2017年11月10日

「一粒の麦≠ニしての劉暁波 ノーベル平和賞受賞者を奮い立たせたもの」はキリスト教信仰だった! 

今、トランプ大統領の中国訪問でニュースを賑わしている。習近平国家主席の穏やかな表情を見ると中国の恐るべき人権状況が信じられず、ニュース映像を見ながら今夏亡くなった劉暁波(りゅう・ぎょうは)さんのことを想っていた。

IMG_8834.jpg2017年8月1日の『キリスト新聞』に公開された記事から、劉さんは洗礼を受けていないがキリスト教信仰により生かされていたことをご紹介したい。

劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏.jpg2010年のノーベル平和賞受賞者で作家・民主活動家の劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏が、7月13日に中国・瀋陽市の病院で亡くなった。1989年の民主化運動・天安門事件の中心人物の一人だった劉氏は、数回の逮捕・投獄にも拘わらず執筆活動を通して民主化を訴え続けていた。

2008年には「08憲章」(一党独裁の終結、三権の分立、民主化の推進、人権状況の改善などを求めた文書)の取りまとめの役を果たしたが、その後「国家政権転覆扇動罪」の罪名で投獄され、ノーベル平和賞授賞式に出席することができなかった。

しかし、本人不在の授賞式がかえって注目を集め、彼の名は一躍世界に知られることとなり、また式典で代読された「私には敵はいない。憎しみもない」という言葉は多くの人に深い印象を与えた。今年5月に末期ガンであることが報じられ、一時的に出獄が許可され入院していたが、治療の甲斐なく61歳で世を去った。

イエス・キリストは人格の模範=@「08憲章」で宗教の自由を主張

 日本の一般メディアでは触れられていないが、実は劉氏はキリスト教信仰・思想に極めて近い考えを持っていた。天安門事件以前よりアウグスティヌスの『告白』を好んで読み、人間の神に対する罪性や悔い改めといった課題に関心を持ち、「中国人の悲劇は神を持たないという悲劇だ」と述べるほどだった。

1996年から99年にかけて大連の労働教養所(一種の強制収容所)に収監されていた時期には、アウグスティヌスのほか、トマス・アクィナス、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァン、ディートリヒ・ボンヘッファー、カール・バルト、ハンス・キュング、ドストエフスキーなどの作品を読み、キリスト教思想の影響を大きく受けた。

特にボンヘッファーが牢獄においても信仰ゆえに希望を持ち続けていたことに励まされ、妻への手紙に「たとえ何かを変えることができなくとも、しかし少なくともわたしたちの行為は、イエスの精神が今でもこの人間の世界に息づいていることの証しになり、神なき現代社会においてイエスの精神のみが人間の堕落に対抗できる信仰的力となることの証しとなる。

……もし希望がないならば、苦しみの中から意義を見出せない。希望を理解できなければ人間の存在を理解できない。生きる勇気は希望のみが与えることができ、希望は神と愛とイエスの十字架から来るのだと書いている。

劉氏は2008年の投獄以前には家庭教会(家の教会)の礼拝に出席していたこともあり、「おそらく、わたしは永遠に信徒にはならないかもしれないし、組織としての教会に入会することもないかもしれない」と述べながらも、「しかしイエス・キリストはわたしの人格における模範だ」と語るほどだった。その後も洗礼を受けることはなかったが、劉氏の思想の中にキリスト教信仰・思想の刻印が押されていたことは間違いない。

『劉暁波伝』を書いた劉氏の友人でクリスチャン作家の余杰(よ・けつ)氏は、「『わたしには敵はいない』という宣言は、彼の内面の深みにある大きな宗教的情感に由来しており、特に長きにわたって受けてきたキリスト教の影響による」とまで語っている。

また、劉氏はキリスト教の思想面だけでなく、中国における教会や宗教組織の法的位置づけにも関心を払っていた。「08憲章」には「結社・集会・言論の自由」と並んで「宗教の自由」が謳われており、その内容は特に中国においては非合法とされている家庭教会にも合法性を付与することを意図するものとなっている。

つまり、「三自愛国教会」に登記しなければ合法的地位が得られないという「事前許可制度」を廃止し、従来は非公認・非合法とされていた家庭教会・地下教会に合法性を付与する「届出制」にすべきというのだ。

香港の神学者・邢福増(けい・ふくぞう)氏は劉暁波についてこう語る。

「彼は別れを告げて逝ってしまったが、思想と精神を残していってくれた。彼は目を閉じるまで、自分の魂を売り渡さなかった。彼の魂はこの世の暗闇の勢力から解き放たれ、彼が探し求めていた御国へ駆け上がっていった」。

たとえ彼が地上からいなくなってしまっても、彼の思想と精神、そして「信仰」を受け継ぐ人たちがいる。特に中国大陸や香港において、劉氏と同じように巨大な力と向き合いながら信仰的・霊的な戦いをしている人々が今もいることを覚え、そのために祈りたい。

そしてわたしたちは日本においても同じ戦いがあることを忘れてはならないだろう。劉暁波はそんなわたしたちにも多くのものを残してくれている。

IMG_8839.jpg「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。(ヨハネ12:24)

(日本基督教団筑紫教会牧師 松谷曄介)

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2017年11月08日

安らぎのひと時 −金沢聖句書道展と聖句―

IMG_8824.jpgかつて我が家で持たせていただいていた家庭集会(オリーブの会)で、導き手になってくださっていた姉妹から「トラクトペン」を頂戴しました。

「トラクト」とは「小冊子」、特に聖書の言葉が書かれた伝道用のパンフレットのことですが、これは「トラクトペン」と呼ばれ、ボールペンの中に聖句の言葉が記されています。インクがなくなるまで読むことができていいですね。

このペンは聖句書道をされている方が作られたものです。金沢聖句書道展(名鉄エムザ:エムザギャラリーで開催)のことも知りました。
ユウチューブに挙がっており、ホッとする安らぎタイムに編集されていますので是非ご覧ください


「今この瞬間、月は時速約3700キロメートルで地球の周りを回り、地球は時速約10万7千キロメートルで太陽の周りを回っています。その太陽は、銀河系の2千億の恒星と1兆を超える惑星の一つにすぎず、銀河系は宇宙にある2兆個の銀河のひとつと言われています」。

IMG_8818.jpgこの壮大な宇宙を支配されている神さまが、私たち一人ひとりに深く心を寄せておられます。(詩篇 139篇1節〜18節)
主よ、あなたはわたしを探り、
わたしを知りつくされました。
あなたはわがすわるをも、立つをも知り、
遠くからわが思いをわきまえられます。

あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、
わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
わたしの舌に一言もないのに、
主よ、あなたはことごとくそれを知られます。

あなたは後から、前からわたしを囲み、
わたしの上にみ手をおかれます。
このような知識はあまりに不思議で、
わたしには思いも及びません。
これは高くて達することはできません。

わたしはどこへ行って、
あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、
あなたのみ前をのがれましょうか。

わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。
わたしが陰府に床を設けても、
あなたはそこにおられます。
わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、
あなたのみ手はその所でわたしを導き、
あなたの右のみ手はわたしをささえられます。

「やみはわたしをおおい、
わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、
あなたには、やみも暗くはなく、
夜も昼のように輝きます。
あなたには、やみも光も異なることはありません。

あなたはわが内臓をつくり、
わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
わたしはあなたをほめたたえます。
あなたは恐るべく、くすしき方だからです。

あなたのみわざはくすしく、
あなたは最もよくわたしを知っておられます。
わたしが隠れた所で造られ、
地の深い所でつづり合されたとき、
わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。

あなたの目は、
まだできあがらないわたしのからだを見られた。
わたしのためにつくられたわがよわいの日の
まだ一日もなかったとき、
その日はことごとくあなたの書にしるされた。

神よ、あなたのもろもろのみ思いは、
なんとわたしに尊いことでしょう。
その全体はなんと広大なことでしょう。
わたしがこれを数えようとすれば、
その数は砂よりも多い。
わたしが目ざめるとき、
わたしはなおあなたと共にいます。

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キリストの栄光教会の「今日のみことば」より:

「私が神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」。 (詩篇15篇16・17節)
自分の無力さを思い知り、絶望するのはよいことです。その絶望が祈りの原動力となるからです。自分の限界を越えているのに、何とかなるだろうと思って祈らないのは、人生の放棄にも等しいことです。絶望から主の憐れみを祈り求める人を、主は放っては置かれません。

「あなたの重荷を主に委ねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない」。 (詩篇55篇22節)
背負いきれない重荷を、わざわざ拾い集めて思い煩っていませんか。その重荷の圧迫が、あなたの考え方を悲観的にします。主に預けて、一旦忘れましょう。忘れている間に、主が解決の道を整えてくださいます。心も体も軽くなり、今、なすべきことが見えてきます。

「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう」。 (詩篇56篇11節)
神への全き信頼は、心から恐れを消し去ります。恐れが消えれば、どんな出来事にも冷静に対処できます。人の悪意や嫌がらせにも、過剰反応せずに済みます。人があなたの心を傷つけようとしても、傷つかない選択ができます。ただ、うろたえず、動ぜず、堂々としていましょう。全能の神が守って下さいます。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」。 (ローマ人への手紙 12章1節)
神に受け入れられる霊的な礼拝とは、自分を捧げることです。自分を捧げるとは、アベルのように自分の持つ最良のものを捧げることです。カインのように自分の理屈で考え、この程度でもいいという捧げ方では、神に喜ばれません。まず、最良の時間を捧げましょう。
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posted by 優子 at 16:47| 引用文 | 更新情報をチェックする

2017年11月05日

家の教会2017㊴ ―サウロの回心―

2017年11月5日(日) (2017第39回 家の教会) 

9時〜9時45分
出席者 3名(with ユキ&良輔)
@ 最初のお祈り  優子
A 主の祈り
B 子ども讃美歌   74番「神のお子のイエスさま」
C 聖書輪読 
D お話      優子
E お祈り     1人ずつ
F 讃美歌199番 「わがきみイエスよ罪の身は」
使徒行伝 9章1節〜19節:

9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、

9:2 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。

9:3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。

9:4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

9:5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

9:6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。

9:7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。

9:8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。

9:9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。


9:10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。

9:11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。

9:12 彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。

9:13 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。

9:14 そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。

9:15 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。

9:16 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。

9:17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。

9:18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、

9:19 また食事をとって元気を取りもどした。

お話:

サウロとは後にパウロと呼ばれる人のことです。サウロはヘブライ名で、パウロはローマ名で、生まれた時からローマの市民権を持っているユダヤ人です。使徒になってから伝道のためにローマ名を用いたようです。


サウロはステパノが石で撃ち殺された場所に居ました。石を投げませんでしたが、律法を守ることが神さまの教えであると信じていましたから、ステパノを殺すことに負い目は感じていませんでした。


イエス・キリストを信じる人々への迫害はエルサレムだけではなく、遠くへ逃げて行った人々も捕まえようとシリアに向かいました。今日のお話しはその途上のダマスコでの出来事で、イエスさまが地上を去られた2〜3年後のことです。


ダマスコ.jpgこれはイスラエルの地図です。左側の青い部分は地中海で、右側にある青い所は上がガリラヤ湖で、そこからヨルダン川が流れて死海(下方の青い所)に行きつきます。


ダマスコはパレスチナからメソポタミヤに通じる世界最古の都市の一つでした。迫害するためにダマスコに向かっていたサウロの上に、突然天から光が射して倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きました。


サウロは「主よ、あなたは、どなたですか」と「主よ」と呼んでいますが、この時は主と認めたからではなく、ただただ恐れおののいて呼んだのだと思います。


主はサウロに「なぜ教会を迫害するのか」ではなく「なぜキリスト信者を迫害するのか」でもなく、「なぜわたしを迫害するのか」と言われました。「わたし」という言葉に強い意味を感じます。


ダマスコでのサウロ.pngそして、「町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」と言われ、この時サウロは目が見えなくなっていました。


これまでのサウロはユダヤ教徒(パリサイ派)として他の追随を許さないほど熱心に神の律法を守っていました。しかしそれは自分の目で見、自分で考えて生きてきたのであり、その結果神に敵対し致命的な罪に陥っていました。


そこにいた人々は主イエスが言われたとおりサウロの手を引いてダマスコへ連れて行きました。私はここにも注目します。


ヨハネ伝9章に出てくる生まれつきの盲人の目を開けられた時、イエスさまがつばきで作られた泥を盲人の目に塗って、「シロアム(「遣わされた者」の意味)の池で洗いなさい」と言われたとおりにしたことを思い出し、主の導きに従うことの大切さに気づかされます。


今まで人を導いてきたサウロが手を引かれて連れて行ってもらった姿も印象的です。サウロの目は見えていたけれど大切なことは見えていなかったのです。


アナニヤ.png主イエスによって一時目が見えなくなり、言われたとおりダマスコへ行き、アナニヤがサウロに洗礼を授けると「目から、うろこのようなものが落ちて」、主イエスによって霊的な目も開かれて大切なことが見えるようになったのです。


ウロコ.jpg

ところでこれが魚のウロコです。昨日、生協のお店の魚コーナーで見つけました。「鱗(うろこ)のない魚もあるよ」と、魚をさばいている人が声をかけてくださいました。

こんなものが目についていたらよく見えません。こんな感じです。

IMG_8756.jpg


IMG_8758.jpgサウロは「目から、うろこのようなもの」が落ちたと言っています。取り除くとこんなにハッキリ見えますね。

「目からウロコが落ちる」という言い回しは聖書のこの箇所から来ています。その意味は、単に目が見えるようになったということだけではなく、今までわからなかったことが突然わかるようになったという意味です。


サウロはこれまで迫害していたことに疑問を感じたり悩んでいたとは書いていませんが、どうだったんでしょうか。この時からサウロの人生が180度転換したのです。神に背を向けていた生き方から正反対の生き方に変わったのです。


「わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」という主イエスのお言葉は強烈です。これに関して黒崎幸吉は次のように書いています。


「『選びの器』、即ち神が特に選び用い給う目的に叶える素質を持って居る事を神は認め給うたのであろう。サウロは是までその誤れる熱心のために基督者を苦しめて居った。今より後は正しき信仰のために自ら苦しまなければならない


主がサウロを選びて、その証人たらしめんとて彼に現れたまえる事を示されし事、彼に視力と聖霊とを与え給う事とであった。要するにサウロの回心を来らしめし主要の事実は栄光の中における主イエスの顕現であった。


いわゆるパウロの神学と称せられる如きものはその片鱗だもここに示されなかった。これを見てもパウロの回心の事実は理論によったのではなく、直接に主イエスに接した事による事が判明る」。


不思議ですね。サウロは教会を迫害するために来たダマスコで伝道を始め、初代教会の最大の伝道者になりました。そして、キリスト教が世界的宗教になる基礎となり、そのおかげで極東の地、日本にも伝えられたのです。


この箇所を読んで思ったのは、クリスチャンになっても見えなくなることもあるのではないかということです。クリスチャンとは「キリストに生かされている者」という意味であり、キリストの十字架によって赦され愛されていると信じている人々です。


ところが立派なクリスチャンになろうとしたり、あるいはまた、静まって神さまとの密な時間を取らなかったり、悔い改めだけではなく悔しさや悲しみを神さまに委ねずに放置したままにしていると、いつしか感謝する心も失われて大切なことが見えなくなってしまいます。


ですから私たちの目にもいつのまにか分厚いウロコに覆われてしまわないように、イエスさまによって神さまに赦され愛されていることを信じて生きる。それが確かな歩き方であり最高の人生であると再確認させられました。


祈ることさえできない時は「イエスさま」と主の御名(みな)をお呼びするだけでいいのです。どんな時も御名を唱えながらこの世の旅路を歩んで行きたいと思います。


主の平安と尽きない希望と喜びは、み言葉(聖書)と祈りをとおして満たされ、主にある交わり(分かち合い)の中で癒され豊かにされていくのだと思います。お互いに教え励まし合って、心の目に鱗がこびりつかない日々を重ねていきたいと思います。


病床にあるかた、病者に寄り添っておられるかた、悲しんでおられる多くの方々に神の慰めと励ましが豊かにあらんことを切に祈ります。

附記:礼拝のあとまもなく、昨夕のニュースで見た堺中央綜合卸売市場で開催されている「第一回あなごサミット」に4人で行ってきました。わずか20分で着いたのに会場近くになると渋滞していて入るまでに同じぐらいかかりました。


ユキはアナゴをつかみ、お目当てのアナゴの天ぷらを食べて大満足。私は買い物をするにも人が多すぎて疲れました。結局アナゴやマグロは会場内にある回転ずし屋さんで食べて13時半頃に帰宅しました。

IMG_8773.jpgユキは今、宿題の作文を書き終わり、おじいちゃんとアケビを採りに「ナルニアの森」へ出かけていきました。食べたこともないのに。

追記:この実を木に登って採って来ましたが、時期遅れの実はブヨブヨになって腐り始めていました。


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2017年11月04日

主イエス・キリストの希望と愛の力を

ルカによる福音書 6章31節〜35節:
6:31 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。
6:32 自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。
6:33 自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。
6:34 また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

エペソ人への手紙 4章30節〜32節:
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。
4:31 すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。
4:32 互いに情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい。
クリスチャンとはキリストに生かされている者、キリストの十字架によって罪赦され愛されていることを忘れないようにと思う。悲しみや試練の中を通っておられる方々が、神さまによる希望と愛の力で強くされますように祈ります。
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2017年11月02日

66歳を始む 「神さまが植えてくださったところで咲く」

今改めて「神さまが植えてくださった場所で咲く」(プロテスタントの神学者 ラインホールド・ニーバーの詩)の思いを新たにして66歳の旅路を歩き始めた。


IMG_8656.jpg 神さまがあなたを植えてくださったところで咲きなさい。

諦めるよりむしろベストを尽くして

花のように咲くのです。


花のように咲くということは

 幸せに生きると言うことです。

あなたの喜びが他の人々を幸せにします。

あなたの笑顔は拡がっていきます。


あなたが幸せであり笑顔を示せば、

 他の人々も幸せを知り幸せになるでしょう。


神さまはあなたを特別な場所にお植えになりました。

あなたがそのことを知って人々に分かち合えば

あなたの人柄は輝くでしょう。

私たちが「咲く」と言っているのは、その「輝き」のことなのです。


神さまが私を植えてくださった場所で咲く時、

私の命は人生の庭の美しい花になるのです。

神さまが植えてくださった場所で咲きなさい。


  "Bloom where God has planted you."
             Reinhold Niebuhr

Please bloom where God has placed you.
Rather than give up, make the best of your life and bloom like a flower.
To bloom is to live happily.
Let your joy make others happy.
Your smile is contagious.
When you are happy and show it by your smile
Others will know it and are happy too.
God has planted you in a special place.
If you know it share it with others, your personality will shine.
It is that "shine" which we call "Bloom"
When I bloom in the place
Where God has placed me
My life becomes a beautiful flower in the garden of life.
Bloom where God has planted you


渡辺和子さんはこんなことも加筆されている。


「咲く」ということは

他人の求めに喜んで応じ

自分にとって ありがたくない人にも

決して嫌な顔 退屈気な態度を

見せないで生きるということなのです。


この言葉は具体的でわかりやすく励ましになっていたが、ここにアクセントをつけて読むと形骸化し虚構の生き方に迷い出てしまう危うさを感じる。現況が厳しすぎる人にはそうだと思う。

Q.jpg附記:午後12時半、真智より電話あり。
ワシントンは深夜なので早く切るつもりが1時間にもなっていた。澱(おり)のように溜まっていた気持ちが洗い流されたようで心が柔らかくなった。ありがとう!(上掲の詩、訳が間違っていたら訂正しておいてね)

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posted by 優子 at 18:17| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年10月31日

『ごんぎつね』続編譚 ―コメント感謝録―

昨日の記事に早速コメントくださった敬愛するペン友・Mr.Yさんは、6月掲載の「生き物新聞」にコメントを寄せてくださった方だ。今朝一番にユキに伝えると、深く心に感じたのか、黙って嬉しそうにしていた。

今回からYさんではなくハンドルネーム「サムサムさん」で刻ませていただきます。

『ごんぎつね』続編  素晴らしい作品ですね。発想が特にい。子どもたちの想像力を豊かに育ませてあげようとのお考えで先生が、「ごんは銃で撃たれたけれど生きていたかもしれないし」との、助け舟を出されたそうですが、ユキ君はそれには乗らず、独自ので話を展開、本当に驚き、そして感動しました。

以前にも「ユキ君をほめてあげてください。そして、『書くということ』を続けていくように言ってあげてください。」と書きましたが、重ねて言います。「ユキ君をほめてあげてください。書くということ」を続けていくように言ってあげてください。

それから、ユキ君のあの作品、「ごんぎつねの続編」ということではなく、別の、「特別な人」あるいは「ペット」との死別のあとの話ということにして書き直せば、たいへんいい童話になると思いますので、「将来、本格的に童話を書きたいと思うようになる時が来るまで」大事に温めておかれたらと思いますが、如何でしょう。あの発想はほんとうにおもしろく、いいと思いましたので。 

IMG_8638.jpg本当に実現するような気がする。是非書いてほしい。そんな日がくればいいな。

昨日は「木枯らし一号」が吹いて一気に冬に近づき、今朝の最低気温は6.3度まで下がったがお昼前から暖かくなった。

集団下校の時間になると子どもたちの賑やかな声が聞えて来る。言葉は聞き取れないがザワザワと声がする様子がかわいくてならない。そして、「もうすぐ帰って来る」と微笑む。

ユキは今日もまた、日暮れと競争するがごとく寸暇を惜しんで遊びに出かけて行った。グローブの下にはゲーム機も入っている。家庭学習もしないで困ったものだが、私はもう口やかましく言わないことにした。

posted by 優子 at 16:55| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年10月30日

「お話し作りナイス賞」―ユキが書いた『ごんぎつね』続編 ―

IMG_8602.jpg先週の木曜日(26日)のこと、小学4年生の国語の教科書に取り上げられている新見南吉著の『ごんぎつね』の学習の集大成に、『ごんぎつね』の続きのお話を考えるという興味深い宿題が出された。

「ゴンは銃で撃たれたけれど生きていたかもしれないし」と、先生は子どもたちの想像力を豊かに育もうと、子どもたちの心をやわらかく耕して課題を出された。

ユキは目をキラキラさせて話してくれるのでしばらく話に花が咲いた。その時ユキは、どのように書こうとしているのか話さなかったが、既に頭の中で話の骨子はできていたようだった。

私はユキの想像力の邪魔にならないように一言だけ言った。
「ゴンの死を悲しむ兵十の気持ちは、チャッピーが死んでしまった時のユキの悲しみを兵十の気持ちに重ねて考えるといいね」。

そして、短時間で書き上げて読ませてくれた。良くかけていた。私の心を強く打った。アンデルセンやウィーダの影響を受けているのもよくわかった。

私はユキの文章の良さが死んでしまわないように、文末を敬体か常体かどちらかに揃えるようにとだけアドバイスした。

その翌日、クラスみんなで代表作が一つ選ばれ、ユキはもう一人の子と共に次点だったのだが、先生が選出された2名に入って「お話作りナイス賞」をいただいてきた。

あの日私はとても疲れていたが、頑張ってブログに書こうと思うほど嬉しいことだったのに、ノートを学校に置いてきたというのでどんなにガッカリしたことか!

今日は忘れないで持って帰って来てくれるはず。帰ってきたら是非この続きに書き写そう。

16時30分追記:ユキが書いた「続きのお話」
それから町の人たちは、「いたずらぎつねがいなくなったぞ」とうれしそうでした。だが兵十は、おちこんでしまって弥助や加助が声をかけてもこたえません。いつもいつも、くりや松たけを見てないていました。

兵十は、ごんのおはかをつくりました。そこには、兵十がとってきた、とれたてのくりと松たけがおいてありました。

20年後のことでした。兵十もだいぶ年をとりました。今では生活もしんどくなってきました。

ある日の事でした。ごんと
IMG_8626.jpgおっかあが遊んでいるのが兵十に見えました。それもどんどん近くなってきています。見ると自分が天にあがっていっているのに気がつきました。

そうです。兵十は、なくなってしまったのです。弥助などそうしきのじゅんびをしていました。みんなかなしんでいましたが、兵十は、ぎゃくにうれしいのです。だって、ごんとおっかあとあえたからです。


先生のコメントを読んで、男性の先生なのに(と言うと男性への偏見かもしれないが)何て繊細で豊かな感性なんだろうと、実はその驚きと喜びが今も横溢している。

この作品は「どこでもいける電車」と共にこれからもずっと私の脳裏に残ることだろう。

附記:『ごんぎつね』
   ユキとの懐かしい時をここに。

posted by 優子 at 14:51| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年10月29日

家の教会2017㊳ ―宗教改革から500年 「主に在って一つ」―

2017年10月29日(日) (2017第38回 家の教会) 
10時30分〜11時
出席者 2名(With ユキ)
@ 最初のお祈り   優子
IMG_8618.jpgA 主の祈り
B 子どもの讃美歌  48番「こどもをまねく」
C 聖書拝読(ユキ) ガラテヤ人への手紙2章16節    
D お話       優子
E 聖書輪読     エペソ人への手紙4章1節〜6節
F お祈り      1人ずつ
ガラテヤ人への手紙 2章16節:
2:16 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
エペソ人への手紙 4章1節〜6節:
4:1 さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、
4:2 できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、
4:3 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
4:4 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。
お話:
「キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は、すべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」。

これはルターの有名な言葉です。(「キリスト者の自由」)
今からちょうど500年前の1517年10月31日、ドイツの神学者であり聖職者だったマルティン・ルターが95ヶ条の論題をヴィッテンベルク城教会の門に貼って討論を呼びかけました。

ルターは聖書こそが拠りどころであり、救済は神と人との直接的に成されるものであり教会を介してではなく、信仰によってのみ救われると訴えたのです。

当時ルネサンス文化最盛期、教会は不正にまみれローマ法王(教皇レオ10世)がサン・ピエトロ大聖堂建設中で、その資金不足から贖宥状(免罪符)を販売したのです。

" So bald der Gülden im Becken klingt, Im huy die Seel im Himel springt."「グルデン金貨がチリンと鳴れば、魂はポンと天国へ飛び上がる」。
この謳い文句で贖宥状を売りさばいていたのです。諸侯は金貨25枚 、貴族は金貨10枚、市民は金貨1枚などと価格が設定されていたのです。

といっても贖宥状はこの時に始まったものではなく、第1回十字軍の時には大々的に出回っており、15世紀に贖宥状を批判したボヘミアのヤン・フスが火あぶりに処せられています。

ルターは神学的議論をしようとしたのですが、最高の権威である教会(カトリック)批判は宗教改革に発展しました。
これを機に新派に分裂してカトリック(「普遍的」の意味)は新派を異端とし、新派はカトリック教会に抗議したことから自らを「プロテスタント」(ラテン語で "prōtestārī"・ プローテスターリー)と呼びました。

ヨーロッパは分裂し、その最終戦争が17世紀半ばの30年戦争と言われています。同じ神を信じている者同志であるのに、あまりにも残虐な戦争に恐れをなしてウェストファリア条約やピューリタン革命によって終結させたのです。

宗教改革とは教会改革のことであり、これがごく大まかなアウトラインです。人間の実相に唖然としてしまいます。

私たちプロテスタント信仰は、魂の救いは「信仰義認」であり、善い行いにより救われるのではなく、教会を介してでもなく自ら十字架の死と復活によるイエス・キリストを信じる信仰です。

また、信仰者はすべて神の御前に祭司であるという「万人司祭」の考え方です。そして、カトリックのようにマリア崇拝や偉業を成した人を聖人として崇めることもしません。

しかし今それらの違いを超えて、ようやく50年前からルーテル教会とカトリック教会の対話が始まり、分裂から和解、一致へと歩み寄り、カトリックとプロテスタントの歴史的な和解が進んでいます。

その一例がカトリックとプロテスタントの両教派で使えるようにと、共同で翻訳した新共同訳聖書が1987年に刊行され多くの教会で用いられています。(『メメントドミニ』では、1955年に刊行された口語訳聖書を用いています。)

最も平和を希求していたプロテスタンティズムの歴史に悲惨な戦いがあったこと、それが私たちの現実であり人間の姿です。しかし、プロテスタンティズムが中世の暗黒時代から近代をもたらし、現代社会にも大きな示唆を与え貢献しています。

大切なことは、これからもあらゆる領域で個人の多様性を重んじ、異なる信仰や価値観といかに共存していけばよいか改革し続けて行かねばならないのです。より良きをめざして!

信仰者は自分たちの教会だけが正統なものであり、自分たちだけが聖書的であると自負するとすれば道を踏み外すことになるでしょう。

ただし「神が間違いを犯す」と公言する牧師など論外であり、牧師だけではなく唯々諾々と追従する信徒たちに忠告しなければなりません。関係する教職者たちの在り方にも大きな問題を感じていますが、今はただただ教会の上に主の導きを祈るばかりです。

IMG_8624.jpgエルンスト・トレルチは次のように言っています。
「神的な生は私たちの現世での経験においては一ではなく多なのです。そしてこの多の中に存在する一を思うことこそが愛の本質なのです」。

私はこれからも超教派のスタンスで「主に在って一つ」を信条に歩んでいきたいと思います。
折り紙の「くじゃく」はユキがユウチューブを見て折りました。

附記:選挙結果に愕然としブログに取り上げることもしませんでしたが、多くのことを考えさせられています。

先週26日(木)は2週間ぶりの晴天、翌27日と連日の晴天で気温も23、3度になり、2日間はTシャツ一枚で大忙しだった。ユキと知子の寝具も冬用に交換、電気毛布も敷いた。

タオルケットや夏蒲団カバーなど洗濯機を何度も回して気持ちよく乾いた。これで寒くなっても大丈夫! 
しかし、しんどかった。本当にしんどかった。持ち上げる力も落ち、命の勢いが弱くなっているのがわかる。26日の夕方から頭痛が続いている。

冬支度は終わったが昨日から再び雨。そしてまたしても季節外れの台風で只今22号が接近中、今日もまた、雨、雨、雨。
夫は一昨日のゴルフ後、別の集まりの宿泊先に向かい、昨日は雨の中での連日のゴルフ。しかも2日間で400キロも走行したという。無事に帰宅したことを感謝し胸をなでおろす。

IMG_8596.jpg先月72歳になった夫、私は明日66歳になる。体力の差が大きすぎる。早く本の編集を始めないと時間が尽きてしまう。

今年もシュウメイギクの季節が終わった。
Farewell,
until the next year.


posted by 優子 at 12:08| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年10月25日

児童文学作家・今関信子さんのお証し 「75歳節目の時にふりかえる −書くこと生きること―」 ―日本クリスチャン・ペンクラブ関西ブロック例会―

大津駅前.jpg JCP(日本クリスチャン・ペンクラブ)関西ブロック9月の例会日が創立65周年行事と重なったので、10月21日に開催した。

秋に大津を訪れるのは何年ぶりだろうか。この翌日は衆院選挙投票日で、台風21号が近畿地方に最接近した。(写真正面はJR大津駅)

台風前ということもありいつもより1時間早く散会した。大津駅の背後の山に厚い雲が立ち込めて山水画を見るようだった。

例会では私たちの導き手であり著名な児童文学作家・今関信子さんがお証ししてくださった。
10月16日で後期高齢者になり、いろんな意味で節目だと思っている。久保田先生が亡くなられたので関西ブロックも今ここで考え直して新たなる出発をしたいと思っていた。

IMG_8568.jpg久保田先生がクリスチャン・ペンクラブに誘ってくださった時に薦められた満江巌氏の『あかしの文章入門』を読み返した。内村鑑三のことが何度も出て来る。例話の文章は古いが、クリスチャンがやらなければならないことを明確に発言されている。

文章はみんなに届けていくためにとてもよいものであるから文章を磨き、「若者にはそれを受け入れ易い文章に、老人にはそれにふさわしいいのちのことばを届けよう」と書いておられ、「届く」というのがとてもインパクトのある言葉として残った。私自身もこのことを心にとめて書いてきた。

教団の『こころの友』に子どものそばで感じたことを1年間書いたが不発に終わった。書いた文章に反応がこなかった。『こころの友』はたくさんの人が読んでいる媒体である。

IMG_8571.jpg公に言葉を出した時、面白ければ必ず反応が出るということを私は体験上知っている。京都新聞の小さなコラムに載っていた私の文章を学研の人が見つけて、それが1ページになり、次に38ページになり、本(『大久野島からのバトン』)になった。

心に届けば必ず反応が返って来る。「若者には若者に届くように、老人には老人に届くように」と、満江氏の言葉は一つの要素だと思っている。

文章には必ずその人が投影されていて文章に滲み出て来る。内村鑑三は「文は文字ではない思想である。思想は血である、命である」と、文は読む人の考え方を動かして思想にまで届く。

スケッチするように捉えても祈りによって確かめられて、内実を整えていくと現われてくる言葉、それが滲む文章を書かせるのだと思っている。

礼拝する人間は必ず自分の持ち場に押し出されて行って闘う。そして「必ず神より与えられる」という内村の言葉。私は「内村さん」と呼び、親しく交わりたい。牧師であれ尊敬はしているけれど神さまのように崇めたてまつらない。昔からの友達のように呼びかける、それが私の生き方だ。

この時代に生かされている自分が押し出された場所で闘い、この器で語るものは持っているだろうと自分では思う。祈りをもって言葉を紡ぎ出す。勧善懲悪のように何かを語り出さないようにというのが私の姿勢だ。

最初に結論ありきではなく、(私の)名前を憶えてくださっている神さまに感謝して、揺れながら迷いながらのものを持ちながら書いている。満江氏もそう書いておられるからすごい! 

読んでいるうちに「ああ、またか」と思われてしまう文章は書かない。満江氏は、「達観させるような匂いのする文章はうんざりさせるよ」と忠告してくださっているように思う。

内村鑑三の弟子・藤井武は、「我らはただ神の賜の何であるかを胸に思い浮かべて見るだけではついにこれを発見することができない。我らは出でて捜さなければならない。・・・十字架を仰ぎ見なければわからない」と、愛に満ちた神の業がなければ私たちは立ち上がってこないと書いている。

満江氏は藤井の文章はリズム感があり心に響いてくる、香りが違う。詩には匂いたつ言葉とリズムがあり、リズムは人の心を和らげ素直にさせると書いている。

羽仁もと子は「神さま すごい!」という書き方ではなく、「神さまは私たちをこんなに個性を持って生まれさせてくださっているんですよね」と心に迫る文章だ。

『大久野島からのバトン』はしっかりした取材があり、それを書きとればノンフィクションになるがそうはしなかった。第2次世界大戦中のことを「昔こんなことがあった」と書くと今の人に届かないので小説化した。

ミッションスクール(YMCA)の子どもを登場させ、多くの人を登場させて意見を言わせた。YMCAの顧問のクリスチャンの先生が大事な役目をしてくれるのではないかと思った。

今、滋賀県の小学校に招かれて講演に回っている。修学旅行で広島へ行く前に通過していく島のことをしっかり事前学習して毒ガス資料館につなぐ。私はこれを言うためにという気持ちで書いてきたことは一度もない。読んでくれた人が何かにひっかかってくれたらいいなあと祈りながら書いている。   

満江氏の本を読んでからやっていることがある。それは毎日一番最初に葉書を書く。その人は課題を持っているので説教臭くならないように寄り添うように書く。私の言葉を拾ってくれる人に届く言葉を書けるようにやっているのが葉書である。自己表現として書いているのではなく、そのことも久保田先生に触発された課題かもしれないと思う。

小さい版.jpg今関さんは予定通り見事に30分間で話し終えられた! そのあとの分かち合いで心に残った言葉:

★キリスト教で何かを言おうとするとき裁いてしまう。聖書を読みながら自分も問われている。正義を振り回さないで、キリスト教の光でその人の人物と真実が浮かび上がるように書きたい。

2小さい版.jpg★キャラクターを立てていくとき一面的に捉えるのではなく、豊かに考えられる人になりたいと思っている。

次回の例会は、11月18日(土)
千里ニュータウン教会にて午後1時より。

東牧師が召天されたので千里の会場は次回が最後になるかも知れない。
先ほどからようやく陽ざしが部屋に入り、自然の暖かさで心和らぐ。
posted by 優子 at 14:49| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2017年10月23日

紙版のレインボースプリング?

台風21号接近中の昨日は一日眠っていた。夕方4時過ぎ、市の自動車が「大至急避難してください」とアナウンスしながら回っていた。お昼過ぎから外出していた知子とユキもまもなく帰宅した。

そして今朝、ようやく雨が上がった。陽ざしは何日ぶりだろうか。雨も降っていないのに大雨警報が解除されず、今日もまた18号同様にユキは全日休校になった。

そんな午後、先週末に学校で教わってきたおもちゃ(?)を画用紙で作って遊んだ。
1分間のビデオです。


作り方は簡単!
元気な時にご紹介しようと思います。
posted by 優子 at 16:24| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年10月21日

初めての期日前投票と出口調査体験!

昨日も今日も雨、雨、雨。主婦歴41年にして初めて天気の悪い日に冬の寝具と入れ替えた。
この10日間ほど前から夏蒲団にタオルケットを重ね、パジャマの上から分厚いカーデガンを着て寝ていたが、寒いと体に力を入れて眠るのかリラックスできず、ついに限界。昨日、私たち夫婦の分だけ毛布と冬布団に交換したのでグッスリ眠ることができた。

今、超大型台風21号が接近中で、近畿地方には明日から雨はひどくなり夜半から暴風雨になるとのことだが、いよいよ明日は投票日。投票所は歩いて5分ほどとはいえ、雨風だと自動車の乗り降りだけでも大変だからと、クリスチャン・ペンクラブの例会出発前に急きょ期日前投票に出かけた。

期日前投票.jpg9時40分頃に市役所に着いた時もすでに長蛇の列で、見る見るうちに私の後ろにも50〜60名が続いた。

20分ほど待って漸く投票し、出てきた時には100名以上にもなっていた。市の職員さんも「こんなことは初めてです」とびっくり。

私たち夫婦も期日前投票は初めてのこと。しかも、私は出口調査も体験した。
「奈良県の出口調査に協力していただけますか?」の声を受け、いくつかの問いにチェックを入れた。

今、投票した候補者名は。政党名は。前回入れた政党名は。最も重視するマニフェスト項目は。性別。年代を問われた。

私はこれまでどうして出口調査で開票が始まってすぐに当選確実がわかるのだろうと不思議に思っていただけに、「これならわかるわ」と納得した。

一緒についてきたユキは1学期に市役所を見学した時のことを話していたので、「期日前投票のことも見学できたから今週末の作文にこのことを書くのはどう?」と話しながら順番を待っていた。

ユキは目の輝きもなかったが、私はすごく楽しい体験だった。次女夫婦もアメリカで在外公館投票を済ませている。私たちも国民の義務を果たし、明日の結果を見守りたい。

無事投票を済ませてスーパーで例会のお茶菓子を買うつもりが思っているのがなく、短時間で買い物を済ませて一旦帰宅して駅に送ってもらうと11時になっていた。いつも乗っている大阪駅正午発の電車には間に合わない。

しかも新快速はすべて大津に止まると思っていたのに、車内では「大津京」をアナウンスしているではないか。ということは京都から湖西線になる。大津は琵琶湖線ということも全く知らず、京都で乗り換えて大津に到着したのは例会が始まる午後1時だった。

今日はお連れが欠席されたので猛ダッシュして5分遅れぐらいで到着した。朝から刺激の多い充実した一日だった。今夜も眠るのが楽しみ! 

posted by 優子 at 22:19| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年10月19日

濃霧の朝に見えたもの ―目には見えないもの―

IMG_8395.jpg濃霧が立ち込めていた昨朝、出社する知子の驚く声で私も外へ出た。垣根のてっぺんが雪のように白くなっていた。蜘蛛の糸に霧の水滴がついて見事に可視化されたのだ。

「蜘蛛」という字を見るだけでもゾッとするので写真など貼りたくないが、普段全く気がつかないのに存在していたものをご覧にいれたい。

大阪と違い当地では濃霧は珍しくない。この日も自動車で5〜6分も走って大阪府に入ると晴れていたという。チャッピーがいる時はマメに箒で取り除いていたので、このような光景を見るのは初めてだった。

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わが家だけなんだろうかと裏のお宅の木を見ると、
やっぱりたくさんついていた。
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白く見えるところは全てそうだった。

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IMG_8459.jpgそして雨の今朝、目を凝らして見ても見えなかった。
「目には見えないもの」と言えば『星の王子さま』や金子みすゞの詩を思い出し、クリスチャンならばまず聖書の言葉を口ずさむであろう。

今は衆院選挙前とあってこの現象に安倍首相の姿が重なった。即ち選挙演説で原発や彼の悲願の改憲など最も大切な問題を語っていないことだ。

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IMG_8412.jpgサン・テグジュペリは『星の王子さま』でキツネに言わせている。
大切なことは心で見なくちゃ見えない。かんじんなことは、目に見えないんだよ」。(このことをテーマにした拙文が子育て中のPTA広報誌に残っています。ここをお開きください。)

20世紀の大科学者・アルベルト・アインシュタインが5歳の時、父からもらった羅針盤を手にした時のこと。
「目に見えない力によって羅針はいつも同じ方向を指している! どうしてだろうか? 物事の背後には奥に秘められたものが隠されているにちがいない」。

鋭い洞察だ。そして、詩人はこのように詠う。金子みすゞの有名な詩 「星とたんぽぽ」

     青いお空のそこふかく、
     海の小石のそのように、
     夜がくるまでしずんでる、
     昼のお星はめにみえぬ。
       見えぬけれどもあるんだよ、
       見えぬものでもあるんだよ。
 
     ちってすがれたたんぽぽの、
     かわらのすきに、だァまって、
     春のくるまでかくれてる、
     つよいその根はめにみえぬ。
       見えぬけれどもあるんだよ、
       見えぬものでもあるんだよ。

ついでながら最も強烈な印象を受けたみすゞの詩 『大漁』

  朝焼小焼だ
  大漁だ。
  大羽鰮(おおばいわし)の
  大漁だ。

  浜はまつりの
  ようだけど
  海のなかでは
  何万の
  鰮のとむらい 

するだろう

最後に聖書の言葉、コリント人への第2の手紙 4章18節:

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」。
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お昼前に上がった雨が再び夕刻から降り出した。
今夜、夫は東京泊、今日の東京の最高気温は12.3度。
10月中旬では60年ぶりの寒さだという。

関西も15度で12月上旬〜中旬の寒さが続いている。
今日も雨の合間に散歩に出た。  

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チャッピー、ユキが来るまでは毎日この道を歩いたね。

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山から勢いよく流れる水。

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これは山茶花?

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シュウメイギクは長雨に打たれて倒れそう。
精一杯しゃがんで花を覗き込んで写したよ。
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こんにちは!

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風も強くて花の命ますます短し・・・

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うわぁ、美しい笑顔のよう!
気持ちが明るくなった。
地上から10センチほどだから、しゃがむだけで精一杯。
カメラを向けて撮ったよ。

ユキの秋みつけ.jpgIMG_8498.jpg
後ろ姿も美しいね。
このシュウメイギクもKさんから苗をいただいた。
当地に引っ越して2年目の秋ぐらいだったと思う。ね、チャッピー。

「目に見えないもの」は良いものだけではなく悪いものも見えないのであるが、心で見なければならないことだけは確かである。投票日は心を働かせて自分の考えに最も近い人物と政党を選び、一票の責任を果たしたい。
posted by 優子 at 20:57| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年10月17日

未来への責任 −日本のリベラルに期待!―

シュウメイギク連日の雨に打たれて.jpg3日間降り続いた雨がようやく午後2時頃に止んだが、これもしばしの合間だけで明日の夜からまた雨天が続くそうだ。

気温も先週の29度台から一転、今週から急激に下がり今日の最高気温は15度止まり。昨日から厚手の上着を着て、足温器を使っている。
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衆院選を前に「リベラル」という言葉をよく耳にする。「リベラル」の震源地はドイツで、ルターの宗教改革に始まるのだが、「日本のリベラル」の意味について10月8日の『サンデーモーニング』で分かりやすく説明していた。

「リベラル」とは寛容の精神から生まれた。日本には穏健なハト派を指す言葉だったが、55年体制が崩壊して革新勢力が衰退し、その代わりに「リベラル」と言われるようになった。

左派というイメージで使われているがそれは正しくない。憲法や自衛隊派遣に対して慎重な人々であり、戦後の保守本流がリベラリストの典型であった。

リベラルとは暴力を排して共存していく知恵であり、日本だと日本国憲法の3原則がリベラルの根幹で、それを排除しないで尊重し合えるのが肝要だ。

また機会平等と不幸の最小化を目指す。次世代のことを考え、理想のストッパーにして踏み出していく。それがリベラルである。

今、政治がリベラルを排除していっているが、かつては自民党の主流ほどリベラルだったことを忘れてはならない。

戦後の反省から始まったからリベラルは慎重だ。権力の行使については臆病なほど慎重です」とは宮沢喜一さんの言葉だ。

ジャーナリストの岸井成格(しげただ)さんは、安倍さんが2012年に戻ってきた時に安倍さんに言ったときのエピソードを次のように話した。

「右翼の思想だけは封印したほうがいい。宮澤さんの権力の行使は慎重であるべきだと、これが保守の奔流だと伝えたら、総理は言下に『宮澤さんは間違いです。今までの保守が間違っている。権力は積極的に行使してこそ国民の負託にこたえるものだ。権力はガンガンガンガン使うものなんですよと言った」。

ヨーロッパでは排外的な極右政党が躍進し、アメリカでは自国中心で強硬なナショナリズムに傾き、リベラル勢力が弱くなってしまった感がある。このような時、人間の心理は不安ゆえに強く断言する人に惹かれていくから慎重にならねばならない。

現自民党にもリベラル派(野中広務氏、古賀誠氏、山崎拓氏たち)がいて、彼らは安倍政権の危うさを事あるごとに訴えてきたと言うが、殆どニュースに取り上げられていない。

私たちは安倍政権の5年間を振り返り、投票する前に今一度自分自身と向き合ってしっかり考えねばならない。この路線のまま行けばますます政府の力が大きくなり、個人の権利が小さくされていく。そのような乱暴きわまりない政権運営は非常に危険だ。

安保法や特定秘密保護法の強行採決されたとき非情な危機を感じた。自衛隊を明記すれば軍拡予算が組まれて防衛費が極端に増大していくであろうと専門家は警告している。

本当に戦争をできる国にしてもいいのか?! 
特に今、子育てしている人たちよ、
あなたがたこそが目覚めた母親たちと共に声を出さなくてどうする?!

消費税や教育費負担などの政策については最善策を導き出せばよい。しかし、原発問題は全く異次元の問題であり、「森・加計問題」や南スーダン日報隠しについてもまた現政権の本質にかかわる権力の乱用だ。

あの時、国民の半数以上が安倍内閣に不支持を示し、その後も曖昧のままで安倍政権に不安を感じている人が多いのに、選挙予測では現政権が過半数を占めるというのはなぜ?! あるいはこれもメディア戦術なのか?!

山口県の安倍さんの地元では、浄土真宗の住職さんが主催した反安保講演に聴衆が殺到し、地元での安倍さんの評判は悪いと『リテラ』が報じている。

与党に問題を感じるならば野党を支えて歪みを是正しなければならない。権力者が暴走しないように縛る憲法を無視し、独裁的に動かしていく政権は恐怖だ。国の形が変わってしまえば、賛同している人も自由を保障されなくなるのである。

IMG_8385.jpg自由を保障される民主主義国家に戻そう!
今回こそは投票率が高くなることを期待したい。投票権を放棄するのはあまりにも無責任だ。未来への責任がある。
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posted by 優子 at 17:15| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2017年10月15日

家の教会2017㊲ −「あなたのパンを水に投げよ」−

2017年10月15日(日) (2017第37回 家の教会)
9時55分〜10時35分
出席者 2名(With R)

@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 讃美歌     368番「つとめいそしめ」
C 聖書輪読    伝道の書11章1節〜6節
D お話      優子
E お祈り     1人ずつ

伝道の書 11章1節〜6節:

11:1 あなたのパンを水の上に投げよ、

多くの日の後、あなたはそれを得るからである。

11:2 あなたは一つの分を七つまた八つに分けよ、

あなたは、どんな災が地に起るかを知らないからだ。

11:3 雲がもし雨で満ちるならば、地にそれを注ぐ、

また木がもし南か北に倒れるならば、

その木は倒れた所に横たわる。

11:4 風を警戒する者は種をまかない、

雲を観測する者は刈ることをしない。

11:5 あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。

11:6 朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。


お話:

「伝道の書」は冒頭から「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。」と、人間は何をやっても益がなく、その意味で人生の一切は空しいと書き始めています。


神の創造も認めていませんから、時間は循環的で永遠の繰り返しだから新しいものは何もなく、偶然や運命という言葉が何度も出てきます。


このような書がどうして聖書に編纂されたのだろうかと思うのですが、しかし、大切なことはちゃんと言っているのです。

人生は空の空であるから「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」と。


ところで、私は「あなたのパンを水の上に投げよ」という言葉を初めて聞いた時は意味が解りませんでした。そして大人になってからは、この箇所を読むたびにアンデルセンの童話「パンを踏んだ娘」を思い出すのです。


インゲルという娘が大きなぬかるみを前にして、きれいな靴を汚さないように持っていたパンを泥の中に投げて渡ろうとした話です。


内容は全く違うのですが「パンを水に投げる」という言葉から、私はやっぱり今も連想してしまうほど強烈な印象を与えた童話でした。


さて、「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」というのはどういうことであるかを考えるに、まず「パン」とは何か、また「水」は何を意味するのかを考えたいと思うのです。


その時に注目すべきは「あなたはそれを得るからである」という言葉です。空しくは終わらず、神さまの約束だというわけですから、「パン」も「水」も共に幸いな意味を指していることがわかります。


「あなたのパン」とは「あなたの生きる上で必要な糧」、それは食べ物だけではなく、無くてはならぬ絶対に必要なものです。イエスさまが言われた、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである。」(マタイ4章4節)というみことばを想起します。


ということは、それは自分の能力や努力によって得るのではなく、また得られるものではないということでしょうか。


「水を意味するヘブル語の『マイム』(מַיִם)は、神の真理の象徴」ということですから、「あなたの大切な糧を得られるように神さまに投げよ」ということになります。


そうするならば「多くの日の後、あなたはそれを得るからである」と言うのです。それはいつなのかはわかりませんが「神の時」であり、神さまがご計画を成就される絶妙な時に与えられるというのです。


この地上に在る時とは限らず、御国(天の国)が成就される時であるかもわかりません。しかし、必ず与えてくださるという約束なのですから、その約束を信じて歩み続けていきたいと思います。


今朝のみことばからこのように神さまのメッセージを受け取りましたので、歩み方においてはこれまでと変わらずに、ただし今朝もう一度姿勢を正して、自分なりの精一杯を務めつつ水の上に投げて(向けて)神の御手に委ねます。


神さまの約束は絶対です。確約です。今、私が深い悩みの中にあっても喜びに変えられるという約束を握りしめて進んで行こうと力をいただきました。

私にも与えて下さっている大切な賜物や時を活かして神さまのために使っていきたいと思います。今も神さまが私の思いもしないところで用いてくださっているかもしれません。


「実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである」。


お読みくださった方々の上に、神さまのお導きとお守りがありますようにお祈りします。


posted by 優子 at 15:54| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年10月14日

ブルンナー読書会M ―教会の礎石―

西洋の近代は「2つのR」によってもたらされたと言われており、「2つのR」とは「Renaissance(ルネサンス)」の「R」と「Reformation(宗教改革)」の「R」である。

IMG_8357.jpgルターの宗教改革から今年でちょうど500年になる。それを機に世界の政治や文化に大きな影響を与えたプロテスタンティズムについて読んでいるのだが、今回の「教会の礎石」でブルンナーが語っている宗教改革の意味や信仰の神髄はまことにタイムリーな学びであった。

今日は下村喜八さんが翻訳されたエーミル・ブルンナー著『フラウミュンスター説教集T』の3回目、説教のタイトルは「教会の基礎」である。

いつものように最初に讃美歌239番「さまよう人々」を讃美し、聖書輪読、下村さんの敬虔なお祈りにより騒がしい心が静められ、「ブルンナーの言葉に導かれて神の御前に立」って読書会に入った。

マタイによる福音書16章13節〜19節:
16:13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
16:14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
16:19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

初めに下村さんは、「宗教改革500年の年、しかも10月にこのところを学べるのはいいですね」と言われた。(本当に感謝な時と学びです。)以下は私なりの復習で、カギ括弧はブルンナーの言葉である。

1517年10月31日に、マルティーン・ルターはヴィッテンベルクの城教会の扉に95箇条の論題を貼り付けた。

それはローマ・カトリックの核心を突くものであった。ローマ教会はお金を集めるために各罪の値段を定め、そのお金を箱に入れると罪が赦されるというのはおかしいという、論題の中心は真の悔い改めについてであった。

ルターはそれらについて論じたいと言っていただけなのに論争になり、対立となって宗教改革にまで発展した。

「ローマ教会は、ペテロを教会のよって建つ礎石、岩と呼ぶあの言葉を証拠とすることによって、聖書と、主イエス・キリストご自身の言葉とを自分の味方に引き込んでいるのではないでしょうか」。

ペテロを受け継ぐのがローマ司教であり、その上に教会が建っているというのがカトリックの理解である。

イエスが「自分は何々である」と言わずに「あなたがたはわたしをだれと言うのか」と質問されるということが、われわれに完全に福音の中心を覗かせてくれる。ここがとても大切だ。

これは教育の基本でもある。教育の基本は考えさせることであるのに先に指示して教えてしまう。私もずっと教育に携わってきたが(大学教授、今春退官された)、指示待ち人間をつくるのではなく自分で決めさせることが大切である。

「多くの人は、聖書がイエスを神の子と告知しているからイエスを神の子だと信じなければならない」と考えているが、そうではない。「われわれはそれを、神がわれわれに啓示される真理として、自分自身で認識しなければならないのです」。

「われわれの信仰は、まず聖書を信じ、それからイエス・キリストを信じるという類のものであってはなりません。まさにこういう類の信仰、つまり権威的信仰はカトリック的であり、福音的ではありません」。

かつて、聖書の一字一句が神の霊感によって書かれているという「逐語霊感説(ちくごれいかんせつ)」が語られていた。従って聖書を翻訳してもいけなかった。一番最初に翻訳されたイギリスの「ブルガーター聖書」は、聖書の言葉をそのまま一字ずつ訳して並べていたので意味が成り立たなかった。

聖書の権威がドグマ(教理や教条)を信じないといけないことになり、次に教会に変わった。当時ギリシャ語やヘブライ語の聖書を読めるのは司教や司祭だったため、ルターが一般の人が読んでもわかるドイツ語で翻訳した。そして、グーテンベルグの印刷術でが宗教改革の力になったと言われている。

「真の信仰は自分で認識することであり、自分で気づくことです。イエス・キリストに対する信仰は、ちょうど弟子たちの信仰が生まれたのと全く同じ仕方で生まれます。彼らには、イエスはキリストであると告げる聖書はありませんでした」。

「われわれは、イエスにおいて神がわれわれに出会われると言うこと」。ゆえに、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と、イエスは「自分でわかったかどうかさぐろうとされたのです」。

知性も働かせ疑いも含めながら自ら認識しなければならない。最初は知識で考え言葉で納得するが、言葉だけが独り歩きして信じるというならば、知的なドグマ信仰に変わってしまう。

信仰は愛と信頼であるのに、権威信仰、ドグマ信仰、律法的信仰、知的な認識だけで終わってしまう信仰、また道徳的な信仰など、歴史上多くの間違いを犯してきた。

人格関係で生まれた時に信じる者が変えられ、信仰を授かったのは神の賜物であるという認識そのものが信仰であるペテロこそが「イエスはキリストであると認識し、告白した最初の人間です」。

たびたび出される二つの質問について:
@「どのようにして信仰をもつようになるのか」という問い。

それは「教会の説教と聖書の証しを通して」であり、その時「自分が弱く罪深い人間であることを心から認めることができた時です。またわれわれが信仰をもつようになるのは、罪の赦しを喜んで受け取り、神がわれわれの主であることを心から認める時です」。

生まれながらの人間が否定されないといけない。

「これが信仰をもつに至る正しい道」であり、「幾百年の間、ローマ・カトリック教会によってふさがれていた」道が宗教改革者によって再び示されたのである。

A「いったいなぜイエス・キリストを信じなければならないのか。神を信じるだけでは不十分なのか」という問い。

まず「神」という概念がはっきりしない。
「神ご自身がわれわれにご自分の姿を現されます。まさにイエス・キリストをとおしてそうされます。イエスは、『わたしを見たものは父を見たのである』と言われました。神は、イエス・キリストにおいてご自身を現されたのです」。

「われわれが信じなければならないのは、神とイエスの二人ではなく、ただ一人の神、すなわちイエス・キリストをとおして神を信じるのです。

しかし、この信仰はこの二面性を持っています。それはイエス・キリストを介する神の賜物であるとともに、われわれの認識でもあります。この認識は、罪の告白であると同時に、喜びと感謝をもって神の恵みを受け取ることでもあるような認識です」。

「イエスがメシヤ、救い主であり、神の子であると認識すること。これは神の賜物です」。

「その認識を与えることができるのはただ神のみです。(牧師も教皇も聖書も、パウロもペテロ・・・も与えることはできない)天の父があなたにそれを開示されました」。

「われわれにそれを受け取る心備え、罪人として神の赦しを受け取る心備えさえできておれば、神の聖霊がそれをなしてくれます」。

「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。」と言われたイエスは、教会について何を語ろうとしているのか。

ペテロの告白を基礎としてペテロの岩の上に建っている。教会はペテロの人としての位の上に建っているのではなく、信仰告白の上に建っている。これについては今年6月の会で学んだ『使徒信条講解説教』の「教会の基礎と存在」と重複している。

即ち、ペテロその人がいしずえではなくて、ペテロがイエスを何と考えるかということであり、ペテロその人がいしずえになると人間が権力を持つようになる

それまで神と人間の間にローマ教皇が立っていたが、ルターは教会を『キルへ(Kirche)』という組織ではなく『ゲマインデ(Gemeinde)』信仰の交わり・共同体であるとした。

「神の言葉と信仰と教会の本源的な理解の回復が宗教改革だったのです。このようにして彼らは、真の信仰を妨げる人間の奴隷状態からわれわれを解放してくれました」。

しかしまた、「多くの改革派の信者よりもはるかに立派なイエス・キリストの弟子であるカトリック信者が存在してきたし、現に存在する」。

カトリックの立派な人たちは、やはり組織からずれていた。例えば、私(下村さん)が研究してきたシュナイダーもそうだ。シュナイダーはカトリックの罪責、過ちを認めるべきだと批判していたから、一概にカトリックは全てが権威信仰ではない。

「しかし、われわれはカトリックの信者にまさったものを一つ持っています。そしてこれが最も重要なことです。

すなわちそれは、このわれわれの教会がいかに誤りを犯しやすいものであるか、いかに脆弱なもので、いかに不完全なものであるかを絶えず認識しているということ、また、われわれが改革派の信者として、改革派教会が常に新たに改革される時にのみ改革的でありうるということを知って」いるということです。

「常に新たに改革される時にのみ改革的でありうる」、これが宗教改革の定義である。教会のみならず信者一人ひとりも常に改革されないといけない

「主がペテロに委ねられた『天国の鍵』とは、教皇の権能のことではなく、端的に、天国の門を開く和解の福音そのものでした。そして他方、『つなぐ』あるいは『解く』ということは、神の言葉が人間に対してもっている働きにほかなりません。

それは悔い改めない者を裁き、悔い改めた者を和解の言葉によって解放します。悔い改めない者に対しては天国を閉ざし、悔い改めた者に対しては天国を開きます」。

こうして悔い改めた人々の魂を権威の奴隷や知識を丸のみにする奴隷から救い出してくださった。

昨夜京都の湯の花温泉で宿泊した夫は、今朝10時過ぎにケーキ屋さんにも寄って無事帰宅。お昼前にもう一度テキストを読み直してメモまで取っていた。

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「ドイツにもシュウメイギクがたくさん咲いていた」。
✈先月下旬にドイツへ行かれた下村さんが話してくださった。ドイツの空港でのセキュリティチェックがとても厳しくなっていたことや、現在の教育費事情や食べ物のことなどお聞きしたが、もっともっとお聞きしたかった。何よりもドイツ語を話してほしい。意味がわからなくても生でお聞きしたい。

今月も幸いな深い安らぎのひと時を感謝します。
次回は、11月25日(土)。テキスト箇所は「大いなる招き」、発表は優子。

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posted by 優子 at 22:17| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

ユキで盛り上がった「G20」ニュース

今朝のBSニュースを見ていた時のこと。
「ユキ! 『G20』のニュースでラガルドさんが映るよ!」と呼びかけると、「えっ?! マチも居る?!」とお決まりのことを言いながら駆け寄ってきた。

DSC05728.jpg私が昨夜見たニュースにはなかったIMF内の映像が出てきた。

「あっ、ここ知ってる!」
「ユキがぐずっていた所や」と知子。
「あっ、ここもマチに連れて行ってもらった会議室や!」

そして「フーもいないのか・・・」の言葉で、「G20」ニュースは一発の打ち上げ花火のように花を咲かせて終わった。

真智と太志君はラガルドさんのスピーチ原稿のたたき台を書き、一部手直しされて用いられている。仕事は常にハードなようだ。

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2013年6月のワシントンの旅はここをクリックしてください。
posted by 優子 at 09:47| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年10月13日

毎年気をもむ植木の剪定

毎年10月末か11月初めに植木の剪定を予約するのだが、この2年間シルバー人材センターさんの不手際で晩秋や年末になっていた。

今年は順調に予約できていたが今週休み明けに「12日にしてもらえないか」と頼まれて困った。というのは今、シュウメイギクが真っ盛りなので、花の上にシートを敷かれるのは忍びない。天気予報では連日続いた夏の晴天は11日で終わり、これからしばらく雨天が続き、12日は夜から雨という予報ゆえに譲歩した。

花雨で助かった.jpg剪定当日はいつも7時40分頃には来られるので、今年こそはと前日に物を移動させ、お化粧もしてスタンバイしていたものの、7時半頃から雨が降り出した。
まもなくシルバーチーム到着。しばらく様子を見ていたが雨はやみそうになく8時前に引き上げて行かれた。

ところがまもなく雨は上がり一日中降らなかった。天気図では秋雨前線が南下するので天気は悪くなる一方のはずが、今日は昨日よりも明るい曇天で予報は外れた。
「これならできたのに」と、シルバーさんたちのことを何度も思い出しては落ち着かない一日だった。

でも、よかった!!!
シュウメイギクが最後まで咲ける!!!

写真は昨日と今日の散歩から:

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センニチコウ

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夏の名残のカンナ

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今日はようやくお昼前に掃除が終わり休憩の前に散歩に出た。途中、Nさんを訪ねたがすこぶる元気、玄関先で40分も立ち話してしまった。そして最後にようやく伝えた、マチはワシントンで、太志君はキプロスで回復をお祈りしてくれていたことを。

「キプロスは美しい所やね。ついに行けなかったけれど、今は(中東は)怖いね」と、数え切れないほど海外旅行されたNさん。その後、小学校まで行って帰ってきた。

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今夜夫は不在、ゴルフのあと宿泊して明朝帰宅、午後に「ブルンナー読書会」がある。そこで帰りにケーキ屋さんに寄ってきてもらうことになっている。私は今日もう一度読み直したが夫は頭に入っているのかな?(笑)。今から読書会が楽しみだ。
posted by 優子 at 22:00| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

「憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。

014932s_mini.jpg4日連続28度〜29.2度という季節外れの暑さで、再びTシャツ1枚にハーフパンツで過ごしている。そんな昨日、小学4年生の孫は遠足で東大寺へ。若草山でお弁当を食べ、午後は奈良県庁を見学。来年の秋の遠足は二上山に登るそうだ。

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キリストの栄光教会より「今日のみことば」:
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。(ローマ人への手紙10章13節)
一日を祈りから始めても、忙しさの中で主を忘れ、思わぬ出来事が起こって狼狽し、自分の感情や判断で動いてしまうことがありませんか。心が激したまま、あるいは不安なまま、主をそっちのけにして行動してはなりません。一旦立ち止まり、主の御名を呼び求め、祈ってから、行動を再開しましょう。主は、求める者を必ず助けてくださいます。

「私は言った。『主よ、憐れんでください。私のたましいを癒してください。私はあなたに罪を犯したからです』」。(詩篇41篇4節)
この謙虚な悔い改めがなければ、何も始まりません。魂が癒されていないからです。立派なことを言っても、失敗に終わります。自虐的なことを言っても、沈んだ心はいつまでも沈んだままです。卑屈は高慢の裏返しです。今日のダビデの告白から始めませんか。主の憐れみが臨みます。

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」。(詩篇42篇5節)
いつまでも心うなだれ、思い乱れていてはいけません。無益であり、時間の無駄です。繰り返せば悪しき習慣になります。90秒以内に心を切り換え、自分の魂に呼びかけて、神をほめたたえ、待ち望むのです。絶望の循環から、祝福の循環への転換です。

「見よ。わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は失望させられることがない」。(ローマ人への手紙9章33節)
自分が見えていない人ほど、自分に頼ろうとします。失敗を繰り返しても、まだ自分を信じようとします。絶対に自分の弱さを認めません。そうした頑固な自信が、人生を、いや世界を破滅に導きます。自分の無力を認めることこそが、道を開きます。認めた者は、主への祈りから始めます。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」。(ローマ人への手紙8章31節)
ダビデは神を味方とする生き方をしました。そのゆえ、ダビデの敵は神の敵になりました。サウルは神に王として選ばれたのに、わざわざ神を敵とする生き方をしました。それゆえ、ダビデを敵視し、殺そうとしました。しかし、神を味方にする者にはかないません。へりくだり、神を味方にすることが、勝利への道なのです。


「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう」。(詩篇40篇3節)
「ブラジルの蝶の羽ばたきが、テキサスに竜巻を起こす」といわれます(バタフライ効果)。同様に、小さな賛美でも、驚くばかりの恵みの世界を開きます。心が震えて、喜びの歌が湧きあがります。その喜びと感謝の歌が、さらなる恵みを人々に広げます。主に喜びの声を上げましょう。2_onpu_ak.gif
posted by 優子 at 22:13| 引用文 | 更新情報をチェックする

2017年10月08日

家の教会2017㊱ −みことばを宣べ伝える者―

2017年10月8日(日) (2017第36回 家の教会)
10時20分〜11時5分
出席者 2名(With R)
IMG_8269.jpg@ 初めのお祈り 優子
A 主の祈り
B 讃美歌    294番「みめぐみ豊けき」
C 聖書輪読   ローマ人への手紙 
             10章9節〜21節
D お話     優子
E お祈り    1人ずつ
F 讃美歌    405番「神とともにいまして」         

ローマ人への手紙 10章9節〜21節:
10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。
10:13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
10:14 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。
10:18 しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ
「その声は全地にひびきわたり、
その言葉は世界のはてにまで及んだ」。
10:19 なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、
「わたしはあなたがたに、
国民でない者に対してねたみを起させ、
無知な国民に対して、
怒りをいだかせるであろう」。
10:20 イザヤも大胆に言っている、
「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、
わたしを尋ねない者に、自分を現した」。
10:21 そして、イスラエルについては、
「わたしは服従せずに反抗する民に、
終日わたしの手をさし伸べていた」
と言っている。
お話:
今月22日の衆議院選挙に向けて政界はめまぐるしく変動していますが、有権者である私たちは真剣に各党各候補者が語る真偽を見分けながら耳を傾けねばなりません。

特に憲法問題は喫緊の課題になっていますので、それに関連して戦争や平和について多くの時間を割いて考えさせられています。

10月4日の記事にも少し触れましたように、選挙に関連して政党や政治について話題になる機会が多いので、私はあくまでも政治改革ではなく聖書の言葉を伝えることに時間を労していきたいという思いを強くしています。

IMG_8249.jpg何よりも私たちクリスチャンは、人間の努力では全き平和を実現することはできないことと、真の平和はキリストが再び来られた時に世界を新しくされてもたらされることを知っています。

だからといって私たちは何もしなくてよいのではありません。パウロが「すべての人との平和を追い求めよ」と教えているように、憎しみや武力ではなく、祈りによって神さまが働かれることを待ちつつ「地の塩、世の光」として歩んでいくことが肝要です

その中で最も大切なことは、私たちがキリストを通して神さまとの平和を与えられたように、周囲の人々に機会を見つけてはイエス・キリストを伝えていくことであり、これが世界平和を推進していくことだと信じるのです。

そこでもう一度深く味わいたいと思ったみことばが今日の箇所です。
13節の「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」というのは、ユダヤ人ばかりではなく、すべての異邦人にも伝えられて、信じる者には誰でも救いが約束されているという意味ですが、そのための大前提として「呼び求めるべき主」であるお方を知っていなければなりません。

そのことを受けてパウロは(14節で)、キリストを信じないユダヤ人の思い(反論)を代弁しているのです。

信じたことのない人をどうして呼び求めるのだろう、聞いたことのない人をどうして信じることができるだろうか、そんなことはあり得ないし、イスラエルがイエスをキリスト(救い主)として受け入れないとしてもイスラエルの責任ではなく、聞かされなかったことに原因があるんだと言うのですが、この気持ちはイスラエルの立場ならば誰でも頷けますよね。きっとパウロ自身の思いでもあったのでしょう。

使徒たちは遣わされて確かに福音を宣べ伝えたのであり、ユダヤ人たちは福音を聞いたのです。でも、聞いた者が皆信じたのかというとそうではなく、皆が受け入れたわけではありませんでした。

しかし、「イスラエルは聞いたのだ!」と、パウロはなおも(18節で)強調しています。しかも更に(19節以下で)「聞いただけで意味を理解できなかったのではない」とダメ押しし、福音に耳を傾けずキリストを拒絶した責任は、不従順なイスラエル自身にあり弁解の余地はないと訴えているのです。

しかしまた、そんなイスラエルに対しても(21節で)、神さまの憐れみと寛容を示しておられるのだとイザヤの言葉を用いてパウロは語るのです。

神さまはイエス・キリスト(福音)を拒んだからとすぐに滅ぼしてしまわれるわけではありません。その人の一生をかけて忍耐強く関わってくださいます。

私に洗礼を授けてくださった小山恒雄牧師は、「私たちは人を救わんがために救われた」と何度も説教で語られました。勿論救い出されるのは神さまの御業ですが、神さまは先に救い出された私たちを通して周囲の人々に福音を宣べ伝えていかれるのです。

そこでテモテへの第2の手紙 4章2節〜5節を読んで自らを励ますのです。

4:2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。

私たちがキリストのメッセージをお伝えした時に共感されなくても、それどころか無関心であったとしても、悩みの時に思い出して求めていかれるかも知れません。

IMG_8248.jpgあとのことは神さまに委ねて(お任せして)、私たちも謙遜に忍耐と寛容をもって機会があるたびに福音を宣べ伝えていきたいと思います。

クリスチャンの使命は政治改革によって国家を変えていくことではなく、神のみことばによって人の心を変えていくことだからです。

ついでながら来る投票日には、自分自身の見解に最も近い人に投票し、有権者の権利と義務を果たしましょう。
IMG_8274.jpg附記:ユキはサッカー教室、午後はお友達からバーベキューのお誘いを受けて、2部礼拝はならず。
今日の最高気温は28.4度、薄くなった着古しのTシャツ1枚でも汗ばんだ。ワシントンも今日(7日)は夏みたいに暑かったそうだ。

posted by 優子 at 12:44| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年10月06日

「日本は戦争をしないって決めた国だからいいね」

10月5日20時23分 キプロスを発つ娘婿より着信:
良輔お義父さん、優子お義母さん、知子お義姉さん

仕事はすべて順調に終わり、 いまから再びロンドン経由でDCに帰ります。 帰りは乗り継ぎの関係で、 ロンドンの空港に隣接したホテルで一泊します。 なのでDCの自宅に着くのは10月6日(金)の午後3- 4時くらい(日本時間だと7日の早朝4-5時)だと思いますが、 着いたらご連絡します。

いまはキプロスの空港で、もうすぐ搭乗です。

キプロスのタクシー運転手に、 もう一人の日本人の同僚が日本人であることを伝えたところ、 北朝鮮の話題になり「 日本は戦争をしないって決めた国だからいいね」 と言っていました。 遠くキプロスでもそう知られていることに感銘を受けました。

メメントドミニの記事もお読みして、戦争のこと平和のことなど、 色々と考えています。 DCに戻ってから一週間で衆議院選挙の在外公館投票になりますが 、できるだけしっかり調べて投票したいと思っています。

ユキちゃんは運動会だったんですね。 メメントドミニで元気な様子が伺えて嬉しいです。 ユキちゃんによろしくお伝えください。 覚えてくださっていた幼稚園の先生にも、 またの機会があればよろしくお伝えいただければ幸いです。

皆さんのこと、いつもお祈りしています。中村さんも順調に快復し ていますように。
太志

フウセンカズラ.jpg9月21日午前2時前に無事キプロスのホテルに着いたとの太志君からのメールには、「今から同僚との夕食で、明日から政府関係者とのミーティングが始まります。」と書いてあった。
それから早2週間余り経ち、再びワシントンへ戻る。

今回はアフリカではないから私の気持ちもかなり楽だった。そして、何年か前に真智が話してくれたことを思い出して派遣先での様子を思い浮かべていた。

ミッションでは、最初に派遣先の中央銀行総裁と財務大臣と会うことから始まり、場合によっては総理大臣や大統領とも会見し、その時は「大統領が来られます」との言葉で立ち上がり大統領を迎えるそうだ。

「IMFが何をしているのかを知ってもらうためにアウトリーチし、IMFが中立で偏りのない意見を持ち、IMFのアドバイスがピントはずれにならないように、中央銀行や政府の意見だけではなく、国民の人たちの声も聴くためにいろんな人に会うようにしている」。

E68E88E4B88EE5BC8FE38080E291A0.jpg次女夫婦がアメリカへ渡って12年目になる。その間に私たち夫婦がアメリカへ行ったのは一度だけ。2011年春、次女夫婦がミネソタ大学大学院で経済学のPh.Dを取得した卒業式の時だけだ。

10年間有効のパスポートを取って海外へ出たのは1度きりで今夏期限が切れた。私はもう海外へ行くつもりはないのでパスポートを更新するつもりはないが、真智たちが海外にいるから取っておくようにと友がアドバイスしてくれた。

アドバイスしてくれたNさんも順調に回復して術後3週間目の一昨日退院された。キプロスでもお祈りしてくれていたことをNさんにも伝えます。ありがとう。

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日本の秋

あと6〜7時間でワシントンに到着だ。真智も楽しみにしているだろう。今日(D.C.の6日)は早く帰宅して迎えるのかな。
私は翌朝一番にメールを見つけてこの記事に無事到着の追記するのを楽しみに、神さまに無事を祈って眠ります。

10月7日7時35分追記:太志君は予定通り午後3時頃(アメリカ時間)無事帰宅した。主に感謝します。
「真智はまだ会社で、電話で話していますが、帰ってくるのを楽しみに待っています。
来週月曜の9日がコロンブス・デーで休日なので、いまからゆっくり休みたいと思います。日本も体育の日ですね。皆さんも良い連休をお過ごしください」。
posted by 優子 at 21:57| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする