2017年02月15日

渡辺和子さんの学園葬 −父を殺した人の墓前で祈る―

" Unless change,nothing changes."
「あなたが変わらなければ、何も変わりません」。

01yuri2b.jpg昨年12月30日に89歳で帰天したノートルダム清心学園理事長、渡辺和子さん(修道女名:シスター・セント・ジョン)の学園葬が12日、岡山国際ホテルで行われた。

以下は『クリスチャントゥディ』2月13日更新の「渡辺和子さんの学園葬に3500人」より抜粋したものに父と子の写真を加えたものである。

image[5].jpg学園葬は追悼ミサとお別れの会の2部構成。同学園の卒業生をはじめ、財界、各宗教界から約3500人が参列した。
親族代表として、渡辺さんと7つ違いの姪、小林依子さんが言葉を述べた。渡辺さんが母親の猛反対を押し切って受洗した直後は、一緒に疎開生活をしていたこともあるなど、幼少期は姉妹のように仲良くしていた。

昨年10月末に入院したとき、渡辺さんは「私は修道院に帰るべき」と退院を強く望んでいた。そして12月19日に退院する前、小林さんに「私、お父さんの子でよかった」と話したという。

渡辺錠太郎と和子.jpg渡辺さんの父親は陸軍教育総監だった渡辺錠太郎氏。
1936年、「二・二六事件」で青年将校に襲撃され、自宅の居間で命を落としたが、その様子を渡辺さんは間近で目撃していた。

母は5時に起きて、二人のお手伝いさんに雨戸を開けさせたりしていました。襲撃のあったときは6時前だったと思います。

激しい怒号でトラック一台(に乗ってきた)三十数名の兵士が門を乗り越えて入ってきました。玄関のガラス戸に銃弾が撃ち込まれたようでした。父は左の襖を開けて戸棚の拳銃を手にして、覚悟していたものと思われます。

「和子はお母様のところへ行きなさい」と言いました。これが私に対する父の最後の言葉でした。

母のところへ行きましたら、母は玄関で兵を入れまいとしていたために、私は父のところへ戻ったのです。そのとき既に弾が寝間に撃ち込まれていました。

私は銃弾をかい潜って父のところへ行きました。父は掻い巻き(かいまき)を身体に巻きつけてピストルを構えていました。

私が戻ったので父は困った顔をして、目で籃胎座卓の後へ隠れるよう指示しました。私はそこに隠れました。開けられた襖から見えた機関銃の銃口が父を狙っているようでした。

父はドイツ駐在武官時代に射撃の名手だったので、ピストルで応戦しましたが、片脚は殆ど骨だけでした。
玄関から入れなかった高橋、安田少尉が外へ回って、開けてあった縁側から茶の間に入ってきて射撃をして、トドメを刺して引き上げて行きました。

母が玄関から戻ってきて「和子は向こうへ行きなさい」と言いました。午後になって検視のあと父の頬に触れましたが、とても冷たかったのを今でも覚えています。姉は、父が銃弾43発を受けたと言っていました。

父の脚は骨だけで肉片が座敷に散らばっていました。
憲兵二人は二階に泊まっていました。
兵隊たちは斎藤内大臣を殺害したあとに来たので、なぜ電話が無かったのかと思っています。電話があったという話もありますが、電話の音は聞こえませんでした。電話があれば父を久保家(長女の嫁ぎ先で2〜3軒隣り)に隠すことが出来たのではなかったかと、今でも思います。

血の海の中で父は死にました。
あのとき逃げ隠れしないで死んでくれて、それでよいのだと思っています。

死の直前、私を隠してくれた父を思い出すのです。雪の上に点々と血が残っていました。その血の赤さは今も私の頭に焼き付いています。

安田少尉は近所に住んでいたから、家の構造を知っていたのではないかと思います。表玄関から入れないので裏へ回ったのでしょう。

兄二人は子ども部屋に監禁されていました。母は兵士を阻止していたので私一人が戻り、父が、自分が死ぬ場面の見えるところに隠してくれたので相手も気づかなかったらしいのです。私は送り人ならぬ看取り人になりました。

兵士たちが入ってくるのをちゃぶ台の後ろから私は見ていたし、引き上げるのも見ていました。ちゃぶ台には銃痕がありますが、それが私を守ってくれたのです。


「二・二六事件 『父渡邉錠太郎と私』の講演から」より引用。

式には、「二・二六事件」で渡辺総監にとどめを刺したとされる青年将校の弟、安田善三郎(91)さんも出席し、献花をした。

事件から50年後の1986年、青年将校らの法要に渡辺さんが初めて訪れたとき、偶然、安田さんが案内することになった。その人が渡辺総監の娘であることを知り、安田さんは涙ながらに謝罪。

その後、手紙などを通して交流が始まった。渡辺さんが関東地方に講演などで来るときには、安田さん宅を訪れ、食事を共にしたこともあった。

やがて渡辺さんに導かれるように、1991年、神奈川県内のカトリック教会で受洗した。現在もミサを守り、自宅では聖書を読むことを欠かさないという。

「私は、シスターの姿にキリストを見たような気がしている。どうして、自分の父親を殺した犯人の墓に手を合わせたり、その弟の私と食事を共にしたりするようなことができるだろう。私は、シスターの100分の1、千分の1にも満たないが、あのような人になりたいと思った」。

「渡辺さんとの会話の中で、思い出深い聖句は?」と尋ねると、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)を安田さんは挙げた。

渡辺和子さんの御遺骨は、父・錠太郎氏が眠る多磨霊園(東京)に納骨される。

附記:2016年最後の記事に「渡辺和子さん召天」を記している。



「自分を愛するということ」:13分間のビデオです。

posted by 優子 at 18:20| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2017年02月14日

クリスチャン経済学者・浜 矩子さんを励まし励まされて!

今夕、5時半から紙文具流通センター(美濃紙業の界隈)で浜 矩子さんの講演会があった。

私も是非出席するつもりで申し込んでもらっていたが、1月末(株主総会)に続いて再度ユキを早退させて東大阪まで同行してもらうことに躊躇し、インフルエンザも流行っているので数日前に断念した。

拝聴した知子は講演後ただちに浜さんの後を追い、1分間にも満たない時だったが言葉を交わし、それはそれは嬉しそうに玄関に入ってくるなり語った。

「今日は講演会に行ってよかった! 
『私もクリスチャンです。』と言った時、見る見るうちに優しいお母さんのようなお顔になってね」。

「『いつもテレビで拝見していますが、神さまに祝福されたお働きをこれからも応援し、お祈りしています』と言ったら『ありがとうございます』って言って下さって」。


こんなに満たされた知子の安らかな笑顔を見るのは何か月ぶりだろう。浜さんの人柄にふれて癒され励まされたのであろう。

いつだったか知子とBSフジの討論を観ていた時、私たちは浜さんの人格に感銘を受けた。出演者の一人は自分と違う意見を聞く時の無礼さと、反論の仕方も実に高慢で醜い姿を晒す人だった。

浜さんはそのような相手にも左右されず、相手の話に真摯に耳を傾け、冷静に話され、学識だけではなく本物の謙虚さがとても印象的だった。以来、私たちは浜 矩子さんの動向を見守り祈りに覚えるようになった。


そして、知子は続けた。

「私たちは経済学は全くわからないけれど、ママが言ってたことと同じやった!!! そして、ピリピ人への手紙にある御言葉(みことば:聖書の言葉)に似た言葉で話しておられたから、結果的に言葉を変えて伝道しておられるんだと思った」。

以下は、夜遅く帰宅した知子シェアーしてくれたことの一部だ。
トランプ大統領と安倍首相は(感情を抑えられない)幼児的狂暴性という共通点がある。今すぐ言いたいと自己抑制できない。知性がない。

トランプは引きこもり型の幼児的狂暴性で、安倍は拡張主義的な狂暴性で「自分が一番、世界一になりたい」とドンドン出て行く。

経済的国家主義で人が追いやられていく。そのような経済政策を振り回すのはダメだ。経済には託された使命がある。
それは均衡改革と弱者(年収120万未満の人)救済だ。これにおいてこそ表裏一体だ。今日の講演のテーマは「内外景気の先行きを読み解く」だか、そんなことを言っている場合ではない。

誰も一人で生きていけないのに弱肉強食だけが支配している。人のために泣ける人々による営みが経済学であるとアダム・スミスが言っている。

弱者救済、誠実に働く人を報いることは知子が経営改革の第一に据えていたものであり、経済学が掲げる崇高な理念を実現させたのだと深い喜びを感じた。

ところでトランプさんの大統領就任式以来、数日前までニュースの冒頭は常に朝昼晩ともに、「アメリカのトランプ大統領は」だったことに気づいている人はいるだろうか。

安倍さんの先週の訪米以来トランプさんの言論は軟化したが、いずれにしても困った状況だ。私も浜さんが言われた通りのことを感じていた。

それは当初思ったことと同様で、アメリカが「防衛力を強化せよ」と圧力をかけてきたら安倍さんのやりたいことと合致し、安倍さんはますます勢いづいて強権的に日本を悲惨な方向へ引っ張っていくということだ。困った同類の友を得たものだと心配している。

浜さんが語る聖書を引き合いに出しての経済評論は実に深い。それはクリスチャンの経済学者である浜さんでしか語ることのできない内容だ。

安倍内閣が安保関連法案を強行採決したことにも強く抗議し、成熟度の低い人間は意固地になり強権的になって崇高なる平和の誓いを脅かすと、「今こそ、子どもじみた振る舞いとの決別の時がきた」とパウロの言葉を引用して話されたこともあった。

「神の国を果樹園に見立ててキリストが弟子たちに語ったたとえ話(マタイ20:1〜16)に、『弱い者が不平をいう競争経済と、強い者がやる気をなくす分配経済との関係』。

また、ルカによる福音書11章11〜13節を引用して、実際の経済と政策では『魚ならぬへび、卵ならぬさそりを子どもに与えて悲劇を呼んだ事例は、経済史の中においてあまりにも多い』」。


知子は浜 矩子さんの人柄に直に触れて大いに励まされて帰宅した。神さまに感謝! きっと浜さんも同じように神さまからの励ましを感じられたことであろう。

闇の夜に一筋の光を灯し続けている浜矩子さん。
世に広く発言の場を与えられて用いられているクリスチャン・学者のために祈ろう。


2017年3月4日追記:
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posted by 優子 at 23:26| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2017年02月12日

家の教会2017E −嵐を静めたもうイエス―

IMG_2419.jpg2017年2月12日(日) (2017第6回 家の教会)

10時30分〜11時10分
出席者 3名(Except T)

@ 主の祈り  
A 讃美歌     461番 「主われを愛す」
B 聖書輪読    マタイによる福音書 8章23節〜
                       27節
C お話      優子
D お祈り     一人ずつ
E 聖歌472番 「人生の海の嵐に」

マタイによる福音書 8章23節〜27節:
8:23それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
8:24すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。
8:25そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。
8:26するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。
8:27彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。

お話:
先週は悪霊にとり憑かれてどうしようもなくなっていた人を静められたお話しでしたが、今日は自然界の暴風や海を静められたお話です。この奇跡をマルコ(4章35節〜41節)とルカ(8章22節〜29節)も書いています。

ある日、イエスさまは弟子たちに「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と仰って沖に向かいました。ところが、突然激しい暴風が吹いてきて舟が転覆しそうになりました。

ガリラヤ湖の水面は地中海よりも低くて、周りを高い山に囲まれてるので、時に冷たい空気が山から吹き降ろしてきて暴風が起こることがあるのです。

ところがイエスさまは眠っておられる。イエスさまの眠りは神と共にある平安の象徴です。弟子たちはイエスさまを起こして「助けてください、わたしたちは死にそうです」と叫びました。

イエスさまは、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」と言われ、荒れ狂う風と波を叱りつけられて、風も静まり穏やかな波のない湖になったというのです。

マルコ伝の4章39節には、「イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、『静まれ、黙れ』と言われると、風はやんで、大なぎになった。」と記されています。

「なぜこわがるのか」というのは、イエスさまが共に居られるのに「なぜ怖がるのか」ということであり、私たちが信じる神さまは唯一絶対なる全能の神であり、私たちの命をも一切のことを握っておられる神です。にもかかわらず現実の出来事を恐れてしまうのですね。

主イエスはいつも信じる者と共にいてくださることを知っているならば「恐れるな!」ということであります。このような自然界の嵐だけではなく、人生の嵐の時も「恐れるな」と仰っているのです。

ここで「湖」と訳されている原語ですが、他の箇所では「海」と訳され、その意味は「この世」の意味であるということです。

即ちそれは「暴風」や「波」は深刻な病気や事故であり、子育ての悩みであったり、老後のこと、また、職場や家庭などあらゆるところで経験する人間関係の悩みであり、単純ではない人生の途上で経験することを意味するのです。

私たちは生きている限り新たな問題に出くわして動揺し混乱するのですが、それが人生でありそれらを避けることはできません。


幸いにして私たちは信教の自由を保障される時代に生かされていますが、中東ではキリスト者や教会への迫害が日常化しています。日本もまた過去の時代に大きく向きを変えつつありますから、どんな艱難があるやもしれません。

それら一切のことが「この世」のことであり、しかし、そんな嵐の時にこそ信仰が試されているのであり、キリストは「わたし(イエス)が共におるぞ!」と仰ってくださっているのです。

私たちは神に祈りますが、本当に全幅の信頼をもって祈っているでしょうか。今一度確かな信仰に立ち返りたいと思います。

弟子たちは信仰はあっても薄い信仰でした。それでもイエスさまは自然の猛威を叱りつけて弟子たちを助けてくださいました。イエスさまは私たちをお見捨てにはならないのです!

神さまは決して信じる者をお見捨てにはなりません。この箇所から心に刻むべきことは、嵐の時こそ静まってイエスさまを信頼しておればよいということです。

私たちは時に喚(わめ)きたくなる自らの限界、また現状に陥(おちい)りますが、主イエスは必ず助けて導きを与えてくださいます。ですからどんな時も、素直になれない時もまた主の御名を呼ぶのです。

なぜならば素直な心、正直で砕かれた心でないと神の導きはわからないからです。これが私の信仰姿勢であり、愛する人々に伝えたいことの精髄です

イザヤ書30章15節の御言葉もたびたび握りしめるみ言葉です。
「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。

主イエスに手をとられて試練を超えさせていただいた時に、私たちは霊の目が開けられ真のキリストに出会うのです。

ひとたびそのことを体験させていただくと、刻々と状況が変わる中に在っても、平安などありえないような時にも、台風の時にも台風の目は静かなように心底は平安で守られています。

今の私のように「私は苦悩に打ちのめされながら希望をもっており」と生きることができるです。
そしてこれこそが主イエスに在るキリスト者の生き方、真の自由であり、その歩みは中断することなく常に最善へと続けさせてくださっているのです。

ジョウビタキの雌.jpg
聖歌590番 
「救い主イエスと共に」 
救い主イエスと 共に行く身は
乏しきことなく 恐れもあらじ
イエスは安きもて 心たらわせ
物事すべてを よきになしたもう
物事すべてを よきになしたもう

坂道に強き み手を差し伸べ
試みの時は 恵みをたもう
弱きわが魂の 渇くおりしも
目の前の岩は 裂けて水わく
目の前の岩は 裂けて水わく

いかに満ち満てる 恵みなるかや
約束しませる 家に帰らば
わが魂は歌わん 力の限り
君に守られて 今日まで来ぬと
君に守られて 今日まで来ぬと


ツグミ.jpg聖歌472番 「人生の海の嵐に」

人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

悲しみと罪の中より 救われしこの身に
いざないの声も魂 揺すぶること得じ
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

すさまじき罪の嵐の もてあそぶまにまに
死を待つは誰ぞただちに 逃げ込め港に
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し

posted by 優子 at 13:35| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年02月11日

雪を待ち焦がれるユキ

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昨日10日朝、かすかに雪化粧の二上山(雄岳)

2017.2.9.jpg西日本は9日から強い冬型の気圧配置が続いている。
8日(0度/9度)は穏やかな外出日和だったのに、翌朝は予報通り打って変わって雪模様になった。

IMG_2401.jpgユキは大喜びだが、下半身は見るに堪えない寒さ。このあと1センチほど積もって雨で溶けたものの、日中も3度までしか上がらなかった。
今も積雪予報が出ているが昨日も時々舞っていたが積もるほどではなかった。

学校ではインフルエンザで数クラスの学級閉鎖が出ているため、今年度最後の参観日だった10日は2週間延期になった。登校後すぐに発熱で帰宅する子も珍しくない。私はユキが帰宅すると、「今日は何人欠席してた?」と毎日尋ねている。

そして、担任の先生も9日からインフルエンザでダウン。学級閉鎖中の先生が入れ代わり立ち代わり来てくださるので、翌朝は「今日はどの先生が来てくれるのかなぁ」と嬉しそうに登校した。

IMG_2398.jpg全員がマスク着用。知子は会社帰り(8日)に呼吸しやすいマスクを買って来た。昨冬、ユキがK先生のマスクのことを熱心に話していたのがこれだ。

妊娠中だったK先生はインフルエンザ流行期も無事通過された。私は娘のことのように心配して祈っていた。怖じけ者の私には大きな励ましと教訓になった。そして、昨夏無事に出産された。赤ちゃんはそろそろお座りされているかなと先日も想っていたところだ。

スマホに「只今、雪雲接近中」とたびたび出ているらしいが、今日も雪は降らずユキはがっかり。今日は(−1度/4度)、風吹く寒い1日だった。

早くインフルエンザが下火になってほしい。

posted by 優子 at 18:12| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年02月08日

心の緊張を解いてくれる光景

明日は雨や雪が降るというので2ヶ月毎に通っている内科医院へ行った。今日は体調が良いので気持ちよく歩いていたら、あとから来た自動車が止まった。Nさんではない。誰だろうと思ったら近隣の方が声をかけて下さり医院まで乗せてくださった。

実は今日は歩きたかったのだが、3分の一あたり800歩ほどで終了した。インフルエンザが流行しているので長時間待たねばならず、番号札をもらって美容院へ行った。

まん悪く美容院も混んでいて1時間近くも待たされたが、自動車に乗せていただいたおかげでカットを終えて医院へ戻ると、間もなく呼ばれて2ヶ月分の薬をもらって家路についた。

寒気と陽光が気持ちよく帽子もかぶらないで歩いた。途中の土手を上がろうとすると目に前にカラスがいて、何かを見つけてくわえた。

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↓ 階段を上がるとハクセキレイがいた。

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チャッピーを思い起こさせるまなざしだ。
小さな命。
小鳥はのんびりと餌をさがしていた。

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池では昼寝をしている水鳥がいて、
40羽ほどがのんびりとくつろいでいた。

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左は、キンクロハジロのオス。眠っているのは、ホシハジロのオス。学校から帰って来たユキと散歩図鑑で鳥の名前を捜した。

IMG_2359.jpgこれは何という鳥だろう。スズメぐらいの大きさで、とてもすばしこく動いた。
これがシジュウカラ!

名前はよく知っていたものの初めて見た鳥だった。珍しい鳥を撮れたとユキに自慢できると思っていたら、最もポピュラーな鳥だという。

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小鳥や水鳥のしぐさを見ていると心の緊張が解かれていくのがわかった。

IMG_2362.jpgようやく近くの公園に着いた。
これはシロハラか。

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IMG_2372.jpg今朝は0度で最高気温は9度だったが、風がなく穏やかな冬日和。野鳥を見ながら最後は水仙の花に魅せられて帰宅した。
荷物をもとに収め、洗濯物も入れて、2時過ぎからの遅いランチタイム。1時間もすればユキが帰ってくる。


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明日は大阪でも明け方から昼前まで大雪に注意。
今季一番の寒気が覆うそうだ。

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posted by 優子 at 22:22| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年02月06日

星野富弘さんの思い

IMG_2331.jpg星野富弘さんをご存知でない方はおられないであろう。
これは得意とする吊り輪をしている大学時代の星野さんだ。

詩画を描く.png1946年・群馬県生まれ、1970年に群馬大学教育学部体育科卒業後、中学校の教諭になるがクラブ活動の指導中頸髄を損傷して手足の自由を失い、2年後より口に筆をくわえて文や絵を書き始める。

口で初めて書いた字
口で初めて書いた字.jpg

星野さんが描いた詩画と共にその思いをご紹介したい。

日々草

星野富弘sann.jpg今日も一つ
悲しいことがあった
今日もまた一つ
うれしいことがあった

笑ったり 泣いたり
望んだり あきらめたり
にくんだり 愛したり
・・・・・・・・
そして これらの一つ一つを
柔らかく包んでくれた
数え切れないほど沢山の
平凡なことがあった


「笑ったり、泣いたり、望んだり、あきらめたりということは、ずっとそういうことがなくなるということではありません。そういうことは私は信仰を持つ前も、持った後も、それほど変わらないと思います。

ただ幸いなことに体が動かないということで、人を殴ったり、そういうことは出来なくなりましたが、気持の面では、時には殴りたいような時もあります。おそらく動いていたら、手を振り上げていただろうなあという時もあります。

でもそういった色々揺れ動く、時には神様を疑って見るような、そんな気持になる時もあります。でもそれも何か神様がニコッと笑いながら見ていて下さるような、そんな安心感があるんですね。

それでこの詩で最後に『平凡なことがあった』と書いていますが、やはり私は神様を受け入れたというところで、何というか平凡なことを発見したということと、何かとても繋がるんですね。

私は平凡になる、なったもの、それは長い間、人間の生活、人間が工夫したり、したものが、時間をかけて角が取れて、誰でも受け入れられる。何とも思わなく、受け入れられるようになったもの、そういうものの極致の姿ではないかなあと思っています。

それは人間だけではなくて、この自然の風景、それから私がごく普通のそこらにある花をたくさん描いているんですが、そういうものに目を向けられるようになったというのも、つい見過ごし勝ちな平凡な普通の花を、花もよく見て見ると、凄く精気に出来ていて細かいところまで綺麗に神様の手が行き届いているなあというふうに感じるんですね」。

花梨の実

さん星野富弘.jpg毎日見ていた
空が変わった
涙を流し友が祈ってくれた
あの頃
恐る恐る開いた
マタイの福音書
あの時から
空が変わった
空が私を
見つめるようになった
 

「私と空は花と同じように切り離せない。空を見ていて色々なことを思う。空が私を見つめるようになった。これは信仰をもつようになってから、空から神がというよりも、そっくり包んでくれる空のような神様がいつも見ていてくださる。空は、神様という言葉よりももっと、私にはぴったりというもの」。

「美しい花をいつも描いていますけど、何と言いますかね、美しいものだけに目がいかないんですね。やはり神様に生かされているという、その生活というか、いつも神様が見ていて下さるという、そういうことを知っていますから、自分がどんなに罪深いというか、醜い心を持った人間であるかというのは、みんな見られているわけです。

もちろんやることは人に見られる、人が感じているところは、何かいい生活というか、とても清い生活をしているんじゃないかというような、それは人にはそういうところを見せますが、でもやはり見えない部分というか、心の中まで覗かれた時には、決してそれは人に見せられるというか、誇れるような生活はしていません。

ですから美しい花を見た時にも、その花の根っ子のほうですね。それもどうしても見つめないわけにはいきません。

美しい花を持っている、その同じ茎にいつも土に隠れた、そしてそこから生えている枝や葉っぱは必ずいつも花のようには美しくないんです。

虫が食ったり、枯れていたり、萎れていたり、どうしてもそういう虫の食った部分まで目がいってしまうというのは、やはり花を描きながら、自分自身を描いているような、描きたいと思う、そういう部分に自分自身を、何というか、描きたい。

そんな思いで虫の食ったところとか、枯れた葉っぱとか、描かざるを得ないんですね。描きたいというよりも、描かざるを得ません。

ですからこれは一枚の小さな紙に描かれた絵ですが、花を描いた花と詩に、いつも自分自身を描いているような気持ちです」。

             (「こころの時代」より)

posted by 優子 at 18:43| 引用文 | 更新情報をチェックする

2017年02月05日

家の教会2017D −悪霊に取りつかれた男―

2017年2月5日(日) (2017第5回 家の教会)
10時35分〜11時20分
出席者 3名(Except R)
@ 主の祈り  
A こどもさんびか 33番「サント サント サント」
B 聖書輪読    マルコによる福音書5章1〜20節
C お話      優子
D お祈り     一人ずつ
E 新聖歌256  「御翼のもとに 」

kasa3.gif冷たい雨の一日
 
IMG_2317.jpg 第2部礼拝  
14時〜14時40分 
出席者 2名
@ 聖書輪読
A お話
B 分かち合いと祈り


マルコによる福音書5章1〜20節:
5:1こうして彼らは海の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5:2それから、イエスが舟からあがられるとすぐに、けがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会った。
5:3この人は墓場をすみかとしており、もはやだれも、鎖でさえも彼をつなぎとめて置けなかった。
5:4彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせを砕くので、だれも彼を押えつけることができなかったからである。
5:5そして、夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。
5:6ところが、この人がイエスを遠くから見て、走り寄って拝し、
5:7大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。
5:8それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。
5:10そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。
5:11さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。
5:12霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。
5:13イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。
5:14豚を飼う者たちが逃げ出して、町や村にふれまわったので、人々は何事が起ったのかと見にきた。
5:15そして、イエスのところにきて、悪霊につかれた人が着物を着て、正気になってすわっており、それがレギオンを宿していた者であるのを見て、恐れた。
5:16また、それを見た人たちは、悪霊につかれた人の身に起った事と豚のこととを、彼らに話して聞かせた。
5:17そこで、人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた。
5:18イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供をしたいと願い出た。
5:19しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。
5:20そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。

お話:
今日の個所は、ガリラヤ湖の東南地方にあるギリシャ的な異邦人の町での出来事です。

自然は時に猛威を振るい悲惨な状況に至らしめ、地球環境の破壊が進んだ近年は世界中で異変が起きています。自然の猛威はいかに科学が発達しようとも人間にはどうしようもありません。今朝のお話はどうすることもできない自然災害ではなく、狂暴で荒れ狂った人のお話です。

当時の墓は岩に掘った横穴式の洞穴で、その中に足かせをはめられ鎖で縛りつけられていた人がいました。それでもそれらを外してしまうほど狂暴でした。

5節に「夜昼たえまなく墓場や山で叫びつづけて、石で自分のからだを傷つけていた。」とあるように、この人自身も苦しみ続けていたことがわかります。しかも自分がなぜこんなことをしているのかわからないし、自分のことも何もわからない。その不安や恐怖はどんなものだったでしょう。

聖書にはこの人を「汚れた霊に取りつかれた人」と書いています。「汚れた霊」というのは悪霊のことで、聖書は悪霊の存在があると教えています。「悪霊」というと精神医学の発達した現代人はうさん臭く感じる人もいるでしょう。

そういえば私は長女を身ごもった時に、婚家先で「祟(たた)り」や「白蛇が憑く」からと、偶像を拝むように強要され悩まされたことがありました。いわゆる自らを「神」と名乗り人間の弱みに付け込んで高額のお金を出させるものでした。

その時は父が断ってくれました。次女を身ごもった時は自ら頑として断りました。このような話は例話にもならないことですが、そういうことに翻弄される人々に悩まされました。信仰を授かる7年前のことでした。

それはともかくも、信仰生活の初めの頃は「悪霊」や「悪魔」については全く無知でしたから、熱心なCS教師が悪魔の話をたびたびなさるので、「この教会は正統なキリスト教会なんだろうか」と心配したことがありました。

しかし、信仰が深められていくにつれて理解できるようになり、悪霊の実在を何度か感じたこともあります。この世の出来事の背後には悪霊が働いているのだと思います。

聖書に記されている悪霊にとりつかれた男は、人間の力ではどうしようもできないコントロールを超えた力に縛られていたのです。

(6・7節)「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫」び「『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。』」と、私たちの理解に苦しむことを言いました。

これは狂人となっている男の口を通して悪霊が語った言葉です。悪霊は霊的な存在ですからイエスさまがどんなお方であるかは、人間よりもはるかに敏感に認識できたのです。

イエスさまはこの男の背後に存在する悪霊に名を尋ねました。「レギオン」とは、約5000人とも6000人とも言われるローマの軍隊の名前でした。悪霊は1人ではなく軍隊のような強力な悪霊でした。

でも悪霊は神の子であるイエスに勝つことはできないのを知っていますから、「俺にかまわないでくれ」と言ったのです。悪霊にとって喜ばしい安穏とした環境は人間を支配した状況なのです。

私たちも悪霊にとり憑かれたように自分の気持ちを持て余すことはないでしょうか。私は父を亡くした1年後に経験しています。

私たちが当地に引っ越してきた時、すでに母は召され、父は重度の脳梗塞に倒れて入院しており、その後も何度も死線をさまよう状況でした。

そんな緊張した状況に加えて、身近にいる他者を省みない人々の理不尽極まりない非道な言動にも耐えねばなりませんでした。でも神に助けられて父と母の娘らしく耐え忍び、2000年8月に父を看取りました。

ところが、その1年後に彼らへの憤りの感情に支配され、祈っても平安はなく「自分のことを持て余す」と知人に話したことを覚えています。

その時の心はこの男の情況と同じだと思うのです。私たちの中にレギオンが住んでいるならば心の平安はなく、自由ではあり得ません。


私は心に憎しみが襲ってくるたびに「イエスさま、助けて!」、「イエスさま、助けて!」と主の御名を呼びました。そのたびに解放されるのですが何度も襲ってきました。数か月続いたように思います。

このことは心理学でも説明できる心情ですが、これが人間の偽らざる現実であり苦痛のプロセスを通り抜けていかねばなりません。

大切なことはこのような時こそ「イエスさま、助けて!」と主の御名を呼び、イエスさまと共にいることです。あの時、私もまたイエスさまに「走り寄って」ひれ伏していたのだと思い、イエスさまと共に在ることの大切さを改めて教えられました。

その後も何度も苦痛を経験していますが、神さまのお守りのうちに一度として言い争うこともなく、凛として、そんな人たちにも手を差し伸べる者とされてきました。こういうことを「神さまは勝利させてくださった」と言うのです。


悪霊は豚に入り込んで死に敗北しました。イエスさまは一人の霊魂を救うために2000頭の豚(財産)を犠牲にされました。豚の飼い主たちは損失や信じがたい出来事を恐れてイエスさまを拒んだのでしょう。

レギオンから解放された男は正気を取り戻し、自分の救い主としてイエスさまにお供を申し出ましたが、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」と仰いました。

いつもならば奇蹟を言い広めることを厳しく禁じておられたのに、ここでは違っていました。この人と共に苦しんでいたに違いない家族に、正気になった姿を見せて安心させてやりなさいと思われたのではないでしょうか。

悪霊に憑かれていた男の姿は、罪人の心の姿に酷似しています。私たちが憎しみの中にとどまっているならば、死にとどまっているのであり、その人はいわば墓場にいるのです。

良いことをしようと思ってもできない自分に嘆き、自己との葛藤は生きている限り続きますが、それは何と尊い葛藤でありましょう。

というのは、自分さえ良ければいい、悪いのは全て相手と、いくつになっても噛みついてくる人もあるのです。そういう人は生きているとは言えず、「愛さない者は、死のうちにとどまっている。」(第1ヨハネ・3章14節)とある通りです。 

私たちはこのままの姿でイエスさまの前へ出ましょう。神を信じて試練を受けて立てば必ず道を開いてくださいます。現実が最悪でも大丈夫! 神が働かれます! 

どんなに最悪でも、それでも道が開かれるのです! 
今、苦境にある人は主イエスにSOSを出すのです!!!

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(前掲の写真ともにユキが窓越しに写す)

「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、
主を尋ねよ。
近くおられるうちに呼び求めよ。
悪しき者はその道を捨て、
正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。
そうすれば、主は彼にあわれみを施される。

われわれの神に帰れ、
主は豊かにゆるしを与えられる。
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
主は言われる。

天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く、
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、
地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
種まく者に種を与え、
食べる者にかてを与える。

このように、わが口から出る言葉も、
むなしくわたしに帰らない。
わたしの喜ぶところのことをなし、
わたしが命じ送った事を果す。
あなたがたは喜びをもって出てきて、
安らかに導かれて行く」。

       (イザヤ書55章6節〜12節)

posted by 優子 at 20:30| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年02月01日

知子の「出エジプト」 美濃紙業のミッション完了す

2012年より5年の年月をかけて粘り強く取り組んできた財務改善と人材育成両輪の経営改革がこのたび完了しました。それは主観によるものではなく、第80期決算報告書という誰の目にも一目瞭然の形で残すことができたことも併せてご報告致します。

リーマンショック後、当社における古き良き時代最後の決算は2009(平成21)年で、その時の売上高(年商)は約16.7億円でした。あれから7年。残念なことに東日本大震災、電子化、少子化といった時代の影響を受け、この7年間で5億円も売上は減少してしまいました。

「年商が3分の1も減少すれば、通常は倒産リスク大」。
しかし当社はそうはならなかったのです。

経営改革の初めに着手したことは、銀行経由でコンサルティング会社に依頼し、社員の不満をヒアリングしていただくことから始めました。と同時に、会社という日常の大半を過ごす場所に於いて、全社員がやりがいを持って働けるように願い、その問題解決にあたりました。人材育成にも取り組み続けました。

「時代の流れに希望を失うことなく努力し続ければ、そこから希望やアイデアも生まれてくる!」と、社員達の士気を鼓舞し、絆も深まっていきました。

その結果、人は育ち、いかにして効率的に仕事ができるかという視点に立って動くようになった過半数の社員達のもとで、私は全ての勘定科目について徹底的に内容を見直すことにも成功しました。

目に見えて会社の信用力に繋がる資産・負債についても4年半かけてテコ入れしました。それは貸借対照表に一目瞭然に表れており、今回の決算で不良債権もゼロ。ここ数年の決算内容の改善を各銀行は大変評価して下さっています。

これらの結実として位置付けるべきが2016年11月末の決算書であると私は考えております。

売上が減少してしまった中で、平成21年度、今より5億円も売上の多かった時以上に、しかも対前年約4倍もの営業利益を、リストラどころか賞与を増額し、必要な資産も購入した上で計上することができました。

以上、感謝を以って経営改革の最終報告とさせていただきます。

         専務取締役 藤本 知子

知子が入社したのは2010年9月であるから、そのとき既に美濃紙業は坂道を転げ落ちていたのである。銀行との取引についても、「こんなことしていたら倒産しますよ!」と夫に叱咤してくださった人もいた。

夫は営業畑の社長とはいえ、財務についてその人が知子に教え導いてくださっただけではなく、精神的にも親代わりに支えてくださった生涯の恩人である。

その人が「経営改革には5年かかる」と仰った通り5年弱を要した。この報告は共に寄り添って来た私にもとても重い。

「感謝を以って」とは、これまで教え励まし関わってくださった方々への感謝であることは言うまでもないが、それにも先立って神さまに感謝の報告をしているのであろう。

長い苦闘と努力の連続であったが、財務を立て直しただけではなく、心ある社員たちは一つにされて良き職場環境に改善して完了した。

美濃紙業の社員はすべて紅海を渡り切ったのである!
こうして神は知子のミッション・「出エジプト」を完了させてくださって、長い闘いの終止符が打たれた


私たちが生きている日常、即ち「経験の場」で自分自身ができあがっていき、「その人自身以外ではありえない人格」が形成されていく。

人格の基礎は自らの内にある促しであり、その促しから全ては始まり、その経験の積み重ねを通して人格が形成されていくのである。そしてその内面的促しこそが真の自由であり、責任の伴う自由を生きる尊さである。

経営改革においても、その途上にある一切のことを通して社員一人ひとりの上に神の導きを祈りつつのミッションであった。人生とは他者との関わり合いの中で人格を高め合って、互いに良き生涯を築きあげていくことにほかならない。

今朝の朝礼で知子はどのようなメッセージを語ったのであろうか。過去ログに刻まれたこれまでの軌跡をゆっくり振り返りたい。

全てのことを支配しておられる神に感謝します。
知子の上に神の栄光(御意思)を現してくださったことを感謝し、その栄光を神に捧げます。
 

「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、
夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。
昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった」。

                  (出エジプト記 13章21節)

ユキと散歩@.jpg14時25分追記:
" being & doing " に最後の更新をしました。

posted by 優子 at 12:08| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2017年01月31日

株主総会で感謝の決算報告

今日昨年に続いて2度目の株主総会に出席した。
私は昨日から血圧が高く、今朝も降圧剤を追加するも下がらず頓服薬を飲んでも下がらないまま、孫と待ち合わせていた小学校の昇降口へ迎えに行った。

ユキは6時間目が終わった段階で一足先に退出して走って来た。そして、自宅に立ち寄って宿題とDSを手提げバッグに入れて大急ぎで駅へ向かった。

私は頭痛だけではなく頓服薬で朦朧としていたので地下鉄に乗り継ぐのもしんどくて、16日朝、知子と一緒に出社した時のように八戸ノ里(やえのさと)からタクシーで会社へ向かった。

車窓から見える長田までの景色は20年ほど前まで何度も自転車で行き来していた場所であり、どこも懐かしく会社に着くまでずっとユキに話していた。

「この空き地はママ(知子)や真智が病気になった時に通っていた中央病院のあとやよ」。

「ここは御厨(みくりや)の交差点、この産業道路をずっと右へ行くと花園のラグビー場があって、花園図書館にも何度も通ったよ。
その帰りはね、いつもここで自転車を止めて1時間以上もお友達(千里さん)としゃべっていたわ」。

「これは第2寝屋川で、ここを渡ったらママと真智が通っていた藤戸小学校やよ。ああ、懐かしい。ここに通っていた真智がワシントンに住んでいるなんて不思議やね」。 

「このマンションに住んでいたんよ」


と、やっぱり東大阪は故郷のように懐かしかった。

「中央大通りを渡って右折して側道に入ってください。UFJ銀行を左折して・・・」と、16日朝に知子が案内していたとおりに運転手さんに説明して会社の倉庫側にタクシーを着けた。知子が手を振って立ってくれていた。

昨年はギリギリに到着したのでご挨拶する時間が無くて、1階(倉庫)で働いておられる方々にお目にかかれなくて残念だった。

現場の人たちこそ会社を縁の下で支えてくださっている人たちだ。お一人おひとりが実に誠実な方々で美しい笑顔で気持ちよく働いておられた。

「専務にはお世話になっています」と、良い職場環境であることを喜び感謝を伝えてくださり、社員の方々の表情は私の想像をはるかに超えるものだった。


職場は冬の厳しい寒さと真夏の強烈な暑さゆえに、私も思い出しては自らを律することしきり。また、重い紙を持つために腰を痛めないようにと祈るようになったのは、知子を通して知ったからだ。

誠実に労する社員の方々の経済を少しでも豊かにしたいと願う知子の思いもまた何度聞いてきたことか!

挨拶を終えて3階に上がった。
店頭の方々、12月から入社された有能な経理の方も誠実な方で皆が快く勤務されいる。営業部門で精いっぱい励んでおられる方も、どの部署の人が欠けても仕事が成り立っていかない。

株主総会では、知子が作成した決算報告書を例年通り良輔(我が夫)が読み上げた。その成果は見事なもので、株主の重鎮のお一人は「大したものだ」と称賛された。

この結果が知子の美濃紙業の「出エジプト」完了であり、これは言うに言われぬ思いと努力の結晶である。知子の気力と健康を支えて昼も夜も導き、最高の結果を出させてくださった神さまに感謝します。

明日の2月1日の朝礼で、知子が全社員に決算報告を告げ、会社のホームページの『being & doing』に公開する。それは神さまに捧げる感謝の報告であり、『being & doing』に終止符を打つ最後の更新となる。

IMG_2268.jpg知子は見事に成し遂げた。
この栄光を神にお返しします。


posted by 優子 at 23:35| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2017年01月29日

王子動物園と六甲山牧場へ

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「六甲山牧場の動物たちは みんな穏やかやったよ」。 
ここは標高700メートルにある六甲山牧場、神戸の市街地より気温は4〜6℃低い。

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@六甲山牧場.jpg

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B六甲山牧場.jpg

※ 正しくは、2017.1.30.12:28 更新

posted by 優子 at 23:59| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年01月26日

ヴォーリズの愛した冬の木立

IMG_2008.jpg1月半ばから厳しい寒さが続いている。今朝の最低気温は−4度、窓を開けるとバリバリと氷を砕く音がし、知子とユキの部屋の結露は凍っていた。

しかし、風もなく久々の冬晴れ。
私は3週間ぶりに散歩に出た。

裸になった冬の木立。
木々は身じろぎもせず立っている。
そんな冬の木立を愛したヴォーリズを想って歩いた。

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         「森の春」 "Spring in The Forest"

冬の間ずっと見なれて来た力強い幹や枝よ、さらば
やがて春が来てあのみどりの葉が見られるというのに
私の心の奥には何か悲しみがある
それは春が来ると、幹や枝がつくる窓飾りを通して
あの大空が眺められなくなるからだ

冬の木立はそれぞれがたましいを持ち
それぞれが個性を持っている
だが春が来れば木の葉が生い茂り
それはちょうど織物のタテ糸のように
木の葉のヨコ糸にかくれてしまうのだ

私は頑丈な樹々の骨組みとの
こうした別れに
じっと耐えなければならない

やがて秋の日の黄金と深紅の炎が
あのじゃまな木の葉の掛け物を燃やし尽くし
まことの樹々の姿を取り戻してくれるまで
その別れに耐えなければならない

なぜなら春の樹々は暖かいいのちを
私の心に告げてはくれるが
身じろぎもせず立っている冬の幹や枝は
私の心に堅い意志をしみ込ませてくれるのだから


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春はまだ遠い。
それでも桜は蕾をつけていた。

         冬の歌

いかに冬の日々が冷たくても
わたしの心は歌わずにはいられない
この冷たい冬の一日一日
やがて私たちの身近に
あの春の日をつれてきてくれるのだから


posted by 優子 at 17:06| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年01月23日

聖書の「TPPは問題を解決する千倍の力」 −クリスチャン弁護士・佐々木満男氏のコラムより―

先日ネット上の聖書メッセージを検索している時に、「本物の牧師の語る・・・」というタイトルに驚いて微笑んでしまったが、確かに今やそのように標榜せねばならない様相を呈している。

「本物」と言えば、本物の信仰をもったクリスチャン国際弁護士・佐々木満男さんのコラムを今朝久々に読んだ。

お目にかかりたいと思っているお一人で、かつて佐々木さんのブログ『ドントウォーリー』の「問題を突き抜けよ!」に、拙著の記事をリンクしてくださったことがあり励まされた。

今朝読んだ記事は我が子だけに伝えるには惜しく、是非お分かちしたいと思う。テーマは「TPP」。

TPPと言えば3日前にトランプ氏が第45代大統領に就任し、就任後初めての仕事がオバマケアの手直しとTPP(Tans-Pacific Partnership)離脱の署名だったが、佐々木氏の言う「聖書のTPP」は「Thanks、Praise、Prayer」、聖書に刻まれている「祝福のTPP」である。

「TPPは問題を解決する千倍の力」より抜粋転載させていただいた。
聖書のTPPは、 神の定めた方法であるから、 どんな問題も解決する。

聖書のTPPとは何か?

Thanks (感謝) とPraise (賛美) とPrayer (祈り) である。

このTPP (感謝、 賛美、 祈り) を日常生活の習慣にしていくと、問題が次々に解決していくから不思議である。
私はこれを毎日体験している

ただし、 このTPPは意識して実行していないと、
自分の肉の弱さからすぐにNPPになってしまう。

NPPとは、 Negatives (否定) とPessimism (悲観) とPride (高慢) である。このNPP (否定、 悲観、 高慢) は、 問題をどんどんこじらせていくから不思議である。
私はこれもまた毎日体験している

TPPとNPPの違いはどこにあるのか。
その人の思いが 「天に向いているか」 それとも 「地に向いているか」 の違いである。

思いが天 (神の国) に向いていれば、
「感謝と賛美と祈り」 しか出てこない。
「大丈夫だ、 どんな問題も天の父が解決してくださる!」
と全能の神の力に頼ることができるから、
問題の重圧から解放され問題を乗り越えていく。

思いが地 (罪の世) に向いていれば、
「否定と悲観と高慢 (自己中心)」 しか出てこない。
「大変だ、 どんな問題も自分でがんばって解決しなければならない!」
と弱い自分に鞭打ってがんばるから、
問題に縛られ問題の下敷きにされてしまう。

アメリカの有名ながんセンターの医師の調査によると、
教会でいつも賛美している聖歌隊員の免疫細胞数は、
一般人のそれに比べて、 なんと 「1000倍」 も多く測定されたという。
毎週教会で賛美と感謝の礼拝を捧げている人たちは、
そうでない人たちと比べて平均7年も長命である。

「1分間、 喜び、 笑い、 感謝の思いに満たされる」
と体内に24時間の免疫システムができ上がり、
「1分間、 怒り、 不平、 不安の思いにかられる」
と6時間分の免疫システムが破壊されるそうだ。

「ストレスは悪いものである」
と思っている人は, ストレスによって虚弱にされてより病弱 ・ 短命であるが、
「ストレスは良いものである」
と思っている人は, ストレスによって強化されてより健康 ・ 長寿であるという調査結果もある。

試練や問題も同じである。
「試練や問題は悪いものである」
と否定的に受け止める人は, それによって弱くされていくが、
「試練や問題は良いものである」
と感謝して受け止める人は, それによって強くされていく。
(ヤコブの手紙1:2)

聖書には、

「主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない」

(イザヤ書 40:28〜31) と書かれている。

天の父を信じて 「感謝と賛美と祈り」 のうちに生きれば、
聖霊の力を得て、
自分の持てる力を十分以上に発揮することができる。

でも、 不安にかられて 「否定と悲観と高慢」 のうちに
この世のハウツー論だけを頼りに生きれば、
自分の持てる力をほんの少ししか発揮できない。

言い換えれば、 TPP (感謝、 賛美、 祈り) は、
NPP (否定、 悲観、 高慢) よりも
「1000倍」 もまさる力である。

「あなたの大庭にいる一日は、
よそにいる千日にもまさるのです」

(詩編 84:10)

まことに「アーメン!」です。
今日も良い1日を生きましょう!!!

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21・22日連夜に知子とユキと3人で観た『十戒』。

ユキは漫画の聖書物語『十戒』を手に真剣に観ていた。驚くほど内容をよく知っていた。観終わったあとも本を見入り、黙して高揚した心を静めねばならないほど深い感銘を受けたようだった。

「これはイエスさまが生まれる何年前のこと?」と、ユキの鋭い質問に答えたり、「ここには人間の姿が凝縮されているね」と感想を語り合い、「『家の教会』でも『出エジプト』を読みたいね」と話していた。

posted by 優子 at 12:19| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2017年01月22日

家の教会2017C −5つのパンと2匹の魚−

2017年1月22日(日) (2017第4回 家の教会)
10時30分〜11時25分
出席者 3名(Except R)
@ 前奏 知子
A 祈り  優子
B 主の祈り 
C 讃美歌21 425番 「こすずめも くじらも」
D 聖書 マルコによる福音書 6章30節〜44節
     ヨハネによる福音書 6章1節〜14節
E お話  優子
F お祈り 一人ずつ
G 讃美歌 第2編26番 「小さなかごに花を入れ」
H 後奏 知子

マルコによる福音書 6章30節〜44節:
6:30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。
6:31 するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。
6:35 ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。
6:36 みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。
6:37 イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。
6:38 するとイエスは言われた、「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。
6:39 そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。
6:40 人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった
6:41 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。
6:42 みんなの者は食べて満腹した。
6:43 そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
6:44 パンを食べた者は男五千人であった。

ヨハネによる福音書 6章1節〜14節:
6:1 そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。
6:2 すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。
6:3 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。
6:4 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。
6:5 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。
6:6 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。
6:7 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。
6:8 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、
6:9 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。
6:10 イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。
6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。
6:12 人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。
6:13 そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。
6:14 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。

お話:
今朝の聖書の箇所は「5千人の給食」と呼ばれているイエスさまの奇跡で、この奇跡だけが4つの福音書すべてに記されています。

にもかかわらず私は今までこの象徴的な奇跡を取り上げませんでした。病を癒された奇跡もそうですが、人間の論理では説明できないからです。

しかし、そのようなことは私が心配することではないので「家の礼拝」でも読みたいとの思いが与えられました。

イエスさまは群衆に霊的な糧を与えておられました。群衆は病気の癒しなど多くの奇跡を見たのでイエスさまから離れずについてきました。群衆たちの熱心さにも驚きます。

イエスさまは奇跡をおこなわれた後は必ず寂しい場所で独りになって祈られました。それは偉大な力を蓄えるためでした。私たちも霊肉ともに休養を取ることがいかに大切であるか。神さまと二人っきりにならないと霊的に命取りになります。

霊肉共に疲れ切ってしまっては神さまの息吹も感じられなくなってしまいます。イエスさまのように独りになって神と憩う。そのことでしか魂を休ませることはできません。

最多忙の人だったデパート王・メイシーは「誰ともしゃべっていない時が私の祈りの時である」と言いました。あんなに多忙な人物でも祈りの時は持っていたのです。働き盛りの人にとっては、通勤の電車の中が祈りの時かもしれません。


さて、この箇所の背景は夕暮れです。
弟子たちも疲れて空腹だったので、弟子たちは群衆もお腹を空かしていることだろうと気になっているのですが、「私たちもクタクタですから、彼らは解散させて自分たちで食べるようにさせてください」というのが本音だったと思います。

そんな時、イエスさまは「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われました。彼らに5000人もの人々のお腹を満たすことなどできないことをご存知で言われたのです。

この時の弟子たちの気持ちはすごくよくわかります。まさに私たちの姿ですね。同じようにお腹を空かしている群衆を目の前にしても、自分も疲れてお腹が空いているとイエスさまのように優しい気持ちにはなれません。

ある程度までは愛の言動ができても限界になって無力さに絶望します。そしてそれは、弟子たちが5つのパンと2匹の魚を持って「これしかありません」と立ち尽くしているのと同じではないかと思いました。

でも、そんな僅かな食べ物が余るほどになった。ということは、私たちの能力や援助金が僅かで無きに等しいものであっても、「私にはこんなことしかできませんが」と心から捧げるものは、イエスさまの御手によって豊かに用いてくださるのだと教えられます。

イエスさまは私たちの全てをご存知です。イエスさまが私たちに求められるのは、能力や持ち物の量ではなく、「こんなことしかできませんが」と心から捧げる人を喜ばれるのです。

ある時、敬愛するT姉(今年91歳になられる)に「いつもお祈りしてくださってありがとうございます」と申し上げた時、「神さまは祈らせてくださるのよね」と仰いました。

この「祈らせてくださる」という言葉から、祈りをも神さまに「させていただくこと」であると教えられました。

疲れていた弟子たちは僅かなパンと魚を、しかも自発的に差し出したものではなかったのですけれども、イエスさまの御手によって役に立たせてくださいました。

これは単にパンと魚を増やしたという奇跡ではなく、神さまが他者のことを「祈らせてくださる」のと同じように、神さまは私たちが心から捧げるものを祝福して神さまの御用に用いてくださるのだと気づかされます。


最後に黒崎幸吉もご紹介しておきます。
「無より有を創造し、少数のパンを数千のパンに増加するを得給う神に在し給いながら、少しの残品をも無駄にこれを棄て給わない。神の御旨の奇しきを見よ」。

私たちも週の初めに魂の休息をとり、今週も主イエスが私たちと共にいてくださいますように。

私に洗礼を授けてくださった小山恒夫牧師は「平日はクリスチャンの晴れ舞台である」と言われました。

聖日の朝にもう一度信仰を回復させられて、再び感謝と喜びと希望を握らせていただいて1週間の務めを果たしていきたいと思います。


posted by 優子 at 16:58| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年01月19日

大空を舞うコハクチョウ 

コハクチョウ.jpg

今も欠かさずブログを愛読してくださっているペン友の長原武夫さんが、「湖北の野鳥カレンダー2017」を送ってきてくださった。ユキと私が野鳥にも興味が広がっていることをお知りになったからだ。

短信には「幸悠君の笑顔 見えますかね」と書かれていた。その一言に込められた愛が洪水のように私の心をも満たし、ひび割れた心のすみずみにまで滲みとおっていった。

IMG_1947.jpg先週はご自身が撮られた写真を送ってきてくださった。
これは350ミリレンズで写されたもので、500ミリでないと良く撮れないそうだ。ましてや私たちのカメラでは 、でもいいよね、行きたい!!! 

琵琶湖周辺の人々は琵琶湖を「うみ」と呼ぶことや、今年はコハクチョウは少ないが、それでも200〜300羽いるとのこと。

ユキに地球儀でシベリヤを示し、あんなに遠くから飛んでくるコハクチョウに大いに励まされた。感動したユキはお礼のFAXを送信した。

もう少し暖かくなってからなんて言ってたら白鳥はシベリヤへ帰ってしまう。私は是非見に行きたいとユキに声をかけると知子も大乗り気。行こう、行こう!
せめて遠くからでもいい、自然界の鳥を見たい。コハクチョウを直に見たい。

コハクチョウ.jpg

イエスは言われた、「空の鳥を見よ」と。

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IMG_1948.jpg新年になって明日はもう20日になるのに、トイレに掛けている聖句が12月のままだった。やっぱりこの聖句が私の一番の愛称句だと思う。

これは母の介護に通っていた頃に買ったから、もう24〜5年も前から使っているのでボロボロだ。
今から10年ほど前のこと、「かなりくたびれているからもう使えないね」と家庭集会に来られていた友に言われたことがあるが、だからいいのだ。

私は実家のトイレにも同じものを掛けた。父が毎月めくってくれていた。両親も何度も目にしてくれていた聖句集だから、テープで補強していつまでも使いたい。

私はこの聖句に何度励まされてきたことか!
そしてこれからも!


posted by 優子 at 18:14| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年01月17日

ここに真の気概あり −薄利多売を続ける紙業界に企業倫理も社会貢献もなし―

昨朝、私は知子と共に美濃紙業に出向いた。その目的は、昨夏から更新が止まっている『being & doing』が未だ書けずにいるからだ。

かつて、太宰治の『パンドラの匣』の執筆を求められた時に、その舞台となった孔舎衙(くさか)健康道場の跡に立って書き上げたように、私自身が社内の方々と話し、自ら社内の雰囲気に触れたくて赴いた。

私の体調が整い気魄が充満すれば、2017年のビジョンと共に年初の情景を文字で表現できるであろう。知子の背後に感じているみ言葉は「イザヤ書 43章19節」だ。

「見よ、わたし(神)は新しい事をなす。
 やがてそれは起る、
 あなたがたはそれを知らないのか。
 わたしは荒野に道を設け、
 さばくに川を流れさせる」。
 
  
さて、今日の記事では知子と全く同じ志をもった大先輩の経営者を御紹介したい。
過去ログ・「知子の『出エジプト』に神の栄光あれ! @」で御紹介した記事で思ったことだが、「証し」は誤解を招く懸念があり、私なりに感じたところは引用しなかった。文章は実に難しいと思うことしきり。

即ち、富や名声、また、健康などを得ることが神の祝福ではないことを申し上げておきたい。

それは「ハレルヤ信仰」とも呼ばれている「勝者信仰」であり、聖書がいうところの祝福ではないので、いずれも読解力を働かせてお読みいただきたい。

この記事に紹介されている人物は、私たちの志、信仰と全く同じ気概の経営者ゆえに励ましを感じて転載させていただいているのである。


袋詰めセメントの販売では国内トップを誇る建築資材の総合商社「株式会社タカボシ」(本社:東京都足立区)。50年を超える歴史を有し、「お客様第一主義」をモットーに、堅実な歩みを続ける。

image.jpg同社の創始者であり、現在は代表取締役会長を務める石山伊佐夫氏に、これまでの歩みと、経営を通じた信仰の証しを聞いた。

高度経済成長真っただ中で、石山氏は独立。その一方で、タカボシの成長は、ピンチの時にこそ培われたものだと語った。

1979年の第2次オイルショックで、東京からセメント他全ての建築資材が消え、建設業者が困窮する中、付き合いのある運送会社や砂利販売業者のトラック延べ100数十台もの車を走らせ、滋賀県にある大阪セメント(現住友大阪セメント)からセメントを運び、いくらでも高く売れるときに、値段据え置きで提供するようにした。

この突拍子もない考えが、「東京にタカボシあり」と一躍、同社の名を認知させることになった。

「このことが今日のタカボシの基礎となっています。オイルショックがなかったら、うちの会社は今のように発展することはなかった。ピンチというのはチャンスなんですね。

オイルショックの時も値を吊り上げて販売したところからは、その後社会が正常に戻ったとき、お客さんは離れていきました」と明かした。

「『お客様第一主義』が創業当初からのタカボシのスローガンです。自分がされてうれしいことは人にもする、自分がされて嫌なことは人にはしない、これがお客様第一主義の原点です」。

「2002年に胃がんで入院していたときのことですが、信頼し、副社長までやらせた男が、皆をそそのかし、クーデターを起こしました。入院中を選んでの行為が悔しくて、夜も眠れませんでした。

その時に、妻がイザヤ書41章10〜16節を紙に書いてくれました。私は、これを読んで気合が入り、ご飯も喉を通らずにやせ細っていたのが、この御言葉によってよみがえりました」
と御言葉の力を語った。

「神様は、努力の結果、万策尽きたと思う頃に働いてくださるお方だと思うんですね。だから信仰を持っていれば、ピンチになったときに必ず助けてくれます」と力を込める。

建設業界は今年、東京オリンピックに備え、空白の年といわれているのだが、タカボシでは、創業以来の大口の注文があったという。

「目先のことでもうからなくても、尽くしていれば見返りはどこかから必ずあります」。

石山氏は、タカボシをオールクリスチャンのクリスチャンカンパニーにしていきたいという明確な目的を持っている。

「社員に伝道し、信仰に導くことは難しい。こればかりは強制できませんから。でも、諦めません。すでに、来年新卒で入社してくるのはクリスチャンです。こうして一人一人増やしていきたいと思っています」と語った。

最後に石山氏は、「諦めない」ことが自分の信条だと強調した。今年2017年は、つくばエクスプレス六町駅寄りの土地に新社屋が建設され、会社発展を継続しつつ、さらなる社会貢献を目指している。

以上、『クリスチャン・トゥディ』の「『与える』&『諦めない』経営で受けた神の恵み 石山伊佐夫・株式会社タカボシ代表取締役会長」より抜粋引用させていただいた。

イザヤ書 41章10節〜16節:
41:10恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。
驚いてはならない、わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け、
わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。

41:11見よ、あなたにむかって怒る者はみな、
はじて、あわてふためき、
あなたと争う者は滅びて無に帰する。

41:12あなたは、あなたと争う者を尋ねても見いださず、
あなたと戦う者は全く消えうせる。

41:13あなたの神、主なるわたしは
あなたの右の手をとってあなたに言う、
「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。

41:14主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、
イスラエルの人々よ、恐れてはならない。
わたしはあなたを助ける。
あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。

41:15見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある
新しい打穀機とする。
あなたは山を打って、これを粉々にし、
丘をもみがらのようにする。

41:16あなたがあおげば風はこれを巻き去り、
つむじ風がこれを吹き散らす。
あなたは主によって喜び
イスラエルの聖者によって誇る。

posted by 優子 at 23:54| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2017年01月16日

暗澹たる時代だからこそ光の中を生きる

「歴史は繰り返す」とは若い頃からよく聞いていたことだが、これはもうどうしようもない人間の実相だと思う。
地獄の戦争を経験した世代は平和を強く訴えるが、経験したからと言って全ての人がそうではないように、戦争を経験していない人の中にも平和を訴える人々がいる。

カトリック信徒の経済学者・浜矩子さんは安倍首相を次のように批判している。
「成熟度の低い人間は追い詰められるほど意固地になる。慌てれば慌てるほど強権的になる。そうした子どもじみた振る舞いが崇高なる平和の誓いを脅かす」と。

そして、1968年の「プラハの春」を彷彿とさせる。
「権力者はやがて超保守主義に陥り、周りを見失い独善的になってしまうもので、そのことに自分で気がつかない。これは人間がもっている本性的な弱点であり、したがって行きつく所までいかないと終わらない」。

その年の12月、カール・バルトに友人のトゥルンアイゼンが「時代は暗いね」と電話をかけてきた。それに対してバルトも「実に暗い」、「そうだ。世界は暗澹としているね」。そして続けた。

「但し、意気消沈だけはしないでおこうよ、絶対に。何故なら支配していたもう方がおられるのだから。モスクワやワシントン、あるいは北京においてだけではない。支配していたもう方がおられる。しかもこの全世界においてだよ。

しかし、まったく上から、天上から支配していたもうのだ。神が支配の座についておられる。だから私は恐れない。もっとも暗い瞬間にも信頼を持ち続けようではないか。希望を捨てないようにしようよ。すべて人に対する全世界に対する希望を。

神は私たちを見捨てたりはしない。私たちのうちのただの一人も、私たちお互いみなを見捨てたりはしない。支配していたもう方がおられるのだから」。


この夜、バルトは召され、これがバルトの最後の言葉になった。

世界のことも、日本のことも、日常のことも、私たちが経験する全ての行き詰まりにおいても、これは的確なメッセージとして私たちを励ます道案内である。

計り知れない犠牲の上に、長い年月をかけて築き上げてきたデモクラシーさえも再び瓦解されてしまいそうな、重苦しい暗雲が迫ってきている。

日本のみならず、今後ますます世界は一触即発の状況になっていくように思えてならない。トランプ氏に「大統領緊急カバン」(核のボタン)を委ねる恐怖。世界はどうなっていくのだろう。

各国の為政者たちよ、
過去の暗い時代を再び繰り返さないで!!!

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたし(イエス・キリスト)はすでに世に勝ったのです」。
             (ヨハネによる福音書 16章33節)

いつまでも平和で自由な時代が続くわけではありません。患難が予想されます。しかし、罪と死の力に対するキリストの勝利は、今日も変わることなく、私たちの勝利でもあります。まるで、まだ敗者であるかのように、闇の生き方をしてはなりません。勝者として光の中を生きるのです。
              (川端光生牧師の一言)

posted by 優子 at 07:23| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2017年01月15日

家の教会2017B −新しいぶどう酒は新しい皮袋に−

2017年1月15日(日) (2017第3回 家の教会)
10時〜10時45分
出席者 3名(Except R)
@ 祈り  優子
A 主の祈り
B 讃美歌 294番 「み恵み豊けき」
C 聖書輪読 マタイによる福音書 9章10節〜17節
D お話  優子
E お祈り 一人ずつ
F こどもの讃美歌 88番「神さまがわかるでしょ」
          48番「こどもを招く」

※ 今朝も知子は共にするも奏楽なしで行った。

マタイによる福音書 9章10節〜17節:
9:10それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
9:11パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
9:12イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
9:13『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

9:14そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
9:15するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。
9:16だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。
9:17だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。

お話:
今日のお話はマタイの家で食事していた時の話です。  
律法を守っている真面目なユダヤ人にとって、道徳的な基準にも達しない取税人や罪人と一緒に食事をすることはとても汚らわしいことでした。そこで律法を厳格に守るパリサイ人らは、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」と 聞いたのです。

するとイエスさまは、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。」と言われました。

イエスさまを必要とするのは病人や罪人ですが、実はそれは全ての人が病める者であり罪人であって、イエスさまを必要としない者は一人もいないのです。

そのことを知らず、自分は正しいと思っているパリサイ人こそが、最もイエスを必要とする人なのです。


次にバプテスマのヨハネの弟子たちがイエスさまに訊ねます。私たちやパリサイ人は断食をしているのに、「あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」と訊ねました。

断食というのは一定の期間は全ての食物や特定の食物を食べない宗教的行為で、ヨハネの弟子たちもまたヨハネの導き通りに厳格に断食を守っていました。

モーセの律法には断食は年に1回だけだったのに、その後は年に28回の断食を行うようになり、主イエスの時代は、月曜日と金曜日のが断食日と定められていました。計算すると1年間に100回以上も断食することになります。

個人的にする時には悲しみや苦しみの時に断食を行ないますが、日本でも何か物事の成就のために「茶断ち」と言って、願いが叶うまでお茶を飲まないという話を聞くことがあります。

そこでイエスさまはこういわれました。
「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう」と。

イエスさまはご自身を新郎に譬えておられ、弟子(信徒)は新婦であり、これは聖書の奥義です。ですから「花婿が奪い去られる日が来る」とは、イエスさまが十字架にかかられる時の意味であるというのも自ずとわかるでしょう。

ですから新郎新婦がいるパーティに招かれた人たちは悲しんだりはしない。そんな時にも断食をするのはあまりにも形式的すぎるのであり、その本質は全く異なるものであるとイエスさまは仰ったのです。

16、17節で語られたことは、当時の当たり前の生活の知恵でした。
「真新しい布切れ」とは「織りたての布」のことで、まだ水に晒(さら)していない布のことです。布を初めて水につけると縮みます。ですから服を縫う時も、最初に布に霧吹きで水をふくませてビニール袋に入れて一晩おき、翌日にアイロンをかけてから型紙を当てて裁断します。

だから新しい布で継ぎ当てをすれば、濡れた時や洗濯した時に古い服を破ってしまい、新しい布も役に立つどころか無駄になって両方ともが駄目にしてしまうと主イエスは言われました。

新しいぶどう酒と古い皮袋の譬えも同じです。
収穫したぶどうをつぶして酵母菌と共に動物の内臓や皮で作った袋に入れて密封すると、ぶどうは勢いよく醗酵してワインになるそうですが、皮袋が古くなると弾力性がなくなって、ぶどうの醗酵に耐えられず袋が膨れて破れてしまいます。

そしたらぶどうだけではなく古い皮袋もダメになってしまいます。これも真新しい布切れの譬え話と同じで、古いものと新しいものは共存できないことを仰ったのです。

即ち、イエスさまが教えてくださった自由、「主体的に生きよ」という福音と古い律法とは相いれないのです。バプテスマのヨハネはキリストの新しい教えを知っていましたが、生活面においては古いままでした。

神の愛と恵みである主イエスの十字架の福音(新しいぶどう酒)には新しい皮袋が必要です。イエスさまの福音を受け取った私たちは主イエスの新しい皮袋に入った新しいぶどう酒であり、その中で私たちを主イエスに似た者へと醗酵させてくださるのではないでしょうか。


イエスさまの弟子たちは神さまの一方的な恵みに生かされて、律法に縛られた生活ではなく真の信仰理解(ぶどう酒)で、生活(皮袋)においても主体性をもって生きていました。

21世紀に生きる私たちはなおのこと、新しい皮袋となって生きたいと思うのであります。
それはどういうことかと言いますと、第一義的には他者との比較においてではなく神さまの絶対評価の上に立って生きることです。

特に他者と比較して自己認識するような日本の風土においては誘惑や葛藤がついて回ります。日常生活で起こる様々なことの中で、優先順位をいかにすべきかと常に考えさせられます。

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」というのはクリスチャンの誰にとっても生涯の課題です。道を間違うことのないように主に訊ねながら選び取っていきたいと思います。


posted by 優子 at 16:07| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年01月14日

孫の泣き叫びも聞こえぬ夫

この詩を過去ログ(2012年12月2日)で紹介させていただいたことを覚えているが、今一度、私の心に一字一句を刻み、今生かされている全ての人にも贈りたい。この詩でも夫には届かぬか・・・

この詩が書かれた1989年、溺れた子を助けようとした10歳の長男を失ったノーマさんが、長男に伝えたかった気持ちを詩にしたもので、9.11同時多発テロの追悼式で読まれ世界中に広がった。

「最後だとわかっていたなら」                 
作・ノーマ コーネット マレック / 訳・佐川 睦

あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように
祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう

あなたは言わなくても
分かってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう

たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

そして わたしたちは 忘れないようにしたい

若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを

明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから

微笑みや 抱擁や キスをするための 
ほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと

だから 今日
あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも
いつまでも 大切な存在だということを
そっと伝えよう

「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう そうすれば
もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから

この詩は、愛し合う夫婦と親子の幸いな家庭を築いていた父親ゆえの愛の言葉であり、無関心や忙しさから愛する人にその愛を伝えることを忘れてしまわないようにと教えてくれている。

円満ではない日々にある家族がその一人を失ったならば、その苦悩は筆舌に尽くしがたいであろう。いや、何が起こっても感じ得ぬ人もいるとすれば、取り返しがつかなくなった後でさえ苦悩できることは幸いであり、意味がある。

「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい」。

新たなる歩みは常に悔い改めから始まるのであり、悔い改めなくして喜びはあり得ない。自分の罪を主(イエス・キリスト)に告白し、悔い改めるならば即刻即座にして主の平安が戻ってくる。

私たちは何度も失敗するお互いであるが、パウロが「私は自分の憎む悪を行っている。自分のしていることがわからない」と告白しているように、私たちは悔い改めによる恵みを繰り返し味わうという恵みの中に生かされている。

もうこれ以上孫を犠牲にはできず決断すべきか、私はなおも祈って待つべきか悩みの中にあり。

ユキは今、寒風の中、14時から16時半までサッカーボールを追いかけている。今季最強の寒波だが雪は降っていない。

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「すごい風で砂が顔や体に当たって痛かった」。
写真はサッカー教室のブログより拝借。

posted by 優子 at 15:55| 美濃紙業関係 | 更新情報をチェックする

2017年01月11日

映画・遠藤周作の『沈黙 −サイレンスー』、三浦綾子の『母―小林多喜二の母の物語』まもなく公開!

マーティン・スコセッシ監督が遠藤周作原作の『沈黙』と出会って28年。ついに『沈黙 −サイレンスー』が今月17日より公開される。公式サイトはここです。

また2月から三浦綾子原作の映画『母―小林多喜二の母の物語』が公開される。本日更新された『クリスチャン・トゥディ』でダイジェスト版を見ることができる。

女優で落語家の露のききょうさん、罪人の友主イエス・キリスト教会の進藤龍也牧師をはじめ、家庭礼拝のシーンでも、監督の強い希望でクリスチャンのエキストラを数人起用している。

「私は、この映画を伝道映画だと思っているの。伝道映画を作るには、クリスチャンの助けが必要。神様への信仰を映画で表現したい。
この映画のテーマは、キリストの愛そのもの。キリストの痛ましい十字架上の死と多喜二の無残な虐殺を重ねているのよ」。


IMG_1892.jpg『メメントドミニ』でも『母』については何度も取り上げており、多喜二のお母さんの写真や自筆も御覧いただける。

その記事でご紹介している『ウィンザー通信』には、当時のことを知る人が詳しく証言されている。

尚、クリスチャン・ペンクラブの例会で遠藤周作研究者・長濱拓磨氏が語られた『沈黙論』はここです。

posted by 優子 at 11:30| ご案内 | 更新情報をチェックする

2017年01月09日

野鳥に夢中になった3年生の冬休み

2017.1.9雨上がりの朝.jpg
2階の窓から望む 雨上がりの今朝の二上山(雄岳)

2017,1,6ユキと散歩B.jpg3年生の冬は、チャッピーがいなくなって2回目の冬だった。今ではチャッピーがいないのも慣れてきたけれど、いつも一緒に歩いたチャッピーの姿が見えないのはさみしい。
「命あるものはみんないつか死んでいくんやね」。
私は独りごとのようにユキに話していた。

真冬は目を楽しませてくれる花も少なく、今冬から私たちの視線は野鳥に集中し、今やユキと私は鳥の話題ばかり。散歩の後は撮った写真をパソコンで見るのが私たちの楽しみ。

この木に止まっているのは何という鳥だろう。

今ではユキ自らパソコンを起動させて写真を入れる。そして、いつものように散歩図鑑で名前を調べる。それでもわかりにくい時は、「今は何でも検索検索!」と画像で確かめる。それでもわかりにくい場合がある。

ムクドリ.jpgどうやらこれはムクドリのようだ。名前は可愛くても鋭い眼をしている。

これは5日の朝にユキが撮ったカラスくん。
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モズ.jpg今朝は道路にいた鳥が、2階の窓を閉めた音に驚いて電線に止まったのでユキを呼んだ。ユキは最速でカメラを持って階段を駆け上がってきた。
「これはモズや!!!」 
「ついにモズを撮ったね!」

!ヒヨドリ来たよ.jpgユキはヒヨドリのかわいい表情も撮ったけれど、モズもヒヨドリも窓越しからしか撮れなかった。

IMG_1881.jpg



ベランダの際にみかんを置いたらヒヨドリが一番最初に食べに来たよ。
君は「ファースト・ペンギン」やね!

↓ 以下もユキが撮ったよ。
2017,1,6ユキと散歩@.jpg

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これは私が撮ったキャベツ畑!
ようやくキャベツの値段も下がってきたけれど、
昨秋からあまりの高騰に「お好み焼き」は1回だけだった。

2017,1,6ユキと散歩A.jpg

沈丁花.jpg
沈丁花が赤い蕾を見せていた。

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お隣さんちのハボタン。

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私が撮るとこのように平凡な写真になってしまう。

お向かいさんち.jpg
そして、お向かいさんちのハボタン。
お正月の風情があるね。(photo by Yuki.)

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裏のタンポポ。(photo by Yuki.)

そして、冬休みのビッグニュースと言えば、
ついに「DS」とやらを買ってもらったこと!!!

1月2日にママと二人で外出した時に、私たちにも予告されていなかったけれど、知子は決めていたそうだ。買ってあげることを。「任天堂スリー・DS」と言うらしい。

IMG_1768.jpg 
1日30分間だけ。その約束は今も守っている。
メガネはテレビを見る時につけているブルーライト軽減メガネ。

お友達のほぼ皆がずいぶん以前から持っているのに我慢していたから、どんなに喜んだことか!!! 玄関で立ったまま喜びがさく裂して話していた。

知子の「逆教育法」とでも言おうか、自学自習もこの真剣さ。
実際、継続して1時間集中するようになった。

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このブログを書いている今もリビングは図書館のよう。何と居心地のよい場所と時間だろう。
ユキは今、DSを買ってもらった日にママと一緒に選んだ3年生の総復習のドリルをやっている。傍のテーブルで知子は仕事、我が夫は長い昼寝。

IMG_1879.jpgお正月休みや休日は忘れていたリコーダーの練習も頑張った。
笛の音で集まってきた野鳥の鳴き声で気が散ったけれど(笑)、ユキも鳥と一緒にリコーダーで歌っていた。

そして今、先ほど起きたおじいちゃんとトランプ(「51」と「13ゲーム?」)に興じている。ときどき揉めたりもするが、ユキとおじいさんはいいコンビ。

IMG_1786.jpg楽しい冬休みだったね、ユキ。
また一緒にお散歩に行こうね。
3学期も良き日々をね!



posted by 優子 at 17:05| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする