2017年12月07日

エルサレムに平和を!

エルサレムのために平安を祈れ、
「エルサレムを愛する者は栄え、
その城壁のうちに平安があり、
もろもろの殿のうちに安全があるように」と。
                              (詩篇122篇6・7節)

エルサレムはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地である。国際社会はイスラエルによる統治を認めておらず、交渉によって解決すべきとしている。しかし、トランプ米大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると発表した。中東情勢が危機的な情勢にならないように祈らずにはいられない。

ユダヤ人とアラブ人の関係が悪くなったのは第2次世界大戦後からであるが、パレスチナとイスラエル問題の源流は4000年前まで遡る。

アブラハムとサライ(サラ)との息子がイサクで、アブラハムと使女(つかえめ)ハガルとの息子がイシマエルで、イサクとイシマエルは腹違いの兄弟である。イサクはイスラエル民族に、イシマエルはアラブ民族の先祖となった。

世界4大宗教のうち、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教はアブラハムを「信仰の父」とし、3者とも旧約聖書のイスラエル民族の伝統を受け継いでいる。

ユダヤ教は「モーセ五書(トーラー)」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)とタルムードを聖典とし、新約聖書に記されているイエス・キリストとの問答からも明らかなように、神の唯一絶対性を信じるがイエス・キリストを排除する。

イスラム教の聖典は「コーラン」で、そこには聖書とは異なることが書かれているようだ。ムスリムの知人から聞いたイエス・キリストについても全く間違った認識だった。

キリスト者は今こそエルサレムの平和を祈り、イエス・キリストの教えに倣って隣人であるアラブ人たちに心からの敬意と愛を示したい。冒頭に掲げた聖句が世界に宣言している。

IMG_9504.jpg
【関連する記事】
posted by 優子 at 18:15| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2017年12月06日

冬の散歩道で @

サムサムさんより:

驚きました。オオバンという水鳥ですか。わたしはまだ見たことがありません。

まるで、みにくいアヒルの子が白鳥にならずカラスになってしまったみたいですね。

いやいや、ほんとに驚きました。

花の写真いいですね。癒されます。     


オオバン.jpgコメントありがとうございます。ウィットに富んだコメントに「うまいなぁ」と感心してしまいました。

オオバンは泳いでいる時はかわいいですが、立つとこのような足なので驚きました。ちょっと苦手です。木の葉状の弁膜がある「弁足(べんそく)」と言うそうです。

嬉しくなって写真をもっと追載しましたのでもう一度ご覧くださいね。


IMG_9350.jpg

IMG_9351.jpg


IMG_9434.jpg
白モクレンがいっぱい蕾をつけていた。

IMG_9439.jpg
こんな水鳥を見たのは初めて。
2羽で泳いでいた。
これはツル目クイナ科のオオバンだって!

IMG_9356.jpg
カルガモ

IMG_9451.jpg


IMG_9375.jpg


IMG_9453.jpg
もうスイセンが咲いていた!

IMG_9454.jpg

IMG_9455.jpg
まだ完全に開き切っていない生まればかりの花。

IMG_9458.jpg


IMG_9461.jpg
皇帝ダリヤの茎は竹のように太くて木のように固かった!


IMG_9467.jpg
何年も前から見ていた木だけれど、このような実を見たのは初めて。
実が弾けて粘着液で覆われたエンジ色の種が出てきた。


IMG_9381.jpg


IMG_9394.jpg


IMG_9473.jpg


IMG_9399.jpg

追載:
IMG_9486.jpg
ユキのクラスメイトはこのお宅の子。
昨夜から点灯が始まったとユキが教えてくれたので観てきました。

         IMG_9474.jpg  IMG_9497.jpg


IMG_9483.jpg


IMG_9484.jpg


IMG_9487.jpg


IMG_9489.jpg


posted by 優子 at 16:21| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年12月05日

カール・バルトのクリスマスメッセージ

クリスチャン・トゥディ「私たちの味方であるまさにその人」より転載させていただいた。

image.jpg大神学者として知られるカール・バルトは晩年、大学で教えながら、1954年から10年間(60代後半から70代後半)、バーゼル刑務所で囚人に対して説教を語り、聖餐式を行っていた。

教会で説教をしなくなったので、バルトの説教を聞きたければ刑務所に入らなければならないと言われたほどだったという。

この説教は58年のクリスマスに語られたもの。カール・バルト、天野有訳『聖書と説教』(新教出版社)所収の説教を、新教出版社と訳者の天野氏の許可を得て、編集部が記事スペースに収まるよう短くした抄訳。


「そして彼女〔マリヤ〕はその最初の息子を産み、産着にくるんで、飼い葉桶に寝かせた。なぜなら、かれらは宿屋にいかなる場所をも見出さなかったからである」。(ルカ2:7)

わが愛する兄弟姉妹方!

ここでマリヤの最初の息子として生まれ、飼い葉桶に寝かされた人とは誰でしょうか。私はその答えを全く単純にこう申しましょう。「きみの味方であり、私の味方であり、そして私たちすべての味方でもある方だ」と。自分のことを全く考えることなく、また最高の力の中で味方となってくれるのは、まさにこの彼だけです。

この人は、〔ここにおられる〕きみの味方です、そして、〔そこにおられる〕きみの味方、そして、〔あそこにおられる〕きみの味方です! 私が今こう申し上げるとき、それはきみたち一人一人にこう考えていただきたいからです。「それはまさしくこの私に関わっている」と。そう、だから、この人はきみの味方なのです。

誰かがそんな風にしっかりと味方だということを、きみは願っているのではないでしょうか。そのことをきみは心の底では慕い求め、そのことを望んでいます。きみは仲間なしにはやってゆけません。

そこで今やきみはこう自問します。「一体誰が、そんな風にしっかりと私の味方でいてくれるだろうか」と。それから、続いてこんな問いがきっと浮かんで来ることでしょう。「私の味方になったりする人など、そもそもいるんだろうか。そんな人、一人もいないんじゃあないだろうか。もしかしたら、私など、みんなにとってどうでもいい人間じゃあないだろうか。かれらはみんな、あの〔善きサマリヤ人の〕譬えの祭司やレビ人のように、私のそばを通り過ぎて行ってしまうんじゃあないだろうか。それどころか、かれらはみんな、私を敵対視しているんじゃあないだろうか」。

そして、こう自問したあとには、やはり或る全く大きな孤独が襲ってきて、きみは自分が全く見棄てられてしまったと感じることでしょう。そうしてそのとき、あの大きな誤りがきみのそばに寄ってくるのです。「そんなら、私自身が自分の味方になってやろう!」と。

けれども、まさにこれこそが最大の誤りなのです。溺れかけている者が自分で自分の髪の毛をつかんで水から引き上げるなどということはできないのです。誰か或る他者がきみを助けてくれるのでなければなりません。

そして今、あのクリスマスの使信はこう語ります。「きみの味方であり、きみを助けてくれる、まさにその他者が生きて、ここにいる。この他者は、あの時生まれた方だ。きみの目と耳と心を開いてごらん。そのとき、きみは見て、聴いて、経験して知るようになるだろう。《その方がここにいる。そして、その方は本当に私の味方でいてくれる。ほかの誰も真似(まね)のできない仕方で――そうだ、すべてをかけて、そして、どこまでも、いつまでも――、まさにこの私の味方でいてくれる!》と」。

こうしてこの方は下心なしに――自分のことを考えることなく――きみの味方でいてくれるのです。

きみはもしかしたら、先ほどこんな風に自問したかもしれません。「〔あなたが仰るほど〕そんなに悪いものだろうか。なんと言ったって、この人やあの人が私の味方でいてくれるではないか」と。

なるほど、そうかもしれません。けれども、そこにはなにか或る影があるのではないでしょうか。たとえその人が最愛の人でも。きみは感じるのです。「そもそもこの人は、実際には真っ先に自分のことを考えているんだ」と。そして、これに気づいたとき、きみの孤独はまたしても、そして、いよいよもってそこにあるのです。

しかし今、あのクリスマスの使信はこう語ります。「あの時生まれた方は自分のことを考えることなしにきみの味方でいてくれる。その方は本当にきみから何も求めない。その方はただきみ自身だけを求めておられる」。

まさにこの方こそ、きみの比類なき仲間となってくださった。この方はただきみのことだけを考えているのです。そして、最大の力をもってきみの味方でいてくれます。

誠実にきみの味方でいてくれるような誰かが実際にいるということもあるでしょう。その人間は、きみを助けたいと思うでしょうし、たしかに幾らかはそうするでしょう。けれども、最も深き根底においては、他のいかなる人間であれ、全く助けることなどできないのです。

しかし今や、あのクリスマスの使信はこう語ります。「あの時生まれた方は、実に神の御子なのだ。そして、その方がきみの味方でいてくれるとき、その方は最高の力の中でそうしてくれる。あらゆる事情の下にあっても、いかなる事情の下にあっても、きみを助けてくれる力! きみを全く明るくしてくれる力! きみをどんな人からも――きみの最悪の敵、〔つまり〕きみ自身からも――守ってくれる力! そのような最高の力の中できみの味方でいてくれるのだ。

その方は、しっかりと正しい仕方で、そして本当に助けてくれる力の中で、きみを担ってくれる力の中で、きみを救い出してくれる力の中で、だから、ただ小さな喜びだけではなく、大いなる喜び・変わることなき喜びを創り出してくれる力の中で、きみの味方でいてくれるのだ。そのような大いなる喜び・変わることなき喜びは、ただこの方おひとりだけがきみに与えることができる。

そして、そのような喜びをこの方はきみに事実、与えることができるのだ。この方はきみを、この〔世の〕生を貫きつつ導きゆく力、そしてその後は死をも貫きつつ永遠の生命へと担いゆく力の中で、きみの味方でいてくれるのだ」と。

このような方こそ、あの時生まれた方なのです。すなわち、きみの、私の、そして私たちすべての者の救い主なのです。

「飼い葉桶」とは私たちの生活の中で一体どのような場所でしょうか。

IMG_9360.jpg私たちの生活の表面の下(もと)に隠されつつ、或る深みが、或る底が、或る深淵が存在するのです。そして、そのようなところで、一人の例外もなく私たちすべての者は、ただまさに極貧状態におり、失われ〔て迷子になっ〕た罪人であり、嘆き呻(うめ)いている被造物、死につつある者、途方に暮れてしまっているのです。

そして、まさにそこでこそイエス・キリストは私たちの許(もと)を訪れてくださいます。いや、この方はすでに訪れてくださっているのです。そうです、私たちの生活の中にあるこの暗い場所・この飼い葉桶・この家畜小屋を神に感謝すべきかな! そのようなところで私たちはこの方を必要としているのです。

そして、まさにそこでこそ、この方も私たち一人一人を必要とすることがおできになるのです。そこでこそ、私たちはこの方に対してふさわしき者なのです。そこでこそ、この方は、《私たちがこの方を見、認識し、信じ、愛する》ことだけを待っておられるのです。

そこでこそ、この方は私たちに挨拶をしてくださるのです。そこでこそ、私たちのほうでもこの方に挨拶をお返しし、「ようこそいらっしゃいました」と言ってお迎えすること以外に、私たちには全く何も残ってはいないのです。

IMG_9407.jpgまさしくそこでこそ、この方は全く堅固に、私たちの味方でいてくださいます。この暗い場所でこそ、この方は私たちと共に主の晩餐を祝うことを欲しておられ、祝ってくださるでしょうし、私たちは、この方と共に主の晩餐を祝うことがゆるされているのです。アーメン。

カール・バルト(Karl Barth、1886〜1968)

スイスのプロテスタント神学者。弁証法神学の中心的存在。ドイツの大学神学部に招かれて教授となるが、ナチズムと対立して講壇を追われ、母国スイス・バーゼル大学神学部教授を務めた。主著に『教会教義学』『ローマ書講解』がある。

posted by 優子 at 11:35| 引用文 | 更新情報をチェックする

2017年12月03日

家の教会2017㊸ ―イエス誕生の序曲―

anime_tomosibi04.gif2017年12月3日(日) (2017第43回 家の教会)
                   

10時30分〜11時

  出席者 2名(with ユキ)


@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌  48番「こどもをまねく」

C 聖書輪読     ルカによる福音書1章1節〜25節

D お話       優子

E お祈り      一人ずつ

F 讃美歌      94番「久しく待ちにし」


ルカによる福音書 1章1節〜38節:

1:1 わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、

1:2 御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、
1:3 テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。
1:4 すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。
1:5 ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。
1:6 ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。
1:7 ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。
1:8 さてザカリヤは、その組が当番になり神のみまえに祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった。
1:10 香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。
1:11 すると主の御使いが現れて、香壇の右に立った。
1:12 ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。
1:13 そこで御使いが彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。
1:14 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。
1:15 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、
1:16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。
1:17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。
1:18 するとザカリヤは御使いに言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。
1:19 御使いが答えて言った、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。
1:20 時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたはおしになり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。
1:21 民衆はザカリヤを待っていたので、彼が聖所内で暇どっているのを不思議に思っていた。
1:22 ついに彼は出てきたが、物が言えなかったので、人々は彼が聖所内でまぼろしを見たのだと悟った。彼は彼らに合図をするだけで、引きつづき、おしのままでいた。
1:23 それから務めの期日が終ったので、家に帰った。
1:24 そののち、妻エリサベツはみごもり、五か月のあいだ引きこもっていたが、
1:25 「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」と言った。


お話:
今年は今日からアドヴェント(待降節)に入り、教会の新しい年が始まりました。私たちは先週からアドヴェントを迎えた気持ちで、クリスマスに間に合うように一緒に関係個所を読み始めています。今日はイエス・キリストが地上に突入される序曲とも言うべきところです。

ルカはユダヤ人ではなく異邦人(ギリシャ人)で医者であり歴史家でした。ルカは他の弟子たちと違ってイエスさまにお目にかかったことはありません。イエスさまの弟子たちによって導かれた人です。

ルカによる福音書はルカがテオピロのために労して書き記したものですが、テオピロという一個の魂の救いだけにとどまらず、ユダヤ人以外の人々にも福音を伝えたいとの祈りがあったと思います。

テオピロがどのような人物であるかよくわかりませんが、「テオピロ閣下」と尊称で呼んでいることから地位の高い人であったようで、しかも熱心にイエスのことを尋ね求めている求道者だったと推察されます。

エリサベツとザカリヤには子どもがいない年老いた夫婦でした。アブラハムとサラのことを思い出しますね。神さまはこの夫婦にも御業を始められ、エリサベツとザカリヤはバプテスマのヨハネの父母になります。

「アビヤの組の祭司」というのは、祭司アロンの子孫は24班に分かれていて、各班の中から籤(くじ)で選ばれて1週間ずつ交替して順番に宮の祭事を司(つかさど)りました。

アビヤはその第8班(歴代誌第一24章7節〜19)で、1回務めると再び選ばれることはないということですから、この日はザカリヤにとって一生に一度の特別な日でした。

ついでながら24班の順番は一定しているので、紀元70年エルサレムの陥落時に順番に当った班の名称から逆算すると、このアビヤの班の順番に当たる週間を知ることでき、そこからイエスの誕生の日を決定する一つの材料となると黒崎幸吉が記しています。

ガブリエルは「神の人」、または「神は人なり」の意味で、神の意志を伝える使いです。その御使いが、すでに老境に入っている夫婦に子供が与えられると聖所で告げたのです。

しかも、その子は万民の祝福となるべき男児だと言われて、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか」と言ったザカリヤは話すことができなくなってしまいました。

なぜ?! あまりの出来事に驚いてそのような言葉が出てしまったのは自然なことだと思うのですが、「あなたの祈りが聞き入れられたのだ」と告げられているのに信じなかったからだというのです。

私たちもイエス・キリストの十字架の死によって罪赦されるという、考えられないような恵みゆえにか、多くの人が信じられないのと同じだなぁと思いました。例えば太宰治は「そんなうまい話はない」と信じられず自殺してしまいました。

私たちもいつも祈っている神さまを本当に信じているのだろうかと、今一度自己吟味することは、まさにアドベントにふさわしい過ごし方だと思います。

ザカリヤが話せなくなったのは罰のように思えるのですが、ザカリヤの出来事は本心に立ち返らせる神さまの警告だと思いました。

神さまが「黙って見ていなさい」と沈黙させてくださり、そのことによりザカリヤは妻の身に起こった神さまの偉大なわざをしっかり見ることになりました。そして、「ザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた。」(64節)と、しゃべられるようになった第一声は神への讃美でした。

この夫婦に授かった子どもはバプテスマのヨハネであり、キリストの出現の前にイスラエルの人々をイエスに導き、イエスによって主なる神に立ち返らせる使命を託された人物でした。

IMG_9338.jpgバプテスマのヨハネの誕生は、まさにイエスさまが誕生される前の序曲です。神さまはいつも私たちが人間の力ではどうにもならなくなった時に不思議なことをなさいます。

私たちにとって喜ばしいことであれそうではないことであれ、それは全知全能なる神さまのみ心に叶う最善なのです。

ザカリヤにとっては試練だったでしょうが、神さまは愛にして愛なるお方です。私たちも神さまの約束をしっかり信じて善き闘いを闘い抜きたいと思います。


posted by 優子 at 16:25| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月30日

持久走大会4年生も2位でゴールイン

IMG_9312.jpg昨夜まで持ちこたえていた最後の一輪もとうとう花びらを落とし始めていた。そして、持久走大会から帰宅したとき花びらはすべて散っていた。
IMG_9309.jpg








雨上がりの今朝、予定通り小学校の持久走大会が開催された。例年と違って暖かい朝でありがたい。

去年の後半期は知子が多忙を極め応援にいくことも断念せねばならなかったが、その前夜からひどい嘔吐のため欠席したので今回で3回目の出場だ。

1年生では1位、2年生の時は2位、そして、今回も2位でゴールイン! 2年生の時から今回もHa○○君が1位! ユキもよく頑張った!

低学年は2q、中学年のユキは2.6q走る。来年は3.2qだ。最初に運動場を2周して校外を走り、最後に運動場を1周してゴールインする。

去年から変わったのだろうか高学年から走り始めた。9時40分から2分ごとに次々走り出し、各学年の最後ランナーに職員による伴走車が続く。

町内のコースになっている30か所の立哨(りっしょう)場所に協力者が合計150名ほど(?)立ち、それ以外にも多くの保護者が沿道で応援する。

私たちは今年から見学場所を変えたが、走ってく来る子どもを見つけて写真を撮るのは難しい。4年生は赤帽と言っていたので、この中にユキが居るだろうと自信のないままシャッターを押した。幸い写っていてよかった。ユキは先頭から5番目に走っていたそうだ。

4年徒競走@.jpg

今年は2年前の経験を活かして、最後の上り坂のために体力に余裕を持たせて1番で走らないと話していた。
E99990E7958CE6A8A1E6A798.jpg 4年徒競走A.jpg  
(↑)2年生の時、このあと後ろに続くHa○○君に抜かれた。Ha○○君から「この坂を頑張れるように力を残しておけってお兄ちゃんが言ってた」と聞いて、ユキも倣ったのだ。偉い!

それから2年経った今日のユキ(右上の写真)。幼さが消えていくのが寂しいが、見事に成長していく子どもたちに感動する。白い帽子は5年か6年生だ。

 E3818BE38191E381A3E38193E5A4A7E4BC9AEFBC81.jpg E68C81E4B985E8B5B0E291A2.jpg
幼稚園年長組は2位。小1は1位で「ゆきひさ君はダントツに速いね」とお母さん方に印象付け、今日もそのように話してくださる方がいた。

4年徒競走B.jpgユキは4年生で2位、クラスでは一番だった来年も2人の活躍が楽しみだ。

Ha○○君とユキのツーショットを撮らせてもらったら、写真を見てびっくり。もう一人入ろうとしてくれていた子に悪いことをした。
IMG_9333.jpg

5・6年生になると話しながら歩いている不真面目な子も珍しくなく、今年は2人の男の子が殴り合いの喧嘩しているので割って入って止めねばならなかった。

一旦は離れたもののすぐに殴りに行くのでまた止めに入っていると、息を切らして追いかけてこられた女性(先生だと知らなかった)に委ね、先生方のご苦労を垣間見た。

このあと1・2年生の子どもたちも応援したかったが、義母の世話があるので知子が会社へ向かうのを機に帰宅した。

では今朝の景色をここに。
IMG_9306.jpg

IMG_9304.jpg

IMG_9301.jpg

IMG_9300.jpg

IMG_9313.jpg
ピンクのヒガンバナ

IMG_9315.jpg

IMG_9317.jpg

IMG_9316.jpg

IMG_9326.jpg

IMG_9327.jpg
花ゆず
明日から寒くなるそうだ。
続きを読む
posted by 優子 at 21:13| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年11月29日

ブルンナー読書会N ―大いなる招き―

これは11月25日(土)の記事です。

IMG_9246.jpgミニトマトのオーナメント。こんなに実が残っているのでミニトマトの木を抜くに抜けなくて、ついに今朝処分した。そして実をカイヅカイブキに飾った。少しでも赤くなれば口に入れたい。

今日は毎回楽しみにしている「ブルンナー読書会」。ところが今日は夫は年に一度の土曜出勤日(年に一度にしたのは今年からで知子の英断による)なので、午前中は全体会議で午後は読書会。

感心に頭を切り替えて集中し、夫にも頂戴したテキストに赤線までひいてあった。夫も回を重ねるたびに密度濃く吸収しつつあるように感じる。

今回は、エーミル・ブルンナー著『フラウミュンスター説教集T』の4回目、説教のタイトルは「大いなる招き」。翻訳者から直接ご高説を賜わることのできる恵み。神さまに感謝しつつ2度目の発表当番を務めさせていただいた。

ルカによる福音書14章16節〜24節:
14:15  列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。
14:16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。
14:17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
14:18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。
14:19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、
14:20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
14:21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。
14:22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。
14:23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
14:24 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

下村さんのご解説より:
この説教は1948年12月に語られた。6月にロシアがベルリンを封鎖した年で明日どうなるかわからない時代だった。東西冷戦が始まった第一期の緊張が一番高まった時ゆえに「第3次世界大戦」という言葉が出て来る。

東西の冷戦は1945年のヤルタ会議から始まったと言われ、ベルリンの壁が壊された1989年11月まで44年間続いた。

私たち(キリスト者)はいつも初心者であり、日々悔い改め、新しくされて生きるのであり、完全な救いを望みながら生きるというわけでブルンナーの言葉は厳しい。

今日の説教では「喜び」という言葉が何度も出てきた。初代教会の人々は常に喜びをもって将来を考えた。ペテロ第一の手紙(1章3節〜9節)にあるように、イエス・キリストの将来を待望していた。

1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
1:4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救いにあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。 
1:8 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
1:9 それは、信仰の結果なるたましいの救いを得ているからである。

(ここを輪読している間、私は神さまからの深い慰めを感じて涙が溢れそうになった。)

ヨハネによる福音書17章は「執り成しの祈り」、「大祭司の祈り」と言われているイエスの祈りである。神とイエスが愛し信頼する中で一つであった。その交わりの中に私たちも加えてもらい一つになる。「一つなる交わり」が宴(饗宴)の本質である。

ヨハネによる福音書 17章20節〜26節:
17:20 わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。
17:21 父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
17:22 わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
17:23 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。 
17:24 父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。 
17:25 正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。
17:26 そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。

私たちは罪を犯し、わがままや傲慢、不信が起こってくるが主イエスを見上げることができる。今はボンヤリと昔の鏡を通してイエスを見ているが、顔と顔を見合わせて会える。これが人生最後の目的であり、罪の悩みもなくなる

ドイツ語で「将来」という言葉は「未来」とも訳せるが、未来はまだ来ていないが、まさに来たらんとしているという意味を持っている「将来」と訳した。

私たちが目指していく将来は「もともと、現在から未来にわたるわれわれの生を規定するもので」あり、将来によって動かされていく。方向もエネルギーもそこにあるということだ。ところがキリスト者と言えども本当に応じていない。

私たちキリスト者は本当に大いなる将来を信じているのだろうか?!
なぜこんなにも招きが拒否されるのか。その不信仰の理由と拒否の仕方など、ブルンナーはあまりにもこの世的になったキリスト者を批判している。

ラインホルト・シュナイダー(1903〜1958・下村喜八さんがシュナイダーの第一人者)は、信仰者が少なくなり「空っぽの教会」となってきたのはなぜかと、現在人の心理を考えるために不信仰の心理学を考えた。

現代と違って昔であれば人生は短かく、絶えず死というのが身近にあったからではないか。そして、人間の死が同じ形になってきた。死が先延ばしになっているし、緩和ケアにより死に至る苦しみが取り除かれた。今は人生が長くなり死への不安が小さくなった。

フロイトは緩和ケアを拒否して死んだ。シュナイダーも腸閉塞の苦しみはキリストの十字架の苦しみと一体感にしてくれると耐えた。

レフ・シェストフ(ロシアの哲学者)の『悲劇の哲学』の影響を受けてドイツに実存哲学が入ってきたことや、ヤスパース(死に至る存在というところから出発した)なども紹介された。

中国に「人間は父親に似るよりも時代に似る」という諺があるが、主体的なものと歴史的なものの境はない。即ち、時代は自分の内で起こり、時代はいかに人間を侵食していくかがわかる。

私が発表で引用したブルンナーの言葉:
▼ 人間は将来をめざして生きなければならないように創造されている。主イエスも使徒たちも、神の国について語る際はいつも、永遠の国、永遠の生命を考えている。

そのことを信じず、関心を寄せなくなればなるほど、「時間切れパニック」を起こし、全てのものをこの世に持ち込もうとし生の意味への絶望が入り込む。

▼ 招きを先延ばしにしてはいけない。さもないと、間に合わなくなるかも知れない。神の招待は差し迫っている。招き(音信)を拒否すれば音信は異教徒へ向けられる。

▼ 今のキリスト者は、ユダヤ人が神の国は我々のもので正当な相続人であると選民意識に安住し、イエスの大いなる招きを拒否して十字架につけてしまったのと同じ危険に立たされている。

 私たちが真に招きを受け入れているか否かを識別する3つの「しるし」。

 @「神様、罪人のわたしをおゆるしください」という取税人のもつしるし。

 A永遠の国における神との交わりと饗宴という人生の目標を信じ、喜びをもって期待しつつ生きる人間になること。

 B人々が福音を聞かされ、招待され、招待を受け入れることができるように努力すること。

私は自らの信仰生活がぬるま湯につかっているような状態であることを語った。

夫が引用し読み上げた箇所:
キリスト教の洗礼証書は、洗礼の際にあなたが招きを受けたということ以外は何も証明していません。それは、あなたが招きに応じたことを証明しているのではありません。

あなたが教会へ行き、聖書を読み、祈るということーそれらはすべて正しいことです。しかしこのこともまた、あなたが招きを本当に受け入れたことを証明するものではありません。

ユダヤ人たちも、彼らの聖書を読み、シナゴーグへ行き、祈っていました。しかし招きを受け入れたのは、彼らのうちのほんの少数の人たちでした。招きは神がなされる事柄です。

それは、神の愛の計り知れない無限の慈愛の言葉、すべての人に与えられすべての人に永遠の生命を約束する神の慈愛の言葉であり、およそ人間の望みうる最大のものです。

とはいえ、招きを受け入れることは人間の側の事柄です。神は、われわれに代わって出かけてゆくこと、戸を開けることまで引き受けてはくださいません。
夫はこの箇所から、自らも本当に神の招きを受け入れたのかどうかわからないでいるようなことを述べていた。

読書会が終わりケーキタイムに移るとき、私は自問自答し、夫にも問いかけた。大いなる将来を信じているのかと。

次回はクリスマス礼拝前日の12月23日(土)。
主にある者と共に聖書を味わえるとは神さまからの贈り物。まさに今の私に最も嬉しいクリスマスプレゼントだ。

附記:知子は一人残って仕事し、17時過ぎの電車で帰って来た。読書会の間、真智の部屋で宿題の作文を書いていたユキもケーキタイムに加わった。

続きを読む
posted by 優子 at 17:44| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

渡り鳥たちのたくましさを思いつつ

琵琶湖はコハクチョウの越冬南限とされ、毎年、シベリアから数百羽が飛来して翌年2〜3月ごろまで過ごすという。現在、湖北の長浜に白鳥90羽、オオワシが飛来しているとのこと。

IMG_1947.jpg

このような光景を見るならば、朝8時から9時頃に(ここで今夏以後頻繁になっている義母の世話で走って行き、中断したまま忘れて更新してしまったので意味不明な文章になっていた)湖面から飛び立つので、それを見るためには夜中に出発しなければいけない。

私は外泊が好きではないので決心がつかないが今季こそ行ってみたい。独りで行こうかと思うが、興味を持っているユキにも見せてやりたいし・・・

IMG_9285.jpgこれはユキが作ったススキの箒。
「ユキ、きれいに掃けたよ!」

昨日は吉野へ行った27日よりももっと暖かく19度にもなった。室内は25度にもなりセーターを脱いで綿の服に着替えねばならないほどだった。

今朝は暖房なしでも暖かく体調も良い。案の定血圧も(121/75)、このような数値は何日ぶりだろう。維持することは難しいだろうが、体調がいいと何でもできそうな気持になり、起き抜けからベランダを履いた。

IMG_9286.jpgきっとベランダはこれが年末の掃除になることだろう。
若い頃には考えられないことであるが、年を取るというのはこういうことだとわかってきた。とにかくマイペースで健康維持していくことが大切な課題だと思う。

IMG_9293.jpg
まもなく厚い雲に覆われて陽ざしも消えた。
明日の小学校のマラソン大会は雨で延期か。
暖かいのも今朝までで既に気温が急降下しており、覿面に頭が重くなって束の間の快調の時だった。

「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」。(ローマ人への手紙 12章15節)
あなたは、友の幸いを心から喜べますか。隣人の悲しみを汲み取って一緒に泣けますか。「隣が畑を買えば腹が痛む」「人の不幸は蜜の味」というのが人の常です。だからこそ、打算なく共に喜び、共に泣いてくれる友の存在はありがたいものです。私たちがそんな友になりましょう。私たちには、私たちの心に寄り添う友なるイエスがおられます。

「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません」。(ローマ人への手紙 12章16節)
高ぶりと自惚れ。これが私たちの生活に問題を引き起こします。高ぶれば祈らず、祈らなければ高慢は増長します。主の光の中で自分を見つめれば、誰でも謙遜にならざるを得ません。謙遜こそクリスチャンの強力な武器です。主は謙遜な者に力を注がれるからです。

「あなたがたは自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」。(ローマ人への手紙 12章18節)
あなたが平和を願うなら、あなたから平和を創る行動に出て、和解の手を差し出しましょう。和解の手を出していれば、その手を握る人が必ず出てきます。敵対的な人たちにも、一応、平和の意思を示しておくすのです。逆にあなたが、あなたとの和解を願う人を拒絶するなら、もう一度、十字架の愛を学び直す必要があるでしょう。
  
          ―キリスト栄光教会より―

祈りの友が贈ってくださったお言葉通り、これからも「どんなに大変な時でも、主を主として」歩んでいきたい。
続きを読む
posted by 優子 at 12:20| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年11月27日

西吉野に富有柿を買いに

今日は近隣の親友Nさんと西吉野へドライブがてら富有柿を買いに行った。

27-1.jpg
今朝は霧で二上山も見えなかったが、出発の頃には霧も晴れて暖かく穏やかな一日だった。

子どもの頃、いや20歳ぐらいまで「富有(ふゆ)柿」を「冬柿」だと思っていた。少し前まで富有柿の日本一の生産地は奈良県、ここ吉野だったが、今は和歌山県だという。

10年ほど前まで私も何度かNさんに西吉野の柿選果場へ連れて行ってもらったことがあるが、5〜6年前からこの直売所に来られている。ここの方がはるかに安い。

27-2.jpg

私たちはそれぞれ5キロ買った。Nさんはひとシーズンに3〜4度訪れ、今日は友人に頼まれた贈答先に送り、3人に3キロ、もう1人に5キロを手分けして量った。

27-3.jpg

27-4.jpg
都会と違って誰もいない自然の中をドライブしていると、緊張が解けて心がほぐれていくのがわかる。

27-5.jpg

27-1-2.jpg

この農園は葉が残っていたが、殆どの木は実だけになっていた。半分は既に収穫し終わっていた。

27-6.jpg

27-7.jpg

写真を撮っていたら堺から来られた男性に声をかけられた。「すごい感動してはるから、どこから来はったんかと思ったらナンバープレートが奈良ですやん。奈良のどこです? 奈良やったらこんな風景はあるんと違いますのん?」と、あまりにも感動している私の様子に心寄せてくださり、しばらく3人で話に花が咲いた。

確かに近隣宅の庭に柿の木がある家は珍しくないが、こんな柿畑は吉野ならではのもの。Kさんに柿を買って行こうと思ったが庭に甘い柿がたくさん実っていた。

27-8.jpg
「秋に柿を食べると風邪をひかない」とか
「柿が赤くなると医者が青くなる」と言われるほど
柿は栄養価が高い。柿は私の大好物!

27-9.jpg

今回も吉野の山で魚(鮪)料理を食べ、
地元へ帰って甘いものとコーヒー飲みながら
喋りっぱなし。
こんなに笑ったのは久しぶり。
本当に楽しかった。
こんなcomfortableな情態で生涯を終えたいな。

関東のサムサムさんから関西弁でコメント感謝:

「柿が赤くなると医者が青くなる」か。

ど、ど。ええ言いなあ。感心た。

posted by 優子 at 17:22| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年11月26日

家の教会2017㊷ ―インマヌエルの神―

IMG_9110.jpg「イエスさま、今日も家の教会できたことを感謝します」。
いつもこのように祈るユキの言葉に、私の中から深い感謝を呼び起こしてくれます。
そして、「家の礼拝、私も太志もいつも参加しています」との真智子の一言から、神さまからの慰めと祝福を感じます。

今朝も神であるイエス・キリストの御臨在のもとで、次女夫婦も一緒に集っている光景を想いながら礼拝を始めました。
12-3.jpg2017年11月26日(日)
 (2017第42回 家の教会)

    10時20分〜55分

 出席者 3名(with ユキ&良輔)


@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 聖歌     229番「驚くばかりの恵み」
C 聖書輪読   マタイによる福音書1章18節〜24節
D お話     優子
E 聖書輪読   マタイによる福音書2章1節〜12節
F お祈り    一人ずつ
G 讃美歌    529番「ああ嬉し我が身も」
聖歌229番は良輔のリクエストでした。
マタイによる福音書 1章18節〜22節:
1:18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
1:20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使いが夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
1:22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。
その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。
これは、「神われらと共にいます」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
1:25 しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。

ribbon1a.gif

2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
2:4 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。
2:5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
2:9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
お話:
今年のアドヴェントは来週から始まりますが、クリスマスに間に合うように詳しく読んでいきたくて、今日は「プレアドヴェント」と位置付け、今週から関係個所を読むことにしました。

ヨセフとマリアは結婚する約束を結んでいましたが、マリアはまだ一緒になる前に身重になりました。処女が聖霊によって身ごもるというのは、とても理性では考えられないことですから、結婚前に身重になったことがわかるとマリアは姦淫の罪で石打ちで殺されてしまいます。

ヨセフは誠実で責任感のある人でしたから公にはしませんでした。しかしまたそのようなマリアを妻にすることもしませんでした。それがヨセフの正しさであり、「ヨセフは正しい人であったので」と言われる所以です。

それだけではなく、夢の中で語られた主の使いの言葉に従ってマリアを妻に迎えました。これは神に対する全幅の信頼ゆえにできることですね。

「お言葉どおりこの身に成りますように」というマリアの言葉はよく耳にするところですが、主に委ねる従順さはマリアだけではなくヨセフも同様でした。

「イエス」という名は、モーセの後継者ヨシュアのギリシア語訳「イエスース」から来ており、ヘブル語では「イェシュア」、「主は救い」という意味です。

イエスさまがもたらされた救いとは、イスラエルがローマ帝国の圧迫から解放されるというような、ユダヤ人が考えていた救いではありませんでした。

それは人間の深いところにある魂の滅び、死や安全を脅かす根源的な恐れからの解放でした。それが神さまの永遠の保障であり、そのしるしが イザヤ書7章14節に告げられています。それはイエスさまがお生まれになる800年も前に預言されているのです。

「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」。

「インマヌエル」という呼び名は、「神は私たちと共におられる」という意味ですが、「それは本来、状態を意味するのではなく、『神性と人性が共にある存在』という意味です神と人とが一つになったユニークな存在で、その存在の神からの『しるし(サイン)』は、『処女から産まれる男の子』でした。

インマヌエルであるイエス・キリストは、神としてのあり方を捨てて人間として歩まれました。しかも貧しく弱い者として歩まれましたから、神に依存しなければ生きていくことができず、神と共にある祝福をご自身を通して証しされたのです。

昨日の「ブルンナー読書会」で話題になったことと関連しますが(明日には書き上げて更新したいと思います)、物に溢れ満たされていては神に依存する謙虚さは生まれてこないでしょう。

多くの人は依存するのは弱い人間のすることであると批判します。しかし、そうでしょうか。強いことがよいことだとは思いませんが、強い人など一人もいませんし、自分は弱い存在だとわかっている人こそが最も強いとも言えるのです。

ヨセフの信仰と生き方に学びたいですね。
今日はお話が短かったので終わるのが惜しく、みんな心弾ませて今朝読んだ聖書の続きを読みました。
附記:知子は今日も全日外出です。
posted by 優子 at 16:35| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月25日

花のいのちを生きんとす

最低気温が1度まで下がってもへこたれず、冷たい風に揺られて、今にも花びらが落ちそうだった。シュウメイギクは今朝も保ち、斜光線を受けて輝いていた。

25-1.jpg

しかし、もう限界。
近くで見ると花びらは痛々しく色あせている。

25-3.jpg

25-5.jpg
花はどこから見ても飾らず美しい。
後ろ姿の美しい人になりたい。

25-6.jpg

「生きるとはこういうことだよ」と
教えてくれているみたい。

25-7.jpg

いのち尽きるまで精いっぱい咲き切るのだよと。

25-8.jpg
有終の美
今日は2時前から「ブルンナー読書会」、
楽しみだ。
続きを読む
posted by 優子 at 12:34| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年11月23日

楽しかった秋の一日 ―私の隠し絵「祝福することは勝利なり!」―

23-1.jpg
ここはどこでしょう?

IMG_9154.jpg

IMG_9156.jpg

IMG_9158.jpg
そう、大阪城です!

IMG_9159.jpg
昨春乗ったアクアライナーが出て行きました。

IMG_9163.jpg
ホテル・ニューオータニの18階から撮りました。

IMG_9166.jpg
ガラス越しなので鮮明に映し出せなかったけれど
大阪城公園も美しく色づいています。

IMG_9173.jpg
この一番上の階から見ていました。

IMG_9144.jpg

IMG_9188.jpg

IMG_9189.jpg
生協のネット案内で4000円ほどで購入。
家族全員の空いている日がようやく取れたけれど、
ユキにはサッカー教室を休ませてしまいました。

IMG_9139.jpg「ユキ、おじいちゃん、私、ママの『お誕生日おめでとうランチ』にしよう!」と言うと、「真智とフーも!」とユキ。
「そうやね、ついでにクリスマスランチもかねて楽しもう」と、予約していた中華料理店へ向かいました。


IMG_9133.jpg
蟹とアヒルの卵だけで味付けしたとか。
おいしかったけれど塩辛かったね。
ユキはフィンガーボールも初めてだったので
心を打つ話を贈りました。

2人で食事をしていた時のこと。相手の人がフィンガーボールはの水を飲んでしまいました。それは指を洗うための水だと知らなかったからです。そこで、その人に恥ずかしい思いをさせないためにもう一人の人もボールの水を飲んだというお話です。

教会へ通い始めた早々に小山恒雄牧師が説教の中で話されたことでした。感動したことは31年経っても覚えているのですね。

IMG_9140.jpg麻婆豆腐はユキの大好きな献立です。「ぜったい給食の方がおいしいに決まってる」と言って食べ始めると、辛くて「ヒーヒー」。ジャスミンティを何度も飲みながら、汗をかいて食べていました。

でも、さすがに味はよかったようで、お豆腐をお箸でつまんで完食しました!

IMG_9171.jpg次は18階に移動してスイーツタイムです。ユキはジンジャーエールがお気に入り。

IMG_9160.jpg

IMG_9164.jpg
私の細やかな楽しみでしたが、昨夜は嬉しくて深夜2時過ぎまで眠られませんでした。ここに心の隠し絵のような悲しみと、それゆえの神の慰めを織り込みました。今日の日を主に感謝します。

「私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください」。(詩篇61篇2節)
体も心も疲れ果て、主が遠くに感じられる時があります。でも、それは私たちの思いなしであり、実は、そんな時こそ主は最も近いのです。暗い思いに引きずり込まれないよう、心を切り替えて主に叫びましょう。主が用意されている将来の希望を見せてくださいます。

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、揺るがされない」。(詩篇62篇1・2節)
心が騒ぐときは、口だけではなく心も黙らせて、静かに主を仰ぐのです。主の平安が心に浸透し、主の憐れみと救いが見え始めます。感情任せに動けば、事態は悪化し、闇が覆うだけです。主の岩の上に立ち、あせらず、じっと待ちましょう。主が動き始められます。

「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません」。(ローマ人への手紙12章14節)
自分を傷つけた人の名を挙げて祈り始めると、いつしか憎しみが消え、赦す心が生まれ、ついには祝福できるまでになった、という人の話を聞きました。キリスト者にとって呪うことは敗北、祝福することは勝利です。この勝利こそ信仰の醍醐味です。たとえば今、私たちは北朝鮮を呪わず、憐れみを祈るのです。
               ―キリストの栄光教会より―
posted by 優子 at 21:13| 夫婦・家族 | 更新情報をチェックする

2017年11月22日

福沢諭吉『学問のすすめ』を読む ―日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会―

IMG_9086.jpg今年6月に千里ニュータウン教会の東 道男牧師が召天され、在りし日の師のお姿を想い寂しさに胸詰まる。

「東先生、どこへ行ってしまいはったんやろね。不思議やね」と、Oku姉妹が教会の台所でしみじみ言われたことは、誰もが感じる残された者の実感であり不思議さだ。

昨年の11月は、10月に御伴侶を天に送られたまなしの例会だった。その時のことや感じたことも別の機会に書きたいと思っている。

当教会はいま無牧で大阪教区の牧師が輪番制で礼拝説教に来られているとのこと。役員会から今後も私たちの例会会場にとお許しをいただいたが、秋のイチョウ並木道を歩くのはこれが最後になるかもしれない。

では18日(土)の例会での学びを記録しお分かちしたい。講演は私たちの導き手である文芸評論家・梅花女子大学名誉教授の大田正紀先生である。

最初に言い訳を一言。いつも拙い書きとめだが、この日は特に血圧が高く睡眠導入剤を服用していたので、時に朦朧状態になって十分な聞き書きができなかった。
それでも感銘することしきりで、私にとって歴史上の人物でしかなかった福沢諭吉が目の前に現れてきたように感じ、是非励ましをお分かちしたい。

福沢諭吉と中村正直は近代日本をつくった啓蒙学者として挙げられる。2人の共通点は、最初は儒教であったがキリスト教にとても傾倒したことである。

諭吉は信仰をもっていなかったが、子どもたちには熱心にキリスト教の教えを伝えた。道徳としてではなく、より高い品性を持っていかなくてはならないということで特に「十戒」を教えた。

(どう)(もう)おしえ草 ひびのおしえ』に記している「おさだめ(7つの大切なこと)」として、うそをつかない」、「ものを拾わない」、「父母に聞かないで物をもらわない」、「強情をはらない」、「兄弟げんかをしない」、「人のうわさをしない」、「人のものをうらやまない」の7つを丁寧に教えていた。 

  

「神」といえば、日本では八百万の神を想像し、中国では人間の嘆きを決して聞いてくれない天を想像するが、諭吉は聖書の神をしっかり意識していた。

「ひびのおしえ」の10月27日の「ゴッド(神、造物(ぞうぶつ)(しゅ))の心」では、「おさだめ(六つの大切なこと)」の第一は、「天道(てんとう)さまを恐れ、これを敬い、その心にしたがいなさい。ただしここでいう天道さまとは、太陽のことではありません。西洋のことばでは『ゴッドといい、日本のことばにほんやくすれば、創造(そうぞう)(しゅ)(神)というものです。」と十戒を網羅している。


当時の男たちは皆家庭以外に妾を囲うのが当たり前だった時代であり、年端もいかない子どもにも「汝姦淫するなかれ」の教えは必要だった。諭吉は妻以外とは一切そのような関係を持たなかったし、茶屋遊びも殆どしなかった。

しかしここで大切なことは、「これを守らなければならない」とがんじがらめにするのではなく、「あなたが本当に高い品性の人間になりたいならば、神さまがあなたを幸福にならせたいために送ってくださった教えに学びなさい」と導いた。(ここはアヤフヤ)

当時、米国では保守的な人々が大学を創っていたが、キリスト教をもっと自由に信じたらよいということで、神だけを仰ぎ、救い主をもたない「ユニテリアン」がハーバードだった。

諭吉はハーバード大学の分校のようなものを創りたく、慶応大学に神学部を新設したいと思ったが許可されず失敗した。


諭吉は大阪大学の基になった適塾で学び、塾長になり緒方洪庵に大切にされて学を修めた。諭吉はよく実用の学を説くので金儲けと間違われるが、その最も深い真理に対する欲求であり無心に寸暇を惜しんで勉強した。

横浜では専ら英語が用いられており習得したオランダ語が全く役に立たず、英語を教わる所もなく独学で英語をマスターした。諭吉はチャンスを大切に活かし幕府から3度洋行する。最初は咸臨丸による渡米、次にヨーロッパの視察旅行があればそれにも潜り込み、そしてまた再渡米し、近代の外国に深い感銘を受けて帰国した。

中村正直は儒学のトップの権威を持っていた人物である。西洋の科学を支えている精神性を見分けるのが自分の仕事だといって渡欧。

イギリスの人々のモラルの高さとキリスト教の精神。子どもたちが労働だけで潰されてしまうことがないように配慮して社会を作っているなど、キリスト教がいたるところで生きていた。
帰国した時、幕府が潰れていた。尊王か攘夷かというのは過ちだ。優れた文化は取り入れるべきだ。

諭吉もまた洋学者は命を狙われる状態で教育者として立っていた。諭吉は西洋のように努力すれば国や自分自身を建て挙げるげていくことができる、血統は関係ないんだと子どもたちに説いた。

今の日本人を変えていくのに大切なことがキリスト教だとして、禁教令下で我が子をキリスト教徒にすべるべく、十戒の教えが響いている「おさだめ」を教え、アメリカの学校にも入れた。このことは諭吉の没後に息子が公にした。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」はアメリカの独立宣言の引用である。『学問のすすめ』は全ての人のために書いたものではなく、「あなたがたは一人ひとりに与えられた天賦の才能がある」と、田舎にいる不安な若者たちに書いた。役に立たない儒教ではなく、多角的、合理的に物事を考え企業を起こしていく。その励ましのために書いた。

今は貧しい人々に厳しいのではないかと言う批判があるが、福沢と中村は教育こそが子どもを真に自立させていけると考えていた。支配するための道徳ではなく、自分を向上させていく修身的な道徳があったほうがよい。

諭吉は明治維新まで32年生き、その後32年生きた。専修大学も福沢が創っている。「福沢は日本の近代の準備に半生を生き、それを完成させるために半生を生きた」と小泉信三が言っている。

附記【11月20日記事より例会の朝のこと】:
11月初旬から医師の指示通り降圧剤を2倍服用しているが効果がない。18日の冷たい雨の例会の朝は160台だったので頓服を飲み、欠席することになるかもしれない同日午後からのJCP例会関係者に連絡して諸務をお願いした。

毎年11月のクリスチャン・ペンクラブ例会は、当市の公立幼稚園や学校の公開授業(オープンスクール)と重なる。血圧は高かったが珍しくそんなにしんどくなかったので知子と学校へ向かった。

例年通り10時過ぎまで参観して学校を後にした。知子に例会を休むように勧められてしばらく立ち止まって躊躇していたものの、今の私にはかけがえのないクリスチャンの交わりゆえに行きたくて、生きることはいのちを削ることでもあると思って駅へ向かった。

知子は私の姿が見えなくなるまで雨の中見守ってくれていたという。睡眠導入剤の影響でフラフラするのでプラットホームから落ちないように真ん中を歩くように注意した。

大津から来られるHa兄(きょうだい)は朝の電話で、「(南千里)駅まで迎えに行くから電話してや!」と何度も言ってくださり、そのやさしさに目頭が熱くなった。

万が一のために私は夫の携帯電話にHaさんの電話番号をメモした紙を貼って持参したが、その優しさだけで十分だった。その時はタクシーに乗ればいい。IMG_9090.jpg

12時50分無事到着。
玄関に入るなり、私から「電話がないので欠席かと思ってた。大丈夫か?」とHaさん。教会の役員さんも心配してくださっていた。感謝!

posted by 優子 at 23:16| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年11月21日

皆川達夫さんのキリスト教音楽への情熱

IMG_9097.jpg最低気温が2度まで下がった今朝も寒さに耐えて健気に咲く最後のシュウメイギク。

「美しいね。私は最期まで見てるよ」。

私は通るたびにしゃがんで声をかける。

私のお気に入りの一つに、日曜日の朝、シューベルトの『楽興の時』第3番で始まる ラジオ第1放送の『音楽の泉』がある。テーマソングをバックに道案内人・皆川達夫さんの声に深い安らぎを感じ、終わる時のさみしいこと。

日曜日は礼拝を捧げるのでゆっくりできないが、ベッドの中で途中まで聞き、続きは食卓で聴くことが多い。先週の『クリスチャン・トゥディ』に掲載されていた皆川さんの記事に深い感動を覚えたので転載させていただいた。

皆川辰夫さん.jpg中世・ルネサンス音楽研究の第一人者で立教大学名誉教授の皆川達夫さん(90)が11日、「かくれキリシタンの祈りの歌」と題した公開講演会(主催:立教大学キリスト教学会、文学部キリスト教学科、キリスト教学研究科)に登壇。キリスト教と音楽、そして隠れキリシタンに歌い継がれてきた「オラショ」について、集まった140人余りの聴講者を前に講演した。

「キリスト教と音楽のつながりは深い。教会には常に音楽があり、また音楽の歴史を語るとき、キリスト教は切っても切れない存在だ。

例えば、バッハやシューベルト、モーツァルトも優れた宗教音楽を残している。それはなぜか」。

そう問い掛け、キリスト教会において音楽が重視されてきた背景をひもといた。

多くの宗教は、見えない神を何とか視覚的に捉えようと、仏像や仏画などを作る。また、海や山、木などに神が宿っているとして、それを拝むことによって神の存在を確かめる。しかし、キリスト教では偶像崇拝は禁止だ。

「キリスト教は目で見る宗教ではなく、神の声を耳で聞く宗教。音楽もまた、形がなく捉えることができない。しかし、私たちの心の中に不思議と大きな感動を与えてくれる。不思議な数の調和の上に成り立つ芸術が音楽。

したがって、音楽は人間の創造物というより、神が作った『音』を人間が利用させていただいているものと言える。人間が作ったものでありながら、神が作られたものであり、神の存在が音の中に潜んでいる。

だから、人間は音楽を聴いて感動する。そして、神を礼拝するため、賛美するために音楽を用いる。キリスト教が優れた音楽を生み出してきたのは、このような背景があるからだ」。

立ちっぱなしで休むことなく2時間に及ぶ講演をこなす皆川さん。さまざまな史実を語る際には、年号や時の将軍、音楽の話では作曲家や作詞家の名前など、詰まることなく口から出てくる。

外国人教員とはドイツ語で会話を交わし、また朗々と歌う姿は、間もなく1世紀を生きようとしているとは思えないほど、聡明で快活だ。

皆川さん.jpg

講演の後半では、いよいよオラショの祈りに話が及んだ。

オラショとは、隠れキリシタンによって口伝えによって伝承されてきた祈りの歌。ラテン語の「oratio(オラツィオ)」に由来し、もともとは宣教師によって教えられた、ラテン語の祈祷文にメロディーを付けて歌われたもの。

しかし、歴史を経る中で次第に意味内容が理解されないまま唱えられるようになった。そのため、日本語のような言葉と、ラテン語のようだが意味のよく分からない言葉が混在している。

例えば、ポルトガル系のラテン語と日本語が混ざった次のようなオラショがある。「デウスパイテロ ヒーリヨー スペリトサントノ 3つのビリソウナ 1つのススタンショウノ 御力をもって 始め奉る」。

皆川さんによると、これは「父と子と聖霊の三つの形の神様が一つになる」という三位一体を示し、祈りの冒頭に唱えるのだという。

隠れキリシタンたちはこう唱えつつ両手を組み、親指で十字を作るのが作法。そして、この不思議な祈りが1時間ほどあり、その後、節をつけた御詠歌のような祈りへと続く。これが「歌オラショ」だ。

「初めは何を言っているのかさっぱり分からなかった。しかし、何度か聴いているうちに、ある一節がラテン語のグレゴリオ聖歌なのではないかと気付いた」。

その後、今もなお隠れキリシタンの末裔が住む長崎県生月(いきつき)島を何度も訪れ、オラショを聴き、録音させてもらった。それをもとに楽譜に起こし、ラテン語に復元する作業を続けるうちに、「グルリヨザ ドミノ」と歌われているのが「O gloriosa Domina」(栄えある聖母よ)というマリア賛歌であることを突き止めたのだ。

「グレゴリオ聖歌であるらしい」という仮説を立てたものの、現在、日本で手に入る「グレゴリオ聖歌集」には、この文言が入った曲が見当たらない。

そこで皆川さんは、バチカン図書館に何度も通い、さまざまな楽譜をしらみつぶしに当たった。楽譜を整理するカードを保管する部屋だけでも、体育館のように広い。

そこから1枚1枚調べ、1日にたった3冊しか借りることのできない本を調べてはまた返し、カードを調べてまた借りるといった作業を約7年続けた。それはまるで「太平洋の海底からたった1つの小石を拾うようだった」という。

しかし、バチカン図書館ではお目当ての楽譜を見つけることができなかった。そこで、当時、日本に来ていた宣教師の出身地であるスペイン、ポルトガルをもう一度、調べることにした。すると、スペインの図書館にたった1曲、同じ文言の入った曲があったのだ。

「これを見つけた時は本当にうれしゅうございました。ようやく見つけた夢の楽譜でした」と皆川さんは感慨深げに話す。

これはスタンダードな聖歌ではなく、スペインのある地方、そして特定の年代にだけ歌われていたものだった。そのため、日本はもちろん、バチカン図書館でも見つけることができなかったのだ。

宣教師が自国のなじみの聖歌を携え、生月島の人々に伝えた。そして、260年にも及ぶ禁教の中、隠れながら人々はこの歌を歌い、「生きる力」をもらって信仰を保ってきたのだ。

「音楽は、ともすれば1週間で聴かれなくなってしまう儚(はかな)い芸術。しかし、この音楽は400年もの間、人が生きることを支えてきた。音楽の力強さを感じた」。

また、講演の最後には、琴の名曲「六段」(八橋検校作曲)がグレゴリオ聖歌の「クレド」(信仰宣言)であったという仮説を提示し、その根拠を説明した。「クレド」と「六段」の構造はまったく同じ。

講演中、このグレゴリオ聖歌と「六段」を同時に演奏しているCD「箏曲《六段》とグレゴリオ聖歌《クレド》〜日本伝統音楽とキリシタン音楽との出会い」(皆川氏の解説と指揮)を皆で鑑賞した。

聴き比べてみると、確かに聖歌の音階が上がると「六段」も上がり、下がるのも同時。クレッシェンド、デクレシェンドなどの一致も、素人の耳にも明らかだ。

皆川氏はますますの研究意欲を語り、講演を結んだ。

IMG_9101.jpg
続きを読む
posted by 優子 at 17:22| 音楽・芸術 | 更新情報をチェックする

2017年11月20日

全日公開授業のオープンスクールを参観してクリスチャン・ペンクラブの例会へ

11月初旬から医師の指示通り降圧剤を2倍服用しているが効果がない。冷たい雨の土曜日(18日)の朝は160台だったので頓服を飲み、欠席することになるかもしれない同日午後からのJCP例会関係者に連絡して諸務をお願いした。

毎年11月のクリスチャン・ペンクラブ例会は、当市の公立幼稚園や学校の公開授業(オープンスクール)と重なる。血圧は高かったが珍しくそんなにしんどくなかったので知子と学校へ向かった。

例年通り10時過ぎまで参観して学校を後にした。知子に例会を休むように勧められてしばらく立ち止まって躊躇していたものの、今の私にはかけがえのないクリスチャンの交わりゆえに行きたくて、生きることはいのちを削ることでもあると思って駅へ向かった。

知子は私の姿が見えなくなるまで雨の中見守ってくれていたという。睡眠導入剤の影響でフラフラするのでプラットホームから落ちないように真ん中を歩くように注意した。

大津から来られるHa兄(きょうだい)は朝の電話で、「(南千里)駅まで迎えに行くから電話してや!」と何度も言ってくださり、そのやさしさに目頭が熱くなった。

万が一のために私は夫の携帯電話にHaさんの電話番号をメモした紙を貼って持参したが、その優しさだけで十分だった。その時はタクシーに乗ればいい。
例会で学んだ福沢諭吉のこともできるだけ早くまとめてお分かちしたいと思うが、今日は今も回復せぬままで頭痛も消えない。

Anyway これはユキの学級。教室に入るなり明るい絵が迎えてくれて感激した。
IMG_9082.jpg

私は知子と2時間目の理科を参観させていただいた。タイトルは「ヒトの体のつくりと運動」。
本論に先立って、どうして「人」ではなくてカタカナで「ヒト」と表記しているのだろうという問いかけから導入され、子どもたちの活発な発表で時間を忘れて楽しく観ていた。

そして、子どもたちの発言からも今も変わらず日本では進化論が固定概念となっていたので、創造論の知識を有するユキはどのような気持ちで聞いているんだろうなと思った。勿論、帰宅して尋ねてみたが別の機会に譲りたい。

IMG_9072.jpg
「ユキ! 姿勢が悪いよ〜〜〜」
割りばしと輪ゴムで作った鉄砲がいっぱい!
こんなに作っていたなんて驚いた。

IMG_9067.jpg IMG_9068.jpg
秋の俳句はちょっと駄作かな? ごめん。

IMG_9080.jpg
口の周りが髭に見えるけれど、
黒ではなく赤色の唇だった。

IMG_9076.jpg
大きくなったね、ユキ。
もうすぐ4年生の2学期も終わってしまう。
この窓を覗くと黄色く染まったイチョウの木が美しく立っていた。
IMG_9077.jpg

知子は5時間目の算数も参観した。

posted by 優子 at 17:16| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年11月19日

家の教会2017㊶ ―金持ちの青年―

IMG_9083.jpg2017年11月19日(日) 

  (2017第41回 家の教会)

                10時〜45分

 出席者 3名(with ユキ&良輔)


@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌  82番「雄々しくあれ」

           90番「主イェスと共に」

C 聖書       ルカによる福音書 

            18章18節〜30節

D お話       優子

E お祈り      1人ずつ

F 讃美歌      355番「主を仰ぎ見れば」

           344番「かいぬしわが主よ」


ルカによる福音書 18章18節〜30節:
18:18 また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
18:19 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
18:20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。
18:21 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。
18:22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
18:23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。
18:24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。
18:25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
18:26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、
18:27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。
18:28 ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。
8:29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、
18:30 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。
お話:

救いを求めてイエスさまのところに来て救われなかったのはこの人だけだったのではないかと思うのですが、彼は品行方正でユダヤ教の戒律を守っている青年であり、若くしてサンヘドリンという最高法院の議員に選ばれていました。


それだけではなく人生についても考える人だったのだと思います。それゆえにイエスさまに純粋な気持ちで問うたのです。


しかし、青年は唯一絶対なる神さまのことがわかっていなかったゆえに「よき師よ」と、人間に対する形式的な敬称を用いて呼びかけました。イエスさまはそんな青年の心を直截に神に向けるために十戒を示されました。


その問答の次にまだ一つ欠けている(やり残している)ことがあり、それは大金持ちの青年に全ての資産を売却して貧しい人に分けるということでした。


ここで誤解してはいけないのは、施しをすれば永遠のいのちが与えられるという意味ではありません。持ち物を売り払って施すという善い行いによって救いを獲得するのではありません。


彼は自分中心の生き方でした。言葉を変えて言えば、自分のために生きていたゆえに財産を手放すことができなかったのです。しかし、これは大金持ちだった彼だけの問題ではありません。金持ちではない私たちにもできません。


それに財産だけが問題ではありません。富だけではなく、地位、名誉、習慣、伝統、あるいは、頑なな自我もそうです。いずれにしてもそれらを棄てられないがゆえに、それらを自分の神とし神を求めることもないのです


永遠の生命を確保したいと思わない人はいないでしょう。この大金持ちの青年は「永遠のいのち」を求めることのできる心を持っていたのに財産が大きな妨げになってしまったのです。


全財産を投げ出すなど誰もできないと思います。それどころか時には僅かな額でも出し惜しみしてしまうのが人間の本性ではないでしょうか。イエスさまは「人にはできない事も、神にはできる」と言われました。ここが大切で、ここに心を傾けるのです。


私たちはイエスさまの仰る通りに従えなくて、迷い、惜しんだり、間違いを侵してしまうお互いですが、そんな自分を嫌悪しながらもやっぱりイエス・キリストと共に生きていきたいと願います。


感謝なことに、そのように命の道に踏みとどまらせてくださっているのも神の力、神の恵みです


主イエスはいつか言われました。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と。即ち、富をどこに積むかは心をどこに置くかということであり、何を一番大切なこととして生きるかということです。


地上の富や善行や奉仕に生きることが一番大切なことではなくて、神さまとの関係を一番大切なこととして生きる。それが富を天に積むことであり、「天に宝を積む」生き方なのです。そして、神さまとの関係の中で神さまに喜ばれる生き方に励みたいと思います。


主イエスに従って行くとき、私たちは徐々に握りしめているものから手を放して、隣人や貧しい人々のために用いていく者と変えられていくことでしょう。神の力が働いて必ず変えてくださることを信じます。


IMG_9060.jpg自分の努力によって神さまの救いを手に入れようとするのではなく、ただ神さまの恵みに依り頼んで信頼して生きる。そのためには持っているものを貧しい人々に分けてやりなさい。イエスさまは今日も私たち一人ひとりに語っておられます。

posted by 優子 at 17:15| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月16日

ウォーキングは黙想の時

IMG_8976.jpg
空に向かって勢いよく咲く「皇帝ダリア」
冬に負けるなと激励してくれているみたい。

御言葉は「キリストの栄光教会」より
「神よ。私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう」。(詩篇57篇7節)
刻々と変化し、次々と何かが起こるのが、日常生活です。そうしたことに心が揺るがされないよう、しっかりと主の御言葉に立ちましょう。悩んで時間を空費するより、唇も耳も心も賛美で響かせるのです。賛美が揺るがない心をつくります。私たちの喜びが主の喜びと共鳴し、笑顔と力が回復してきます。

IMG_8979.jpg

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」。(ローマ人への手紙12章11・12節)
主があなたのために戦われます。サタンとの戦いを、あなた個人の戦いにせず、主の戦いにするのです。独りで戦えば敗北します。ダビデのように、「これは主の戦いだ」と宣言して主に委ねれば、聖霊が先導してあなたを勝利に導かれます。勝利の予感が喜びを湧きあがらせ、祈りを熱くします。

IMG_8981.jpg
咲き始めたツワブキの花

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい」。(ローマ人への手紙12章9節)
真実の愛には恐れがありません。損得勘定がありません。拒絶されることを恐れません。キリストに愛されたように愛します。しかし、愛するとは、悪を許容することではありません。かえって義を成し遂げます。愛が真実であるほど、理解されず、嫌われることがあります。愛するとはそういうことです。主の愛こそがそうでした。

IMG_8984.jpg

IMG_8985.jpg

IMG_8988.jpg

IMG_8990.jpg

IMG_8995.jpg

IMG_8996.jpg

↑ これのピンク版 ↓

IMG_8998.jpg

IMG_8999.jpg

まさに自然のアート! 
神秘の美しさに目が釘付けになった。
11-21.jpg

そして今日のアート。
IMG_9009.jpg

IMG_9013.jpg

以下は11日にユキと歩いた時の写真。
11-4.jpg
これはユキが撮った。

11-9.jpg
1つだけ咲いていた季節外れのクローバー。

11-10.jpg
「宝石みたい!」とユキが写した感動。

11-16.jpg
たくさんのキーウィにびっくり!
この10倍くらいあった。

11-18.jpg

そして、今朝の光景。
いよいよ最後の1輪もまもなく姿を消す。
長い間楽しませてくれてありがとう。
IMG_8973.jpg
2E697A5E99693E9A39FE381B9E3819AE9A3B2E381BEE3819AE291A2.jpgシュウメイギクが終ってまもなくチャッピーが死んだ。
2年前の11月24日に・・・・

附記:横田めぐみさん(行方不明時13歳)が北朝鮮に拉致されてから40年となった昨日、記者会見で母早紀江さんは語った。

「元気なうちに、めぐみちゃんだと分かる間に、1時間でもいいから会いたい。
病気しないで、元気でいてください。お父さん、お母さんは弱ってきても、気持ちのうえでは頑張るから。最後まで頑張って助けるという気持ち、忘れていないから」。

「(政府は)一生懸命に知恵を練ってくださっているとずっと思っていたが、40年たっても何も分からない状況で、本当に信じていてよかったんだろうかという思いがある」とも語った早紀江さん。

私たちで世論を盛り上げて為政者たちを動かさねば、いよいよ時間は限られている。何事も有限な人間ゆえに限界があろうとも、ああ神よ、私たちに我がことのように祈らせてください。
続きを読む
posted by 優子 at 17:10| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年11月14日

「祈りが叶えられない意味」―渡辺和子さん最後の著書より―

「願ったことが叶えられなかった時の落胆や失望には計り知れないものがあります。でも、そういう切なさ、つらさこそが、実は人間が成長してゆく上で『本当にたいせつなもの』『必要なもの』だったのだと、いつか必ず気づく日があるものです。

時間の使い方は、いのちの使い方。たった一度の人生をどう生きるか?」

(以下は『クリスチャン・トゥディ』より)

image.jpg89歳で帰天した著者が、最後に遺した書・『どんな時でも人は笑顔になれる』は、ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが2016年12月30日、89歳で帰天する10日前に校閲を終え、今年3月に出版された最後の著書。本書のテーマは、祈りがかなえられない意味。

「はじめに」でも、子どもの幸せを祈ったのに、進学や就職の失敗、病気などで落胆し、失望することが多い人生の現実に触れる。しかし、その時の「切なさ、つらさこそが、実は人間が成長してゆく上で『本当にたいせつなもの』『必要なもの』だったのだと、いつか必ず気づく日がある」とシスターは言う。

1927年、北海道旭川市で生まれたシスターは、冬の「すべてを浄化するような寒さ」が好きだという。父親で当時の陸軍教育総監だった渡辺錠太郎(じょうたろう)が2・26事件で銃弾に倒れたのも、大地を純白の雪が覆った寒い冬の日だった。

人生の冬、それは必ずしも秋の次に来るとは決まっていませんし、三カ月くらい続くものとも限りません。・・・(履歴書で)もっとたいせつなのは、書くに書けない「苦歴」とでもいったものではないでしょうか。・・・文字に表わすことのできない苦しみの一つ一つは、乗り越えられることによって、その人のかけがえのない業績となるのです。

シスターは幼い頃に目の前で父親が殺害されるのを目撃し、その後、18歳で受洗。29歳でノートルダム修道女会に入会し、36歳という異例の若さでノートルダム清心女子大学の学長に就任した。

それまでシスターは、丈夫で健康なのが当たり前と思って、人を厳しく見ることもあったという。ところが、多くの苦労を重ねる中で、50代の約2年間、うつ病で苦しむことに。その間も、学校での授業や仕事は何とかこなしていたものの、常に「私にはその資格がない」という自信のなさがつきまとう。

しかし、つまずいたおかげで見えてきたものもあった。責めることなく、弱い人にも心を注ぐことができるようになったのだ。

「費用対効果」などの言葉に代表されるように、経済的にいかに効率よく生きるかが求められる時代の中で、「待つことの大切さ」についてもシスターは語る。

お金にならない時間、得にならない時間、その意味では無駄と思える時間の中にしか愛情は育たない・・・。待たないですむ人生などありはしないのです。そうだとしたら、待つことの意味も知らなければならないでしょう。

「待つこと」は急ぐことよりも案外難しいのかもしれない。実は待つことへの恐れから、私たちは自らを急がせているだけなのではないだろうか。そんな私たちにシスターは「愛をこめた時間は、無駄にならない」と優しく語り掛ける。

また、「なぜ祈るのか、祈りは叶(かな)うのか」の項でシスターは、私たちが時に祈りに対して感じる疑問を次のように挙げている。

「もし私が祈ったことが全部叶えられたら、どうなるのだろう」「神様のお役目というものは、人間の願いを全部叶えることなのだろうか」・・・「いくら祈っても、所詮(しょせん)、神はご自分の好きなようになさるのだとしたら、祈っても、祈らなくても同じではないか」

その上でシスターはキリストの言葉を紹介する。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11:9−10)

ところが、さすがにシスターの見方は深い。「この言葉には、求めたそのものが与えられると約束されていませんし、捜したそのものが見つかるとも約束されていません」と指摘した上で、その後に続く「魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか」(11節)という言葉に注目する。

そして、「求めたものの『代わりに』何かをくださる可能性があることが示唆されています」として、神が人間の願いをそのままかなえることを自分の愛の証しとなさらないのは、「私たちはいつも“欲しいもの”を願っているからであり、神様が私たちに叶えてくださるものは、“必要なもの”だから」とシスターは言うのだ。

シスターが最後に書き記した言葉は、「自分にしか咲かせられない花を、どこに置かれても、精いっぱい咲かせよう」。

シスターにとって「花の人生」とは、幼い頃は、きれいなお嫁さんになること、10代後半は戦時中なので、平和でおなかいっぱい食べられること、20代は、華やかに若さを奔放に生きることだった。

しかし、いつしか健気(けなげ)に咲く「一輪の花」として生きることに変わってきたという。そこには、有名な「置かれた場所で咲きなさい」という詩との出会いがあった。

花の使命は咲くことにあります。他の花と比べて優劣を競うことにもなければ、どこに置かれるかにもなく、自分しか咲かせられない花を一番美しく咲かせることにあります。(140ページ)

最後は人生を花にたとえたシスター。その死を惜しむ声は今も絶えないが、シスターは天でも精いっぱい、それゆえに美しく花を咲かせていることだろう。

続きを読む
posted by 優子 at 16:46| 引用文 | 更新情報をチェックする

2017年11月13日

横田早紀江さん 夫の滋さんの受洗とトランプ米大統領との面会報告

以下は『クリスチャン・トゥディ』より抜粋転載させていただいたものである。

SAKIE.jpg「今日はうれしいニュースがございます。新潟でめぐみがいなくなった時、私の主人はめぐみを捜し回って、泣きながら『神も仏もあるものか』と叫んでいました。

その時から『本当の宗教なんていうものはない。自分が強くなければ駄目なんだ』と言って、ちょっとでもキリスト教のことに触れると怒っていたようなお父さんでしたが、私が教会に通うことには反対しませんでした。

そのように長い間、神様を拒んでいた主人が、今月の4日に中野島キリスト教会の國分広士先生によって洗礼を受けさせていただくことができました。

クリスチャン新聞より.jpg國分先生が『神様を受け入れますか』と聞くと、主人は『はい』と言って素直に、にこやかに返事をしていました。体が弱っていますので、今回は特別に自宅に先生に来ていただいて、滴礼で受洗をさせていただきました。(この写真は『クリスチャン新聞』より拝借)

本当にものすごい短い時間に、突然何が起こったか分からないような、爆発が起きたような感じで、私は『本当にこんなことがやっぱりあるんだ。不思議なことが起きるなあ』ということを改めて感じさせていただき、感謝の思いでいっぱいでございました。

新潟の五十嵐キリスト教会で私を導いてくださったマクダニエル先生、いつも主人の救いのために『祈っていますよ』と声を掛けてくださった先生は今は天に召されましたけれども、本当に天でどんなに喜んでくださっているだろうかと思います」。

これは先週9日に、東京・千代田区のお茶の水クリスチャン・センター8階チャペルで行われた、横田早紀江さんを囲む拡大祈祷会(主催:横田早紀江さんを囲む祈り会、全国ブルーリボンの祈りの会)で、ご本人が「夫の滋さんが洗礼を受けたことを喜びに満ちた表情で報告」されたものである。

当日は一般メディアも入り200人以上がそれぞれ祈祷課題をもとに祈り合ったという。

 早紀江さんは1936年、京都市生まれ。63年に滋さんと結婚し、翌年、名古屋のカトリック系の聖霊病院で長女のめぐみさんを出産した。日本銀行に勤める滋さんの転勤により新潟に引っ越してきたのは、事件の起こる1年前のことだった。

 1977年11月15日、めぐみさんは当時、新潟市立寄居中学校1年生で、13歳になったばかり。所属していたバドミントン部の練習を終え、すでに日の沈んだ海岸に向かう暗い道を歩き、一緒にいた友だち2人と別れて、自宅まで数分というところで忽然(こつぜん)と姿を消した。

 いつまで経っても娘が帰ってこないのを心配して、家族は必死にその行方を捜し、警察も捜査を進めたが、目撃者や遺留品さえ見つからなかった。その頃、めぐみさんは北朝鮮の工作員によって連れ去られていたのだ。それから今年で40年になる。

早紀江さんは、めぐみさんが失踪した翌年、友人に勧められて聖書を読むようになり、めぐみさんが成人となる1984年、日本同盟基督教団五十嵐教会(新潟市)で受洗した。

93年に滋さんが日本銀行を定年退職後は一家で神奈川県川崎市に移り住み、日本福音キリスト教会連合中野島キリスト教会(神奈川県川崎市、國分広士牧師)に所属している。

 1997年、めぐみさんが北朝鮮に拉致されていることが分かり、「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)や、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」が結成された。2000年、「横田早紀江さんを囲む祈り会」が始まり、今も毎月行われている。

恵み.jpg巡回伝道者の福澤満雄氏が聖書からメッセージを語った。「思い煩いを十字架のもとに置くと恵みになる」と話す福澤氏。

福澤氏は、出エジプトをしたイスラエルの民がアマレク人と戦った時、モーセが山に登って神に祈り、後継者ヨシュアらが戦って勝利したエピソード(出エジプト17章)は、めぐみさんが帰ってくるために祈り続けている今の霊的な戦いと同じだと語った。

その時、モーセは80歳(7:7)を超えていて、ちょうど滋さんや早紀江さんもその年齢にあるとして聴衆の笑いを誘った。

「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った」。(出エジプト17:11〜13)

 北朝鮮がミサイルを撃つと、米国や日本が圧力を掛けるというシーソーゲームのような現在の状態と、出エジプト記の出来事はそっくりだという。やがて、めぐみさんが日本に戻ってきた時、「政府がよくやった」という話になり、その背後に祈りがあったことを伝える新聞やニュースはないだろうが、だからこそ神様はモーセに次のように言われたのだと福澤氏は強調した。

 「このことを文書に書き記して記念とし、また、ヨシュアに読み聞かせよ」。(出17:14)

そしてドナルド・トランプ米大統領と6日午後に迎賓館で約30分間面会した時のことを伝えた。

「お部屋に入りましたら、今回はいつもと違って、ひざをつき合わせて、目の前に大統領と、その横に美しい奥さま(メラニア夫人)がいらして、びっくりしました。

その時、私が持っていためぐみの写真を『ちょっとそれを貸してください』と言われて手を出されたので、お渡ししました。それを何とも言えない表情、真剣な強いまなざしで見られて、奥さまにも見せられて、そして私を見て『頑張りなさい』とあたたかい微笑(ほほえ)みを浮かべて言ってくださった、とても印象深い会見でした。

また、国連の演説でトランプ大統領が『(北朝鮮は)13歳の日本人の少女(めぐみさん)を拉致した』と取り上げられたことは私もびっくりしたんですけれども、そのことを『心から感謝します』と言いまして、『難しい問題ですけれども、ご尽力いただきますようによろしくお願いします』とお伝えしました。

めぐみちゃんも何らかの使命を持って、こうして一生懸命耐え忍んで、帰る日を待ち望んでいると思います。私も涙が涸(か)れ果てて、年がら年中、目薬を差しているような状態ですけれども、本当に早く喜びの大泣きをしたいと思いますので、どうぞこれからもお祈りくださいますようによろしくお願いします」。

祈る早紀江さん.jpgこれまでも早紀江さんが祈っておられる姿を何度も拝見してきたが、今ほど胸をえぐられるような痛みを感じたことはない。それは、愛する人を拉致された方々のことを思い出した時に祈るという自らの愛のない不真面目さが示されたからだ。

滋さんが主の者とされたこと、その言葉にならぬ喜びとともに、どうか地上で恵さんと再会させてあげてください、わが胸に抱きしめさせてあげてくださいと号泣した。教会にも行けないほど体が弱っておられるとは思いもよらなかった。

一切のことを治めておられる神さまに委ね、信頼します。年老いた被害者家族の方々の上に神さまのお支えを祈るばかりです。

附記:過去ログ(2006年1月30日の記事)にも早紀江さんが神さまと出会われた時のお証しを記しています。また過去ログと少々重なりますが『クリスチャン・トゥディ』11月9日公開記事に、早紀江さんが友人に勧められてヨブ記を読んだ時のことが書かれており、下記に抜粋転載させていただきました。

この時が、神ご自身が私の心にまっすぐに光を差し込んでくださった最初の時でありました。

『私(ヨブ)は裸で母の胎からでた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる』(1:21)・・・この言葉は何と深いのでしょう。

(私の人生には)見えない真実の神の存在が関わっていることを知ったのでした。初めて深呼吸ができ、久しぶりに空気がおいしく思えました。・・・『苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました』(詩篇119:71)」(同)

早紀江さんの受洗から33年目に夫の滋さんも洗礼を受け、こうしてようやく夫婦2人で心を合わせて神に祈ることができるようになったのだ。


posted by 優子 at 12:22| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2017年11月12日

家の教会2017㊵ ―イエスを仰ぎ見る―

12-1.jpg昨日良輔はゴルフで不在、知子は勉強会で全日外出、私はユキと二人で本当に楽しい一日を過ごしました。家庭でこんなに心安らいだのは少なくとも今年初めてだったと思います。

そして今朝、ユキはサッカー教室に。昨夜のうちに「お昼ご飯のあと礼拝が終わってから遊ぶ約束するね」と、驚くべき喜ばしいことを言いました。私たちは9時から自治会の草引き清掃に。

12-4.jpgサッカーから帰宅したユキは、お友達から誘われて他自治会のイベントには勝てず「夕拝しよね!」と言って遊びに行きました。勿論快く見送りました。😖

2017年11月12日(日) (2017第40回 

                     家の教会)

3時30分〜4時15分
出席者2名(with 良輔)
@ 初めのお祈り    優子
A 主の祈り
B 讃美歌        285番「主よ御手もて」
C 聖書輪読       ローマ人への手紙 7章14節〜25節
D お話          優子
E お祈り         1人ずつ
ローマ人への手紙 7章14節〜25節:
7:14 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。

7:15 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

7:16 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。

7:17 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

7:18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

7:19 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。

7:20 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

7:21 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

7:22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、

7:23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

7:24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

7:25 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

お話:

「いずれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)のすみかぞかし。」(わたしのような罪深い者は地獄以外に行き場がない存在だ)とは、親鸞の有名な言葉です。9歳で出家し、20年間もの年月を比叡山にこもって天台宗の厳しい修行を徹底的にした親鸞が最後に行き着いた境地でした。


親鸞の胸中はパウロの苦悩、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(24節)と重なります。


今日輪読した箇所にあります「内なる人」とは、「心」と呼んでいる人間の良心が備わっているところの意味であり、人間は生まれながらに良心が備えられていることをパウロは知っています。ところが善い行いができない、実践できないという自己矛盾、これが人間の本質なのです。


24節の言葉は、心が窒息するほどの絶望であり苦悩の究極の叫びです。ところが次に一転して「感謝」するのです。主イエスによる救いによって解放されるからです。


主イエスを仰ぎ見ることにより即刻即座に解放されます。これは知識によってわかるというものではなく聖霊体験です。私は信仰生活の初めのころはわかりませんでしたが、今はよくわかります。


主イエスに繋がっていることがいかに大事であるか、主イエスを離れては再び深い苦闘に入ってしまいます。信仰者といえども生きている限りこの人間の本質は変わりません。主イエスをそっちのけで生きているならば、罪の存在にも気がつきませんし罪の力に悩まされることもないでしょうが。


ルターでさえ状況に動揺し落胆することがありました。(そのエピソードはここをご覧ください)。エリヤもそうでした(列王記第一の18章)。耐えられないほどの圧迫を受けていたと告白しています。


私たちも生きている限り葛藤から解放されることはなく、揺れ動き、悩み苦しむのですが、自分の弱さ、醜さに絶望するのは素晴らしいことであり、それは信仰を授かった者ゆえに感知できることです。神さまの光に照らされて自分の罪深さがわかるのですから、絶望は神の祝福なのです!


ここで大切なことは、そうした情態に長くとどまっていてはいけないということです。その絶望の苦闘からイエス・キリストを仰ぎ見るのです。主に在って自らの欠けを知った人だけが、そのことを告白することができるのです。


パウロは「わたしは罪人のかしらです」と言っています。私など時にはそのように言えない、言いたくない時があります。そんな時は、自分を悩ます人、悪意を向ける人に縛られているのであり、神さまに対しても素直になれず、悔い改めていないというのもよくわかっています。砕かれていないのです。


パウロは主に在って歩むほどに砕かれて低くされていきました。最初の頃は自らのことを「使徒の中では最も小さい者」、次に「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」と呼び、最後には「私はその罪人のかしらです」(Tテモテ1:15)と。


律法でいつも責められているというのが私たちの現実であり、クリスチャンになるとより一層に自分を責めるものがあるのですが、キリスト者とされた人には聖霊が授けられています。主イエスはその現実を越えて常に私と共にいてくださいますから、主の御名を呼んで即刻解放していただきましょう!


祈ったり聖書を開く気持ちにもなれない時は、「主よ」、「イエスさま」と御名(みな)をお呼びするだけでもいい。讃美できない時は讃美歌を聞くだけでいい。きっとまもなく自らも口ずさんでいることでしょう。本当に「主を喜ぶことはあなたの力になるのです」は真実です。


「もし、祈ることをやめさせ、私たちを気落ちさせるなら、すでに悪魔の餌食になっている。自己吟味せよ」。


「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。

         (ガラテヤ人への手紙 5章1節)


最後に「奴隷」という言葉からミケランジェロの未完成の彫刻を思い出しました。アカデミア美術館の「プリジョーニの回廊」にある4つの奴隷の彫刻は、敢えて未完成に造られたと言われています。

    atlante.jpg 若い奴隷.jpg      

      「奴隷アトランテ」    「若い奴隷」

  

     髭の奴隷.jpg 目覚めた奴隷.jpg

     「髭の奴隷」     「目覚めた奴隷」


これらの彫刻に共感した人が、「奴隷の像は鎖につながれていないけれど大理石の中に閉じ込められていて、それが石の穴から解放されることは決してない」と感想を述べ、「彼らの姿は、罪と苦闘する私にどこか似ています」に始まる鋭い聖書のメッセージがあります。

それが掲載されている『デイリーブレッド』の電子版では文字だけではなく音声でも聴くことができ、ワンメッセージが数分間の短いものですので是非ここを開いてお聴きください。

附記:

大学卒業した頃に読んだロマン・ロランの『ミケランジェロの生涯』で、ありあまる天才を発揮するも意志の欠如や性格の弱さ、病的なほどの小心者ゆえに惨めすぎるほどに繊細な神経の持ちであると知りました。ミケランジェロほど純粋な心を持った人はいなかったと。


「もう時の移り変わらぬ魂は幸いである」。(ミケランジェロ)

「気を狂わせるような奴隷状態から」解放されたいと死を渇望したミケランジェロ。90年の生涯は「聖なる苦悩に満ちた」ものでしたが、「キリストにおいて生き、キリストにおいて死んだことも真実である」とロランは言っています。

ミケランジェロの晩年は何も完成させることができなかったとありますから、これらの彫刻は敢えて完成させなかったのではないと思うのですが、調べて自分なりの結論を得たいと思います。

『ミケランジェロの生涯』の裏表紙の内側に、「2000年10月8日、真智読了」と私の字で書いてありました。マチも読んでいたとは嬉しいです。


20時10分追記:ユキは宿題(今日のことを作文に書く)をしなければならなかったので夕拝もできず、お風呂から上がった今5分間ほど聖書のお話をしました。


posted by 優子 at 17:11| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年11月11日

「われは草なり」 ―自分を愛するということ―

IMG_8883.jpg



「われは草なり」
   高見 順

われは草なり 伸びんとす
伸びられるとき 伸びんとす
伸びられぬ日は 伸びぬなり
伸びられる日は 伸びるなり

われは草なり 緑なり
全身すべて 緑なり
毎年かはらず 緑なり
緑のおのれに あきぬなり
われは草なり 緑なり
緑の深きを 願ふなり

ああ 生きる日の 美しき
ああ 生きる日の 楽しさよ
われは草なり 生きんとす
草のいのちを 生きんとす

IMG_8855.jpg
posted by 優子 at 09:49| 随想 | 更新情報をチェックする