2018年03月07日

春の散歩道A ―神と語らう― 

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おはよう。花は再び花びらを開いて今日のいのちを生きる。
9時20分頃、知子から祈りの要請の電話が入り、手を止めて祈った。神の御声に心を傾けながらしばし家事をして外へ出た。
昨日のように花に夢中になることもなく、知子と自らに語りながら歩いた。試練は信仰が強められる時、神に助けを祈りながら、神の知恵をいたただいて経験を積んでいくとき」と。

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「見よ、冬は過ぎ、
雨もやんで、すでに去り、
もろもろの花は地にあらわれ、
鳥のさえずる時がきた。
山ばとの声がわれわれの地に聞える」。
                (雅歌 2章11・12節)


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おかめ桜が足元の蕾から咲き始めていた。
栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」。

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この町で一番先に咲く桜は蕾をこんなに赤くしていた。

「いちじくの木はその実を結び、
ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。
わが愛する者よ、わが麗しき者よ、
立って、出てきなさい」。
                               (雅歌 2章13節)

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IMG_0955.jpgオオバンはまだ半数ほど留まっていた。
遠くに見えるあれは何だろう? まさか・・・

やっぱり亀だった。大きな亀! 
自然界の生き物は冬眠から覚めたのだ。

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帰り道で会った知人は「全部外来種だ」と言われた。
足元を見るとツクシがたくさん顔を出していた。すでに踏んでしまっていて心を痛めつつも、これ以上踏まないように道路に出て短時間で帰宅した。

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それにしても自然界の生き物は働き者だ。
毎朝のように烏がたびたび何かをくわえて飛んで行くのを見るが、巣の材料にするのだろうか。私は烏に倣って洗濯物を干す手をテキパキ動かすのだ。

7-3.jpgイエスさまは言われた。
「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」。 (マタイによる福音書 6章26節〜34節)

posted by 優子 at 22:33| 随想 | 更新情報をチェックする

2018年03月06日

春の散歩道 @ ―2018春開く―

「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、砦である」。(詩篇91篇4節)

主の教えが愚鈍に思われ、自分の利を優先し、自分の考えで動きたくなることがあります。それは主の翼の下から出ることです。親鳥は雛を覆い、雛は親鳥に隠れることを本能で知っています。私たちも主とそんな関係を回復しているので、反射的(本能的)に主の翼に身を避けます。

昨夕の激しい雷雨はかなり強烈だったようで、溝蓋の下に溜まっていた枯れ葉がきれいに洗い流されていた。ユキを見送ってから外の掃除した。

3月28日の「春の散歩道で」を書いた2日後、いつものコースを歩くと、このあたりも春が始まっていた。花の季節になると次々と目に飛び込んでくるので黙想できない。

では今日の写真30枚、まずは昨日雨の合間に写した近隣宅の花から。
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これも花菖蒲? 2月末から咲きだしたけれど・・・

そして今朝、満開の枝垂れ梅!
ここ何年も歩いていなかったので美しさに圧倒された。
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メジロが2羽いる!
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圧巻!
梅の花がかくも迫力ある美しさだったとは!

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6-1.jpg家を出ると柴犬がずっと先を歩いていた。当然のことながら後ろ姿はチャッピーそっくり。私は「チャッピー、チャッピー」と小さな声で言いながら追いかけた。
飼い主さんも犬も若いので速い。追いついたら何度も振り返って私を見た柴くん。チャッピーより少し大きく顔も違う・・・柴犬は判でついたように同じでも、やっぱりチャッピーの代わりはいない。チャックンだけ!

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サクラソウ。

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蕾がいっぱい。
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↑ これは桜の蕾 ↓
この木は甘いサクランボをつける。

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椿は木へンに春だから、これは椿?
椿と山茶花の見分け方がわからない。

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蕾が大きく膨らんできたハクモクレン。
咲くのが楽しみ。

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ヒイラギの花

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ユキが野球をする公園のイチョウの木。

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「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」。(第一コリント2章9節)

神を愛するとは、神の言葉に喜んで従うことです。失敗してもなお、誠実に従おうとするのです。その信仰と熱情だけは失わないでいれば、今日の御言葉通り、神が「神を愛する者」を思わぬ恵みで驚かせてくださる日が必ず来ます。


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ボケの花。

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馬酔木(アセビ)。

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下から見ても美しい。
春の花はこの形が多いみたい。

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沈丁花、甘い香りがした。

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わが家のリュウキンカ。毎日夕刻になると花びらを閉じる。

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昨秋アジサイ宅のKさんにいただいた「かしわば紫陽花」の挿し木。
今朝、新芽を出していた。

「28日のブログに立派な枝垂れ梅の木がありましたが、満開になったら見事でしょうね。満開の写真楽しみにしています。」と、嬉しい声を寄せてくださっていたサムサムさんへ。

「これが今日の姿です。午前中は建物の陰になって真っ暗でしたから、思い切って午後にもう一度行って来ました! 

まだ3分咲きぐらいですね」。
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「満開を見逃さずに絶対にお目にかけたいです。
歩く励みになります」。

ユキが帰宅してから行こうと思っていたが、帰宅は4時過ぎだから大丈夫だろうと急に思い立って3時18分にスタートした。医師は「強弱つけて歩くように」と言われているのを、この時は時間を気にしながら30分間強歩で歩いた!

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多くのお宅で梅の花がさいていて、花を見つけるたびに
「きれえ(綺麗)ねー」としばしたたずむ。

帰り道で下校する児童の姿にびっくりして、ますますピッチを上げて息を切らしてたどり着き、5分後にユキが帰って来た。日曜日はしんどかったが今日は元気、日替わり定食のように日によって違うのは年齢のせい?

今日の最高気温は14度でも、リビングルームはポカポカを通り越して24.5度になっていた。さすがに暑くてドアを開け、セーターを脱いだ。

6-26.jpg昨日の雨で亀の水槽の水が増えていたので減らすと、3ヶ月も何も食べずに水中でジッとしていたのに、冬眠から覚めて石の上に登って甲羅干し。

IMG_0406.jpgそういえば、越冬していたウラギンシジミも2月末にはいなくなっていた。
今年も活動開始の春の到来である。
Wake up my glory !
posted by 優子 at 23:12| 随想 | 更新情報をチェックする

2018年03月04日

家の教会2018I ―苦難の僕(しもべ)―

IMG_0951.jpg2018年3月4日(日) 
       (2018第10回 家の教会)
12時30分〜55分
出席者 2名(with ユキ)
ヒイラギの花
@主の祈り
A子どもの讃美歌  讃美歌21・60番「どんなに小さい小鳥でも」 
B聖書輪読  イザヤ書53章全章
Cお話   優子
Dお祈り  1人ずつ
E聖歌   402番「丘に立てる荒削りの」
★ユキはサッカー教室へ。
知子はユキを見送って講演会出席のため全日外出。
イザヤ書53章全章:
53:1 だれがわれわれの聞いたことを
信じ得たか。
主の腕は、だれにあらわれたか。
53:2 彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
53:3 彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。
53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。
53:8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。
53:9 彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。
53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。
お話:
イザヤは紀元前742年から701年まで南ユダ王国で活躍した預言者です。イザヤは貴族出身で女預言者と結婚して2人の息子がいたと伝えられており、イザヤが活躍した40年間の預言活動は「イザヤ書」と「列王記下」に記されています。

イザヤ書には、古代イスラエルの滅亡と回復、そしてメシヤ(救い主)来臨の預言が書かれていますが、イザヤ一人によって書かれたのではありません。
1章から39章を「第一イザヤ」、40章から55章までを「第二イザヤ」、56章から66章を「第三イザヤ」と呼ばれており、全章に一貫して流れているのはメシヤ誕生の預言、即ち、イエスさまの十字架の罪の贖いの預言であり、神の救いの業(わざ)が記されています。

先ほど輪読した53章はあまりにも有名な「苦難の僕(しもべ)」と呼ばれている箇所であり、旧約聖書の中で頂点を極めるような大切なところです。

この時、イスラエルは紀元前586年にバビロンによって滅ぼされてバビロンの捕囚になり、イスラエルの歴史上最も苦悩の時代でした。

IMG_1003.jpgその700年後にイザヤの預言が成就したのです。今、私たちは受難節を過ごしています。主イエスさまがわたしの身代わりになって、あなたの身代わりになって十字架で死んでくださったことを覚えながら(意識しながら)過ごしてきましょう。

今朝もう一度これまでの罪を深く悔い改め、贖われた復活の命に生きる者としてくださったことを感謝しましょう。

IMG_0992.jpg知子の体調は疲れ気味ですが、主の恵みの中で「光の子らしく」歩んでいます。
ユキもまた聖日礼拝を重んじて自ら席を共にします。そして、遊びに行く前にまず週末の宿題になっている作文の下書きをしてから野球に出かけました。先週からのことです。(^0^)

posted by 優子 at 16:07| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年03月03日

過去ログ「jcp関係」追記記事

これは3月1日に、「jcp関係」の過去ログ「JCP創立65周年記念感謝の集い B ー「書くこと、話すこと、伝えること」−」に追記したものである。
2018年3月1日追記:
2018年2月22日に長原兄弟より落手した写真集(全4ページ)より一部記録した。これは長原さんの手になるものである。

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IMG_7904.jpg写真記録のご奉仕は常に長原武夫さんだ。JCPに入会されて以来30年間ずっとである。かつて毎年開催されていた熱海での夏期学校、各地での研修会など、また満江巌理事長(牧師)とは聖地イスラエル旅行にも同行されている。
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それらのご愛労だけではなく、一切の費用も受けておられず、私たちはお言葉に甘えて拝受している。心からの感謝を込めて『メメントドミニ』に記録させていただきたい。
「ありがとう 長原さん!」 
posted by 優子 at 22:25| JCP関係 | 更新情報をチェックする

2018年02月28日

冬の散歩道で F ―エピローグ―

医師に歩くよう強く忠告されているので歩き始めている。しかし、平均3000歩程度ならば医師は毎日歩けと言うので、せめて週4〜5日は頑張らねばと思う。四季の花々や野鳥など自然界に驚異できるようになり、春の始まりと共に7月までは楽しい季節である。

昨夕、敬愛する信仰の友から2016年の「塩屋聖会」で語られた藤本満牧師(インマヌエル綜合伝道団代表・ウェスレー研究者)の説教(CD3枚)を送っていただいた。

今朝も聴き、今朝開いた聖書個所とブルンナーの言葉に深く共感し、黙想したくて散歩に出た。知人と会わない道を選び、それに同じ道は飽きるので今朝は散歩コースを変えて歩いた。その家々の梅は色とりどりの花を咲かせていた。

これは義母の植木鉢で咲き始めたリュウキンカ。
花の名前は今検索して知ったばかり。
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春を告げるリュウキンカ。
朝の散歩に出る時はまだ夢路だったのに
午後には夢路から覚めたよう。

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今朝の散歩コースでは色とりどりの花が目を楽しませてくれた。

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ユキによれば「ジョウビタキ♀」らしい。

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去年覚えたアセビの花。
漢字で「馬酔木」と書くように、馬が葉を食べると酔っているみたいに
ふらつくという。リュウキンカも毒があり下痢をするそうだ。

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ロウバイ

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ここは昨年5月半ばに鶯の声を録音したあたり。
2ヶ月もすれば裸の木が新緑に覆われる。

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リュウキンカ。

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こんな時期に花菖蒲?

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枯れ始めた草の先が朝の斜光線に輝いていた。

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フクジュソウ?

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ロウバイは今もかぐわしい香りを放っていた。

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これは桜の蕾。

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これは枝垂れ梅の蕾。

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今年は満開の時を見逃さないようにしなくては!
   
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道路沿いの沈丁花が咲き始めていた。

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何てかわいいんだろう。

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勢いよく伸び始めた草に目をやると
テントウムシがいた!

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今日で2月は終わり、明日から早3月。
次回からタイトルは「春の散歩道で」に変えよう。

「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」。(詩篇90節12節)
私たちは自分の齢をひと息に終わらせるような存在です。だからこそ、毎朝、祈りと御言葉の学びで主と交わって、一日一日に節目をつけるのです。そして、主の日(安息日)に礼拝を捧げ、1週間にも節目を付けます。人は節目で成長し、人生は節目があって堅固になっていくのです。
                         (キリストの栄光教会より)
posted by 優子 at 20:59| 随想 | 更新情報をチェックする

2018年02月27日

冬の散歩道で E −春の序章―

今朝の最低気温は1度、しかし一時の凍てつく寒さとは比べ物にはならないほど暖かい。それでも暖房の暖かさでは物足りず、朝食のあと洗濯物を干しただけで散歩に出た。途中からネックウォーマーが不要になるほど体が温まった。

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2.27-5next.jpg「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」。(詩篇90篇12節)
私たちは自分の齢をひと息に終わらせるような存在です。だからこそ、毎朝、祈りと御言葉の学びで主と交わって、一日一日に節目をつけるのです。そして、主の日(安息日)に礼拝を捧げ、1週間にも節目を付けます。人は節目で成長し、人生は節目があって堅固になっていくのです。

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誰にも振り向いてもらえない花の季節を終えたツワブキ。
このツワブキは自然に種が運ばれてきたのだろうか。

2.27-3.jpg2月の初めは種がいっぱいついていたが、すでに種も殆ど落ちて、ツワブキの2017年の仕事納めの姿を見る思いである。
写真を撮り終えた時、犬を連れた私と同じ年頃の女性と出会、しばらく話していた。


その方と別れてすぐ目に飛び込んできた梅の木。
「咲いてる!」
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枝垂れ梅の木にも一輪咲いていた。

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6羽のムクドリが食事中。なかなか撮らせてくれない。

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わが家のチューリップも日に日に伸びてきた。
チューリップの芽はすごく固い。

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午後は14度になり、室内は22度のポカポカになった。
どんな色の花が咲くのだろう、楽しみでならない。

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posted by 優子 at 17:23| 随想 | 更新情報をチェックする

2018年02月26日

冬の散歩道で D ―折れた柳にいのちの残り火―

IMG_0804.jpgIMG_0800.jpg柳の枝が低く垂れているので直に見られると近づくと、無残にも折れて幹に引っかかっていた。
しなやかな柳の枝が低く垂れさがり、その枝にもたくさん顔を出していた新芽は、今も命の残り火を保っていた。
「柳に雪折れなし」と故事にもあるのに、誰かが引っ張って折ってしまったのだろうか。自然に折れてしまったのであれば仕方がないけれど・・・悲しい。

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「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです」。(詩篇90篇4節)
120歳まで生きたモーセの言葉です。70年、80年の人生は矢のように飛び去っていきます。主は、1日、1週間という単位を設けてくださいました。それは私たちが時間を空気のように扱わないためです。今日の一日を昨日の延長のように惰性で過ごせば、1週間はのっぺらぼうな時間になってしまいますよ。

IMG_0735.jpg「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです」。(第一コリント1章21節)
人が宇宙の広大さを数字で知っていても、創造主を知らないなら、宇宙は底知れぬ虚無です。しかし、私たちは信仰によって、創造主を知っています。創造主を知るなら、虚無の宇宙は恵みの宇宙となります。宇宙は、神が全知全能で、永遠で、愛なる方であることを告げています。この方が私たちの真の父です。 
IMG_0765.jpg「それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」。(第一コリント1章21節)
知的理解が救いの条件なら不公平です。知的能力は人によって違うからです。しかし、十字架のことばの愚かさの前には、全ての人が平等です。信じることは、子供にも大人にもできるからです。宣教のことばが求めているのは、知的理解や弁論の巧みさではなく、ただへりくだりです。
IMG_0761.jpg松やに
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」。(第一コリント1章25節)
信仰者であっても、人生の重要な選択のときに、突然、神を忘れたかのように、自分の知恵と考えで決めてしまうことがあります。神の教えが愚かに思えてしまうのです。しかし、人には、神の愚かさを超える知恵もなく、神の弱さに勝る力もありません。人の賢さではなく、神の愚かさに信頼して生きるとき、神の恵みが体験できるのです。

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「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」。(第一コリント1章27節)
これが神の選びの原則です。神は、アブラハムから使徒ペテロやパウロまで、無に等しい者や謙遜な者を選んで、神の国の働き人に立てられました。能力があっても、謙遜でなければ用いようがありません。へりくだった愚か者の方が、主にはかわいいいのです。

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「誇る者は主を誇れ」。(第一コリント1章31節)
私たちは、聖なる全能の神だけを誇ります。私たちを愛し、私たちのためにいのちを捨てられたイエス・キリストを誇ります。慰め主、内住の聖霊を誇ります。私たちが何かを成し遂げたとしても、けっして自分自身を誇りません。「これは私ではない。主がなされたことだ」と、迷うことなく主を誇ります。主だけを誇りとする生き方が、私たちを卑屈や邪念から守ります。
posted by 優子 at 17:48| 随想 | 更新情報をチェックする

2018年02月25日

家の教会2018H −克己して励む―

IMG_0749.jpg2018年2月25日(日) 
       (2018第9回 家の教会)
14時30分〜15時
出席者 3名
奏楽:知子

@ 主の祈り
A 子どもの讃美歌  88番「雄々しくあれ」
B 聖書輪読
C お話       優子
D お祈り      1人ずつ
E 讃美歌332番  「主はいのちを与えませり」
コリント人への第一の手紙 3章1節〜9節:
3:1 兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。
3:2 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。
3:3 あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。
3:4 すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。
3:5 アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。
3:6 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。
3:7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。
3:8 植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。
3:9 わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。
お話:
今日取り上げた個所は受難節とは直接関係ないところですが、自らの成長を願って今一度立ち止まって考えたくて取り上げました。

パウロは2回目の伝道旅行でコリントを訪れ、1年半滞在して教会の基礎を築きました。そしてパウロが去ったあと、アポロがコリント教会の指導者になりました。

ところがその後、コリント教会の信者たちがパウロ派とアポロ派に分かれて争っているのです。そのような霊的に全く成長していない信徒たちに、パウロは「あなたがたは肉の人(生まれたままの人)に留まっているではありませんか」と、彼らの分派争いを嘆いています。

2章14節にはこうあります。
「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」。

パウロはコリントの地にイエス・キリストの十字架の福音の苗を植えました。でも植えただけでは苗は枯れてしまいます。水をやらないと成長しません。

そこでパウロが去ったあと、アポロが苗に水をやりました。パウロもアポロも共に尊い働きをしましたが、成長させてくださったのは神さまです。

IMG_0643.jpgイエスさまのお言葉にもありますね。
「夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」と。
パウロもアポロも神さまのご用を尽くした尊敬される人たちですが、彼らもまた主イエスさまによって罪を赦されて救われ、新しい命に生かされた人たちです。

そして私たちもまた神さまが私たちの頑なな心を打ち砕いてくださって、イエスさまの十字架の福音は自分のためだったと受け入れて信じさせてくださいました。

そこから真の人生が始まったわけですが、私たちはどうでしょうか。肉的な生き方になってはいないかと深く探られます。

何も分派の争いをしているわけではありません。自己主張しようとあくせくしているわけでもありませんが、霊的にスローダウンする時があります。

時には体の不調が原因するときもありますが、私の場合は熱心に導きを求めることもなく口先だけの祈りになっていることが多いようです。

神さま抜きの生活は霊的な命取りになってしまいます。真実の祈りと聖書に親しむ時間を取りながら歩んでいくとき、神さまは豊かに平安と希望を与えてくださいます。

人間は呼吸しなければ生きていけないように、クリスチャンにとって祈りは呼吸と同じです。祈りの時をもたないクリスチャンは仮死状態といえるでしょう。

祈る人は祈られていることを知っています。それと同じように祈らない人は祈ることができなくなってしまいます。祈りは神さまとの対話です。言葉にしたくないことも何でもお話しするのです。そして、耳を澄ませて神さまの思いを聴くのです。

そのためには独りの時間がどうしても必要です。神さまと二人だけの密な時間は楽しい時です。祈りは場所や時間は限定されませんから、多忙な人は通勤電車の中で、また私のように体調が良い時は散歩に出るのもよいでしょう。私にとって散歩は祈りの時です。

分派争いする信徒たちは御名(みな)による祈りが形骸化していたのだと思います。聖霊に助けられて切に導きを求めて祈るならば、必ずや主に在って一つになって神さまに委ねることができたでしょう。

私たちもまたイエスさまに救われて新しい命に生かされているのですから、常にそのことを覚えて霊的に成長していきたいです。それを期待されているお互いであることを覚えて受難節を過ごしたいと思います。

聖書を味わい、祈り、心の糧をいただくことがなければ、主の恵みを味わうことができないことを覚えて、克己して新しい週を過ごしていきたいと思います。

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2月20日の青い空とロウバイ。
posted by 優子 at 22:20| 家の教会 | 更新情報をチェックする

今朝は親子サッカー!

今朝はサッカー教室の初企画・親子サッカーだった。球技が大の苦手の知子もユキのためとあっては迷うことなく参加した。半数以上の保護者が参集した。
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グラウンドを一周して、次にドリブル対決をしているところ。

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私も1時間遅れで小学校へ行ったものの、山の上の学校の校庭では冷たい風が吹いていて、暖かい帽子をかぶっていても血圧が高くなっていくのがわかり、恐怖を感じて15分ほどで退散した。

IMG_0784.jpg私が着いた時、お母さん方の多くが1・2・3年生の低学年グループを相手にプレイ中だった。
私が撮ったのはこの写真とユキの休憩中の写真だけで、そのほかはサッカー教室のブログより拝借した。

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その間、高学年は休憩中。
ユキは寒いのに上着を脱いで同学年の子と遊んでいた。

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ユキはこれからもこの子たちと大きくなっていく。

マチとフーも2年前の真夏、ワシントンへ戻る前日(?)に
サッカーに参加してコーチとランニングしたね!
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炎天下の暑さが伝わって体が温かくなってきた。

IMG_0787.jpg帰り道で近隣宅の庭に梅の花が咲いているのを見つけた。
昨年まで梅の花に目をとめることはなかったが、桜とはまた違う個性を感じる。今年も梅の花が咲き、もうすぐ鶯が春の声を聞かせてくれることだろう。




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附記:昼食後、礼拝を守った。その後ユキは、毎週末に出される宿題の作文の下書きをして、夕方まで友達と野球をしていた。途中から雨が降り出した。
posted by 優子 at 20:37| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2018年02月24日

ブルンナー読書会Q ―正しい神礼拝―

IMG_0770.jpgブルンナー読書会の導き手である下村喜八さんは、昨春まで大学の教授職に就いておられた方ゆえに、本来は「先生」とお呼びすべき方であるが、イエス・キリストを介してのお出会いにより親しい交わりの恵みに与り、言葉では尽くせないほど感謝している。
今日は知子の願いにより夫は外してもらった。そのことを下村さんにはお伝えしないままお迎えした。
今日はエーミル・ブルンナー著『フラウミュンスター説教集T』の7回目、説教のタイトルは「正しい神礼拝」。
13時45分頃〜16時頃まで。
開会礼拝:讃美歌239番「さまよう人々」(知子奏楽)、聖書朗読とお祈り(下村さん)。最後は黙祷をもって終わる。

ローマ人への手紙12章1・2節:
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
講義メモ:
P69「この使徒パウロの言葉が語っているのは、神への奉仕(礼拝)についてです。しかしそれは、われわれが今ここで守っている礼拝のことではありません。(略) とすれば、彼が説いている神への奉仕と、われわれがここで行なっている礼拝との、この2種類の礼拝注1(神への奉仕)がどのような関係にあるのかという問題が生じてきます。」

この箇所が難しいのはドイツ語によるもので最初に注釈を読む。

P781)ドイツ語の”Gottesdienst”(ゴッテスディーンスト)は、普通、「神を敬い拝すること」、「(教会での)礼拝」あるいは「(カトリックの)ミサ」を意味しているが、原義的には「神に仕えること」、「神への奉仕」の意味を持っている。
ここでブルンナーは、この語の本来の意味に立ち返ることによって、形骸化した「礼拝(ゴッテスディーンスト)」の現状を批判し、われわれ全生涯が神に自己をささげ、神に仕えるものでなければならない、すなわち「神への奉仕(ゴッテスディーンスト)」こそが真の「礼拝(ゴッテスディーンスト)」であると説いています。

例えばドイツ語では、法、正義、権利が3つとも同じ単語であり、法と正義を一つのように考えている。言葉が人間を規定し、思考ルートになるため権利の主張も強い。

では、「奉仕する」、「仕える」とはどういう意味か・・

P70「共同性、共に集うことが重要なのだということ、イエス・キリストに属し、イエスによって一つの群れ、一体をなす群れとされている者たちが共に集まり共に居ることが重要なのだということ」。

「われわれは共に神をたたえ、共に神の言葉を聞くためにここに集まっているのでありそれは、この神の言葉によってわれわれがもはや単なる人間集団ではなく、一体をなす群れ、神の民、キリストの群れ(教会)であることを知るためです」。

P71「日曜日の礼拝は、各個人が神の言葉を聞き、教えられ、強くされることだけを目的とするものではありません。それは、単に個人のためにあるのではなく、相互に一体であるわれわれの存在に生命を吹き込むためにあるのです。(略)孤立、この傲慢で悲しむべき孤独を神は好まれません」。

「あなたがたが説教から何かを得ることができるか否かは、決定的に重要なことではありません。決定的に重要なことは、神があなたがたから何かを得られるか否かということです」。

ゴッテスディーンスト(礼拝)は神にのみささげることで神奉仕すること。即ち、神が私たちの魂を得られるかどうかであるということであり、神の存在のためになる礼拝である。

私たちは「互いに一体である」というのは、贖いをくぐり抜けた一体である。説教で贖罪が語られているならばよいが、「説教から何も得るところがなかった」かどうかは、贖罪が語られているかどうかによる。

「礼拝が正しい姿で行われる場合、どの礼拝においてもわれわれの身に起こらねばならないことは、われわれが自分の孤独な存在、自分のための存在から追い出されて、神のための存在へと、同時にまた、互いのための存在、他者と共なる存在へと移し変えられることです」。

つまりイエスの新しい戒め(愛)に繋がっているのであり、神の存在へとひっくり返される。

P72「人類の近代史全体は、自由を求める努力によって満たされています。・・・自由こそ近代の大いなる合言葉です。しかし結果はその反対、つまり不自由です。
そして、自由であろうとするゆえに、神さえも取り除いてしまい、これこそが無神論、神喪失のの最も深い根拠であるということ」。

全体主義についてまとめたレジメを拝受。
〇正義の理念(神の秩序、自然法)が解体される。⇒「力への意志」(ニーチェ)と、「経済的な動機の自律性」(「上部構造は下部構造によって決定される」)(マルクス)。

上部構造というのは、政治、法律、宗教、道徳、芸術。下部構造というのは、経済の仕組み、生産諸関係。

ニーチェは善悪も権威も否定し、マルクスは上部・下部構造ととらえて経済のしくみによって規定されると考えた。

⇒その両者から倫理的なニヒリズムが生じる(善悪の尺度がなくなる)⇒全体主義国家が生じる。

律法や自然法という「神の法」が廃棄されたときのことも紹介された。(ブルンナー『キリスト教と文明』167頁)(ロマ書2:14,15)

〇全体主義革命および国家の三つの特質(『日本におけるブルンナー』5−9頁)
@人間性の否定(個人の人格および自由の否定。人間の尊厳性の廃棄)
A無法律性(国家はすべてを支配する)
B大衆的・集合主義的現象(個人が人格の本質について目覚めておらず、単に全体の一員でしかない)

個の確立の大切さ。
このほか、全体主義の具体的な特徴や事例を学び、ルターの「キリスト者の自由」のプリントも拝受。

「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。
キリスト者はすべてのものに仕える僕(しもべ)であって、だれにでも服する。」

この二つの相矛盾することが矛盾せずに成り立つ。
キリスト者の自由とは、まず罪からの自由であり、死からも解放される。自由にされたら仕える。即ち、神の愛に生きることができる。

「神は我々が神の僕でなければ自由ではありえないようにわれわれを創造されたゆえに、真の自由は、神への自由な奉仕としてのみ可能なのです」。

「真の自由は、神への自由な奉仕としてのみ可能なのです。あなたは、自由であることを欲するなら神に仕えなさい。あなたの生が神への真の奉仕となる時にのみ、あなたは真に自由な人間となるのです」。

この逆説(パラドックス)、この一節が理解できれば、神に仕えることが自由であるということがわかる。

ロマ書6章16節〜23節:
6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
6:18 罪から解放され、義の僕となった。
6:19 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。
6:20 あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。
6:21 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。
6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

もう一か所、ロマ書8章1節〜11節か(?)、あまりの乱筆ゆえに自らの字が読み取れない。とても親しくしていただいているのにお聞きできないのは、クリスチャンペンクラブの大田先生にも対しても同様で私の性格的なこと。

「まず第一に、絶えず繰り返し神の憐みを思い出し、われわれを自分の軌道から神の軌道へと転回する転車台の上にわれわれ自身を乗せなければなりません。

第二に、今直面している全く具体的で実際的な問題に対して、神がきょう、今、ご意志をわれわれに示してくださるように静かに神に聴かなければなりません」。

ブルンナーは世界宣教まで考え、キリスト教を何百年ものスパンで考えていたので日本にもやってきてICU(国際基督教大学)で奉仕した。
戦後、ヨーロッパの人々の信仰が弱くなっていたので、ヨーロッパの人々が暗澹としているあいだ日本が目覚め、そして再びヨーロッパにもと思っていた。
「キリスト者はいつまでたっても初心者である」と言っているブルンナーの言葉で励ましてくださった。
IMG_0769.jpg今回も内容が濃密すぎて理解力の乏しさに泣きつつも、非常に恵まれた。私においてもこの矛盾が相反しないのは、私の内に住んでくださっている聖霊のおかげである。

願わくは、私の日常生活も「教会における礼拝のように厳粛なものとなり、神の讃美となり、われわれを創造された神への絶えざる感謝、絶えざる信仰告白となります」ように。魂がスローダウンした時にはすぐに神さまの軌道に乗るように心がけ、今より新しい出発です。

次回は、3月17日(土)。「守ること、誠を示すこと」

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今朝は0度で寒かったが日中は13度まで上がり3月中旬の暖かさになった。裏庭でノスミレとタンポポの花を見つけて春の訪れを教えてくれたユキ
しかし、読書会の間は同室で勉強することになっていたのに、漫画を読んだり工作して遊んでばかり。 それでも折り紙に取り組む根気だけは頭が下がる。
ユキの作品に下村さんが目を輝かせて感動される姿に、サムエル・ウルマンの詩を生きておられる方だと私は激しく心を揺すぶられた。
posted by 優子 at 22:50| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

2018年02月19日

全盲の伝道者 敬愛する宇野繁博さん

昨日の『クリスチャン・トゥディ』「牧師の小窓コラム」に敬愛する宇野繁博さんのことが紹介されていました。

先日、信仰の友から1枚のCDが送られてきました。それは1人の盲人の方の講演が記録されたものでした。名前は宇野繁博さんと言われます。この方について初めて知りました。そして、このようなクリスチャンが日本にいらっしゃったのだとCDを聞いて感動致しました。

宇野さんは25歳の時に厚生労働省が認定している難病の網膜色素変性症で失明されました。小学校の教師だった宇野さんは、現在滋賀県立盲学校の教師として尽くされておられます。

失明されたときの宇野さんの絶望感は深刻なものでした。生きていく力を失くしてしまって、自暴自棄になってしまったのでした。そんな時に一緒に涙を流してくれたのが、彼のお母さんでした。

お母さんは彼に言いました。「おまえが本当に生きていけなくて、どうしても死ぬと言うのなら、お母さんもその時は一緒に死ぬからね」と言って泣いてくれたといいます。その母の涙で死ぬことをやめたとおっしゃっています。

しかしその後、盲学校に入られた宇野さんは、盲学校での勉強が大嫌いで、一時はいつもビールを飲んで寮へ帰っていました。「酒ばっかり飲んでたらアカンやろ!」と多くの教師に諭されたが、ある先生だけは「宇野さん、酒も飲みたくなるよな」と言われ、そのひと言で酒が止まったといいます。

宇野さんはその後、キリストに出会って人生が根底から変えられたのです。そして、現在は全身全霊で神の栄光を現しておられます。宇野さんの言葉です。

「私は目が見えない。精神科の閉鎖病棟に入っていたこともある。・・・そんなものはない方がいいんです。・・・でも、これがあったからといって人生が終わりではない。先の道はいくらでもある。・・・その苦しみの経験を神様が生かすと言っているんだから、もう楽しみでうれしくて夜も寝られないぐらいです」と。

宇野さんは現在、教える傍ら、講演活動をされています。そして、ある時は自分のCDを全国の1万300校の中学校校長宛てに発送されたりしています。若い人たちに生きる希望を見つけてほしいのです。皆さんにもぜひ宇野さんのCDを聞いてほしいと思います。

『メメントドミニ』にも宇野さんの記事をいくつも書いていますが、その中から「心の友・宇野繁博さんのお証し」と、2011年6月24日の「悲しみの中で喜ぶ秘訣はたった一つだけ。主に在って喜ぶことです」と教えてくださったことをお分かちした記事だけでもお読みくだされば嬉しいです。

今年の元旦に宇野繁博さんから頂いた「新年の御挨拶」メールの返信に次のような心の内を書きました。
「夫の甥や姪の結婚式の写真つきの年賀状を見て気持ちが沈み、彼らが幸せであるようにと思うのですが、喜ぶものと共に喜ぶのは難しかったです」。
するとこのようなお返事を下さり、私は「主に在って喜ぶ」ということを強く実感させられたのでした。

「21年前、私が25歳の時、失明し、婚約者と別れ、絶望の中にいた頃、友人が徐々に結婚していきました。友人達の結婚式に何度も出席し、友人代表としてスピーチをしたことも2度ほど記憶しています。藤本さんのお気持ちは痛いほどよく分かります。
ローマ人の手紙12章15節に喜ぶ者と共に喜び泣く者と共に泣きなさいとありますが、難しいことです。特に自分が喜べない状況にある時はなおさらです。
ピリピ人への手紙を書いたパウロはあの喜びの手紙を獄中で書きました。いつ処刑宣告がなされてもおかしくない状況の中で、彼は喜びを持ってあの手紙を書いています。
悲しみの中で喜ぶ秘訣はたった一つです。主にあって喜ぶことです。
私達人間は弱いです。無力です。しかし、天地を造られた神は、神を愛するものに対してすべてのことを働かせて益としてくださいます。
21年前に失明して、毎晩布団の中で泣いていた頃、桃山学院で生徒の皆さんの前で元気にメッセージするようなことは全く考えられませんでした。

しかし、神様は私の失明も用いてくださり、桃山学院の生徒に生きる勇気と希望を与えるために私の失明を用いてくださいました。私の失明も知子さんの離婚も決して望んだことではありません。
しかし、神はその悲しみの涙を必ず喜びの涙へと変えてくださいます。神に期待しましょう。神のみ業に期待しましょう。これがクリスチャンライフの醍醐味なのですから」。
クリスチャン同志でも、このように自分の気持ちを表現し、傷を分かち合える人は少ないように思います。ですから本当の交わりができる友をまた一人与えられて感謝しています。
私たちも無防備になってパウロのように自分の弱さを語り合える者となりたいものです。宇野さんは人の心を導く良き牧師になられることでしょう。
posted by 優子 at 11:25| 神(聖書) | 更新情報をチェックする

2018年02月18日

家の教会2018G ―灰の水曜日―

IMG_0620.jpg2018年2月18日(日)  
     (2018第8回 家の教会)
9時45分〜10時15分
出席者 3名(with 知子&ユキ)

@ 主の祈り
A 讃美歌   312番「いつくしみふかき」(ユキの選曲)
B 聖書輪読  創世記2章4節〜7節、3章19節
C お話    優子
D お祈り   1人ずつ
E 頌栄    讃美歌21・29番「天のみ民も」 知子の演奏です!
    歌詞:「天のみ民も、地にあるものも、父・子・聖霊なる神をたたえよ、              とこしえまでも。アーメン」。
  創世記2章4節〜7節、3章19節: 
2:4 これが天地創造の由来である。
主なる神が地と天とを造られた時、
2:5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。
2:6 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。
2:7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

3:19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、
あなたは土から取られたのだから。
あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
お話:
IMG_0689.jpg今日も−1.4度と冷たい朝でしたが、陽ざしに春の気配を感じます。そして2月半ば頃になると主の復活を思い起こします。
イースターの日は毎年何月何日と決まっているわけではなく毎年変わります。「春分の日の後の最初の満月から数えて最初の日曜日」と決められているからです。

そして、イースター前の6回の聖日を除いた40日間を受難節(レント)と言い、カトリックでは「受難節」を「四旬節」と言います。「四旬」は「40日」の意味だからです。
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この期間はイエスさまの十字架の苦難を思いながら、自らの罪や歩み方を振り返りながら悔い改める特別な時です。

イースターの46日前からレントが始まるのでレントの第一日目は常に水曜日と決まっており、その日を「灰の水曜日」と呼びます。

今年のレントは先週の14日から始まりました。2月14日と言えばバレンタインデーですが、四旬節の始まりである「灰の水曜日」と重なりました。

世の中はバレンタインデーで浮き上がり、心を静めて質素に過ごす「灰の水曜日」の対極にあるので、「1945年以来初めて2つの暦が重なった」とボストンのロイター通信が報じていました。

さて、「灰の水曜日:Ash Wednesday」の「灰」について考えてみたいと思います。「灰」と聞いてまず思い起こすのは、今朝輪読した箇所にありますように、塵から造られた私たちはいつか必ず塵に帰る身であることを思います。

また、ヨブが「それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。」(ヨブ記42章6節)と言っているように、旧約時代から苦悩や悲しみの悔い改めの祈りをする時は灰を被る習慣があり、「灰」は悔い改めの象徴であることを思い起こさせます。

カトリック教会では、「あなたはもともと土から生まれたので、まもなく土に返る。だから罪を悔い改めて、イエスの教えに立ち返りなさい。」と祈り、司祭が一人ひとりの額に灰を少量の水で溶いたもので十字を記すということです。

その灰は、前年の受難週(復活祭の1週間前)の「棕櫚(しゅろ)の主日」に使った棕櫚の枝を燃やした灰です。信徒は灰で記された額の十字をすぐには拭き取らないでそのまま教会を後にするそうです。

私たちプロテスタント教会では「灰の水曜日」の儀式はしませんが、私たちも心を静めて深い悔い改めと祈りの時を過ごしてイースターに備えたいものです。

それは即ち、イエス・キリストによる罪の赦しと主イエスが与えてくださる永遠の命がいかに尊く、そのことにより儚(はかな)い人生を意味あるものとされたかを自覚し、その喜びと感謝をささげるためです。

ところで「40」という数字は聖書によくでてくる意味深い数字です。「40」と聞いて思い浮かぶのは、イエスさまが公生涯に入る前に受けた荒れ野の誘惑が40日間だったことや、モーセが出エジプトしてカナンの地に入るまでの荒れ野の40年間、また、ノアの洪水では40日間雨が降り続いたこと、そして、ヨナが40日経てばニネベは滅びると警告したことなどですが、それらは全て準備期間だったことも意味深いですね。

2000年前の今、イエスさまは十字架の苦しみに向かって歩み始められたことを覚えて、私たちも受難節を歩み始めたいと思います。

IMG_0694.jpg自らを振り返り悔い改めさせてくださるように。そして、人生が何たるものであるかを深く思い巡らせながら受難節を過ごしたいと思います。
そして誰もみな、生涯の終わりには「よく生きた」と思えるように、今より心新たに力強く踏み出したいと思います。
附記:心身の疲れで、昨日のクリスチャンペンクラブ関西ブロックの例会(大津教会)を欠席した。
今朝も9時まで寝ていたが、午後は知子と散歩に出た。2人で歩くのは何年ぶりだろうか。おしゃべりしながら9500歩も歩いた。これも何年ぶりだろう。
そのあと4時頃から夫と食料の買い物に。ユキはサッカーを終えて5時半に帰宅した。
posted by 優子 at 19:08| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年02月14日

「二分の一成人式」続編 「ママ、ありがとう」

サムサムさんより:
「つかの間の雪景色」楽しく読ませていただきました。
特にユキ君が幼かった頃に撮った写真や、チャッピーがいた頃の写真などをも並べ、思い出を語っているところなど、ほんとうにいいですね。まるで詩の朗読を聴いているような思いになってきました。

IMG_0600.jpgその翌朝(昨朝のこと)、雪だるまは下半分だけになっていた。この日も0度と寒く、パウダーのような雪が道路にも残っていた。

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大きくなったね、ユキ。
ユキが入学した頃に見ていた6年生みたい。

IMG_0604.jpg「こっち向いて!
行ってらっしゃーい!」

私は知子のために、そして、ユキのために、長い時間が流れた時に、ユキが幼かった頃の、そして、知子が若かった頃の日々を残しておいてやりたくて撮っている。私自身の心に焼き付けながら。

いつごろからだったか、知子は特別な日以外はユキとの時間を優先して、朝はユキと一緒に家を出るようになった。帰宅時間が早くなったとはいえ常に20時半〜21時頃になるからだ。

ユキが今日の5時間目に書いた「お母さんへのお返事」を私も読ませてもらった。深く心を打った。

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私のことも書いてくれていた!!!  
「スペースが余ったから書いてくれたのでは?」と茶化すと、「やっぱり消そうかな」と笑わせた。「嬉しいけれど『おばあちゃん』になっている、付け足したみたい。でも、おじいちゃんは入っていないね」と大笑い。マジでまだ余白があるのにね。  

ユキの手紙にも書いてあったように、12日に母親の雷が落ちた。昨年末あたりからユキはゲームの奴隷になってしまったようにたびたび開けているので、ついに、またしてもゲームを取り上げられた。

昨年のお正月にゲーム機を買ってもらった時の約束だった、たった1冊のドリルさえ全くしていなかったからだ。僅かな宿題だけで復習を全くしない。さすがにそれでは5年生になるとついていけなくなる。

私もユキの日常は承知の上だったが、どんなに言っても遊びに行ってしまう。最近はおじいさんの影響でテレビまで見始めた。私も毎日口を酸っぱくして言っていたので放任していたわけではないが、血圧を上げないためにも手を放すしかなかった。

とにかくドリルを3学期が終わるまでにやり上げることになり、ゲーム機はいつ戻すかは未定。昨日から会社の金庫(金庫室?)の中。経理のおじさんも思っているよ、「またか」って。😞

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それでも翌朝もこんなに麗しい光景!

「ユキ、手をつながしたげてよ!」 
ユキはママと手を繋いでいるところを友だちに見られたくないと、まことに健全な成長過程の反応だが、「誰かいたらパッと手を放すゲームのつもりでやれば面白いかも」の声かけがユキの心を動かした。  すぐそこが集団登校の集合場所だ。

IMG_0597.jpg今朝は水道工事をしなかった。昨夕から私は初めて心が壊れる感覚を経験し、知子に善処してもらって、家族の在宅時に来ていただくことになった。
そして今朝思い立って生活習慣病の薬をもらいに医院へ出かけた。

今日のみことばのメッセージに、「主に信頼する私だけが私である。それ以外の私はいない」いう言葉があった。「突き抜け」てからの知子を想った。そして、ゲシュタルト心理学(" Gestalt "とはドイツ語で「形」)が考えるところの「健康で成熟した人格」像を思った。

” A rose is a rose is a rose.”
バラはバラであるところのバラである。

「主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように」。(詩篇81篇11節)
「主に信頼する私だけが私である。それ以外の私はいない」と言い切れます。

posted by 優子 at 23:44| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2018年02月12日

つかの間の雪景色


「外は真っ白や!」
私は夫の声で目が覚めた。
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今朝は8時頃までゆっくり寝たかったのにと思いつつカーテンを開けると雪! 雪は2センチほど積もっていた。

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嬉しくてすぐにカメラを取りに下りた。ユキも大喜び!

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二上山は薄っすらと白くなった程度だが、
昼過ぎの外出先から見えた金剛山は雪で真っ白だった。

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雲間から射す陽ざしに輝やく木々。

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ユキもさっそく雪遊び。

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雪のボール投げ!

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そして、僅かな雪でかわいい雪だるまを作った。
雪だるまを見て「チャッピーと雪だるま」を思い出した。

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これは2004年1月25日、チャッピーは4歳8ヶ月。
雪だるまは知子が作った。

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チャッピーはいのちの勢いが強かったのか、
毎年大寒頃の真冬から夏毛に生え変わり始めた。
この時もすでに暖かい冬毛がかなり抜け落ちている。

そしてこれは2011年2月11日。
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ユキは3歳7か月。
ユキもチャッピーもかわいかったね。
あの頃のユキとチャッピーに会いたいな。

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そして10歳7か月のユキが小さな雪だるまを作った。
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雪はまもなく完全に姿を消し、
ユキの雪遊びも夢のようだった。

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今朝は水道のパッキン交換のために水道屋さんが9時頃に来宅させるはずだったが、8時半頃電話が入った。すでに担当者は生駒方面からこちらに向かってくださっていたが、道路が凍結して渋滞のために10時までには行くことができないとのことで明日の朝に変更した。

水漏れがしているわけではないので急がないが、建築後19年にもなるといろいろとメンテナンスが必要なのだ。

IMG_0498.jpgそれにしても今冬は。これは8日に写したものだが、7日の朝から凍ったままだった。洗濯物を10時過ぎてから干してもすぐに凍ってしまった。

IMG_0493.jpg7日朝、水道管も僅かに凍結していた。たまたま蛇口をひねったところ水が出てこず「これは大変」と、少しだけ蛇口を緩めていたらしばらくして氷が飛び出してきた。

そういえば、チャッピーがいる時は朝に水を入れ替えてやる時に、ひと冬に何度かはホースに残っていた水が凍ってゴロゴロと音を立てて氷が出てきたものだ。

チャッピーが死んで2年3ヶ月経つともうこんなに忘れてしまうのか。いや、まだ2年少しだから思い出せたのだろうか。16年間の習慣だったのに・・・

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チャッピー最後の2015年元旦は冷たい雪が降っていた。ユキは徘徊するチャッピーの背に積もった雪を払ってあげたね。

ユキはこの冬もあの時と同じ上着を着ているのが嬉しい。もうこれ以上時間が過ぎないでほしいと思うのは、年を取った者の哀愁か・・・

今日の気温は(5度/−2度)だった。明朝の予報も−2度、水道屋さんは大丈夫かな?
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2018年02月11日

家の教会2018F −神に赦されて生きる―

IMG_0534.jpg2018年2月11日(日)  
       (2018第7回 家の教会
10時30分〜11時5分
出席者 3名        

@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 子どもの讃美歌 「おおしくあれ」
C 聖書      主の祈り    
D お話      優子
E お祈り     1人ずつ
F 讃美歌     332番「主はいのちを与えませり」
知子は講演会出席のため全日外出。
お話:
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名(
みな)をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧(かて)を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
 我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

IMG_0522.jpg今朝も「主の祈り」を祈りましたが、私は時に「主の祈り」を祈る時、「われらに罪をおかすものを われらがゆるすごとく われらの罪をもゆるしたまえ」という箇所で立ち止まってしまう時があります。それは葛藤に苦しむときです。

人間というのは時として、「あの時、あの人にこんなひどいことをされた」、「それでも私はこのようにしてあげた」と思うことがあるのですね。一瞬であっても心の傷が疼いて鬱陶しい気持ちになります。

そのような時は、「われらに罪をおかす者を、われらがゆるすごとく」とは祈れなくて、心の中でそのように自己主張する自分が嫌で、「神さま、ごめんなさい」と申し上げるのです。

そしてまた常に思うのは、「われらに罪をおかす者を、われらがゆるすごとく」ではなく、まず最初に「われらの罪をおゆるしください」、「私の罪をおゆるしください」と祈りたいのです。まずお詫びせずにはいられないと思うのです。

そのあとでさえ、「われらに罪をおかすものを われらがゆるすごとく」と本当に祈ることができるのだろうかと思うことさえあるのです。

牧師の牧師と言われた植村正久は晩年の説教で、「私はこの歳になっても、まだ赦すことの出来ない人がいる」と告白し、説教を続けることができなくなったという有名な話があるそうです。
何があったのでしょうか。
植村正久ともあろう人物ゆえによほどのことがあったのでしょう。そうであっても、それではイエスさまのあとを往く者にふさわしくないと、内なる声に示されて絶句したのです。

また渡辺和子さんのお父さんは2.26事件で殺されました。渡辺さんは父を殺した人をゆるせるだろうか。人間は神さまのようにゆるせるだろうかと、生涯かけて神さまと対話してこられました。多くの著書で正直に心情を書いておられます。

「私には、一人の人間が他の人間を心から許せるだろうかというこだわりがあります。それは、大好きな父親を私の目の前で殺した相手に対して抱いている自分の正直な気持ちなのです。

『まだ恨んでいますか』と尋ねられれば、『いいえ、その方たちには、その方たちの大義名分がおありだったのでしょうから』と答えるのが常だった私には、その”敵の1人”と10年ほど前思いがけず一つのテーブルについた時、コーヒーが喉を通らなかった覚えがあるからなのです。

今でも、父の死を陰で操ったと思われる人たちの家族に対してのわだかまりはとけていません。

心から許すなどということが、人間に果たしてできるのでしょうか。イエスさまにはそれがおできになりました。―神さまですもの。でも、私には、どうしても心の片隅にこだわりが残ってしまい、そしてそのことで苦しむのです」。

※ 私は渡辺和子さんが、「ゆるす」を「許す」という漢字で表現されているのは意味があると理解しています。罪を赦すことができるのは神さまだけであり、人間ができるのは「許す」ことであると。

しかし、晩年には父親を殺した人の墓前で祈り、その弟さんと食事をされました。生涯をかけて主イエスの前で真摯に自らと向き合ってこられた方ゆえの姿であると、私は深い感銘を受けました。求め続ける者には、神さまがそのようにさせてくださるのです。

マタイは、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」(6章12節)と記し、ルカは、「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちのをもおゆるしください。」(11章4節)と記しています。

「負債」とは「借金」ですが、広義で「負い目」を意味し、人との関係で生じる罪を示す言葉です。
イエスさまは「まずあなたから赦しなさい」と言われるのです。そして、「7の70倍ゆるせ」と言われました。私たちは1万タラントの負債を赦された人の譬えを忘れてはいけないのです。

あるいはまた、この箇所から「ゆるさないとゆるされないのか」と思われるかも知れません。確かに文面では、まず自分が人をゆるさないと神さまの赦しを得られないように受け取れます。しかしながら、もしもそうであるならばイエスさまの十字架の贖罪、福音とは正反対のものになってしまいます。

私はかつて受けた非道な出来事を思い出して悶々とすることがありますが、そのような時も裁きの神ではなく、イエスさまの慈愛に富んだまなざしを感じることができることも感謝です。

IMG_0551.jpgそして今まで以上に、主イエスを信じるということはイエスさまの十字架の一事に尽きるということがわかります。
イエスさまは私が受けるべき罪の身代わりになって死んでくださったということ、本当にこのことがわかっているかどうかなのです。

私たちも「ゆるします」という正直な祈りを捧げても、相手が全く改善することなく長い年月繰り返され続けると挫折します。また、過去の出来事が思い出されて落ち込み、ゆるすと決意しても実践することの至難さこそが人間の現実です。

だからこそ、そういう自らの弱さを認めて自分自身と向き合い、主イエスに助けを求め続けることが生きると言うことではないでしょうか。

まず神さまが私たちを何度も何度も赦してくださっていることを思い出して一歩踏み出すのです。その数えきれない葛藤と赦しの中で人は変えられていくのだと信じられるのです。

渡辺和子さんほどの過酷な悲しみと憎しみではなくても、私たちは人をゆるせなくて悩み、しかし、主イエスと共に生かされて行く時に、この私もまた「このようにして神さまがさせてくださるんだなぁ」と思わされることがあるのです。

イエスさまは言われました、7の70倍ゆるせ、ゆるし続けよと。 
そうです、私たちも神さまに無限に赦され続けているのです。そのことを思い出さねばならないのです。思い出すと醜い葛藤から短時間で解放されることでしょう。そのことをもう一度自ら心に刻みます。

イエスさまが私のために身代わりになって死んでくださり、そのことによって私は赦されたのです。かくて、「われらに罪をおかすものを われらがゆるすごとく われらの罪をもゆるしたまえ」感謝と希望をもって祈ればよいのだと思いました。主イエスはその祈りを喜んで聴いてくださることでしょう。

私たちは祈るたびに神さまからどんなに赦されているか、どんなに愛されているのかを思い出し、祈るたびに神さまが与えてくださる真の平安の中で、このような闘わねばならない闘いから逃げないで信仰によって勝利させていただきましょう。

IMG_0564.jpg「生きることは 愛すること、愛することは 理解すること、理解することは 赦すこと、赦すことは 赦されること、赦されることは救われること」。

私の生活信条もこの通りであると告白します。

附記:

IMG_0569.jpg午後はサッカー教室へ。サッカーに行く前も寒風の中、2重跳びの練習に余念がない。

今日の会場は山の上にある校区の中学校のため、おじいさんと自転車で行くことになっていたが、休み気味のクラスメイトに出席するからと誘われて子どもたちで行った。

今日から新しいサッカーウェアを着用した。

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ユキはネックウォーマーをかぶっている。
サッカー教室では、4・5・6年生は上級生。
向こうに1・2・3年生が集まっている。

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(サッカーボールはどっちかな)
写真では活躍していないが、
今日は(or 今日も?)1回シュートを入れたそうだ。

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「3連休の中日。○中で真冬のサッカー!
昨日雨一転今日は青空満開の気持ちいい日でした! 」
でも、最高気温7度で強風が吹く寒い寒い1日でした。
posted by 優子 at 16:40| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2018年02月10日

4年生最後の参観日 ―2018年2月は人生の新しいページがめくられた時―

この1年は特にあっという間で、昨日は早くもユキの4年生最後の参観日だった。授業は総合学習で、10歳ということでクラスで「二分の一成人式」が行われた。

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IMG_0553.jpg児童は1人ずつ前へ出て、絵の裏に貼ってある親への感謝の気持ちを読んだ。私たちにも披露してくれた。

絵は、ボールをシュートしているのがユキだって!


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幼稚園卒園前にお母さんを亡くしたMちゃんはどんな気持ちだったのだろうか、最初に聞いた時に思ったことだった。

保護者に前もって我が子へのメッセージが依頼され、それを当日各児童に手渡されたという。私はそれがいつ頃用意されたのかも知らなかったし、常に多忙な知子ゆえに話題にでることもなく昨日初めて知った。

保護者への課題は1月半ばに出されたそうだが、「そのようなことを考えたり書けるような情況ではなく、何度も会社へ持って行き、昼休みに書こうともしたが書けなかった」。

確かに私たちは年末年始もなく1月15日には私も会社へ出向いている。株主総会はユキの体調(1月29日は風邪気味で欠席)を重んじて私は出席するのを断念した。

昨日知子より一足先に帰宅したユキに、「これなあに?」と目に留まった茶封筒に触れようとすると「見たらダメ!」と言われて見なかったのだが、ユキの気持ちを尊重して引き下がったのがいけなかったようだ。

というのは今日家族で団欒している時に、ユキが「おばあちゃん、関心ないみたいだったから」と言われ、そんな気持ちは微塵もなかったので驚いた。そして今、この記事を書くにあたり初めて読ませてもらった。

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前日には折り紙で作った花を胸に飾ろうと先生が提案されて、折り紙が得意なユキがみんなに折り方を紹介したという。「みんなに分かるように説明するのはむずかしい」と感想を話してくれ、とても良い体験をさせていただいたと私は微笑みながら聞いていた。

IMG_0494.jpgその花とはこれだ。花を両面テープでくっつけて、くす玉の形に仕上げる。ユキはこれまでにいくつも作っている。これもまた自分で検索してユウチューブを見ながら習得したものだ。

これは2月7日に作って8日に持って行ったものだが、参観日の本番では5弁のうちの1つを胸に挿した(?)そうだ。

色上質.jpgこれは折り紙で折ったものではなく、日本製紙の色上質のメモ用紙で作っているので、折り紙より硬い。
この年末年始に次女夫婦が帰国中、ユキはフー(次女の伴侶)に伝授し、フーも花のくす玉をワシントンへ持って帰った。

ユキの近況と言えば、2月に入った頃から二重跳びに夢中だ。学校から帰宅すればすぐに縄跳びの見学依頼の声がかかる。今週初め、ようやく複数回跳べるようになり、新記録更新に夢中になっている。

昨日は大多数のお母さんのように夕方にママが居て嬉しかったことだろう。知子が懇談会を終えて帰宅するまで、ユキは1時間以上も服も着替えずに待っていた。

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IMG_0542.jpg知子は「1度できればすぐに100回跳べるようになったよ」と励ますが、ユキは跳んでいるあいだ呼吸するのを忘れているので10数回で終わってしまう。
それにまだまだ高く跳び上がりすぎで、これでは体力を消耗してしまう。
ユキの嬉しそうな顔!
ユキはやっぱりママが居ないのを我慢しているんやね。

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霧雨だったので短い散歩に出た今朝も
ユキは途中で2重跳びに挑戦していた。

久方ぶりの4人揃っての散歩だったが、まもなくマイペースな夫と別れて知子と2人で歩いた。

夕方、私たち夫婦は知子から重要な報告を聴いた。ようやく長かった百戦錬磨の闘いに終止符が打たれたと思った夫が変えられていっていることを感じるが、これからも神さまに委ねる。

相手がどうであれ知子は「突き抜け」た。これも一つの解決であり、体得したバウンダリーズを実践して、より一層の高嶺に登って行くことであろう。今、人生の新たなる出発した知子、私たち家族にとっても2018年2月は記憶すべき節目となるであろう。良輔にとってもそうであれかしと祈る。

フランス語の ”noblesse oblige ”(ノブレス・オブリージュ):「地位や身分には高潔さと義務が伴う」という言葉と、「小事に忠実な人は、大事にも忠実である」(ルカ16章10節)を実践している知子。

神さまは忠実に責務を果たす知子をこれからも豊かに祝福してくださると信じる。
よくやった、知子!!!

附記:
参観日に知子はRちゃんママと会い、短い時間だったが言葉を交わした。2017年4月15日、2歳の坊やを1年半ちかく脳死状態の末に亡くされたRちゃんママ。その後赤ちゃんを授かったのだが、もう2度と学校へ行くことはできないと深い悲嘆の中におられた。

それでも昨秋のオープンスクールの時は学校まで来られたが、校門をくぐることなく戻られたという。そしてこの日、4年生最後の参観日に赤ちゃんを抱いて出席された。神さまが立ち上がらせて伴ってくださったのだ。

posted by 優子 at 23:21| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2018年02月05日

冬の散歩道で C ―イソヒヨドリがいたよ!―

今日は寒さに加えて強風で猛烈に寒い。それでも雲が切れて陽ざしに誘われて20分ほど歩いた。防寒着の上にもう一枚ウインドブレーカーを着たので寒くはなかったが、毛糸の帽子も飛ばされるほど強い風。帽子の上に防寒着のフードをかぶっても、血圧が上がって行くような冷たい風だった。

しかし、出た甲斐があった。私は初めてイソヒヨドリを3〜4メートルの間近で、しかも数分間も見ることができた。

今日のヒヨドリ.jpgこれはヒヨドリ。
この下に鳩がいた。(最後の写真)

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              そして、これがイソヒヨドリ。
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IMG_0449.jpg背中も青い。
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     IMG_0462.jpg  IMG_0464.jpg

真智たちが帰ってから1.5キロも太ってしまった56キロの体重でも風で飛ばされそうな撮影だった。もっと性能の良いカメラならば最高の写真が撮れただろう。

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今朝のヒヨドリを撮った同じ時に、その下で
風をまともにうけながら長い間寒さに耐えていた。

附記:
午後、キャラメルを食べていたら歯の詰め物が取れて、ユキの帰宅後すぐに歯医者さんへ。もう30年ほど前のものだったが、1回で治療完了! 信頼できる歯医者さんがおられるので感謝! 
2ヶ月ほど前の昨年12月には、硬いおかきを食べている時に歯が欠けて、しかもそれを呑み込んでしまってお世話になったところだった。 
posted by 優子 at 18:14| 随想 | 更新情報をチェックする

2018年02月04日

家の教会2018E −パウロのギリシャ伝道―

IMG_0421.jpg2018年2月4日(日)  
       (2018第6回 家の教会        
                        10時20分〜55分
出席者 4名
奏楽:知子
@ 初めのお祈り  優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌 「神さまがわかるでしょ」

C 聖書輪読    使徒行伝 17章22節〜34節

D お話      優子

E お祈り     優子、良輔、幸悠。

E 讃美歌     312番「いつくしみ深き」

使徒行伝 17章22節〜34節:

17:22 そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。
「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。
17:23 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。
17:24 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。
17:25 また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、
17:26 また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。
17:27 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
17:28 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、
『われわれも、確かにその子孫である』。
17:29 このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。
17:30 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。
17:31 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。
17:32 死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。
17:33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
17:34 しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かあった。その中には、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女、また、その他の人々もいた。

お話:
ギリシャはソクラテス、プラトン、アリストテレスを初め、ヘラクレイトスにピタゴラスやタレス・・・とか、数多くの哲学者を生み出した国です。その中心地であるアテネで、パウロはギリシャのあらゆる哲学思想とその文化を前にして説教を始めました。

「アテネの人たちよ」というのは、まさにソクラテスやプラトンがアテネの人々に呼びかけた言い方と同じです。16節に、「パウロはアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。」とありますが、彼らを批判するのではなく偶像崇拝するギリシャ人の心の内を理解して、まことの神への信仰へ導くべく話しました。

まず(24・25節)ギリシャ人の神観の間違いを正そうとしました。ここを読んでいると日本人も同じだなあと思います。というより、人間の考えることは国や時代を越えて同じだと気づかされます。

人が「カミ」に水や食べ物を与えて養わねばならないこと。そして、共通しているのは汎神的(簡単に言えば、神と自然を同じとする一元論的、かつ、非人格的)であるということです。
人間は唯一の神を求めるのではなく、人間に都合の良い「カミ」を作ったのです。これまた万国共通です。

28節の「われわれも確かにその子孫である」という言葉は、B.C.3世紀のアラツスの詩の引用だということです。ギリシャ人に旧約聖書の引用は無意味と思ったからでしょう。これもまたギリシャ人にはギリシャ人の立場に立っての話し方でした。

そして次に(30・31節)救済観を述べるのです。神さまはキリストをとおして人類の審判と救済が告げられましたが、復活の話になると彼らは信じがたく嘲笑したのです。

偶像崇拝が万国共通であれば、福音もまた多くの人の嘲笑でしかなく、心に届く人は僅かであることも時代や国を越えて今も同じ、「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。」というみことばのとおりですね。

この時代のギリシャではかつてのように熱心な真理への探究心は堕落し、聴衆は救いを求めてではなく、好奇心から新しい考えに耳を貸したにすぎなかったのです。

しかし、そんな中にも幾人かの人が救われました。その人たちは自己洞察できる人ゆえに、自らを「弱い者」であると自覚している人、自らの罪を知る人たちだったのでしょう。

本当にごく僅かな人の心にしか届かず、パウロのアテネ伝道は失敗に終わったのですが、パウロの伝道は無駄ではありませんでした。その後ギリシャはキリスト教を国教とする国になりました!

私たちもその時はガッカリした結果であろうとも、すべてを握っておられるのは神さまなのですから、尊い働きを決して無駄にはなさらない神さまを思い出して元気を出しましょう!

キリスト教を大きな枠組みで見ると、カトリック、プロテスタント、正教会の3つに分派しましたが、ギリシャ正教は即ち正教会のことでありロシア正教も同じです。

ギリシャではパウロは自らがユダヤ人であることを忘れて、ギリシャ人の立場に立って言葉や知恵を用いてアテネ伝道しました。パウロはギリシャでの失敗といえる経験から、次のコリント伝道は主イエス・キリストの十字架のみを語ることにしたのです。

福音は哲学ではなく、あまたある宗教とも全く異なります。福音は人間が考え出したものではなく、神さまから出たものだからです。その意味からも「知」の最たるものでもあるのです。

ついでながら、「哲学」は英語で " Philosophy "といい、ギリシア語で "Philosophia "(フィロソフィア)。「ソフィア」とは「知」で、「フィロ」は「愛する」、即ち、「哲学」とは「知を愛する」という意味です。 

今日の箇所から私は伝道について考えさせられました。
福音を道徳として語るならば多くの人が共感します。しかし、イエスさまの十字架と復活こそが救いの中心であり福音のいのちです。私はこの福音を私が経験した生きた言葉で伝えたいです。
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2018年02月03日

冬の散歩道で B  ―冬芽と越冬中の蝶を発見!―

寒気が居座り最低気温は−4度から0度、最高気温も平均4度と寒いが、体調の良い時は思い立って時々散歩に出る。こんな冷気の中でも鳥は元気に飛び交い、植物はいのちを吹き出しつつ万物復興の時に備えて生命の力を蓄えている。

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庭のシュウメイギクの新芽が顔を出している。
正しくは「冬芽(とうが)」と呼ぶそうだ。

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寒さに耐えるために毛で覆われている。

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紫陽花の冬芽。

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この紫陽花はすでに青い葉の新芽になっている。
このほかいろいろな冬芽があったが冬芽はこれにて終了。

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鮮やかなナンテンの実。

エナガ2羽.jpg
近くにいくと20羽以上もの鳥が一斉に飛び立った。

ENAGA.jpg学校から帰宅したユキに写真を見せた瞬間、この鳥はエナガと教えてくれた。
これがエナガ(ネットより拝借)


次は近隣宅の垣根で見つけた越冬中のウラギンシジミ!
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ウラギンシジミ越冬.jpg
12月の初めだったと思うが、ずっと気になって見ていた。いつも同じところに止まっている。今、調べてみるとウラギンシジミという蝶の越冬姿だとわかったので、パソコンを開いたまま写真を撮りに走った。

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蝋細工のような花、蝋梅(ろうばい)は下を向いて咲く。

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「地とこれに住むすべての者が揺らぐとき、わたし(神)は地の柱を堅く立てる」。(詩篇 75篇3節)
この世界には、揺らがないものはありません。時代も、社会も、道徳も、愛も、希望もみな揺らぎます。その揺らぎの中で、多く人たちが転倒します。しかし、主を信じる者は揺らぎません。地は揺れ、社会が混乱しても、主が堅く立てられた「地の柱」に、しっかりつかまるからです。揺れ動かない者が、いつの時代も勝利者です。
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「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください」。(ロマ書 15章30節)
あなたは、「私のために切に祈ってください」と人に頼んでいますか。祈りの力を体験的に知っている人は、自分が危機にある時、あるいは大事をなすとき、人にも真剣に祈りを要請します。また、人から祈りを頼まれたら、切に祈ります。

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「あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています」。(ロマ書 15章29節)
私たちの務めは、キリストの祝福を人々に運ぶことです。そのために、主に選ばれた者です。祝福とは永遠のいのち、罪の赦し、霊の覚醒、聖霊の賜物、和解、平和、生活の必要の満たし・・全ての良きことです。祝福するとは、祈ること、与えること、助けること、導くこと、励まし慰めることです。

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「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さを担うべきです。自分を喜ばせるべきではありません」。(ロマ書 15章1節)
自分を喜ばせることだけを考えている人は、いつまでも心満たされません。キリストは与えることを喜びとなさいました。人を助ける喜びこそ、成熟した者の喜びです。人の心は、受けるよりも与えることで満たされるように、造られているのです。人の弱さを担う力があることを喜びましょう。

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「神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます」。(詩篇 80篇3節)
学業や仕事や結婚に失敗しても、人生の失敗したわけではありません。思い返すたび悔やまれて心が苦しくなっても、まだ人生の失敗ではないのです。ただ、心を頑なにして悔い改めなければ、失敗を繰り返します。自分の誤りや罪を告白し、主に立ち返れば、主はその失敗に取り返しをつけてくださいます。

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「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」。(ロマ書 14章17節)
神の国とは神の支配のことです。神の支配に委ねると、心は恐れから解放され、聖霊による喜びで躍動します。しかし、この世の事に心を支配されると、「飲み食いのこと(衣食住やお金)」で振り回されます。世の思い煩いに主導権を渡してはなりません。「主よ、私を御支配ください」という祈りで、一日を始めてください。
以上、みことばはキリスト栄光教会より
posted by 優子 at 22:20| 随想 | 更新情報をチェックする

2018年02月02日

世界を覆い尽くした資本主義

1月31日朝9時からBS1スペシャル「欲望の資本主義2018〜闇の力が目覚める時〜」の再放送があった。何気なくかけていたテレビに目をやっていたら、特に経済に関心があるわけではない私も引きずり込まれる内容だった。理解できる範囲でしか理解できないのは自明だが、私なりにも感じること大なりだった。

「経済の在りようが人間の在りようを決める」。
この言葉を聞いた時、次女が大学の卒業論文「あとがき」に書いていたことを思い起こさせた。

「大学で経済学を学ぶことを決めたのは、日本史から人間の群像が見えた時であった。高校生だった私は、時代を遡っても共通する人間の姿や経済に強い興味を抱いたのである」。

真智は経済哲学(?)のスタンスで学究してほしい。これは1月3日に放映されたというから、次女夫婦が滞在していた時だ。一緒に観てどんな感想を言うのか聞いてみたかった。

もう一つ感じたことは会社経営について。どの時代においても企業は30年以上同じ形態で存続することは難しく、ましてやすっかり変わってしまったデジタル社会の現代においては、経営終結の落としどころを見据えて舵を切らねばならないと思った。

マルクス、ケインズ、アダム・スミスについても名前を知っている程度であるが、今回初めて耳にしたシュンペーターの理論や人物像に興味を持った。

以下は私のメモ:
▼ マルクスは「資本主義はその矛盾ゆえに滅びる」と言っている。

▼ 2015年末に悪魔の幕が開いた。悪はポジティブな力。「外側」がない悪が生まれる。悪は個人に生まれるのか、社会に生まれるのか?

▼ 資本主義はどこまでも拡大し「成功ファースト」を追求するため、同じことをしていてはダメで、例えば「CO」など、今まで見えなかった所に目をつけて価値づける。

▼ シュンペーター(Schumpeter・革新が経済を成長させることを説いた経済学者)は、金を王に譬え、王を王と思うのは皆が王と思っているからで幻想ほど強いものはないと資本主義のゲームを説いた

▼ ケインズは失業が社会の最大の不安とした。貨幣を月に譬え、人は手の届かないものに憧れる。

金が道具ではなく目的になってしまう。使うためのお金が貯めるためのお金になり、逆転した時に人はお金の奴隷になる。

金融資本主義。資本の増殖を求めて、政府と銀行の関係は互いに共生する生物のよう。

▼ 資本主義に与えるエネルギーは共産主義や社会主義のエネルギー。

▼ スティグリッツ曰く、インターネットの世界はアダム・スミスの「見えざる手」が働いている。フェイスブックは統計に反映されていない。他人に24時間追い立てられることはそれほど幸せなことか?! 何が価値を決めるのか?!

▼ マルクス曰く、「なぜ金と物が交換できるのかわからない」。商品が貨幣になる命がけの跳躍。 価値は主観的であり、価格は客観的、価値を交換し続けるゲームの中で我々は踊り続ける。お金を使っているつもりでお金に使われている。

▼ 創造力の追及が新たな義務となった。ロボットの時代、創造的でなければ死ねと言われ、経済のルールに支配されつつある。テクノロジーが経済のルールを決めていく。マルクスは「機械怪獣」に気づいていた。

▼ 経済の在りようが人間の在りようを決める。シュンペーターはマルクスの書に見出した闇の力とはこれなのだ!!!

▼ 新しいテクノロジーは過去を破壊している。楽しいはずの創造が義務になれば苦しくなる。働くのは何のため?!

▼ 仕事でアイデンティティを得ている人が多くいる。彼らは働かないのは余暇ではなく失業と取られるから、働かないことに恐れがある。しかし、この大きな問題に向き合おうとしない。

▼ 今後ますます自動化で仕事が減り、労働時間は長期的には週20〜25時間になる。では、所得はどうなるのか?

ニクソン時代にベイシックインカム(basic income・政府がすべての国民に最低の生活を保障する所得を定期的に支払う政策)が導入されるはずだったが、レーガンとサッチャー出現で成らず。

試験的に実施していた結果はすべて良く、離婚率も上昇していなかった。ベイシックインカムが導入されていたならば、その影響は計り知れぬものだったという。

▼ 世界を覆い尽くした資本主義。
富はコンツェルンに。競争原理は働かず、競争なき社会は土台である社会制度を揺さぶり、自らの存続不能に陥る社会に入る。

儲けるという欲望がなくなると社会主義になる。しかし、経済が永久に成長し続けることはなく、ここから抜け出せる道を見つけ出せるかどうか。

更に多くの矛盾を生み出して人類を滅ぼしてしまう。人間世界の滅亡は、いつか本当にやって来るだろう。

資本主義は批判を受け入れられる唯一のシステムだ。ルールを決めるのは私たちの時代の欲望である。
人間の欲望。
人間について考える時、改めて「欲望」というのが大きなキーワードであると思った。その欲望があらゆる分野に向けられて蛮行をくり返していたのだと、人間の実相の淵を覗いた気がする。

posted by 優子 at 20:07| 社会的なこと | 更新情報をチェックする