2017年12月29日

2017年のエンディングはクリスマスにかかった大きな虹

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「わたし(神)は雲の中に、にじを置く。
これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。
  (創世記9章13節)

クリスマスの日の夕方、小雨降る東大阪の空に大きな虹がかかり、女性社員に呼ばれて知子も窓際へ走りました。

大きな虹。
実際はこれよりも、もっともっと太く鮮やかに、しかも2つ並んで大きな弧を描いていたそうです。

その夜この話を聞いた瞬間に、私は神さまが知子の長年の労苦への労いと祝福を届けてくださったと思いました。

「あの虹は本当にわたしも神の祝福の印だと思いました。クリスマスの日に小雨のなか見えた巨大な太い虹。写真には写らなかったけど、窓一面でみんな歓声をあげて撮影していました」。

私は美濃紙業の社員皆が、神さまの祝福のもとに置かれて希望を与えられていると受け止めました。そして、知子自身の心にも大きな虹をかけてくださったことを信じます。
報いられなかった努力や愛も神さまは一つたりとも無駄にはなさいません。新たなる気づきをいただいて進んで行くときに、それらを喜びに変えてくださるのだと思います。

大きな虹がかかった!.jpg

「主よ。
何と幸いなことでしょう。
あなたに、戒められ、
あなたのみおしえを教えられる、その人は。
わざわいの日に、あなたがその人に
平安を賜わるからです」。
                      (詩篇94篇12・13節)

22日に帰国した次女夫婦はクリスマスの朝、友人を誘って横浜の教会でクリスマス礼拝に集い、東京での6日間の予定を終えて28日の17時頃に帰宅しました。

次女はお喋りしずぎて喉を傷めてしまったと言っていましたが、案の定今日の午後高熱でダウン。昨夜も夜遅くまで話につき合わせて悪いことをしました。

インフルエンザでなければいいのですが順調に治りますように。1週間後には再びアメリカまで帰らねばならないのですから。

「主は今に至るまでわれわれを助けられた」。
                           (サムエル記上 7章12節)

今年もいろんなことがありましたが、欠けの多い者でありますのに今も祈らせてくださり、共に歩んでくださったことを主イエスさまに感謝します。
どなたさまもみな新しい気持ちで新年をお迎えになられますように。

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では最後にユキが撮った今日のメジロの19秒間のビデオをご覧ください。


12月31日16時37分追記:サムサムさんコメント感謝!
ブログとメールを通してたくさんの安らぎや喜び、そして励ましをいただきました2017年が終わるのいよいよあと数時間ですね。ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

ああ、そうだ! 今年最後のブログも楽しく読ませていただきましたよ。クリスマスにかかった虹ほんとに綺麗ですね。「みんなが歓声をあげて撮影していました」とありましたが、その光景が目に浮かぶようです。

それから、メジロがミカンを食べているユキ君の動画もよく撮れていましたね。楽しかったですよ。感謝して!

posted by 優子 at 21:15| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年12月28日

ユキの鳥観察記録

27日午前、ついに来た! 
ついに来た!.jpg

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シロハラ
食べている所を撮ろうとしたら逃げられた。

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窓越しなので残念。
連日あまりの寒さで窓を開けられない。

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このあと随時更新、乞うご期待!

いよいよ真智たちが帰ってくるというのに宿題が未完了。あと漢字が30行とプリント少々とか。今も鳥の番ばかりしている。「あっ、今度はヒヨドリが来た!」

posted by 優子 at 08:16| 知子(ユキの成長) | 更新情報をチェックする

2017年12月25日

ブルンナー読書会O −選び―

これは12月23日(土)の記事です。

IMG_9807.jpg次女夫婦は「ブルンナー読書会」もまた、この記事を通して参加させていただいている気持ちであると反響を寄せてくれている。記者にとっては大きな喜びであり励ましだ。

それだけではなく、「ブルンナーのメッセージは、心に響く部分が多く、多くの気付きや励ましをいただいて」おり、「手元に持ち、じっくりと読みたいという思いが強くなりました。」ということで、『フラウミュンスター説教集』のTとUをアメリカへ持ち帰りたいとのこと。

anime-tree1c.gifかろうじてお手持ちの分があったので分けていただき、この日お願いしたとおり翻訳者である下村さんのサインもいただいてお持ちくださった。感謝!

今日はエーミル・ブルンナー著『フラウミュンスター説教集T』の5回目、説教のタイトルは「選び」。
13時45分〜15時25分。讃美歌121番、聖書輪読、お祈り(下村さん)。

エペソ人への手紙1章3節〜6節:
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
1:6 これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
いつものように最初に一人ずつ感想やわからなかったところを発表して意見交換した。
下村さんのご解説より:
「エペソ人への手紙」の冒頭でパウロは、天地創造以前に起こった「選び」について語っており、このテーマは「予定(Prädestinations)」という呼称で知られている。これはカルヴァンの思想で「決定論」とも言う。

ギリシャ思想では「運命」と言われ、定められてあり動かせない。(ギリシャ悲劇のオイディプスのように)

マルクス的社会主義を私は歴史的唯物論、唯物的歴史理論と訳している。マルクスは、資本主義は持てる者は持ち、労働者は搾取されるので行き詰まり資本主義から共産主義へ、あるいは社会主義になると言っている。人間の生も全くそれと同じで自然法則に従って生起する。いかなるものも自由ではなく、一切は運命であると

ブルンナーの時代はマルクスの歴史理論が生きていたが、その後、アメリカの自由主義と共産主義の闘いの中でベルリン危機やキューバ危機があったが、資本主義が社会主義を取り入れて修正資本主義になったので革命は起こらなくなった。

また、人間は父と母の遺伝素質の結合によって一切は予(あらかじ)め予定されていると考える。確かに肉体的にはある程度の遺伝素質はあるが決定されるものではない。

「この学説は今日すべての人間を襲い、『自分は、自分には全く力の及ばない、全く発言権のないさまざまな力に玩(もてあそ)ばれるボールにすぎない」という感情を与えています」。

しかし、神は私たちに自由と決断を与え、その責任を求めておられ、それが人格であり、最初から運命として必然的であるならば人格にならない。

もし神に人生が決められていたらどうでしょうか?(と問われて、思いを交わした)

マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でこう言っている。
予定説(カルヴィニズム)がヨーロッパで力を持っていたので人々は不安になっていた時、人々は選ばれていることを自分の身で確信しようと一生懸命働いた。すると資本が貯まってきた。

ドイツ語で「職業」のことを " Beruf "(ベルーフ)と言う。" Beruf "にはルターの概念(英語の”calling" :天職や召命)もあるが、今は職業の意味になっている。

そして聖書までもが、予定の教理を付け加え、運命論から救ってくれないどころか神によって予め予定されているのだという。

ブルンナーは「あらかじめの予定」は聖書的ではないと言った。神の恵みのほうから考えないと予定に外れるという考えになってしまう。

「もし何においても私が行い、私が成し遂げ、私が達成することによって事が決まるのであれば、確かに私の将来の見通しは決して好ましいものではありません」。
これは信仰者の立場から言っているのであり、信仰者でなければ、「何においても私が行い、私が成し遂げ、私が達成することによって事が決まる」となる。

「もし一切のことが私にかかっているのであれば、もちろん私には神も救い主も必要ではありますまい」。
しかし、「われわれの生はわれわれ自身の手よりももっと良き手の内にあります」。ここでは「天上からの霊のもろもろの祝福」と呼んでおり、「この天上からの祝福は、ただ一つの言葉、すなわちキリストという一つの名前の中に包括されている」。

P53 L10〜19は大切なところ。
われわれ人間は、どの時代においても、そして特に現代は、ともすれば「われわれは自分自身の能力で、正しくて完全な、人間的な人間でありうる。もし障害さえなければ、それはきっと可能である」と考えがちです。

さしあたり、われわれは神なしには決して真の人間ではありえないとは少しも思いません。われわれは、すでに自己のうちに真の人間になりうる資質を持っていると考えます。

しかし実際は、われわれが神から自由独立の存在であると妄想すればするほど、ますます確実にわれわれは退化し、非人間的なものに変質してしまいます。このことが今日、かつてなかったほどに大規模に進行しているのを目にします。

人間の社会が、そしてその社会の中で基準になるものや、国家と文化を支配しているものが、かつてなかったほどに国民全体、国家全体の規模で神から完全に離反してしまったところでは、過去の歴史の中で類を見ない非人間化が現出しています。

人間が一歩一歩神から離れるにしたがって非人間性が蔓延し、真に人間的なるものが生から消滅してしまいます。
この認識は、イエス・キリストをとおしてわれわれに与えられる最初のものです。
(この最初のところは)これはギリシャ思想、ルネサンス、またゲーテなどドイツ理想主義の考え方である。例えば小さなアサガオの種から芽が出て花が咲くように、人間の生まれながらの資質を偏りなく阻害しないで成長させればあるべき人間の知情意の姿になると、ヒューマニズムの考え方をもとに書いている。

ソクラテスは「教育は産婆術」だと言った。人間は人間の生まれながらの力で成長し、その延長線上に形成していき、教育は助産師(産婆さん)のように手助けするだけだと考える。これはヒューマニズムの人間観である。

キリストの人間観は、人間は神の形にかたどられて造られ、神の語りかけに答える存在として、愛と信頼に答える者として造られた。神と出会って、神と対話しながら人間が人間になっていくことを可能にする

人間の罪を知り十字架によって自己否定をくぐり抜けて人間になる。そして他者のためにも生きるという転換が生じる。そこで初めてあるべき人間になる

人間はヒューマニズムによって生きる力や判断力を失われてしまっている。人間の存在を支える堅固な精神的なものは何もない。善悪の判断基準もなく、政治を導く理念もなく、これらが蔓延している。かろうじてメルケル首相が法の自由と人間の尊厳を大切にしている。

聖書は神との命のつながりからの災いに満ちた離反を罪と呼び、この罪はさながら悪性腫瘍のようにわれわれすべての内に巣くっている。イエス・キリストは悪性腫瘍を切除する医者として介入され、神との新たなる結合を受け入れるやいなや、神と再び結合されたのである。

▼ 神は立てたプランに従って天地を造られました。このプランの中には、神が全く特別な仕方でご自身を分かち与えようとされる対象、また分かち与えることができる対象としての人間が記入されています。

なぜなら神の愛を認識できる存在のみが神の愛に応えて愛し返すことができるからです。しかし彼は単に一般としての人間を記入されたのではなく、むしろ彼が創造される人間ひとりびとりを記入されました。

▼ (神の眼前に立つとき)われわれは、神の永遠のプランの中にあって、今あるような罪深い、弱い、破れた、死の手中にある人間として神の前に立つのではなく、神の永遠の御子であるイエス・キリストの形と似姿をもつ人間として立つのです。

贖われた人間として立つことも大切かと思う。信仰義認とは、神に求める「義」ではなく、神が人間に与える「義」である。

▼ 選ばれているということは「決定されている」ことを意味するのではありません。もしそうなら、われわれは協力することも反抗することもできず、神の意のまま動かされる将棋の駒にすぎないでしょう。

選ばれているということは、神の子イエス・キリストにおいて永遠の昔から神によって愛されているということです。

 二重の予定と呼ばれるあの恐ろしい教理については聖書は何も語っていません。それは恐るべき誤解です。神を冒涜する誤解であると言いたいくらいです。

カルヴァンが言ったように、神は永遠の昔から二種類の人間を創造された、すなわち永遠の生命に至る人間と永遠の滅びに至る人間とを創造された、とわれわれは決して考えてはなりません。生命の道と滅びの道とが存在します

▼ イエス・キリストの道を歩む者は、「永遠の昔から選ばれている」という声を聞くことが許されます。そしてこの道は、われわれすべてに開かれています。誰ひとり締め出されてはいません。招待状はすべての人に発送されています

そしてこの招待状は一つの決定をも意味しています。しかも厳粛な決定、そうです、唯一全く厳粛な決定、生命へ至る道への決定です。それゆえに死と滅びに至る道からの訣別の決定です

▼ あなたは自分の道を行くためではなくイエスの道を行くために、従ってあなた自身の意志を行うためではなく、イエスに聞き従うためにイエスによって選ばれています。

あなたは、永遠の昔から神によって愛されている人間として、またこのように神の愛を与えられているゆえにあなた自身が愛の人間になることを神に期待されている人間として生きることが許されているのであり、また生きなければなりません。

▼ われわれの力のかぎりこの神の命令に従うこと、それはとりもなおさず、イエスがわれわれのために用意される道に立って歩むということです。

anime_kid02.gif「選び」については私の中でも曖昧な点だったので、疑問が解けてスッキリした。そして、この章で私の心に深く届いたメッセージは、最後のオレンジ色で示した箇所だ。目頭を潤ませながら受容しながら読んだ。
「アーメン! 主よ、感謝します」。
そして、ブルンナーと下村さんに感謝します!

この日ユキは同室で冬休みの宿題に集中し、ケーキタイムの交わりにユキも合流。知子が不在なのでクリスマスケーキをきれいに切れなかったが、おいしかったね!!!
posted by 優子 at 23:21| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

2017年12月24日

家の教会2017㊻ −神の栄光を見る―

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anime_tomosibi01.gif2017年12月24日(日)              (2017第46回 家の教会)

9時55分〜10時30分

  出席者 3名(ユキと良輔)

@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 讃美歌  112番「もろびとこぞりて」  

C 聖書輪読 マタイによる福音書 2章1節〜16節

D お話

E お祈り  一人ずつ

F 讃美歌  111番「神の御子は今宵しも」


マタイによる福音書2章1節〜16節:
2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
2:4 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。
2:5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
2:9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
2:13 彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。
2:14 そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。
2:16 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。

お話:
今日はアドヴェント4週目を迎え、クリスマス礼拝を捧げます。先週の土曜日に同志社のクリスマス・ページェントに行きましたが、「ページェント」とは中世ヨーロッパで祝祭日に演じた宗教劇のことです。

6E5B9B4E7949FE381AEE382AFE383AAE382B9E3839EE382B9E7A59DE4BC9AE291A0.jpgそして「クリスマス・ページェント」とは、イエスさまの降誕物語の劇を演じて神の子の誕生をお祝いするキリスト教の行事です。教会の子どもたちは必ず祝会で降誕劇を演じていることでしょう。
(真智子6年生、マリアさま役)

先ほど輪読した聖書個所も降誕物語で必ず引用される部分です。ヘロデ王というのは「ヘロデ大王」と呼ばれる残虐な暴君でした。ましてや、「わたしも拝みに行くから」とは心にもないことでした。

東の博士というのはこの前お話したように天文学に通じている学者です。キリストの誕生を知ったヘロデ王が秘かに博士たちを招いたのは、自分の王位が脅かされるので2歳以下の男の子を一人残さず殺すためでした。

なぜ生まれたばかりの赤ちゃんではなく2歳以下の子どもを殺せと言ったのかと申しますと、博士たちは星を見つけて大喜びし「家に入って」とありますから、その時はもう馬小屋ではないようです。

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  ブリューゲル:『ベツレヘムの嬰児殺し』

というより少なくともご誕生から1年以上の時が経っているのでしょう。それゆえにヘロデは2歳以下の子どもを殺させたのです。この子どもたちがキリスト教の初めての殉教者と言われています。

私が注目したいのは、この時もヨセフは夢に現れた主の使いの言葉に従ったことです。つぶやかず黙々と神の導きに従うヨセフの姿からも神さまからの強烈なメッセージを感じます。3人の博士たちも夢で聞いた主のみ告げに従って他の道を通って自分の国へ帰って行きました。

ヘロデは自分の王位を守ることに必死でした。そのために自分の妻や子供たちも処刑したといいますから、時代を超えて現代も神をも恐れない人間がいるのですね。

そのような地上世界に神さまは御ひとり子である幼いイエスさまを送られたのです。まさに血に飢えた猛獣の中に置かれた子羊のようです。

博士たちが捧げた「黄金」は王位の象徴であり「王としてのキリスト」を表し、「乳香」は礼拝の時に用いるもので「神としてのキリスト」を意味し、「没薬」は死んだ人を葬るときに使うものですから「十字架上に死なれるキリスト」を意味すると言われています。

今年の待降節はこれまでで最も御言葉を味わい黙想する恵みに与りました。体調の良い時は朝目覚めた瞬間に聖書を開くのが楽しみで、たびたび朝食を摂る時間も惜しくて、体に悪いとわかっていても朝食も摂らずに没頭したこともありました。

聖書は知的探求心で理解するのではなく、祈りつつ読み、読みつつ祈れと言われていますが黒崎幸吉も次のように記しています。

「神は漁夫に対しては魚により、病者に対しては治療により、学者に対しては星によりてご自身を示し給う。

礼拝と献身、これが信仰生活の基調である。礼拝とは単に教会の礼拝に出席することではなく、畏れ崇むる心をもって神を拝することである。

献身とは伝道専門家になることではなく、自分の身も魂も財もみな神のものとしてしまうことである。(それら一切を神さまの御用のために用いるという意味です。)東方の博士の来訪により宝物をささげてキリストを拝したることは、この信仰の根本を示したものである」。

世界は常に不正義と憎しみで覆われ、時代がどんなに進んでも人間の愚行は増し加わり闇は深くなるばかりで、「平和ボケ」していた日本人さえも今や不安と恐れを実感しています。

私たちは世界の闇に気づき始めましたが自分自身の心の闇についてはどうでしょうか。心の深い所に根づいている闇です。

頑なな自我、自己中心で感謝できない心、憎悪、拒絶・・などなど、今一度神さまに探っていただいて命ある限り導かれていきたいと願います。

そのためにまず一人ひとりが真剣に自らの生きる意味を問い、心を開くことができますように。悩んでいることがあれば神さまに解決を祈り求めて、悔いのない生き方を求めることができますように。

2017年のアドヴェントを過ごしながら私が神さまからいただいたメッセージはこれでありました。空知太栄光キリスト教会の銘形(めいがた)秀則牧師の言葉をお分かちします。

「これまで何度もお話ししているように、神の隠された真理はそれを尋ね求める者に開かれます。表面的に聖書を読んでいるだけでは、決してその深いところにあるものを掘り出すことはできません。

イェシュア(イエス)は『神の国の支配』について多くのたとえ話を用いて語られました。なぜたとえ話で語られたかと言えば、それは多くの者たちがよく理解できるためではありません。

そうではなく、むしろその話の意味を自ら問うことがなければ、決してその意味は明らかにされないような仕掛けになっているのです。神である主の秘密は尋ね求める者たちの『問いかけ』によってはじめて見出されるのです」。

そして自分に絶望して、キリストに全てを託して生きるというところを通って行くのです。私の信仰も神さまからの賜物です。

日本ではイエス・キリスト不在のクリスマスです。クリスマスの喜びを周囲の人々に伝えていくことができますように。

家族の中でキリストを信じる初穂として立てられた私は、何よりも我が家庭で祝福の基となる信仰生活をしていけますように、そして、福音の証し人として多くの実を結ぶ生涯でありますように、それが老年期に入った私の切実な願いです。

『メメントドミニ』をお読みくださっているお一人おひとりの上に、クリスマスの祝福が豊かに在りますようにお祈りします。
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IMG_3399.jpg附記:この日、急きょサッカー教室開催の連絡が入り、今年の「蹴り納め」となった。実はクリスマス・ページェントに行った16日が最終だったが休ませてしまったので、ユキは大喜びで今年最後の練習に飛んで行った。

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久々にサッカー教室のブログにユキの姿があった。

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posted by 優子 at 14:50| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年12月22日

次女夫婦 今は日本の空の下にいる!


コハクチョウ.jpgこの写真は湖北・長浜のコハクチョウ。今年もシベリヤから飛来。こんな小さな体で4000キロも飛んでくるとは、自然界の営みに驚異するばかり。

やっぱり見たい、行きたい。独りで行こうか・・・
1月〜2月下旬のピーク時は500〜600羽もいるという。

そして、次女夫婦たちも今日の午後日本の地に飛来した。今年2度目の帰国である。 
今夏のようにまず1週間ほど東京に滞在して友人や知人に会い、自宅には28日に帰宅。共に年末年始を過ごして再びワシントンへ戻る。

今回の帰国は今まで以上に心配だった。トランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と宣言後、早速ISやアルカイダなどが強く非難する声明を出しているからだ。

イスラム国は弱体化したとはいえ、ワシントンの空港で自爆テロが起きないか心配だった。無事到着を感謝します。

今この時も世界中に数え切れないほど多くの悲惨な人々を思うと胸が痛む。私たちは祈ることをやめてはならない。そして、神さまに促されていることを僅かなりともさせていただこう。

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「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」。
                 (イザヤ書9章2節)
人生には闇の日々があり、死の陰に脅かされることがあります。しかし、そんなときこそ、私たちは主の光をいっそう強く感じます。今日、主のご降誕を祝い、その喜びを何らかの形にして、病気や悲しみにいる人に届けませんか。主はひとりひとりに、大いなる光を見させる計画をしておられます。

イザヤ書
9:6  ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、
ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、
その名は、「霊妙なる議士、大能の神、
とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
9:7  そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、
ダビデの位に座して、その国を治め、
今より後、とこしえに公平と正義とをもって
これを立て、これを保たれる。
万軍の主の熱心がこれをなされるのである

61:1  主なる神の霊がわたしに臨んだ。
これは主がわたしに油を注いで、
貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
捕われ人に放免を告げ、
縛られている者に解放を告げ、
61:2  主の恵みの年と
われわれの神の報復の日とを告げさせ、
また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3  シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、
灰にかえて冠を与え、
悲しみにかえて喜びの油を与え、
憂いの心にかえて、
さんびの衣を与えさせるためである。
こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、
主がその栄光をあらわすために
植えられた者ととなえられる。

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オオバンが20数羽もいた。

今日終業式を終えたユキに私は愛をこめて忠告した。真智たちが帰宅するまでに冬休みの宿題を終えておかないと遊べないよと。明日から実践するような気配だが。

posted by 優子 at 22:20| 真智子(ワシントン便り) | 更新情報をチェックする

2017年12月21日

冬の散歩道で A


1.jpgオオバンの顔を真正面から撮れた。
食事中で池に潜って姿を消し、出てきた時は何かくわえてひたすら食べていた。そして、合間に何度も声を聞いた。昔、自転車で売りに来ていたお豆腐屋さんが鳴らしていたような音で「プァ」と鳴いた。
オオバンの声が静寂の空気を震わせた。心の緊張が溶けるようで10分間も見ていた。

「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです」。(ロマ書12章20節)
悪には善、罵(ののし)りには感謝の言葉、悪意には親切、嘘には真実を返す。それがクリスチャンの報復の仕方だというのです。復讐心に従わず、私たちの心に住む聖霊の願いに従うのが信仰です。「敵」が悔い改めるという喜びの予感があります。

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「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」。
(ロマ書12章21節)
悪に負けないためには、相手と同じ土俵に立たないことです。でなければ、同じ醜い争いや議論に巻き込まれます。常にキリストと同じところに立って、相手と向かい合うようにしましょう。そうすれば、自分の怒りが収まって冷静になれます。実は、相手はあなたの寛容を求めています。それを示すことが勝利の第一歩です。

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「あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました」。(詩篇66篇12節)
主は、銀を精錬するかのように、私たちに挫折、屈辱、病気、苦難を通らせ、鍛えられます(10)。私たちの高慢を砕き、弱点を覆い、心の不純物を取り除くためです。耐え通した分だけ、心が高潔になり、人間関係も豊かになります。

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「あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい」。
(ロマ書13章7節)
苦境の中でも真実を尽くし、果たすべきことは果たしましょう。理屈をこねて自分の良心を欺き、義務を拒んではなりません。主の恵みを知る人ほど、教えを忠実に行います。

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「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」。(ロマ書13章8節)
人からの愛に鈍感になってはいませんか。なのに、人には愛の返済を要求してはいませんか。愛に損得勘定はありません。人を無償で愛せることは喜びです。犠牲的に人を愛せること自体が愛の報酬であり、主に愛されている者のしるしです。

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「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」。
(ロマ書13章10節)
律法(主の教え)の本質は愛です。それは「隣人をあなた自身のように愛せよ」に要約されます。律法は、人が人を裁くための基準ではないのです。あなたはキリストによって新しく造られました。今は寛容で親切で柔和です。それがクリスチャンであるあなたの本質です。社会的成功よりも、個人的な隠れた愛で成功しましょう。

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「私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください」。(詩篇70篇5節)
主の助けを忍耐して待ち続けることと、「主よ、急いでください」と熱心に祈ることは、矛盾しません。いつまででも待てるという余裕が心にあるから、必死に祈れるのです。最終的には勝利があると知っているから、切実に祈ります。熱心さも、心の余裕も、主への信頼です。

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「しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう」。(詩篇71篇14節)
敵に命を狙われているダビデの歌です。ダビデにとって、追い迫る敵に打ち勝つ方法、それは主を賛美することでした。怒り、恐れ、不安、誘惑に勝利する道、それは主を賛美することです。人を赦せない自分を克服する方法、それは主を賛美することです。ダビデは、いつもそのようにして勝利を収めてきたのです。

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「しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました」。(詩篇73篇23節)
たとえ心突き刺され、苦しみのあまり理性を失い、獣のように振舞うようになっても(21,22)、主は私たちの手を握って離されません。失敗したり、人から責められたりしても、自分で自分にダメ出しをしてはなりません。主は見捨ててはおられません。道を示し、悔い改めさせ、力付け、立て直されます。

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ししがしら

※ メッセージは「キリストの栄光教会」より
posted by 優子 at 18:06| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年12月19日

ユキと懐かしき地を踏む ―同志社女子のクリスマスページェント―

IMG_9670.jpgこの写真は今から31年前の1986年12月17日、知子が小学校3年生(9歳)、真智子は幼稚園年長組(6歳)の時に同志社女子中・高(通称「同女」)のクリスマス・ページェントへ行った時のものだ。

この頃も全席満席になっていたが、近年のように早々と列を作って並ぶということはなかった。意外なのは、この頃の方が外国の方の参加者が多かった。
自動車も御所の中に駐車していたのでまだまだ悠長な時代だった。

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私は35歳、良輔は41歳。

私はこの時はまだ明確な信仰を得ていなかったが、この頃より求道し始めて翌春に主イエス・キリストと出会い、同年6月(ペンテコステ礼拝)に受洗した。同志社で毎朝毎朝蒔かれた種が17年後に芽生えたというわけだ。

先週の12月16日、知子の年齢と同じころに孫(幸悠)を案内できたことは望外の喜びである。当日16日の記事の最後に「悲しく、ただただ悲しかった・・・」思いも言語化できればいいと思うが、まずはユキと訪ねた懐かしき地のスナップ写真を記録しておきたい。

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私は大津教会へ行くときも京都駅に立ち寄ることもなく、今20周年記念とあったが初めての下車である。まずはエスカレーターで11階に上り、伊勢丹に入ってユキのリクエスト、好物の天ぷらの昼食。大満足のユキ!

IMG_9574.jpgこの日は一時雨の予報だったので傘持参で行ったが雨は降らず、陽射しはなかったもののさほど寒くもなかった。

京都駅ほど大々的に変わった所はないだろう。外に出て見える京都タワーの景色だけは50年前と同じだった。

ロータリーの真ん中あたりから市電やバスに乗っていた。市電はじれったくて、高校になってからバスに切り替えた。

七条(通り)、五条、四条、御池、丸太町、今出川と、それぞれの通りの間を5分間として、京都駅から今出川まで30分見なければならなかった。

当時は在学生の大多数が京都市内の子女だったから通学するのに2時間かかる私は、帰りはとにかく早く帰りたくて、15分ごとに発車する播州赤穂行きや明石行きなど「快速」に乗るまで時計を見てはイライラしていた。

IMG_9661.jpgそれが地下鉄だと10分で着いた。これまで京都の地下鉄に2度乗ったことがあるが、京都駅から乗るのは今回が初めてだった。


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ここに派出所があったはず。今出川の駅になっていた。すぐ後ろに見えるのは同志社大学の校舎である。

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写真の左右の通りが今出川通りで、後ろに見える木々は京都御苑(御所)だ。
中学1年生の時は御所を右手に今出川通りを歩いていたが、その後はずっと大学のキャンパスを抜けていったので、この日も校内を歩いた。

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ここは烏丸通りに面する大学の西門。
ユキも同志社へ行く?!
バスや市電の停車駅もここ。
校門も新しくされ字体も変わっていた。
かつてここに「薩摩藩邸跡」という石碑があった。

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左の木は夜になると

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礼拝堂(重要文化財:同志社チャペル)
かつて共学の同志社中学はここにあり、
この礼拝堂を使っていた。

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クラーク記念館(重要文化財)
「同志社七不思議」の第一に語られる
クラーク館尖頭の「尽きぬ階段」は有名だ。

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この辺りで何度か兄と会ったことがある。
友人に囲まれた兄の懐かしい光景が目に浮かぶ。
50年前のことなのに見慣れた景色なのが不思議。
死の世界から生き返って戻ってきたような感覚だ。

1968年、私が高校2年生の時に兄が同志社香里(こおり・男子校)高校を卒業して大学に入学した。この年からますます全共闘運動で大学紛争が激化していくことになり、校内は立て看板で溢れ、4回生の頃は皆目授業もなく卒業式も挙行されなかった。

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同志社教育のシンボル「良心碑」
「良心之全身ニ充満シタル丈夫(ますらお)ノ
起リ来ラン事ヲ」

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これが同志社正門。
正門を入った所に「良心碑」がある。

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正門を出ると右側に御所の「今出川御門」があり、左側を行くと正面に相国寺(しょうこくじ)がある。そこに同志社の女子教育に命を捧げたデントン女史の墓所がある。

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同志社正門前に同志社女子大、女子中高、幼稚園への門。

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31年前には左側の建物はなく、広い芝生が広がっていた。
この突き当りが女子中高校門で守衛室がある。
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中学入試の合格発表の光景は今も鮮明に焼き付いている。この場所でまず父が掲示板で合格を確かめ、その直後に私と母も番号を確認。私は大喜びで藤棚まで走っていきブランコに飛び乗ったことが昨日のことのよう。
そして掲示板横で、聖書と讃美歌と『新島襄』の本を購入したことも。

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栄光館(礼拝堂:登録文化財)
右の1階の部屋は教務課で、学期ごとの授業料を納入していた。その2階は国語科と数学科の教職員室が並んでいて、栄光館正面の瞑想室左横が聖書科の職員室だった。各科ごとに職員室が別になっている。

それにしても授業料を自ら教務課に納めるとは時代を感じさせる。高額なだけに当時の私も緊張していたのを覚えている。兄は一度、学内で盗まれたことがあった。私が親ならば怒って気持ちを引きずったであろうから、大きな器量を備えた母が偲ばれる。

私が高校に入学した時に妹が入学したので、5年間は同志社へ3人通っていたことになる。親にとっては大変だったのではと、こんな年になって初めて思う自分が情けなく悲しい。

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新築された静和館。今も中学生の校舎だろうか。
旧静和館は廊下も木で革靴で歩く音が好きだった。
ゆっくり校内を見学したかったのに並んでいないと整理券がもらえないというので、全く校内を散策できなかった。

ユキは退屈し尽して申し訳なくてならなかった。しかも2時間半も立ったまま。子どもには禅寺の修行のようだったであろう。

昨年は寒かったので30分切り上げて開場したというが、私もこの日の前後のような寒さならば血圧が高くなるので10分間さえ待つことができなかったから、その意味においても今回が最後のページェントだったと思う。

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ごめんね、
ユキもゲームを持って来ればよかったね。


ユキ、この写真はどう? 合格点?
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写真で時間を潰そうと思っても冬季で花は僅か。

ユキ、鳥がいるよ!!!
これは何ていう鳥?
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これが当日の行列で、静和館の裏側も長蛇の列だった。(同志社女子中高のHPより)

1600名収容できるファウラーチャペルだが、並んでいても整理券がもらえなかった人もいた。

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やっと入れたね。
勝手知ったる我が家の如くトイレに行った。
歌舞伎座のように数多く改装されていた。

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2階の新島襄の肖像画は昔のまま。

ページェントの内容は、
1936年から全く変わらず引継がれているとのことだが、
以前は聖歌隊や聖書朗読者たちの入堂は
讃美歌98番だった。

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1986年のページェントでは、
「第1部」最後の校長の祈りは、
当時の鎌谷 襄校長(聖書科)が
フランチェスコの「平和の祈り」を捧げられた。

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聖書朗読者たちは声をそろえてゆっくり低い声で読むので、
ユキも言った、「聖書の読み方が怖い」と。😖

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プログラムの裏表紙も変わらず同じ。
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「いと高きところでは、
神に栄光があるように、
地の上では、
み心にかなう人々に平和があるように」

anime_tenshi3_ak.gif皆さまの上にクリスマスの祝福がありますように!

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posted by 優子 at 10:39| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年12月17日

家の教会2017㊺ ―天地を貫く歓喜―

anime_tomosibi02.gif2017年12月17日(日)                         (2017第45回 家の教会)

9時30分〜10時25

  出席者 3名(ユキと良輔)


@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 讃美歌      115番「ああベツレヘムよ」

C 聖書輪読     ルカによる福音書2章1節〜20節

D お話    優子

E お祈り   1人ずつ

F 讃美歌   114番「天なる神には」


ルカによる福音書 2章1節〜20節:

2:1 そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。
2:3 人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。
2:4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
2:9 すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
み使い羊飼に現る.jpg2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
2:12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
2:15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。
2:17 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。
2:18 人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。
2:19 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。
2:20 羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。

お話:

j_je01.jpg今年は是非ユキに私の母校である同志社女子中・高のクリスマスページェントに連れて行ってあげたいとの思いが与えられ、その準備もかねて待降節より一週間早くから降誕に関する聖書個所や讃美歌を取り上げてきました。


昨日は2時間半も外で立ったまま待たねばならなかったけれど、ユキは居眠りもしないで1時間40分熱心に降誕劇を見、聖書を聴き、讃美歌を歌っていました。今朝讃美したアメリカが生んだ美しい讃美歌、私の大好きな114番まで大きな声で歌っていたのでびっくりしました。


今日のお話も昨日朗読されていた聖書箇所です。

イエスさまはベツレヘムでお生まれになりましたが、皇帝アウグストから全世界(ローマ全土)の住民登録をせよという勅令が出なければベツレヘムではお生まれにならなかったのです。


こうしてミカ(イザヤと同時代の預言者)の預言が成就したのです。


5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、

あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、

イスラエルを治める者があなたのうちから

わたしのために出る。

その出るのは昔から、いにしえの日からである。


「エフラタ」というのはベツレヘムの別名です。ベツレヘムは「パンの家」という意味であり、小麦や大麦などの穀物の産地だったことからベツレヘムと名付けられたのでしょう。余談ですが20年近く前に「パンの家」というパン屋さんを知った時、オ−ナーはクリスチャンなんだろうかと思ったものです。


人々は、皇帝アウグストこそが「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)を完成させた王だと思っていましたが、それは力と権力での治世でありアウグストにとっては、そこにもう一人の王「救い主」が誕生するのはあってはならない事だったのです。


神の子であるイエス・キリストがお生まれになったのは馬小屋でした。寒くて汚くて暗く、神の栄光を捨てて無力で最も貧しい人間として生まれてくださったのです。飼い葉桶はその象徴であり、このこともまた信じられないことでした。


神さまがこの重大な出来事を最初に伝えたのは羊飼いたちでした。当時、羊飼いは貧しく社会的にも最も弱い立場の人々でした。しかし彼らは神さまの啓示を信じることができた恵まれた人々でした。


み使いは羊飼いたちにだけではなく、イスラエルの全ての民に知らせたのですが、信じた人たちはとてもとても僅かな人でした。羊飼いたちは真理を知ることのできる目と耳を備えていたのです。


それは常に真理なる神を待ち望んでいる人に備えてくださり、彼らは神の啓示を聞いて馳せ参じて救い主を拝しました。これが世界で初めてのクリスマスでした。


j_je03.jpg羊飼いたちはどんなに遠くても怯(ひる)むことなく示されたとおりに向かっていく熱心さ、即刻従う人たちでした。

その姿に心が揺さぶられます。しかも見聞きしたことを人々に伝えたとは、これこそが福音伝道者の姿であると深く感じ入りました。

信仰を恥ずべきことのようにひた隠しに隠して生きている人はいないでしょうか。真に主と共にある人は言葉の端々に、その人の言動をとおして伝道させてくださるのだと思います。

救い主の来臨はイスラエルの全民衆が永く待望し切望していたことでしたが、救い主が飼い葉おけに寝かされているのが信じられず、今も多くのユダヤの人々は救い主を待ち続けています。


イエス・キリストは誕生した時から人々に迎え入れられず、最後は十字架に架けられて囚人と共に処刑され、最初から最後まで受け入れられない存在でした。


「メシア」とは、旧約聖書のヘブライ語における「油注がれた者」という言葉で、その言葉をギリシャ語で「クリストス」、即ち「キリスト」という言葉です。また「油を注がれた者」には「選ばれた者」という意味もあります。


「御心に適う人に平和があるように」とは、御心に適わない人(罪人)には平和が与えられないということではなく、そもそも罪人である私たちは誰も「御心に適う人」ではないのです。


しかし、すべての人々にキリスト・イエスの十字架と復活により救いが与えられて、神さまとの関係が修復されたゆえに、この救いは自分のためだったのだと受け止めることができた人は、「神に栄光、地に平和あれ」と神を讃美しながらこの世の旅路を歩んでいくのです。

黒崎幸吉は、「イエス・キリストの降誕は天地の創造以来の第一の事実であり、新人の初穂の出生であり、彼によって人類の救いは完成し、神の栄光が耀き出るのであって、宇宙的に最大の出来事である」と書き残しています。信じる者は幸いです。

ペン友が贈ってくださったクリスマスレターの「あとがき」に書かれた、マリヤの生涯を思いめぐらしての一節にはこうあります。

「ふつうの女性だったらもう少し平和な日々を送れたのではないかと思います。光栄ある救い主の母に選ばれたために、険しい山坂を越え、死の陰の谷を行くような波乱に満ちた人生を送ったとしか思えません。マリヤにも感謝!です」」と。

本当にそうだと思いました。マリヤは光栄ある救い主の母に選ばれたがゆえに、身重の体でナザレからベツレヘムまで220キロも旅し、イエスさまの磔刑まで見なければならなかったのですから。

私たちもキリスト者の生涯を歩む者とされて最高の人生を賜っています。そのことはまたキリスト者は常に神さまの視線を感じていますから、やはりイエス・キリストと出会っていない人よりもはるかに厳しい生き方が求められていますし、そのことを自らが選び取って行くことにもつながると思いました

心が弱っている時は誘惑を感じますが、神さまは「心の思いの高ぶっている者を追い散らし、低い者を高く上げ」てくださるのです。自分のことしか関心のない人や感謝を知らない人に負けないで生きていきましょう。

2000年前、神さまはそれら一切の不条理の中でご計画を成就されたのです。神さまにとっては何があろうとも神のご計画を邪魔されることはないのです。それゆえに私たち一人ひとりにご計画くださっていることも必ず成就してくださるという希望を握って生きることができるのです。

今、エルサレムは争いの地になっています。今月6日にトランプ大統領がイスラエルの首都はエルサレムであると宣言したために、ユダヤ人とアラブ人、正しくはユダヤ教とイスラム教の人々が争い死者が出ています。イエスさまがお生まれになり、そして、死んで復活されたエルサレムで!

この現実も全て神さまの御手の中でのことであることを忘れないでいましょう。私のこれまでの人生においても、神さまは最悪をとおして最善へと導いてくださり、最悪の中にも善きものを与えてくださいました。そのことを解る者に変えてくださったのです!

「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」

神さまは私たちにイエス・キリストを贈ってくださり、真の救いを与え、不安と恐れ、そして憎しみから解放し、平安と喜びと希望をもって歩めるようにしてくださったのです。

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」。

このみ言葉を「あなたにために」、即ち「私のために救い主がお生まれになった」と聞ける者は幸いです。来週はアドヴェント4週目、いよいよクリスマス礼拝です。誰も皆、幸いなクリスマスをお迎えすることができますように祈ります。

附記:知子は全日外出で不在。

サムサムさんよりコメント感謝:

「この現実も全て神さまの御手の中でのことであることを忘れないでいましょう。私のこれまでの人生においても、神さまは最悪をとおして最善へと導いてくださり、最悪の中にも善きものを与えてくださいました。そのことを解る者に変えてくださったのです。」

全くその通りです。そしてわたしもそのことを忘れないようにしたいと思っています。が、情けないことに、渦中にあってはすぐに忘れ、思い悩んだり、途方にくれたり…、サ住にいた時がそうでした。

でも、感謝なことに、神さまは6か月というをかけて、「毎週1回、30分〜60分の看護師による訪問を受けることができるというわたしにとって一番良い方法を教え、導いてくださいました。 

サムサムさん、尊いお分かちを感謝します。

私も理性ではわかっていても感情がついていかなくて、人間の弱さをつくづく思い知らされますが、このように経験や思いを分かち合えることは何という慰めであり励ましでしょうか。お交わりを感謝します。

ご自宅での良き日々を祈っています。


posted by 優子 at 17:18| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年12月16日

同志社女子中・高のクリスマスページェント ―1970年卒業後2度目で31年ぶり。これが生涯最後のホームカミングか―


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4時頃に整理券が配られるとのことなのに、
2時半過ぎで既に80名ほどが並んでいました。
このあと4時に整理券をいただいて開場の5時まで待ちました。
1100名分完配、入場できなかった人も多数おられました。

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整理券まで同志社カラーにこだわっての紫でした。

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クリスマスページェントは礼拝ゆえに写真撮影禁止。

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ページェントのあとの「ストーム」
聖歌隊が讃美歌を歌って見送ってくれました。
この3倍の人数の聖歌隊でした。

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これは同志社大学のクリスマスツリー。

さあ、ユキ、気合を入れて帰ろうね。
大阪を通り過ぎて奈良県までとは辛かったね。
21時45分に無事帰宅しました。
詳しくは後日記録しておこうと思いますが、
体調が冴えなかったせいもあるけれど
悲しく、ただただ悲しかった・・・

posted by 優子 at 23:58| 我が心の旅路 | 更新情報をチェックする

2017年12月12日

ノーベル平和賞 サーロー節子さん演説全文

「12月10日、オスロで行われた核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))へのノーベル平和賞授賞式で被爆者サーロー節子さんが行った演説は次の通り。」として、東京新聞に掲載された演説全文をここに記録しておきたい。

サーロー節子さん.jpg両陛下。ノルウェー・ノーベル賞委員会の高名なメンバーの皆さま。ここにいる、そして世界中にいる運動家の仲間たち。淑女、紳士の皆さま。

ICANの運動を形づくる傑出した全ての人々に成り代わってベアトリス(・フィン事務局長)と共にこの賞を受け取ることは大変な栄誉です。私たちは核兵器の時代を終わらせることができる、終わらせるのだという、かくも大きな希望を皆さま一人一人が私に与えてくれます。

▼座視しない

被爆者は、奇跡のような偶然によって広島と長崎の原爆を生き延びました。私は被爆者の一人としてお話しします。70年以上にわたって私たちは核兵器の廃絶に取り組んできました。

私たちは、この恐ろしい兵器の開発と実験から危害を被った世界中の人々と連帯してきました。(核実験が行われた)ムルロア、エケル、セミパラチンスク、マラリンガ、ビキニといった長く忘れられた地の人々。土地と海を放射線にさらされ、人体実験に使われ、文化を永遠に破壊された人々と連帯してきました。

私たちは犠牲者であることに甘んじることはありませんでした。灼熱の終末を即座に迎えることや、世界がゆっくりと汚染されていくことに対し、手をこまねいていることは拒否しました。

いわゆる大国が、無謀にも私たちを核のたそがれから核の闇夜の間際へと送り込むことを、恐怖の中で座視することは拒否しました。私たちは立ち上がりました。生き延びた体験を分かち合いました。人類と核兵器は共存できないのだと声にしました。

▼叫び声聞こえた

きょう、この会場で皆さまには、広島と長崎で死を遂げた全ての人々の存在を感じてほしいと思います。雲霞(うんか)のような20数万の魂を身の回りに感じていただきたいのです。一人一人に名前があったのです。誰かから愛されていたのです。彼らの死は、無駄ではなかったと確認しましょう。

米国が最初の原爆を私が住んでいた都市、広島に投下した時、私はま13歳でした。私は今もあの朝を鮮明に覚えています。8時15分、窓からの青みを帯びた白い閃光に目がくらみました。体が宙に浮かぶ感覚を覚えています。

静かな闇の中で意識を取り戻すと、倒壊した建物の中で身動きできないことに気付きました。級友たちの弱々しい叫び声が聞こえてきました。「お母さん、助けて。神さま、助けて」

そして突然、私の左肩に手が触れるのを感じました。諦めるな。頑張れ。助けてやる。あの隙間から光が差すのが見えるか。あそこまでできるだけ速くはっていくんだ」。誰かがこう言うのが聞こえました。

はい出ると、倒壊した建物には火が付いていました。あの建物にいた級友のほとんどは生きたまま焼かれ、死にました。そこら中が途方もなく完全に破壊されているのを目にしました。

幽霊のような人影が行列をつくり、足を引きずりながら通り過ぎていきました。人々は異様なまでに傷を負っていました。血を流し、やけどを負い、黒く焦げて、腫れ上がっていました。体の一部を失っていました。肉と皮膚が骨からぶら下がっていました。飛び出た眼球を手に受け止めている人もいました。おなかが裂けて開き、腸が外に垂れ下がっている人もいました。人間の肉体が焼けた時の嫌な悪臭が立ち込めていました。

このようにして、私の愛する都市は一発の爆弾によって消滅したのです。住民のほとんどは非戦闘員でした。彼らは燃やされ、焼き尽くされ、炭になりました。その中には私の家族と351人の級友が含まれています。

▼愚行を許さない

その後の数週間、数カ月間、数年間にわたって、放射線の後遺症により予測もつかないような不可解な形で何千もの人々が亡くなりました。今日に至ってもなお、放射線は人々の命を奪っています。

広島を思い出すとき、最初に目に浮かぶのは4歳だった私の甥、英治の姿です。小さな体は溶けて、肉の塊に変わり、見分けがつかないほどでした。死によって苦しみから解放されるまで弱々しい声で水が欲しいと言い続けました。

今この瞬間も、世界中で罪のない子どもたちが核兵器の脅威にさらされています。甥は私にとって、こうした世界の子どもたちを代表する存在となりました。核兵器はいつどんなときも、私たちが愛する全ての人々、いとおしく思う全てを危険にさらしています。私たちはこの愚行をこれ以上許してはなりません。

苦しみと生き延びるためのいちずな闘いを通じて、そして廃虚から復興するための苦闘を通じて私たち被爆者は確信に至りました。破局をもたらすこうした兵器について、私たちは世界に警告しなければならないのです。繰り返し私たちは証言してきました。

しかし、広島と長崎(への原爆投下)を残虐行為、戦争犯罪と見なすことをなお拒絶する人たちもいたのです。「正義の戦争」を終わらせた「良い爆弾」だったとするプロパガンダを受け入れたわけです。こうした作り話が破滅的な核軍拡競争をもたらしました。今日に至るまで核軍拡競争は続いています。

今も9つの国が都市を灰にし、地球上の生命を破壊し、私たちの美しい世界を未来の世代が住めないようにすると脅しています。核兵器の開発は、国家が偉大さの高みに上ることを意味しません。むしろ、この上なく暗い邪悪の深みに転落することを意味するのです。こうした兵器は必要悪ではありません。絶対悪なのです

▼終わりの始まり

今年7月7日、世界の大多数の国々が核兵器禁止条約の採択に賛成した時、私は喜びでいっぱいになりました。私はかつて人類の最悪な側面を目撃しましたが、その日は最良の側面を目撃したのです。

私たち被爆者は72年の間(核兵器が)禁止されることを待ち続けてきました。これを核兵器の終わりの始まりにしようではありませんか。

責任ある指導者であれば、必ずやこの条約に署名するに違いありません。署名を拒否すれば歴史の厳しい審判を受けることになるでしょう。彼らのふるまいは大量虐殺につながるのだという現実を抽象的な理論が覆い隠すことはもはやありません

「抑止力」とは、軍縮を抑止するものなのだということはもはや明らかです。私たちはもはや恐怖のキノコ雲の下で暮らすことはありません。

核武装した国々の当局者と、いわゆる「核の傘」の下にいる共犯者たちに言います。私たちの証言を聞きなさい。私たちの警告を心に刻みなさい。そして、自らの行為の重みを知りなさい。あなたたちはそれぞれ、人類を危険にさらす暴力の体系を構成する不可欠な要素となっているのです。私たちは悪の陳腐さを警戒しましょう。

世界のあらゆる国の、全ての大統領と首相に懇願します。この条約に参加してください。核による滅亡の脅威を永久になくしてください。

▼光に向かって

私は13歳の時、くすぶるがれきの中に閉じ込められても、頑張り続けました。光に向かって進み続けました。そして生き残りました。いま私たちにとって、核禁止条約が光です。

この会場にいる皆さんに、世界中で聞いている皆さんに、広島の倒壊した建物の中で耳にした呼び掛けの言葉を繰り返します。「諦めるな。頑張れ。光が見えるか。それに向かってはっていくんだ」。

今夜、燃え立つたいまつを持ってオスロの通りを行進し、核の恐怖という暗い夜から抜け出しましょう。どんな障害に直面しようとも、私たちは進み続け、頑張り、他の人たちとこの光を分かち合い続けます。この光は、かけがえのない世界を存続させるために私たちが傾ける情熱であり、誓いなのです

                (オスロ・共同)=ノーベル財団公表の公式テキストによる

<サーロー節子さん> 32年広島市生まれ。トロント大大学院修了。13歳のとき広島で被爆し、姉やおいを失う。55年にカナダ人と結婚し、同国に移住して核廃絶運動に尽力。これまで国連総会の委員会など世界中で開かれる国際会議で、被爆証言を重ねてきた。カナダ政府が民間人に贈る最高位勲章オーダー・オブ・カナダを受章した。 (共同)

<核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN=International Campaign to Abolish Nuclear Weapons)> 核兵器廃絶を目指し、2007年にオーストラリアで設立された非政府組織(NGO)の連合体。100カ国超からの約470団体で構成し、平和や軍縮、人権といったテーマに取り組む。啓発イベントの開催のほか、国連や各国議会での演説が主な活動内容。日本のNGOピースボートは主要運営団体の一つ。事務局はスイス・ジュネーブ。 (共同)2005年には、イスラームやユダヤ教の指導者らと共に聖地宗教評議会を立ち上げた人物だ。

サムサムさんより:

原爆で倒壊した建物の中で身動きができなくなってしまったサーロー節子さんに、「諦めるな。頑張れ。助けてやる。あの隙間から光が差すのが見えるか。あそこまでできるだけ速くはっていくんだ」と、声をかけ励ましてくれたのはいったいどういう人だったんだろう思って読み直してみました。
が、「誰かが」と書かれてあるだけで、結局、ご本人にもわからなかったようですが…。もしかしたら神様の声、は、そう思えてなりませんでした。            
サムサムさん、コメントありがとうございます。
私も全くそのように思えてなりませんでした。                                     
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2017年12月10日

家の教会2017㊹ −受胎告知とマリヤの讃歌(マグニフィカート)―

anime_tomosibi03.gif2017年12月10日(日) (2017第44回 家の教会)

10時5分〜11時5分

  出席者 2名(with 良輔)

@ 初めのお祈り

A 主の祈り

B 子ども讃美歌

C 讃美歌   95番「わが心は」  

D 聖書輪読  ルカによる福音書 1章26節〜55節

E お話    優子

F お祈り   1人ずつ

G 讃美歌   100番「生けるものすべて」

知子は全日外出、ユキは同室にいたがFのお祈りより参加。

讃美歌100番は文末に歌詞を掲載しています。


ルカによる福音書1章26節〜55節:

1:26 六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。

1:27 この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。

1:28 御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。

1:29 この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。

1:30 すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。

1:31 見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。

1:32 彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、

1:33 彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。

1:34 そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。

1:35 御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。

1:36 あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。

1:37 神には、なんでもできないことはありません」。

1:38 そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。

1:39 そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、
1:40 ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、
1:42 声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。
1:44 ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。
1:45 主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。
1:46 するとマリヤは言った、
「わたしの魂は主をあがめ、
1:47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
1:48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
1:49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。
そのみ名はきよく、
1:50 そのあわれみは、代々限りなく
主をかしこみ恐れる者に及びます。
1:51 主はみ腕をもって力をふるい、
心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王座から引きおろし、
卑しい者を引き上げ、
1:53 飢えている者を良いもので飽かせ、
富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
1:54 主は、あわれみをお忘れにならず、
その僕イスラエルを助けてくださいました、
1:55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを
とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

お話:

マリアの処女懐胎はエリサベツとザカリヤの出来事よりも信じられないことだと思います。あまりにも超自然的なことゆえに論理的に説明することはできません。ですから何故そのことを信じられるのかと問われても論理的に説明することはできず、信じられるということ自体が神さまからの賜物なんだなぁとしみじみ思います。


アヴェ・マリアの「アヴェ」は「ご挨拶申し上げます」、「こんにちは」などの挨拶言葉ですが、その原語の「カイロー(χαίρω)」の本来の意味は、ラテン語で「祝せられよ」や「喜ぶ」を意味する挨拶の言葉です。その訳語を意図的に「おめでとう」(28節)としたのは、聖書の中でここルカ伝1章28節だけです。


天使ガブリエルがマリアに「おめでとう」と言った真意は、「全く新しい霊的な夜明けを意味する希望に満ちた喜びの挨拶」でした。それはマリアだけにではなく、世のすべての人々が主にあって祝福される新しい時代の到来を意味するのです。


「イエス」とは「神は救いなり」の意味で、ヘブル語では「ヨシュア」です。「神の子」であるは「聖なる者」を意味し、「聖」とは「区別」されることを意味します。即ちイエスは私たちとは異なる存在であり、「インマヌエル」という神性と人性とが完全にひとつとなっているお方です。


マリヤ.png先週のザカリヤの気持ちと同様に、私たちはあまりに大いなる恩恵を受けていることを知る場合も不安を覚えます。マリヤはまだ結婚もしていないし、それに神さまの子を産むだなんて、とても信じられないことゆえに戸惑い心配になって、「どうしてそのようなことがありえましょうか」と驚きの問いかけをしました。


すると天使が、「親族のエリサベツも赤ちゃんを産みますよ」と言い、「エリサベツは赤ちゃんを産むには年を取っているし、赤ちゃんはできないと言われていた人でしたが、今、エリサベツのお腹の中に赤ちゃんがいますよ。それは神さまのお考えで神さまがされたことなのですよ。」と話しました。


IMG_9475.jpg「おことばどおり、この身になりますように」。

マリヤは納得できたから委ねたのではなく、神への全幅の信頼の上に立って、神のご計画が成就されますようにと全てを委ねたのです。この姿こそが神への献身だと思いました。


マリヤのような超自然的なことでなくても、私たちも人生途上でマリヤと同じ全身全霊の祈りをささげる時があります。


例えば、主に在って百戦錬磨の闘いに明け暮れる年月を耐えながらも、全く状況が変わらず、その苦悩と悲しみの末に、より深く謙遜な魂へと導かれて主に委ねるのです。「神さまのみ心が成りますように」と。


しかし、その時の何と平安なことでしょうか。そのような時こそ神の恵みを強く実感させてくださいます。


クリスチャンとは主イエス・キリストの招きを受け入れたキリストに属する者です。ですから私たちにもマリヤのように神の聖霊が臨んでくださっていることを覚え、今一度信仰を強くされて死に至るまで神の約束を信じて神の勝利に立って歩ませてくださいと祈ります。


イエスさまは神の子なのに、神に依存しなければ生きていくことができない貧しく弱い者として、御霊(の助けと力を求めて生き抜かれたのです。ましてや私たちは聖霊を求めずして生きていくことはできません。


マリヤはエリサベツに会いに行きました。マリヤのお話を聞いてエリサベツのお腹の中の赤ちゃんが激しく動いて、マリヤに臨んだ同じ聖霊がエリザベツをも満たし、エリサベツはマリヤのお話も神さまから来たものだとわかったのです。


神さまに選ばれた者たちの交わりは、このように聖霊が行き交って恵みから恵みへと豊かな喜びで満たしてくださいます。


「マリヤさん、おめでとう! 心配しないでいいのよ。あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの赤ちゃんも祝福されています。神さまのことを信じていればいいのですよ」とエリサベツに言われたマリヤは、神さまがどんなに大きなことをしてくださったのかが全身全霊で分かったので、「わたしの魂は主を崇めます」と言葉に出したのです。


46節〜55節もまたあまりにも有名な「マリヤの讃歌」や「マグニフィカート」と呼ばれているところです。それは最初の言葉、「わたしの魂は主を崇めます」をラテン語で“Magnificat”(マグニフィカート)と言うからです。


ここはまさに旧約(神さまとの古い契約)からイエス・キリストが到来した新約に移る黎明の光景です。


力ある者が権力を振るい、貧しい人が虐げられ、善良な人が苦悩し悲しむ不条理、それらのことを超えて全ての事を支配されている全知全能なる神のご計画が実現されていくというのです。ハンナの祈り(第一サムエル記2章1節〜10節)を思い起こさせます。


飼い葉桶の赤ちゃんこそが救い主であり、イエス・キリストを通して朽ちず渇くことのない喜びと希望、魂の解放と平安という真の救いを与えてくださったのです。


こうして紀元前8世紀の預言者ミカの預言が成就したのです。


5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、

あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、

イスラエルを治める者があなたのうちから

わたしのために出る。

その出るのは昔から、いにしえの日からである。

5:3 それゆえ、産婦の産みおとす時まで、

主は彼らを渡しおかれる。

その後その兄弟たちの残れる者は

イスラエルの子らのもとに帰る。

5:4 彼は主の力により、

その神、主の名の威光により、

立ってその群れを養い、

彼らを安らかにおらせる。

今、彼は大いなる者となって、

地の果にまで及ぶからである。

(ミカ書5章2節〜4節)


主イエス・キリストを受け入れた者たちに臨んでくださっている祝福は、その者の周囲の人々に、そして思いもしない人々にも広がって行くのです。
キリスト不在の日本のクリスマス。
1人でも多くの人に人生の夜明けが訪れますように祈ります。

2_onpu_ak.gif讃美歌100番「いけるものすべて」

1 生けるものすべて
  おののきて黙(もだ)
  世の思いすてて ひたすらに仰げ
  かみの御子(みこ)は くだりたもう
  このきよき日にぞ
2 きみの君なれど
  マリヤより生まれ
  うまぶねの中に 産声をあげて
  おのが身をば あたえたもう
  つみびとのために
3 とこしえの光 暗き世にてりて
  み使いは御子を
  かしこみて崇(あが)
  いざわれらも ほめうたわん
  いとたかき君を
posted by 優子 at 11:27| 家の教会 | 更新情報をチェックする

2017年12月07日

エルサレムに平和を!

エルサレムのために平安を祈れ、
「エルサレムを愛する者は栄え、
その城壁のうちに平安があり、
もろもろの殿のうちに安全があるように」と。
                              (詩篇122篇6・7節)

エルサレムはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地である。国際社会はイスラエルによる統治を認めておらず、交渉によって解決すべきとしている。しかし、トランプ米大統領はエルサレムをイスラエルの首都であると発表した。中東情勢が危機的な情勢にならないように祈らずにはいられない。

ユダヤ人とアラブ人の関係が悪くなったのは第2次世界大戦後からであるが、パレスチナとイスラエル問題の源流は4000年前まで遡る。

アブラハムとサライ(サラ)との息子がイサクで、アブラハムと使女(つかえめ)ハガルとの息子がイシマエルで、イサクとイシマエルは腹違いの兄弟である。イサクはイスラエル民族に、イシマエルはアラブ民族の先祖となった。

世界4大宗教のうち、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教はアブラハムを「信仰の父」とし、3者とも旧約聖書のイスラエル民族の伝統を受け継いでいる。

ユダヤ教は「モーセ五書(トーラー)」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)とタルムードを聖典とし、新約聖書に記されているイエス・キリストとの問答からも明らかなように、神の唯一絶対性を信じるがイエス・キリストを排除する。

イスラム教の聖典は「コーラン」で、そこには聖書とは異なることが書かれているようだ。ムスリムの知人から聞いたイエス・キリストについても全く間違った認識だった。

キリスト者は今こそエルサレムの平和を祈り、イエス・キリストの教えに倣って隣人であるアラブ人たちに心からの敬意と愛を示したい。冒頭に掲げた聖句が世界に宣言している。

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posted by 優子 at 18:15| 社会的なこと | 更新情報をチェックする

2017年12月06日

冬の散歩道で @

サムサムさんより:

驚きました。オオバンという水鳥ですか。わたしはまだ見たことがありません。

まるで、みにくいアヒルの子が白鳥にならずカラスになってしまったみたいですね。

いやいや、ほんとに驚きました。

花の写真いいですね。癒されます。     


オオバン.jpgコメントありがとうございます。ウィットに富んだコメントに「うまいなぁ」と感心してしまいました。

オオバンは泳いでいる時はかわいいですが、立つとこのような足なので驚きました。ちょっと苦手です。木の葉状の弁膜がある「弁足(べんそく)」と言うそうです。

嬉しくなって写真をもっと追載しましたのでもう一度ご覧くださいね。


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白モクレンがいっぱい蕾をつけていた。

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こんな水鳥を見たのは初めて。
2羽で泳いでいた。
これはツル目クイナ科のオオバンだって!

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カルガモ

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もうスイセンが咲いていた!

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まだ完全に開き切っていない生まればかりの花。

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皇帝ダリヤの茎は竹のように太くて木のように固かった!


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何年も前から見ていた木だけれど、このような実を見たのは初めて。
実が弾けて粘着液で覆われたエンジ色の種が出てきた。


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追載:
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ユキのクラスメイトはこのお宅の子。
昨夜から点灯が始まったとユキが教えてくれたので観てきました。

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posted by 優子 at 16:21| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年12月05日

カール・バルトのクリスマスメッセージ

クリスチャン・トゥディ「私たちの味方であるまさにその人」より転載させていただいた。

image.jpg大神学者として知られるカール・バルトは晩年、大学で教えながら、1954年から10年間(60代後半から70代後半)、バーゼル刑務所で囚人に対して説教を語り、聖餐式を行っていた。

教会で説教をしなくなったので、バルトの説教を聞きたければ刑務所に入らなければならないと言われたほどだったという。

この説教は58年のクリスマスに語られたもの。カール・バルト、天野有訳『聖書と説教』(新教出版社)所収の説教を、新教出版社と訳者の天野氏の許可を得て、編集部が記事スペースに収まるよう短くした抄訳。


「そして彼女〔マリヤ〕はその最初の息子を産み、産着にくるんで、飼い葉桶に寝かせた。なぜなら、かれらは宿屋にいかなる場所をも見出さなかったからである」。(ルカ2:7)

わが愛する兄弟姉妹方!

ここでマリヤの最初の息子として生まれ、飼い葉桶に寝かされた人とは誰でしょうか。私はその答えを全く単純にこう申しましょう。「きみの味方であり、私の味方であり、そして私たちすべての味方でもある方だ」と。自分のことを全く考えることなく、また最高の力の中で味方となってくれるのは、まさにこの彼だけです。

この人は、〔ここにおられる〕きみの味方です、そして、〔そこにおられる〕きみの味方、そして、〔あそこにおられる〕きみの味方です! 私が今こう申し上げるとき、それはきみたち一人一人にこう考えていただきたいからです。「それはまさしくこの私に関わっている」と。そう、だから、この人はきみの味方なのです。

誰かがそんな風にしっかりと味方だということを、きみは願っているのではないでしょうか。そのことをきみは心の底では慕い求め、そのことを望んでいます。きみは仲間なしにはやってゆけません。

そこで今やきみはこう自問します。「一体誰が、そんな風にしっかりと私の味方でいてくれるだろうか」と。それから、続いてこんな問いがきっと浮かんで来ることでしょう。「私の味方になったりする人など、そもそもいるんだろうか。そんな人、一人もいないんじゃあないだろうか。もしかしたら、私など、みんなにとってどうでもいい人間じゃあないだろうか。かれらはみんな、あの〔善きサマリヤ人の〕譬えの祭司やレビ人のように、私のそばを通り過ぎて行ってしまうんじゃあないだろうか。それどころか、かれらはみんな、私を敵対視しているんじゃあないだろうか」。

そして、こう自問したあとには、やはり或る全く大きな孤独が襲ってきて、きみは自分が全く見棄てられてしまったと感じることでしょう。そうしてそのとき、あの大きな誤りがきみのそばに寄ってくるのです。「そんなら、私自身が自分の味方になってやろう!」と。

けれども、まさにこれこそが最大の誤りなのです。溺れかけている者が自分で自分の髪の毛をつかんで水から引き上げるなどということはできないのです。誰か或る他者がきみを助けてくれるのでなければなりません。

そして今、あのクリスマスの使信はこう語ります。「きみの味方であり、きみを助けてくれる、まさにその他者が生きて、ここにいる。この他者は、あの時生まれた方だ。きみの目と耳と心を開いてごらん。そのとき、きみは見て、聴いて、経験して知るようになるだろう。《その方がここにいる。そして、その方は本当に私の味方でいてくれる。ほかの誰も真似(まね)のできない仕方で――そうだ、すべてをかけて、そして、どこまでも、いつまでも――、まさにこの私の味方でいてくれる!》と」。

こうしてこの方は下心なしに――自分のことを考えることなく――きみの味方でいてくれるのです。

きみはもしかしたら、先ほどこんな風に自問したかもしれません。「〔あなたが仰るほど〕そんなに悪いものだろうか。なんと言ったって、この人やあの人が私の味方でいてくれるではないか」と。

なるほど、そうかもしれません。けれども、そこにはなにか或る影があるのではないでしょうか。たとえその人が最愛の人でも。きみは感じるのです。「そもそもこの人は、実際には真っ先に自分のことを考えているんだ」と。そして、これに気づいたとき、きみの孤独はまたしても、そして、いよいよもってそこにあるのです。

しかし今、あのクリスマスの使信はこう語ります。「あの時生まれた方は自分のことを考えることなしにきみの味方でいてくれる。その方は本当にきみから何も求めない。その方はただきみ自身だけを求めておられる」。

まさにこの方こそ、きみの比類なき仲間となってくださった。この方はただきみのことだけを考えているのです。そして、最大の力をもってきみの味方でいてくれます。

誠実にきみの味方でいてくれるような誰かが実際にいるということもあるでしょう。その人間は、きみを助けたいと思うでしょうし、たしかに幾らかはそうするでしょう。けれども、最も深き根底においては、他のいかなる人間であれ、全く助けることなどできないのです。

しかし今や、あのクリスマスの使信はこう語ります。「あの時生まれた方は、実に神の御子なのだ。そして、その方がきみの味方でいてくれるとき、その方は最高の力の中でそうしてくれる。あらゆる事情の下にあっても、いかなる事情の下にあっても、きみを助けてくれる力! きみを全く明るくしてくれる力! きみをどんな人からも――きみの最悪の敵、〔つまり〕きみ自身からも――守ってくれる力! そのような最高の力の中できみの味方でいてくれるのだ。

その方は、しっかりと正しい仕方で、そして本当に助けてくれる力の中で、きみを担ってくれる力の中で、きみを救い出してくれる力の中で、だから、ただ小さな喜びだけではなく、大いなる喜び・変わることなき喜びを創り出してくれる力の中で、きみの味方でいてくれるのだ。そのような大いなる喜び・変わることなき喜びは、ただこの方おひとりだけがきみに与えることができる。

そして、そのような喜びをこの方はきみに事実、与えることができるのだ。この方はきみを、この〔世の〕生を貫きつつ導きゆく力、そしてその後は死をも貫きつつ永遠の生命へと担いゆく力の中で、きみの味方でいてくれるのだ」と。

このような方こそ、あの時生まれた方なのです。すなわち、きみの、私の、そして私たちすべての者の救い主なのです。

「飼い葉桶」とは私たちの生活の中で一体どのような場所でしょうか。

IMG_9360.jpg私たちの生活の表面の下(もと)に隠されつつ、或る深みが、或る底が、或る深淵が存在するのです。そして、そのようなところで、一人の例外もなく私たちすべての者は、ただまさに極貧状態におり、失われ〔て迷子になっ〕た罪人であり、嘆き呻(うめ)いている被造物、死につつある者、途方に暮れてしまっているのです。

そして、まさにそこでこそイエス・キリストは私たちの許(もと)を訪れてくださいます。いや、この方はすでに訪れてくださっているのです。そうです、私たちの生活の中にあるこの暗い場所・この飼い葉桶・この家畜小屋を神に感謝すべきかな! そのようなところで私たちはこの方を必要としているのです。

そして、まさにそこでこそ、この方も私たち一人一人を必要とすることがおできになるのです。そこでこそ、私たちはこの方に対してふさわしき者なのです。そこでこそ、この方は、《私たちがこの方を見、認識し、信じ、愛する》ことだけを待っておられるのです。

そこでこそ、この方は私たちに挨拶をしてくださるのです。そこでこそ、私たちのほうでもこの方に挨拶をお返しし、「ようこそいらっしゃいました」と言ってお迎えすること以外に、私たちには全く何も残ってはいないのです。

IMG_9407.jpgまさしくそこでこそ、この方は全く堅固に、私たちの味方でいてくださいます。この暗い場所でこそ、この方は私たちと共に主の晩餐を祝うことを欲しておられ、祝ってくださるでしょうし、私たちは、この方と共に主の晩餐を祝うことがゆるされているのです。アーメン。

カール・バルト(Karl Barth、1886〜1968)

スイスのプロテスタント神学者。弁証法神学の中心的存在。ドイツの大学神学部に招かれて教授となるが、ナチズムと対立して講壇を追われ、母国スイス・バーゼル大学神学部教授を務めた。主著に『教会教義学』『ローマ書講解』がある。

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2017年12月03日

家の教会2017㊸ ―イエス誕生の序曲―

anime_tomosibi04.gif2017年12月3日(日) (2017第43回 家の教会)
                   

10時30分〜11時

  出席者 2名(with ユキ)


@ 初めのお祈り   優子

A 主の祈り

B 子どもの讃美歌  48番「こどもをまねく」

C 聖書輪読     ルカによる福音書1章1節〜25節

D お話       優子

E お祈り      一人ずつ

F 讃美歌      94番「久しく待ちにし」


ルカによる福音書 1章1節〜38節:

1:1 わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、

1:2 御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、
1:3 テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。
1:4 すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。
1:5 ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった。
1:6 ふたりとも神のみまえに正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた。
1:7 ところが、エリサベツは不妊の女であったため、彼らには子がなく、そしてふたりともすでに年老いていた。
1:8 さてザカリヤは、その組が当番になり神のみまえに祭司の務めをしていたとき、
1:9 祭司職の慣例に従ってくじを引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった。
1:10 香をたいている間、多くの民衆はみな外で祈っていた。
1:11 すると主の御使いが現れて、香壇の右に立った。
1:12 ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。
1:13 そこで御使いが彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈りが聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。
1:14 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。
1:15 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、
1:16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。
1:17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。
1:18 するとザカリヤは御使いに言った、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。
1:19 御使いが答えて言った、「わたしは神のみまえに立つガブリエルであって、この喜ばしい知らせをあなたに語り伝えるために、つかわされたものである。
1:20 時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたはおしになり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」。
1:21 民衆はザカリヤを待っていたので、彼が聖所内で暇どっているのを不思議に思っていた。
1:22 ついに彼は出てきたが、物が言えなかったので、人々は彼が聖所内でまぼろしを見たのだと悟った。彼は彼らに合図をするだけで、引きつづき、おしのままでいた。
1:23 それから務めの期日が終ったので、家に帰った。
1:24 そののち、妻エリサベツはみごもり、五か月のあいだ引きこもっていたが、
1:25 「主は、今わたしを心にかけてくださって、人々の間からわたしの恥を取り除くために、こうしてくださいました」と言った。


お話:
今年は今日からアドヴェント(待降節)に入り、教会の新しい年が始まりました。私たちは先週からアドヴェントを迎えた気持ちで、クリスマスに間に合うように一緒に関係個所を読み始めています。今日はイエス・キリストが地上に突入される序曲とも言うべきところです。

ルカはユダヤ人ではなく異邦人(ギリシャ人)で医者であり歴史家でした。ルカは他の弟子たちと違ってイエスさまにお目にかかったことはありません。イエスさまの弟子たちによって導かれた人です。

ルカによる福音書はルカがテオピロのために労して書き記したものですが、テオピロという一個の魂の救いだけにとどまらず、ユダヤ人以外の人々にも福音を伝えたいとの祈りがあったと思います。

テオピロがどのような人物であるかよくわかりませんが、「テオピロ閣下」と尊称で呼んでいることから地位の高い人であったようで、しかも熱心にイエスのことを尋ね求めている求道者だったと推察されます。

エリサベツとザカリヤには子どもがいない年老いた夫婦でした。アブラハムとサラのことを思い出しますね。神さまはこの夫婦にも御業を始められ、エリサベツとザカリヤはバプテスマのヨハネの父母になります。

「アビヤの組の祭司」というのは、祭司アロンの子孫は24班に分かれていて、各班の中から籤(くじ)で選ばれて1週間ずつ交替して順番に宮の祭事を司(つかさど)りました。

アビヤはその第8班(歴代誌第一24章7節〜19)で、1回務めると再び選ばれることはないということですから、この日はザカリヤにとって一生に一度の特別な日でした。

ついでながら24班の順番は一定しているので、紀元70年エルサレムの陥落時に順番に当った班の名称から逆算すると、このアビヤの班の順番に当たる週間を知ることでき、そこからイエスの誕生の日を決定する一つの材料となると黒崎幸吉が記しています。

ガブリエルは「神の人」、または「神は人なり」の意味で、神の意志を伝える使いです。その御使いが、すでに老境に入っている夫婦に子供が与えられると聖所で告げたのです。

しかも、その子は万民の祝福となるべき男児だと言われて、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか」と言ったザカリヤは話すことができなくなってしまいました。

なぜ?! あまりの出来事に驚いてそのような言葉が出てしまったのは自然なことだと思うのですが、「あなたの祈りが聞き入れられたのだ」と告げられているのに信じなかったからだというのです。

私たちもイエス・キリストの十字架の死によって罪赦されるという、考えられないような恵みゆえにか、多くの人が信じられないのと同じだなぁと思いました。例えば太宰治は「そんなうまい話はない」と信じられず自殺してしまいました。

私たちもいつも祈っている神さまを本当に信じているのだろうかと、今一度自己吟味することは、まさにアドベントにふさわしい過ごし方だと思います。

ザカリヤが話せなくなったのは罰のように思えるのですが、ザカリヤの出来事は本心に立ち返らせる神さまの警告だと思いました。

神さまが「黙って見ていなさい」と沈黙させてくださり、そのことによりザカリヤは妻の身に起こった神さまの偉大なわざをしっかり見ることになりました。そして、「ザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた。」(64節)と、しゃべられるようになった第一声は神への讃美でした。

この夫婦に授かった子どもはバプテスマのヨハネであり、キリストの出現の前にイスラエルの人々をイエスに導き、イエスによって主なる神に立ち返らせる使命を託された人物でした。

IMG_9338.jpgバプテスマのヨハネの誕生は、まさにイエスさまが誕生される前の序曲です。神さまはいつも私たちが人間の力ではどうにもならなくなった時に不思議なことをなさいます。

私たちにとって喜ばしいことであれそうではないことであれ、それは全知全能なる神さまのみ心に叶う最善なのです。

ザカリヤにとっては試練だったでしょうが、神さまは愛にして愛なるお方です。私たちも神さまの約束をしっかり信じて善き闘いを闘い抜きたいと思います。


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2017年11月29日

ブルンナー読書会N ―大いなる招き―

これは11月25日(土)の記事です。

IMG_9246.jpgミニトマトのオーナメント。こんなに実が残っているのでミニトマトの木を抜くに抜けなくて、ついに今朝処分した。そして実をカイヅカイブキに飾った。少しでも赤くなれば口に入れたい。

今日は毎回楽しみにしている「ブルンナー読書会」。ところが今日は夫は年に一度の土曜出勤日(年に一度にしたのは今年からで知子の英断による)なので、午前中は全体会議で午後は読書会。

感心に頭を切り替えて集中し、夫にも頂戴したテキストに赤線までひいてあった。夫も回を重ねるたびに密度濃く吸収しつつあるように感じる。

今回は、エーミル・ブルンナー著『フラウミュンスター説教集T』の4回目、説教のタイトルは「大いなる招き」。翻訳者から直接ご高説を賜わることのできる恵み。神さまに感謝しつつ2度目の発表当番を務めさせていただいた。

ルカによる福音書14章16節〜24節:
14:15  列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。
14:16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。
14:17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
14:18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。
14:19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、
14:20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
14:21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。
14:22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。
14:23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
14:24 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

下村さんのご解説より:
この説教は1948年12月に語られた。6月にロシアがベルリンを封鎖した年で明日どうなるかわからない時代だった。東西冷戦が始まった第一期の緊張が一番高まった時ゆえに「第3次世界大戦」という言葉が出て来る。

東西の冷戦は1945年のヤルタ会議から始まったと言われ、ベルリンの壁が壊された1989年11月まで44年間続いた。

私たち(キリスト者)はいつも初心者であり、日々悔い改め、新しくされて生きるのであり、完全な救いを望みながら生きるというわけでブルンナーの言葉は厳しい。

今日の説教では「喜び」という言葉が何度も出てきた。初代教会の人々は常に喜びをもって将来を考えた。ペテロ第一の手紙(1章3節〜9節)にあるように、イエス・キリストの将来を待望していた。

1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
1:4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救いにあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。 
1:8 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
1:9 それは、信仰の結果なるたましいの救いを得ているからである。

(ここを輪読している間、私は神さまからの深い慰めを感じて涙が溢れそうになった。)

ヨハネによる福音書17章は「執り成しの祈り」、「大祭司の祈り」と言われているイエスの祈りである。神とイエスが愛し信頼する中で一つであった。その交わりの中に私たちも加えてもらい一つになる。「一つなる交わり」が宴(饗宴)の本質である。

ヨハネによる福音書 17章20節〜26節:
17:20 わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。
17:21 父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。
17:22 わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。
17:23 わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。 
17:24 父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。 
17:25 正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。
17:26 そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。

私たちは罪を犯し、わがままや傲慢、不信が起こってくるが主イエスを見上げることができる。今はボンヤリと昔の鏡を通してイエスを見ているが、顔と顔を見合わせて会える。これが人生最後の目的であり、罪の悩みもなくなる

ドイツ語で「将来」という言葉は「未来」とも訳せるが、未来はまだ来ていないが、まさに来たらんとしているという意味を持っている「将来」と訳した。

私たちが目指していく将来は「もともと、現在から未来にわたるわれわれの生を規定するもので」あり、将来によって動かされていく。方向もエネルギーもそこにあるということだ。ところがキリスト者と言えども本当に応じていない。

私たちキリスト者は本当に大いなる将来を信じているのだろうか?!
なぜこんなにも招きが拒否されるのか。その不信仰の理由と拒否の仕方など、ブルンナーはあまりにもこの世的になったキリスト者を批判している。

ラインホルト・シュナイダー(1903〜1958・下村喜八さんがシュナイダーの第一人者)は、信仰者が少なくなり「空っぽの教会」となってきたのはなぜかと、現在人の心理を考えるために不信仰の心理学を考えた。

現代と違って昔であれば人生は短かく、絶えず死というのが身近にあったからではないか。そして、人間の死が同じ形になってきた。死が先延ばしになっているし、緩和ケアにより死に至る苦しみが取り除かれた。今は人生が長くなり死への不安が小さくなった。

フロイトは緩和ケアを拒否して死んだ。シュナイダーも腸閉塞の苦しみはキリストの十字架の苦しみと一体感にしてくれると耐えた。

レフ・シェストフ(ロシアの哲学者)の『悲劇の哲学』の影響を受けてドイツに実存哲学が入ってきたことや、ヤスパース(死に至る存在というところから出発した)なども紹介された。

中国に「人間は父親に似るよりも時代に似る」という諺があるが、主体的なものと歴史的なものの境はない。即ち、時代は自分の内で起こり、時代はいかに人間を侵食していくかがわかる。

私が発表で引用したブルンナーの言葉:
▼ 人間は将来をめざして生きなければならないように創造されている。主イエスも使徒たちも、神の国について語る際はいつも、永遠の国、永遠の生命を考えている。

そのことを信じず、関心を寄せなくなればなるほど、「時間切れパニック」を起こし、全てのものをこの世に持ち込もうとし生の意味への絶望が入り込む。

▼ 招きを先延ばしにしてはいけない。さもないと、間に合わなくなるかも知れない。神の招待は差し迫っている。招き(音信)を拒否すれば音信は異教徒へ向けられる。

▼ 今のキリスト者は、ユダヤ人が神の国は我々のもので正当な相続人であると選民意識に安住し、イエスの大いなる招きを拒否して十字架につけてしまったのと同じ危険に立たされている。

 私たちが真に招きを受け入れているか否かを識別する3つの「しるし」。

 @「神様、罪人のわたしをおゆるしください」という取税人のもつしるし。

 A永遠の国における神との交わりと饗宴という人生の目標を信じ、喜びをもって期待しつつ生きる人間になること。

 B人々が福音を聞かされ、招待され、招待を受け入れることができるように努力すること。

私は自らの信仰生活がぬるま湯につかっているような状態であることを語った。

夫が引用し読み上げた箇所:
キリスト教の洗礼証書は、洗礼の際にあなたが招きを受けたということ以外は何も証明していません。それは、あなたが招きに応じたことを証明しているのではありません。

あなたが教会へ行き、聖書を読み、祈るということーそれらはすべて正しいことです。しかしこのこともまた、あなたが招きを本当に受け入れたことを証明するものではありません。

ユダヤ人たちも、彼らの聖書を読み、シナゴーグへ行き、祈っていました。しかし招きを受け入れたのは、彼らのうちのほんの少数の人たちでした。招きは神がなされる事柄です。

それは、神の愛の計り知れない無限の慈愛の言葉、すべての人に与えられすべての人に永遠の生命を約束する神の慈愛の言葉であり、およそ人間の望みうる最大のものです。

とはいえ、招きを受け入れることは人間の側の事柄です。神は、われわれに代わって出かけてゆくこと、戸を開けることまで引き受けてはくださいません。
夫はこの箇所から、自らも本当に神の招きを受け入れたのかどうかわからないでいるようなことを述べていた。

読書会が終わりケーキタイムに移るとき、私は自問自答し、夫にも問いかけた。大いなる将来を信じているのかと。

次回はクリスマス礼拝前日の12月23日(土)。
主にある者と共に聖書を味わえるとは神さまからの贈り物。まさに今の私に最も嬉しいクリスマスプレゼントだ。

附記:知子は一人残って仕事し、17時過ぎの電車で帰って来た。読書会の間、真智の部屋で宿題の作文を書いていたユキもケーキタイムに加わった。

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posted by 優子 at 17:44| ブルンナー読書会 | 更新情報をチェックする

渡り鳥たちのたくましさを思いつつ

琵琶湖はコハクチョウの越冬南限とされ、毎年、シベリアから数百羽が飛来して翌年2〜3月ごろまで過ごすという。現在、湖北の長浜に白鳥90羽、オオワシが飛来しているとのこと。

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このような光景を見るならば、朝8時から9時頃に(ここで今夏以後頻繁になっている義母の世話で走って行き、中断したまま忘れて更新してしまったので意味不明な文章になっていた)湖面から飛び立つので、それを見るためには夜中に出発しなければいけない。

私は外泊が好きではないので決心がつかないが今季こそ行ってみたい。独りで行こうかと思うが、興味を持っているユキにも見せてやりたいし・・・

IMG_9285.jpgこれはユキが作ったススキの箒。
「ユキ、きれいに掃けたよ!」

昨日は吉野へ行った27日よりももっと暖かく19度にもなった。室内は25度にもなりセーターを脱いで綿の服に着替えねばならないほどだった。

今朝は暖房なしでも暖かく体調も良い。案の定血圧も(121/75)、このような数値は何日ぶりだろう。維持することは難しいだろうが、体調がいいと何でもできそうな気持になり、起き抜けからベランダを履いた。

IMG_9286.jpgきっとベランダはこれが年末の掃除になることだろう。
若い頃には考えられないことであるが、年を取るというのはこういうことだとわかってきた。とにかくマイペースで健康維持していくことが大切な課題だと思う。

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まもなく厚い雲に覆われて陽ざしも消えた。
明日の小学校のマラソン大会は雨で延期か。
暖かいのも今朝までで既に気温が急降下しており、覿面に頭が重くなって束の間の快調の時だった。

「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」。(ローマ人への手紙 12章15節)
あなたは、友の幸いを心から喜べますか。隣人の悲しみを汲み取って一緒に泣けますか。「隣が畑を買えば腹が痛む」「人の不幸は蜜の味」というのが人の常です。だからこそ、打算なく共に喜び、共に泣いてくれる友の存在はありがたいものです。私たちがそんな友になりましょう。私たちには、私たちの心に寄り添う友なるイエスがおられます。

「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません」。(ローマ人への手紙 12章16節)
高ぶりと自惚れ。これが私たちの生活に問題を引き起こします。高ぶれば祈らず、祈らなければ高慢は増長します。主の光の中で自分を見つめれば、誰でも謙遜にならざるを得ません。謙遜こそクリスチャンの強力な武器です。主は謙遜な者に力を注がれるからです。

「あなたがたは自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」。(ローマ人への手紙 12章18節)
あなたが平和を願うなら、あなたから平和を創る行動に出て、和解の手を差し出しましょう。和解の手を出していれば、その手を握る人が必ず出てきます。敵対的な人たちにも、一応、平和の意思を示しておくすのです。逆にあなたが、あなたとの和解を願う人を拒絶するなら、もう一度、十字架の愛を学び直す必要があるでしょう。
  
          ―キリスト栄光教会より―

祈りの友が贈ってくださったお言葉通り、これからも「どんなに大変な時でも、主を主として」歩んでいきたい。
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posted by 優子 at 12:20| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年11月27日

西吉野に富有柿を買いに

今日は近隣の親友Nさんと西吉野へドライブがてら富有柿を買いに行った。

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今朝は霧で二上山も見えなかったが、出発の頃には霧も晴れて暖かく穏やかな一日だった。

子どもの頃、いや20歳ぐらいまで「富有(ふゆ)柿」を「冬柿」だと思っていた。少し前まで富有柿の日本一の生産地は奈良県、ここ吉野だったが、今は和歌山県だという。

10年ほど前まで私も何度かNさんに西吉野の柿選果場へ連れて行ってもらったことがあるが、5〜6年前からこの直売所に来られている。ここの方がはるかに安い。

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私たちはそれぞれ5キロ買った。Nさんはひとシーズンに3〜4度訪れ、今日は友人に頼まれた贈答先に送り、3人に3キロ、もう1人に5キロを手分けして量った。

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都会と違って誰もいない自然の中をドライブしていると、緊張が解けて心がほぐれていくのがわかる。

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この農園は葉が残っていたが、殆どの木は実だけになっていた。半分は既に収穫し終わっていた。

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写真を撮っていたら堺から来られた男性に声をかけられた。「すごい感動してはるから、どこから来はったんかと思ったらナンバープレートが奈良ですやん。奈良のどこです? 奈良やったらこんな風景はあるんと違いますのん?」と、あまりにも感動している私の様子に心寄せてくださり、しばらく3人で話に花が咲いた。

確かに近隣宅の庭に柿の木がある家は珍しくないが、こんな柿畑は吉野ならではのもの。Kさんに柿を買って行こうと思ったが庭に甘い柿がたくさん実っていた。

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「秋に柿を食べると風邪をひかない」とか
「柿が赤くなると医者が青くなる」と言われるほど
柿は栄養価が高い。柿は私の大好物!

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今回も吉野の山で魚(鮪)料理を食べ、
地元へ帰って甘いものとコーヒー飲みながら
喋りっぱなし。
こんなに笑ったのは久しぶり。
本当に楽しかった。
こんなcomfortableな情態で生涯を終えたいな。

関東のサムサムさんから関西弁でコメント感謝:

「柿が赤くなると医者が青くなる」か。

ど、ど。ええ言いなあ。感心た。

posted by 優子 at 17:22| 随想 | 更新情報をチェックする

2017年11月26日

家の教会2017㊷ ―インマヌエルの神―

IMG_9110.jpg「イエスさま、今日も家の教会できたことを感謝します」。
いつもこのように祈るユキの言葉に、私の中から深い感謝を呼び起こしてくれます。
そして、「家の礼拝、私も太志もいつも参加しています」との真智子の一言から、神さまからの慰めと祝福を感じます。

今朝も神であるイエス・キリストの御臨在のもとで、次女夫婦も一緒に集っている光景を想いながら礼拝を始めました。
12-3.jpg2017年11月26日(日)
 (2017第42回 家の教会)

    10時20分〜55分

 出席者 3名(with ユキ&良輔)


@ 初めのお祈り  優子
A 主の祈り
B 聖歌     229番「驚くばかりの恵み」
C 聖書輪読   マタイによる福音書1章18節〜24節
D お話     優子
E 聖書輪読   マタイによる福音書2章1節〜12節
F お祈り    一人ずつ
G 讃美歌    529番「ああ嬉し我が身も」
聖歌229番は良輔のリクエストでした。
マタイによる福音書 1章18節〜22節:
1:18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
1:20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使いが夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
1:22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。
その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。
これは、「神われらと共にいます」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。
1:25 しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。

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2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
2:4 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。
2:5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
2:9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
お話:
今年のアドヴェントは来週から始まりますが、クリスマスに間に合うように詳しく読んでいきたくて、今日は「プレアドヴェント」と位置付け、今週から関係個所を読むことにしました。

ヨセフとマリアは結婚する約束を結んでいましたが、マリアはまだ一緒になる前に身重になりました。処女が聖霊によって身ごもるというのは、とても理性では考えられないことですから、結婚前に身重になったことがわかるとマリアは姦淫の罪で石打ちで殺されてしまいます。

ヨセフは誠実で責任感のある人でしたから公にはしませんでした。しかしまたそのようなマリアを妻にすることもしませんでした。それがヨセフの正しさであり、「ヨセフは正しい人であったので」と言われる所以です。

それだけではなく、夢の中で語られた主の使いの言葉に従ってマリアを妻に迎えました。これは神に対する全幅の信頼ゆえにできることですね。

「お言葉どおりこの身に成りますように」というマリアの言葉はよく耳にするところですが、主に委ねる従順さはマリアだけではなくヨセフも同様でした。

「イエス」という名は、モーセの後継者ヨシュアのギリシア語訳「イエスース」から来ており、ヘブル語では「イェシュア」、「主は救い」という意味です。

イエスさまがもたらされた救いとは、イスラエルがローマ帝国の圧迫から解放されるというような、ユダヤ人が考えていた救いではありませんでした。

それは人間の深いところにある魂の滅び、死や安全を脅かす根源的な恐れからの解放でした。それが神さまの永遠の保障であり、そのしるしが イザヤ書7章14節に告げられています。それはイエスさまがお生まれになる800年も前に預言されているのです。

「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」。

「インマヌエル」という呼び名は、「神は私たちと共におられる」という意味ですが、「それは本来、状態を意味するのではなく、『神性と人性が共にある存在』という意味です神と人とが一つになったユニークな存在で、その存在の神からの『しるし(サイン)』は、『処女から産まれる男の子』でした。

インマヌエルであるイエス・キリストは、神としてのあり方を捨てて人間として歩まれました。しかも貧しく弱い者として歩まれましたから、神に依存しなければ生きていくことができず、神と共にある祝福をご自身を通して証しされたのです。

昨日の「ブルンナー読書会」で話題になったことと関連しますが(明日には書き上げて更新したいと思います)、物に溢れ満たされていては神に依存する謙虚さは生まれてこないでしょう。

多くの人は依存するのは弱い人間のすることであると批判します。しかし、そうでしょうか。強いことがよいことだとは思いませんが、強い人など一人もいませんし、自分は弱い存在だとわかっている人こそが最も強いとも言えるのです。

ヨセフの信仰と生き方に学びたいですね。
今日はお話が短かったので終わるのが惜しく、みんな心弾ませて今朝読んだ聖書の続きを読みました。
附記:知子は今日も全日外出です。
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2017年11月25日

花のいのちを生きんとす

最低気温が1度まで下がってもへこたれず、冷たい風に揺られて、今にも花びらが落ちそうだった。シュウメイギクは今朝も保ち、斜光線を受けて輝いていた。

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しかし、もう限界。
近くで見ると花びらは痛々しく色あせている。

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花はどこから見ても飾らず美しい。
後ろ姿の美しい人になりたい。

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「生きるとはこういうことだよ」と
教えてくれているみたい。

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いのち尽きるまで精いっぱい咲き切るのだよと。

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有終の美
今日は2時前から「ブルンナー読書会」、
楽しみだ。
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posted by 優子 at 12:34| 随想 | 更新情報をチェックする