス』は中学校の先生方の意見として、授業でやると先生ばかりのめり込んで中学生たちは白けてしまい反抗する。研究家の中では明るすぎるのではないかと意見が二つに分かれている。

太宰は『走れメロス』をギリシャの古伝説とシラー(シルレル)の『人質』をもとに書いたと言っているが、違うものを読んだのではないかというのが説得力を持って迫ってきた。

前者では主人公の名前はピチウスで親友はダモンであるが、後者では主人公がダーモンで親友の名前がピンチアースに名前が入れ替わっている。主人公を誰にするかで変わってくる。

『走れメロス』は口述筆記であり、少しアルコールも入っているとも言われている。太宰はこれを一気に語ってメモされて活字になった。従って太宰独特のくどい文章表現ではなく、しゃべり言葉で語られており、それがこの作品のいのちになっている。

太宰のことを神さまのようにいい人だったという人もいれば、悪魔のようだったという人もいる。酒を飲んだ途端に人が変わる。その時にいつも一緒にいたのが檀一雄だった。

『走れメロス』を発表したのは昭和15年で、戦後この作品のもとになった話を友人・檀一雄が『小説 太宰治』で紹介した。

その最後を引用する前に、そこに書かれている要諦は次のようである。(『太宰治―<愛>の表現の困難さ』より)

「1936(昭和11)年12月、熱海に仕事に出かけた太宰のもとに檀一雄が訪れ、2人で流連、持ち金を使い果たしただけでなく、借金を300円も抱えてしまった。取りあえず、檀を人質に井伏鱒二宅にやってきた。
ところが、いつまでたっても太宰は戻らない。しびれを切らした檀が井伏宅を訪ねると太宰が云った。『待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね』」。


檀一雄は『小説 太宰治』を次のように結んでいる。(表記は本文のママ)

「私は後日、『走れメロス』という太宰の傑れた作品を読んで、おそらく私達の熱海行が、少くもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた。

あれを読むたびに、文学に携わるはしくれの身の幸福を思うわけである。憤怒も、悔恨も、汚辱も清められ、軟らかい香気がふわりと私の醜い心の周辺を被覆するならわしだ。

『待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね』
と、太宰の声が、低く私の耳にいつまでも響いてくる」。 
         

檀は「堕落の果てに金を使い果たした男(太宰)が自分をえらい目にあわした」と、何度もこのことを話し、太宰のことを「悪魔の伝道師」と言い続けた。

この出来事の10ヶ月前(1936年2月)に、太宰はバビナール中毒で精神病院の監禁病棟(個室)に入れられて大きな衝撃を受けた。
病院から出た時に、無教会の信者より『聖書の研究』を読み、そのことにより太宰の中で祈りが出てきたというのが現代の定説になっている。

人は何のために生きるのか。
このとき、太宰は「義」のために生きると考えていた。イエスが自分の命をなげうって人のために死なれた愛のわざ。3日目によみがえるといった預言を映しているのではないか。それがメロスの大きなテーマと考えてよいのではないかと思う。

太宰はメロスを英雄にはしないで、恥ずかしい羞恥心のある人物に描いた。
ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。

       (『走れメロス』の末尾)

太宰の文学は誤解されるが、『走れメロス』は全く違う作風でキリスト教の影響がある。太宰が最も良い作品を書いたのは中期と言われている作品で、そこにはキリスト教の影響を受けて「希望」が生きていた。

太宰が最も感動した聖書の個所は「サマリヤの女」(ヨハネ伝4章)の話で語られたイエスの言葉である。


「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。


神さまが恵みとして与えてくださった水によって立ち上がったサマリヤの女。そういう可能性が人間には開かれているんだと、太宰はそのことを書き上げておきたかったという願いがあったのではないか。

太宰は聖書によって大きな影響を受けて「変わりたい」という願いを持ち続けた人ではないかと思う。何を望みながら生きていた人なのかなぁと考えていくとおもしろいのではないか。


太宰が死んだ後に出てくるのが山本周五郎だが、2人は相通じているところがある。

クリスチャン文学者・大田正紀先生の感性、信仰による洞察に感銘を受けた。
なお、青空文庫で『走れメロス』を読むことができる。

ヨハネによる福音書 4章1節〜30節:
4:1 イエスが、ヨハネよりも多く弟子をつくり、またバプテスマを授けておられるということを、パリサイ人たちが聞き、それを主が知られたとき、  
4:2 (しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授けになったのではなく、その弟子たちであった)
4:3 ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。
4:5 そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、
4:6 そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。
4:9 すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。
4:10 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。
4:11 女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。
4:12 あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。
4:13 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。

4:15 女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。
4:16 イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。
4:17 女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。
4:18 あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。
4:19 女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。
4:20 わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
4:21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
4:25 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
4:26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。

4:27 そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。
4:28 この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、
4:29 「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。
4:30 人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。

IMG_0103.jpg附記:強い台風第16号の接近で、奈良県にも大雨・暴風・洪水警報が発令されて休校になったが、今は小雨も上がっている。嵐の前の静けさか。
お昼前から大雨になるというから、生協の共同購入の配達時間と重なるので気を揉む。しかも、4月から新しい配達員さんに変わったところなのに転職のため今回で最終となる。大雨だと慌ただしい「サヨナラ」になってしまう。

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2016年09月19日

いつもの席に見えぬ久保田暁一先生 −日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会−

9月17日、日本クリスチャンペンクラブ・関西ブロック例会を大津教会会議室で開催。初めに事務局長が久保田暁一先生が召天され哀悼の祈りを捧げられた。
そして、大田正紀先生はしみじみと語られた。

「あれだけ人が集まるお葬式は少なく、大人が200人以上、立ち席の人々もたくさんおられた。教職を辞めて、地域の方々に学びを進めてきたことがよくわかるお葬式だった。地域の中の教師として全うされた素晴らしい姿だった」。

長原武夫兄(きょうだい)は常々関わる人々に資料や本を郵送し、例会でも毎回興味深い記事を配布してくださり、今回も今関先生の記事などたくさん頂戴した。

そして、久保田先生が毎号郵送してくださっていた『だるま通信』の最終号より3号分をコピーして配布してくださった。
これは、2015年5月20日に発行された最終号である。

IMG_0086.jpg毎号6ページに綴られており、右側6ページの上段の囲みには「総括」として最後の心境を刻んでおられた。(後掲)
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師を天に送ったさみしさ極まり、「関西ブロック」を起ち上げてくださった久保田先生を思い、草創期に尽力してくださった長原兄と共にJCPのために心を尽くしたいとの思いを強く感じている。 
(続く)

posted by 優子 at 13:19| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年09月16日

日本クリスチャン・ペンクラブのご紹介

IMG_0044.jpgシーズンを終えた老木に今も咲くトマトの花。
ベランダのプランターに植物を育てるのは楽しいが、最後が辛くて廃棄できなくて困る。トマトの横にはボロボロになった朝顔が今朝も6つの花を咲かせている。まだ咲こうとしている花を私は抜くことができない。

昨夜は「仲秋の名月」。
2階の出窓から薄雲にかくれんぼする月を見ていた孫が叫んだ。
「あっ、見えた! おじいちゃん、出てきた!」
透き通った声が心地よい。

明日は日本クリスチャン・ペンクラブ(JCP)の例会だ。
6月の例会は久保田暁一先生の葬儀だった。明日はその後初めての集まりである。JCPのホームページを開くと、秋にいざなわれる一文が清涼剤のように心身に沁みとおっていった。

初秋のあいさつ

いつもJCPのHPにご好意をいただきありがとうございます。

「春・夏・秋・冬」の四つの季節のうち、人が待ち焦がれるのは「春」と「秋」ではないでしょうか。その前の季節、「春」に対する冬や「秋」の前の夏に苦闘するからでしょう。

今年もようやく待望の秋に進んできました。
秋を知り、愛でるには人それぞれの感性が活躍します。
清少納言は「秋は夕暮れ」といい、藤原敏行は「風の音にぞ驚かれぬる」と詠います。

サトウ ハチローは、モズの声や風やはぜの赤い葉に「小さい秋」をみつけます。

初秋、中秋、晩秋に分けてみても秋はつかの間ですが、創造主の絶妙な作品「秋」を楽しみたいと思います。

赤とんぼ  筑波に雲も  なかりけり  (正岡子規)


今回も諸集会の案内や会員の作品を新しく掲載しています。
ご高覧いただければ感謝です。

皆様の上に、秋の恵みが豊かに与えられますようにと、イエス・キリストの御名によって祈ります。


お知らせ
 
*新しく作品集「春夏秋冬」から『私と食べ物』2作品、「夏」6作品を掲載しました。(9/10)

*下記に集会案内をしています。お近くの方は参加ください。

関西ブロック例会

とき   2016年9月17日(土)13時から17時
ところ  日本キリスト教団 大津教会 愛光センター
     〒520-0056 大津市末広町6-6
     077-522-3634  

第1部   開会祈祷
     講演「太宰治『走れメロスを読む』」大田正紀

第2部  あかし文章発表と相互講評
テーマ:信仰の証しについてのもの。『今伝えたいこと』などまたは自由課題。本文2000字以内(文集にしたとき2ページ分に相当します)のものをご用意ください。後日文集にします。(当日ご用意いただく場合は、各自で10部コピーして来てください。)

第3部 今後の歩みについて 報告、連絡など

参加費 500円
持参品 讃美歌225番(すべての人に)讃美歌21 57番(ガリラヤの風かおる丘で)の楽譜

出欠は9月11日までに、下記原田までご連絡ください。
連絡先  原田 潔
 〒520-0822 大津市秋葉台17-23
 TEL 077-522-6171 Fax077-522-6178

関東ブロック例会
            
とき  2016年10月1日(土)13時半から15時半
ところ 御茶ノ水クリスチャンセンター4階416室
賛美・みことば・祈りの時 賛美:讃美歌301番『山べに向かいてわれ』
聖書:ペテロの手紙第一 1章1節〜4節
  『朽ちない財産』山本悦子牧師
学びと分かち合い オカリナ演奏 佐藤晶子
『あかし文章の原点』三浦喜代子
『山川草木・信望愛を書き終えて』有志
グループ合評(これまで書いた《山・川・草・木・信・望・愛》の作品の中から1篇を数枚コピーして持参)  
参加費 1000円
この続きはJCPのHPをご覧ください。

今先ほど、名古屋から例会出席の電話が入った。
「名古屋から京都まで45分だから行きます!」と元気な声。
聖霊は私たちの気づかぬところで働いておられる。明日の例会を祝してくださるように。

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2016年07月26日

地図から消された島 ー『大久野島からのバトン』講演とサイン会に参加して U−

毒ガスづくりに利用された人たちは、加害者であったかもしれないが完全な被害者でもあった。加害と被害の両方を背負って生きていくとはどんなことか。

(ここで語られたエピソードを正確に記すことができないのが残念だが、私のライフワークと重なることと、ここから作者の強いメッセージが込められたところなので唐突ながら記録しておきたい。)

人間としてちょっと得するためには何かが動いてしまうという人間の実相。戦争がなければ、こんな人間の暗い部分を引っ張り出さなくて済んだのに。

私は光に向く力もある。光の中に生まれ、光に向いているというのを知っている。だから闇の中に引きずり込まれない。


私は児童文学作家をやっているので子どもを信じる。子どもたちの目で見て考える物語にしようと思った。

ちょっとの差、違いからいじめが始まり、それがどのようにエスカレートしていくかも子どもにはわかる。ニュース報道は「誰が死んだ」「どこで死んだ」だけで、大切なことを伝えない。

子どもたちが困ってうずくまっている時はジーっと待つ。子どもは信じられる。

一番深いあそこに目を向けたら助けは来る。

戦争で幸いにも生き残った人を「幸存者」と言い、中国の人は「本当の事実」を「鉄の事実」と言う。「それは鉄の事実だ。しかし、あんたたちは政府の人の言うなりにやっただけだから悪くない」と言ってくれている。

しかし、もしそこに私(今関さん)が居たらもっと責任重大であり、ゆるされないなと思った。

(作品の)子どもたちのやり取りがどんなふうに終わっていくのかも見てほしい。

進一さんは戦後も生きている。吉成は戦後も襖(ふすま)の向こうにジッとしている。自分はゆるされたいんだと、自分をゆるさない者として描いている。もっときつかった(厳しかった)と思うが、そのように感じて書いている。

「戦争は私たちにバトンを渡されてこれから」ということで書いているので、これからは読者にゆだねていますから、それぞれが答えを出してくださればいいなと思った。

語り合いより:
▼ ちょうど今日7月24日は、東洋レーヨン大津工場 (現・東レ)に原爆の模擬爆弾が落とされた日。死者16名・負傷者104名を出した日で、私の父親(98歳)も負傷して腕を失くした。
今後は加害の側面もあることを考えながら伝えていきたい。(大学講師)

▼ 戦争を話す時は被害、加害の体験を話すべき。教育は怖い。(空襲で)敵機が来ると相手の顔が見えた。(彦根の近江工場でゼロ戦の部分品を作っていた老婦人)

今関信子さんと.jpgこのあと大津駅前のベンチでクリスチャン・ペンクラブの私たち3人(中央が今関先生)は、時間を忘れて2時間もいろんなことを熱く語り合った。

若い頃から人と人をつなぐことをされており、今日は共産党を母体とする文化のところで開催されたものである。

今関先生が最も語りたかったことを話しておられた時、会衆は「うん、うん」と深く頷きながら聴いておられたこともお伝えした。

「いつも人間の怖さ、光と闇をしゃべりたいと思っている」。 

作家としての手の内も見せてくださり、取材や複眼的視点で物事を見ること、また想像力と構想など、創作する人の思考回路を垣間見た。

そして、神さまから与えられたタラントを生かして懸命に励んでおられる姿に触れ、クリスチャンはこの世に埋没してしまってはいないか。教会のことで汲々とするだけで世に出て行かない者が多すぎはしないかと自らにも問うていた。

我が国においても悲惨な事件があとを絶たない今、「またか」と我々は不感症にならないように真剣に警戒しなければならない。

例えば過日自民都連が今繰り広げられている都知事選で、自民党員が小池ゆり子さんを親族が応援しても除名処分になるとの奇怪さにも気づかねばならない。

これでは「思想・良心の自由」を保障している「憲法19条」を完全に無視し、堂々と報道までする不気味さこそが、日本が重要な岐路に立っている現れだ。

この異常さにも不感症になっているから、「ポケモン・ゴー」とやらの仮想現実ゲームに大人までが興じているのではないだろうか。

『大久野島からのバトン』を読んだ者は、確かに「考える種」を受け取るはずだ。無関心な子どもや大人たちが痛みを感じることができますように!

みんなの力で日本の軌道修正をしていかないと、地獄への分かれ道がすぐそこに迫っている。私はこのたびのバトンをしっかり受け取って子や孫に渡す。そして、ささやかながらもこのブログを通して世に発信したい。
 

附記:
次女夫婦は25日12:20PM(日本時間の26日午前1時20分)ワシントンダレス空港を離陸した。午後3時半頃に東京成田空港に到着予定。
1年ぶりの再会。野口シカさんのように再会を楽しみに待つ。

posted by 優子 at 07:26| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年07月25日

地図から消された島 ー『大久野島からのバトン』講演とサイン会に参加して T−

あなたは地図から消された島・大久野島をご存じだろうか。私はこの年になるまで知らなかった。

「大久野島は広島県竹原市忠海町の沖合い3キロメートルに位置し、数戸の農家が耕作を続ける島」だったが、太平洋戦争が始まる14年前の昭和2(1927)年、島全体が陸軍の毒ガス製造を目的として管理下となった。

そして、毒ガス兵器という国際的に禁止された兵器をつくっていたため、戦争中はこの島は地図からも消されていたのである。

児童文学作家の今関信子さんは、今から13年前に初めて大久野島へ行かれ、中国の北坦(ほくたん)村も取材されて、このたび『大久野島からのバトン』を世に出された。

本書は日本児童文学者協会創立70周年で記念出版されたものであり、作者が瀬戸内海に浮かぶ大久野島の「消された歴史」と向き合い、自分は何を感じ何を考えるのかと自己に問いかける大事業だと深い感慨を覚えた。

tn.jpg昨日、大津の「滋賀民報社内ギャラリーQ」で作者の講演とサイン会が開催されて出席した。多くの方々にお読みいただくことを願いつつ以下に講演内容をお分かちしたい。

そして次の「U」で講演の残りを刻み、その最後に私の思いを述べて、私なりに次世代の人々にバトンを渡す責務を果たしていきたいと願う。

1937年頃、大久野島に「陸軍技能者養成所」、正式名は「東京第二陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)技能者養成所忠海(ただのうみ)分所」が創設され、この学校に試験を受けて入学すればお金をもらって勉強できる。大久野島で働くことを「おまえは運のいい子だね」と言われた。

その入所式では「これから作る兵器は平和のための兵器です。人道的兵器なのです」と、兵器がなぜ人道的なのか意味不明の説明を受け、すべて軍事機密に関することゆえに秘密を守る約束から始まった。

(著者は)毒ガス造りに巻き込まれた少年の一人、大久野島毒ガス資料館初代館長だった村上初一さんが館長を終えてから出会い、彼の人生を聞き、彼の死までつき合った。

一人の少年が戦争でどのように引き受けていったのかということを書かないと、私の戦争につながらないと思った。

聞き書きならば、そこでピリオドが打たれて終わってしまう。だから私は彼の話を聞いて、私が刺激を受けるのか、受けないのか。それを書きたかった

村上初一という中心になっていく進一と、敏夫、吉成を選び出して三者三様に描いた。

それぞれの立場で呟(つぶやき)にも近い多くの人々の証言も読み、想像力を働かせて、どうやってその人を立ち上げていくか・・・

子どもは小学2年生になると世の中の動きや家族の動きを大づかみにつかみとってくる。理路整然としゃべれなくても今の社会が何を大事にしているのか、何を良くないとしているのかを感じている

従って登場人物の3人の少年は、もう大人に近い考えで日本のために何をすれば一番いいのかを考えていたんだと思う。

そこで働き続けた人、戦地に行って戦死した人、再起不能の体になり病院でも見放され家へ帰されて悲惨な状態になった吉成(よしなり)は、家に引きこもり自分の経験を一切言わなかった。

この子が社会をどのように見たのか追い込んでいった。
皆さん、吉成を読んでもらいたい!
吉成に会ってもらいたい!


戦後、戦時中にやっていたことを無くすために順々に壊し、土佐沖に棄てた。大久野島へ戦後処理に駆り出された帝人の人の水ぶくれが一番ひどかった。人の目に見えないところは壊さなかったので今も残骸が残っている。それらは70年経っても風化しない。

戦後、生活にゆとりが出てきた時、休暇村構想が出てきて国民休暇村に変化し大久野島が第一号になる。

毒ガスがあれば小さな生き物が死ぬ。ちょっと何かがあれば煙が出る前に小鳥が騒ぐので、即座に人々が逃げる。

大久野島は今「ウサギの島」と呼ばれるようになり、桟橋を降りるとウサギが寄ってくる。どこへ行ってもウサギがいる。毒ガスの実験用にされたウサギは一匹残らず殺されたので、今いるウサギはその子孫ではなく、「平和の使者」として生きている。

今は広島と安芸の宮島が修学旅行のセットになっており大久野島には来ない。大久野島にいる人は環境学習のために来る。今は美しいウミホタル。
社会の風は、広島の悲劇を学び、「今は排水も出ないこんなに美しい島です」と変わってしまった。


14歳の3人の男の子を描くと同じように3人(3パターン)の女の子を登場させ、物語は広島のYMCAの女の子たちが大久野島にやってくる所から始まる。

作家としての手の内も見せてくださり、一番気を使ったのは桜ちゃんのグループで、「私には関係がない」と奥を探検する桜ちゃん。

どこにでも好奇心旺盛の子がいて、その子は何にでも引っかかっていくが、遊びに専念する子たちは(心に)何も引っかからない。しかし、学校に帰ってから初一さんの話が自分に迫ってくるかどうか・・・

                  (つづく)

posted by 優子 at 17:39| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年06月22日

久保田暁一先生 追憶

2008.8.jpg
2010年8月のJCP全国合同夏期研修会、
日本クリスチャンアカデミー・関西セミナーハウスにて

2008_8.jpgこれは2008年8月、関西・中部ブロック夏期研修会での写真だが、先週から探し続けているのに見つからない。

katatu.gif

久保田先生との思い出を一つ選ぶならば、2010年1月30日、関西(かんせい)学院大学(通称:関学)で開催された日本キリスト教文学会の日に10時間半を共に過ごしたことだ。

先生はあの時すでにパーキンソン病で歩行が危ないだけではなく、両膝関節の痛みのため5センチほどの歩幅でしか歩行できなかったのに、遠く近江高島からお一人で兵庫県西宮市の奥へ出向かれた。

その勇気だけではなく膝の苦痛は相当なものであり、本当にお疲れになったことであろう。

午前10時半に大阪駅中央改札口でお出会いして、関学のキャンパスに着いたのが12時45分であるから、いかに困難な足取りであったか想像して頂けるだろう。仮に阪急電車との連絡が悪かったとしても、梅田から1時間少しあれば十分に関学に到着するのだから。

関学の門をくぐった時は昼食を摂る時間もなく、私は先生にキャンパス内のベンチで待っていただいてパンを求めて走った。真冬のベンチである。必死で食堂、売店と走って調達したが、それでも10分近く待っていただいたと思う。

この半年ほど前から関西ブロックの会計(だったと思う)も引き受けてくれないかと薦められていたが、私は2009年春以来長女のことで苦悩の中にあり、心身共にズタズタだった娘のことに神経を使い、孫との生活に明け暮れしていることを話して辞退していた。

ところがこの日も仰ったので、「5日前に長女の調停離婚が成立したのでお受けできる」と良いお返事をしたものの、現実はまだまだ大変でうやむやにしてしまった。

この日、道中で、また、暗くなった寒いキャンパスで励ましてくださったことが今も強烈な印象として残っている。

「藤本さんに元気で楽しく生きてほしいんや。
聖書を読んでクヨクヨするのは読み方が間違っている。聖書は私達が幸せに生きるようにと(神さまが)下さったものだ。苦しむために下さったのではない」。


師は柔らかい口調で、しかし、単純明快に言われた。そして、
「力になれることがあれば何でも言うておいで、相談にのるから。失礼だろうけれど藤本さんのことを娘のように思っている。・・・

藤本さん(何度も「優子さん」とも呼んで下さった)は突込んで書くからいい。今まで書いた論文や新しく書いて是非一冊出そう。慌てなくてもいいから。私でよければ出来る限りのことをする」。


久保田先生は誰に対しても優しく愛に満ちた方であった。
日本キリスト教文学会でも重鎮だ。初めて行った時は、関学の副学長(日本キリスト教文学会支部長)や遠藤文学の長である笠井先生など多くの方に紹介してくださり、この日も研究発表していた若い研究者の後方支援のためにと質問しようとされていた。
師はいつも周囲の人々に優しく励ましの言葉をかけておられた。

「私でよければ序文を書かせてもらうから」。

「『パンドラの匣』の執筆依頼にしても評価されているから声をかけて下さったんやからな。志を持ち続けていれば必ず道は開かれていくから」。


お別れする前に大阪駅構内の店でコーヒーをいただいていた時、この日、久保田先生は私のことを心配して出て来て下さったことを知った。やっぱりそうだったのか・・・涙が滲んだ。
それなのに、「ありがとう」、「悪いなあ」、「嬉しいなあ」と何十回言って下さっただろうか!


私は先生と腕を組み、指と指をしっかり絡めて手をつないで歩いた。先生は何度も手を強く握られ、私も強く握り返して手でも会話していた。

阪急側からJR大阪駅側に渡る混雑する横断歩道では、信号が青になった時にすぐにスタートできるように右端の一番前に立った。

歩行力が行きの時よりますます落ちておられるのがわかった。息遣いもしんどくて呼吸が整うまで待った。そして、2度目の青になって渡り始めた。時間内に渡り切るのは必至だった。

「大丈夫! ゆっくり 慌てないで、1、2、1、2、もう少しです」。もはや渡り終えていないのは私たちだけで、今にも自動車が出てきそうだった。

そして、「渡れましたー!」と2人で笑った。母が完全に歩けなくなるまで母と同じようにして歩いていたことも脳裏をよぎった。

行き帰りの5時間、先生に寄り添いながら歩かせて頂いたことは生涯の宝。その背後にずっと神の愛を強く感じていた。


20時53分の敦賀行き快速を見送って環状線のホームに向かった。先生の無事を祈り、後ろ髪を引かれる思いでお別れした。

私が自宅の最寄り駅に着いたのはちょうど10時だった。その1時間も前から長女が駅で待ってくれていたとは思いもよらず、申し訳なくもありがたく自動車に乗り込んだ。

今も先生の声が耳に残っている。
「優子さんは明るいからいい。優子さんが家族の要(かなめ)やからな、お嬢さんを励ましてやりなさい」。

「2歳半の孫が、『おじいちゃんが無事に帰ってきたことを感謝します』とお祈りするんですよ」と話すとビックリされて、「強制せんでも(しなくても)か?」 「はい」
「お孫さんも(神に)守られているんや。(これからのことは)心配ない!」と喜んで下さった。

早速この日のお礼状も届いた。

久保田先生より.jpg

その4ヶ月後、両膝の手術後のお見舞いに上がった時、術後の痛みも楽になられ、血色もすこぶる良くお元気だった。

O姉とのおしゃべりに花が咲いて、遥か遠くまで乗り越してしまった話をすると先生は爆笑されて、「藤本さんが元気になってよかった!」と喜んで下さった。奥様は終始おそばで静かに微笑んでおられた。

大きな悔いは、先生が「私でよかったら序文を書かせてもらうから」と、お会いするたびに何度も何度も声をかけてくださっていたのに努力しないで終わったことだ。やり始めたもののいつしか諦めてしまい、ほぼ手つかずのままだ。

師は80歳からパソコンに着手し始めて時間がかかりながらも『だるま通信』を書かれ、2015年5月20日に「これを最終号とします」と275号を発行された。

それだけではなく、周囲の手助けを受けながらもこれまでに書かれたものを何冊かの本にまとめられたのに、その間でさえ私はどれだけやったというのか! 
親子の年齢差があり、体も自由に動き、ましてや自らが最もやり遂げたいことであるのに!

もはや久保田先生の序言をいただくことはできなくとも、怠惰な己に鞭打ってやり遂げないではすまされない。久保田先生と出会わせてくださった神さまに感謝し、残りの時間はそのことに集中して必ずやり上げたい。

久保田先生の講演より:
私の文学活動も一切党派を持たない。なぜならば、客観的に見られなくなるからだ。自由に読んで自分の納得のいくやり方で追求していくために、党派性をもたないでやってきた。

イエスを追求するにも自己を持たないかん。人の物まね、受け売りはいかん。遠藤(周作)にしろ椎名(麟三)にしろ独自の文学論をもってやっている。

「おおいなるもの」を宗教と言う。
そのおおいなるものに支えられていることがとても大切だ。おおいなるものに支えられていると傲慢にならずに生きていくことができる。


過去ログ・2008年11月16日の例会、三浦綾子の『母』と小林多喜二の『蟹工船』より。

「自分が信じるのではない。イエス・キリストに支えられて書かざるをえないということであり、そのためには裸(正直に)になる必要がある。
意欲をもって前向きに続けて行くと必ず自分なりにモノになる。心ある人を神が放ってはおかない」。


久保田先生の御愛を無駄にはしない。


posted by 優子 at 18:13| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年06月18日

久保田先生の告別式

遺影.jpg

湖西線・安曇川駅から徒歩10分ほどの所もタクシーを飛ばしたものの、告別式場に着いたのは開式5分前、会場は満席で多くの人が立っておられた。400名は居られたのではないかと思う。お坊さんの姿も見えた。

告別式表紙.jpg「わたしが世を去るべき時はきた。
わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」。

 (テモテへの第2の手紙 
        4章6節〜8節)

私は4月の例会報告に久保田先生の消息を次のように記した。

「久保田先生は高島市民病院(JR高島駅前)から今津病院(今津・中庄)に転院されている。ご本人とは会話できないが、こちらからの話はわかるようで、ニコニコされるそうです。おかげんが落ち着かれているようならば5月に入ってからお見舞いに上がりたい」。

私はこれを書きながら、先生はお元気な頃のお顔でニコニコされていると思っていたので、告別式の式次第に載せられていた先生の終わりの頃のお写真を拝見して衝撃を受けた。私はいい年をして何という想像力に欠けた愚者か!

弔辞は日本クリスチャンペンクラブ関西ブロック事務局長。
原田兄弔辞.jpg

式次第に掲載されていた久保田先生のご経歴:
経歴.jpg

6月15日夜、病院から急変したとの知らせを受けてご家族が病院に向かわれたが、到着された時には召されておられたとのこと。
そばで看取られた看護師は、「苦しまれることなく静かに息を引き取られました」と、挨拶に立たれたご長男が話された。
奥様にお慰めの言葉もかけられなかったのが心残りであった。もっと早い電車に乗るべきだった。

弔電:
久保田広志様

「敬愛する久保田暁一先生の訃報に接し、謹んでご家族の皆様にお悔やみ申し上げます。
ご存命中は、私達の文書伝道の活動に深く荷担くださり、キリスト者としての道のりを立派に果たしてくださいました。感謝申し上げます。
ご家族ご一同の上に、神様の豊かなお慰めがありますようお祈り申し上げます」。
     日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック一同

中部ブロックの弔電は紹介され、関東ブロック長も訃報が届いてすぐ手配してくださったが、翌日午前中には配達のできない地域とのことで断念された。ペン友たちはそれぞれの所で師の召天に祈りを合わせてくださっていた。

霊柩車をお見送りしたあと、見覚えのあるお顔をみつけて駆け寄った。
すっかり白髪になっておられたが、「車椅子に乗っておられるあの方は(大溝教会の)浅見牧師に違いない」と大田先生に話しながら、私は混雑する中を歩み寄りご夫妻と再会した。3度しかお目にかかっていないが懐かしさを感じる牧師だ。

「奥様は賀川豊彦から洗礼をお受けになったのですね」と言うと、「よく覚えておられますね」とご夫妻は微笑まれ、「ブログに書かせていただきましたからよく覚えています」と答えた。

「私たちがお邪魔した秋の特別伝道集会は2010年でしたね」。「そうです」と浅見牧師もしっかり覚えておられたことに驚いた。馬見労祷教会のことも話された。師が短期間牧会された教会なのだ。
たった数分間お話しして、牧師のお膝を撫でながら心の中で神のご加護を祈って式場を後にした。

関西ブロックから6名が出席。事務局長は火葬場まで行かれたのでご挨拶せぬまま別れた。
大阪方面へ帰る我々4名も2名ずつ別々になり、一組は自動車で来られたギデオンの方々と、私はOKU姉と歩いて安曇川駅に向かった。
私の大切な神の家族、米原から自動車で来られたN兄を捜しきれず、もう一度ご挨拶を交わすことなく別れてしまった。

私は大阪で友と別れて大丸へ入り、4時前に遅い昼食を摂って6時前に帰宅した。今は寂しさの感情も薄れるほど疲れているので、久保田先生との思い出や感謝の思いは日を改めて刻みたいと思う。

ウィキペディアはまだ先生の死を更新されていない。久保田先生が最後に例会に出席されたのは2014年4月だったと思うが、もう一度丁寧に調べたい。

高島の駅を見ながら、あの日、高島駅まで歩いた松本瑞枝姉も昨年2月に召天され、先に逝かれた方々が地上の生涯を終えるに至るまでの苦闘の日々を思った。

そして、戦後粒ぞろいの牧師や信徒を輩出した時代の終焉を前にして多くの悲しみが去来する。世の全てが劣化する一方で、私は非常に悲しくてならない。


posted by 優子 at 22:21| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年06月16日

久保田暁一先生が残されたもの 

久保田先生召天@.jpg久保田先生からいただいた2008年のクリスマスカードを、ずっとデスク前の壁に掛けている。毎日朝に夕に目に止めて思い出すたびに感謝とお守りを射祷する。

この文字からパーキンソン病を発症されていたことがわかる。

久保田先生訃報@.jpg

自由を失いつつあるお体で書いてくださったみことばを読んで、これまで何度励まされて立ち上がってきたことか!

久保田先生との出会いはそれほど古くなく2004〜5年頃だったと思う。
その数年前に当市の市民図書館で見つけた『日本の作家とキリスト教』を読んでお名前を知ったが、まさかクリスチャンペンクラブの理事であられたことなど思いもしなかった。

私は受洗後すぐの1987年8月にJCPに入会して、毎年拙文を掲載していただいていた「証し集」でも久保田先生のお名前を目にしているのに、どういうわけか記憶になかった。

毎年熱海で開催されていた夏期学校には娘たちが小学生だったため不参加。次女が6年生になった時(1992年)には母の難病が進行していたため、その後も参加することはなかった。

1995年秋よりJCPのペン活動を中断。その後2004〜5年(?)に久保田先生が関西ブロックを立ち上げてくださり再活動、ここでようやく出会うことになる。2006年6月に『日本の作家とキリスト教』が再版されたので、購入して9月の例会に持参してサインしていただいた。

ガクアジサイ2つ.jpg

例会はいつも久保田暁一先生の愛唱歌である讃美歌225番の讃美で始まった。2009年秋に理事を退かれて大田正紀先生にバトンを渡され、11月の例会記録には「残念ながら久保田先生は今回も健康の理由で欠席され、当分の間は休会されるとの報告があった」とある。
       (過去ログ:2009年2月15日)

昨夜も、そして今朝も早くから3時間も過去ログに没頭してしまい、「それじゃあ、おばあちゃん、行ってきます」と言ったユキの声で気がついた。

JCP草創期からの重鎮がまた一人地上から姿を消された。堪える。「しみじみと時代の流れを感じます」、関東ブロックのペン友の一筆。

久保田先生の言葉を読むと先生のお声で聞こえてくる。

「文学は人に訴える力がある。人を生かす力がある。・・・
人にどう思われるだろうかなど、よく見せようと思わないで、自分をごまかさずに書いていくこと。・・・苦しみの道中を見ているからこそ書けるのであり、全身全霊をかけて書く。人の書けないものを書くのはたいしたものだ」。
        
       (過去ログ:2010年4月26日より)

▼ 「文学作品を徹底的に読んで自分なりに理解してみる。そして、自分の生き方に関連して一貫した研究テーマを持ち、持続して掘り下げていくことだ」。

▼ 「ましな人間になっている」という思いを深めていく。しかし、「十分だ」というような思いなどもったことはない。
キリストの教える真実は何かを生涯かけて突き詰めていく。私はイエス・キリストによって支えられてきたことを告白したい。それを十分果たしたいという気持ちがある」。

▼ 「今までに27冊の書物を出したが、残りもまとめれば10冊ぐらいになるだろう。書くことは自分を見つめ、掘り下げていくことだ。また、自分の思いを確認することである」。

▼ 「文章のどこを切っても、そこから血が吹きだすように『具体的な事実』がでてくるような文章を書く。いい文章を書くということは、小手先ではできない。その人の力の全てをかけた営みである」。
      (過去ログ:2009年8月12日、 
     「夏期研修会B ―久保田先生の文章論より―」)

2008年度JCP関西・中部合同夏期研修会では次のように締めくくられた。

「私たちは神に守られて生かされている。大切なことは、力強く生き抜いていくということだと思います」。      

アガパンサスの季節.jpg 

「彼らはその労苦を解かれて休み、
そのわざは彼らについていく」。

アガパンサスの季節に神さまのところへ帰って行かれた久保田暁一先生。いのちを見事に用いて、最後まで生き抜かれた。
私は不真面目すぎる。
もっともっと真剣にやらなければ!


明日は遠方ゆえに7時半に家を出て、O姉と大阪駅で待ち合わせて京都から湖西線・安曇川(あどがわ)へ向かう。何度も訪れた懐かしい近江高島駅を経て・・・

posted by 優子 at 23:50| JCP関係 | 更新情報をチェックする

訃報 久保田暁一先生召天

「18日のJCP関西ブロックの例会は、取りやめに致します」。

今週は今日になってようやく礼拝メッセージに集中していたら、午後3時過ぎにJCPのN兄より電話があり久保田先生の訃報をお聞きして息が詰まった。

N兄と話しながらメールを開くと13時前に事務局長から一報が入っていた。その後に届いていた大田先生のメール共に電話口で朗読した。

17時過ぎ、再び連絡が入った。

詳細な情報を得ました。謹んでお知らせいたします。
大溝教会の久保田暁一兄が87歳にて逝去されました。
前夜式、告別式は大溝教会・竹内 宙 牧師の司式でとり行われます。

日時: 前夜式  6月17日(金)18:00〜
    告別式  6月18日(土)11:30〜
    出棺           13:00〜

場所: 安曇川セレマホール
    高島市安曇川町西万来町381−9
    tel 0740−32−4200
    fax 0740−32−4201

久保田先生のことを祈り、昨日も一昨日もこれまでにいただいたお便りを手にしていたところだった。
4月の総会でも5月に有志の者たちでおかげんの良い時にお見舞いに上がろうと話していたところだったが、奥様がご辞退されていたので、少なくともこの2年間は誰もお目にかかっていなかった。

    「天に一人を増しぬ」
           セラ・ゲラルデナ・ストック作
            植村正久訳

家には一人を減じたり 楽しき団欒は破れたり
愛する顔 いつもの席に見えぬぞ悲しき
さはれ 天に一人を増しぬ 清められ 救はれ
全うせられしもの一人を

家には一人を減じたり 帰るを迎ふる声一つ見えずなりぬ
行くを送る言葉 一つ消え失せぬ
別るることの絶えてなき浜辺に
一つの霊魂は上陸せり 天に一人を増しぬ

家には一人を減じたり 門を入るにも死別の哀れにたえず
内に入れば空きし席を見るも涙なり
さはれ はるか彼方に 我らの行くを待ちつつ
天に一人を増しぬ

家には一人を減じたり 弱く浅ましき人情の霧立ち蔽(おお)いて
歩みもしどろに 目も暗し
さはれ みくらよりの日の輝き出でぬ
天に一人を増しぬ

げに天に一人を増しぬ 土の型にねじこまれて
キリストを見るの目暗く 愛の冷ややかなること
いかで我らの家なるべき 顔を合はせて吾が君を見まつらん
かしここそ家なれ また天なれ

地には一人を減じたり 
その苦痛 悲哀 労働を分つべき一人を減じたり
旅人の日ごとの十字架をになふべき一人を減じたり
さはれ あがなわれし霊の冠をいただくべきもの一人を
天の家に増しぬ

天に一人を増しぬ 曇りし日もこの一念に輝かん
感謝 讃美の題目 更に加はり
吾らの霊魂を天の故郷にひきかかぐるくさりの環
さらに一つの環を加へられしなり

家に一人を増しぬ 分るることのたえてなき家に
一人も失はるることなかるべき家に
主イエスよ 天の家庭に君と共に坐すべき席を
我らすべてにも与えたまえ

雨上がりのアガパンサス(ユキ作).jpgご遺族の上に神のお慰めがありますように祈ります。
告別式でしばしのお別れをして来よう。




今夕、雨上がりの合間にユキが撮った裏庭のアガパンサス。時を忘れて見入る。

posted by 優子 at 18:44| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年05月23日

伊勢志摩サミット・メディア関係者に82歳の通訳ボランティア −密着取材のニュース動画発見!−

いよいよ明後日26日から始まる「G7サミット・主要7カ国の首脳会議・伊勢志摩サミット」で、5000人以上のメディア関係者に道案内などをするのが外国語ボランティアである。

そのお一人、82歳の最高齢でご奉仕される川上先生は今頃超多忙な日々を過ごしておられることだろう。お邪魔虫になってはといけないと自粛していたが、ついに我慢できなくて昨夕メールを発信させていただいた。

お返事は期待していなかったが、やはり私は待っていた。すると今夜遅くにお返事が届いた!!!

「激励をありがとう。サミットもいよいよ本番。ぼくは地元の鵜方駅前の観光センターでお役を務めます」と書いてくださっていた。

これまでに、中日、読売、朝日、日経などの新聞社各社、また、東海テレビやNHK(津)は密着取材や生放送のインタビューなど、多くのメディアの取材を受けておられるが、関西ではそれらを見ることができなくてすっかり諦めていた。しかし先ほど検索してみたところ、報道されたニュース動画を見つけた!!!

伊勢志摩サミット開催に伴い、5月21日(土)から28日(土)までの8日間は鵜方駅〜賢島駅間の運転が休止されてもいた。

ニュース記事は既に削除されているのもあり、ニュースの内容を文字でも書いてあったので、それもここに貼っておきたい。動画が消えてしまった時のために。
 
では、このFNNニュースをクリックしてください! 2016/05/06 フジテレビ 【FNNスピーク】です。

※ 動画の中でインディアンの格好をされていましたが、是非その関連記事「ナバホ通信員との和解と『私の戦後の決着』」をお読みください! 


【以下は文字版】

5月26日から、G7サミット(主要7カ国)の首脳会議、伊勢志摩サミットが行われます。この際、5,000人以上といわれるメディア関係者に、道案内などをするのが、外国語ボランティアです。三重県が公募したガイド役に、最高齢で挑戦する男性を取材しました。

仲間とパークゴルフを楽しむのは、サミットが開かれる三重・志摩市に住む、川上 与志夫さん。
年齢は、82歳。仲間とパークゴルフを楽しむ、この男性。サミットが開かれる三重県志摩市に住む川上与志夫さん。年齢は82歳です。実は今回、伊勢志摩サミットの外国語ボランティアに選ばれました。採用された300人中、最高齢です。

「地元でやるのに、ただ傍観してるだけじゃ申し訳ないな、あっ、じゃあもう、僕の生涯の最後のご奉仕になるかもしれないなと思って」。

皆さんはただの通訳ボランティアではございません。三重の代表です。世界からやって来る外国人報道関係者は5000人以上。 通訳ボランティアは、道案内や観光のガイド役を務めます。

英検2級程度、TOEICなら600点程度と、日常会話レベルが求められるということで、選ばれた人たちを見てみると。
「英語の教師です」。
「ニュージーランドのほうに行ってて、帰国子女なんです」。
海外育ちから英語教師まで、ハイレベルぞろい。

しかし、川上さんも負けていません。実は、英語のスペシャリストなんです。東京生まれで、ICU・国際基督教大学に進学。アメリカ留学を経て、帰国後は大阪の大学などで英語を教えました。

自宅があるのはサミット会場から車でおよそ15分の場所。伊勢志摩の豊かな自然に魅せられ、38年前に移り住みました。流ちょうな英語で会話する川上さん。

どうやら誰かが訪ねてくるようです。
「はい、来た?」
陽気にかぶり物をして出迎えたのは。
ティータイムに訪ねてきたのは、ジェイ・ハーディーさん。地元の中学校で英会話の先生をしているアメリカ人の友達です。

国籍にかかわらず、多くの友人を持つ、川上さんにとって、サミットは絶好の舞台です。 海と山があって、いっぺんに気に入って、ここにしようと。川上さんが世界に伝えたいのは、大好きな伊勢志摩の自然と人の温かさ。

「なんか、意欲的に挑戦してやるっていうことじゃないかしら。今回の通訳もそうでしょう」。
ありがとうございました。
ボランティアが活動を始めるのは、サミットの6日前から。心からのおもてなし、世界にきっと届くはずです。

昨日も東海テレビ(フジテレビ系)がご自宅に取材に来られ、明日は鵜方の現地でも他社の取材があるそうだ。
私でさえこんなにボルテージが上がっているのだから、先生のお子たちやお孫さんたちはどんなに興奮されていることだろう。

そもそもは最高齢の通訳者ということでスポットライトが当てられたのであろうが、川上先生の生き方、人柄が人を引きつるのだろう。
神さまが先生の健康が守ってくださり、楽しみつつ素晴らしいお働きをなさってくださいますようにお祈りしています。
先生、ステキ!!!!


posted by 優子 at 23:20| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月20日

現代の我々をも鼓舞する広岡浅子

昨日の記事に続けよう。
広岡浅子は60歳過ぎて宮川経輝牧師より聖書や宗教哲学を学んだ。求道中には救世軍の山室軍平牧師の指導を受けた。

浅子は宮川牧師に「どうしても真実(ほんとう)の祈りができないが、どうしたら祈れるのか」と訴えた。宮川牧師は気張りすぎるので神に語ることができないのではと、「幼い子供がお父さんに甘えて心の中の思いを言うように」言われた。すると浅子は、

「しかし私には他人と違って甘えた経験が更にありません。父も母も、夫までも、私が甘えるどころか、皆私を頼りとしておったのであります。それゆえ今神の前に甘えて願いを述べよということは、私には一向敵(ふさ)わしくないことでありました。かくて夏去り秋来たって、また翌年の夏となり、私は63歳を数うるに至りました」と述べている。

浅子は特に山室軍平から大きな影響を受けたという。
「浅子の趣味は囲碁であったが、霊的な生活や人生の大義を忘れて何事かと山室に諭され、その後、一切囲碁をやめたという。それほど、山室の浅子への影響は大きかったらしい」。

ちなみに、女傑・浅子の囲碁の打ち方は非常に堅実だったという。ここに女傑といえども、否、女傑であるからこそ何事も実業家として十分に熟考した上での決断であったに違いないと、そのこともまた非常に深い感慨を覚えた。

広岡浅子がクリスチャンになって「九転十起生」というペンネームで書いた『一週一信』は、組合教会の機関誌に書いたものであるのでキリスト教界への苦言が目立ち、実名で書く時の温和で謙遜な筆致とは違って非常に挑戦的で厳しいばかりの文章である。

「神意に従って尽くすべきはあくまで尽くし、争うべきは断じて争う決心をいたしました。而(しか)して神はこの老婢をも捨て給わず、尊き福音宣伝のために、これ日も足らぬほどに用い給うのであります」。

「キリストに救われてここに10年、単にわが身の安心立命をもって足れりとせず、国家、社会の罪悪をもその身に担うてこれと闘うにあらざれば、真に十字架を負うてキリストに従うにあらざれば、真に十字架を負うてキリストに従う者にあらざるを悟り、人を恐れず、天の啓示を仰いで、忌憚なき叫びを挙げたものであります」。


と書いているように、実に猛烈だ。
浅子の顔を想いながら一部読んでみたい。

広岡浅子.png「頭(かしら)に立つ者の心に緊張と努力勉励の精神に燃ゆるところがあるならば、かくまで乱れることはないであろう。

今日は敏腕家といい、才子といって、多くかかる人物が社会に用いられるのであるが、しかしそこに忠実まじめなる心を欠くことはあるまいか」。

「説教は研究により努力によってできるであろう。否、説教は人格信仰の流れであらなければならない。祈祷に到っては更に更に人格信仰の結晶であるから、真似ることも研究によって得ることもできない信仰生活多年の蓄積である。信徒としても、真に謙遜(へりくだ)ってこの境の信仰に入(い)りたいものである。
           (略)
説教に対して敬虔の念を欠き、またいかに説教を軽々に取り扱い、・・・更に彼らがいかに祈祷の念を欠如しつつあるかを語るものではあるまいか。・・・彼の信仰の内容も窺われて恐れ入る次第である。

厳密にいうならば、これは再びキリストを十字架につけると同じことではあるまいか。要するに、かかる説教者は牧会伝道に従事する資格のない者である。未だ人の師表とするに足らないのである」。


「浅子の歯に衣着せぬ評論は、当時、教界に大きな刺激を与えた」のは想像にかたい。そんな浅子にも人間臭いところを感じるのは、宮川経輝が語っていることだ。

「刀自(とうじ:老女の尊称)が基督教に入りてより以後の人格上の変化に至っては実に驚くべきものありき。こは特に其の家庭の人々の説明せらる所なり。

然りと雖(いえど)も刀自は二つの直らざるものありき、一はすききらひのあることなり。すけば全くすき、きらへば見向きもせざること。
二は人を批評することなり。この二つは如何に忠告するも容易に之を取り去ることを得ざりき
」。


それでも尚、人望が厚いというのも然り。
浅子は神よりの賜物を非常なる努力により磨きつつ、あの前近代の我が国の精神風土に多大なる影響を与えた人物であったこと。それは現代においても全く違和感を感じない生き方であり、現代の我々に強く迫られている感を受ける。

広岡浅子の強烈な文章に笑ってしまうのだが、非常に感服して心を寄せている私は、「あさが来た」の視聴率が非常に高いというので、広岡浅子を通してリバイバルが起こることを祈ろうと内なる促しを感じるほどである。


posted by 優子 at 22:31| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月19日

広岡浅子から人生が何たるものかを知る

若き浅子.jpg 広岡浅子.png
人生半ば頃の浅子と人生を極めてきた浅子。

成瀬仁蔵.pngNHKの朝ドラ『あさが来た』もいよいよ終盤。登場人物が年齢に応じた風貌になっていないことや、成瀬仁蔵なる人物(右写真、役名:成澤泉 )の演出に少々不満を感じているが、『花子とアン』の花子がお酒に強かったというほどには間違ってはいないようだ。

成瀬仁蔵は「キリスト教信仰によらない『宗教多元主義』的な世界観に立つ日本女子大学を創立した」。(『種を蒔く』3号掲載、大田正紀著・「澤山保羅(ぽうろ)を継ぐ信仰と女子教育 −良知・自給・愛−」より)

ところで、浅子が横腹を刺されたのは虚構だと思っていたが、実際にあった話だった。犯人は両替屋時代に加島屋を目の敵にしていた万屋で、2度お金を借りに来たが借入を断られたための逆恨みの犯行だった。

出血がひどく7日間も昏睡状態が続いたという。大勢の見舞い客に対応する為に病院が会議室を提供せねばならなかったほど浅子の人望は厚かった。

亀子と恵三.jpg娘婿の広岡恵三(浅子の一人娘・亀子の伴侶は元播州小野藩主の一柳(ひとつやなぎ)子爵の次男である。一柳と言えばヴォーリズの妻・一柳満喜子。満喜子は恵三の妹だった)に社長を譲ってからは婦人運動や廃娼運動など、社会のために精魂を傾けた。

60歳(1909年)の時に乳がんの腫瘍摘出手術を受け、その年の暮れに成瀬仁蔵を介して大阪教会の宮川経輝牧師と出会い、経輝の導きを受けて2年後のクリスマスに受洗した。

受洗後はクリスチャンとして更に社会貢献に励み、伝道に情熱を傾けてキリスト教界をも激震させる熱心さで命を燃やした。しかし、肝臓を病んで1919年に東京の広岡家別邸で召天。69歳の生涯を閉じた。

このような浅子を知ると、人生が何たるものか、生きるとはどういうことかを思わずにはいられない。60代半ばを迎えんとして、今再び若者のごとき情熱が溢れくるのを覚え人生意気に感ず。
キリスト教界にも浅子の語気鋭く論駁しているところを自らへの励ましのためにも刻んでおきたいものだ。


実業家、キリスト者として猛烈に生きた浅子の人望は厚く、葬儀は東京と大阪2箇所で行われ、告別式執行順序を見るとキリスト教界のみならず、その時代に影響を与えた人物が顔を並べている。

浅子の葬儀次第.jpg

牧野虎次は同志社の第11代総長。
山室軍平は日本人初の救世軍士官(牧師)。救世軍とはキリスト教伝道、社会福祉、教育、医療を推進するキリスト教派団体。

宮川経輝は熊本バンドのひとりで新島襄より薫陶を受ける。(熊本バンドとは、札幌バンド、横浜バンドと並んで日本の明治のプロテスタント派の3つの源流の1つ)。

小崎弘道は霊南坂教会創設者で同志社第2代総長。宮川経輝、海老名弾正(同志社第8代総長)と共に組合教会の「三元老」と呼ばれていた。

そして、矯風会の矢嶋 楫子(やじま かじこ)。
井深梶之助は牧師で当時の日本基督教会の指導者。ハンセン病者に仕えた看護婦、井深八重は姪にあたり、ソニー創業者のひとりである井深大も同じ一族だ。
日野真澄は知らなかったが牧師で同志社大学神学部教授。

浅子の愛唱歌は讃美歌83番、1933年初版発行の讃美歌133番だ。長女に弾いてもらったが、私には馴染みのない初めて聞く曲だった。(現在日本キリスト教団で使用している1997年初版発行の「讃美歌21」には収録されていない。)

浅子の告別式の時、仁蔵は病床に臥せっていたため麻生が成瀬の弔文を代読した。約300人が参列。その2カ月後に成瀬も末期の肝臓がんで召天した。

成瀬仁蔵と広岡浅子.jpg
成瀬仁蔵と広岡浅子

浅子が人を評価するのは、
「誰よりも努力し、仕事に熱心であること。自分の頭で考えて行動し、人の役に立てること。そして、業務の流れや物事の道理を正しく理解し、実践できること」だとする。
この「積極的な人材育成と、自らがきめ細かく指導・評価することで、加島屋の従業員の意識を大きく変えることに成功した」。


井上秀.jpgドラマでは娘の親友(メガネの子)は井上秀がモデルで、浅子がとてもかわいがり寝る時も娘と秀と3人で「川」の字になって寝たという。

井上秀は日本女子大学校卒業後、家政学の第一人者になり日本女子大初の女性校長として第4代校長となった。それは卒業生から校長を輩出したいという成瀬の願いの実現でもあった。

井上秀は浅子像を次のように述懐している。
何事も恐れない女の人を私はこの人で知りました。どんな逞(たくま)しい男の人々にでも、交渉し、命令し、叱責する有様に痛快を感じ、『この方はほんとにえらい女の人だ』と、すっかり心服してしまいました。

男女同権などと理屈をいう人の一人もいない時に、事実として、男と同じ力をもつ女の人の生き方を、女社長の姿を見せてもらったことになります。深い影響を受けました。

「してはいけません」「おやめなさい」ということをほとんどおっしゃらなかった。「やりましょう」、「やりなさい」といつでも、激励する方でした。

学ぶことが大好きで、勉学に没頭した若き日の秀。そんな彼女の価値観を変えたのは、浅子の「実践する姿」だったという。秀は書物ではなく浅子の生き様から学んだことを、こう語っている。

浅子さまから身近にうけた「生き抜く力」を欠いていたなら、どうでしたろうか。思えば私は幸福者でした。何としても、えらい女性の浅子さまとのご縁で今日の私があると考えられるのです。

井上秀は浅子の期待に応えて知識、人格共に開花させた。人生は出会いで決まると言われている。しかし、主体性なく、真摯に悩み求めることのない者に出会いはない。出会っていても気づくことさえないからである。

日本女子大学成瀬記念館で広岡浅子展が4月8日まで開催されており、ここでしか見ることのできない浅子の書簡がたくさんあるという。

また、大同生命の広岡浅子の生涯は非常に興味深く、時間がある時に端から端まで読んでみたいお薦めのサイトだ。


posted by 優子 at 09:40| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月18日

「人には愛を、地には平和を、まず私から」―『種を蒔く』3号掲載―

「人には愛を、地には平和を、まず私から」    
                 川上与志夫

世界中での紛争と険悪な国際関係に、私の心は平穏を失っています。
戦争という狂気の時代に心ならずも戦場に駆り出され、過酷な環境で身も心も蝕まれ、苦しみながら死んでいった多くの兵士たち。さらに、平和な生活を空襲で乱され、命をむしり取られた銃後の人たち。現状は今も変わっていません。この人たちに、改めて深い哀悼の意を捧げずにいられません。
 
何のための死だったのでしょう。犬死と言ったら、死者を冒涜することになるのでしょうか。逆に、美化する言葉はいくらでも並べられます。

しかし、無理を押しての美化は、死の非情さを増幅するばかりです。非情さは、その死が非常であり異常だからです。非常や異常の最たるものが狂気です。戦争です。
 
奇襲による殺生や他国を踏みにじる卑劣さ。一方、抵抗できない瀕死状態の町に無数の爆弾を投下する非情さ。まるでゲーム感覚の狂気です。戦争という狂気は、その狂気を正当化してしまいます。だれの本心も「殺されたくない」「殺したくない」のです。
 
人間の歴史は戦争の歴史です。賢い人間は智能だけを発達させてきました。心は分別のない子どものままです。科学の発展と心情の成育に調和がとれていません。未熟な自分を「賢い」と思い込んでいる「愚か者」が、人間の姿です。
 
知識は発達していても、十分な教養、つまり、「大局的かつ倫理的に判断して行動する能力」に欠けているのです。だから、とんでもない方向に走ったりします。悲しいかな、人間社会はそれを繰り返して今日に至りました。
 
いつの世でも、どこの世界でも、心ある人は人間性の尊厳を求めてきました。人間性とは、他者を思う善良で美しい優しさです。利己と利他を同等に重んじる生き方です。これこそ人間が他の動物とは違っている、人間性の特質です。
 
今のままでは、人間文明はあと100年で崩壊するでしょう。人間が万物の霊長であるならば、「万物をいとおしむ心」を持たなくてはいけませんね。一挙手一投足を注意深く意識し、「これでいいのか」と自問しながら、丁寧に生きていきたいものです。
 
神は人間に「万物を支配せよ」と命じました。支配とは「他者を支え、他者に配る」ことです。権力者はそれを「他者を牛耳る」と理解し、悪徳支配者として君臨してきました。この誤解が歴史上の悲劇を生みました。この利己の思いが今もつづいているのです!
 
戦争はいじめの延長線上にあります。いじめは、恨み、羨望、嫉妬、驕慢、疑念、貪欲などのいやしい品性が、複合的に働くところに生じます。創造主への感謝を忘れた、自信のない人や國が引き起こす悪行が、いじめであり戦争です。校内でのいじめや国家間のいじめや紛争をみれば、よくわかります。
 
すべての人や生き物は、よりよい環境で、よりよく生きたく願っています。その願いの実現に献身するのが、人間の務めのはずです。平和を希求する信仰者の義務です。いま、私の心は創造主の前にひれ伏します。「人には愛を、地には平和を、まず私から」と。

心の生活習慣病.jpg川上先生のご著書はどれも優しく語りかけながら自己洞察へと導かれます。

『心の生活習慣病を退治せよ!』には珠玉の言葉が満載。気づかされ、励まされ、前方に目を向けさせられる万人にふさわしい本です。是非お買い求めください!
その中からいくつかをご紹介します。これらの言葉につながるエピソードは本書でお読みください。

▼「今日一日だけ、
 この人に、
 この一事に、
 心をこめて生きてみよう。


気の合わない人にも笑顔を向ける。一日伸ばしになっていた嫌なことを、気合いを込めてやり遂げる。今日一日だけだから必ずできます。

来る日も来る日も、今日一日だけの頑張りです。明日になっても『今日一日だけ』の辛抱です。これを続ければ、『中途半端病』から脱出できます
今日一日だけでいいのです。やれますよね。頑張れますよね」。


▼「アメリカ英語で大学2年生のことを『Sophomore』と言います。これはギリシャ語の『sophos(賢い)』と『 moros(愚か)』の合成語です。大学で学んでいるのだから『賢い』と思い込んでいる『愚か者』を意味しています。

大学を出たのだから、教養も知識もあると思っている人。とんでもない! 大事なのは本物の教養です。

教養とは、
大局的に物事を判断し、
倫理的に行動する、
心の姿勢と実践力のこと
」。


▼「暗い気分の朝でも、歌をうたうとその声で元気が出てきます。感謝の祈りを口にすると、気分が明るくなります。歌や感謝の声は一日を美しい色に染め上げてくれるのです。

ここに、いい一日が始まります。いい一日が終わります。

川上先生より.jpg一日を感謝の祈りではじめ、
一日を感謝の祈りで終える。
これが、よい一日です。
よい一年です。
よい一生です」。


私も今からまた新たなる気持ちでスタートだ。
014932s_mini.jpg目と顔と心を輝かせたい。
川上先生、ありがとう!!!


posted by 優子 at 12:43| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月17日

「ナバホ通信員との和解と『私の戦後の決着』」(『種を蒔く』3号掲載)の著者 川上与志夫先生 伊勢志摩サミット外国語案内ボランティアに!

『種を蒔く』3号に掲載されている「ナバホ通信員との和解と『私の戦後の決着』」を多くの皆さまにもお読みいただきたく、著者のお許しを得て転載させていただいた。

著者・川上与志夫氏は日本クリスチャン・ペンクラブ副理事長、牧師。何よりも私の大学の恩師でネイティブ・スピーカーのごとき英語を話される英文科の教授だった。私は日本文学専攻であるが、1回生の時に一般教養で宗教論を受講した。

先生から原稿を送られてきて読ませていただいた瞬間、非常に感動し、是非ブログにも掲載させていただこうと思った。

ナバホ通信員との和解と「私の戦後の決着」    
                     川上与志夫
                            
今年は戦後70年。いつまで戦後はつづくのか・・・。私にはアメリカに関して一つのわだかまりがありました。それは戦後3年目に亡くなった父の心を気遣ってのことです。

2007年の10月、ハワイでアメリカ・インディアンの盛大な祭典があり、その祭りに3人のナバホ族暗号通信員が参加してきました。

太平洋戦争の末期、アメリカ軍は通信員としてアリゾナ州のナバホ族を起用。有能な若者に英語を特訓し、ナバホ語での暗号通信に携わらせたのです。

それは彼らにとって、アメリカ人として認められるよいチャンスであると同時に、不本意な軍隊協力でした。自分たちの土地を奪い、自分たちを辺鄙な保留地に追いやったのがアメリカ合衆国です。そんな国の軍隊のためになど尽くしたくありません。しかし軍隊の命令は絶対です。服従せざるを得ませんでした。
 
特訓を受けた通信員は硫黄島や沖縄戦で活躍し、日本軍や民間人をさんざん苦しめたのです。戦地での彼らには白人将校の護衛がつきました。

将校の役目は二つです。一つは通信員を守ることであり、もう一つは通信員が日本軍の捕虜になりかけると、彼を射殺することでした。味方を殺す? それはナバホ語の暗号を守るための、非情で苦肉な策でした。
 
戦場で通信員は日本人の死体を目にしました。するとどうでしょう。その体型も顔かたちも自分たちと同じではありませんか。同じモンゴロイドなのです。同じように国土を踏みにじられ、仲間を殺された弱者同士です。通信員の心に、日本人に対して申し訳ない想いがつのったのです。こんな闘いはしたくない。けれど、しないわけにいかない!
 
生き残りの通信員が3人、日本人との和解を申し出ました。ハワイの真珠湾では、日本軍が結果的に「卑怯な」奇襲攻撃を行って、戦艦アリゾナを含む多くの艦船と兵員を葬りました。

日本もアメリカもいろいろな点で、相手国に対して負い目があるのです。その和解の儀式に、3人の日本人が招かれました。1人は特攻の生き残り、1人は戦地からの復員兵、3人目が私です。私が招かれたのは、戦中・戦後の厳しい生活の体験者であり、アメリカ・インディアンの研究家であったからです。
 
ハワイのホテルの一室で、双方から3人ずつが顔を合わせました。仲介してくれたのはハワイ先住民の方々でした。それぞれに過去を語り、愛と寛容の包容力で憎悪を断ち切る誓いをしました。

アロハのアロは「額」、ハは「呼気(吐き出す空気)」であることを教えられ、二人ずつ抱き合って額をつけ、息を交わしたのでした。相互の肩に手をかけ、額をつけて息を吐く。それは敵だった相手を温かく包み込む感動的瞬間でした。
 
最後に、誓約書・「和解の誓」に6人が署名し、それを交換しました。その後、楽しい雑談がつづきました。やがて抱擁を重ね、両手で握手をかわし、笑顔で別れたのでした。
 
空襲で父の建てた家と工場は焼かれ、財産を没収され、母と私たち九人の子どもは苦しい戦後を送りました。父の悲嘆はどれほどだったでしょう。私たち子どもには、その怨念は何とか解消できます。しかし父は戦後に体調をくずし、ろくに薬もなく、3年後に衰弱して死去しました。

多くの子どもを残して逝く、やりきれなかったであろう父の心・・・。その心にどう向き合ったらよいのか、私は長い間煩悶していたのでした。
 
ハワイから帰る飛行機の中で、私の心は安らいでいました。しわの深い、老いたナバホ通信員たちの優しい顔が浮かびます。家に戻ると、私は居間に飾られた父の写真に和解の儀式を報告しました。

赦しこそこの世でもっとも美しいことです。額の中の父は穏やかな笑顔でそれに応えてくれました。父と私の戦後は、ここに決着したのでした。
(ナバホ族に関しては「ウィンド・トーカーズ」という映画がDVDで借りられます)

素晴らしいお証しに深い感銘を受けた。

ここで川上先生について只今進行中の素敵なエピソードをお分かちしたい。お人柄や生き方を感じていただけると思う。
それは2月20日のクリスチャン・ペンクラブの例会でもお伝えしたことであるが、5月26日・27日に開催される伊勢志摩サミットで外国語案内ボランティアされるのだ。

川上先生.jpg驚くべきはここからだ。
通訳の募集は20〜30代なのに81歳にして応募されたこと。このユニークさに私は深く感激した! 何て素敵なんだろう。
勿論合格通知が届いた。年齢で却下しなかった主宰側の姿勢も素晴らしい。通訳ボランティアには2回の語学研修と「おもてなし」の研修があるという。

しかも2月半ばにテレビ局が御自宅を訪ね1日密着取材されるとお聞きした時、電話口ではしゃいでしまった。既に放映済み。「それらの情報を流してくださいね」と今日の電話でお願いした。


ご自宅はサミットが開催される会場から10分ほどの所だという。大きなお宅で外国の方の来訪も珍しくない。もう10年ほども前から「是非、遊びにいらっしゃい」と娘も一緒にお誘いを受けているのに、出不精の私は好機を逸している。

日本クリスチャン・ペンクラブに入会するには2名の推薦者が必要だったが、『百万人の福音』で副理事長・川上先生のお名前を見つけて即刻連絡を取り、推薦者お一人だけでも快く満江巌牧師理事長が歓迎してくださった。1987年の夏のことである。

こうして大学卒業13年後に主イエスを介して恩師と再会し、しかも私は日本文学専攻だったので英文学の先生とは疎遠だったにも関わらず、このように親しくお交わりしていただけるのは本当に幸せだと思う。

続いて次のページに「人には愛を、地には平和を、まず私から」を掲載させていただこう。

『心の生活習慣病を退治せよ!』より著者プロフィール

川上/与志夫
1960年国際基督教大学・教養学部卒。1963年アンダソン神学校(米国)卒。1991年より1年間、アイダホ大学客員研究員。教職:大阪女学院、神戸女学院を経て、帝塚山学院大学に奉職。現在、同大学・名誉教授。アメリカ先住民居留地に住み込み、伝統文化を踏査。羽根冠とインディアン名「リトル・クーガー」を授かる。元関西市民大学講座学長、日本クリスチャンペンクラブ、日本シュバイツァー友の会に所属。

ご著書多数だけではなく、いろんなところでご活躍されている。
明日の日本と進路 - 世界平和教授アカデミー

posted by 優子 at 21:57| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

『リア王』は悲劇か  シェイクスピアが描く人間の実相 ―『種を蒔く』3号掲載文 最終E−

私にとって書くということは自己への探求以外の何物でもなく、この「『リア王』は悲劇か ―シェイクスピアが描く人間の実相−」もまた人間の真相を探りたく書いたものである。

これは2006年2月に『あしたづ』第8号(大阪商業大学・河内の郷土文化サークルセンター発行)に掲載されたものを、ごく一部削除して『種を蒔く』3号に掲載したものである。

というのは、3号に掲載していただいた文章の執筆中、何度も『リア王』のことが脳裏に浮上し、私に大きな影響を与えた作品であったことを認識させられて、『種を蒔く』の読者の方々にもご紹介したいとの思いから掲載していただくことにした。

既にこのブログ上にも何回かに分けて2006年3月2日〜8日に公開したものであるが、再度このページで一気に掲載させていただくことにした。

      『リア王』は悲劇か
            シェイクスピアが描く人間の実相
                           藤本 優子
          1 はじめに

日野原重明は著書の中で、「死というものを勉強する場合には、文学がすごく役に立つ。殊にシェイクスピアは、人間の死に対する恐れとか、死との対決とかを、見事に描き切っている。」と書いている。

2000年の夏に父をも天に送った私は、改めて「生きるということ」と「死ぬということ」についてじっくり考えてみたいと思い、翌年6月に「東大阪読書友の会」で『リア王』を取り挙げていただいた。
 
ところで、この作品はシェイクスピアの有名な四大悲劇の中でも彼の最高の姿と言われているが、自分の愚かさが招いたことであるから私には悲劇だとは思えなかった。

当時大学院生だった次女が帰省した折に、久しぶりに文学や人生について語り合った時、それについて意見を聴いてみた。すると間髪いれずに「いやあ、これほどの悲劇はないよ。」と言い放ったから驚いた。そして、次のようなことを言った。

「リア王は、耳障りのいいことを言う人を優遇するという愚かなことをしてしまったけれど、ある日、自分がそのような愚かなことをしたと気がついた。しかも、それによって生じた辛く情けない状況の中でね。この逆境が自分に全く責任のないことから生じているなら、どれだけ気が楽だろう。でも、自分の愚かさから生じたことであるから悔やんでも悔やみきれない」。

だから悲劇だと言うのだ。
「なるほど」と、私は考え込んでしまった。私の視点とは全く反対であり、にわかに探究心は旺盛になって取り掛かった次第である。

          2 『リア王』の梗概と主題

『リア王』はあまりにも有名な作品であるから簡単な概要にとどめたい。権勢をほしいままにする老王リアが、言葉によって三人の娘たちの愛情を試し、その結果に基づいて王国を分割したことから物語は始まる。

リアは末娘コーディリアの真心を信じられず、偽善も明白な長女ゴネリルと次女リーガンの歯の浮くような賛辞を信じて、領土と王権を二分する。その後、ゴネリルとリーガンはリアを虐待し追放してしまう。

リアは計り知れぬ苦難を受け、狂乱の姿で世を呪い、嵐の荒野を彷徨う。最後にリアとコーディリアは再会するが、コーディリアは殺されリアも死を迎えるという悲惨な結末で終わる。

この作品は、リア王とコーディリア、ゴネリル、リーガンを中心とする主軸に、グロスター伯爵と嫡子エドガー、庶子エドマンドをめぐる副筋を実に巧みに絡み合わせて人間模様を織り成している。

リアとグロスターは、信じている子に裏切られたと思いこみ、コーディリアとエドガーは愛していた父に裏切られるという筋書きである。愚かな二人の老人は共に不実な子に欺かれ、愛情深い子を勘当するのである。

主題は、親子の愛情と信頼に関わるもので、特に父と子の問題と年を取った父親の愚かさである。もう一点は権力と金(豊かさ)の問題であり、それらをもぎ取られてどん底に落ちて全く裸になった時、人間はどうなるのかということである。

「千万の心を持つシェイクスピア」とコールリッジが言ったとおり、シェイクスピアはこの作品においても「親と子、老人と若者、夫と妻、主人と家臣、権力者と下積みにある者など、さまざまな人間関係を俎上に乗せ、この世の権威と人間の真実に揺さぶりをかけ問いかけている」。

          3 私のシェイクスピア概観

本論に入る前に印象的に感じたことを述べておきたい。
まず一点は、冒頭から第一場面の終わりまでの展開が非常に速いということである。しかも、コーディリアが最も優しい娘であるということをよく知っているリアが、言葉の愛情テストごときもので判断してコーディリアを勘当し、あっという間に国土を他の二人に分け与えてしまう。

「そんな馬鹿な、どうして?」と笑ってしまうほど私には信じがたいことであり、リアリズム的視点からは理解できないことだと思った。
コールリッジもこのことを「全くの荒唐無稽」と呼び、多くの読者にも躓きの石となっているらしいが、ヤン・コットは、次のように述べている。

『リア王』の導入部は、心理的なまことらしさを求める人からすれば馬鹿げて見えるだろうが、シェイクスピアの劇は殆ど例外なく単刀直入に劇全体の基調を定めてしまうということである。

思うに、シェイクスピアはリア(人間)の受苦や善と悪の闘いをこそ書きたかったのではないだろうか。

もう一点は、敬虔なクリスチャンであったと伝えられているシェイクスピアが、何故この舞台を「神」ではなく、「神々」という異教の世界に設定したのかということである。

この疑問に対して、青山誠子が『シェイクスピアにおける悲劇と変容』で次のように答えてくれている。

「神」(God)の名を舞台で用いることを禁じる法令が1605年5月に発せられて以後、劇作家や俳優たちは、異教の神々(gods)を代用することで急場をしのいだが、『リア王』の執筆は、この法令以前、1504〜5年の冬(または1505〜6年の冬)と推定される。

しかも『リア王』以降の劇は、『マクベス』を除いて全てが異教の世界に展開しているという。これについては、シェイクスピアの心に、異教の世界を選択する必然的志向が存在していたと推定せざるを得ない。と述べている。この点について終章で触れることになろう。

          4 リアとグロスター

リアには絶対者としての誇りと傲慢さがあり、そこから生まれた一切の反抗を瞬時も許さぬ性急さである。シェイクスピア悲劇の殆どが、「性格は運命である」という言葉に要約されているとおり、これがリアの致命的欠陥であり、そのために「親子の愛」という情のみならず、間違った国譲りの愚行を犯し、今まで守られてきた「秩序」も乱してしまう。

長女ゴネリルの忘恩だけではなく、その夫オールバニー公や執事オズワルドまでがリアに対して不遜な態度をとり、リアはゴネリルを呪う。
  
聞け! 自然よ! 聞け! 愛する女神よ!
聞き給え!
  この雌を孕ませるつもりがあるなら、
  こいつを石女にしてくれ!
  こいつの腐った肉体からは、親の誉れとなるような子は生まれさせてくれるな!
どうしても産ませるというなら、悪意の塊のような子を授けてやって、それが長じて自然の情を知らぬ天邪鬼となり、この女の拷問の責め苦となるように!
                 (1幕4場)
 

次に次女リーガンを頼っていくが、リーガンはゴネリル以上に冷酷だった。そして、荒れ狂う嵐の中、リアは荒野をさまよい歩きながら二人の娘を呪う。

二度と会うまい。お互い二度と顔は合わすまい。
とはいえ、お前はわが肉、わが血、わが娘だ、
いや、わしの肉に宿った病毒だ、・・・・・・
泣くものか、自然の情けを知らぬ鬼婆ども、
二人とも必ず復讐してやるぞ、・・・・・
                 (2幕4場)


リアは傲慢であったが、ここまで言わしめる娘を持ったリアは悲劇であり、ゴネリルとリーガンからダンテの『神曲』にある「地獄篇」を想起させた。
  
心に苦がなければ、体は苦痛に敏感だ。わしの心のこの嵐は五感を鈍らせ、何も感じさせない。脈打つもののほかは。
                 (3幕4場)


リアの苦悩はいかばかりであったことだろう。
「人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心が痛むときは、だれがそれに耐えようか。」と聖書にあるように、リアもまた肉体の苦痛よりも精神の苦悩のほうがはるかに大きいことに気がついた。

そして、他人の罪を責めるだけではなく、貧しい者たちへの憐れみに目覚め、狂気を通して据傲の罪を洗い清めていくかのようである。

ああ、今までわしはこのことに気づかなかった!
奢れる者よ、これを薬にするがいい、
  身を曝して惨めな者が感じていることを感じるがいい、
  余計な物を振り落として彼らに与え、
  天道いまだ地に堕ちていないことを示すがいい。
                 (3幕4場)


一方、グロスターの庶子エドマンドは、グロスターの嫡子であり兄であるエドガーに取って代わろうと企み、エドガーが父を殺そうとしていると嘘をつく。

信じやすさと迷信深さが欠点であるグロスターは、信じている子に裏切られたと思い込み、彼もまた計り知れぬ苦しみを通らなければならないことになる。

エドマンドは、グロスターがリアを助けようとしていることをリーガンの夫コーンウォールに告げたことにより、グロスターはコーンウォールに両目をえぐりとられる。グロスターは両眼を失った後にようやく真相に気づき、「正邪の別を、仮相と実体の別を見分ける視力を持ち」、「感じるように見る」ことを学んだ。

目が見えたときには躓いたものだ。
今はよく物が見える、
  物を持っていれば安心して油断するが、無一物になれば、かえってそれが財産になる。
ああ! 可愛い倅エドガー、
  お前は欺かれた父の怒りの餌食だった、
  命ながらえお前に触れて見ることさえできたなら、わしは両の眼を取り戻した、と言おう。
                 (4幕1場)


肉体の痛ましい再発見である。グロスターはエドガーを捨てた自分の愚かさを嘆き、不幸な者への同情も知り人生への認識を深めていく。この箇所は何度読んでも目頭が熱くなり深く感動的である。

その後、グロスターの自己認識はリアのように深まることもなく、個人的段階に留まったままであるが、かつてのグロスターよりもより善いより賢い人間として死んでいく。

一人は据傲から、一人は「信じやすさ」から同じ愚を犯した二人の父親。そのためにリアは狂気、グロスターは目を失うという代償を払わねばならなかった。

シェイクスピアは肉体の盲目と精神の盲目を示し、心の盲目は肉体のそれよりもはるかに怖いものであり、全ては心の眼が見えなかったためであると訴えているかのようである。

リアはグロスターの死を契機に、子に背かれた忘恩の苦しみからもっと高い次元の深い苦しみへと飛躍する。ここにリアの「目覚め」の兆しを見ることができる。即ち、人間本来の生きる意味と目的に方向が示されていき、読み手である私もいつしかリアと一体になって考えさせられていた。

          5 シェイクスピアの意味する「忍耐」

エドガーは「みじめなトム」に変装して裸体に近い姿でリアと苦しみを共にし、いかなる苦境に在っても絶望せず、耐え抜くことを知っている。
 
「苦しみも連れがあれば耐えられる」。(3幕6場)
「不運のどん底に落ちれば浮かび上がるだけ」。(4幕1場)
「これが最悪だと言っているうちは、どん底ではない」。(4幕1場)
「時の塾すのが何より」(5幕2場)


エドガーは悪のはびこる中で人間の善を信じて耐えていこうとする。「時の塾すのが何より」とは、希望をもって待つということであり、岩波文庫の脚注同様に聖書のことばを想わずにはいられない。
   
天が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
生まるるに時があり、死ぬるに時があり、・・・・
神のなされることは皆その時にかなって美しい。


さて、「万事、機が熟するのを待つのが肝心だ」の英文は
“Readiness is all” であるが、原文では”ripeness”だという。この言葉は「円熟すること、熟すこと、発展させること」という意味であり、私はここにシェイクスピアの意図を明確に読み取るのである。ヤン・コットも次のように述べている。

このシェイクスピア的な翻訳不能の《成熟》という言葉は、文字通り成熟することであると同時に、あらためて身を委ねることをも意味する。人は成長して死に達しなければならないのだ。それがすべてなのだ。

即ち、シェイクスピア(エドガー)の言う忍耐はただ我慢するのではない。神に全てを委ねて、神のみこころに叶うことが成就されるのを信じて待つという、信仰による希望の忍耐である。

このことはまた、全てのことに時があるように、私達に与えられている持ち時間には限りがあり、人は自らの死に向かって成熟しなければならないという意味でもある。

コーディリアの死を通して気づかされたことは、「悪」は厳然として存在し、一旦「秩序」が破られて解き放たれた「悪」の力はドミノ倒しのように行く所まで行くということである。

この嵐が止んだ時、リーガンはゴネリルに毒殺されゴネリルも自殺して果て、悪も滅んだが痛ましい善良な犠牲者も出た。

しかし、「悪」の増大と共に「善」もまた動き出していた。明日への希望は、嵐の中でリアの認識に至る姿と最期を見た人たちが生き残っていることである。

エドガーはリアの死を見てもまだ希望を捨てず、この劇の結びをエドガーに語らせていることからも、作者が彼に国家の回復を託していることが読み取れる。リアの苦悩は無駄ではなかった。

          6 コーディリアとリアの死

コーディリアと再会した牢獄でのリアは、謙遜な人間に変えられていた。最愛の娘との和解を達成され、正気に戻り、尚且つ、この世の地位も権力も金も一切は空しいものであると眼が開かれた。この世的なものに価値をおかず、赦しと祈りの生活こそが至福であると気がついた。

さあ、牢獄に行こう。
  お前と二人だけで、籠の中の鳥のように歌をうたおう。
  わしの祝福が欲しいというなら、わしはお前のまえに膝をついて許しを乞おう。
  そんなふうにして生き、祈り、歌い、たわいない昔話などして、
                 (5幕3場)


これがコーディリアと和解して辿りついたリアの最終的な境地であった。二人が到達した魂の気高さ。もはや、この二人の静謐を壊すことはできない。

からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。(聖書)

シェイクスピアは、人間の魂(精神)は如何なる時も如何なることからも自由で束縛されないのだという人間の素晴しさをも訴えている。
そして、苦悩や悲惨な出来事を越えるすべは、内面世界(魂・精神)の成熟にこそあり、そのことこそが最高善であり至高であることを私は改めて心に刻みたい。

リアはハムレットのように「雀が一羽落ちるのにも特別の摂理が働いている」という強い信仰ではなく、揺れ動き、時には神を見失いもして、再び神(摂理)への信仰を回復するのである。

しかし、懐疑や苦悶はあっても神への反抗はなく、ただ「機を熟するのを待つ」忍耐であった。このことはまた、人間シェイクスピアの信仰生涯でもあったのであろう。

コーディリアの亡き骸を抱きながら語ったリアの臨終の言葉、特に最初の4行は実に悲痛である。

そして可愛いやつがしめ殺された。
もう、もう、命がない。
犬が、馬が、鼠が生きているというのに、
  なぜ、お前には息がないのだ?
お前はもう戻って来ない。
  絶対に、絶対に、絶対に、もう絶対に!
  頼む、このボタンをはずしてくれ。ありがとう。
  これがあんたに見えるか?
娘の顔を見ろ、この唇を、
  ほら、ほら!(息絶える)


また最後の2行については、これ以上付け加えることがないほど過去の批評史において様々に論じられてきたという。

即ち、リアはコーディリアの唇が動いたように感じて、蘇生を確信した歓喜の表現と見るのか、あるいは絶望の表現と見るのかである。ここは、それほどまでに難問であり、多くの学者に注目されてきたという。

しかしながら、人生を神の摂理によって支配されているものと受け止めているシェイクスピアは、リアが悶死したと読まれては無念であろう。これは苦痛の極限における人間の姿であり、リアはコーディリアの死を認めて、悲しみに耐えながら息を引き取ったと理解できる。

コーディリアの唇が動いたように感じた時、リア自らの死を迎えた瞬間であったことから、あえて解釈するならば、愛娘との再会を暗示しているのではないだろうか。

シェイクスピアはそれらを明示せず、「リアにしか見えないもの」とエドガーに語らせて、リアの中に閉じこめたまま劇を終らせている。リアがその生涯の死に際に見たものは何だったのであろうか。

リアの死は外面的には敗北のようにも見えるが、内面世界(魂)においては静謐が成就されての臨終であった。リアの死は苦難の終止符であり、全ての苦悩や悲しみからの解放であった。

多くの人々はリアの死を「万事窮す」と見るであろうが、一切の苦難を経て悔い改めに至らせてくださっての死は、「こと終われり」という神様の完了の宣言であったと、私は信仰によって受け止めている。

コーディリアの死後、最後までリアは神々の名を一言も呼ばせていないのは、シェイクスピアの意図的なものであろうと青山誠子は述べている。少し長くなるが興味深いところなので引用したい。

シェイクスピアは神の摂理を否定し、人間の世界を支配するのは盲目的な運命であると考えているのであろうか。いや、そうではなかろう。なぜならこの作品で、秩序に抵抗し無神論をいだくのは、悪のグループの人たちに限られているからである。

シェイクスピアはこの劇の中で、神々は人間の祈りに応じたまうとは限らず、摂理は人間によっては計り知れぬものだということを言いたいのであろうか。摂理へのゆるがぬ信仰に裏打ちされた『ハムレット』の世界から『リア王』のこのような世界に至るシェイクスピアの悲劇、さらに異教の神々のしろしめすロマンス劇の世界への軌跡は、一面、神と人間との関係の探求の道と見られるのではなかろうか。


このことが、〔3〕で触れた青山の「異教の世界を選択する必然的志向が存在していた」という理由なのである。
この作品は異教の世界を舞台にしているが、精神は深くキリスト教的である。即ち、悲劇は迷信やたたりなどの原因によって起こるのではなく、人間の起こしたものであることを深く認識している。

そして、全てが神(天)の眼にさらされており、心の「目覚め」は自らの苦悩や深い悲しみを経て、初めて達成されるものであると強く訴えている。

          7 『リア王』は悲劇か否か

冒頭で述べたように、私にとって悲劇とは自分には責任のないことによる苦難を意味していた。従って、父リア王に対して真実を守り、真実ゆえに勘当され、父と再会するが殺されてしまうコーディリアの生涯こそ悲劇であったが、リアに対しては同情し哀れみを感じても悲劇だと考えられなかった。

しかし再び読み終えて思うに、確かに自分に責任のない苦難や悲惨な出来事も悲劇であろうが、リアやグロスターのように自分の愚行によるものもまた悲劇であると考えるようになった。

なぜならば、この愚かさはリアの愚かさに留まらず、人間の本質を示す愚かさであり我々自身の姿であるからだ。故に『リア王』は悲劇でないどころか、普遍的経験について書かれてあり、人生は悲劇の連続であるとさえ言えよう。

私は次女にシャッポを脱がざるを得ない。それどころかリア王の愚行に対して「そんな馬鹿な」と思っていた私は、未だ自分の姿がよく見えていなかった。

リアの愚かさは笑うに笑えない自分の愚かさであり、お互いの姿だったのだ。私は「無知の無知」であり、まさに「無知の知」、「汝自身を知れ」である。

ついでながら、かのトルストイは『リア王』を「抗しがたい嫌悪感と退屈」と批評した。彼は、シェイクスピアの最も厳しい批評家として知られており、300枚を越える大論文『シェイクスピア論および演劇論』では、全作品を否定しているという。

これでは「人生の師」と仰がれ、私が抱いていたトルストイの人物像と真っ向から対立し、新たな興味も湧いてくるというものである。

          8 終わりに

英語圏の国の家庭には、聖書と共に必ずシェイクスピア全集があると言われている。この作品と取り組むにあたり訪ねた大阪府立中央図書館にも430冊余りの文献があったのには驚いた。

シェイクスピアは私が今まで研鑽を積んできた作家でもなく、専業主婦の傍ら思い立って3ヶ月余りで書き上げようと取り組んだものであるから十分なことはできない。

そこで、『リア王』に関する作品論と、シェイクスピアの信仰という観点で作家論に絞った。もとより英文学の素養もない私は、シェイクスピアの必読書と言われる古典的名著も全く知らないまま、ただ書名から盲目的に10冊を借り出しての取り組みであった。

検索中に聖書の『ヨブ記』との関連で書かれた作品論が目に留まり、大変興味深く感じたが別の機会に譲ることにした。

確かにリアは、ヨブのように大切なものを次々と失っていき苦難の中を通らされていくが、「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかっ」て生きている善良なヨブとは違う。

また、最後にコーディリアの死という苛酷な悲しみまで通らせてはいても、シェイクスピアには悪人が栄え、善人は悲惨であるという苦悩はない。

勿論、勧善懲悪で事足りる世の中ではないという認識に立っていることは言うまでもないが、コーディリアに焦点を当てて『ヨブ記』との関連で論じるのも興味深い。

シェイクスピアは当初、この悲劇の題名を『コーディリア』にしようと考えていたと知った時、私は自らの姿に気づかなかったとは言え、一方で「リア王は悲劇か」という当初の疑問も案外的外れではなかったと思った。
なぜならばコーディリアこそが悲劇であったからだ。そして、私の読み方も作者を失望させてはいないだろう。

「千万の心を持つシェイクスピア」と言われているように、シェイクスピアの物の見方や人間観は単純明解ではなく、特に人間性の複雑さへの認識は深い。人間は実に複雑で不可解な存在だ。

シェイクスピアが直視する人間の中に在る「悪」と、それがもたらす破壊、その跡に残る無垢な者が受ける苦難と悲惨な光景は今も変わらぬ世界の姿である。

私たちは人生の途上において、それぞれの嵐を越えて行かねばならないが、嵐は祝福への序曲である。しかし、苦難が人を謙虚にし成熟させるのではない。苦難と闘いながらも、かえって心を歪め頑なにする人も少なくないと思うからだ。

気高い魂を得て召されたリア。大切なことは、その苦難をどのように越えていき、認識を深めていくことができるかどうかである。認識の深化によって現実を見る眼が変わり内面が変えられていく。

私たちが手ごたえのある人生を送りたいと願うのであれば、苦痛を伴うものでしかありえないということも改めて銘記せねばなるまい。

願わくは、私もリアのように苦難を通して心の眼が開かれていき、苦難の極みにおいて歓喜と勝利を得る生涯でありたい。最期まで神の確かな望みを見失うことなく、自分自身の死に向かって成熟していくことができるように、神の導きを切に祈りつつ拙論を終えたい。

紙幅の関係で、この作品のキーワードでもある「無」、「仮狂」や「羊狂」とも言うべき「道化」(“clown”ではなく“fool”)、また、「逆説」について取り上げることができなかったことも記しておきたい。


【附記】
 当誌掲載の作品執筆中に何度も『リア王』を想起し、『リア王』から大きな影響を受けていたことに気づかされた。この評論は、2006年2月に『あしたづ』第8号(大阪商業大学・河内の郷土文化サークルセンター発行)掲載文に加筆改定したものである。        
           (2015・11・21)


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2016年03月08日

記憶に残る戦後大阪の残像から ―『種を蒔く』3号掲載文 D−

         記憶に残る戦後大阪の残像から
                            藤本優子
終戦から6年後に生まれた私にも、不気味で怖い戦後の残像がある。あれは2〜3歳ぐらいだったと思うので、戦後10年頃の大阪にはまだ戦禍のあとが残っていた。

母方の祖父母の家へ行く時、大阪から天王寺に向かう省線(環状線)の車窓から、茶褐色の鉄骨だけになった建物の残骸が建っていて、とても怖い光景だった。それが砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の焼け跡であることを知ったのはずっとあとのことで、読書会で年配の方々の話で知った。

砲兵工廠は大阪城周辺、現在の大阪ビジネスパークからJR森ノ宮駅あたりにあったというから、あの焼け跡がそうだった。東洋一の規模を誇った大阪砲兵工廠は、1945年8月14日午後、約150機のB―29の集中爆撃で破壊され大阪は焼け野原になった。

大阪空襲の時、米軍は淡路島と淀川を目印にして飛んできたという。その頃、北浜の証券会社で働いていた叔母が焼け野原になった大阪の様子を話してくれた。
「淀屋橋から高島屋が見えた。御堂筋も焼け野原で、当時一番大きな建物だと言われていたガスビルのほかは大丸とそごうの建物が残っていただけで、西には住友の本社があり、あとは朝日会館とダイビルだけだった」と。

父は出兵した3日後に浜松で終戦になって帰阪したので戦場経験はない。そんな父が晩年重度の脳梗塞により認知できなくなった時、空襲の記憶が父を苦しめた。「いつも同じ夢を見る。空襲で足の周りが燃えている夢や」と言って父は泣いた。

ある朝、私は夜明け前に激しい雷雨で目が覚めた。その日、病床の父を訪ねると、案の定父は怯えて泣いていた。雷雨を空襲と間違えて恐怖におののいていたとヘルパーさんからお聞きした。50年も前の記憶に怯える父の姿から微かにではあるが、私は初めて戦争を身近に感じた。

私の実家は大阪市西淀川区で、梅田から阪神電車で8分の所だ。中学から同志社へ通うようになった1963年の頃、梅田界隈の地下街に傷痍軍人が立っているのを何度も見たことがある。

戦場で手足や目を失った人が松葉杖をついて、目の前にはアルミニウムの飯ごうや蓋を置いて立っていた。どの人も白い服を着て、足には父から聞いていたゲートルを巻いていた。濃い色眼鏡をかけ、アコーデオンを弾いている人もいた。

戦争が終わって20年近くも経っているのに信じられない光景だった。しかしまた、たった20年前まで戦争していたことや、大阪が焼け野原になっていたことも信じられなかった。

あの頃、大阪駅前の広い道路を隔てた正面あたりに旭屋書店があったが、その界隈は闇市(やみいち)があったと両親から聞いたことがある。

私はテレビのドラマで観た闇市を重ね合わせて当時の様子を想像して歩いた。大学生になった頃(万博の年)には旭屋書店は曾根崎に移っていたと思うが、昔の話をしてくれていた両親の話をもっと真剣に聞いておくべきだった。

アウシュビッツ収容所に代表されるジェノサイドや原子爆弾など、20世紀で人類の罪は頂点に達したかと思ったが、それからのちも人間は残虐な殺戮を重ね続けている。

21世紀に入ってからは、日常的に殺戮が繰り返される時代になってしまった。今またフランスで起きた同時テロ、世界の首脳が叫ぶ「テロに屈しない」の意味は何だろう。この連鎖を断ち切ることなどできないように思う。

日本は原発事故を起こし、人間が生きるために必要な根源的なものを全て失い、取り返しのつかないことになっても何も変わらなかった。

世界で唯一原爆の地獄を経験しながらも戦争法案可決とはあまりにも罪深い。沖縄の人々の叫びも届かず、絶望的で無力感に苛まれそうだ。そんな時、インターネット上で読んだ平良愛香牧師の言葉が私の信仰を奮い立たせた。

平和のつくり方。それは、私たちが希望を失わないことから始まる。・・・(略)・・・
私たちは楽観できないこの世界を生きている。自分の感情で「平和だ、平和だ」と歌っていられるような気楽な世界にはもう生きていない。「神様、あなたの力がなければ実現できないのです」。そういう切羽詰まったもがきの中で初めて、「恐れるな。私は既に世に勝っている」という言葉と出会うのだ。


神さまから希望をいただいて堅く立ち、みことばを握りしめて平和をつくっていこう。
                                   
                           (2015・11・21) 

        
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2016年03月07日

「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」−『種を蒔く』3号掲載文 C−

    「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」
                            藤本 優子

いつの時代も国家は過ちを犯し、いつの時代も目覚めた人たちは国家権力と闘ってきた。そして、人間の中に在る悪と、それがもたらす破壊、その跡に残る無垢な者が受ける苦難と悲惨は今も変わらぬ世界の姿であるが、事もあろうに戦後70年の夏に戦争法案が可決され、私は今ほど時代や歴史について主体的に考えさせられたことはない。今まで政治や人権に対して無理解、無関心だったことを深く悔い改めるばかりである。

そして、その絶妙なる時に、我が国にラインホルト・シュナイダーを紹介された下村喜八氏と出会った。シュナイダーはナチス時代にキリスト教徒の反ナチ・反ファシズム抵抗文学者の代表的人物で、私は初めてそれぞれの時代に生きる人間の在り方というものを考えさせられている。

シュナイダーは、「時代が抱える問題がどれほど深刻であっても、そこから逃げ出すことは許されない。なぜなら人間はまさにその深刻な問題によって呼び出され、それによって人格が細部にわたって形作られる」と語っている。

そして下村氏は、著書『生きられた言葉 ラインホルト・シュナイダーの生涯と作品』で次のように述べている。

「世界の歴史もアドベントである。歴史は最後の審判と救いに向け進んでいる。しかしやはり世界も眠っていて、何を病んでいるのか認識しようとしないし、病気の苦痛が世界のなかに発見する悪しきものに立ち向かおうとしない。病人のなかで起こっていることは、実は世界のなかでも起こらなければならないのである」。

今、日本の政治が大きく動いている。再び愚かな歴史を繰り返すのではないかと、罪深い人間の本質と限界を見る思いで絶望しそうになる。

しかし、主義や立場の違う多くの人々が、憲法を無視する独裁政権と戦争法案反対のために自ら立ち上がったのである。安倍内閣は戦争法案を強行に可決させたが、彼らの愚行が政治に無関心だった国民を目覚めさせた。私はここに『リア王』の最後でシェイクスピアがエドガーに語らせているところの希望の光を感じるのだ。

老王リアが言葉によって三人の娘たちの愛情を試して王国を分割しようとした時、リアは末娘コーディリアの真心が信じられず、偽善も明白な長女ゴネリルと次女リーガンの歯の浮くような賛辞を信じて領土と王権を二分した。

その後、ゴネリルとリーガンはリアを虐待して追放し、リアは計り知れぬ苦難により狂乱の姿で世を呪い、嵐の荒野を彷徨う。最後にリアとコーディリアは再会するも、コーディリアは殺されリアも死を迎えるという悲惨な結末で終わる。

しかし、悪を重ねてきた次女リーガンは長女ゴネリルに毒殺され、ゴネリルも自殺して果て悪も滅ぶ。

そして、エドガー(グロスターの嫡子)はリアの死を見てもまだ希望を捨てず、「我々はリアの本然の声に謙虚に従って、この時代の圧力に耐え抜いていくのだ」と、この劇の結びをエドガーに語らせている。

私はここにシェイクスピアが彼に国家の回復を託していることを読み取るのだ。つまり悪の増大と共に善もまた動き出したという希望をだ。

私たちも最後の最後まで諦めてはならない。「たとえ明日世界が終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える」のである。このたびのことが日本の真の民主主義の目覚めという歴史的な時となるように、私もこの時代に生きるキリスト者として目覚めて戦いたい。

 「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。
            (ルカによる福音書 19章40節)

「ふたたび『銃口』が背中に当てられる時代がきた。今度はキリスト者として目覚めて戦いたい。権力への恐れやへつらいから最も弱い者を二度と犠牲にはしない」。
                       (三浦綾子)
                           (2015年9月19日)


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2016年03月06日

「剣をとる者はみな、剣で滅びる。」 −『種を蒔く』3号掲載文 B−

     「剣をとる者はみな、剣で滅びる。」
                          藤本 優子

1990年6月、日本クリスチャン・ペンクラブの全国集会が奈良で開かれた時、田中芳三氏が「この道はいつか来た道」だと警鐘を鳴らしておられたことを今も鮮明に覚えている。

そのことがきっかけになって日本の現在と未来に目を向けてきたが、今や一党一強で野党不在の政治状況で戦争前夜を思わせる歴史的節目に立っている。

政府のやり方を糾弾すべき立場のマスコミは官邸にコントロールされ、安倍政権を批判する人はメディアからシャッタウトされている。

そんな6月4日、衆院憲法審査会が3人の憲法学者を招いて参考人質疑を行った時、自民党推薦の学者までもが、他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認の安全保障関連法案は「憲法九条に明確に違反している」との認識を表明した。

このことに驚くこと自体が現在の状況を物語っているのだが、もっと驚いたことは、それに対して菅官房長官が「違憲との指摘はあたらない」と述べ、安倍氏もまた「憲法違反ではないと確信している」と反論したことだ。彼らは学問や学者を何と心得ているのであろうか。ここに現内閣の狂気が顕になった。

多くの人々が反対行動を起こしているにも関わらず彼らの勢いは一向に衰えず、私は徒労感と無力感に打ちのめされそうになる。

こうして人々は権力に呑み込まれて時代に翻弄されていくのだろうか。このままでは衆院で強行採決されてしまう。こんなことを許していれば次は「大本営発表」となりかねない。

かつて独裁者ヒトラーを生み出す温床になったのは、当時のドイツ国民にヒトラーの台頭を可能にする危険なメンタリティーがあったからであり、この徒労感と無気力が化け物を作り出してしまったのである。

マルティン・ニーメラー牧師(神学者)の悔恨の告白が私たちの心に鋭く訴える。

   ナチスが共産主義者を攻撃したとき
   自分は少し不安であったが
   とにかく自分は共産主義者でなかった
   だから何も行動に出なかった。

   次にナチスは社会主義者を攻撃した
   自分はさらに不安を感じたが
   社会主義者でなかったから何も行動に出なかった。

   それからナチスは
   学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し
   自分はそのたびにいつも不安を感じたが
   それでもなお行動に出ることはなかった。

   それからナチスは教会を攻撃した
   自分は牧師であった
   だから立って行動に出たが
   その時はすでにおそかった。

   そして、彼らが私を攻撃した時
   私のために声をあげる者は
   誰一人残っていなかった。

日本を戦争のできる国にしようとしている人々に厳粛な気持ちで問いたい。
第二次世界大戦で亡くなった日本兵212万人と、民間人50万から100万人にも及ぶ人々の死はいったい何だったのか。

しかも原爆まで投下され、犠牲者の地獄の苦しみを知りながら、またしても戦争のできる国にするというのか! 犠牲者たちのことを本当に肝に銘じているならば、どんなに時代や世界状況が変わろうとも、越えてはならない一線がある。

イエス・キリストが、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる」と教えられたことが絶対的真理だ。これこそが踏み越えてはならない一線であり全てに勝って最善なのだ。

今は理解することも判断することもできない子どもたちのために、大人は真理を見極めて命がけで阻止しなければならない。どうか反対を叫ぶ働きが大きなうねりとなって政府の暴走を止めることができるように、神の憐れみにすがって祈るばかりである。

                      (2015.6.20)

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2016年03月05日

神に用いられる今関信子さん

今朝の最低気温は8度と昨日よりも一気に7度も上がり、日中は4月並のポカポカ陽気になった。

さて、私たちのペンのお仲間に児童文学作家として活躍されている今関信子さんがおられる。『種を蒔く』3号にも「敗戦後70年の節目の年に」と題する一文をご寄稿下さり、『キムの十字架』と『国をつなぐ奇跡の鳥クロツラヘラサギ』から心に響くメッセージを寄せてくださった。

昨年11月に出版された『国をつなぐ奇跡の鳥クロツラヘラサギ』が「敗戦後70年の節目の年を意識して」書かれた作品だ。

「敗戦後70年の節目の年に」には、
「2015年、日本国憲法は発言の自由を保障しています。あの時とは大きくちがう状況の中で、キリスト者の私は、いかなる言葉を発し、いかに行動していくのか。祈りつつ考えています。
              (略)
危うさの中のわずかな平和。『平和こそ』の思いを強くする姿が、垣間見られます。平和を作り出す者へ注がれる主のまなざしを感じつつ、ペンを握り直す思いです。」

と書いておられる。

米原市チラシ.jpg滋賀県の新聞には久保田暁一さん同様にたびたび紙面に登場する著名な方だ。
同じペン仲間がチラシのコピーを送ってくださって知ったが、明日は長浜市・米原市・長浜市教育委員会・米原市教育委員会主催で開催される湖北母親大会で記念講演される。

3月8日附記:この日、会場に「満席80人が参集の中で熱弁でした」とペン友が伝えてくださった。時には1日に3度の講演をされるとお聞きして驚いてしまった。
今関信子さんの尊いお働きを神さまが豊かに祝してくださり、健康を強めて守ってくださるように祈ります。


もうかなり前のことになるが当市の図書館でも公演されたことをお聞きしている。
私は是非、孫が通っている小学校にお招きしてクロツラヘラサギのことを語っていただきたいと思っているので、知子がPTA委員を引き受けねばならない時を手ぐすね引いて待っている。
この学校での当該委員会名は知らないが、是非その分野で教育活動に関わってほしいと思っている。

昨年9月の例会の帰り道でお聞きしたところ、毎朝4時に起床され7時までを執筆時間に当てておられると言う。その後、朝食や家事。9時になるといろんなところから電話が入り活動的な一日が始まるとのこと。

あの華奢なお体のどこにあのようなパワーがあるのか。情熱の塊、いつも全力投球、真剣に、時には顔中笑顔で語られる姿は圧巻だ。
そのような方ゆえに多忙な日々に在っても細やかなお心づかいされ、このたびもすぐに労いのお葉書を落手した。私もかつての精神を思い起こし襟を正された。

主にありて
「種を蒔く」が届きました
労をとって下さってありがとうございました。
いい一冊になりましたね。
目を通して、私は いい方々と交わりを持たせているのだなあと 
心から感謝しました

私は涙が出るほど嬉しく、私こそこのような方と、また方々と親しくお交わりさせてくださる神さまに心から感謝した。
今関信子さんの健康を守り支えてくださるように祈り続けたい。

拙いながら『キムの十字架』については「文章を書く者の真髄 ―日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会―」に、『国をつなぐ奇跡の鳥クロツラヘラサギ』については、「戦争と平和を考えさせられた『国をつなぐ奇跡の島 クロツラヘラサギ ―日本・韓国・朝鮮の架け橋』」に記している。

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2016年03月04日

なぜこんなことが! 上村遼太君のこと −『種を蒔く』3号掲載文 A−

      なぜこんなことが! ― 上村遼太君のこと ―
                              藤本 優子

2015年2月20日、川崎市の多摩川河川敷で中学1年生の上村遼太君が殺害され、深い悲しみに襲われた。容疑者の目星はついているのになかなか逮捕に至らなかった間、私は何度もシェイクスピアの『マクベス』を思い起こしていた。

王座につくためにダンカン王を殺したマクベスは、良心の呵責で血に染まった両手を見て恐怖した。マクベスの妻もまた不安に苛まれて夜中に起き出して、「血が落ちない」と手を洗う仕草を繰り返し、「まだ手から血のにおいが消えない、血のしみが消えない」と精神を病んで発狂して死んでしまった話だ。

完全犯罪をして笑っていたマクベス夫妻は、誰が彼らを告発しなくても彼ら自身が自らを告発し、良心の声に苛まれて廃人になっていった。しかし、遼太君を殺した犯人たちは罪意識に苛まれることもなく、そのことが私の悲しみを一層深めた。

私は遼太君の不条理極まりない死をどのように理解すればよいのかわからなかった。これまでも「通り魔殺人」など理不尽な事件が起こるたびに悲しみと義憤を感じたが、私は今一度、上村遼太君の悲しみの淵で神さまに問うた。

率直に言うならば、今まで教えられてきたことを根底から考え直さずにはいられず、根源的な疑問が再び吹き出したのだ。

つまり地上で起こっていることは全て神の許しがあってのこと、という教えに疑問を感じたのだ。「気まぐれな傍観者にとっては」、この説明で「気がおさまるかもしれないが」と語るクシュナーの弁に共感した。


クシュナーはユダヤ教徒で、『善良な人に悪いことが起こる時』(日本語のタイトルは『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』)の著者だ。

私は「なぜこんなことが!」という不条理に対して納得できる答えを見出せず、「世界中で起こっている事は神の責任ではなく、巡り合わせである」とするクシュナーの説に共感するも、それでは満足を得られなかった。

そんな悶々とする日々を過ごしていた時、ふと『リア王』の結末を思い出した。リア王の激しい嵐が止んだ時、リーガンはゴネリルに毒殺され、ゴネリルも自殺して悪は滅んだが、コ―ディリアの善良な犠牲者も出たという話だ。

つまり「悪」は厳然として存在し、一旦「秩序」が破られて解き放たれた「悪」の力はドミノ倒しのように行く所まで行くということと、悪がもたらす破壊と跡に残る無垢な者が受ける苦難と悲惨という痛ましい帰結。その理屈が私の呻きを止めた。 

シェイクスピアはここで、「悪」の増大と共に「善」もまた動き出していたという希望をも描いており、私はそこに見失いそうになっていた希望を感じたのだと思う。つまり全てを支配されている神が厳然として存在しておられるということを、もう一度確認したのだ。 

かつて私は『ヨブ記』をむさぼるように読んだ時期があった。人の一生には自分の責任とは無関係の苦しみがあり、しかも悪を行っている者が栄えているのは何故かという問題に七転八倒していた時だ。

半生を弱い人々のために尽くしてきた母が無情な神経難病を負い、かたや他者のことなど全く顧みない人々に安穏な生活がゆるされている。

この道理に合わない現実に苦しみ、かくて苦悩の果てに辿り着いた境地は、神の責任論については人間の理性を超えることであり、神の領域であることを納得させられて主の平安をいただいたのであった。


  「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、
  わたしはわが力の及ばない大いなる事と
  くすしきわざとに関係いたしません。
  かえって、乳離れしたみどりごが、
  その母のふところに安らかにあるように、
  わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。
  わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです」。
                 
                 (詩篇131篇1・2節)

しかし、この思いを受け取るまでに人はどんなに苦しむことか! 
こうして10年にも及ぶ年月を要して神の恩寵を知る者とされたのに、このたびの上村遼太君の死はそのことをも忘れさせるほどの悲しみだった。


「私たちが抱く同情や義憤は、神の愛や神の怒りが私たちを通して現れたものであって、神の存在を示す最も確かな証明ではないだろうか。」と、クシュナーの言葉に慰めを覚えるが、加害者たちの罪意識の無さは文明が進めば進むほど歪んでいく人間の姿であろうか。

これから悲しみと苦悩の長い道程を歩まねばならない遼太君のご両親が、神さまと出会うことができるようにと祈るばかりである。
                         
                          (2015.4.18)

昨日の記事の「附記」にリンクした2015年3月6日の記事に記している光景と感情は、今も昨日のことのように鮮明に思い出される。

あまりに美しいので立ち止まった時、制服姿の上村遼太君が笑っている元気な姿を見たと思った瞬間消えてしまい、私は周囲をキョロキョロして捜していた。春がそこまで来ているのに遼太君はもういない。加害者の底なしの罪深さを思う。

以下は、2016年2月4日の朝日新聞デジタル版・「上村遼太さんの母親の意見陳述要旨」を転載したものである。

兄弟で一番小さい3300グラムで生まれました。夜泣きせず、よくおっぱいを飲む子でした。よく笑い、よく眠り、とてもおとなしい子でした。特に体が弱く、ぜんそく持ちでした。正月に入院したこともあります。

遼太が年長のときに隠岐に引っ越しましたが、友達をたくさんつくり、すぐに島に溶け込みました。夜中にぜんそくがひどくなり、病院に連れていかないといけないこともありました。せきがとまらず、病院で点滴を打ちました。その時は本当に生きた心地がしなかったです。

お調子者で争いごとは好きではなく、周りをちょろちょろして、いつもにこにこしていました。授業参観では何度も後ろを振り返ってにこにこするので、「前を向いて」と注意しました。そんな遼太がかわいくて仕方がなかった。

3年生で陸上を始めて、800メートルの選手に選ばれました。「ママ、絶対見に来てね」と言っていたので、当日は張り切ってお弁当を作り、見に行きました。いよいよと、こちらまで緊張しました。スタートと同時にあっという間にトップに。独走しそのままゴールへ。

興奮して「遼太!」と叫び、泣いてしまいました。周りの保護者に「もらい泣きした」と言われ、遼太もそのことを作文にも書いていました。題名は「走るのだいすき」。最近久しぶりにその作文を呼んで涙が止まりませんでした。

自信がついたのか、「ミニバスをやりたい」と言い始めました。剣道と両立できるのかと思いましたが、弱音を吐かず、頑張っていました。その頃から「ママ」と呼ばず「かあちゃん」「おかあさん」と呼ばれるようになり、少し寂しい気持ちになりました。

高学年になると、剣道との両立が難しく、剣道はやめました。ミニバス中心の生活はハードで疲れていたと思いますが、弱音を吐かずにまじめにやっていました。私たちは親ばかとマザコンで有名でした。バスケの後、必ず「かあさん、ぼくどうだった」と聞いてきました。5年生の秋にはキャプテンになりました。自慢の息子でした。

元夫と長女のことで悩み、家に引きこもっていた時期がありました。そんな時、友人のお母さんから「遼太君をちゃんと見てあげて。お母さんがそんなだと遼太君がかわいそうでしょ」と。それからはバスケに保護者として積極的に関わるようになり、遼太のおかげで立ち直ることができました。

隠岐大会で優勝し、県大会に出場しました。優勝カップを持った遼太と撮った写真が1番のお気に入りでした。その後、元夫がいて耐えられなくなり、川崎に引っ越すことにしました。「母さんと一緒に行く」と言ってくれたが、かわいそうなことをしたと思います。

川崎に行ってからも友人をいっぱい作っていました。私もパートと夜のアルバイトを頑張りました。実家に戻ったので、母子手当などが打ち切られ、親の年金で生活するわけにもいかず、正社員で働ける職場を探し、実家を出ました。

その頃、交際していたTさんと生活するようになり、お互いに働いていました。遼太は「Tくんといるといつも家がきれいでいいね」とか言ったり、こっそりTさんの服や靴下を身につけたりして、遼太なりにTさんのことを認めているんだと思っていました。

バスケに打ち込んで、土手を走りに行ったり、公園で練習したりしていました。中学入学後、元夫が携帯を買い与え、深夜まで友人とやりとりしていたようでした。夏からは深夜に帰ってくるようになり、私は早番や残業があったりして会えないこともありました。

新学期になり、電話をかけても出ないことがありました。これは捜索願をだそうかと思った頃に遼太は帰ってきました。遼太とちゃんと話したいと、Tさんと兄、遼太と私の4人で「なんで学校に行かなければならないんだ」ということを話し合いました。学校はしばらく休んでいいから、門限は守って帰って、ご飯を一緒に食べる約束をしました。その頃に日吉事件が起きました。

遼太の顔がはれ、口の中が切れていたので、「病院に行こう」と言うと「目は見えるし冷やせばいい」と言いました。何度も病院に行こうと言いましたが「腫れていても大丈夫」と拒む遼太に、子ども同士でもいろいろあるから触れてほしくないのかなと思い、あまり触れるのを止めました。

私が「長く休むと学校に行きづらくなる」と言っていましたが、私は子どもより早く家を出ます。制服や弁当の準備をして出ますが、遼太は制服を着るけどなかなか出られずにいたようです。「大人になったら母さんに家を買ってあげる。楽しみにしててよ」と言っていました。でも「あ、でも学校行ってないから無理かな」と笑っていました。

2月19日夜、遼太がパンを焼いてくれ、「ジャムでしょ」と言われ、パンの上にジャムがやたらと載っていたのを覚えています。「寝るね」というとパーカを着始め、外に行こうとしました。私は「何調子乗ってんの。いい加減にしろ」と言いました。遼太は振り返って、何も言わず家を出ました。それから遼太は帰ってきませんでした。

朝から仕事に行ったため、ニュースは見ていません。刑事さんが家に来て、遼太のことを聞いてきました。「昨日の夜何を食べたか」など聞かれ、刑事さんは外に出て電話をしていました。電話を終えて戻ってくると、刑事さんは「多摩川で事件があり、お母さんに確認してほしいことがある」と言いました。

その瞬間、何が起きたのか分かりました。長男が何かあったことに気づいて出てきて、「自分が確認します」と言って確認してくれました。自分に何が起きたのかよく分からない。Tさんが私の代わりに話を聞いてくれ、支えられて立っていたことを覚えています。

警察署で遼太の顔を見ると寝ているようでした。顔の傷口にはテープが貼られ、傷は隠されていました。鼻やおでこに傷があり、髪が刈られていました。体には布がかぶされていて、「体は見ない方がいい」と言われました。「見ない方がいい」と言われた理由に気づき、涙が止まりませんでした。遼太の目は少し開いていて、何度も閉じようとしましたが閉じず、その時の顔が今でも忘れられません。

23日に遼太は家に帰ってきました。バスケ部のユニホームを着させ、傷を隠すためにアンダーウェアやネックウォーマーも買ってきて着せました。とてもかっこよかった。気づいたら身長も私と同じくらいまで伸びていました。「母さん、母さん」と起きてきそうでした。

報道で好き勝手なことを書かれ、子どもたちも学校に行きたくないと言いました。川崎の家は遼太が残した汚れがあり、離れたくなかったのですが、離れることにしました。なぜ私たちがこんなにつらい目に遭わなければならないのか。そう思いました。

家裁の少年審判を傍聴したときは、遼太のために何が起きたのかを知らなければいけないと思い、覚悟をして行きました。内容はとてもひどいものでした。人のすることではなく、聞くに耐えないことでした。

一昨日の裁判の日までは遼太がどんなふうに傷つけられたのか知りませんでした。首、腕、足、身体のいたるところにある傷。いつも笑っていた遼太は残忍なことをされました。どれだけ怖かったか、という気持ちが大きすぎて許すことはできません。なんで誰も止めてくれないの。なんで、なんで、ばかりでした。

遼太が自分から服を脱いだことを聞き、服がぬれていたら私が大騒ぎすると思ったのかな、学校で習った着衣水泳で泳ぎにくいと思ったのかな、などと考えると胸が締め付けられる思いでした。

暴行を受けた後、2月の寒い中、遼太が23・5メートルを移動して必死で家に帰ろうとしたと思うと、どんなに怖かっただろうと思います。自分が生きていることが許せません。まだまだ子どもでいつも私の側で笑っていました。遼太のいないつらさをこれからどうしたらよいのか。結婚や子どもができて大人になっていく姿を見ることもできません。遺骨になってしまった遼太は友達と遊ぶことも、ゲームをすることもできず、人生の全てを奪われてしまいました。

できるなら遼太が味わった怖さ、痛さの全ての苦しみを犯人に味わわせてやりたい。犯人に言いたいことは一つだけ。「遼太を返してほしい」ということです。以上です。


先月2016年2月10日の裁判員裁判で、横浜地裁は無職の19歳少年に対し、懲役9年以上13年以下の不定期刑とする判決を言い渡した。

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2016年03月01日

「地の塩」 後藤健二さん −『種を蒔く』3号掲載文より @−

ついこの前新しい年を迎えたかと思えば、はや3月になった。
そして、日本中を震撼させた後藤健二さんの死から1年1ヶ月。あの衝撃を通して改めて認識を強くされたことがある。

それは、見たこと、知ったことについては、倫理的義務が生じる。紛争についてはその場に行かなくても報道で知っている。だから、われわれは直接的であれ、間接的であれ関係していかなければならない」という、桜美林国際学研究所の加藤朗所長の言葉だ。

後藤さんも、「僕たちは、同じ地球上で同じ時間を生きている。どんなに遠くても距離は関係ない。同じ時を過ごしている人々のことは、僕たちの問題として関わるべきだ」と語っていた。

そして、「どんな困難な状況下にも人々の日常があり、そこには『小さな幸せ』がある。その『小さな幸せ』を見ることができるから、僕は取材を続けられるのだ」と。

後藤さんを偲びつつ『種を蒔く』3号に掲載していただいた拙文をここに刻んでおきたい。

         「地の塩」 後藤健二さん
                                藤本 優子
21世紀に入ってから「テロ」が頻発し、今や世界は制御不能となって崩壊に向かっているように見える。

1月20日、夕食の用意をしているとラジオから、IS(イスラム国)と称する中東の武装集団が日本人2人を拘束したというニュースが飛び込んできた。私は尋常ではない衝撃を受けて震え上がった。その夜は、ただただ「お守りください」という祈りしかできなかった。

その翌日、拘束された1人がクリスチャンであることを知り、新たな衝撃が走った。ジャーナリストの後藤健二さんは、昨年4月にシリアで別の武装集団に拘束されていた湯川遥菜さんを救い出したことから交流を深めていたという。そして、「助け出せるものなら、もう一度助けたい」と、湯川さんを助けるべく危険地域へ入って行ったそうだ。

私は長い沈黙のあと、後藤さんを通して湯川さんに主の平安と救いがあるように、いや、それだけではなく、周囲の過激組織の人々にも神の導きがあるようにと祈り始めた。

1月24日夜遅く、湯川さんが殺害されたことがわかった。そして2月1日、日曜日の朝5時半頃、ラジオの声で目が覚めた。アナウンサーは、午前5時過ぎに後藤さんが殺害された動画がネット上に配信されたことを繰り返していた。

私は隣のベッドで寝ている夫に告げ、隣室のテレビをつけた。
「ひどい」「ひどい」「神さまは助けてくださらなかった」。私は小さな声で途切れ途切れにつぶやきながら立ちすくんでいた。ご遺族の思いは想像を絶する。私でさえ数日間体調を壊して寝込んでしまった。
 
この地球上でこのようなことが起こっているとは! 人間の底なしの罪深さ! 過激集団の残虐さのみならず、インターネットという利器のおぞましさ! その動画を瞬時にして世界に流し、終わることなく繰り返す。

後藤健二さん、怖かったであろう。どんなに怖かったであろうか。一撃で殺されるのでさえ想像を絶するのに、あの恐怖に何日間も晒されての残虐極まりない最期。後藤さんはあの時もずっと主の御名を呼び祈っておられたにちがいない。

「ある国の平和も、他国がまた平和でなければ保証されない。この狭い相互に結合した世界では、戦争も自由も平和も全て連帯している」。これはネルー首相の言葉であるが、今ほどこのことを実感したことはない。

各国の首脳は「テロには屈しない」と言うが、それは復讐の連鎖を重ねることでしかない。しかしまた、このような残虐集団をそのまま放置しておくことはできず、この恐怖支配の拡大を防ぐためには軍事力で反撃するしかないのではと、いつもここで考えが行きづまってしまう。

世界になぜ平和が実現しないのか。平和の問題は私たちが日常生活で経験することと同じことだと思う。家庭や学校、近隣や職場での衝突も全て同じ線上の問題であり、クリスチャン同志でさえ主にあって一つになれないのが人間の実相ではないだろうか。要は考え方の相違が問題なのではなく、相違をどのように乗り越えていくかが問題なのだ。 

後藤さんは、「『神は私を助けてくださる』(詩篇54篇6節)という言葉を心に刻み込んで」仕事をしておられた。

「取材に訪れる場所は、耐えがたい困難がある。その中で人々が暮らし、生活を営んでいる人たちの暮らしと心に寄り添いたい。それを世界に向けてその様子を発信することで、何か解決策が見つかるかもしれない。そうすれば、私の仕事は成功ということになるのではと思うのです。」と語っておられた。このような人物ゆえに聖霊が働かれて友の救出に向かわせたのだろう。

後藤健二さんはまことに「地の塩」であった。後藤さんの成されたことはこれからも「地の塩」として、社会や国家の良心となって世界の腐敗を食い止めて行くことであろう。

神さまは後藤さんの死を「一粒の麦」として豊かに実を結ばせてくださると信じる。この信仰こそが真の「テロには屈しない」ということであり、それゆえに世界がどんなに暗闇を深めていこうとも諦めないで、後藤さんの意志を継いでいく者でありたい。

「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである」。

                 
                (マタイによる福音書5章13節)
                             (2015.2.21)

一昨日の礼拝後、『種を蒔く』3号を木ノ脇牧師に、教会の方々には押し付けにならないように今回はお読みくださりそうな方々にお渡しした。そして今朝、8名の方々に郵送し近隣の方にもお届けした。

3月とはいえ今朝は氷点下で洗濯物を干す指先が痛くなる冷たさだった。日中も7度までしか上がらず夕方には雪が舞った。明朝はさらに−3度の予報が出ているが、翌3日からグンと春めくそうだ。


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